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さて、前回の続き、「少女型ラブドール」問題です。
まず、ツイッター界隈でツイフェミらしき人たちが少女型ラブドールの存在を知って怒り狂い、それに表現の自由クラスタのみなさんが噛みつきだした、というのが経緯です。
概論めいたことは前回既に済ませてしまっていますが、今回は表題にある通り、青識亜論のnoteに対するツッコミ。
↓以下ですね。
論点整理:少女型ラブドール規制論|青識亜論
――ただ、何というか……彼らの文章とつきあう時に避けては通れないのですが、正直そのアジテーション色の強さには閉口します。
まずまえがきのしょっぱなから
十年越しに亡霊がよみがえろうとしている。
「児童ポルノ規制法改正案」の亡霊である。
「児童ポルノ規制法改正案」の亡霊である。
とおどろおどろしく始め、児ポ法で「非実在少年」を描いた創作物(即ち漫画やアニメなど)までが規制されようとした過去の動きについて、語ってみせます(それを阻止した運動の成果もまた、誇らかに語られます)。
そしてまえがきは
これは、死せる規制論を再び黄泉へと送り返す鎮魂の文書である。
と締めくくられるのですが……この時代がかった文体、個人的にはもうこれだけでおなかいっぱいです。
ぼくは時々、オタク文化の発祥を80年と定め、それまでのカウンターカルチャーと異なり、政治性をなくした文化であるとの指摘をしてきました。それは同時に、ことさらに拳を振り上げて自己主張する一本調子さとは裏腹の、一種のニヒリズムを伴ったものでした。
が、青識のこの文章は、本当に70年代活動家のアジ文書のような趣き。一体、どこのどなた様の薫陶を受けて、こんな文章を書くようになったのでしょうか?
(いや、純粋に疑問です。知ってる人がいたら教えて)
もうちょっと冷静な、抑えた文章の方がいいと思うんですが、やっぱりこういうアジ文の方が衆目を引くんですかね?
そもそもフェミはずっと絶えることなく、規制論を(表現の自由クラスタはこの十年のことと信じていますが、実際には数十年に渡って)ぶち続けてきました。反対運動で取り下げさせられてしまった表現だってありますよね。
つまりこの「亡霊が蘇った」とかいう表現が既に現実に即しておらず、何だか奇妙です。
(まあ、青識がポルノ全否定派の著作を絶賛していたことは、今回は見逃してあげるとして……*)
* これについてはひとまず、以下を参照。
野原ひろし リベラルの流儀 第1話 真のフェミでガッツリ!
青識フェイズ1.ポルノは、ヘイトスピーチである
さて、本稿(と、ここでは青識の記事を呼称します)は「規制論①」「規制論②」と敵の主張を分類し、それに対して各個撃破する体裁。
前回も書いたように、ぼくは別に「少女型ドールを規制せよ!」と考えているわけではないし、見ていて基本は頷ける部分が多いのですが、そこは軽く流すとして、どうにも不穏に感じる箇所について、重点的に見ていくことにしましょう。
規制論① 少女型ラブドールは性犯罪を誘発する
→反論 性犯罪を誘発する証拠はどこにもない
規制論② 犯罪の原因にならないという証拠はない
→反論 証拠がないことは規制理由にはならない
→反論 性犯罪を誘発する証拠はどこにもない
規制論② 犯罪の原因にならないという証拠はない
→反論 証拠がないことは規制理由にはならない
この辺はまあ、特段反論もありません。
表現の自由クラスタが「創作物に人心への影響は断じて、全くないんだ」と断言するのはどうかと思いますが、しかし悪影響があろうともガス抜き効果の方が遥かに大きいだろうと、ぼくは考えますから。
しかし、では、以下はどうでしょう。
規制論③ 少女型ラブドールはヘイトスピーチである
→反論 ラブドールは「憎悪扇動」ではない
→反論 ラブドールは「憎悪扇動」ではない
いや、まず、人形はスピーチじゃないのは当たり前なんだけど、そこはノーツッコミのまま話が進んでいくので、何だか笑ってしまいます。
ラブドールに限らず、ポルノグラフィ=「女性へのヘイトスピーチ」という主張は、ラディカルフェミニストのポルノ規制論では定番のレトリックだ。
この指摘は誠にもっともという他ありません。
例えば千田有紀師匠などもポルノを「ヘイトスピーチ」として禁ぜよと主張しています。
論敵は「白人が黒人人形を殴るパフォーマンス」を持ち出し、ラブドールはそれと同じだとするのですが、青識は、「そのことがヘイトスピーチであることは論を待たない。しかし文学となると、例えば差別反対といった意味性が込められることもあり、ヘイトスピーチとは断ずることができない。大事なのは文脈なのだ(大意)」といった論理で、それに反駁するのです。
これは大変まずい物言いだと思います。
そこまで「文脈」が大事なら、少女型ラブドールというものの「文脈」を考えなければなりませんが、そりゃ「少女とやりたい」くらいのメッセージ性しかないでしょう。
つまり、少女ドールは青識が二分して見せた黒人人形/文学の、前者の方にこそ近いというしかない。
フェミがポルノをヘイトスピーチだと言い募るのは、ポルノにそうしたメッセージ性があるから実行につながるぞ、との理由によるものであることを、青識はいまだに理解していないかのようです。
(例えば『名探偵コナン』は殺人犯が捕まるので、殺人は肯定していない。しかしポルノにはセックスを肯定するメッセージ性があることは、否定できません。ただ、だからといって見た人間が簡単にそれを鵜呑みにするはずもない、との理由から、ぼくはフェミに反対しているだけなのです)
そもそも何にせよスピーチじゃないというツッコミは置くとして、「ブンガクは複雑な意味があり得ます」というのであれば、パフォーマンスや人形そのものだって同様のことがいえるでしょう。何と、「規制論④」では黒人をモデルにしたパンチ人形(キックボクシングなどの練習用の殴るための人形)があるぞとドヤっているのだから、何をかいわんやです。「ボクシング用だから殴る」も「黒人ボクサーって何か強そうじゃん? というステロタイプ的ものの見方」もいうまでもなく「文脈」に他ならないのですから。
一方、青識は軽率千万にもブンガクの例として『アンクル・トムの小屋』を挙げているのですが、それを持ち出して「文脈によるのだ」では、「明確な反差別のメッセージを込めたブンガクだけがヘイト表現ではない」とのロジックが成り立ち得る。「ブンガクは高尚で意味の多重性があってハイコンテクストの何やらかんやらなので、一見、ヘイトっぽくてもそうじゃないかもしれません」と言うのであれば、先のパフォーマンスだって同様です。実は一見してわからない深い意味があるかもしれん、と言われたらそれまでです。
しかし、青識はさらに軽率に続けます。
もちろん、公衆の面前で少女型のラブドールを使い、「児童をレイプしろ」と叫んだならば、黒人人形の例と同じように、ヘイトスピーチとしての性質を有するかもしれない。
しかし、自らの性欲を解消するために、自室でラブドールを使うことが、いったいいかなる排除的・憎悪扇動的メッセージにつながるのだろうか。
しかし、自らの性欲を解消するために、自室でラブドールを使うことが、いったいいかなる排除的・憎悪扇動的メッセージにつながるのだろうか。
この論法は、提示したシチュエーションがあまり論点と重なってないという意味で、欺瞞のあるものなのです。
ここでは「衆人環視の中でのヘイト活動」と、「部屋の中でドールを使うこと」が対比されていますが、そもそもそれが適切ではない。
フェミ側は商店で少女ドールが売られ、「合法レイプ」などと書かれていることを問題としていたわけなのですから。
青識は「合法だから(人形だから罪にならないぞとの煽り文句だから)いいじゃん」と言っており、それはもちろんその通りです(事実、この店のポップには「犯罪撲滅」といった文句も、きれいごとではあれ、書かれています)。
しかし、店はアダルトショップであろうからゾーニングはされていようが、公衆であるといえば、いえる。フェミがよく言うネットのエロ広告もまた、しかりです。
「規制論⑤、⑥」ではゾーニングはなされているぞとの反論がなされていて、これもまあ、正しいとは思うのだけれども(では「コンビニでエロ本を売るのは止めます」といわれて顔を鼻水でパックして泣き叫んでた人たちは一体何だったんだというのは、ここでは不問にしてあげましょう)、重要なのは公衆の面前で「児童をレイプしろ」と叫ぶ行為と今回問題になった件とは、青識の詐術よりは隔たったものではないということなのです。
少女をモデルにしたドールを使って「児童をレイプしろ」と叫ぶのは「ヘイトであり、好ましくないものである」と、青識自身が認めているのですから、そんなドールを売るのは、このリクツでは殴るために作られた黒人人形を売る程度には「ヘイト」と言わざるを得ない。
エロ漫画だって「女をレイプしろ!」などと言っているのはいくらもある。となると、それを売る行為は青識のリクツでは、「ヘイト」と言わざるを得ないのです。それとも先に書いたように「ブンガクみたく高尚なので、セフセフ」というのが青識の見解なのでしょうか。
つまり、ここで青識は「ヘイト」という「物理攻撃ではないが、メッセージとしてけしからぬ」という概念を否定しきれず、いきなりドールを「部屋の中」に封じ込めて「いいじゃん」と誤魔化してしまっている。
これでは「ポルノはヘイトだ」と認めたことに、なってしまうのです。
もちろん、青識はヘイトスピーチ規制派ではないはずだし、上の状況(公衆の面前で「児童をレイプしろ」と叫ぶ)をも、法で規制せよとは考えていないでしょう。
しかし、青識の立場がそうしたものであるのならなおのこと、「ヘイトだけどいいじゃん」「好ましいものではなくとも、世には必要悪もあるんだから、法規制まではするな」というのが、立てるべき理屈であるはずなのです。
兵頭フェイズ.1 ポルノは、ヘイトスピーチではない
さて、ちょっとここで話のフェイズが変わります。
今までの言はあくまで青識本人、「表現の自由クラスタ」当人たちの価値観を前提してのお話でした。彼らの論法を前提視して考えても矛盾があるよ、との指摘です。
しかし、ぼくの目からは――いや、恐らくは一般的な感覚に照らせば――「児童とセックスしたい」とのメッセージは「ヘイト」なのかが、まず、よくわかりません。「レイプしろ」となると「悪意」めいたものが感じられますが、それにしたって「性欲」が前提されるでしょう。
この発話者は、少女を「憎悪」しているのでしょうか。
いえ、仮定の話だからどうとでも言えますが、しかしいわゆるエロ漫画のレイプ物を見ても、実際のレイプとされる犯罪を見ても、被害者を憎悪していた例というのはそれほど多数派じゃないはず。
ましてやこのドールが「成人女性」であると仮定するならば、そこには(セックスは全てレイプであるとのフェミニズムを導入しない限り)「悪」と呼べる要素はなくなる。
ただ、「幼女」であれば、そこにはインモラルさが、先に書いたように「黒人の人形を殴る」程度のネガティビティは生ずる。しかし、それすらも「憎悪」を根底に置いたものではない。そもそも問題を「ヘイト」概念ですくい取ることが間違ってるのです。
先にも書いたようにフェミがポルノをヘイトスピーチだと断じるのは、「ポルノがレイプを生んでいる」という前提があるからこそなのだから、そこを否定すればいいのに、青識はしない。或いは、青識の中でフェミニズムの価値観が無意識に前提視されており、それができなかったということなのかもしれません。
しかしさらに勘繰るならば、もっと嫌な予感も頭をもたげてきます。
青識は「敵」をこそ「憎悪者」認定するために、「ヘイトスピーチ」という概念を捨てたくなかったのではないか。それは即ち、彼がペドという「被差別者」を「爆誕」させ、その「擁護者」の立ち位置に収まるために、「ヘイト」という概念を運用しようという計算が、あるのではないか。
見ていると青識は
ヘイトスピーチの本来の意味を没却した、外形的なイメージだけで同一視することは、ラブドール産業に関わる従業員や消費者への不当なレッテル張りであるばかりでなく、本当にヘイトスピーチをぶつけられ、切実な苦痛と危害を受けている人々の問題を軽んじることにもつながる。
などとも言っているのです。
言わば「お前こそヘイターだ」という返しをしているのですね。
前回、モトケン師匠という弁護士の奇妙なロジックをご紹介しました。
そこにわらわらと集まってきた人々を見ると、ペド差別に憤る人々には「ヘイトスピーチ法規制派」が多いのかなとの懸念を覚えずにはおれませんでした。
しかし本稿を見ていると、青識もまた、何か、変節しつつあるのかなとの疑問を拭い難い感じがします。
或いは「ペド差別」を仮想して、LGBTとおんなじ商売を始めようと考えるうち、「敵」を殴る棒としての「ヘイトスピーチ」という概念を欲し始めているのかもしれません。
もしそうだとすれば、仮に彼が「法規制せよ」と言うことは踏み留まり続けるとしても、あまり好ましい状況であるとは思えません。
――というわけで、まあ、長くなりそうなので、続きは以降。
もったいぶってもしょうがないのでここでまとめめいたことを書いておけば、青識の文章は(以前からそうなのですが)「論点整理」との看板とは正反対に、コソクな論点をずらしたレトリックに留まっているという他はない。そしてそれは、彼が左派として、フェミニズムの手のひらの上を出るわけにはいかないからなのでは……と、ぼくには思われます。
次回はそれが、いよいよ明確になっていくことでしょう。