最終処分場公表される。「福島県は除く、それは当然」それで良いのか。福島からの発信

2017-08-05 15:30:45 | 日記

  最終処分場公表される。「福島県は除く、それは当然」それで良いのか。福島からの発信

   日本の歴史に飛鳥、平城、長岡、平安といった「遷都」のページがある。それに関し興味深いことを聞いた記憶がある。遷都をめぐる政治的背景はあるが、同時に、それは「排泄物の処理」が理由の一つであると言う話である。当時は穴を掘ってそこに排泄をし、溜まれば次の穴を掘る。それが過剰になり都を移さざるを得なかったと言うのである。真偽のほどはわからない。しかし「二本橋」(便壷に板を二本渡してそこに跨る)を経験している者にとって「それはあり」と納得をしたものであった。

   さて現代の話である。大きなマンションを建てたがトイレがついていなかった。入居者はいない。しかし取り壊しようにも取り壊すことができない代物である。さてどうするか。原発をこの「トイレなきマンション」に例えて久しい。

   東電が原発を福島県に誘致することが決まり、その反対運動を展開してきた私たちの間でも、いつしかこのことを語ることが少なくなった。とりわけ3.11以降は、被災者の救援、補償、放射能汚染、そして除染などへと関心はシフトしていったことは事実である。そして今般「最終処分場」の候補地選定が公表された。そして「文献調査」の受け入れを承諾した自治体には20億円の交付金を出すなど、またしても「札びら行政」が行われようとしている。「東電・福島」をはじめ、原発を誘致した地区には「電源三法」による膨大な交付金がおとされた。それがまたぞろ繰り返えされようとしているところに、私たちの「付け込まれる弱さ」があるといっても過言ではない。

 そして世耕大臣は、この候補地からは福島県を除くと説明した。これに対して内堀福島県知事は即座に「当然」と表明。さらに双葉郡地元首長もそろって同様の発言をしている。これを真っ向から否定するものではないが、それで良いのかというのが私の受け止めである。もちろん私も福島県民の一人である。

   「現在、全国の原発で保管している使用済み核燃料は、今年3月末現在で計1万4870トンに上る。すべての原発の保管スペースを合わせても容量は2万740トン分しかなく、既に約7割は埋まっている計算となる。また青森県六ケ所村の日本原燃の施設にも、各原発から送られた2968トンを保管されている。それは保管容量3000トンの99%に達しほぼ満杯である。今後の最終処分の手続きがスムーズに進んだとしても、埋設を開始するまでには30年以上はかかる。使用済み核燃料の保管場所がなくなれば、原発の運転はできなくなるため、電力各社は当面の保管場所を確保するのに苦慮している。関西電力は使用済み核燃料を一時保管する『中間貯蔵施設』を建設して、2030年ごろに操業開始する計画だが建設地の見通しさえ立っていない」(毎日新聞2017年7月29日 大阪朝刊・解説)

   そして候補地公表と同時に提起された処分方式である。それは地下深く埋めるものであり、工事が開始され、完成した施設に高レベル廃棄物を搬入、そして埋め戻しをして封印するまで100年かかると世耕大臣は説明をしている。その説明に、何の矛盾も感じていない世耕大臣の事務的な姿に恐ろしさを感じたのは私だけであろうか。そして、さらに10万年の管理を必要とするのである。  

 そこで前に戻りたい。「トイレなきマンション」を語られなくなったのは、その責任は「政府、電力会社にある」とする主張が背景にあると考える。もちろん一切の責任はその二者にあることは明らかである。その受け止め方が、今般公表された「候補地」に対しても「考えられない無謀な計画」、そんなものを本気にする必要がないとする受け止め方が存在をしているのが実態と思うが、どうだろうか。

 今、原発基地内のプールに使用済み燃料が存在している。そして静か眠っているかに見えるが、いつ起きだして暴れるかはわからない厄介な代物であることも事実である。にもかかわらず政府、電力会社は再稼働を推し進め、使用済み燃料を吐き出そうとしている。そして地元住民は地域活性化を願ってその稼働を承認する。この経済的貧困なるが故の、疲弊した地元住民の実態といえばそうではあるが、それでよいのかともなる。

 再稼働反対、脱原発は、ひとえに『最終処分』と深くかかわる。にもかかわらず「福島県は除く、それは当然」として、この全国的な討論を横目にして済むのか。全国民と共有しなくて良いのか。それが一福島県民としての私からの提起である。


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