宇宙の理を悟った植芝盛平
生体水と同じように、人間には神の分霊が宿っています。日月神示にも、人間は神の分け御霊であるとあります。神社や神棚にある鏡は、そのことを示しているといわれています。そして私たち人間に宿っている神は、根源神といわれる天之御中主神とのことです。
身体には生体水があり、魂には神の分け御霊があるのですから、元々人間は健康な身体と魂を備えて生まれてきていると考えられます。
人間は神の分け御霊であり、神の力を備えているはずですが、ほとんどの人はそれを発揮できていません。なぜ神力を出せないのでしょうか。合気道開祖である植芝盛平は以下のように述べています。
『合気とは、敵と闘い、敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。合気道の極意は、己を宇宙の動きと調和させ、己を宇宙そのものと一致させることにある。合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、「我は即ち宇宙」なのである。私はこのことを、武を通じて悟った。
いかなる速技で、敵がおそいかかっても、私は敗れない。それは、私の技が、敵の技より速いからではない。これは、速い、遅いの問題ではない。はじめから勝負がついているのだ。
敵が、「宇宙そのものである私」と争おうとすることは、宇宙との調和を破ろうとしているのだ。すなわち、私と争おうという気持を起こした瞬間に、敵はすでに敗れているのだ。そこには、速いとか、遅いとかいう、時の長さがまったく存在しないのだ。
合気道は、無抵抗主義である。無抵抗なるが故に、はじめから勝っているのだ。邪気ある人間、争う心のある人間は、はじめから負けているのである。
ではいかにしたら、己の邪気をはらい、心を清くして、宇宙森羅万象の活動と調和することができるか?
それには、まず神の心を己の心とすることだ。それは上下四方、古往今来、宇宙の隅々までに及ぶ、偉大なる「愛」である。「愛は争わない。」「愛には敵がない。」何ものかを敵とし、何ものかと争う心は、すでに神の心ではないのだ。これと一致しない人間は、宇宙と調和できない。宇宙と調和できない人間の武は、破壊の武であって、真の武産(たけむす)ではない。
だから、武技を争って、勝ったり負けたりするのは真の武ではない。真の武はいかなる場合にも絶対不敗である。即ち絶対不敗とは、絶対に何ものとも争わぬことである。勝つとは己の心の中の「争う心」に打ち勝つことである。与えられた自己の使命を成し遂げることである。しかし、いかにその理論を難しく説いても、それを実行しなければ、その人はただの人間にすぎない。合気道は、これを実行してはじめて偉大な力が加わり、大自然そのものに一致することができるのである。』
「宇宙そのものである私と争おうという気持を起こした瞬間に、敵はすでに敗れている」と植芝盛平は述べています。また、「勝つとは、己の心の中の争う心にうちかつことである」とも言っています。宇宙そのものになることができれば、無敵だということです。