戦争に加担した「4歳の軍国少国民」・だからこそ自民党の圧勝は阻止したい

2014-12-08 18:40:40 | 日記

  戦争に加担した「軍国少国民」

               だからこそ自民党の圧勝は阻止したい

 

  マスコミによる一連の選挙報道は自民党の圧勝を予測するものとなっている。私も、今を生きる一人の有権者として、居てもたってもおられず知人宅を訪問し、私が支持する党への協力をお願いした。というよりは、その彼と話し合って見たかったのである。その彼も述べていた。自民党の圧勝は良くない。そして、そこで出された話題が「12月8日」ということである。いわゆる1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾奇襲攻撃をもって始まったアジア・太平洋戦争の開戦である。

  ところでどうだろう。本日の新聞も含め、テレビの報道もこのことには一切触れていない。もちろん、全紙を見ているわけではないが多分同様であろうと想像する。そのことを問題にしながら「忘れられていく大戦の歴史」と裏腹に、獲得議席によっては、任期は満期4年と考えても不思議ではない自民党が、「憲法に手を付ける、つまり第9条の改定」は十分にあり得るというものであった。だから「圧勝はよろしくない」と最後は語気を強めて彼は語っていた。

  そこで、私の頭を横切ったのがその翌年の昭和17年4月のことである。当時、父は機関士であった。国鉄の機関士と言えば特別の地位が与えられていた。任官をすれば「金の筋の入った外套」を着ることができる。その外套を着た父を誇らしく見ていた。その父が満州鉄道の勤務を希望した。だが祖父は頑として承服せず結局は諦め、岩手県盛岡勤務となり、そのための出発のホームの上り線は出征軍人を見送る人の波でいっぱいであったことを記憶している。その時の私は4歳であった。

  しかし、それから3年の盛岡の生活は短く、父の病による退職そして帰郷によって終了した。そして同年12月に他界する。そのころは毎日のように「白木の箱」となって帰ってくる戦死者を迎える日々が続いた。

  父の弔いにこられた近所の方の言葉も覚えている。「こっちの父ちゃんは、自分の家の畳の上で、しかも家族に看取られて死んだのだから良いとしなければ」というものであった。

  今もって、海外の地に眠る未収容遺骨概数は約113万柱があると言われている。「うち①海没遺骨約30万柱。②相手国事情により収容が困難な遺骨約23万柱。①②以外の未収容遺骨(最大)約60万柱」(平成26年9月現在)

 この大戦の犠牲の上に築き上げた「平和憲法・第9条」を改定し、「軍隊を持つ、場合によっては相手国に攻め込む」という、憲法の中身に変えようとしている自民党の本音が明確になりつつある。

  私が、敗戦を迎えたのが8歳である。日本が負けるとは信じていなかった。最後は「神風が吹き」、洞窟から「無敵艦隊が出動し」敵を壊滅すると信じていた「軍国少国民」の一人であった。幼いとはいえ「戦争に加担」していたことは間違いない。だからこそ「自民党圧勝」は阻止したい。そんな想いをもって地域を歩いた一日であった。

 


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