ヨハネによる福音書18章15〜27節
ペトロの裏切りを、私たちキリスト者はどのように受け止めていけばよいのでしょうか。自分には、ありえない話だと思える強い方もいれば、自分もまた同じような行動にでるかもしれないと思う方もいるでしょう。あるいは、このような場面になれば自分はほとんど間違いなく裏切るなと、自分の弱さを認め、今から割り切っている方もいるでしょうし、そのときになってみないとわからない、案外と耐え忍ぶかもしれないなど、さまざまな予感が私たちの脳裏をよぎります。このペトロの裏切りのお話は、迫害にあった後のキリスト者たちにどのような影響を与えたでしょうか。それは、今のわたしたちへの影響もしかりであります。
このお話を考えるときには、それまでのぺトロがどのような人物だったのか、また、イエス様との関係はどのようであったのかを、まず見ることが大切な作業としてあるように思われます。ヨハネによる福音書では、ペトロの兄弟のアンデレは、はじめはバプテスマのヨハネの弟子であり、そのアンデレの、メシアに会ったという紹介のもとに、ペトロはイエス様と知り合うことになりました。
イエス様は、会った最初に、シモンという本名をもつ彼を見つめられ「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ-『岩』という意味-と呼ぶことにする」と言われたのでした。いくつかの箇所からペトロとイエス様の関係をみてみたいと思いますが、ヨハネによる福音書の6章の66節では「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」との記事がありますが、そのときの経緯については、イエス様が、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」といった話をされたときに、他のユダヤ人だけでなく弟子たちの多くもこれを聞いて「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と反応したということでした。
そのときに、イエス様は、12人の弟子に「あなたがたも離れて行きたいか」と尋ねます。そうしましたらぺトロが「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、知っています」と主告白を致しました。そして、13章の36節からでは、ペトロが別れの説教をなさるイエス様にこれからどこへ行かれるのですか、と問うて、イエス様がわたしの行くところに、あなたは今ついて来ることはできないが後でついて来ることになると、言われます。
そして、なぜ今ついて行けないのですかと、再びペトロは問うてから、「あなたのためなら命を捨てます」と答えています。また、イエス様が捕えられたときにも、やってきた兵士、そして、祭司長、ファリサイ派の人々が遣わした下役たちと一戦を交え、大祭司の手下の一人の右の耳を切り落としたのです。そのときは、イエス様から剣をさやに納めるように言われるのですが、ペトロは、決してヨハネによる福音書においては、臆病で弱い人間としては描かれてはおりません。イエス様が捕えられたあとも、イエス様が連行されていった大祭司の屋敷にもう一人の弟子と共に潜入しております。
ペトロは、むしろ、イエス様のよき理解者であり、命を捧げてもよいとまで思っておりました。それはあながち、嘘ではなかったのです。福音書では、イエス様にとっても、ペトロは他の弟子たちよりもかなり濃い関係の人物のようにして描かれています。しかし、その彼が、いよいよ自分の身が危険にさらされたときに、イエス様を裏切ることをしてしまったのです。
イエス様が、どうしてシモンにアラム語でケファ「岩」、ギリシャ語でペトロといういわゆるあだなをつけられたのか、それは、マタイの16章18節ではこの岩の上に私の教会を建てると言われたことがありましたから、そういった意味で、岩という教会の最初の土台としてのペトロ、岩という名をいただくことになったという解釈がありますし、またしっかりとしているのが岩ですが、実際は、他の福音書などを見ますと、イエス様に対しては他の弟子たちと同じように無理解で、頼りないお調子者の人物として描かれていないこともありませんので、そうしますと、その軟弱なペトロがイエス様からあえて岩だと呼ばれたことに意味があるのだと思います。
つまり、イエス様がこの軟弱な男に、あなたは岩だと言われたのですから、イエス様が共におられるならば誰しもがこのペトロのように軟弱であっても岩のようになれるのだと言外に語られているようにも思います。
このペトロの大祭司の屋敷の庭でのイエス様を知らないという最初の裏切りのお話と、2度目、3度目の知らないという否認のお話の前後は、イエス様が捕えられたときのお話とイエス様が大祭司の屋敷で、カイアファのしゅうとのアンナスから尋問を受けたときの話が述べられています。そのときのイエス様のお姿は、ペトロとは実に対照的で、かなり、はっきりと捕えに来た者たちや、大祭司に対してご自分のお気持ちやご意見を述べられております。捕えに来た者たちを前にして、イエス様は逃げも隠れもしないのです。また、イエス様の方から誰を捜しているのかと尋ねられ、彼らが、「ナザレのイエスだ」と答えると「わたしである」と名のられます。実に堂々とされて、臆するところがありません。ペトロとは雲泥の差なのです。
それに比べ、ペトロは、三度もイエス様を知らないといって、イエス様を裏切る行為をするのです。このときのようすも、門番の女中が「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と聞かれて、咄嗟に「違う」と言うのです。なぜなら、このとき、寒かったので、僕や下役たちは、炭火をおこし立って火にあたっていましたが、ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた、と書かれています。
しかし、すぐ隣に、僕や下役たちが一緒におりました。ですから、ペトロは、これはまずいと判断して、すぐに「違う」と否定したのです。周りはすべて、いわゆる敵なのです。彼は、なかば条件反射的にそのように言ったことでしょう。それでもペトロは、その場をすぐには立ち去ろうとはしませんでした。そこで立ち去れば、いよいよもって、不自然な行動、逃げたととられる恐れがあったからだったのかどうか、そのままい続けておりました。
それから、イエス様が大祭司の屋敷で、訊問を受ける場面に聖書は移ります。大祭司は、弟子たちのことや、イエス様の教えについて尋ねます。やはり権力をもつ者たちにとっては、弟子たちがどのような人物たちであるのかは気になるところでした。そして、場合によっては弟子たちにも危害が及ぶことが予想されました。それから、どのようなことを教えているのか聞かれたのでした。イエス様は「わたしは、世に向かって公然と話した。
わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか」と言われました。また、態度が反抗的だと下役の一人が、イエス様を平手で打ったときにも「何が悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」と言われまして、毅然としたイエス様のお姿が描かれています。
そして、また、なお、屋敷の中庭で、立って火にあたっているペトロにスポットが移ります。そうしましたら、そこにいた人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないか」と言い始めたのでした。今度は、一人ではなく幾人かの者たちが口をそろえたようにペトロに詰め寄ったのです。そのときもまた、「違う」と言いました。ところが、今度は、大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか」と言いました。これは、絶体絶命です。私は現場にいて確かにお前を見たぞ、という有力な目撃者が現れたのです。ペトロは、動揺し、否定するのが一杯一杯だったことでしょう。
おそらく、イエス様が、つい昨日言われた、「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」の言葉など、頭の中からとんでいたことでしょう。三度目にイエス様のことを否認したときに、鶏が鳴きました。他の三つの福音書は、ここで、イエス様の言葉を思い出して、ペトロは泣いたとでてまいります。ところが、ヨハネによる福音書では、それがでてきません。ペトロは、鶏の鳴き声を聞いて、イエス様のあのお言葉を思い出したのかどうかもわからないのです。そして、そのときのペトロの心情を知る手がかりとなるものは描かれておりません。
鶏が鳴いたとき、他の福音書の記述と同じように、書いていないだけで、はっと我に返り、後悔したのか、自分に絶望したのか、悲しくなったのか、或いは、それも聞こえないほどに動揺してしまっていたのか、それはわからないのです。ただし、おそらくこのときの気持ちを推し量る材料としては、21章の15節からのところに、復活されたイエス様が、ペトロに「わたしを愛しているか」と3度聞かれる場面がでてまいります。それに対してペトロも「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と、3度答えます。しかも、3度目に「わたしを愛しているか」と聞かれたときに、「悲しくなった」とペトロの心情に触れています。
ペトロは、イエス様が自分を信じてくださらない、何度言っても、イエス様は私の言うことを信じてくださらない、それで、悲しくなった、そういうことであったのでしょうか。それであれば、明らかに、ペトロは、イエス様を裏切ったときのことを痛く後悔していたことになります。あなたはあのイエスの弟子ではないか、と3度聞かれて、否違うと3度打ち消したことがらに、この3度「わたしを愛しているか」と聞かれたのは、明らかに呼応しているのです。
そして、イエス様は、このときある意味では、ペトロに3度「愛しています」と答える機会を与えて、「わたしの羊を飼いなさい」、「わたしに従いなさい」と、ペトロを赦し、ペトロの気持ちを楽にしてあげ、使命を与え、決意を新たにさせようとしているのです。再出発をさせてあげようとしているのです。
はっきりしていたのは、イエス様が、予告したとおりのことが起こったという事実でした。ペトロは弟子たちの代表として多くは描かれています。そして、現代の世の教会の代表だともと言えるのではないでしょうか。
さて、私たちキリスト者たちは、ここに書かれていることを通して何を学んだら、何を考えたらよいのでしょうか。あるいは、聖書が語ろうとしていることは何なのでしょうか。
一つには、このときのペトロのようであってはならない、このときのイエス様のように、迫害がたとえ迫るときでも、毅然とした態度で、イエス・キリストの弟子として勇敢に立ち続けなさい、そういう励ましをこの物語は与えているのではないかという理解です。もう一つの理解は、この物語は、人間の限界をわたしたちに伝えています。どんなに元気者のペトロでも、「あなたのためなら、命を捨てます」とまで言えるほどの人物でも、いざとなれば、どうなるかわからない、それが人間なのだということです。
それほどに、人間は脆く、弱いのだと教えています。ですから、「あなたのためなら、命を捨てます」などと、神様に対して誓うのは、もってのほかなのですが。しかし、たとえ、自分の身が危険にさらされて、その迫害に耐えきれず、イエス様を裏切ることになったとしても、それをイエス様は責めることはなさらず赦してくださいます。そして、それだけなく、私を愛しているかとやさしく尋ねられて、再びイエス様との関係の回復をイエス様の方から迫ってくださいます。そして、新たなる使命を与え、その道に一歩踏み出すように背中を押してくださるのです。
イエス様が、ペトロの裏切りを予告したときの場面をもう一度見てみます。13章の36節からのところです。ペトロが「主よ、どこへ行かれるのですか」と問いました。イエス様は、「わたしの行く所に、あなたは今はついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と言われました。復活のイエス様は、ペトロに「わたしを愛しているか」と問われたあと、「わたしの羊を飼いなさい」と言われ、最後には「わたしに従いなさい」と言われました。ペトロは、のちにイエス様の言われたとおりに生きていきます。後でついていったのです。そして、イエス様の言われたとおり、ペトロ-岩-として、その生涯を殉教で閉じたと言われています。
私たちには、このペトロの裏切りのお話は、慰めであり、励ましともなります。迫害などを耐え忍ぶ場合には力になりますし、どうしようもなくて裏切る場合にも、それは絶望では終わりません。慰めと希望につながります。ただし、裏切った場合には、そこで留まってはなりません。それを赦してくださる主がおられることを信じて、もう一度、主に立ち帰ることをすればよいのです。そして、その次こそは、主に従い通す自分であればよいのです。私たちにもまた、イエス様から「あなたは岩だ」とった言葉は語られているのだと信じます。
平良 師
ペトロの裏切りとわたしたち
ペトロの裏切りを、私たちキリスト者はどのように受け止めていけばよいのでしょうか。自分には、ありえない話だと思える強い方もいれば、自分もまた同じような行動にでるかもしれないと思う方もいるでしょう。あるいは、このような場面になれば自分はほとんど間違いなく裏切るなと、自分の弱さを認め、今から割り切っている方もいるでしょうし、そのときになってみないとわからない、案外と耐え忍ぶかもしれないなど、さまざまな予感が私たちの脳裏をよぎります。このペトロの裏切りのお話は、迫害にあった後のキリスト者たちにどのような影響を与えたでしょうか。それは、今のわたしたちへの影響もしかりであります。
このお話を考えるときには、それまでのぺトロがどのような人物だったのか、また、イエス様との関係はどのようであったのかを、まず見ることが大切な作業としてあるように思われます。ヨハネによる福音書では、ペトロの兄弟のアンデレは、はじめはバプテスマのヨハネの弟子であり、そのアンデレの、メシアに会ったという紹介のもとに、ペトロはイエス様と知り合うことになりました。
イエス様は、会った最初に、シモンという本名をもつ彼を見つめられ「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ-『岩』という意味-と呼ぶことにする」と言われたのでした。いくつかの箇所からペトロとイエス様の関係をみてみたいと思いますが、ヨハネによる福音書の6章の66節では「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」との記事がありますが、そのときの経緯については、イエス様が、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」といった話をされたときに、他のユダヤ人だけでなく弟子たちの多くもこれを聞いて「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と反応したということでした。
そのときに、イエス様は、12人の弟子に「あなたがたも離れて行きたいか」と尋ねます。そうしましたらぺトロが「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、知っています」と主告白を致しました。そして、13章の36節からでは、ペトロが別れの説教をなさるイエス様にこれからどこへ行かれるのですか、と問うて、イエス様がわたしの行くところに、あなたは今ついて来ることはできないが後でついて来ることになると、言われます。
そして、なぜ今ついて行けないのですかと、再びペトロは問うてから、「あなたのためなら命を捨てます」と答えています。また、イエス様が捕えられたときにも、やってきた兵士、そして、祭司長、ファリサイ派の人々が遣わした下役たちと一戦を交え、大祭司の手下の一人の右の耳を切り落としたのです。そのときは、イエス様から剣をさやに納めるように言われるのですが、ペトロは、決してヨハネによる福音書においては、臆病で弱い人間としては描かれてはおりません。イエス様が捕えられたあとも、イエス様が連行されていった大祭司の屋敷にもう一人の弟子と共に潜入しております。
ペトロは、むしろ、イエス様のよき理解者であり、命を捧げてもよいとまで思っておりました。それはあながち、嘘ではなかったのです。福音書では、イエス様にとっても、ペトロは他の弟子たちよりもかなり濃い関係の人物のようにして描かれています。しかし、その彼が、いよいよ自分の身が危険にさらされたときに、イエス様を裏切ることをしてしまったのです。
イエス様が、どうしてシモンにアラム語でケファ「岩」、ギリシャ語でペトロといういわゆるあだなをつけられたのか、それは、マタイの16章18節ではこの岩の上に私の教会を建てると言われたことがありましたから、そういった意味で、岩という教会の最初の土台としてのペトロ、岩という名をいただくことになったという解釈がありますし、またしっかりとしているのが岩ですが、実際は、他の福音書などを見ますと、イエス様に対しては他の弟子たちと同じように無理解で、頼りないお調子者の人物として描かれていないこともありませんので、そうしますと、その軟弱なペトロがイエス様からあえて岩だと呼ばれたことに意味があるのだと思います。
つまり、イエス様がこの軟弱な男に、あなたは岩だと言われたのですから、イエス様が共におられるならば誰しもがこのペトロのように軟弱であっても岩のようになれるのだと言外に語られているようにも思います。
このペトロの大祭司の屋敷の庭でのイエス様を知らないという最初の裏切りのお話と、2度目、3度目の知らないという否認のお話の前後は、イエス様が捕えられたときのお話とイエス様が大祭司の屋敷で、カイアファのしゅうとのアンナスから尋問を受けたときの話が述べられています。そのときのイエス様のお姿は、ペトロとは実に対照的で、かなり、はっきりと捕えに来た者たちや、大祭司に対してご自分のお気持ちやご意見を述べられております。捕えに来た者たちを前にして、イエス様は逃げも隠れもしないのです。また、イエス様の方から誰を捜しているのかと尋ねられ、彼らが、「ナザレのイエスだ」と答えると「わたしである」と名のられます。実に堂々とされて、臆するところがありません。ペトロとは雲泥の差なのです。
それに比べ、ペトロは、三度もイエス様を知らないといって、イエス様を裏切る行為をするのです。このときのようすも、門番の女中が「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と聞かれて、咄嗟に「違う」と言うのです。なぜなら、このとき、寒かったので、僕や下役たちは、炭火をおこし立って火にあたっていましたが、ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた、と書かれています。
しかし、すぐ隣に、僕や下役たちが一緒におりました。ですから、ペトロは、これはまずいと判断して、すぐに「違う」と否定したのです。周りはすべて、いわゆる敵なのです。彼は、なかば条件反射的にそのように言ったことでしょう。それでもペトロは、その場をすぐには立ち去ろうとはしませんでした。そこで立ち去れば、いよいよもって、不自然な行動、逃げたととられる恐れがあったからだったのかどうか、そのままい続けておりました。
それから、イエス様が大祭司の屋敷で、訊問を受ける場面に聖書は移ります。大祭司は、弟子たちのことや、イエス様の教えについて尋ねます。やはり権力をもつ者たちにとっては、弟子たちがどのような人物たちであるのかは気になるところでした。そして、場合によっては弟子たちにも危害が及ぶことが予想されました。それから、どのようなことを教えているのか聞かれたのでした。イエス様は「わたしは、世に向かって公然と話した。
わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか」と言われました。また、態度が反抗的だと下役の一人が、イエス様を平手で打ったときにも「何が悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」と言われまして、毅然としたイエス様のお姿が描かれています。
そして、また、なお、屋敷の中庭で、立って火にあたっているペトロにスポットが移ります。そうしましたら、そこにいた人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないか」と言い始めたのでした。今度は、一人ではなく幾人かの者たちが口をそろえたようにペトロに詰め寄ったのです。そのときもまた、「違う」と言いました。ところが、今度は、大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか」と言いました。これは、絶体絶命です。私は現場にいて確かにお前を見たぞ、という有力な目撃者が現れたのです。ペトロは、動揺し、否定するのが一杯一杯だったことでしょう。
おそらく、イエス様が、つい昨日言われた、「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」の言葉など、頭の中からとんでいたことでしょう。三度目にイエス様のことを否認したときに、鶏が鳴きました。他の三つの福音書は、ここで、イエス様の言葉を思い出して、ペトロは泣いたとでてまいります。ところが、ヨハネによる福音書では、それがでてきません。ペトロは、鶏の鳴き声を聞いて、イエス様のあのお言葉を思い出したのかどうかもわからないのです。そして、そのときのペトロの心情を知る手がかりとなるものは描かれておりません。
鶏が鳴いたとき、他の福音書の記述と同じように、書いていないだけで、はっと我に返り、後悔したのか、自分に絶望したのか、悲しくなったのか、或いは、それも聞こえないほどに動揺してしまっていたのか、それはわからないのです。ただし、おそらくこのときの気持ちを推し量る材料としては、21章の15節からのところに、復活されたイエス様が、ペトロに「わたしを愛しているか」と3度聞かれる場面がでてまいります。それに対してペトロも「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と、3度答えます。しかも、3度目に「わたしを愛しているか」と聞かれたときに、「悲しくなった」とペトロの心情に触れています。
ペトロは、イエス様が自分を信じてくださらない、何度言っても、イエス様は私の言うことを信じてくださらない、それで、悲しくなった、そういうことであったのでしょうか。それであれば、明らかに、ペトロは、イエス様を裏切ったときのことを痛く後悔していたことになります。あなたはあのイエスの弟子ではないか、と3度聞かれて、否違うと3度打ち消したことがらに、この3度「わたしを愛しているか」と聞かれたのは、明らかに呼応しているのです。
そして、イエス様は、このときある意味では、ペトロに3度「愛しています」と答える機会を与えて、「わたしの羊を飼いなさい」、「わたしに従いなさい」と、ペトロを赦し、ペトロの気持ちを楽にしてあげ、使命を与え、決意を新たにさせようとしているのです。再出発をさせてあげようとしているのです。
はっきりしていたのは、イエス様が、予告したとおりのことが起こったという事実でした。ペトロは弟子たちの代表として多くは描かれています。そして、現代の世の教会の代表だともと言えるのではないでしょうか。
さて、私たちキリスト者たちは、ここに書かれていることを通して何を学んだら、何を考えたらよいのでしょうか。あるいは、聖書が語ろうとしていることは何なのでしょうか。
一つには、このときのペトロのようであってはならない、このときのイエス様のように、迫害がたとえ迫るときでも、毅然とした態度で、イエス・キリストの弟子として勇敢に立ち続けなさい、そういう励ましをこの物語は与えているのではないかという理解です。もう一つの理解は、この物語は、人間の限界をわたしたちに伝えています。どんなに元気者のペトロでも、「あなたのためなら、命を捨てます」とまで言えるほどの人物でも、いざとなれば、どうなるかわからない、それが人間なのだということです。
それほどに、人間は脆く、弱いのだと教えています。ですから、「あなたのためなら、命を捨てます」などと、神様に対して誓うのは、もってのほかなのですが。しかし、たとえ、自分の身が危険にさらされて、その迫害に耐えきれず、イエス様を裏切ることになったとしても、それをイエス様は責めることはなさらず赦してくださいます。そして、それだけなく、私を愛しているかとやさしく尋ねられて、再びイエス様との関係の回復をイエス様の方から迫ってくださいます。そして、新たなる使命を与え、その道に一歩踏み出すように背中を押してくださるのです。
イエス様が、ペトロの裏切りを予告したときの場面をもう一度見てみます。13章の36節からのところです。ペトロが「主よ、どこへ行かれるのですか」と問いました。イエス様は、「わたしの行く所に、あなたは今はついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と言われました。復活のイエス様は、ペトロに「わたしを愛しているか」と問われたあと、「わたしの羊を飼いなさい」と言われ、最後には「わたしに従いなさい」と言われました。ペトロは、のちにイエス様の言われたとおりに生きていきます。後でついていったのです。そして、イエス様の言われたとおり、ペトロ-岩-として、その生涯を殉教で閉じたと言われています。
私たちには、このペトロの裏切りのお話は、慰めであり、励ましともなります。迫害などを耐え忍ぶ場合には力になりますし、どうしようもなくて裏切る場合にも、それは絶望では終わりません。慰めと希望につながります。ただし、裏切った場合には、そこで留まってはなりません。それを赦してくださる主がおられることを信じて、もう一度、主に立ち帰ることをすればよいのです。そして、その次こそは、主に従い通す自分であればよいのです。私たちにもまた、イエス様から「あなたは岩だ」とった言葉は語られているのだと信じます。
平良 師