たまには真面目なことも書かねばならん。
ということで「学校の授業で人質殺害の画像を見せた」というニュースについて
僕の意見としては…
「やっぱり学校教育で取り扱うにはハード過ぎる」
です。
もし「生命の大切さ」を生徒に伝えたかったのならば他の方法が数多くあると思うからです。豚ちゃんを育てて大きく成長したら食べるのかどうか話し合うという「いのちの授業」だったかな?そんな教材も選択肢のひとつでしょう。
「多くの人間が住む地球規模の多様性」を伝えたかったのならば、特定の宗教を教材にするのはちょっと危ない感じがします。「イスラム教は危ない人種」と間違って擦り込んでしまいそうです。
実際大人の僕でも最近のテレビニュースを観ていると「イスラム教ってちょっと怖いよね」と無意識に感じている自分にギョッとします。
では何歳からこんな教材を用いるべきなのか?
それはまた難しいのですが、条件付きで…
大学のゼミなどの少人数で話し合うことができる環境を作ってキチッと教員がファシリテート出来るなら価値があるような気がしますね。
学校教育の40人規模対教員の一斉授業で取り扱うものではないかと。もし間違った方向に感情が傾いた時に軌道修正できないような気がします。
ただ「死」を学ぶのは、とても良いことじゃないかなと思う。例えば虫を踏んづけたり、夏祭りの金魚がすぐに死んじゃうわけで。果たしてその死を保護者がどのように伝えているのかは教員としては気になるでしょうし、教育の一環として性教育や道徳に並ぶ重要な「生き方レッスン」だと思うのであります。
実際、自分が受けてきた授業で「死を学ぶ」授業は一回も無かったように記憶しているし。死を考えたこともない。死に対して曖昧でタブーであることも知らないただの餓鬼だったと思います。
今、40歳になって両親が病気と上手に付き合って生きているのを見ると、やっと「あー、もうすぐ死を実感するのかもしれない」という感情がジワジワ広がってくるのです。
こう考えると僕は両親が健在で、祖父や祖母と同居していたわけではないので死というものを幼い頃に感じる機会が少なかったことが幸せでもあり、不幸でもあったのかもしれません。
急激な寂しさを味わってしまうと思春期の微妙な時期を、また違った形で迎えていたのかもしれないからです。まぁ、ちなみに今の僕が真っ当に生きているのかと言えば疑問は残るのですけども。
でも無理して学校教育が人生のすべてを伝え教えようとする必要はないので、地域の頑張っている団体が行う社会教育との連携をとって話し合いながらお任せしちゃうのも手だと思いますけどね。
とここまで書いて、やっぱり難しい問題を含んでいることをしみじみ感じます。それはイスラム国がどうのとかじゃなく、教員の裁量に任されていることの良さと悪さです。
良いところはクラスとして担任の声かけ次第で学ぶ場としての雰囲気が変わる可能性があること。悪いところは適当な担任による適当な集団として成長してしまうこと。両方を孕んでいるんでしょう。
ニュースには見えない、担任の苦悩も見え隠れしたりしなかったり。
校長も謝罪でほとぼりを冷まそうと必死な感じもある。
その教員の目的は間違っていません、信じています。ただ方法に問題があったので今後指導したていきたいと思います。
といってほしいものだ。
ということで「学校の授業で人質殺害の画像を見せた」というニュースについて
僕の意見としては…
「やっぱり学校教育で取り扱うにはハード過ぎる」
です。
もし「生命の大切さ」を生徒に伝えたかったのならば他の方法が数多くあると思うからです。豚ちゃんを育てて大きく成長したら食べるのかどうか話し合うという「いのちの授業」だったかな?そんな教材も選択肢のひとつでしょう。
「多くの人間が住む地球規模の多様性」を伝えたかったのならば、特定の宗教を教材にするのはちょっと危ない感じがします。「イスラム教は危ない人種」と間違って擦り込んでしまいそうです。
実際大人の僕でも最近のテレビニュースを観ていると「イスラム教ってちょっと怖いよね」と無意識に感じている自分にギョッとします。
では何歳からこんな教材を用いるべきなのか?
それはまた難しいのですが、条件付きで…
大学のゼミなどの少人数で話し合うことができる環境を作ってキチッと教員がファシリテート出来るなら価値があるような気がしますね。
学校教育の40人規模対教員の一斉授業で取り扱うものではないかと。もし間違った方向に感情が傾いた時に軌道修正できないような気がします。
ただ「死」を学ぶのは、とても良いことじゃないかなと思う。例えば虫を踏んづけたり、夏祭りの金魚がすぐに死んじゃうわけで。果たしてその死を保護者がどのように伝えているのかは教員としては気になるでしょうし、教育の一環として性教育や道徳に並ぶ重要な「生き方レッスン」だと思うのであります。
実際、自分が受けてきた授業で「死を学ぶ」授業は一回も無かったように記憶しているし。死を考えたこともない。死に対して曖昧でタブーであることも知らないただの餓鬼だったと思います。
今、40歳になって両親が病気と上手に付き合って生きているのを見ると、やっと「あー、もうすぐ死を実感するのかもしれない」という感情がジワジワ広がってくるのです。
こう考えると僕は両親が健在で、祖父や祖母と同居していたわけではないので死というものを幼い頃に感じる機会が少なかったことが幸せでもあり、不幸でもあったのかもしれません。
急激な寂しさを味わってしまうと思春期の微妙な時期を、また違った形で迎えていたのかもしれないからです。まぁ、ちなみに今の僕が真っ当に生きているのかと言えば疑問は残るのですけども。
でも無理して学校教育が人生のすべてを伝え教えようとする必要はないので、地域の頑張っている団体が行う社会教育との連携をとって話し合いながらお任せしちゃうのも手だと思いますけどね。
とここまで書いて、やっぱり難しい問題を含んでいることをしみじみ感じます。それはイスラム国がどうのとかじゃなく、教員の裁量に任されていることの良さと悪さです。
良いところはクラスとして担任の声かけ次第で学ぶ場としての雰囲気が変わる可能性があること。悪いところは適当な担任による適当な集団として成長してしまうこと。両方を孕んでいるんでしょう。
ニュースには見えない、担任の苦悩も見え隠れしたりしなかったり。
校長も謝罪でほとぼりを冷まそうと必死な感じもある。
その教員の目的は間違っていません、信じています。ただ方法に問題があったので今後指導したていきたいと思います。
といってほしいものだ。