兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

2016-02-12 19:29:01 | 上野千鶴子


 今日は2016年2月12日です。
 先週から我々兵頭新児のことで世間をお騒がせしました。
 そして、沢山の方々に、たくさんのご心配とご迷惑をかけました。
 この度は、ぼくたちのことでお騒がせしてしまったことを申し訳なく思っております。
 今回の件で、オタクがどれだけフェミニスト様の温情と慈悲に支えていただいているかということをあらためて強く感じました。本当に申し訳ありませんでした。
 今回、上野様に謝る機会を電鋸雛菊君が作ってくれて今、ぼくらはここに立てています。
 最後に、ここから自分たちは何があっても二次元だけを見て、ただ二次元だけを見て、リアルなセックスは元より実写ポルノは全て諦め、マスターベーションに邁進したいと思いますので、皆さんよろしくお願いいたします。


 ――はい、謝罪も終わりましたので平常通り、レビューを始めたいと思います
『女ぎらい――ニッポンのミソジニー』は、上野千鶴子師匠の比較的近年の著作です。
 比較的近年でありながら、そしてまた「ミソジニー」というナウい片仮名言葉を掲げながら、内容は旧態依然とした千年一日の、古拙で偏狭で低劣なフェミニズムが語られるだけの本なのですが。
 なのですが先日、togetterにおいていわゆる「表現の自由」を標榜するリベラル君たちが、よりにもよって本書を根拠に「上野千鶴子はオタクの味方だ」論をぶち上げておいでだった*1ので、久し振りに本書を読み返す機会を持ったのです。
 本書については出版当時にも、詳しく触れました*2。
 しかし今回は、先のような事情から専ら上野師匠の「ポルノ観」を推し量る目的で、本書をレビューしてみましょう。

 さて、リベラル君たちは本書の80pを根拠に「上野師匠はポルノを否定してはいない」と断言しました。

想像力は取り締まれない――それが多数派のフェミニストが暴力的なポルノの法的な取り締まりを求めることに、わたしが同調できない理由である。

日本でもポルノ規制をめぐって、一部のフェミニストとコミックライターや作家とのあいだに「表現の自由」論争が起きたが、わたし自身は、フェミニストのなかでも「表現の自由」を擁護する少数派に属する。


 との箇所ですね(師匠が少数派ということはフェミニストの多数は敵ということになる気もしますが……)。
 師匠は近年、この種の発言を繰り返す傾向にあり、「うぐいすリボン」という「表現の自由クラスタ」の総本山とも言える組織の集まりでも、近しいことを言っていました*3。

 ――なるほどなるほど、確かにそれは彼ら「リベラル君」たちの方が正しいのではないか。

 さて、どうでしょうか。
 ぼくは幾度も主張してきました。
 上野千鶴子師匠はポルノを全否定している、と。
 そしてその根拠として、ぼくもまたやはり、本書を挙げてきました。
 何しろ本書の57pで師匠ははっきりと

売買春とはこの接近の過程(引用者註・男女のおつきあい)を、金銭を媒介に一挙に短縮する(つまりスキルのない者でも性交渉を持てる)という強姦の一種にほかならない。


 とおっしゃっているのですから。
 言うまでもないことですが、ポルノは「売買春記録物」です。
 つまり、上野千鶴子師匠はあらゆるポルノは強姦だと断言なさっているのです
 何しろ別の記事ではもっとすさまじく、

たとえば、売春業が「強姦の商品化」だとすれば、キャバクラは「セクハラの商品化」である。

やはり、風俗は完全になくすべきだという結論以外にない。


 とまでおっしゃっているのですから*4。
 しかし、一体全体どうしたことか、先の引用を目の前に突きつけられても、表現の自由を人命よりも尊いと考えるリベラル君たちは、上野師匠は味方だと頑迷に主張し続けました。電鋸雛菊という御仁などは特にすさまじく、こちらを「ノロマ。愚図。印象論者。デマ野郎。ゴミ論者」などとただひたすら口汚く罵り続けました。そのヒステリックさ、幼児退行ぶり、自らに逆らう者への憎悪、過剰な攻撃性は、見ていて心配になるほどです。
 客観的事実を提示されてもそれを受け容れることが決してできず、自分たちのついた嘘を押し通そうとその嘘を指摘した者に殴りかかり、「『ヤツはデマを流しているのだ』とのデマ」をあちこちに垂れ流すというのはフェミニストやその信奉者の共通の、もう、本当に、唖然とする、呆れ返る、これまでに何十回となく繰り返されてきた振る舞いです。
 果たして、彼らの狂信性は一体、何に端を発するものなのでしょうか?

*1 次の「火のないところにフェミが放火する案件」京都市営地下鉄戦(http://togetter.com/li/926415)
*2「女ぎらい――ニッポンのミソジニー(http://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/e/dc90697177363f41f96dc39e97bc0afb)」
「女ぎらい――ニッポンのミソジニー(その2)(http://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/e/95f2f4056c4af4fa29d1bab7fea658bc)」
また、上野師匠のオタク文化に対するスタンスについての、当時のぼくの見解は「チェリーボーイの味方・上野千鶴子の“恋愛講座”(http://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/e/96a9d5b36e737a4e69b17831efbdefc9)」
*3 堺市立図書館BL小説廃棄要求事件を振り返る(http://www.jfsribbon.org/2012/10/bl.html)
*4「上野千鶴子氏 売春は強姦商品化でキャバはセクハラ商品化(http://www.excite.co.jp/News/society_g/20130609/Postseven_191042.html)」


 ぼくに先の箇所を突きつけられた時の、リベラル君たちの反応は以下のようなものでした。

 1.エロ漫画、エロアニメなど現実の女性の関わらない表現であれば、「売買春記録物」とならない。師匠がポルノを「全」否定している、というのは兵頭のデマだ。
 2.実写などでも「写真集」などは「売買春記録物」ではないものもあり得る。


 なるほど、先の『女ぎらい』出版当時のブログでもぼくは


仮にですが、上野センセイのお考えが、「あらゆるポルノを女性差別として否定する、しかし非実在少女をモデルとしたエロ漫画、エロゲーだけは認める」というものであれば、筋が通っているとは思います。


 と注釈を入れはしました。
 しかし、では、「上野師匠はポルノを“全”否定はしていないのだな」とお感じになるでしょうか?
 少なくとも、映像を記録する技術が開発されて以降は、「売買春記録物」、即ちセックスをしている場面の記録が、ポルノのメインと言えるはずです。そこにいくつかの抜け穴があるから“全”否定などしていないのだ、と言われて、納得できるでしょうか。
「写真集」で「売買春記録物」でないものもあるというのもまた、おかしなリクツです。師匠は「風俗」を全否定しているのですから、「風俗」の中に「本番」のないものもあるからいいのだといった抜け道を認めていないのは自明です。そんな師匠が「性交に至らない写真ならばOK」といった抜け道をお認めになるとは、とても思えません(しかし彼らは、上野師匠の言を無理やりにねじ曲げて、「彼女はぼくたちの味方なのだからこれこれのようにお考えに違いない」とただひたすら根拠のない妄想を繰り広げ続けるのです)。
 そもそも、では、一億歩譲って、師匠が彼らの言う通り「本番のない実写ポルノ」、「アニメなど二次元のポルノ」だけは認めておいでだとして、しかし「性交している実写ポルノはNG」だとする師匠を、彼らは首肯するのでしょうか。児童ポルノの単純所持が禁じられようとした時は、あれだけ「実写の禁止を容認すれば、今度はイラストなどの禁止もなされることは明白だ」と何でもかんでも反対していた人たちが、フェミニストの言うことになるととたんに寛容になるのは、不思議としか言いようがありません。
 彼らは「たっ君ママ」です。
 彼らはたっ君を溺愛するママであり、一方、近所のムカつく宮本のガキ*5を憎悪しています。彼らはたっ君がテストで10点取ったことを、宮本のガキの7点に比べ大変な好成績だとして、先生に合格点をつけることを強要します。ですが実のところ、クラスのみんなはもっと努力して平均点は80点を超えていたのです。
 だってそうですよね、一般の女性はポルノにそこまでの拒否感を示しはしない。ましてやオタク界には、自らものすごいエロ漫画を描いてくれる女子が大勢いる。つまり秀才揃いの「オタク学校」にはテストで100点を取る女子が大勢いるにもかかわらず、彼らはたっ君と宮本のガキにしか目が行かず、周囲の現実がどうしても呑み込めないのです。


*5 彼らの「仮想敵」として決まって彼らの口から出て来るのが宮本潤子師匠です。正直この人がどれだけの影響力を持つのか、ぼくにはわからないのですが、彼らの村には上野師匠と宮本師匠以外の女子が一人もいないということが、大変よく理解できますね。


 本書を読めば読むほど、上野師匠が(あくまで、法的規制に賛同していないだけで)徹底的なポルノ否定派であることが伺い知れます。
 何しろ、本書を開くとまず一番最初のページ(7p)で、

ミソジニーの男には、女好きが多い。「女ぎらい」なのに「女好き」とはふしぎに聞こえるかもしれない。それならミソジニーにはもっとわかりやすい訳語がある。「女性蔑視」である。女を性欲の道具としか見なさないから、どんな女にもハダカやミニスカなどという「女という記号」だけで反応できる。おどろくべき「パブロフの犬」ぶりだが、このメカニズムが男に備わっていなければ、セックス産業は成り立たない。


 などと書いているのですから、ぼくたちが女体に性的興味を覚える以上、ぼくたちは「ミソジニスト」の誹りを免れないのです。
 いえ、そればかりではありません。254pでは、男性が女性を「守りたい」と考えることすらもが女性を蔑視した、許されざる差別的な考えだと主張なさっているのだから驚きます。そんなの、男性に守られたがる女性が悪いんじゃないでしょうか(これについては先に挙げたぼくのレビューの一番最初のものを参照)。
 9pでは、吉行淳之介『驟雨』がやり玉に挙がり、


おどろくほど通俗的なポルノの定石どおりに展開する。
(13p)


 それはつまり、男が女を快楽に導くことで支配するという幻想であり、


あまりこの種の幻想がまき散らかされているために、ほんとうに信じこむ人たちがいるのじゃないかと心配になる。吉行はそういう性幻想をまき散らかした戦犯のひとりである。
(14p)


 と全否定を続けます。
 こういう人がエロを認めていると、どう考えれば思い至れるのでしょう。はっきり言うと、この『女ぎらい』は壮大な「ポルノ否定」の(いえ、「男性否定」であり「女性否定」の)書であり、彼女がポルノに寛容というのはオタク界のトップがオタクの味方であるというのと同じくらい、ムチャクチャなのです(比喩になっていないことをお詫びいたします)。
 先の80pの発言は「児童性虐待者のミソジニー」という、小児愛者を批判した章のものなのですが、この後師匠は


それならいっそのこと、かれらが性関係から撤退し、性行為をマスターベーションに限定し、自己完結した性的欲望のファンタジーのもとにとどまってくれているほうが、ずっとよい。ヴァーチャルなシンボルで充足できる「二次元萌え」のオタクや、草食系男子のほうが、「やらせろ」と迫る野蛮な肉食系男子よりましだ。
(中略)
たとえ二次元平面のエロゲーや美少女アニメが、誘惑者としての女がすすんで男の欲望に従うあいもかわらぬ男につごうのよい男権主義的な性幻想を再生産している、としても。
(86p)


 と言い出します。つまり、彼女は「ポルノを全否定」した上で、「オタクは二次元にしか興味がない」との仮定の上で、ようやく、ぼくたちのことを「まし」であると言ってくれているだけなのです。
 次のページでは実写ポルノについて、

トラウマ的なポルノを演じることでもたらされる影響を無視することはできない。


 と、「仮想のストーリー」をも悪だと難じています。
(繰り返すように本章自体が小児性愛者についての章であり、全体的にはチャイルドポルノが批判されているのですが、上の文章はその直後に「とりわけ子どもの場合には」とあるように、ポルノ全体を批判する文脈で書かれたものであることを、お断りしておきます)
 先の吉行淳之介批判もそうですが、上野師匠はラディカルフェミニストの一人であり、ラディカルフェミニズムは根本の部分で「我々の性意識は他者によって教え込まれたもの(なのであるから、それを覆さねばならない)」という考え方をしており、ポルノを絶対に許すはずがないのです。
 以前ツイッター上で、青識亜論師匠(「表現の自由」派の中の有力な人物)と話していて、面白いことを言われました。

バトラーなどは、ポルノの自由を認めた上で、ポルノを構成する表徴を転倒させ、反差別の力にしてしまおうという豪快なロジックを使いましたが、上野女史もこうした流れを汲むのではないかと勝手に思っています。


 要するに、フェミニスト様にポルノを差し出し、ご自由に査定、改訂していただこうというわけです。一体何で、そんな人権保護法案みたいなメンドくさいことをしなきゃいけないんでしょう。
(ちなみに先のバトラーのロジックは、フェミニストの口からよく聞くものです。上野師匠の弟子である千田有紀師匠もまるきり同じことを言っていて、その意味で彼の「上野女史もこうした流れを汲むのではないか」との想像は、恐らく当たっていると思われます)

 ここまでで、大体のことはわかったかと思います。
 彼らリベラル君たちの言い分は、彼らの運動を「ただひたすらに自民党と戦うことを目的としたもの」と規定した時、極めて論理的なものとして立ち現れます
 フェミニストたちがいかにポルノを否定していても構わない。彼女らが実際にあちこちにクレームをつけ、「表現の自由」を阻害しようと、いっこうに構わない。ただ自分たちはフェミニストとデートをして、そして自民党が悪だと言いたいだけだ。
 どうやら、彼らの言を演繹していくと、そのようなものになってしまうようです。
 事実、彼らは悪名高い「行動する女たちの会」を「法規制には反対の立場だ」というだけの理由で称揚しています*6。
 彼ら「表現の自由」クラスタは「国家大嫌い芸人」であり「フェミニスト大好き芸人」ではありますが、大変残念なことに「エロ大好き芸人」でもましてや「アニメ大好き芸人」でもなかったのです。

 漫画もアニメも消え果ててもいい。ただボクはフェミニストとデートをして、現政権の批判だけを続けたい。
 そうお思いの方はどうぞこれからも、足繁く彼らのライブに通い続けてください。

*6 フェミニスト団体「行動する女たちの会」の悪質さと、オタク界のトップが彼女らを称揚する様は「『ポルノウォッチング』ウォッチング(http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar855897)」を参照。