兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

ズッコケ三人組シリーズ補遺(その三)

2015-03-06 08:18:38 | 男性差別


 続きです。
 正直、ニーズがあるのかどうかわかりませんが、また五作を採り上げます。
 今回採り上げる『占い大百科』は、ファンの間では女性の恐ろしさを描いた傑作と言われているのですが……あんまりそういう感じの感想になりませんでした。
 後、性質上、ミステリなどもネタは全部バラしていますので、そこはお含み置きください。

『謎のズッコケ海賊島』
●メインヒロイン:なし

 とにかく息もつかせぬ面白さの、宝探し話。しかし本当に純粋な活劇であり、ドラマとしては残るものはありません。『ズッコケ』は一作ごとのテイストの落差が激しく、そこも魅力ではあります。

『ズッコケ文化祭事件』
●メインヒロイン:荒井陽子、榎本由美子、安藤圭子

 文化祭で発表する舞台劇の台本を、近所に住む童話作家、新谷敬三に書いてもらおうというハチベエの思いつきから、話は始まります。
 新谷は童話作家としてデビューしながら、児童文学の大手出版社から一冊本を出した後は泣かず飛ばずの四十絡みの男。物語の前半はこの新谷の屈折と、それ故に過去の栄光を振りかざすというキャラクター描写が前面に出ています。
 彼は快く執筆を引き受けますが、いざ出来上がってきたものに対するクラス内での評判は今一つ――というか、「古い」「幼稚園児向けのようだ」と酷評の嵐。
 ついには台本をアレンジしようという話が出て、プロットは以下のように。

 昔々あるところに住んでいた三兄弟が魔法使いに母親をさらわれ、それを助けるべく冒険に――。
 →
 現代の花山町(三人組の住む町)に住む三姉妹が地上げ屋に父親をさらわれ、それを助けるべく暴力団と大バトル――。

 まるっきり変わっちゃったわけですね。
 いえ、外装を変えただけで根っこは変わっていないとも言えますが。
 しかしハチベエたち三人組を含め、子供たちは先生のお仕着せでなく、自らの手で劇を作り上げる喜びに目覚めて大奮闘。児童劇団に所属していた徳大寺という男子を中心に、クラス一同が団結して劇に取り組む様が本当に楽しそうに描かれます――読んでいる方は新谷という爆弾を抱えていることが気がかりで気がかりで、居たたまれないのですが――。
 劇はめでたく大盛況ですが、見に来ていた新谷は案の定、激おこぷんぷん。担任の宅和先生に嚙みつきます。
 宅和先生と言えば、劇のクライマックスに暴力団組長に消火器を浴びせてやっつけるという演出がなされるのですが、これについても「後々校長などにキツい処分を食らうだろう」と覚悟しながらも、子供たちの好きにやらせてやりたいと看過した人物。この文化祭は卒業式間際のものとされ、子供たちに最後の想い出として好きにやらせてやりたいというのが、彼の願いだったのです。
 宅和先生が新谷に詫びを入れに行き、大喧嘩に発展する――というのがクライマックスです。
 新谷は純粋な、しかし独善的な人物であり、それ故、今の子供の心を掴めない童話作家として描かれます。そんな新谷に、宅和先生が「あなたは自分の頭の中の子供像を守りたいだけなのだ」と一喝するのが見せ場なわけですね。
 実のところ、ぼくは初読の時このクライマックスが非常に頭に残り、嫌な印象を持ちました。
 宅和先生に作者の言いたいことを言わせてるだけじゃんと。
 まさにこの作品それ自体が「子供のためを思って子供の前でマスターベーションをする新谷」そのものじゃんと。
 が、再読してみると非常に面白く感じました。
 読み直してみると先生と新谷の議論の描写は思ったよりもあっさりしており、膨大な他の描写が、既に上に書いた通りそれを補ってあまりあるほどに面白すぎるのです。いや、そうは言っても子供を廃した大人同士のやり取りに物語の重心があることは、やはりどうかとは思うのですが。

 劇のプロット、外装を今風に変えただけと書きましたが、新谷にとってはそれがお気に召さない。「暴力団」が登場するのは小学校の劇としてどうかという意見は、この新谷のみならず親たちの口からも出され、この頃はまだ「子供を縛る大人」VS「それに逆らう子供」といった図式が生きていたのだなと感じさせます(議論においても宅和先生が「子供たちの自主性を……」と言うと新谷が「無責任な大人の大好きな言葉だ」とやり返す場面があります)。
 本シリーズ、新書版では、どこのどなた様とも知れぬお歴々の「解説」が入るのですが、この「解説」がまあ、揃いも揃って激痛イタタタの助(やや古いアレンジ)なモノであり、そのうち扱ってみたいと思っているのですが、それらは口を揃えて「保守的な児童文学業界で『ズッコケ』シリーズがいじめられていること」「しかし小説の要は何より面白さであり、それを追求した本シリーズはエラい」みたいなことを言っているのです。
 つまり、本作は児童文壇(?)にいじめられ続けた作者の意趣返しという側面が濃厚にあるわけです。
 新谷の作品がどうにも啓蒙的で、彼を追い越して人気作家となったライバルの作品のタイトルが『ハッスル夢子のビックリ新学期』というある意味では『ズッコケ』的なノリのものであるなど、そうした描写がふんだんに立ち現れます。
 しかし、むろん、それはそれで痛快に感じるモノの、ぶっちゃけ子供が「暴力団の話」を喜ぶというのはどうなのでしょうか。
 本作の出版は1988年。実はこの作品の前作(『海賊島』)において、本シリーズで初のファミコンで遊ぶ描写が登場します。
 新谷のシナリオを見て、「魔法使いは古い」とする子供のセリフがあるのですが、しかしこの時代の子供にとって「大蛇に化ける魔法使い」って結構ぐっと来るキャラクターだったのでは?
 翻って「暴力団」はちょっと、いかにも「大人にわざわざ眉をひそめさせるため(だけ)」に持ち出してきたようなモチーフで、この時期の子供が喜んだのかなあ? という気がしないでもありません。
『オバQ』でも学芸会で(よい子のよっちゃんが『白雪姫』をやろうとするところを)オバQや正ちゃんがチャンバラやスパイ物をやりたがるシーンが出て来ますが、これは要するに「テレビ文化」なのですな(実際、作中でこの暴力団の劇は何度も「テレビふう」「テレビまがい」と形容されます)。それも、ごく初期の「大人が観る番組を子供が一緒になって見ていた」時期にこそ、こうした傾向は顕著だったのではないでしょうか。
 本シリーズが「保守的な大人どもをねじ伏せ、子供たちに寄り添った良質な娯楽作品」という側面があることは論を待ちませんが、同時にそうは言っても、ぼく自身も当時から「でもちょっと古いな」と思いながら読んでいたところもある。
 それをこうして数十年経って省みてみれば、「右から左から大人たちが涎を垂らしながら子供たちの下へ大挙して、先を争って靴を舐めている姿」にも、少し見えなくもない。で、まあ少子化が叫ばれて久しい昨今ではそれに代わってオタク業界が……(以下自粛)。
 本作のラストでは一皮剥けた新谷が新作の童話を書き、そしてそれこそがこの『ズッコケ文化祭事件』なのではないかというメタ構造で話を終わらせているのですが――大変皮肉なことに、テーマ性までがメタ構造を持って、ぼくたちの前に迫ってくるのです。
 つまり――「時代は一周していて、実は劇中で子供たちのやった劇こそ時代遅れやったやんけ」と――。

『驚異のズッコケ大時震』
 ●メインヒロイン:ヒメノミコト

 三人組が「時震」、即ちタイムスリップを繰り返す話です。
 関ヶ原の合戦、江戸初期、幕末と目まぐるしく舞台が変わりますが、タイムスリップの描写がなくいつの間にか時間移動しているので、子供は「小早川秀秋と水戸黄門と坂本龍馬って同じ時代の人物だったんだ」って思っちゃうんじゃないかなあ。
 ラストは邪馬台国と、後、本当にサービス程度に恐竜時代へもタイムスリップ。
 上のヒメノミコトは卑弥呼の日本での名前であり、三人組がタイムトリッパーであると看破、元の時代に戻る方法を教示しますが、それは実はタイムパトロール隊員のテレパシー装置に操られてのこと。つまり、『山賊修行中』の土ぐも様のような超常的存在としては、捉えられていないようです。

『ズッコケ三人組の推理教室』
 ●メインヒロイン:荒井陽子

 シャーロック・ホームーズにハマった三人組が探偵を志し、飼い猫の誘拐事件を捜査する……というジュブナイルの見本のようなプロット。
 しかし本作が当ブログ的に一つのランドマーク足り得ると思うのは、本作がシリーズ中初めて、ヒロインが「三人組と終始行動を共にする」話として書かれたこと。
『株式会社』では美少女トリオがクライマックスでようやっと「あちらから、こちら側へと入って来てくれる」ヒロインとして描かれましたが、本作では陽子が愛猫が事件に巻き込まれたため、当初はクライアントとして登場するも、すぐに三人と行動を共にするようになり、「四人組」と呼んでもいいくらいの活躍ぶりを見せます。
 ドラマとしての深みはほとんどなく、猫を盗んでいたのが元ペットショップ経営者であり、金持ちの猫ばかり狙ったのはそうした連中が憎かったのでは、とハカセが僅かに語る程度。つまり、「俺はオタクが憎い……俺を受け容れなかったオタク界に復讐してやる!!」とばかりに同人誌の海賊版を売りさばくとか、例えばそんな話だったわけですが、そうしたテーマ性は最後に暗示される程度に留まっているわけです。
 後、今回は珍しくモーちゃんが自己主張し、また犯人逮捕でも活躍するのが特徴的です。それはそれで面白いのですが、女の子の登場含め、ドル箱と化した本シリーズに、いろいろと出版社の思惑が絡み出したのかな……といった感想も、ついつい抱いてしまいたくはなります。

『大当たりズッコケ占い百科』
●メインヒロイン:市原弘子

 以前、『(秘)大作戦』について語った時、とあるブログが那須センセを女性嫌悪の主、と評していたことを紹介しました。そのブログが「那須正幹の女性不信作品群の頂点に位置する作品」として挙げていたのが本作です(作品群と言うほどあるんかい!!)。他のブログを見ても「女性のドロドロとした心理が云々」との評が並んでおり、ワクテカしながらようやっと読んだのですが……期待値が上がりすぎたためか、そんなでもないというのが感想でした。
 クラスで占いが流行するという導入部。ハチベエまでが女子に手相占いをし出すのですが、それがクラスメイトの市原弘子に「レイコンさん」の名人である不登校の少女、桐生寿美子を紹介されるに至って、話が一挙にオカルトめいてきます。
 この「レイコンさん」というのは恐らく「こっくりさん」という名称の方がポピュラーだと思うのですが、女子小学生、女子中学生が好んでやる、百円玉を使った降霊術。クラスの女子、幸子はなくしたペンダントの在処を聞くのですが、同じクラスの絵美が持っているとの答えを得ます。ハチベエが絵美の鞄を開いて見ると、そこには果たしてペンダントが。
 絵美には泥棒の疑いがかけられ、更には幸子と絵美がかねてより一人の男子を巡っての三角関係にあり、ペンダントはその男子からのプレゼント――といった事実が明らかになり、教室はドロドロとした噂話の徘徊する空間となります。
 ハチベエ、そして幸子の机には「呪いの人形」が置かれ、さすがのハチベエも大いに恐れおののきます。犯人は絵美だ、いや自分を絵美の被害者に仕立て上げることを狙った幸子の自作自演だ……と更にドロドロがヒートアップするのですが――真犯人は、(要所要所で顔を出しつつも、目立たない存在であった)弘子でした。
 彼女はシャーマン然とした寿美子を裏で操り、愉快犯的にクラスを引っ掻き回していたのです。
 クライマックスで神がかって怯える寿美子(ちなみに彼女は中一で、一同より年上です)を小柄な弘子が抱きしめて「大丈夫よ」と言ってやっている様など、ゾクゾクする怖さ――と言いたいところですが、ちょっと展開が唐突すぎて感情がついていきませんでした(弘子が真犯人と確定する下りを、ハカセの名推理が見事と評するブログもありましたが、ぼくにはここも唐突に感じられました)。
 弘子が幸子や絵美を陥れた理由が面白半分というもので、今一共感が得られないものであったからかも知れません。もっとも、「弘子はモテる女子を妬んでいたのだ」といった深読みも不可能ではありませんが、それと暗示する描写もありませんし。
 ちなみにこの絵美、弘子、そして寿美子は共に「栄光塾」というスパルタ塾に通っている(た)ということが途中で明らかになります。そこは成績の優劣によって生徒間にあからさまなヒエラルキーを設定し、生徒たちもぎすぎすして悪質な嫌がらせ行為が横行する悪夢のような塾として描かれます。寿美子、そして弘子の病理もその塾のせいとされ、「痛烈な教育批判」とするブログもありましたが、この塾は直接に描写されることもなく、正直「取り敢えず悪者が悪者になった理由づけとして、塾を出した」以上の印象を抱けませんでした。
 最後は、女子がちょっと怖くなったハチベエがバースディパーティに女子を招待するのを止め(招待すれば来てくれるんかい、と尋ねたいところですが)いつもの三人で変わらぬ友情を祝うところで終わっています。
 さわやかではあるモノの、意識の高い人が見たら「ホモソーシャルガーーーーーーーーーーー!!!!」と発狂確実でしょうなあ。

「女は「ガラスの天井」、男は「ガラスの地下室」男性の「生きにくさ」は性差別ゆえかもしれない」を読む

2015-01-30 15:32:37 | 男性差別
 ちょっと旧聞に属しますが、今月半ば頃のネットニュースに関わる記事です。


*     *     *


 面白い記事があったので、少し書いておきます。
『日経ビジネス』の「キーパーソンに聞く」で『男性権力の神話』の翻訳者、久米泰介氏のインタビューが掲載されていたのです。

女は「ガラスの天井」、男は「ガラスの地下室」男性の「生きにくさ」は性差別ゆえかもしれない
(http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20150107/275935/?P=1)

 この『男性権力の神話』はぼく的には去年のトップニュースの3位にランキングされるくらいにインパクトがあり、非常に優れた書でした。が、同時に翻訳者の久米氏はあとがきなどでフェミニズム信奉者と言われても仕方のないスタンスを表明しており、あまりいい印象を持っておりませんでした。

男性権力の神話 《男性差別》の可視化と撤廃のための学問
(http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar548298)
男性権力の神話 《男性差別》の可視化と撤廃のための学問(その2)
(http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar553641)

 が、しかし、今回のこの記事に対しては比較的賛成できるところが多いと感じました。
 彼は数々の「男性差別」を例示し、




頼みのフェミニズムも男性側のことには興味がないんです。


 と指摘します。
 彼がフェミニズムの限界を提示しているのは、極めて重要です。
 が、更に言うならばこれ自体は当たり前の話ではないでしょうか。
 上野千鶴子師匠は80年代初期、「メンズリブ」の萌芽があった頃に「フェミニズムは女性を解放するための思想だ、男はフェミニズムに首を突っ込むヒマがあったら、自分自身の解放をしろ」といった主旨のことを言っておりました。
 この言葉は、全くの正論で、完全に賛成できます。
 問題は、この種の「男性差別クラスタ」が、フェミニズムと男性解放が対立的なものであるという当たり前の認識から全力で目を逸らし、「両立するのだ」「手と手を取りあうべきだ」と絶叫し続けて来たことでしょう。
 彼はまた、以下のようにも言います。




今はちょうど転換期のような時期で、そのツケが男性に来ているのかもしれません。女性はどんどん社会進出させるけど、じゃあ彼女たちは収入の低い男性のパートナーになってくれるかというとまだそこまでは意識が変わっていない。そういうタイムラグのはざまにある男性は、世の中は女性の支援ばかりで、自分たちは社会から疎外されていると感じるかもしれません。


 確かにその通りです。
 ですが、しかし、ぼくと彼らの違いは、彼らが「だからフェミニスト様の教えを受け容れれば、バカな女どもも悔い改めるはずだ」と考えている点です。
 ――すみません、ご当人が見ていらっしゃらないだろうと高を括り、好き勝手なことを書きました。
 上の久米氏の発言は、全くの正論です。
 100%同意できます。
 そして、ぼくは「だから女性の社会進出を無理からに推進することは間違いだったんだな」と考える。
 彼らは、「だから女性が意識を変えるべきだ」と考える。
 しかし、「では、どうすれば、女性の意識を変えられるのか」が見えてこない。
 いえ、彼ら的には「ジェンダーフリーによってそれが可能だ」となるのでしょうが、繰り返し指摘してきた通り、それは非現実的な妄想という他はない。
 報道ステーションで何か文化人が「即刻脱原発! 代替エネルギーについてはわかんないけど、根性でそれを開発せよ!」と言っていたことがありましたが、それと全く同じ、理念としては立派でも、地に足の着いていない妄念という他はない。
 そして、以下はぼくの想像なのですが。
 彼らの上のような矛盾した言説は、彼らが「フェミニストこそが、最終解脱した理想の女性である」と認識していると仮定したら、意味が通るのではないでしょうか。
 久米氏自身がそうだというわけでは全くないのですが、フェミニストに親和的な男性たちを見ていると、フェミニストへの病的な信仰心は言うに及ばず、何となく一般的な女性への深い憎悪と蔑視を感じることがあります。いえ、むろん、彼らがそう明言するわけではないので、これはあくまで「何とはなしにそう感じる」といったレベルのことでしかないのですが。
 つまり彼らの理想の完成形としてフェミニストを完璧なものとして見ているのであれば、彼らの空論も具体性を帯びてくるのです。
 むろん、そのフェミニストへの認識自体もまた、実際には妄想と言うしかありません。
 主夫を養っているフェミニストなど、ぼくたちは一人も知らないのですから。
 フェミニストたちが「女の武器」を連発し、強者男性に与し、弱者男性に酸鼻を極めるバッシングを繰り返してきた存在であることを、ぼくたちはみなよく知っているのですから。
 久米氏は




男性側が、ジェンダーは決して女性だけの問題じゃないと理解して、どうしたら男性にとっても平等な社会になっていくのか考え、男性も息苦しいと思ったらそれを言っていいんだよということを認識していく必要がありますね。


 と繰り返しますが、むしろ男性が男性としての性役割を降りることを誰よりも疎み、阻み続けて来たのはフェミニストでしょう。
 彼はまた、





性役割からくる常識が社会にまだまだ根強いことがその背景にあります。

日本は女性の社会進出がアメリカと比較して20年ぐらいの後追いです。すべて20年分遅れて同じように進んでいると思います。


 と言いますが、ぼくもそれに賛成します。
 ワレン・ファレルは二十年前に現在に通じる著作を著しましたが、彼の認識は残念ですが、二十年前から全く一歩も進んでいないものであると、言わざるを得ません。
 目下、本記事は『日経ビジネス』のランキング2位にランクインしています。
 それは恐らく、男性問題について思い悩んでいる人が大変に多いからではないかと、ぼくは考えます。
 しかし……大変に哀しいことに、そうした男性たちの訴えは、片端から、水際作戦でフェミニズムに叩きつぶされ続け、そうした状況が二十年間続いている、と言えるのです。

お知らせ

2015-01-29 14:41:43 | 男性差別
 今回もまた、お知らせです。
 ネットマガジン『ASREAD』様で岡田斗司夫氏関連の記事を書かせていただきました。
あるオタク評論家の女性問題 ― ジェンダー規範の罠 ―」です。
 正直、岡田さんは擁護しにくいのですが、何と言うか彼が徹頭徹尾「ジェンダー規範」に縛られた存在であることが、本件では切なく感じられました。
 他にも硬軟取り混ぜて興味深い記事がいろいろと書かれておりますので、ご一読いただければ幸いです。

お知らせ

2015-01-26 23:03:06 | 男性差別
 今回もまた、お知らせです。
 ネットマガジン『ASREAD』様での連載、第三弾。
ドクター非モテの非モテ教室(その三)」が掲載されました。テーマは伊集院光とホモソーシャル!!
 
 
 フェミニズム批判であると同時に、今絶対必要とされているが、誰も言い出さない「男性論」足り得ていると自負するものであります。
 他にも硬軟取り混ぜて興味深い記事がいろいろと書かれておりますので、ご一読いただければ幸いです。

 また、記事中にある伊集院のトークは「毒舌な妹botの伊集院光教室」で実際に聞くことができますので、そちらも是非、ご覧ください。

『毎日変態よい子新聞』、もとい『毎日小学生新聞』が小学生相手に「ま○こまん○」と連呼した件

2014-12-12 19:26:49 | 男性差別


 先月(10月)の18日、以下のような記事が載りました。


わいせつか表現の自由か
ろくでなし子さん釈放トーク


 もう旧聞に属しますが、3Dプリンタで自らの女性器のデータを配布して逮捕された御仁ですね。

 ――ん? いいよ、ろくでなし子についてはもう飽きた。

 まあ、ぼくもそれには賛成なのですが、問題は掲載紙です。
『毎日変態新聞』……えぇと、『毎日変態よい子新聞』……。
 ではなく……はいはい、やっとわかりました。
 掲載紙は『毎日小学生新聞』でした。
 以下、記事を抜き出してみましょう。


(前略)アーティストのろくでなし子さんが今月4日、現代美術ギャラリーの「新宿眼科画廊」(東京都新宿区)で「祝・釈放トーク〈ワイセツって何ですか?〉」を開催した。オリジナルキヤラクター「まんこちゃん」の特大着ぐるみと一緒に女性警察官のコスプレで登場し、(中略)ユーモラスに語り、笑いを誘った。

 ろくでなし子さんは、性器をかたどってアートにする「デコまん」で知られる。女性器を意味するまんこという言葉が、伏せ字にされたり隠されたりするのはおかしいと疑問を抱いたことが活動の原動カだ。


 以上、記事自体はどこぞのアーティストの前衛芸術同様、毒にも薬にもならないものですが、しかし読者対象を小学生にした新聞でこれは、どうなのでしょう。
 厳密に言うと本記事が掲載されたのは「15歳のニュース」と呼ばれる、毎週土曜に発行される特別版(?)のようなものらしいのですが、にしても『小学生新聞』を取っている者には配達されるのでは? 或いは土曜版はそれだけで独立して契約してるのでしょうか? いや、そもそも15歳にこれを読ませるのもどうなんだって話ですが。
 しかしこれが大した問題になってないってことは、今時の父兄はこういうの、どうでもいい、と思ってるんですかね。

 ぼくはここしばらく、オタク界のトップの流布するラディカル/リベラルフェミニストについての言説のウソについて、あちこちで書いてきました。
 彼ら彼女らは「リベラルフェミニスト」を「ポルノに寛容なフェミニスト」とでも言った意味で使っており、その定義は間違いだ、と指摘し続けてきました。
 そして更に、自らをリベフェミであるとミスリードしたがるフェミニストたちも、実は本当に「ポルノに寛容なフェミニスト」かとなるとそれは違う、オタクフェミニストのトップと言ってよかろう藤本由香里師匠もドウォーキンの主張を肯定的に引用している、といった指摘も、繰り返してきたかと思います*1。
 しかし。
 では、彼女らはオタクたちを騙しているペテン師かとなると、それは恐らく、そうではない。彼女らは自身を「ポルノに寛容なフェミニスト」であると、恐らくホンキで信じ込んでいるはずです。
 ただし、では彼女らがぼくたちの思う「ポルノ」を守ってくれるかとなると、それは疑問なのです。

 ――おいおい、一体どういうことだ?

 はいはい、以下、順を追って説明して参ります。
 ろくでなし師匠は、今見たように小学生に対して「ま○こまん○」と繰り返して恥じない人です。いや、この記事自体は師匠が書いたわけではないですが、当然、掲載にOKを出しているはずですから。
 また、彼女と(過度に同一視するのもよくないとは言え)非常に親しく、スタンスも近しいと思われる北原みのり師匠を見ても、それはわかるでしょう。
 このみのり師匠もまたろくでなし師匠同様、「エロキャラ」的なキャラづけをしている御仁ですが、同時に彼女自身、今回の『毎日変態よい子新聞』に非常に近しいことを行っておりました。
 彼女自身のインターネットラジオ「婆星」における自己申告でしか知らないのですが、彼女は数年前、「過激な性教育」が問題になった時、


(私も)小学校で講演したことありますからね。
「南青山四丁目に住んでいる某という女が、小学校でコンドームとか、チンコとかマンコとか言っていた!」という風に(新聞に)書かれるのも時間の問題なのかしら?


 と自らおっしゃっていたのです*2。
 まあ、揃いも揃って何と申しますか、「アレ」な人々ですね。
 さて、当ブログをずっと見てきてくださった方は、我らが藤本由香里師匠、そして上野千鶴子師匠もこれに近しいことをしたのを、思い出すのではないでしょうか。
 そう、堺市の図書館でBL本の廃棄に反対した件ですね*3。
 ここで、彼女らはBL本を小学生が借りられるような状況にせよと主張しました。
 これではフェミニストたちが男児への性的虐待をスルーしてしまうのも、無理はありません。

 ――おい兵頭、結局彼女らは(言動の是非は置くとして)エロには寛容であり、その意味ではオタクの味方とは言えるんじゃないのか?

 いえ、それは疑問です。
 ろくでなし師匠は一連の事件の直前、


(´-`).。oO(性器のアートはじぶんの身体性をとりもどしたくてやっている。とことんじぶんのため。欲望の対象として性を表現してる人に「僕も女性器をモチーフにしてるので仲間」と言われても、全く話がちがうんだよなぁ
(https://twitter.com/6d745/status/483375281122455552)


 といった発言もしています。
 そもそも一連の事件がオタク界隈で失笑を持って迎えられたのは、つい最近もみのり師匠がオタク系のエロ表現を批判していたからです*4。
 しかしそこへ持ってきてろくでなし師匠が逮捕されたとあっては、ブーメランという他ない。それが一般的なオタクの反応だったと思います。

 ――おい、結局、フェミニストたちはエロが好きなのか嫌いなのかどっちだ? まさか二次元の非実在の美少女への性的虐待はまかりならんが、三次元の実在の子供への性的虐待はOK、というスタンスではあるまい?

 フェミニストたちの行動は矛盾だらけで、(オタクも含め)一般的な人々は混乱してしまいますよね。
 彼女らの本心を一言で説明すると、「自分たちのようなジェンダーフリーや男女平等の観念を理解している者の性表現はOK/ミソジナスな悪者たちの性表現はNG」という辺りが、正直なところではないかと思います。
 一応、左派であるフェミニストたちは、理念としては「法による規制は好ましくない」と考えていると思います。また、藤本師匠などは(これはあくまで善意に基づいた想像ですが)恐らく男性向けの性表現と言えど、守るべきと考えていると思います。
 が、同時にそうしたポルノを作る男性の性意識そのものを変えてしまいたい、というのが彼女らの本心のはずです。
 ――つまり、フェミもエロは好きだが、その「好み」はぼくたち男性とは違う、としか言いようがないわけです。
 ぼくの主張に反対するリベラル様が上の図書館のBL本の件を持ち出し、藤本師匠はオタクの味方だ、と強弁していましたが、この時にフェミニストたちが持ち出したロジックは「図書館の振る舞いはホモ差別だ」というものでした。ろくでなし師匠を擁護する『毎日変態よい子新聞』の記事同様、ポルノ全般を守るのには使えないレトリックなのですね。


*1 『快楽電流』(http://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/e/d651c19304ede601658c165183f4fab2)
 ちなみにこの問題については、その藤本師匠とも少々やり取りしたのですが、残念ながら残念な結果に終わってしまいました。詳しくは前回記事(http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar636635)をご覧ください。
*2 ご当人のサイトにまだ残っているかどうか不明ですが、「みのりっちの華麗な世界(http://www.nicovideo.jp/watch/sm15751861)」の2分50秒辺りから聞くことができます。
*3『今さら堺市立図書館BL本問題』(http://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/e/85d3a25b43042c67bb2c6af106d99632)
*4 ロリコン大国日本の現実 業者も「思考停止しないと…」(http://dot.asahi.com/aera/2014062300056.html)


 ろくでなし師匠に立ち返りましょう。
 上の記事の引用でもわかるように、そもそも彼女の目的は「女性器が手足と同等の意味づけしか持たない世界を作ること」です。それは言わばポルノの解体――否、女性器に欲望を喚起されられるという、ぼくたちのセクシュアリティの根源的な解体への志向です。
 乙武洋匡さんは『五体不満足』で自らの学園生活を振り返り、「慣れ」が大事だと述べています。当初はぎこちなかったクラスメートたちと、乙武さんは次第に打ち解けていき、「対等なガチのケンカ」までするようになった、というのです。
 つまり、乙武さんは自らのような性格の悪い障害者が社会進出することで、社会の「障害者=聖者論」に穴を開けようとしているのです。
 同様にろくでなし師匠の戦略は自ら「ま○こアート」を晒すことで女性器や女性への嫌悪感を催させようというモノであると言えましょう。
 しかし、乙武さんの主張は大変に素晴らしいと思いますが、果たしてろくでなし師匠のそれは、素晴らしいことでしょうか。
 まず、問題は彼女らがどれだけ「女性器への欲情を止めよ」とすり込もうとしても、それがそう簡単に受け容れられるとは思えないこと。
 そしてまた、セクシュアリティの根源的な解体というのが具体的にはどういったことなのか、あまりに壮大すぎて、あまりに空論すぎて想像もつかないのですが、それを果たし終えた後の世界が、そんなに素晴らしいものだとは思えないこと。
 そもそもそうなった後の世界では、二次元美少女に「萌え」るぼくたちの心性自身が「解体」されていないとは考えにくく、その意味でやはり彼女らがオタクの味方だとは考えにくいこと。
 こうして見てくると、やはり師匠のやろうとしていることは机上論であると共に、あまり素晴らしい未来図を描けるものとは思えません。


 更に――ずっと当ブログをお読みの方はもうおわかりでしょうが、これは「ジェンダーフリー」と全く同じ構造を持っています。
 フェミニストたちはゼロ年代、行政に入り込み、強引なジェンダーフリー教育を推進してきました(それで主夫が増えたという話は寡聞にして聞きませんが)。また、同様に推進された「過激な性教育」があまりに非道いということで保守派の逆鱗に触れ、それが一時期のフェミニズム批判へとつながったことは記憶に新しいかと思います。
 まず、人間のジェンダー、セクシュアリティが根源的に間違っているので、それを完全にリセットしなければならない、というのがフェミニズムの世界観です。
 ならば、それを正すにはまだ脳への書き込みが十全でない子供に、「正しい価値観」を植えつけてやるのが早道です。彼女らを放置すれば、幼い子供を相手に人体実験を始めるのは必然だったのです*5。
 茶化してしまえば彼女らは初物狙いの「処女厨」であり、そもそもペドファイルと親和性のある存在であった、と言う他ありません。
 ――つまり、フェミもエロは好きだが、その「好み」はぼくたち男性とは違う、そしてその「好み」はぼくたちよりも反社会的なモノなのではないか……としか言いようがないわけです。
 藤本師匠もまたセクシュアリティの、家庭の解体を強く指向していることは、以前ぼくが語った通りです*6。
 つまり、オタクの怨敵であるみのり師匠と、オタクの味方であるはずの藤本師匠。
 この両者には、全く差違がないように、ぼくには思われるのです。
 両者のスタンスに違いはほとんどありません。
 それをぼくたちはまず、認めましょう。

*5『宇宙刑事シャイダー』に出て来る悪の組織「フーマ」は宗教的手段でもって地球人が自分たちを崇め、自分たちの価値観を受け容れさせるように仕向けることで地球を侵略しようとしますが、何だかそれを連想させます。
*6『私の居場所はどこにあるの?』(http://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/m/201204)


 さて――そして以下も、毎度おなじみの指摘なので、もうおわかりの方も多いかと思いますが――そうした「セクシュアリティの解体」を、それでは本当にフェミニストたちが望んでいるのか、となるとそれは大いに疑問です。
 それは多くの腐女子たちが美少女キャラにも「萌え」ることが普通であることを、藤本師匠が『セラムン』に「萌え」ていたことを思い出した時、容易に理解できるはずです。
 上にも書いたように、ろくでなし師匠に、みのり師匠に「エロキャラ」として取材を受ける、男性インタビュアーにちやほやされることに対する快感がないかとなると、それは疑わしいでしょう。『デコまん』*7でご紹介したように、取材を受けて「私はアイドル!」と喜ぶろくでなし師匠の無邪気な姿は、あまりにも無防備です(上野師匠辺りの世代はかなりツンデレだったのが、彼女らはかなりデレている、チョロイン化しているように思います。これ自体は皮肉でも何でもなくいいことだと思うのですが)。
 ここまで世の中をシッチャカメッチャカに引っ掻き回しておきながら、フェミニストたちが自らの主張するロジックを信じているかとなると、ぼくは恐らくそうではないと思うのです。
 ――つまり、先ほどから言ってきたことを訂正するならば、フェミもエロは好きであり、その「好み」はぼくたち男性と同じである。しかし「ツンデレ」でその本心を否認するために「レトリック」で誤魔化している、そしてその「レトリック」はいつしかぼくたちよりも反社会的なモノになっていった……というのが正しいところであるように思えるわけです。
 ただし、彼女らの中にそうした自覚は一切なく、自分の口先から出て来る言葉を、本人たちも信じ切っているように思えるのですが。
 何と言いますか、小保方さんがこれだけ日本中を引っ掻き回し、あと十年もしたらテレビの「あの人は今」で「小料理屋の女将」として紹介されている、みたいな図をつい、想像してしまいます。
 もっとも、女将に納まれるのは彼女ら「強者女性」だけで、彼女らに引っ掻き回されるだけ引っ掻き回された世の多くの男女たちは結婚も敵わず、一生を孤独に過ごすことになるかと、思われるのですが。

*7『デコまん』(http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar595540)