兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

重ねて、ラディカル/リベラルフェミニスト問題について

2014-11-21 19:42:24 | 時評

 ぼくは時々、オタク界隈で流布している「ラディカル/リベラルフェミニズム」の定義は誤りである、と指摘してきました。
 概要は以前の記事、「2012年女災10大ニュース」の「【第2位】ラディフェミ/リベフェミ論のウソがバレる」に書かれています。
 そうした主張をするのは、オタク界のフェミニズムに親和的な層であるように思うのですが、彼らの言動を見ていくと、彼らはラディフェミを「ポルノに文句をつけるフェミ」、リベフェミを「表現の自由を重んじるフェミ」と理解していることがわかります。つまり、「ラディフェミは敵、しかしリベフェミは味方」といった区分けがなされていたわけですね(以下、このようなスタンスに立つ人々を「ラディ/リベフェミ論者」と呼称します)。


 が、両者を調べてみるとそうした区分は誤りであることがわかります。
『岩波女性学事典』の両項目を見てみましょう。


リベラル・フェミニズム


自由主義を援用した最も長い歴史を持つフェミニズム.

彼女たち(引用者註・リベラルフェミニスト)は,意識・教育改革,労働による自立,民事的・政治的権利の獲得,結婚・家庭の変革といった,市民革命期の思想を超える諸問題を提起し,19世紀末には当面の課題を女性の参政権に絞っていった.

この頃(引用者註・20世紀後半)新たに登場したフェミニズム諸派が過去のフェミニズムと異質であることを強調するために,(中略)この名称が使われ,一般化していった.


 ラディカル・フェミニズム


性抑圧をあらゆる形態の抑圧の根源とするフェミニズムの一潮流.1960年代後半アメリカで登場し,ヨーロッパ諸国や日本に急速に波及,第二派フェミニズムの源流とされる.“個人的なことは政治的である”というスローガンに代表されるように,“家族,個人生活など私的領域における“性による差別や抑圧を告発し,それを家父長制と命名,批判した.

 おわかりでしょうか。
 歴史的にはリベフェミが先行し、その後、ラディフェミへと発展していった。
 つまりリベフェミに「リベラルなフェミ」という意味はなく*0、また「ラディフェミ」も別に「ラディカルなフェミ」という意味あいでは、特にないのです。
 そしてまた、ジェンダーフリーなどを推進しようとする現代の(少なくとも日本の)フェミニズムは、「“家族,個人生活など私的領域における“性による差別や抑圧を告発」するラディカルフェミニズムである、と考えざるを得ません。
『新版フェミニズム事典』(明石書店)では



ジェンダーによる男女の差異は,「生まれつき」のものとみなされてしまっているので,通常は意識されることも問題視されることもないけれども,それが私たちの生活のすべてを構築しているということを見抜くことからラディカル・フェミニズムは始まった。


 と更にストレートな記述がなされています。
 またラディカルフェミニストのグループ「ニューヨーク・ラディカル・フェミニスツ」はその宣言「エゴの政治学」において、そもそも女性への抑圧の原因を経済システムに求めない、それを改善することで女性が解放されるとは考えないと主張し、


女性の抑圧は諸制度のなかに明示されており,それらは女たちをその居場所にとどめておくために構築され,維持されている。その制度とは結婚,母性,愛そして性交である(家族単位はこれらによって統合されている)。これらの制度を通じて,女たちはその生物学的性差と全面的な人間としての可能性とを混同するように教えこまれる。



 とまで言っています。
 こうした主張は、今の日本のフェミニストが口を揃えてしているところではないでしょうか。


 一方、リベフェミは「過去のフェミニズム」です。ファースト『ガンダム』の放映当時、「ファーストガンダム」という呼称が使われていたわけがないのと同様、そもそも「リベラルフェミニズム」自体が後年の命名で、「リベフェミ」を自称するフェミというのは基本、いないのですね。ぼくはツイッター上などで度々、「乱暴に言えばもう滅んだフェミだ」と形容してきましたが、改めて調べて見るとその説明が乱暴でも何でもないとわかったわけですw
 ある種、過去のフェミニズムを批判的に見るためにわざわざ作られた造語である以上、目下リベフェミを名乗る人は、現状の(ジェンダー論などを基調とする)フェミニズムに対してかなり批判的な、(復古調の?)フェミニズムを唱えていないと平仄にあわないのではないでしょうか?

*0 ここはちくわさん()に「自由主義を援用したフェミニズムなのにリベラルと関係がないとはどういうことだ」と指摘されました。確かに言葉足らずです。
「古典的な自由主義の派生との意味で、今日的なリベラルと直接のつながりがあるというわけではない」とでも、訂正しておきます。事実、以下の藤本師匠の発言などを見てもわかる通り、オタク界ではラディ/リベフェミをラディ/リベな思想を持つフェミ、とでもいった(間違った)意味あいで使用する人が多いのです。



 では、何故オタク界ではこれら定義とは明らかに異なる風説がまかり通っているのでしょうか。
 ぼくは今までもこうした風説を支持する人々と話してきましたが、彼らはどうもネトウヨのようで(註・皮肉)専らネットでの、殊にウィキペディアでの記述を根拠にしていました。
 では、そのウィキの記述を見てみるとしましょう。


リベラル・フェミニズム



リベラル・フェミニズム(英: liberal feminism)は、男女平等は法的手段や社会改革を通して実現可能であり、集団としての男性と闘う必要はないと主張する、フェミニズムの一形態である。

この伝統につらなるフェミニストとしては、メアリ・ウルストンクラフト(女性の権利の擁護)、ジョン・スチュアート・ミル(女性の隷従)、第二波フェミニストのベティ・フリーダンなどがいる。ナディーン・ストロッセン(英語版)もリベラル・フェミニストである。


ラディカル・フェミニズム



ラディカル・フェミニズムは、1970年に出版されたケイト・ミレットの『性の政治学』と、シュラミス・ファイアーストーン(英語版)の『性の弁証法』を思想的支柱とする。
ミレットは、「家父長制」を男性が女性に性的従属を強いるシステムであると定義し、これが私的領域から公的領域に至るまで影響を及ぼしていると批判。男女の性差は家父長制の産物であるとした。

ラディカル・フェミニズムを端的に象徴するものとしてポルノグラフィ撲滅運動がある


 これら説明の中に、明確に「ウソ」と呼べるものは恐らくないと思います。
 しかしリベフェミの項を見れば一目瞭然ですが、ウルストンクラフトは18世紀の人物、ミルは19世紀の人物の上、(確かに女性解放についての著作はあるのですが、一般的には)フェミとは言い難い人物、フリーダンは1960年代の人物で、後年はフェミニズムに距離を置くようになった人物のようです。
 つまりネット言説で採り上げられる「リベフェミ」が決まってストロッセンであることか象徴するように、現時点で「リベフェミ」と呼べる人は、大変に少ないのです(ストロッセンについてはぼくも不勉強なので、ひとまず保留させてください)。
 一方、ラディフェミの項を見ると(上はさわりを引用しただけですが)、アンチポルノ運動について妙に事細かな記述がなされています。こうした説明では必ず、アンチポルノ派であるアンドレア・ドウォーキンやキャサリン・マッキノンがラディフェミの代表として挙がります。むろん、それはそれで別にウソではないのですが、既に見たようにラディフェミというものは、必ずしも「アンチポルノ派のフェミニズム」を意味しないのです。
 ついでにウィキの「フェミニズム」の項を見ると、



フェミニズムは、近年、リベラル・フェミニズムと、ラディカル・フェミニズムとが対立している。


 とあり、どうにも不自然です。
 これもまた明確な「ウソ」ではなく、どこかでそうした対立はあるのかも知れませんが、リベフェミは今となっては例外的な存在とする他なく、特記するほどに対立が大きいとは、考えにくい。
 つまり、これらの項の編者は先に挙げた「ラディフェミは敵、しかしリベフェミは味方」といったイメージへと、読者をミスリードしているようにしか、ぼくには思えないのです。



 彼らの主張の奇妙なところは、アンチポルノ派「ラディフェミ」を敵とし、ポルノに寛容な「リベフェミ」を味方としながら、実際には後者は存在しないも同然だと言うこと。むしろ、彼らと親和的な(というか、現代の日本の全ての)フェミニストたちはラディフェミだとしか思えない点です。
 以上からはある種の「確信犯」的な意志を、感じずにはおれません。
 善意に解釈するならば、これらは故意に流布されたものではないかも知れません。当初は先に挙げたドウォーキン、マッキノンなどがラディフェミであると知った誰かが短絡し、「ラディフェミは敵!」そしてまた、リベフェミを単純に「リベラルなフェミ」と解釈して、「しかしリベフェミは味方!」だと言い出したことが広がったのかも知れません。
 が、今となってはそれが訂正できないところにまで広がってしまった……という、ジャイアンたちに大見得を切ってしまったのび太君状態にあるのではないでしょうか。
(もっとも本稿を最後までお読みいただいた方は、そうした好意的な解釈は怪しい、とお感じになるかも知れませんが……)



 さて、話が前後しますが今回、この話題を蒸し返したのはtogetter「日本のフェミニズムは「男なんて死んでしまえ」と主張する運動らしい」での議論(?)がきっかけです。
 ぼくが「日本のフェミニストはほぼ全員ラディカルフェミニストだ」と主張したところ、それを認めまいとする人々ともめてしまったわけです。
 きっかけとなった人物は必ずしもこちらに対して攻撃的な態度を取っていなかったため、ぼくは「ではこちらもソースをお教えするのでそちらもソースをお教え願えないか」と申し出ました。ネット上の「ラディ/リベフェミ」論者には、こちらが引用元を提示して説明をしてもそれをスルー、こちらの書き込みを消してしまうといったいささか誠意に欠ける対応ばかりをされてきたから(そしてまた、その人物はそれに比べて冷静に見えたから)です。
 が、彼は幾度質問してものらりくらりと言語を左右にし、ボーヴォワールの『第二の性』を読んだ、などと答えるばかり。「ボーヴォワールの本に日本にリベフェミがいると書かれているのか」と問うと「いやラディフェミの定義の話だ」などと返してきます。
 彼は不誠実な人間には見えず、これは天然の対応なのでしょう。
「アッチの世界」に行った人は往々にして「アッチの世界」の常識と「こちらの世界」の常識との整合性を保つため、脳内に「1+1=2だが、同時に1+1=5でもある」といった二重基準を設けると言いますが、何だかそれを連想させる話です(そもそもボーヴォワールの著作におけるラディフェミの定義を見れば、「ラディ/リベフェミ」論者の主張がおかしいことは、恐らくわかるはずなのですから)。
 そうする間にもtogetter荒らしとして有名なちくわさん()が「相手に下駄を預けるとは卑怯だ、言い返せない証拠だ」などとわめき始め、また別な人物がよりにもよってぼくが以前、ラディ/リベフェミ論者のウソを説明するためにまとめたtogetterを根拠にこちらに反論、という意味のわからない振る舞いをした挙げ句(このわけのわからなさ、何だか加野瀬未友を思わせます)、森師匠とのトラブルを根拠にこちらを詰り出すという異常事態にw
 ぼくは藤本由香里師匠を「リベフェミ」とするのはさすがにウソだ、と主張したのですが、後者の人物は実際に藤本師匠に質問し、答えを引き出してきました(この行動力は敵ながらあっぱれだとは思いました)。
 以下、ちょっと師匠とのやり取りを引用しましょう。



薫@ヤサグレちう@AstarteLilium
@honeyhoney13 突然申し訳ありません。実は、藤本由香里氏はリベラルフェミニストではないと言う人がおりまして。
ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4…
このwikiや著作、言動を見てリベラルフェミニストだと思っていたのですが、わからなければ直接お聞きすればと思いいきなりで失礼かと思いましたがリプさせてもらいました。お時間のある時でかまいませんのでよろしくお願いします。
(https://twitter.com/AstarteLilium/status/517370655164362752)
(https://twitter.com/AstarteLilium/status/517370951294783488)



藤本由香里 『大島弓子にあこがれて』発@honeyhoney13
@AstarteLilium 名付けは自分でするものではないので、何がリベラルフェミニストなのかそう呼ぶ定義はわかりませんが、一般思想としてはリベラルです。ラディカル・フェミニストでないことは確かです。基本プラグマティストなので、そこまで原理的ではないし、原理を最優先はしません。
(https://twitter.com/honeyhoney13/status/517373822157475841)



兵頭新児@hyodoshinji
@honeyhoney13 @AstarteLilium 失礼します、先の@AstarteLilium氏と議論していて「藤本氏はラディカルフェミニストだろう」と主張した者です。
厳格な定義があるわけでない以上、「私は/あなたは○○フェミだ」と断言はしにくいとは言え、「性抑圧をあらゆる形態の抑圧の根源とする」というラディフェミの通念からすると家父長制、ジェンダー概念を重視するフェミニストはラディフェミ、とするのが自然であり、ならば当然藤本氏も、という気がするのですが、いかがでしょうか。(https://twitter.com/hyodoshinji/status/517539844717682690)
(https://twitter.com/hyodoshinji/status/517539906596245504)



藤本由香里 『大島弓子にあこがれて』発@honeyhoney13
@hyodoshinji @AstarteLilium 思い込みは勝手ですが、私はそういう立場を取っておりません。
(https://twitter.com/honeyhoney13/status/517703693383114752)



兵頭新児@hyodoshinji
@honeyhoney13 @AstarteLilium どのような立場をお取りでしょう?
(https://twitter.com/hyodoshinji/status/517733789112360960)



藤本由香里 『大島弓子にあこがれて』発@honeyhoney13
@hyodoshinji @AstarteLilium すでにお答えしました。
(https://twitter.com/honeyhoney13/status/517914518131728385)



兵頭新児 @hyodoshinji
@honeyhoney13 @AstarteLilium ぼくがその「お答え」に質問した、というのが順序なので、それにも「お答え」いただきたいのですが。「思い込み」とおっしゃいますが、ぼくもフェミニズム事典の類で調べて申し上げたので、そんなにヘンなことは言ってないと思うのですが。
(https://twitter.com/hyodoshinji/status/517924416986947584)



 現時点(註・2014年10月3日当時)では、藤本師匠からの返信は途絶えております。
 質問者は当人の言質を取ったぞと勝ち誇っていらっしゃいますが、以上をお読みになったみなさんは、いかが思われたでしょうか?
「名付けは自分でするものではない」のだが、自分は「ラディカル・フェミニストでない」。
 う~ん……。
 また、師匠の発言を見ると自分は「一般思想としてはリベラル」だ、「原理的ではない」とおっしゃるなど、「ラディ/リベフェミ」を単なる「ラディ/リベな思想」と読み替えていらっしゃるような……。



 結論めいたことを書いておくならば、ウィキの文章も明確なウソと呼べる部分は少ないと思います。藤本師匠の項を見ると彼女を「リベフェミ」としており、これもどうかと思うのですが、「絶対的な定義はない」という意味においては、ウソではないと言えるかも知れません。
 が、問題は先に書く通りこれら記述(やネット上の論者の発言)が「フェミニストたちはアンチポルノ派ではない」との風説の流布という一定の目的を持っているようしか、見えないことです。
 オタク界のトップはフェミニストたちとやたらと仲がよく、上野千鶴子師匠などを度々持ち上げる。しかし師匠もまた、ポルノを全否定する発言をあちこちで続けている*1。また、オタク界を代表する藤本由香里師匠もドゥオーキンを肯定的に引用している*2――既にブログでも何十回と書いているかと思います。



*1「夏休み千田有紀祭り(第二幕:ゲンロンデンパ さよなら絶望学問)」
「女ぎらい――ニッポンのミソジニー」を参照。
 彼女が一貫して売買春全否定派であることがわかります。
*2「快楽電流」



 恐らく藤本師匠も、漫画表現を守ろうという気持ちそれ自体にウソはないと思います。
 が、ポルノを女性差別的であるとするフェミニズムの思想と「表現の自由云々」といった価値観とを止揚するロジックが生み出せているかとなると、それはいささか疑問です。
 ぼくは「運動」といったことにさしたる興味はなく、現場の人々の苦労は存じ上げません。フェミニストとの「呉越同舟」が必要な場というのもあるかも知れません。
 しかし、それでも、やはり、どう考えても、事実をミスリードさせてまでフェミニズムを持ち上げることに意味があるとは、ぼくにはどうにも思われません。
 時々書くことですがツイッターは馬鹿発見器と呼ばれております。
 これで馬脚を現した文化人も数多いですが――フェミニストもやはり、(今回のきっかけになったtogetterの本題があまりにも雄弁に物語るように)ツイッターにおいてあまりにも過剰な男性憎悪,ルサンチマンの念が疑問視される傾向にあります。
 怪しげな根拠を振りかざし「フェミニストは味方だ、味方だ」というだけでは、支持者を失うばかりなのではないでしょうか?


■補遺■


 あの後、藤本師匠とまた少し会話が続いたので、以下に引用します。


藤本由香里 『大島弓子にあこがれて』発@honeyhoney13
@hyodoshinji @AstarteLilium いえ、すでにお答えしました。
(https://twitter.com/honeyhoney13/status/518062797712674816)



兵頭新児@hyodoshinji
@honeyhoney13 @AstarteLilium 聞いてないと思います。拝見して思ったのですが、、「ラディ/リベフェミか?」という質問に対してお答えは「ラディ/リベな思想」というものになっている気がします。
オタク界では「ポルノ規制派」くらいの意味で「ラディフェミ」が理解されており、ここは正しておいた方がラディフェミを自認する方々(いらっしゃるのかどうか存じ上げませんが)にとってもいいのではと思うのですが、いかがでしょうか。
(https://twitter.com/hyodoshinji/status/518064165294862336)
(https://twitter.com/hyodoshinji/status/518064371516604416)



藤本由香里 『大島弓子にあこがれて』発@honeyhoney13
@hyodoshinji @AstarteLilium 私はラディカルフェミニストを自認していないとはっきり言っていますし、ポルノ規制はでもありません。そこに複雑な誤解をしているとすれば、それはあなたの個人的な問題です。
(https://twitter.com/honeyhoney13/status/518067102414950400)



兵頭新児@hyodoshinji
@honeyhoney13 @AstarteLilium どうか、ぼくのツイートをもう一度よく読んではいただけませんか? ぼくは「藤本由香里はポルノ規制派だ!」と言っているのではなく、オタク界隈で「ラディフェミはポルノ規制派である」との風説が流布されている、と言っているのです。
(https://twitter.com/hyodoshinji/status/518070220393828352)



藤本由香里 『大島弓子にあこがれて』発@honeyhoney13
@hyodoshinji @AstarteLilium だから何? 私に「あなたが考える」ラディカル・フェミニストの代弁をしろと? あなたの頭の中にある概念の代弁はできません。私は自分がラディカル・フェミニストであるとは思っていません、とはっきり言っています。これ以上返事しません
(https://twitter.com/honeyhoney13/status/518072633741418496)



兵頭新児@hyodoshinji
@honeyhoney13 @AstarteLilium そんなこと、誰も言ってませんがな。オタク界の風説を基準にすると、あなたはリベフェミ、しかし「フェミニズム事典」の類の定義からするとあなたはラディフェミだ、そう申し上げているだけです。
(https://twitter.com/hyodoshinji/status/518074042272993280)


 いかが思われたでしょうか。
 こちらが上野千鶴子師匠なども執筆している『岩波女性学事典』から引用しているのに、「あなたの頭の中にある概念」、「思い込みは勝手ですが」だからなあ……またヒステリックに対話を拒絶する態度は、やはりそうした細かいことを考えない層にも、「何か、怪しい」と思われてしまうのではないでしょうか。

橋下徹氏が従軍慰安婦を容認したとされる問題について

2013-06-01 19:28:21 | 時評

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 ――何だかいきなり、世論が橋下さん不利になってるみたいですな。
 しかしこんなにも橋下さんばっかりが怒られているところを見ると、米兵による性犯罪って実は問題になるほど多くはないのでしょうか? 教えて、フェミの人。
 確かに彼の発言はTPOを考えてどうかとも思うし、キリスト教の国であるアメリカは、売買春に厳しいわけで、配慮に欠けていたでしょう。
 本件について最初に知った時、ぼくは


やたらと騒いでるから何かと思えば……これ、「腹が減ったらコンビニでパンを買え」って言ってるのとどう違うんだ? 騒いでるフェミニストは売買春否定派なのか?
https://twitter.com/hyodoshinji/status/333934638663884800


 とツイートしました。
 が、「売春」を「通常の職業と全く同じ」と言い切るリベラル的なスタンスにも違和を感じるし、「パンを買うのと同じ」はいささか言い過ぎだったかな、とも思っております。
 が、反橋下派が正しいのかと言えば、そうとも思えない。
 本件でぼくが気になったのは二点です。


 1.「性風俗従事者を性欲発散の道具扱いした」といった主旨の発言
 2.彼ら彼女らが従軍慰安婦問題を語れば語るほど、戦争で殺される男への視点が欠落を感じずにはおれないこと


 1.については、お話にもなりません。
 確かに「従軍慰安婦」の話題に続いて米兵に「風俗業を利用しろ」と提案した橋下さんも橋下さんですが、言うまでもなく両者は全く別の話です。しかしフェミニストと思われる人々のツイートを眺めていくと、彼女らの中ではその両者が完全に混濁してしまっているようです。
 また、彼女らの思想が「売買春は本質的に悪、全て禁止にすべき」というものであればそれはそれで理解はできます。が、彼女らの多くは普段はリベラルを自称しているのではないでしょうか。
 例えば北原みのり師匠は本件に関し、


男の性欲の処理は女がするもの・・・ということですか。
辞めさせなくちゃいかんと思う、こんな政治家。
https://twitter.com/minorikitahara/status/333913329665982465


だからさ、なんで男の性欲を女が引き受けなくちゃいけないんだよ。
テンガ使えよ。
https://twitter.com/minorikitahara/status/333913932060307457

 

とツイートしていますが、ご本人は美少年娼婦を買った経験をお持ちで、また『アンアン』の黒木香を迎えての座談会を手放しで賞賛もなさっています。どうにも、売買春を否定なさっているようには思えません。
 想像ですが、北原みのり師匠の本音は「
女が性を売るのはおk、男が買うのはNG」というものではないでしょうか。
 女性が男性に求めるのは、「男性に自分の性的価値を求められること」です。
 だから普通の売春婦は金を得ることで自分に性的魅力があることを確認します。しかしツンデレちゃんのフェミニストたちは「性を売って、金を得て、そしてしかる後に相手の男を『女性差別!』と叫んで100tハンマーでぶん殴る」というところまで行ってワンセットなのです。これが性犯罪冤罪と全く同じ構造を持っているということは、多分、以前にも指摘したことがあったかと思います。
 いずれにせよ本来、こうした言説は女性の「自己決定権」を尊重するはずのリベラルとは相容れないはずです。では、彼ら(男性側)はどのようなスタンスでいるのでしょう。


北田暁大(反省中)?@a_kitada5月13日
まったく根拠ないけど、なんか「痴漢冤罪許せない。男を性欲の塊みたいに言うな」みたいなこと言ってるひとが、「性欲は男のリアルだぜ。処理ヨロシク」な橋下発言を支持してるような気がするが気のせいですね、そうですね。前者貫徹させるならふつうに橋下発言嫌悪せざるをえないからね。
(
https://twitter.com/a_kitada/status/333958176183574529)


荻上チキ?@torakare5月13日
「今の日本の現状からすれば、貧困からそこで働かざるを得ないと言う女性はほぼ皆無。皆自由意思」「女性も自ら考えて職に就いている。嫌なら他の仕事に就けばいい」と橋下市長。根拠レス。生活苦・借金・DVで風俗や売春を始めた人、疾患で他の仕事に就けなかったという人に取材で頻繁に会うよ。

https://twitter.com/torakare/status/334210071066193920


森岡正博?@Sukuitohananika5月14日
風俗業選ぶのが自由意志と言える前提のひとつとして、風俗業への社会的侮蔑がなくなっていることが必要。それは、若い男女が「風俗業に就職決まりました」と報告してそれは良かったと祝福され、親からもこれで一安心だと笑顔で迎えられる社会でなくてはならないということ。
https://twitter.com/Sukuitohananika/status/334609055236648960

 


北田師匠の迷妄は論外のそのさらに下としか言いようがありませんが*、基本的に彼らは「風俗嬢は貧困層である」との「設定」で何とか自らの中の辻褄をあわせようとしていることがわかります。
 こうした発言には、既にツイッター上でも「じゃあ、マクドでメシを食うヤツも貧困労働者を搾取するワルモノじゃん」といった反論がなされています。
 森岡師匠の発言にせよ、それを言ったらエロゲのシナリオライターもラノベ作家も「報告してそれは良かったと祝福され、親からもこれで一安心だと笑顔で迎えられる」ような職業では全くないのですが、その職種に就いているものはほぼ100%自由意志で選択したとしか思えない、という辺り、気持ちはわかるけれどやはり論外と言わざるを得ない。
 結局、彼らは「女性」というご神体の持つ聖性、弱者性におんぶにだっこで、実現すべき人権の水準を高く設定しすぎなのですな。だからこそ、(フェミの味方のみならず、この種のリベラルは)世間の感覚との乖離を引き起こしながらそれに気づくことができず、「我々は弱者に寄り添っているのだ」という自意識を持ち続けるわけです。
 むろん、チキ師匠の引用した橋下さんの言葉は、あまりにも浮世離れしすぎでしょう。しかしならばバブル期には風俗嬢の数が激減していたわけなのでしょうか。当時のセックスワーカーを取材した与那原恵氏は『物語の海、揺れる島』の中で、彼女らはそうした職種に就いていることについて、「カネのため」とのタテマエを守り続けてはいるものの、そうとは見えない者ばかりであるとのレポートをしています。
 逆に不景気な今では貧困層が「風俗堕ち」という事態は大変に増えていることが想像できるものの、さらに言えば昨今ではセックスワーカーたちの「自己決定」の傍証として、彼女らによるブログなどが思いつきます。むろんそうしたものも一種の営業であり、100%本音が綴られているはずもありませんが、全てが虚偽であるというのも、やはり考えにくい。ネットの発達による「表現・発信の自由」の実現はリベラルにとってさぞかし
呪わしいものかと心中、お察しします。


*女性の味方であらせられる師匠はきっと、「女性によって無実の罪に陥れられても、笑って社会的死を受け容れよ、そうできない男などネトウヨ以上の悪だ」とお考えなのでしょう。こういう人は戦時下では「軍人なら戦場で死んでみろ!!」とか絶叫しそうです。格好がいいですね。


 2.についてはどうでしょう。
 結局、いかに従軍慰安婦が非道い目に遭っていたとしても(「強制はあった」派の主張を全面的に受け容れたとしても)、戦争で死ぬ男性よりマシ、ということは原理的に言えてしまいます。
 むろん戦争で生きのびたどころか、甘い汁を吸った男性もいるでしょうし、労働環境の劣悪さから死んだ女性もいるでしょう。しかし、全体の問題として男性の方が女性より苛烈な扱いを受けたと言うことは、認めざるを得ません。
 が、こういうとフェミニストは大慌てで「戦争は男たちが始めた」と言い出すのですな(そこを指摘すると、意味不明なロジックで「そんなことは言ってない」と否定し出すのも、お約束です。小山エミ師匠しかり、フェミニストが自分の発言に責任を持つことは、決してありません)。慰安婦という被害者を「設定」した以上、どうしてもワルモノは男性でなければならない。ましてやことの発端となる発言をしたのは男性であり、政党の党首というわかりやすい権力者。事態は「権力者である男VS被害者である女」という図式に、あっさりと回収されてしまいます。
 さてこの図式、ついさっきも見たのではないでしょうか。
 そう、この図式――つまり「男をワルモノにして、男が死のうと平然とその死体を喰らいつつ被害者ぶる女」という図式は、実は1.と2.に共通のものです。
 1.は「過去にいたとされる従軍慰安婦」と「現代のセックスワーカー」を混同することによる、「女性の自己決定権」の否定、つまり「男が悪いとすること」です。
 2.は「過去での人権侵害の中の、女性に対するそれ」だけを恣意的にすくい上げる行為、つまり「女だけが慮られるべき」との価値観の表明、つまり「男は死んでもいいとすること」です。
 ビョードーの見地からは、「過去、女性以上に男性は非道い目に遭った」「同様に、現代でも男性は女性以上に非道い目に遭っている、過労死で死ぬのは圧倒的に男性が多い」といったことが語られてしかるべきなのですが、そうした発言は全く聞かれない。
 こうして見ると北田師匠の発言、ご本人は何も考えずにただ男性への嫌悪を垂れ流しただけだと思いますが、この発言が重大な意味を持ってきます。
 師匠の発言は、「師匠の脳内にいる橋下さんがした発言」と対になっているのです。


北田内橋下「女をやることは男の本能じゃ! 女はおとなしゅう、男の性処理の道具となれ!!」
北田「男を性犯罪に陥れることは女の本能じゃ! 男はおとなしゅう、女の性処理の道具となれ!!」


 おわかりでしょうか。
 橋下さんの発言が全面的に正しいとは言わないけれど、少なくとも彼は北田師匠が妄想するような、上のような発言を、残念なことにしてはいない。
 しかし、そのようなことを言った気がしたので、言われた気がしたので、取り敢えず言ったことにしてしまう。
 それは、肩と肩が触れあっただけだけど、相手の男性がムカつくので尻を触られた気がした、触られた気がしたので、取り敢えず触られたことにしてしまうように。
 一方、北田師匠はそうした相手に着せた濡れ衣をまるきり裏返したような、非人道的な発言をして憚らない。
 例えばですが、男性が自らの欲望を全面肯定して、平然とレイプしまくりの社会が現出したら、女性の生命が蔑ろにされることが想像できます。
 しかし現代社会はそれをまるきり裏返した状況にあると言えるのです。
 フェミニスト――ではなく悲しいかな、「女性」という種全体には、「男性の生命の等閑視」という性癖があります。だから彼女らは男性の生命をどれだけ蔑ろにしても、それに気づくことができないでいるのです。
 そう、「戦争」とはこうした女性たちの性的欲求不満が爆発して、人類が滅亡するのを防ぐために人類の英知が生み出した、窮余の策でした。敗戦までは日本の女性も戦争を大いに喜んでいたことが知られていますが、そんなの、当たり前のことです。そう、「戦争」で男性が死ぬことによって、女性たちは精神的にも経済的にも豊かになれるのですから。しかし冷戦の終結後、なかなか戦争というものがやりにくくなってしまいました。
 そこでフェミニストたちは、リベラル男性を操り、弱者男性を殺戮させることを思いついたのでしょう。
 そう、北田師匠たちリベラル男性が弱者男性をいじめ続けるあの振る舞いは、学術的には「鬼畜BL」と呼ばれる、フェミニストたちのためのポルノグラフィ、だったのです。

 

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『東京新聞』5月9日朝刊「少子化対策で検討女性手帳」

2013-05-10 19:50:31 | 時評

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 目下、ツイッター界隈でも騒がれている「女性手帳」の批判記事です。
 が、呆れたことに記事のどこを読んでも、女性手帳の具体的な内容は
全く書かれておりません
 リード文に書かれているのは、


 若い女性に高齢出産の危険性などを認識させることで少子化への歯止めを狙っているが、国が女性に対し、事実上、早く出産しろとプレッシャーをかけるようなやり方に問題はないのか。


 との一文。
 もし手帳に書かれていることが医学的に間違いというならば、批判は当然ですが、「高齢出産は危険である」との
事実を指摘することが許せないとは、いやはや驚くべき言い分です。我々は間違ってもお国が「フグを食うと毒に当たる」などと主張して国民の健康に介入しないよう、監視の手を緩めてはなりません。
 ちなみに、ネット上で探してみると、産経の「
政府、10代から「女性手帳」導入 骨太の方針で調整 何歳で妊娠? 人生設計考えて」という記事が目につきます。これを見てもそれほど具体的な内容はわかりませんが(つまりまだその辺は未定ということでしょう)、


 女性手帳では、30歳半ばまでの妊娠・出産を推奨し、結婚や出産を人生設計の中に組み込む重要性を指摘する。ただ、個人の選択もあるため、啓発レベルにとどめる。


 とのことで、普通に考えてこれを文句をつけるような内容であると感じるのは、少数派ではないでしょうか。
 しかし『東京新聞』はとにもかくにも(具体的な内容が決まる前から)手帳を全否定です。
「読まずに全否定」とはまるで、拙著に対する有村悠師匠のブログのようです。
 他に並ぶ意見は「女性が少子化の原因と言われているようでムカつく」、「何故女性だけなのか」と言ったものばかり。何だかニートの男が職安の作った冊子とかに「男だけが働かなきゃいけないとしている、ケシカラン」とか言ってるような感じです。
 しかしそれならば、「男性手帳」を導入すればその問題がなくなるのかというと、どうもそうではないようです。本記事においても、男性手帳についても検討がされていることが言及されながら、それでもひたすら文句ばかりが並んでいるのですから。
 考えてみれば、男女共同参画局のやってきたことの方が遙かに官製の民間への押しつけだと思うのですが。そこではお役所主導で「ひな祭り」や「男児に男性的な名前」をつけることなどに異議を唱えるパンフレットを配ったり、小学生にコンドームや同性愛について教えたりしていたのですが、それは「
正義だからおk」という理屈なんでしょうかね、この人たちは。どうなってるんでしょう。
 読み進めていくと、北原みのり師匠にまでコメントを求めに行くメチャクチャぶり。師匠は「性教育」の講演で
小学生の前で「ち○こま○こ」と繰り返した人物なのですが、それもまた「正義だからおk」なのでしょうか?
 後はお決まりの婚外子を増やせとの主張や、これは男女の性役割分担を固定化させようとする政府の陰謀だ、との妄想が続きます。
「デスクメモ」として


「晩産化=悪」のレッテルを貼って、世間の空気を意図的に醸成するやり方は気持ち悪いどころか恐怖だ。


 とありますが、何だか「説教強盗」という言葉を連想するのはぼくだけでしょうかw
 なるほど、こうして世論は形成されるのかという感じです。
 結局、何故彼ら彼女らがここまで焦るかと言えば女性のマジョリティの意見が、決して彼ら彼女らの意に添う物ではないからなのでしょう。
 日本経済新聞2006年1月16日号夕刊によると、翌年の就職を目指す大学三年生女子516人へアンケートを採ったところ、「結婚してもずっと一線で働きたい」と答えたのは僅か5.2%だったと言います。大学三年生というからには四年制の大学での調査なのでしょう。これが短大や高卒を含めると、一体どういう数字になるのでしょうか。
 つまり、今の女性の圧倒的マジョリティはキャリアウーマンになる道など望んでいない、できれば専業主婦に収まっていたいわけです。しかしそれはフェミニストたちにとっては、絶対に許すことができない。だから彼女らは今まで高齢出産の危険性を隠蔽することで、女性を出産、育児に向かわせまいとし、裏腹に女性を職場へと駆り立ててきました。
 本記事では女性手帳に対して「全体主義的だ」などと書かれていますが、全体主義的なやり方で社会をねじ曲げてきたのは彼女ら自身だったわけです。
 あくまで想像ですが、女性全般からすれば女性手帳にここまでヒステリックな反応を示す層は少数派でしょう。ツイッター上でも「文句をつけているのはアラフォー層だろうが、対象は二十代だろうから、関係ないのでは」といった声を見かけました。ぼく自身もまた、最初にこのニュースに接した時、むしろ女性は基本的に「あなたは女性なので構わせてください」と言われることを喜ぶので、文句は(フェミニストのツンデレ反応を除けば)どこからも出ないのではないかと想像していました。
 しかしフェミニストたちもそれを知っているから、自分たちが女性の中のマイノリティであるとの事実を知り抜いていたからこそ今回、ここまで事前に大騒ぎすることで、この政策を廃止に追い込もうとしているのではないでしょうか。
 果たして手帳がどこまで少子化対策になるのか、ぼくの知ったことではありません。或いはずれたものができあがってくる可能性もあるでしょう。が、手帳などという手軽なアイテムならばそれほど予算もかからないでしょうし、それなりの啓発効果で少子化を食い止める一助となることは充分に想像できます。
 少なくとも頑迷に反対しているフェミニストたちの描く未来は、
圧倒的多数の女性が全く望んでいない者であることは、明白です
 ここはやはり、推進すべきなのではないでしょうか。


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新春ホモ三題噺

2013-03-30 18:51:01 | 時評

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 以下はニコニコチャンネルのブロマガ、兵頭新児の女災対策的随想において既にアップされた記事です。新春とあるように、今年の初めにアップされたものでした。

 目下、兵頭新児は活動の軸足をそっちに移そうかと考えているのですが、或いはアカウントを持っていてそちらを見られない方もいらっしゃるかもと思い、こちらにもアップしてみることにしました。

 こちらを完全に廃墟にしてしまうのも何だか寂しいので。

 文章自体は変わらないので、一度お読みになった方は、再読される必要はありません。

 それともう一つ。

 拙著『ぼくたちの女災社会』が復刊ドットコムの「復刊リクエスト」にエントリされています。どうぞ、ご協力をお願いします!


     *     *     *     *

 

「2012年女災10大ニュース」の中で、ラディカルフェミニストとリベラルフェミニストにまつわるネット言論のウソについて指摘しました。それはごく簡単に言ってしまえば、「確かにラディフェミが悪者というのは本当だけど、そういうことを盛んに言ってるあんたら(オタク系文化人)がつるんでる女性にこそラディフェミが多いじゃん」という話でした。
「ラディカルフェミニズム」というのは、wikiから引用すると、

現代社会における女性抑圧の源流をあくまでセクシュアリティに求め、時に結婚や家庭も女性解放の障害と見なし、階級闘争の構図へと還元する姿勢

 を持つフェミニズムと言うことです。
 リベラルフェミニズムはそこまで切り込まずとも法整備などをすれば男女平等は実現できる、と考えるスタンスであると、ひとまずは言えます。
 考えれば均等法などが施行されるに及んで男女平等は進んできたはずで、それでも満足できない人々はどうしたってラディフェミという過激な考えに縋る他、ないわけです。
 男性論の世界での名著『男はどこにいるのか』の中で小浜逸郎さんは

 ところが、社会における男女平等が、不充分とはいえある程度実現されてきたり、また実現が具体的日程に上ってくると、今度は家庭における男の支配とか、性別役割分業の事実とか、それにかかわる女性の過重な労働負担(家事も仕事も)、また日常性のなかでの男の差別意識とか、さらには性行為における男性の優位性とか、イメージにおける隠れた性差別などのとらえ方によって、女性の「劣位」を確認し、問題視しようとする動きがことさら前面に出てくることになった。


 と指摘して、

 さて、ここら辺りから、フェミニズムはなんとなく少し無理をしているような感じがつきまとうものとなり、


 とおっしゃっています。
 この論文の初出は1990年。「行動する女たちの会」などがポルノ的広告やミスコンを相手に派手に暴れ回っていた頃です。
 この頃まだ「ジェンダーフリー」といった言葉は人口に膾炙していなかったと思うのですが、以降、そうした理念やセクシャルマイノリティの話題がメディアで流行し、インテリたちが盛んに語るようになりました。
 そう、女性誌『CREA』で特集が組まれ、また「ゲイ文化人」と称される伏見憲明さんの『プライベート・ゲイ・ライフ』がベストセラーとなり、ゲイブームが起こったのがこの頃(1991)です。ゲイブームはセクシュアリティ論、ジェンダー論と連動して一部のインテリたちに影響を与え、またフェミニストたちもそれを大いに利用しました。事実、伏見さんの本を見ると当時のフェミニストへの盲目的な傾倒がこれでもかと語られています。
 つまり、まさにラディカルフェミニズム的な論調が日本で盛んになったのがこの頃であり、小浜さんの文章はある意味そうしたラディフェミ上陸前夜に行われたラディフェミ批判、とも言えるわけです。
 ぼく自身は別にラディフェミだけが悪者、というスタンスを取っているわけではありません。フェミニストなんてみんないっしょだ、というのがぼくの考えですから。
 が、年末から年始にかけて、ツイッター上でホモに関する話題がいくつも浮上し、それらを眺めている間に「考えるとホモの地位が上がったのってその頃だよな」ということに思い至ったのです。
 つまり、ホモはこの頃にラディカルフェミニストたちによって、「人権兵器」として利用され出したわけです。
 以下、順序立ててみていきましょう。


 トピックス1:「#タイトルの一部をホモに変えると恐ろしさが増す」というタグについての諸相


 先月26日、ツイッター上で「#タイトルの一部をホモに変えると恐ろしさが増す」というタグが大流行しました。案の定、これに「差別的でケシカラン」との物言いがついたのですが、その論旨が「ホモが恐いなどと思うのは間違っている」というもの。
 ぼくはその主張に、頷けないものを感じ、
togetterにまとめました
 このタグをはやらせた(&乗っかった)者の正体は、ぼくにはわかりません。
 しかし仮に腐女子だとするならば、彼女らはホモが「恐くないから」こそBLに耽溺するのだし、同様にタグの「恐い」には「恐くない」との意が込められているはずです。それはイヤでないからこそ「いや~ん」というのと同様で、女性ってよくそうした反応をしますよね。ならば、そうした女性の業にまで問題意識を掘り下げなければ、正論を吐くだけでは無意味です。
 そしてまた仮にはやらせた(&乗っかった)者がヘテロ男性だとするならば、残念なことに彼らにとってホモの「ホモ性」は「恐い」ものでしかない。むろん、その「ホモ性」をホモが誰彼構わず発露するとは限らない以上(つまりホモといってもヘテロ男性にセクハラなどするのは少数派であろうから)「だからと言って、ああした遊びが許されるのか?」との批判は成り立つでしょう。が、ただ「ホモは恐いとか思うな」と叱責したところで、問題が解決されるはずはありません。
 結局、「やめろ」と高圧的に言うだけでは問題は解決しないし、言いたい者は言い続けるでしょう(それを力で押し留めることなど、絶対にあってはならないことです)。
 だから結局、これを広めたのが腐女子であると仮定するなら、「恐い」といった言い方はやめて「萌える」みたいな表現にしよーぜ、くらいのことを言っていくしか、ないわけです。


 トピックス2:「セクシャルマイノリティの告知ポスターがパロられた件


 これは昨日の話でしょうか。
 セクシャルマイノリティのNGOが告知ポスターを作ったのだけれども、ネットでそれをパロディ化した者がいた、というお話です。
 トップに挙げたのがそのポスターで、男女のカップル、女性同士のカップル、男性同士のカップルの三組が幸福そうにしているイラストであり、「多様なあり方を認めよう」といったメッセージを込めたものでした(ただし電話番号は既に無効とのことで、消しておきました)。
 が、何といいますか、敢えて言えば「萌え絵」で描かれていたそのイラストの、男性同士のカップルだけが「ガチムチ兄貴」同士のカップルに改変され、それがネットで「晒し上げ」られたのです。
 それが以下ですね。

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 これに対して関係者の方が「悪意ある改変で許せない」と憤ったのです。
 が、考えてみれば改変後のイラストも(いや、むしろそちらの方が)ホモに受けそうな絵です。これに対しては「多様性を認めようと言いつつ、悪意ある改変とは何事、お前の方がガチムチ系のホモを差別しているのだ」との意見が殺到したようです(実はぼくも送ってしまいました)。
 そしてまた、関係者の方も反省すると共に、「しかし絵を改変した者(或いはそれを嗤った者)には悪意があったではないか」といった感じのことをおっしゃっていました。
 まあ、それは確かだと思います。
 件の改変ポスター、改変者に悪意がない可能性もゼロではないとは言え、普通に考えればあのパロディの意図は「要するにホモはきめーんだよ!」の一語に尽きます。だから「悪意あるからかい」と受け取ってしまうことも、ムリはないといえばムリはない。
 しかし更に言うならガチムチ系に嫌悪を感じる感覚は、ぼくたちの社会の動かしがたい美的感覚でもある。更に言えば、元のポスターのさわやかな筆致は、それを鑑みたからこそのある種の美化とも言えます。
 ぶっちゃけ改変後の絵は、ぼくの感覚からすれば「キモい」。ある種、元のポスターはそこを見越して、萌え絵を採用した、ある意味「あざとい美化」を施していた。
 それは悪いことだとは全く思いません。「戦略」としては全く正しいでしょう。
 でも「多様性」を謳っておいて改変後のポスターはまかり成らぬと言うのもまた、リクツが通らない。事実、イラストは両方、ホモの漫画家さんによって描かれたモノらしく、その一方だけを否定するというのはセクシャルマイノリティのNGOとしては本末転倒です。
 しかし、だからこそこのパロディが「非常によくできた批評」であることも否定し得ないのです。
 言ってみれば、このポスターはものすごいブスが一生懸命お化粧して、可愛く写した写真のようなものでした。心を込めたラブレターをしたため、それに同封した、「勝負写真」だったのです。
 それに対して、あのパロディポスターはお断りレターに「お前は本当はこうだ!」とばかりに同封されていた、その女性のすっぴん写真だったわけです。
 すっぴんの顔を盗撮したこと、そしてわざわざそんなものを送ってきたことの是非を問うことはできるけれども、結局彼女を傷つけたのはそんなことではなく、自分がブスであるという事実、そして「拒絶された」という、それ自体はどうしようもない事実なのです。
 相手に愛されたくて一生懸命ラブレターの文面を考え、頑張ってお化粧して可愛い写真を撮ったその娘のその時の気持ちを考えた時、非常に痛ましく気の毒でもあるが、また一方、断られることそのものはどうしようもないことでもあります。
 要は、相手がどう感じるかをコントロールできない以上、仮にあのパロディ的なポスターを法的に訴えたにせよ(ちょっと難しいでしょうが、仮に強引にそうしたとしても)、ヘテロ側のホモへの忌避感が変わるわけではないのです。
 件の女の子はまたタフに婚活パーティに出かけるか、或いは「おひとりさま」でいいじゃん、と女の子の友だちと遊ぶか、どちらかしかないわけです。
 ある意味、日本は新宿二丁目というホモのための場の用意された珍しい国でもありますし、またネット普及後は、そうしたネットワークはいくらでも容易に作ることができます。だからぼくとしては後者がお勧めな気がしますが、しかしそれでもヘテロセクシュアル側に働きかけたいというのであれば、やはり勇者として、戦いで傷つく運命を、我が身に受け止めざるを得ないでしょう。


 トピックス3:「コミケの淫夢デマネタに翻弄されるノンケとそれに対するホモ淫夢民の反応まとめ」


 これは冬コミ開催中の話です。
 ツイッター上で「コミケ会場に薬物入りの紅茶を飲ませる変質者が出たぞ」との噂が拡散されたのですが、実はそれがホモの流したデマであっったらしい、というのが経緯です。これもまた、
togetterにまとめられています
 どうもこの噂話の元ネタがホモの間ではやっているAV発祥のジョークらしく、そうしたネタを知るホモであれば、容易にウソとわかる性質のものだったらしいのです。「そうしたデマを流したのがホモだという証拠はないではないか」との指摘もありましたが、togetterを見る限り、少なくともこうしたデマにホモ側が快哉を叫んでいます。つまり「ホモがノンケに性的な悪戯をして、まんまとノンケが騙されたことにVサイン」という状況。
 しかし奇妙なことなのですが、少なくともぼくが知る限り、流されたデマには「男が男を誘う」という箇所が全くない。つまりデマを聞いたら普通であれば「男が女を誘っている」と解釈するのが普通であろうと思われるのです。つまりホモは勝手に「相手を騙した」と思い込み、Vサインを掲げていたわけです。
 例えるならば男子校の生徒が女子校に忍び込み下着ゲット、しかしそれは中年女教師のものであった。普通なら柄でわかるものを、女に対する免疫がなかったがため、というような状況でしょうか。
 見ていて面白いのはホモ側に(知恵ばかりか)屈託がなく、ここからは「偏見に苦しむ聖者」といった一部の人間が脚色した政治的色彩は感じられないことです。タチが悪いとは言うものの、中学生のバカなガキのようなもので、ぼくは彼らをどうにも憎むことができません。一方、感心するのはそのデマを知った側のリアクションです。「キモい、ホモ死ね!」でも「ホモを差別するな」でもなく、極めてニュートラルにデマを飛ばした側を批判しています。
 ホモにまつわる政治的言説は、実は本当はごくごく限られた一部の人間だけ間で効力を持つ「呪文」でしかなかったのだなあと実感した瞬間です。


 ――以上、ホモネタを三つほど見ていただきました。
 三つ目はいささか異色であり、またそれぞれぼく自身のスタンスも統一されておらず、混乱した方もいるかも知れません。
 が、ぼくの言いたいことはそれほど難しいことではなく、「差別はダメ」という絶対正義にモノを申すつもりはないが、だからと言って個々人の感じ方にまで文句をつけるのはそれ以上の悪だよね、ということです。
 ポスターの件は何とはなしに沈静化する方向に向かっているようですが、これはある意味、「ブスが、自ら抱えているブス性をどう捉えているか」を試された、非常にタチの悪い、しかし優れた「批評」でした。
 しかし一部のインテリたちは「ホモフォビア(ホモ恐怖症)」などといった造語を作り、「感情そのもの」を圧殺せんとしています。
 それは丁度ラディフェミが登場してきた頃と時期が「
完全に一致」しており、彼女らもまた昨今では「ミソジニー(女性嫌悪)」にこそ女性差別の原因を求めようとしています。
 これはつまり、「体制」とやらへモノ申しても少しも事態が好転しないので、こうなったら俺らが「体制」になって個々人の心をいじっちゃおうぜ、というシャア・アズナブル的な、圧倒的に傲慢な、おぞましいエゴでしかありません。
 自身も被差別の出身者であり、差別問題を研究している灘本昌久教授は著作『ちびくろサンボよすこやかによみがえれ 』の中で、「被差別者」たちのテンプレである「踏まれた足の痛みは踏まれたモノにしかわからない」という言い方に、

しかし、俺にはお前の左足を踏んでいるのは、お前自身の右足に見えてしかたがないんだよな。


 と痛烈な一言を浴びせています。
 おわかりでしょうか。
 ぼくの例えに準えれば、ブスの左足を踏んでいるのは、彼女自身の「ブスさ」だったわけです。
 それに対しトピックス3の何と健全でニュートラルなことか。
 多分、インテリの皆さん以外は、実はホモもノンケも両者共が、トピックス3という健全な世界の住人だったのです。


■補遺■(2013/01/22)
 本論に関して、現時点でも基本的に考えは変わってはいません。
 今回奇妙なことに、専らコメント欄では「淫夢」関連のことばかりが取りざたされました。
「兵頭は“淫夢厨”全員がホモだと決めつけたのだ」といった残念な読解力を発揮する方もいらっしゃいましたが、読めばわかるように、ぼくはあくまで「一連の騒ぎ(冬コミ当日のデマ)ではしゃいでいたのはホモだと考えるのが自然だろう」と言ったに過ぎません。
むろん、「ホモに濡れ衣を着せるためにヘテロが仕組んだのだ」と考えることは不可能ではありませんが、ことさらそう考える根拠は薄く、また、にも関わらずヒステリックに、特に根拠を上げることなく後者の説を採る人が多いことが、ぼくには恐ろしく感じられました。
 が(こっからが本題なのでちゃんと読むように)。
 上に挙げた「まとめ」をまとめた人物について、プロフィールを辿ると、確かにホモではないように思われます。
 むろん、だからと言って「はしゃいでいた他の連中もまた、ヘテロだ」と決めつけることはできませんが、とは言え、あのまとめ自体は「ヘテロ側の仕業」の可能性は高いように思われます。
 ちなみにこの件についてぼくに示唆を与えたのは、普段は当ブログを荒らす怨敵、SKYLINE嬢です(笑)。
 以上、補足すると共に感謝の念、ここに表明させていただきます。

 

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2012年女災10大ニュース

2013-01-18 23:57:55 | 時評

 以下はニコニコチャンネルのブロマガ、兵頭新児の女災対策的随想において既にアップされた記事です。 

 今更ですが、去年の年末にアップした、2012年を振り返る内容のものです。 

 目下、兵頭新児は活動の軸足をそっちに移そうかと考えているのですが、或いはアカウントを持っていてそちらを見られない方もいらっしゃるかもと思い、こちらにもアップしてみることにしました。

 こちらを完全に廃墟にしてしまうのも何だか寂しいので。

  文章自体は変わらないので、一度お読みになった方は、再読される必要はありません。

  ところでよく無名でコメントつけてくださっていた方。

  ご覧になっていますか?

  よろしければ新ブログにもいらっしゃってください。

 

 

     *     *     *     *

 

 

 新年、明けましておめでとうございます。
 いよいよ2012年の始まりです。
 これよりの一週間がみな様にとってよい年でありますように、お祈り申し上げます。
 ――わかりにくいので書いておきますが、以上は歌丸師匠が毎年やる新年恒例のボケのパロディであります。ちなみに去年も同じギャグをやっているのですが、ブログも移転したことですし、いけしゃあしゃあと使い回すことにした次第です。

 

 さて、というわけで恒例の「今年の女災10大ニュース」を発表しようかと思います。
 といっても新聞などで騒がれた大きな事件などは一切、扱われません。
 あくまでぼくの視点から、ぼくの感覚に基づいて選んだニュースなので、トピックスとしては抽象的なものばかりになりますが、そこはご容赦ください。
 それでは早速、10位から発表して参りましょう。

 

【第10位】『女災社会』絶版
 はい、記念すべき最初のニュースはこれです。
 拙著『
ぼくたちの女災社会』は著者も与り知らぬまま、そのほとんどが裁断されておりました。
 ただ、出版して三年足らずでの絶版はかなり例外的だろうと意気消沈していたのですが、出版不況の昨今、意外にあることみたいです。まあ、だからといってそれが慰めになるわけではないのですが。
 ところが本書、どういうわけか尼で見ると絶版になってから妙にプレミアがついているんですよね。レビューも増えたりしましたし。もうちょっと、出た時に騒がれたかったものです。

 

【第9位】ブログ開設
 これも私ごとですね。
 ただ、困った方もいらっしゃいますが、ブログのコメントが増えたことは嬉しい限りです。

 

【第8位】斎藤美奈子師匠の粗雑な著書、教科書に
 これについては、既に旧ブログ、またtogetterでかなりしつこく書きました。
 ここで見えてきたのはフェミニストたちの挙動のいい加減さ。
 例えば斎藤師匠は本書において基本的にアニメを、男児向けのものも女児向けのもの(そう、例えば『セーラームーン』)もケシカランものとして否定しています。が、本書について大絶賛のレビューを書いた藤本由香里師匠は、言うまでもなくオタク系フェミニストで『セーラームーン』についても大絶賛。
 むろん、「浮き世の義理で仕方なく内輪誉めしている」という側面もありましょうが、彼女らのデタラメぶりを見ていると、「何も考えず、何となしに手グセで文章を書いている」だけにも思えてきます。

 

【第7位】『ダメおやじ』ブーム
 本年度の『ダメおやじ』ブームにはすごいものがありました(ただしマイブーム)。
 何しろランプの魔神に聞いたらダメおやじやそのヒロイン、ゆき子のことを当ててくるくらいですから。
 本作についても今年の初めに
旧ブログで書きました。高度経済成長期に描かれた「父性の喪失」の物語が、ゼロ年代になっていよいよ実感をもって胸に迫ってくるようになった、「弱者男性」が容赦なく叩かれ続ける現実をまるで予言していたかのような作品である、というようなことをお話ししたかと思います。
 昭和時代のダメおやじが叩かれたのも、ゼロ年代の「弱者男性」が叩かれているのも、それはぼくたちが「弱者だから」でも「強者だから」でもありません。
「強者でなくてはならないのに弱者だから」なのです。

 

【第6位】ド○ター差別ブーム
 本年度のドク○ー差別ブームにはすごいものがありました(ただしマイブーム)。
 彼についても、既に
旧ブログで書きました(こればっか)。
 要するに女性専用車両に乗り込み、大暴れしてフェミニストに男叩きの口実を与えている御仁ですね。
 が、大変に不勉強な話ですが、記事を書いた時点でぼくは、彼らがyoutube、ニコ動にアップしている動画を見てはいなかったのです。
 動画を見て、何といいますか『キックオフ』の衆人環視での音読を強制されたかのようないたたまれなさに身悶えしてしまいました。
 彼らの「痛さ」の本質は、一体どこにあるのでしょう?
 かつての市民運動の方法論がいまだもって通じるのだ、と信じている点。
 かつてのウーマンリブのロジックを男性が唱えても通じるのだ、と信じている点。
 その意味で彼らって70年代的学生運動の痛さと90年代的クィアムーブメント()の痛さがハーフ&ハーフでお楽しみいただける存在なんですよね。
 事実、彼らや在特会の方法論って、左派の運動家の流れのようですし、彼らのスタンスは(そもそもあまりモノを考えるタイプの方々ではないのですが、敢えて言えば、素朴な意味での)ジェンダーフリー論者的な位置に立っているようです。
 彼らのおかげで恐らく、男性の解放は四十年ほどの遅れを強いられることになりましょうが、まあ他人様のなさることですので、やめろとも言えません。困ったことです。

 

【第5位】リベラルとフェミニストの分裂
 Twitter界隈では、リベラルを自称する人々とフェミニストたちとの内輪揉めが、殊に今年辺りから目立ってきたように思います。
 例えばですが、『
週刊金曜日』では『ひとはみな、ハダカになる。』という本の回収・絶版を求める運動が起こったことが報じられました。
 これはバクシーシ山下という悪名高いAV監督の著作で、既に絶版になっていたのですが、今年再販の話が持ち上がり、それで以前にも騒がれていた問題が蒸し返された――というのが経緯ではないかと思います。
 ぼくもネタになるかと思い、読みました。古書を尼で取り寄せて。
 すっげーツマンネ。
 内容はどうということもないAV監督の忙し日記。
 そもそもぼくはものすごく本を読むスピードが遅く、文庫一冊に一ヶ月くらい平気でかけたりするのですが、本書に関してはあまりの内容の薄っぺらさに一時間半ほどで読破してしまいました。
 毒にも薬にもならないような本ではありますが、問題はこれが「よりみちパン!セ」という中高生を対象にしたシリーズとして出版されたことです。
 内容的にすごいエロがあるというわけでもないのですが、こんなモノを中高生向けとして出すというのは論外ですし、文句をつけてくるヤツがいるのは当然です。
 が、その文句をつけたのがアンチポルノ派のフェミニズム団体であり、それを「表現の自由」の侵害であるとしてリベラルと小競りあいが起こったわけです。実際、復刊された気配もないのでフェミニストが勝ったのでしょうか?
 いずれにせよ、「リベラル」というのは要するに「俺の自由を守る人」以上のものではないのですからリベラル同士の利害など、常にバッティングしあうわけです。これからいよいよそうした内戦は拡大し、周囲に被害を及ぼすようになるのではないでしょうか。

 

【第4位】ダイアモンド博士が親ジェンフリ派というウソがバレる
【第3位】フェミニストがマネーを参照していないというウソがバレる
 はい、4位と3位は同時にご紹介しましょう。
 もうこの一、二ヶ月この話題ばかりで皆さん、飽きていらっしゃるかと思います。
 詳しくご存じない方は、今までの記事をご覧になって下さい。
 が、小山エミ師匠と議論を重ねた『世界日報』の山本彰氏から面白い記事をご教示いただいたので、ここでは補足説明的にそれをご紹介することにしましょう。
 日本性教育協会というところの発行している『現代性教育月報』という月報があるのですが、これの2006年1月号にダイアモンド博士が寄稿をしているのです。
 ダイアモンド博士は

 この報告(引用者註・マネーの双子の症 例)により、人は性心理的にジェンダー・レスの状態で生まれ、ジェンダーに特徴的だと思われるものはもっぱら養育によるものだというフェミニストの主張が生まれたのです。そしてフェミニストは、女性として扱われた男性が女性としてうまく適応できたのであれば、教育・就労・家庭内の関係性をはじめとする、あらゆる事柄について男女が平等に扱われるよう、子どもの教育のしかたを変え、女性に与えられている機会を改善していくべきだと主張しています。

 と、明らかにフェミニストが「双子の症例」を根拠にジェンダーレスを推進しようとしたのだとの見方をしています。
 もっともこの後、博士は

 しかし、だからといって、私が日本の伝統主義者の主張こそが正しく、フェミニストの主張はまったく間違っていると考えているかといえば、そうではありません。

 と続け、男/女性ジェンダーを身 につけたい女/男性や同性愛者を尊重すべきだ、との考え方を示しています。全体的には、博士の主張は中立というか、一般論を述べるに留めている、という印象です。勘繰ることが許されるなら、日本の詳しい状況もわからないことだしという思惑も、イデオロギー闘争に巻き込まれても面倒だしというホンネも透けて見えそうです。
 それを、編集部が前書きを挿入することで何とか自分たち寄りの記事としての体裁を取り繕った、という印象です(事実、ダイアモンド博士の文章の前には博士が男女共同参画の理念に賛同しているのだ、と強弁する『朝日新聞』の記事の転載が挿入されるという、かなり作為的な記事構成になっています)。
 いずれにせよフェミニストたちの不誠実さを物語る上で、極めて重要な資料と言えましょう。

 

【第2位】ラディフェミ/リベフェミ論のウソがバレる
 これについてはずっと書かねばと思いつつ、書けずにおりました。
 一時期ネット上では「リベラルフェミニストはオタクの味方である、ラディカルフェミニストこそ悪者なのだ」との論調が盛んでした。しかしこれは進歩派系の文化人が何とかしてフェミニズムを延命させようと企てて垂れ流した、一種の作為的な情報操作のように思われます(ぼくがそのウソを指摘したから……というわけではないのでしょうが、最近はあまり言われなくなりました)。
 ネットで見る限り、ラディフェミというのは「ポルノなどに文句をつけるうるさいやつら」という意味であり、それに対してリベフェミは「表現の自由を重んじる人たち」という文脈で使われています。 つまり、児ポ法などと絡んで「ラディフェミは敵、しかしリベフェミは味方」といった区分けがなされていたわけですね。
 が、『フェミニズム事典』などで両者を調べてみると、それはどうも当たっていないのです。
「ラディカル・フェミニズム」というのは男性性、女性性といったジェンダーそのものを性差別の原因である、と見なすフェミニズムだということです。つまり法的手段で均等法のような法律を作っただけでは不足で、ジェンダーフリーによってしか性差別を解消し得ない、というのが彼女らの考えです。
 もちろん、ドウォーキンやマッキノンがラディフェミの論客であるというのも事実である以上、「ポルノを否定するのがラディフェミ」という言い方も完全な間違いとは言い切れないのですが、上の定義を見る限り、『
バックラッシュ!』などでさんざん顔を出した上野千鶴子師匠など、今の日本で主流となっているフェミニストたちは間違いなくラディフェミです。
 一方、「リベラル・フェミニズム」というのは単に古典的な自由主義に影響を受けて出て来たフェミニズムという、(ちょっと乱暴ですが敢えて言えば)「古いフェミニズム」というような意味あいしかないようです。
 ネット上で「ラディフェミは敵、しかしリベフェミは味方」などと言っている人たちの何割かは明らかに左派で、上野師匠などと親和的です。が、明らかに彼らのラディフェミ、リベフェミの用法は間違っている。大体、「リベフェミ」の「リベ」は「表現の自由」とは直接関係がないのですから。
 これが「何かの間違いがいつの間にか広まった」のか、「意図的にウソを流している」のか断言はできません。しかしウィキペディアを見れば藤本由香里師匠が「リベフェミ」とされており、かなり意図的なものを感じざるを得ません(彼女も言うまでもなく、ラディフェミでしょう)。
 想像ですが、彼らは何とか自分たちの身内を延命させるために「ラディ/リベフェミ」の言葉を敢えて誤用して「過激な、悪しきフェミニスト/話のわかる、よいフェミニスト」というイメージを広めようと、はっきり言えば
オタクを「騙す」ために、風説を流したのではないでしょうか。

 

【第1位】『まど☆マギ』、女の時代にトドメを刺す
 やはり1位はこれじゃないでしょうか。
 いや、アニメ自体は去年にオンエアしたものなのですが、まあ、今年は劇場版が公開されたということで。
(以下、ネタバレを含みますので、未見の方は読まれませんよう)
 本作については、魔女っ子板『エヴァ』との評があちこちでなされていると思います。
 が、重要なのは本作が「女の子の、ビルディングスロマン」を否定した点にあります。
『エヴァ』はフェミニストのせいで男性性を否定された主人公が、かつてのヒーローの

 

「特訓」→「新必殺技を会得」→「敵に勝つ」

 

 というコースを奪われ、

 

「特訓」→「何か、挫折」→「敵から逃亡」

 

 という新パターンを生み出したアニメでした。
 いや、こうしたビルディングスロマンが否定されたのは不況とかいろいろあるわけで、全部がフェミのせいではないと思いますが。
『まど☆マギ』もまた「戦って敵を倒す」という明らかに『セラムン』以降の「戦闘美少女」の系譜に属した作品でした。
 が、従来こうした戦闘美少女物で描かれた

 

「愛を得る」→「愛故に新アイテム獲得」→「敵を倒す」

 

 というコースが『まど☆マギ』では否定され、

 

「愛を得られない」→「何か、挫折」→「悪者化」

 

 という新パターンが生み出されたのです。
 言ってみれば、『まど☆マギ』は「男の子が守れなかった正義を、女の子が守れるわけねーじゃん」と身も蓋もないことを言ったのです。事実、主人公であるまどかの母親は「夫に主夫業をやってもらい、自分は会社で働くバリキャリ」と設定され、まどかの担任の先生は「授業中いつも自分を振った男性の悪口を言う」というキャラクターです。
「魔法少女はいずれ魔女になる」という作品上の設定と併せて考えると、これはかなり意味深です。
 ただ、本作が作品として優れているのは、まどかが宇宙の因果をも変えて悲劇を食い止める、という形でハッピーエンドに持っていったことです。言わばまどかちゃんは女神様のような存在になり、今まで犠牲を強いられてきた魔法少女を救ったのですね。
 ここには作り手の母性信仰的な心性が明確に見て取れます(監督の新房氏は『さよなら絶望先生』をアニメ化した時も、オープニング映像において聖母の如き可符香の中で胎児のように眠る絶望先生、というイメージを描いています)。
 それに沿って先ほどの言葉を訂正するならば、「男の子が戦いによって守れなかった正義は、女の子が母性によって守れるかも知れない」という解答を出したのが『まど☆マギ』と言えます。
 そうした母性信仰的心理に対しては、気にくわない面もあるのですが、ひとまずここでは置きましょう。
 重要なのはまどかちゃんが聖母の如き母性愛で、全地球の因果を変えたという点です。ここではジャンヌ・ダルクや卑弥呼が「利用され、犠牲となっていった魔法少女」として描かれますが、果たして、「歴史上、犠牲となった魔法少女」は彼女らだけだったのでしょうか。
 ひょっとするとまどかちゃんのお母さん、担任の早乙女先生も犠牲となった魔法少女だったのでは?
 となれば女性性を否定し、女性がひたすら男性性を身につけることをよしとしてきた魔女の正体は、一体何だったのでしょうか……?
 そして最終回(つまり、まどかちゃんが女神様と化して以降の世界)でもほむらたち魔法少女は戦いを続けていました。それは、女性が女性性を取り戻したからといって、世の中に悲劇の種は尽きないことを示しています。
 では、その「悲劇の種」とは一体?
 来年に公開されるという新劇場版では、その辺りの謎が、解明されることになるのではないでしょうか……?

 

 

 

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