細沼園のお茶飲み話

お茶の時間のひとときに、思いつくまま書きました。

スカイツリーを見ながらぶらぶら・・・

2015-07-29 15:37:45 | 散歩・旅

  柳橋

 柳橋は神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一橋梁です。その起源は江戸時代の中頃で、当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡し舟で往き来していましたが、不便なので元禄十年(1697)に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌十一年に完成しました。
 その頃の柳橋辺りは隅田川の舟遊び客の船宿が多く、“柳橋川へ蒲団をほうり込み”と川柳に見られる様な賑わいぶりでした。
 明治二十年(1887)に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正十二年(1923)の関東大震災で落ちてしまいました。復興局は支流河口部の第一橋梁には先導の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる。工夫をしています。柳橋はドイツ・ライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを取り入れ、昭和四年(1929)に完成しました。
 完成から七十余年、現在、区内では復興橋梁も少なくなり、柳橋は貴重な近代土木遺産として平成三年に整備し、同十一年に区民有形文化財に登録されています。

 

両国広小路

明暦の大火(1657年)は江戸の市街の大半を焼失し10万余の死者を出した。その際このあたりで逃げ場を失って焼死する者が多数出た。このため対岸への避難の便を図り両国橋が架けられた。隅田川は当時武蔵下総両国の境界をなしていた。また延焼防止のため橋に向かう沿道一帯えお火除け地に指定し空き地とした。やがてこれが広小路となり江戸三大広小路の一つとして上野浅草に並び称せられる盛り場に発展した。明治維新のころここには新柳町元柳町横山町吉川町米沢町薬研掘町若松町があったが、昭和7年合併して日本橋両国となり現在に及んだ。維新後百年を経た今日まちの近代化はめざましく広小路や両国の名も過去のものとして忘れられようとしているが、300年前火除け地が設定され これが広小路に発展して行った事跡のなかには先人の英知と努力が偲ばれてまことに意義深いものがある ここに由緒ある両国広小路の旧跡を永く保存するため町会の総意によりこの碑を建てた。     昭和44年11月3日

  

 

 御幸記念碑

  

厩橋と厩橋の公衆トイレ

  

伊藤宗印屋敷跡
 明治12年(1879)に十一世名人を襲位した八代伊藤宗印がここに屋敷を構えていました。将棋でいう名人とは、将棋指しの家元の第一人者が名乗った称号です。江戸時代には大橋家本家、大橋家分家、伊藤家の三家が持ち回りで世襲していました。  (案内板より)

  

岡田商事