――さて、続きです。初めての方は前回記事からご覧頂くことを強く推奨します。
ちなみに本稿では端々に『トンデモ本の世界』シリーズに書かれていた文章のもじりを入れていきたいと思っています。赤文字で書かれた部分はもじり、或いはそのまま転用したものですので*1、そういうことで、ヨロシク!(『逆』91p)
*1 引用に付された略号はそれぞれ『世』→『トンデモ本の世界』(文庫版)、『逆』→『トンデモ本の逆襲』(文庫版)、『W』→『トンデモ本の世界W』、『Q』→『トンデモ本の世界Q』(『トンデモ本1999』文庫版)、『99』→『トンデモ超常現象99の真相』、『大』→『トンデモ本の大世界』。
フェミニズムもまなざし村もチンプンカンプン(『世』312p)
山本弘師匠の発言が徹底的にまずいのは、その無知と、無知を省みない無恥です。
そしてこのこの特徴は、トンデモさんの根幹を成すものといっていい。
「トンデモ本」というと、反相対論もまた、一つの大きなジャンルです。
この世の中には「相対性理論など間違いだ」と主張するトンデモ本が、UMAに――いえ、馬に食わせるほど存在します。しかしそんな本の著者は揃って物理に対する知識がなく、勉強すらもしようとはしません。
山本師匠はそんな一人、コンノケンイチ氏を笑い飛ばします。
第一に、コンノ氏は宇宙が膨張しているという説を否定する――正確に言うなら、膨張していることが理解できない。
(『世』312p)
第二に、コンノ氏はブラックホールの存在を否定する――というより、ブラックホールの概念が根本的に理解できない。
(『世』313p)
(『世』312p)
第二に、コンノ氏はブラックホールの存在を否定する――というより、ブラックホールの概念が根本的に理解できない。
(『世』313p)
呆れたことにコンノ氏は自著の中で、相対論そのものがチンプンカンプンであるとカムアウトしており、師匠もそれにツッコんでいます。
「わからぬものを批判できるわけもないし、資格もない」とわかってるなら、こんな本なんか書かなきゃいいと思うのだが……。
(『世』315p)
コンノ氏の哲学を要約するなら、「私に理解できないものは間違いだ」ということであろう。理解できないのは自分の勉強不足のせいだとは思いもしないのだ。
(『世』317p)
(『世』315p)
コンノ氏の哲学を要約するなら、「私に理解できないものは間違いだ」ということであろう。理解できないのは自分の勉強不足のせいだとは思いもしないのだ。
(『世』317p)
当時、コンノ氏のトンチンカンさに対する山本師匠の鋭いツッコミに、ぼくは抱腹絶倒したものですが……残念なことですがその言葉は、全て今の師匠にブーメランとして帰ってきてしまっているのです。
「トンデモさんは、自分に当てはまる言葉で相手を批判する」という法則があるが、山本師匠は自分の主張がまさに自身の発言に当てはまっていることに気づいていない。(『W』35p)
明らかにアカデミズム側のプロのフェミニストである牟田和恵師匠に、よりにもよって「まなざし村」という辺境で捏造された(何ら意味を持たない)用語を振りかざして釈迦に説法の振る舞いに出る師匠、コンノ氏とどう違うのかが、ぼくにはさっぱりわかりません。
山本師匠に限らず、多くのフェミニストの信者は、まともな資料調査などやらない。引用するのはもっぱら他の信者によるウィキのページであり、その内容を疑おうとしない。(『逆』339p)
「トンデモ本」というと、ノストラダムス関係もまた、一つの大きなジャンルです。
が、ここでも「ノストラダムス信者はノストラダムスの言など聞いていない」という現象が見られます。
ノストラダムスの予言書というのは謎めいた詩で書かれており、どうにでも解釈できるモノ。人類滅亡を預言したとされる詩は
1999年、7の月
空から恐怖の大王が降りてくる
アンゴルモアの大王を蘇らせるために
その前後、マルスは幸福の名の元に支配するだろう
というものでしたが、「恐怖の大王」と「アンゴルモアの大王」と「マルス」の関係性がはっきりしないし、「その前後」ということは1999年7月の「後」があるとも取れるし、「幸福の名の元に」ということは「マルス」はイイモノではないかとの解釈も成り立つ。どうとでも取れる暗示めいた詩から、「ノストラダムス研究家」を自称するトンデモさんたちが(多くは古フランス語など読めもしないのに)勝手な願望に基づき、「予言」を読み取っているだけのことであり、山本師匠は『トンデモノストラダムス本の世界』のあとがきにおいて「ロールシャッハテストのようなもの」と形容しています。
日本では1973年、五島勉氏による『ノストラダムスの大予言』という本がベストセラーになり、上の詩は1999年の人類滅亡を予言していると騒がれました。しかし五島氏からして予言書のタイトルを『諸世紀』と訳していますが、これ自体がフランス語を知らないための誤訳で、『百詩編』とでも訳すのが正しい、と言われています。多くの「研究家」はそんな五島氏の本をこそオリジナルであるかのように扱って研究していた……それがノストラダムス騒動の実態でした。
そう、それはフェミニストの著作など読みもせず、ネット情報だけを元に、彼女らに自らに都合のいい幻影を見て取っていた山本師匠たちフェミ信者と「完全に一致」しているのです。
味方の言い分すらも聞かないのですから、敵対者の言など全く聞かず、自分の願望ばかりを垂れ流すことは言うまでもありません。ぼくの著作を批判する者たちも、基本、それを読んでなどいません。有村悠師匠など、そう指摘されて「読む必要などないのだ!」と居直ってましたし、山本師匠もぼくと話そうという意志が全くありませんでしたしね。外の情報をシャットアウトし、自分たちの村に引きこもることでしか自分たちの世界観を守りようがないのは、反相対論者もオウム真理教もフェミニスト信者も同じなわけです。
心地よい嘘に酔っているリベラルは、真実になど耳を傾けないものだ。そうでなけりゃ、フェミニストが今でも平然とリベラルに支持され続けられるわけがない。(『Q』410p)
いや、とは言え、山本師匠は純粋に知識がなかっただけではないのか。本当にたまたま、生まれて初めて出会ったフェミニストが牟田師匠であったがため、そのような反応をしたのではないか。師匠もフェミニストたちの姿を知ることで正義に目覚め、フェミデバンカーになってくれるのではないか(デバンカーとは「引っぺがす者」。オカルトのインチキを暴く者のことです)。
それはどうでしょうか。
「トンデモ本」というと、UFO関係もまた、一つの大きなジャンルです。
何しろアメリカでは、何百万という人間がUFOにアブダクション(誘拐)されているというのですから! 精神科医がカウンセリング中、患者から宇宙人に誘拐された経験談を聞き出す……といったことが、かなり普遍的に起こっているようです。かの有名なUFOアブダクション事件、ヒル夫妻事件もまた、そうでしたね。
……もちろん、その記憶が正しいという保証はありませんが。
『トンデモ本の世界T』ではロフタスの『抑圧された記憶の神話』という書籍が紹介されています。ロフタスは被験者に「あなたは子供の頃、迷子になったことがあるのだ」と教えるという実験をしました。結果、被験者たちはそんな経験がないにもかかわらず、極めて容易に「偽の記憶」を思い出したと言います。同様に、例えばですがUFO信者の精神科医が患者をカウンセリングしていて、「ひょっとして宇宙人に誘拐されたのでは」などとちょっと誘導しただけで、患者は容易にそうした記憶を思い出すということが考えられる……いや、「宇宙人によるアブダクションは実際に起きている!」と主張する精神科医にとあるフリーライターが患者を装ってカウンセリングを受けてみたら、露骨な誘導がなされた、という話も実際にあるのです。
さて……ぼくの著作を読んでくださった方にはもうおわかりでしょう。
この「アブダクション」と「性的虐待」を、「UFO信者」を「フェミニスト」に入れ替えたらどうなるか?
そう、カウンセラーが患者に「父親に性的虐待を受けたろう」と誘導する……一時期のアメリカではそうした「記憶回復運動」が大ブームを巻き起こしていました。これにより破壊された家庭は何万にも及ぶとも言われ、フェミニストによる人類史上最大の「女災」こそがこの「偽記憶症候群を利用した性的虐待冤罪」なのです。ロフタスの書は、「迷子の実験」などから「記憶回復運動」に問題があると告発したものでした。
しかし師匠の文章には、そうした災害を引き起こした主体がフェミニストであったことについては、全く記述がありません。同書にはロフタスがフェミニストたちからの攻撃を受けたことが繰り返し書かれていますし、この運動に関わる者のバイブルとも呼ばれる『生きる勇気と癒す力』は、フェミニストたちが圧倒的な支持を表明しているのですが。
また、これはと学会の本ではありませんが『検証 大震災の予言・陰謀論』において、山本師匠は阪神大震災において被災地でのレイプが多発したとのデマについて「震災後にレイプが多発した?」という項を設けて述べています。が、フェミニストたちがこのデマを垂れ流し、告発した者に卑劣な攻撃を加え続けたこと*2については華麗にスルーしています(これは荻上チキ師匠の著作にも同じことが言えます)。
もう疑いはない。山本師匠はフェミニストたちの振る舞いを最初から知っていた。(『99』196p)そして彼女らの反社会性、非論理性、そして男性、いや人間社会への夥しい憎悪を故意に隠し、知らぬフリをしているのです。
師匠は『トンデモ本の大世界』で以下のようにおっしゃっています。
なお、イデオロギー論争や歴史論争に踏み込む気はまったくない。僕はどんなイデオロギーも歴史観も信奉しない。僕が信奉するのは「事実」と「論理」である。この二つを踏みにじる者は許せない。
(29ページ)
(29ページ)
しかしここまで見て来ればもう明らかでしょう。師匠はこの世でもっとも「事実」と「論理」を踏みにじり続ける、危険なカルトの重篤な信奉者なのです。
彼ら「フェミニスト信者」の心理の根源にあるのは、一つには単純な騎士道精神でしょう。しかしそれだけではないように思います。
前回書いたようにトンデモさんの深層には現世への深い憎悪が潜んでいる。同様にフェミニスト信者の深層にも、ことに「一般的な男性」への深い憎悪が潜んでいるのです。
いつも言うように、そればかりか本稿を読んだだけでも自明であるように、不当に女性を持ち上げることは同時に、男性を貶めることでもある。
と学会に対しては、「物事に真摯に取り組んでいる(或いは、場合によっては哀れな)者をいじめるな」といったスタンスで批判してくる人もいます。『トンデモ本の逆襲』にはそうした擁護者に対する師匠の反論も載っています。
三上氏(引用者註・トンデモさん)の誤りを指摘することが三上氏に対する侮辱になるというのなら、「(引用者註・三上氏が)現代の天文学はすべて間違っている」と主張することは、まじめに研究している世界中の天文学者に対する侮辱になるということもお忘れなく。
(372-373p)
(372-373p)
全くおっしゃる通りです。
フェミニスト信者には知識だけではなく、モラルが欠如している。彼らは自分のやっていることが邪悪な行為であることを理解できないのだ。(『大』35p)
*2『物語の海、揺れる島』
「エンタのフェミ様!」
この事例もまた、フェミニズムが何よりもファクトを蔑ろにする思想であるとことを示す一つの例に過ぎません。
いつか実現してほしい本物の戦闘美少女(『世』300p)
まだ、書かねばならないことはいくつもあるのですが、師匠の病的なフェミ崇拝について、まさに『トンデモ本の世界』に書かれた名文が分析しきっていると思いますので、今回はそれをご紹介して終わりましょう。植木不等式氏による「イルカに乗ったトンデモ」です。実は、前から読み直そうと思いつつなかなか機会が取れなかったのが、今回久々に再読が適いました。
植木氏は“イルカ研究者”エステル・マイヤーズの雑誌インタビューを引用し、ニューエイジャーたちに蔓延していたイルカ・オカルティズムの特徴を指摘します。
ひとつめは、イルカやクジラと直接的・非言語的な交流(テレパシーとかチャネリングとか)による深いレベルの精神的交流が可能であるという主張。ふたつめは、彼らが人間にまさる知性と徳性を持っており、そんな彼らとの精神的交流を通じて人間は自らの救いとなるいろいろなメッセージやパワーを受け取れるのだという主張である。
(396p)
(396p)
更には以下のような秀逸な指摘も。
さて、ひょっとしてイルカへの期待というのは、一種のカーゴ信仰の変形としてのUFO話の、さらなる後継者なのではないだろうか。
(404p)
(404p)
期せずしてまた、「カーゴ信仰」という言葉が飛び出しました。『水からの伝言』も『人が否定されないルール』もそうですが、これらは言葉をしゃべらない相手を神様に仕立て上げることで、受け取る側が身勝手なメッセージを受け取れるというカラクリがあるわけですね。それは丁度、「どうとでも解釈できるので、自分好みの予言を導き出せる」ノストラダムスの予言詩と全く、同じです。
この項は、イルカをいじりすぎて怒ったイルカに殺されたイルカ信者の例を引き、「人間に身勝手にヒーリンググッズにされ、イルカは怒っているのだ」との警告を発して終わります。
山本師匠の、フェミ信者のフェミニストへの感情はまさにイルカ信者のそれです。
いや、しかし女性は「言葉をしゃべる」点が異なるぞ、との疑問も湧くかも知れません。ましてや、ぼくたちにはピンと来ないですが、かつては「女性はおしゃべり」とよく言われたものですし。
ですが考えると矛盾はないのです。
上にも書いたように、彼らフェミ信者はフェミニストの言など聞いていないのですから。
今の若い人には理解しにくいことだと思うのですが、80年代のオタクは「戦闘美少女」というものに萌えていました。男性性が否定されつつあった時代に男の子として生まれたオタク男子は自らの男性性を「剣を手に、怪物やロボットと戦う美少女」へと仮託していました。彼女らは実質的には「女の子の姿をした男の子」でした。
翻ってオタク男子とホンモノの女の子たちの間には、大きなディスコミュニケーションが横たわっていました。当たり前ですが、男と女というのは全く違った生物であり、頭でっかちの男の子というのは女の子との接し方がわからない。どう扱っていいかわからない。「ぼくの趣味の話を興味を持って聞いてくれる女の子を友だちにしたい」との気持ちは、ことに理屈屋である山本師匠には強かったことでしょう。彼のお友だちが引き起こした「ガンダム事変」*3が、そうした元・男の子たちの汚らしいルサンチマンが生んだ喜劇であったことは、論を待ちません。
そんな願望が、「我こそは男性ジェンダーを獲得した者なり」との自己申告をするフェミニストたちへの妄信へと、彼らをして走らせてしまったのです。彼女らを、「ボクの愛する戦闘美少女」であると誤認してしまったのです*4。皮肉なことにフェミニストこそ、あらゆる女性の中でも一番女性性に居直り、その女性性すらも未成熟なままでいる存在なのですが。
山本師匠(に限らず、フェミ信者)は理屈屋であると述べました。それ故、彼らの言語OSに「女性語」を解する機能は搭載されていません。つまり彼らはフェミの言動に立ち現れる(非)論理性はもちろん、情緒性を一切理解せず、理解できないからこそ、彼女らを崇拝している。フェミ信者の狂信性を見るに、そのようにしか思えないのです。
そして一方、彼らの狂信性はまた、「フェミニストの女性性の内面化」であるようにも見えます。冷静で知的な人間だとの自己イメージを持っているであろう彼らが、ことフェミニストについては驚くほど非理性的非論理的になる。それは丁度「恋は盲目」とのことわざを連想してしまうほどに。今回の師匠の言動はその好例です。
彼らは意識的には「知的論理的女性」を求めながら、無意識裡には自らが「非理性的非論理的男性」であることを解放する口実を求めているようにしか思えない。そして、彼らはフェミニストという恋人を得ることで、ようやく「男性性と女性性とを共に持った人間」として完成した。問題はその両方が、極めて幼いことですが……。
「男性は理を、女性は情緒を司り、その両者が一つになることでようやく完全な存在になるのだ」。そうした旧来のジェンダー観に、山本師匠たちフェミ信者は乗っかっている。理屈屋であり男性原理を過度に重んじるからこそ、フェミニストを男性原理の主、「実在する戦闘美少女」であるとのあり得ない幻想に耽り、一方、自覚しないままに自らの情念をフェミニストたちへと仮託している。
そして――彼らの業界ではそうしたフェミニストたちの寵愛を受けるために、「事実」と「論理」を生け贄に捧げることが、常態化してしまっている。
そんな風に、ぼくには思われます。
ずいぶんキツイことを書いてきてしまったが、考えようによっては、山本師匠はとても幸福な人かもしれない。何しろ、アニメの世界から出て来たような彼のことをわかってくれるフェミニストたちからメッセージをもらいながら、ロリコン、巨大美少女、美少女科学者といった、人類の永遠の夢を小説に描き続けているのだ。たとえそれらのフェミニストが実在でなくても、それはそれで、充実した生涯と言えるかもしれない。
それに、本音を言えば、僕も萌えオタの一人として、戦闘美少女はどうにか実在してほしい、という淡い期待がある。フェミニストでなくても、世界のどこかにいる戦闘美少女が、いつか発見されるのではないか――僕はひそかにそれを期待しているのである。(『世』300p)
*3「『ガンダム』ファンの女子は少ない気がすると言っただけで政治的論争に組み込まれちゃった件」
「「1stガンダムに女性ファンは少なかったと主張する兵頭新児氏とそれに対する反応」というデマまとめについて」
*4 この世代のオタクの「戦闘美少女」――というか、女性性への信仰心については、『スーパーロボット大戦V』を参照。
しかし、それにしても、「オタキング」たる岡田斗司夫氏は「俺たちが求めるのは見た目が女、中身が男の女だが、俺たちの周りにいるのは見た目が男、中身が女の女ばかりだ」と言っていたことがあります。そういう一種の諦念を持っている彼こそがモテていることが、全ての答えであると言えますね。