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ホクトマンのアドブログ

アドベンチャープログラムを愛するすべての人と、そうでもないすべての人へ。ひとりごと、今思うこと、泣き言、楽しか

アイコンタクトの時間

2018-03-27 | 雑念
僕の目を

「目ヂカラがある」と表現した人もいる。
更には「見透かされているよう」と恐れおののく人も。そして「少年のような目だ」と本気で言われたこともある。

全部、結構好き。

どれも相手に与えている印象である。
僕の目から何かしらのビームが出ているのだろう。

でも僕は、僕自身の目から発するものは僕の心の表れである。

それは「その人の本質が見たい」という好奇心そのものなのだ。

だって実際は人の目なんて見ないよ。

僕が相手を見ていたとしたら、もう理屈抜きの好奇心のみ。

僕の目は今は視力が少しずつ悪くなって0.5ずつくらいになってきた。それなのに相手の目を見たら心の奥まで見えてきて10.0くらいの能力を発揮していく。

目が悪くなってもいい。

寿命が見える「死神の目」ならぬ、本質が見える「天使の目」を手に入れたい。

多分トレーニング次第で天使の目は手に入れられると信じている。

いつも相手を知ろうとするときに発する言葉や仕草ではなく、目を見て判断するようにしたい。

時に驚くほど相手の目が奥深い色を帯びている時があって、この感覚は何なのだろう?とさらに好奇心が湧く。

僕より目ヂカラが強い。

この人はどういう人なのだろうと。

人間的にもどんどん引き込まれていく。
相手もそれを察するのか目ヂカラで返してくる。

本当に変な「間(ま)」が出来る。

食事中の隣のカップルからしたら、僕たちがこれほど見つめ合っているのに喋らないその時間は何なの?とひそひそ話を始めそうだ。

でも心地いいアイコンタクトのみのコミニュケーション。

たまにそういう人と出会うときがある。

僕の新しい気持ち

2018-03-26 | 雑念
本当の悩みを打ち明けられた時

その重さに戸惑う自分がいる。
そして僕という人間を信じてくれていることにありがとうという気持ちも同時に沸いてくる。

そしてどうにかして僕の力で助けたいと思うのだが、僕の力といっても言葉で勇気付けるか抱きしめる程度の瞬間的なものでしかない。

もう定期的なカウンセリングのような時間を持った方がいいのではないだろうかと思う。

そして僕がいかに表面的な言葉で勇気付けようとしている事に気づく。

人の本当の悩みは僕の薄っぺらい言葉で癒されるほど甘いものではない。

でも僕は人生で初めて自分の力では及ばないような、でも何か出来るような複雑な気持ちになった。

その人の困ったような、助けを求めているような表情が脳裏から離れない。

僕は今、助けてあげられる何かを考えて行動するべきなんだろう。

パッと思いついたのは本をプレゼントしようというもので、明後日関西を離れてしまうその人へもう一度会って渡すことしか出来ない。

いや、別のアポイントがあると言っていた。
だから無理かも知れない。

それでも苦しみながら打ち明けてくれたお返しをしたい。

僕はひょっとしてカウンセラーになりたいんだろうか?助けたいという気持ちは教育という仕事と違うのだろうか?

また新しい自分を見つける事が出来たし、その人にも新しい自分を発見してほしい。

適当に生きてきた僕を信用してくれたその人に本当にありがとうでは足りない気持ちがある。


遊ぶのが得意な相談相手

2018-03-25 | 雑念
桜を探す。

毎年同じ所に行くのがあまり好きじゃない。
ワクワクドキドキしたいのだ。

咲いてるかな?咲いてないかな?
まだつぼみだったとしても、その期待と感情の起伏を楽しんでいる。

誰と行くかも重要だ。

友人とワイワイするのもいい。
当然、デートも。

何年もデートらしいこともしてない気がする。
こっちが無理くりデートとカウントしているだけかもね。

花見強化週間🌸

もうすぐしたら京都に行こうかなぁ。
実は兵庫県の氷上の河川敷の桜が結構好き。
車で北近畿豊岡自動車道を通ると川沿いに見事な桜街道が見られる。

あそこをいつか歩きたいなぁと思うことが多い。

でもなかなか目的地になることはない。

今日は花見に行きたいなぁと思っているが、相手がその目的ではないかも知れないから食事だけかも。

どうやら相談があるみたい。

僕はベトナムでは個人面談をして話を聞くが、普段はあまり相談をされるタイプではない。

つまり普段の姿とベトナムでの僕が違う風に映っているんだろうなぁと考えさせられる。

どっちが本当の僕なんだろう。

でも相談されるのはとてもとても嬉しい。
今日会う人も正直、相談するというよりも、どこに行こう?と考えているのだ。

これは確実に「僕が」行きたいだけで、相手の気持ちは恐らく違うのだろう。

今日は「僕が」暴走しないように、相手の話を聴こう。それがとても大切だ。

仕事モード

そうそれが僕の仕事モードなのかも知れない。
僕のプライベートモードで誰かと話すと自分のことばかり話すだろう。

それではいかん。

危ない危ない。
当日の朝まで自分の話をするつもりだった。

楽しみたいのは山々なのだが、楽しみ過ぎてミスりそうだ。

僕は正直、小学生レベルの思考回路だということだ。

遊ぶのは得意なのになぁ。




花見に行こうじゃないか。

2018-03-24 | 雑念
食う寝る所に住む所

旅人の僕が言えた義理でもないかも知れない。
でも何故か引かれる土地というものもあって。

昔は沖縄に住みたいと何度も通い旅をしながら結局「住むとこではなく遊びに来る所」と落ち着いた。

またそれも変わるかもしれない。

最近はめっきり関西が好きになって、思い立ったら京都へ。1時間で神戸へ。少し遠いが大阪にも行ける兵庫県は何故か居心地が良い。

言葉のイントネーションもリズムもしっくり。

家庭や子供を持ち始めた友人達と疎遠になっても袖を擦り交わす程度の距離感も諦められない程の丁度いい塩梅。

あとは自分が踏み出すだけ。

そのさじ加減がいい。

花見に行きたい。
毎年行ってる花見、蛍、紅葉は僕の中での恒例行事。ある意味その時期に仕事をセーブしているくらいの気持ちである。

FBにいつもなら呼びかける。
去年はそれで募集していろんな所に行った。

今年は大学生と「お友達」になって、あまり節操のない事がよくない様な気がしているのでブログのみに。

いや数日後には反響のなさからFBやTwitterにガンガンかも知れない。

でもまずは細々とブログから。

とは言え「ブログ見てます」の新規の友人からの直接的な言葉に嬉し恥ずかしの秘儀ありがとうしか言えない返しをお見舞いする。

そう僕の今の心境。

日本人の心、桜を愛でたいのだ。

花見に行こう!

ドンチャンではない、花を愛でる。トンネルを抜けるだけでもいい。

BBQより花

言葉より気持ち

目に見えないものにこそ価値がある。

花は見えるけど。

花の生き様を見に行こう!

来週から僕は花見強化週間と題して、毎日のようにどこかに行く予定。

「ここがいいよ」とか「この公園の満開は何日だよ」とかネットやテレビの情報より詳しいジモティなラインやメッセンジャー、コメントを待ってます。

あと当然、この日一緒に行きませんか?という逆ナンガイド(男女問わず)も募集中です。

殿(ホクトマン)が、最高の笑顔を見せてくれます。

「ホクトマンの笑顔が好き」と言われることが多くなりました。

僕は「現代哲学ファシリテーター(仮)」

2018-03-23 | 雑念
ベトナム帰国後の燃え尽き

大学生である参加者達が帰国後直面する周囲とのギャップに戸惑うという。

同じようにその体験をした僕は少しネガティブになっている。

熱い話ができる人と食事に行きたい。

「変態するとは」「本気とは」「人生って」「生きるって」

こんな話をプログラム未経験者にしても通じないよな。この疎外感というか、映画マトリックスで言う所の“違和感”というか。

本人がその輝いた体験や感動を伝えようとすればするほど、周囲の人たちにはうまく伝わらず嫉妬される。

共通言語がないのだ。

だから参加者同士が「また会いたい」と全国から東京や大阪などの大都市に集まったりするんだろう。

それでも「人が変わる」「チャレンジする」「自分で切り拓く」「自分自身のこと」「なりたい自分」など哲学的で現実的な「生き方」を問う学問があって然るべきなのに。

学校では教えてくれない。

戦後教育の「考えることを放棄させるような教育システム」の歪みが21世紀初頭に起こっている。

揺り戻すように「アクティブラーニング」などの主体的な学びを促すような手法を導入するも恐らく上滑り。指導者自体が雁字搦めの中で教え伝えられるような代物ではない。

ということから

小学生から「哲学」の時間をつくるべき!
評価もしない!

何故今まで「哲学」の授業が出来なかったのか?
それは「答えがないから」に尽きる。

「答えがないことを教えることはできない」

と勘違いしているのだ。特に文科省辺りまで上り詰める人達にとって、目に見えないものや答えのないものに価値を見出してこなかったはず。(偏見です)

もしくは「教員の力量に差が出る」という当たり前が導入を先延ばしにする理由だったのかもしれない。

僕の仕事ファシリテーターは「答えがない事を一緒に考えよう」という「哲学の授業」なのだと思う。

僕はどうやら「愉快な哲学者」なのかもしれない。