本書の目次をぱらぱら眺めていて、ぼくはこんな感想を抱きました。
「あぁ、オタク世代の論者がフェミニズムに媚びつつ自分語りをする本だな」と。
要は自分の属しているアカデミズムの立場に則ってオタクを語ろうとしつつ、自分たちの『聖書』に書かれているお説教とそこで語られるオタク知識(或いは自分の抱えた「情念」そのもの)とが絶望的な乖離を示し、しかし書いている本人はそれに気づけずにいるという、東浩紀先生の新書なんかによく見られるパターンですね。
が、読んでみるとその予想は外れたようです。
いえ、「フェミニズムに媚び」ているだろうという予測は的中したのですが、見る限り著者の田中俊之博士は、どうもオタクではないように思われます。
本書は「男性学」と銘打たれていますが、ぼくが著書で書いた「メンズリブ」同様、フェミニズムをまず「何があろうとも絶対に疑ってはならない真理」として受け容れるところから出発した、「男性を絶対的強者、絶対悪」として規定することを大前提としたままで男性を語ろうとして自家撞着に陥っているという、まあ毎度おなじみの論調が新展開される本となっております。
本書の構成を簡単にご説明しますと、第1、2章で「理論的研究」、第3、4章で労働者としての男性の意識について書かれ、第5章でオタクについて語り、第6章でまとめ、という案配。ご時世がご時世だけにここで扱われるトピックスはニートの増大、定年退職後の男性の生き方など、ある種、男性の危機、男性の弱さに関することが多くなっています。オタクもその一つと考えていいでしょう。
しかし、にもかかわらず、一体どうしたことか田中博士はそういった胸が痛くなるような悲惨な男性たちの例を豊富に挙げつつも
すでに確認したように、近代の女性性/男性性は「差異」を強調することで構築され、女性性は男性性に従属化されている。
(引用者註・男女の収入の格差を挙げ)男女間の経済格差という客観的なデータから、男性たちは特権を手放したくないために、自発的に仕事中心の生活を選んでいるという解釈には十分な説得力がある。
などと執拗に繰り返し、男性が根源的究極的な悪であるとの信念を絶対に曲げようとはしません。
下の段など、上野千鶴子先生が先行する類書『日本のフェミニズム――男性学』において男性の過労死を嘲笑い、「男は死んでもお釣りが来るくらいにいい目にあっているのだ(大意)」と絶叫していたことを想起させますね。果たして男性たちが稼いだ金が最終的に流れ着く先はどこなのか、そして今の男性たちが結婚を拒みつつある理由は何なのか……といった疑問は、田中博士の脳裏には一瞬たりとも思い浮かばないのでしょう。
さて、先行きの不安に駆られながら第5章を読み進めると、意外や本書ではオタクは「被差別者」として描写されます。
二次元の美少女という物理的実体をもたない対象を性的に欲望するために、オタクは強烈な偏見にさらされているのである。
いい年をして子供が夢中になるようなアニメやマンガを忘れられず(略)現実の女だけではなく、二次元世界の少女にうつつをぬかす。こういったことどもはすべて「正常であるべき成人男性」という典型的理想像から逸脱する恥ずかしい行為
ちなみに下の文章は小谷真理さんの「おたクィーンはおたクィアの夢を見たワ。」から引用されているものなのですが、田中博士のオタクに対するスタンスを端的に示しています。
そしてこの分析そのものには、ぼくも基本的に賛同できます。
ですが、しかし、その上で博士はこう結論するのです。
美少女ゲームの様式のなかには、「異性愛」男性が自身を性的欲望の主体として確立する様式が繰り返されていた。オタクのセクシュアリティには、「異性愛」男性のセクシュアリティが映し出されている。つまり、現代社会では、「異性愛」男性のセクシュアリティが、女性を単なる性的欲望の対象とみなし、安直に性器的欲求を満たすだけのものになってしまっているのである。
この最後のワンセンテンスは文脈的にも極めて唐突に書かれていますが、恐らく博士にとってはこれが唐突でも何でもない、「正論」なのでしょう。
要するに、博士はここで「オタクは普通の男性である」と言っているのです。
いいえ、それでは足りないでしょう。博士は、「オタクは(男性の中では下位存在ではあるものの、やはり所詮は上位の男たちと同様に)女性を搾取する加害者側の存在である」と言っているわけですね。
それにしてもこの5章が「オタクの従属化と異性愛主義」であることが象徴しているように、博士はオタクが異性愛者であることに、異常なまでのこだわりを示しています。美少女ゲームや美少女アニメの消費者であるオタク男性たちが異性愛者であるのは、言うまでもないことだと思うのですが。
まとめにあたる6章には、こんなことも書かれていました。
「異性愛」が「正常」としてあらかじめ存在しているために、「同性愛」が「異常」となっているわけではなく、むしろ、常識的な理解に反して、「異性愛という規範を生成するために同性愛を構成外部として位置づける」必要がある。こうして成立する異性愛主義の正当性を支える制度の一つが結婚なのである。
(引用者註・「幸せな家庭像」というものは)つまり、「同性愛」を「不自然」だとして差別することや、未婚や離婚を「不幸せ」だとみなすことによって支えられている「幸せ」なのである。
こうなると美人コンテストをブスへの差別だと言い立てて攻撃したかつての、もう消えたはずのフェミニストたちと、言っていることが何ら変わりありません。
フェミニズムが同性愛者を「差別を受けている聖者」として祭り上げ、自らのイデオロギーのダシにするのはお約束なのですが、その意味において本書の第5章は、果たしてオタクをそういったダシとして利用できるかどうか吟味した上で、「異性愛男性」――即ち敵側の存在――であるとの決定を下すまでの過程として読み解くことができます。
小谷さんが「おたクィア」という造語を提示していることからもわかるように、オタク論の中でときおり、「被差別者」としてのオタクを一種、ゲイのような「聖なる弱者」として位置づけようと試みているものにお目にかかることがあります。
冒頭で書いた「オタク世代の論者の自分語り」というのは、即ち、本書ではそのような言説が新展開されるのではないか……との予想でした。
むろん、女性という名の絶対権力者の側に、土下座してでも仲間入りしたいと考える気持ちは、大変によくわかります。
しかし仮にですが、もし何かの間違いでオタクがフェミニストたちの許しを得、弱者の園へのチケットを手にしたとしたら、当然の話ですが、オタク以外の取り残された男性たちが「絶対悪」の烙印を押され、更なる攻撃に遭うことになってしまうわけです。オタクが「許しを得た」ならば、オタクに代わる「悪者」が必要とされ、発見されるという新展開が待っていることは自明なのです。そしてそれは拙著でも書いた通り、間違いなくオタクよりも更に弱い男性たちでしょう。
その意味で、ぼくは田中博士の「オタクは異性愛主義である」とのジャッジメントを支持したいと思います。
昨今、殊にネットなどで「オタクは女性差別主義者である」との(不思議なことに根拠が一向に示されない)奇怪なプロパガンダがなされることがありますが、上と同様な理由から、ぼくはその「誤審」を、「冤罪」を、支持したいと考えます。
何となれば、彼ら彼女らの称する「女性差別主義者でない/異性愛主義者でない」正しい男性像というのは、ニートや男性の老後、男性の過労死といった深刻な問題を採り上げておきながら、常に男性を悪者に仕立て上げることしかしない、恐ろしい人々に他ならないからです。
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