兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

十年目の『ぼくたちの女災社会』(再)

2024-08-31 18:50:15 | 女災対策について

  しばらく続けている、『ぼくたちの女災社会』[増補改訂版]刊行記念の記事再録です。
 是非、増補版をお買い求めの上で記事をお楽しみください。

 

 それと昨日、新動画をうpしました。
 こちらの方もどうぞよろしく!

第六十一回「小山田圭吾擁護の「嘘」――サブカルの「いじめ」はいかにつくられたか」

さて、今回の再録記事の初出は五年前、2019年9月28日。丁度『女災』発刊十周年の頃。
 わりと真っ当にに当時の女災状況について分析がなされているかと思います。
 そんなこんなで最後にちょっとだけ「五年後の補遺」を設けました。
 一度読んだ方も、そこだけでも読んでいただければ幸いです。
 では、そういうことで。

     *     *     *

 さてみなさん、今月で拙著『ぼくたちの女災社会』出版十周年となります。
 本書を未読の方はkindleで買えますので、ご一読をお勧めします。今ツイッター界隈で囁かれている反フェミニズム論、非モテ論がいかに浅く周回遅れなものかがおわかりいただけるようになりましょう。

●時代がまだ、追いついていない点

 ……というわけで始めましょう。
 正直、よき結果を出せたとは言い難い、出版することでこちらも一生涯を棒に振るようなダメージを受け続けた本書、自分にとってもよい記憶と共にはなく、読み返すこともほとんどありませんでした。今回がほとんど五、六年ぶりの再読になったんじゃないでしょうか。
 で、読み返して感じたのが、ようやっと時代の方が、ちょっとだけぼくの足下くらいには到達しつつあるなという感慨。例えばですが、本書ではセクハラ(そう、既に三十年前の話題です)という舶来の概念が日本にやって来た時の騒動を形容し、

見ていくと浮かび上がってくるのは、「ひょっとして訴えられるのではないか」という差し迫った危機に怯える男性たちに対し、「ワタシの気持ちをわかって!」とお姫様の無理難題のような主張を続ける女性たち、という図式です。
(16p)

 またストーカーについても、ストーカー研究の第一人者、故・岩下久美子さんの著書『人はなぜストーカーになるのか』の、

まず大切なのは被害者の立場に立つことなのである。

その行為を受けている本人が不安や恐怖を感じた時点で、立派なストーカー行為なのである。
(197p)

 といった主張を引用し、

やはりセクハラと同じ、「女性の主観主義」とでも言うべき問題点が浮上してくるのではないでしょうか。
(同上)

 などと書かれています。
 これは目下、白饅頭発で人口に膾炙している「お気持ち案件」と全く同じですね。
 もちろん、フェミニストの手先である白饅頭*1は、それ以上の分析に立ち入ることができず、ぼくには予め、大きく水を開けられてしまう結果となっています。
 近年、気を吐いているすもも師匠も、「女性の方が遥かに恵まれている」というところにまでようやく到達しましたが、そこからの主張は「何か、ジェンダーフリーで男にもリターンをくれ」というもの。ぼくはこれ、「国家」に何やら求めるよりは好ましく思えるのですが、ジェンダーフリーを素朴に信じているというのでは、ちょっと期待できない。何しろ本書を読めば、森岡正博師匠の「草食系男子」論など、ずっと同じ論調がただ無為に繰り返され、女性が変わろうとしなかったことは明白なのですから。
 女性の持つ加害性、ネガティビティを引きずり出そうとするぼくの「女災」論の域は、彼らには期待すべくもない。ただ、近年のリョーマ氏の「負の性欲」論は女性のメンタリティに切り込んでおり、おそらく「女災」とほぼ同じことを言っているように思われこれは非常に評価できるのですが……すみません、放っておくと自画自賛ばかりを繰り返して終わってしまいそうです
 本書と今のご時世と齟齬のある部分、ある意味で「古びてしまった部分」はないかについても、ちょっと考えてみましょう。

*1 表現の自由界隈で気を吐いている青眼鏡、白饅頭共に表現規制に賛同するフェミニストの傀儡であることは、以下を参照。
実践するフェミニズム――【悲報】テラケイがラディカルフェミニストとお友だちだった件
実践するフェミニズム――【悲報】テラケイがパターナリズム支持者だった件
実践するフェミニズム――【悲報】テラケイが表現規制に賛成だった件

●時代が進んでしまった点――その時、女たちは婚活していた

 改めて再読して感じたのは十年前の2009年、当時は「萌えブーム」たけなわであったのと同時に、「女が落ちぶれた」時代であったということです。
 本書については中傷者(批判などという気の利いたことのできる者は、残念ながら現れませんでした)にも『電波男』との類似を指摘されましたが、それは「そういう時代だったから」というしかない。オタクの時代が来たというある種の「オタク勝利」論が本書のバックにあり、さらに言えばその前提としての「女凋落」論がありました。
 いつも言うように、バブル期には「強い女の時代」という根拠ゼロの神話が垂れ流されておりましたが、それも当時はすっかり古くなり、覚えている者もいないような状況だったのです*2。
 当時目立っていた女性にまつわる流行語は、「負け犬」女であり「婚活」ブーム。この婚活ブームの立役者である白河桃子師匠が、かつては『結婚したくてもできない男 結婚できてもしない女』、『こんな男じゃ結婚できない! 噂の「おみー君」劇場』といった本も出していたのだから、大変な落ち目っぷりです(「おみー君」とは見合い相手の奇妙な男を指す造語です)。本書でもかつては余裕があったが、今は涙目で婚活、などとギャグにさせていただきました。きました。

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 ただ、「婚活」という言葉そのものは、(フェミニストが、そのイデオロギーを先行させたものではあれ)当初は「見合いなどの社会のお仕着せの結婚までのルートが失われた以上、積極的自覚的に結婚に向けて活動せねばならない」という正論を前提したものではありました。しかしそれがいつの間にか、何とはなしに(女性たちが無反省に欲望を駄々洩れにさせた結果の必然として)「婚活で玉の輿を狙おう」という方向へと話が変わっていきました。
 そうそう、「草食系男子」なんて言葉もありましたね。これは(フェミニストが、そのイデオロギーを先行させたものではあれ)男性性に欠ける男性を肯定しようという言葉だったはずが、何とはなしに(女性たちが無反省に欲望を駄々洩れにさせた結果の必然として)「今の男はだらしない」に代わって行きました。
 ある意味で、女性が虚栄心を捨て、自分の欲望と謙虚に向きあうチャンスがこの「負け犬」ブームだったはずが、彼女らはまたしてもそのチャンスを棒に振り、見栄を張ってしまったのです。「デレ」ること敵わず、「ツン」を通す愚を犯してしまったわけですね。

*2 「『現代思想 男性学の現在』(その3)」などを読むと、年代によってはその当時の世界観を今もあどけなくキープしていらっしゃるかのようにも見えますが……。

 では、今は?
 女性の状況は好転するどころか悪化するばかりのはずなのですが、一時期の「女性たちが結婚したくてテンパっている」的なムードはあまり感じられなくなりました。そもそも上に書いた「負け犬」的な、女性の今を象徴する流行語なども今一、思い浮かびません。
 本書では「かつて、華々しく輝かしい女性像がメディアに溢れていたが、今はそれがない」ことの象徴として「負け犬」、「婚活」といったワードを挙げたのですが、もはやそんな「落ち目の女性像」すらも、メディアには見られません。
 この状況を読み解くカギは(一つにはマスコミの影響力というものが失われたことでしょうが)、メディアに「ブスコンテンツ」が充実しだしたことではないか……とぼくは考えます。そもそもテレビなどほとんど観ないので漠然としたイメージしかないのですが、ブスがイケメンと絡む類のドラマやCMなどが出て来たのはここ十年くらいではないでしょうか。
 乏しい知識を並べ立てれば、平成『ライダー』でも『シン・ゴジラ』でも美人と言い難い女性が出てきますし、戦隊シリーズでも『トッキュウジャー』には悪の組織にフリフリのフリルを着て日髙のり子の声でしゃべるという、しかしグロテスク極まりない姿をした女モンスターが登場しました。これがイケメン(こちらは人間の役者が顔出して演じていました)の悪の王子と恋愛を演じ、女性ファンがそのモンスターを「可愛い」ともてはやすのが、申し訳ないですが気持ち悪くてなりませんでした。
 他にも、これはぼくのお気に入りキャラですが、『ダンガンロンパ』シリーズには「腐川冬子」というあからさまにブスという設定を与えられたキャラが登場していましたよね*3。
 十年前に流行していた「オタクそのものをネタにしたオタクコンテンツ」もすっかり、女向けのもの特化になってしまいましたが、これもまた「ブスコンテンツ」のバリアントであることはおわかりでしょう。言ってしまえばオタクコンテンツ、本田透的なロジックが、女性がモテないまま自己を肯定するためのコンテンツに、彼女らの方に利するものに化けてしまったわけです。
 もっとも、これは実のところフェミニストが共産主義的体制、言ってみれば国家に男性の役割を果たしてもらう体制を求めていたことと、それほど変わりはありません。マスコミが女性をただひたすらにちやほやする状況は当時からあり、本書ではそれが「ホスト資本主義」と呼ばれておりましたが、ただ、女性がより以上にブスになったのでホストがブスにもおべんちゃらを使うようになったと、ただそれだけのことです。

*3「これからは喪女がモテる? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!

●時代が進んでしまった点――その時、オタクたちは勝っていた

 一方、当時、勢いがあったのがオタク文化です。
 言うまでもなく「オタク」は「弱者男性」と「≒」で結んでしまってもいい存在です。そんな弱き者が、当時は力を持ち、世間に対するある種のカウンターの声を上げていたわけです。
 当時は「ツンデレ」という(オタク用語の中でもかなり理解しにくい)言葉を世間が曲解し、女性誌で「ツンデレで男子にモテる!」といった勘違いな特集が組まれ、オタクにからかわれるといったことが常態化していました。本書においても、「ムカつくバカ女のバカ本の文章をツンデレ風に言い換えると萌える」などという企画をやっており、隔世の感という感じです。
 むろん、それは文化的にそれなりに力を持ちつつあったというだけのことで、オタク自身がモテていたわけでは、全くありません。しかし、当時のオタク(≒弱者男性)側は「我々は二次元があれば充足していられる!」との主張をしていたのです。繰り返すように『電波男』に端を発する主張ですね。
 この主張の真意がどこにあるかは、本当に非常にデリケートに扱うべきことだと思うのですが、当時のぼくは基本、本田氏に準じた評価をしておりました。

 端的に表現するならば、現代の全ナオンは「メイドさん」という職に就き損ねた「メイドカフェ難民」なのです。
(101p)

 もうあなたではなく幻想の女しか抱いてはもらえないのです。
(同上)

 いや、「ネットカフェ難民」って言葉も聞かなくなりましたね。また、二段目のフレーズは宮台真司の奥さんである速水由紀子師匠の『あなたはもう幻想の女しか抱けない』という本のタイトルをもじったもの。こういうの解説しなきゃいけない辺り、やっぱり昔の本だなあと思ってしまいますね。
 とは言え、「メイドカフェ」ブームは外界へと流出したオタク文化の一つといえました。オタクのどれだけが現実のメイドカフェに行ったかは大いに疑問ですが、この頃の女性は「メイドさん」という「女性ジェンダー」の体現者に大いに憧れ、「オタク文化=虚構性」というクッションを安全弁として、それを享受しようとしていたのです。
 それは、例えて言えば「ピンク」を大いに憎む『トクサツガガガ』*4の仲村さんが、「文化祭だから」というエクスキューズを得て、メイドさんのコスプレをしているところを想像していただければわかるのではないでしょうか。
 結局、ある種オタクの在り方を一種のハンスト的に捉え、一方、「女性ジェンダー」を美化して描くことで、言わばオタク文化が女性側の意識の革新を促し得るのではないか……というのがこの時期のぼくの考えであったかと思います。
 事実、当時は例えばアイドル声優さんがオタク文化に親和的な発言をするなどの光景があちこちで見られ、「ひょっとしてオタク的価値観が世界を覆うのでは」といった希望的観測も、それなりに故のあったことだったように思えます。

*4『トクサツガガガ』は「女性ジェンダーについての自意識をこじらせてしまった女性が、単にそれへの愚痴を吐く口実として私は特撮オタクであると自称する」という、まさに本田透の死体を貪り食っているかのような、そんな漫画でありました。
フェミナチガガガ
フェミナチガガガ(その2)
フェミナチガガガ(その3)

 しかし、『電波男』は、あっという間に左派につぶされてしまいました。オタクたちが「俺たちは二次元の世界に旅立った」と言っていたのを、左派が「なるほど、JPGだけで満足なんだな、一生独り身で何の不満もないんだな」などと言い出したのですから*5。正直、左派の残忍さ、冷酷さをあまりにも甘く見ていたように思います。
 そんなこともあり、今のぼくはやや論調を変えています。しかしこれは別に主張の大本を変えたわけではない。左派の非人道性に舌を巻き、オタク側も不満がないわけではないのだ、と主張せざる得なくなっただけのことです。別に二次元美少女が現実の女の代替物というわけではないけれども、いまだアニメやゲームの世界にダイブするノウハウがない以上、ぼくたちは別に充足しているわけではない。ぼくたちはアニメやゲームの世界観、愛のある世界、乱暴に言えばジェンダーが温存された世界にこそ心酔しているわけなのだから、仮に現実の女の子が「盛る」ことでアニメキャラのようになったからと言って納得するわけではないし、メイドロボを押しつけられればそれで満足するわけでもありません。
 そもそも「オタク勝利」論がちょうど本書の出版時期と前後して、「日本のアニメや漫画は世界中で落ち目だ」といったカウンターにより否定されるようになっていきました。根拠が酷薄な上、言っているのが『朝日新聞』とかその辺ばかりで、果たしてどれだけ正しかったのかは、今となっては疑問ですが。

*5 これはずっとぼくが繰り返ししている(そして、誰からも同意されない)して気なのですが、「敵の死体を兵器利用するなんて、ゾンビマスターみたいで格好いいね!」など。

 もちろん、一方ではこの十年、オタクの反フェミ意識はもう、かつてからは想像もできないほどに高まりました。ここ十年、ツイッター上でのフェミニストの大暴れが、フェミニズムの危険性を可視化させたのです。これそのものは、危機意識を持つことができるようになったという意味では、よかったことかもしれません。
 しかし、これこそが大変皮肉なことに、表現の自由クラスタが活発化し、彼らに「真のフェミ」を持ち上げさせる結果ともなりました。彼らの言動を追っていけば、この十年はフェミニストに文句をつけられつつ、何とか水際でフェミニズムの実態を外部の者に知られまいとそのネガティビティをツイフェミに押しつけ、しかしとうとう上野千鶴子師匠までが悪質な人物であることまでがバレてしまった……という、見るも無残な振る舞いの連続でした。
 しかし、どうにも、彼らにはそんな自分たちの醜態に対する自覚があるようには思えない。
 どうにも、彼らのフェミニストへの忠誠は、白饅頭や青眼鏡を見ればわかる通り、いささかなりとも揺らいだようには思えない。
 これらの流れは、大きな目で見れば結局「ツイフェミをスケープゴートにして、フェミニズムがより頑強になる過程」だったのかな……との失意を感じずにはおれないのです。
 それはまた、オタク界の左派勢力がいよいよ強くなってきたことを示す十年でもありました。

●五年後、『女災』が再評価されそうな点

 いや、まあ、最後に希望めいたことを書いておかないとまとめようがない気がして、無理矢理にこういうタイトルをでっち上げましたが……。
 2009年の時点では女性専用車両に対する男性の反発が頂点に達しており、また『女災』がメインテーマにしていた「性犯罪冤罪」に対する危機意識も高まっておりました。本書もそれなりに売れる目があったことは、間違いがなかったはずです。
 実は以前、とある編集者に指摘されたのですが、この2009年は政権交代の年でした。もちろん、本書(が売れなかったこと)と直接の関係はありませんが、何か、世間の潮目が変わった、その変わり目に本書が出てしまった、数ヶ月早ければまた評価が違ったのではないか、ということは言えます。
 例えば、本田氏の主張は(当時はフェミニストなどもお追従を言っておりましたが)、恐らくこの頃から「何か、悪しき思想」ということにされてしまった。「ミソジニー」という思考停止ワード、本書的に言えば「攻撃呪文」が立ち現れ、とにもかくにも女性様に疑問を持つことは禁止、という風潮が強まったのです。
 そんなこんなで結局、上に書いたような「左派のマッチポンプバトル」によって、フェミニズムへの疑問は圧殺される時代と相成ったわけです。
 が、近年、またちょっとだけ希望が出て来たのではということを、ぼくは感じ始めています。
 というのは実のところゼロ年代に一度盛り上がっていた「非モテ」論の、再びの復権が見られるからです。これはもちろん、インセルだのミグタウだの海外発信の情報がきっかけなのですが、いずれにせよ日本においてもいよいよこれが話題になっていくことは間違いがないでしょう。
 前回記事でもわかるように、もちろんメディア側のこの問題に対する意識は薄っぺらとしか言いようがないものですが、実はちょっと、ネット上の「オタ論壇」とでも称するべきものに変化がみられるのでは、といった気が、ぼくにはしているのです。
 そして、このきっかけは意外なことですが白饅頭であろうと、ぼくは思います。
 彼の商業出版では、男性の惨状が極めて強調して書かれていました。これは「表現の自由クラスタ」的な、(形ばかりとは言え)アンチフェミ的な言説を封じられたがため、相対的にそのような内容が浮かび上がってきた、ということではなかったでしょうか。
 これにすもも師匠、rei氏辺りの言説が続いたことが、ネット上での「非モテ」論を活発化させた、という印象をぼくは持ちます。
 この「非モテ」論について、ぼくが「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」と揶揄するようなオタク界のインテリ層はほぼ、切り込むだけの力を持っていません。
 例えばですが、町山智浩師匠がそうであるように、彼らは専ら「非モテ」を惨殺することしかできない*6。
 となるともう、オタクの多くは彼らについていけなくなるのではないでしょうか。
 今まで八百長を続けていたオタク左派ですが、それが「非モテ」論という「また、別な角度」から見られることで、いよいよ八百長がバレる時が来るのです。

*6 この辺は前回記事「「インセルの思想と歴史について実はメディアは全く語らない」を読む 」を参照してください。

●五年後の、短い補遺

 ――加筆部分です。
 読み返すともっぱら自分の仕事を誇り、手柄を読者に押しつけており、笑ってしまいますが、それもこれもツイッター界隈に「アンチフェミ的機運」は広がるものの、実際にはフェミを延命しようという連中が上で音頭を取っている……という状況に苛立っていたためかと思います。
 一方、しかし「五年後」について予測めいたことをしているけれども、これは結構当たっているかなと。
 ある程度ちゃんとしたアンチフェミ的言説が広がり、フェミは思想的には敗北を迎えつつある。
 もっともそれはツイッター論壇界隈のこと。これからはおそらく大手メディア側がアンチフェミを懐柔しようと手を伸ばしてくることが窺えます。
 それに騙されぬタメにも、当noteのご愛顧を、よろしくお願いします!

 


ニコブロ復活!!

2024-08-25 18:31:23 | 弱者男性

 

 どうも、ニコニコが復活しました。
 ……え? 知ってる?
 まあ、それはそうかも知れませんが。
 実のところ「ニコ動」が復活した後も「ニコブロ」についてはアナウンスもなく、どうなることかと思っておりました。
 いや、「ニコブロ」ってのはニコニコのブログサービスで、このnoteも本来はそっちでやってたのが先なんですね。
 で、何か急に復活していたので取り敢えず今回はそれのお報せ。


 正直、向こうの遅れをどうやって取り戻すかはまだ考えてないんですが、ニコ動については動画も少しずつうpしていたので、そっちの方も観てみてください。

風流間唯人の女災対策的読書・第60回「フェミさん総選挙――民意も左意も反フェミ?」


風流間唯人の女災対策的読書・第60回「フェミさん総選挙――民意も左意も反フェミ?」

2024-08-18 18:25:22 | 弱者男性

 第六十回目です!

風流間唯人の女災対策的読書・第60回「フェミさん総選挙――民意も左意も反フェミ?」


 都知事選で大敗を喫した蓮舫。それは、ある意味フェミ凋落の象徴ではないか……そしてまた、左派も最近、フェミについては妙な挙動が多く、フェミをパージしたいんだが延命させたいんだかよくわからず……。

動画中で紹介した記事は以下を!


ぼくたちの女災社会(その2)(再)

2024-07-28 19:33:54 | 男性差別

 

『ぼくたちの女災社会』[増補改訂版]刊行を記念して、ここしばらくnoteでは記事再録を続けています。
 本来こちらでは再録まではフォローしていないのですが、今回は少々の加筆があるので、こちらでも掲載することにしました。
 是非、増補版をお買い求めの上で記事をお楽しみください。

 

 そもそもこのブログ、最初はocnのブログ人で公開していたのを、ニコニコチャンネルのブロマガへと軸足を移し、noteにも掲載するようになりました。
 今回再録するのはそのニコブロ第一回記念で自著を語ったものです。
 もっとも、目下はそのニコブロ自体が見れなくなっており、果たしてこれからそちらの方をどうすればいいのかも、決めかねているのですが、ともあれこのニコニコ動画問題、『WiLL Online』でも書かせていただきましたので、どうぞそちらもご覧ください。

 さて、今回の再録記事ですが、書かれたのは2012年10月17日
 文中では「ココロコネクト」問題について言及されており、今となっては何のことだかわからないでしょうが、とあるアニメで、話題作りのために声優さんにドッキリを仕掛けたのです。アニメのオーディションを受けさせ、合格を告げるが、それが嘘。とは言え、声優さんはアニメそのものの「宣伝部長」という形で(これも何だか懐かしい響きこの言葉です)作品に参加できて、それなりに美味しかったはずなのですが、見せ方がどうにも悪趣味で、顰蹙を買った……といったことのようです。
 この「パワハラ」の微妙さを「セクハラ」の微妙さと絡めて論じることが、本稿の目的となっていました。
 もう一つは当時のネットでは「男性差別」というワードが人口に膾炙しており、言うなら今の「弱者男性」論壇の代わりに「男性差別」論壇とでも称するべきものがあった。が、それには今一、賛同できない、というのが本稿の主張になります。
 では、そういうことで……。

     *     *     *     *

  どうも、女災問題の第一人者・兵頭新児です。
 いや、「女災」って言葉自体、ぼくが勝手に言ってることなんで自動的に第一人者になるのは当たり前なんですけどね。
 三年ほど前、世に蔓延する「女災」を看過できず、ぼくは(兵頭名義としては)処女作、『ぼくたちの女災社会』を著しました。
「女災」とは「女性災害」の略。
 男女のジェンダーバイアス()に起因する、男性が女性から被る災いを、「女災」と呼ぶのです。
 いや、上にも書いたようにぼくが勝手に言ってることに過ぎないんですが。
 ――が、本書は最近、ぼくもあずかり知らぬまま絶版となりました。
 そのほとんどは、既に廃棄されているようです。
電子版はまだあるので買ってね)
 倉庫移転とかいろいろ事情はあったようなのですが、要するに売れなかったんですな。
「どうしてだろう? 『嫌韓流』くらいに売れてもいいのに」とおっしゃってくださった方もいました。
 確かにその通りです。
 あの本に書かれた韓国に対しての批判にどれだけの正当性があるのかを、ぼくは知りません。しかし「社会ではタブーとされ、今までであれば決して表には立ち現れなかったが、ネット時代になって可視化され、大衆の多くが共有していた本音」、そうしたネット発の本音が書籍という形になることで(具体的な部数とかは知りませんが)ベストセラーになった、という経緯については間違いがないでしょう。
 同様に女性優遇社会への不満は、ネットには満ち溢れているのだから、こっちだって売れてくれたっていいだろう。
 正直、ぼくもそう思います。
 が、やはりぼくの実感としても、本書は読まれたとはあまり思えない。
 本書を読むことなくあちこちに悪口を言いふらしていた文化人()も幾人かおりましたが、まあそれは、そういうものなのでしょう。そもそもそうした人たちは「ミソジニー」といった言葉を捻り出して、「女性への批判自体が絶対に許されざることなのだ」と真顔で主張するほどの徹底したファシストであり、本の内実をわざわざ云々するような誠実さは最初から持ちあわせてはおりません。
 が、正直、本来であれば「ぼくの味方」である人たちにも、本書を読んでくれた人たちは大変に少なかったのではないか。
 それこそが、『女災社会』の敗因だったのではないか。
 今回は、第一回を記念しまして、それを分析する体を取って、愚痴、不満、恨み、妬み、嫉み、僻みの感情を吐露してみようかと。
 みなさん、ご愛読いただければ幸いです。 

 ――さて、とは言え、いくつかのサイトでは本書を好意的に紹介していただきました。
 そこでは「男性差別に悩む方にお勧め」「本書では男性差別を女災と称し云々」といった紹介をしてくださったように記憶しています。
 が、これはときどき言っていることなのですが、ぼくは「男性差別」という言葉があまり好きではないのです。
 むろん議論の際、わかりやすさを優先して取り敢えずこの言葉に乗っかることもありますし、「ではお前はこの世に男性差別はないというのか」と聞かれたら恐らく「ある」と答えることでしょうが、言葉としてはあまり好ましく思わない。
 何となれば、「差別」という価値観の体系の上に乗っかっていては、いつまで経ってもこの問題は解決できない、と考えるからです。

  さて、ここで今更「ココロコネクト」問題です。
 詳細についてはぼくよりも皆さんの方が遙かによくご存じでしょうから、省略させていただきますが、ぼくがこの問題に引っかかりを感じたのは岡田斗司夫さんがニコ生で採り上げていたことがきっかけです。

#016 ニコ生岡田斗司夫ゼミ「タブー完全無視の一問一答地獄」~ブロマガから領土問題まで~201209

「芸能界はパワハラOKだろ」と、岡田さんはおっしゃっていました。
 それは頷けないけれども、現実問題としてそうだろうと思います。
 岡田さんは「パワーバランスの読み違いだ」ともおっしゃっていました。「このドッキリを仕掛けられたのがお笑いタレントであれば美味しかったろう」「或いはもうちょっと売れてない若手の声優であったなら、役がもらえて美味しかったのではないか」とも。
 つまり、微妙な「さじ加減」の問題だったというわけです。
 ぼくもその考えに賛成します。
 彼はこの問題を「そこまで騒ぐ問題ではない」と言っていたし、ぼくもまた、ある意味そう思います。というのは「これより非道いけれども表に出せないケース」は無限にあるに決まっているからです。岡田さんの考える「役がもらえて美味しかったケース」も恐らく無限にありますし、そうした事例と全く線対称の、「話題にならず役ももらえず、しかし干されるのでツイッターでもつぶやけず」という最悪のケースだって、恐らく珍しくはないはずだからです。
 勘違いしないでいただきたいのですが、ぼくは「もっと非道い目に遭ってるやつに比べれば大したことがない、ガマンしろ」と言っているわけではありません。ただ、さじ加減が微妙なケースであった、後耳かき一杯だけ砂糖を入れていれば美味しくいただけたのに、と言っているのです。岡田さんの本意もまた、そうしたものでしょう。

  本件は「パワハラ」問題です。
 が、この「パワハラ」に「セクハラ」を代入すれば、ぼくの立ち位置が明快になるのではないかと思います。
 セクハラというのも本来は労働の場での、上下関係を盾にとってなされる不当な行動のことであり、実は完全にパワハラの一カテゴリと言っていいものでした。
 しかしこの上下関係というものは、少なくとも資本主義社会においてはなくては困るものであって、それをなくしてしまおうというのは無意味な空論であると、普通の人であれば考えるところだと思います。
 そうなるとパワハラの全くない社会というのもまた、極めて空想的です。つきつめれば上司のあらゆる言動をパワハラであると言えなくはないのですから。
「ぼくたちはパワハラがある社会に生きている」「しかしなるべく行き過ぎはなくそう」そう考えた方が前向きでしょう。
 しかし――ここからが本題なのですが――フェミニズムは男女関係における問題を、性差の全てを「リセット」することで解決しようと企てました。彼女らは男女のジェンダーは後天的なものであり、なくしてしまえるもの、なくしてしまうべきものと考え、「ジェンダーフリー」を唱えました。
 近年、その後天論自体が誤りとわかったのですが、彼女らは特に過ちを認める様子もなく、いまだジェンダーフリーを唱え続けています。いや、ジェンダーが後天的であろうと先天的であろうと、「リセットする」という乱暴な考え方が既に短絡的に過ぎ、とても賛同できるようなものではないのですが。それはちょうど、「パワハラをなくすため、将軍様以外はみな平等な社会体制を作ろう」といった暴論と全く同じ、いやその一万倍くらいは乱暴な机上論です。
 岡田さんはこの種のドッキリを見て微かでも不快感を感じてしまうのは、そこに「上下関係」が見て取れるからだ、とおっしゃっていました。ぼくも随分昔、「ウルトラクイズ」か何かで異常に執拗な若手タレントいじめを見て慄然とした記憶があります(ただしこれもよくわからないままに一部だけを見て、文脈が理解できず笑えなかった……といった可能性も、大いにありますが)。
 しかしぼくたちはまた、例えば時代劇で金さんや黄門様が町人に優しくするような、「上下関係」を快感として感じる回路を持っているということもまた、忘れてはなりません。
 言ってみれば本件は、SMショーで鞭打ちはおkだが浣腸はNGの女性が浣腸プレイを強要された的な、現場としては、個人としては重大な問題だけれども、SMのココロを解しない第三者がずかずか上がり込んでケンケンガクガクするようなものではない微妙な問題であった、と思うのです。
 ぼくがこの問題が異常に拡大したことに対して感じた違和の本質は、恐らくそういうことであり、男女間のトラブルにも全く同じことが言えるように思います(当たり前ですが本件について騒ぐこと、或いは男女間のトラブルについて法整備すること自体が悪いのだ、と言っているわけでは全くありません)。
 いささか遠回りをしましたが、「ココロコネクト問題」が許せないからといって職場に上下関係があること自体は仕方がない。同様に男女間の問題をジェンダーフリーによってリセットするというのも乱暴極まりない話です。
 ぼくたちが考えておかねばならないのは、ぼくたちがそうした磁場の中で生きており、それをまず受け容れた上でのバランスを取るしかない、ということなのです。
 フェミニストは「男女間のあらゆるセックスは全てレイプである」と考え、それらをなくすためにジェンダーフリーを強行しようとして、支持を失っていきました。
 男性論の世界で大先輩に当たる小浜逸郎さんは名著『男はどこにいるのか』において、フェミニズムを

 男と女の性的な磁場の本質からその否定的な現れのみを抽象して、そこに政治的意図を新たに塗り込めたところになりたっている。

  と表現しました。この一文以上にフェミニズムを的確に言い表した言葉を、ぼくは他に知りません。
 ぼくもまた、「男女間のあらゆる関係は全て女災」と考えますが(上のフェミニストの「暴論」程度には理のある「極論」だと思います)、しかしそれらをジェンダーフリーでリセットしようとは、考えません。
「男性差別」論壇も一枚岩ではなく、果てしなくフェミニズムに親和的な人々から、ただひたすら「女氏ね!」と言っているだけの人々まで多様なグラデュエーションを描いているのですが、意外や「ジェンダーフリー」的な発想の人が多いように思います。
 フェミニズムに親和的な人々は彼女らのロジックを全く疑いなく鵜呑みにしていますが、女性に敵対的な人々は「あまり深く考えず、とにかく差別は悪だ、平等は善だ、と唱えているうちに、いつの間にかジェンダーフリーに絡め取られてしまった」人が多いという印象を、ぼくは持っています。例えば女性専用車両に反対するうち「男女平等であるべきだから、分けること自体が許せん」という結論に辿り着いてしまった人々。彼らは「男女の車両を、更衣室やトイレのように分けてしまおう」というアイデアには、決して首を縦に振りません。
 手短に、まとめます。
「差別は悪い」と言われたら、それは誰もが否定できない「正義」でしょう。
「平等は正しい」もまた、しかりです。
 しかし「平等=全てがみな同じ」といった考えに囚われると、それはフェミニズムと同じ過ちに陥ってしまう。
「差別」という言葉を聞くと、ぼくが身構えてしまうのは、そんなところが理由です。
 それともうひとつ。
 上に「女性専用車両反対運動」について採り上げました。目下、「男性差別云々」と言うと、どうしてもそうした人たちが一番に目立ってしまっています。
 正直、女性専用車両はぼくにとって「女災」の氷山の、それも小さな小さな一角に過ぎないことなので、彼らがどうしてあそこまでそれにばかりこだわるのかが、どうにも不可解です。
 時折、フェミニストたちが彼らを評し、「女性専用車両のことばかりを騒いでいること自体、それ以外には『男性差別』がないことを証明しているではないか」と言っているのを聞きます。
 ぼくは恐らく彼らは、それに反論する言葉を持たないのではないか、と思っています。
 ぼくたちに必要なのはいきなりわけのわからない運動を始めて、世間の失笑を買う「勇気」ではありません。
 もう少し、状況を抽象化させて、問題の本質が何かを考えてみることです。
「男性差別」は結論です。
「差別は悪い」というのは現代社会では疑うことの許されない「正義」なのですから。
 だから彼らは「男性差別」と唱えた瞬間、「結論は出た」と感じ、「運動」に乗り出してしまったのでしょう。
 しかし現実問題として「男性差別」は世間に許容されています。いえ、「差別」という概念(近代的な人権観みたいなもの?)が生まれた瞬間、恐らくそこには「男性による女性差別」という概念が前提されていたはずで、そもそも「男性差別」という言葉自体が「青いアカレンジャー」みたいな一種の形容矛盾に他なりません。だから恐らく彼らの「運動」は何万年かけようと、実を結ぶことはない。
「女災」はスタート地点です。
「何故、性別によって『差別反対』という『正義』の恩恵を受けられる者と受けられない者に分かれてしまうのか」。
 それを考えるために作られた、スタート地点の言葉が「女災」です。
 ぼくはこれからここで、「今まで誰も考えなかったこと」について拙い考察を行っていこうと、思っています。
 ご愛読いただけたら、幸いです。
 大切なことなので、二度言わせていただきました。


風流間唯人の女災対策的読書・第59回「母性カルト」――「オルタナティブフェミ」の華麗なる世界

2024-07-06 19:02:52 | フェミニズム

 

風流間唯人の女災対策的読書・第59回「母性カルト」――「オルタナティブフェミ」の華麗なる世界

 第五十三回目です!
 三人の実子を殺した母親に対する判決が話題となりました。
 一つは報じたネット記事が「無罪か、有罪か」などとたわけたことを書いていた件。
 もう一つは小山晃弘氏の、「自然派ママが、最後に子供にジャンクフードを食べさせた」ことについて。
 そう、世の中には「フェミではないフェミ」とでも称するべきおぞましい、「母性カルト」というものが存在するのです……。

動画中で紹介した『アゴラ』様、『WiLL Online』様の記事は以下を!

動画中で言及された記事は以下を!