本稿、noteやニコブロで先月十二日に発表したモノなのですが……何とまあ、公式から「ブリジットは女性である」との声明(ファンへの指針のようで公式発表ではないでしょうが)があったようです。
「ブリジットが「男の娘でいられなくなった」理由についての推察など(https://togetter.com/li/1945534)」
本当に愚劣な、低劣なハナシですが、この傾向はいよいよ強まっていくことになるでしょう。
もう一つ、本件が「ブレンダ事件」のフィクションでの再現であるとの点についても留意すべきでしょう。そうした事実に基づかないイデオロギーを流布したい者の意思が、この裏にあると(直接的な介入はなかったとしても)考えざるを得ないのですから。
できればもう少しこの問題については追及したいのですが、どうなりますか……。
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対戦格闘ゲーム『ギルティギア』シリーズの人気キャラクター、ブリジットが十数年ぶり(?)に復活するとのことで、オタク界隈が大いに揺れています。
このブリジット、いわゆる男の娘なのですが事前情報ではそれが伏せられており、いざゲームをプレイして「実は……」とサプライズ的に仕掛けたことが話題となりました。初登場はもう二十年ほど前のことでしょうか、「男の娘」という言葉自体、確か当時はなかったと思うのですが、そうしたキャラのブームの先駆けとなった感もあります。
そんな伝説のキャラの復活となり、例えばオタク向けの画像投稿掲示板「ふたばちゃんねる」では常時ブリジットスレッドが立ち、毎回1000というレス数の上限を突破するなど、ちょっといささか異常な盛り上がりぶりを示しています。
「男の娘」という、そうは言ってもニッチだろ――と思えるキャラへのニーズが、実際、ニッチとは言えないくらいに広がっているのだと考えざるを得ません。
さて……ところがこのブリジットが男女論界隈でも少々の話題となっております。
いえ、そう言うと表現の自由クラスタによる「オタクの多様な表現ガーーーーーー!!!!!」とのドヤ顔の主張かと思われる方もいるかも知れません。
しかし事態はそれよりも先へと進んでいたようです。
このブリジット、元は「村の掟で女装している」という設定でした。
本人の性同一性はあくまで男性だったんですね。
ところが今回はどうもトランスという設定を与えられているのではないか……といった噂が囁かれています。「自分を女性だと思い込んでいる一般オカマ」になってしまったのですね。
これはどういうことだ、「男の娘」の持つ豊穣な多様性を否定するとは……というのがネット界隈の反応です。
これは明らかに海外への、引いてはLGBTへの配慮、「トランスのエンカレッジ()」が意図されてのことでしょう。
LGBTにしてみればオカマキャラが「自分は男だけど女装が好き」などといった「趣味者」であるのはあまり好ましくなく、あくまで「間違って男性の肉体を持って生まれてきてしまった女性」であるべきなのでしょう。
そもそも本人が自らを男性と認識していたら、女湯に乱入するのも控えそうですしね。
先のネットでの反応、「多様性」という言葉は気に入りませんが、当然これは、「LGBTへの配慮」という「多様性の最たること」とされた行為それ自体が、「多様性の否定」になってしまっているという逆説が指摘されているわけです。
そのことは痛快でもありますが、しかしテキの論調は「(お前らマジョリティのマスターベーションの多様性などより)我々マイノリティを重んずることこそが、真の多様性だ」といった辺りになるんじゃないかなあ……とぼくは愚考します。
近い例は以前にもありました。戸定梨香騒動の時、青識亜論はフェミニストのクレームに対して「女性の多様な在り方と自由を称揚する立場と矛盾する」などと、(全くもって奇妙と言う他ない)反論をしました。
言うまでもなくフェミの主張はまず、「女性の肉体が性的なものとして強調されること」自体を否定するものであり、この「女性の肉体は性的」という価値観(そのような意図で作られた作品)は全くもって普遍的と考える他ないのだから、噛みあってないどころではない。
これは先に述べた「(お前らマジョリティのマスターベーションの多様性などより)我々マイノリティを重んずることこそが、真の多様性だ」というリクツと全く同じですが、「男女のセクシュアリティは社会が生み出したモノで、本来的なモノではないのだ」とのフェミの価値観を正しいと仮定するならば、正しいのは明らかに反戸定梨香側です。
相手の主張の矛盾を突くためのカウンターとして「多様性」と言ってみるのであればわかるけれども、あくまで「多様性」を正しいものと考えるのであれば、その人はフェミに平伏して戸定梨香を否定するしかないわけです。
しかし彼らにはそうしたムツカしい(まあ、小学校中学年くらいになれば理解できると思うのですが)リクツは念頭になく、ただ「多様性」との呪文を唱えれば相手がたじろぐのだ、くらいにしか思っていないのでしょう。
そう、考えれば「男の娘」が流行した時の彼ら(表現の自由クラスタに親和的な、左派的なオタクや、オタクを利用しようとする左派)は近いことを言ってきました。
「オタクは男の娘のようなLGBTフレンドリーな表現を好む、素晴らしい」。
以前、小山晃弘氏が腐女子フェミニストの「BLはLGBTフレンドリーな文化である」という世迷い言を舌鋒鋭く批判したことがあります。
しかし実際のところ、左派オタクはそうした世迷い言をただひたすら、宣い続けて来たのです。
それは言うまでもなく、左派にとってはオタク文化も「マイノリティ様へと平伏して、お褒めの言葉をいただく」ためのツールでしかないからなのでしょう。
本件は、そうしたオタク左派とLGBTの「蜜月」に他ならぬLGBT側が冷や水を浴びせてきたという意味で、近年のトランスの暴走(彼らの女性への加害)に近い事例と言えます。
そしてそれを裏返したところに、先にも述べた「(お前らマジョリティのマスターベーションの多様性などより)我々マイノリティを重んずることこそが、真の多様性だ」というリクツも必然的に生まれてくる。実際、フェミやLGBTはそれと同主旨のことを、ずっと言ってきました。
例えば、レズ漫画(と言っても百合漫画と言ってもいいのですが)はLGBTフレンドリーでしょうか。無論、以前からフェミもレズもこの世で一番、レズ漫画を憎んできました。彼女らの根源にあるのは男性への憎悪であり、そうした漫画はレズを性的対象物としてヘテロセクシャル男性に供する世にもおぞましい表現なのですから、この世で一番許してはならない、レズへのヘイトそのものというわけです(もう随分前のことですがオタク界隈で幅を効かせ、「エロ漫画評論家」を自称している人物が上のようなロジックに首肯し、「レズ漫画はレズ差別」などと口走っていた時にはさすがに腰を抜かしました。しかしそうした人たちがLGBTの手先とわかった今では、何ら不思議はないわけです)。
また、一部ホモがBLを憎むのも、当然近しい理由によるものでしょう(だから、そちらに軍配を挙げる小山氏の言説にも、ぼくはあまり賛成できない旨を動画の第33回で述べました)。
DLsiteなどをご覧になっている方の中には、ガイジンが「男の娘」のことを「トラップボーイ」と呼んでいる、という知識を持っている方もいらっしゃるんじゃないでしょうか。
ネットでの聞きかじりですが、ところがこの「トラップボーイ」という言葉は近年、差別的で忌避される傾向にあるとか。
確かに上のようなロジックを演繹すれば「トラップボーイ」は「レズ同人誌同様、ヘテロセクシャル男性に聖なるオカマを供する裏切り行為」となるわけなのでしょう。
もちろん、「表現は自由」であるべきなのだから、彼ら彼女らのイチャモンに対しては「知るかボケ」以外に返答のしようはありません。
例えばレズ漫画には不美人のレズは出ないし、男の娘もあくまで「女の子みたいに可愛いから(萌え絵の文法では男の子も女の子のように可愛く描くことができるから)」ヘテロセクシャルのオタク男性(及び女性)に愛好されるのであって、ぼくたちは最初から現実のLGBTについてなど、何も斟酌していないし、別にそれでいいんですから。
しかし、それならばぼくたちも愚かな人たちの口真似をして「オタク文化は多様」などと下らないことは、間違っても口にしてはならないのです。
いつも言うようにオタク文化は男の子たちが自分の心を訪ねて、自分のニーズに則って始めた、男の子の男の子による男の子のための表現です。
そこが「マイノリティ様に価値づけをしていただく」という他者指向のサブカルと全く相容れない理由であると、ずっと以前から言ってきている通りです。
男の娘やショタといった表現にも、思春期の頃のナルシシズムや男の子同士の仮性の同性愛を懐かしむという、言ってよければ私小説的匂いが確かにありました。
しかし左派は男の娘、またそれ以前にあったショタブームの時も、これらをLGBTへの忖度のあるなしだけを基準に評価してきました。
ショタブームの時、それを「女性様の(BL)表現を受け入れた正しいオタク男子のなした表現」と言っている連中がいた時は腰を抜かしました。性欲ってのは彼らにとって「政治的正しさ」で発動するモノらしいんですね。
そうした文化略奪上等の他人様に、ぼくたちはぼくたちの表現をずっと奪われ続けて来ました。
その挙げ句が、今回の騒動です。
ぶっちゃければこれ、ぼくの目からは悪の組織のボンクラ幹部(というのはオタク界の上層部の左派のことですが)が大首領(というのはLGBTですが)に「この役立たずめ!!」と制裁を受けている光景に見えるんですね。もちろん、彼らが手柄のつもりで奪い取ってきたオタク文化の資産共々。
そしてぼくたちはぼくたちの大切なものを、またしても彼ら彼女らによって喪うことになってしまったのです。