平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2018年10月21日 神は避けどころ、苦難のときに助けてくださる

2019-02-10 14:46:44 | 2018年
詩編 46篇1節〜12節
神は避けどころ、苦難のときに助けてくださる

 「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」。この詩編46は、宗教改革者のマルチン・ルターの愛唱詩編であったということです。彼は、この詩編46によって、励まされ、勇気を与えられたと言います。どのような信仰熱心な人も、苦しみや悩みがないという人間はいません。彼もまた、その宗教改革の最中に、多くの恐れ、不安、そして、人々の無理解など、数々の困難や苦難があったようです。逸話として残っているのは、彼の妻は、ルターのたいへん苦悩しているようすを見て、「神はおなくなりになりました」と言ったということです。それほどの状況を抱えたルターでしたが、この詩編の言葉によって、そのときを乗り越えていくことができたのでしょう。
 詩編46の2節は、この詩編の主要テーマを述べている箇所だと思われます。私たちに、神様こそがわたしたちの避けどころであり、苦難のときには、必ずそこにおられて、つまり、あなたが苦しんでいるそのただなかに共にいてくださり、助けてくださるのだといった、だから神様への信頼を固くせよ、そのように述べているように思えます。
 「わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、その高ぶるさまに山々が震えるとも」ここでのさまは、火山や地震や津波や洪水などをイメージさせる表現のように思えます。たとえ、火山や地震が起ころうとも、津波や洪水が起ころうとも、恐れることはいならいと言います。ここ数年、この日本は、地震、津波、洪水、火山など、まさに、ここに述べられている自然災害によって、多くの被害を受けております。そして、これからさらに、南海トラフを震源とする大地震が来るであろうということが予想されるなかで、私たちは不安のなかに暮らしております。それに対して、誰もが恐れおののいているのです。一体誰が、「わたしたちは決して恐れない」と言い切ることができるのでしょうか。
 備えはしておりますが、それで十分であるかどうか、今の段階でそれぞれの市町村が高台を設け、堤防を築いておりますが、それすらもこれで大丈夫だと言えるのかと聞かれれば、疑わしいのです。それほどに、巨大な地震が、巨大な津波が、くるやもしれないと思っています。前の2・11の大地震の津波は、予想をはるかに超えるものでした。しかし、この詩を書いた者は、神様が共におられて、助けてくださることに確信をもっています。
 この詩人は、一方で、どのような厳しいたいへんな状況がやってこようとも、神様が共におられ、自分たちを守ってくださり、助けてくださるから大丈夫と考えています。そして、その大丈夫さを神の都にたとえています。そして、その大丈夫さの根拠を、その都を流れる大河の流れにおいています。神様の都には、大河があり、そこには満々とした水が流れています。そして、その流れは、都にある神の聖所に喜びを与えています。神様のおられるところは揺らぐことがありません。そこには、大河がゆったりと流れています。
 おそらく、黙示録の22章の1節と2節は、この詩編46の5節の影響を受けております。「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に12回実を結び、毎月、実をみのらせる」。
 さらに、実際、都エルサレムには、地下水道があって、この地下水道によって、都を敵に包囲されたときも、都の住人は命を繋いできていたのでした。都のなかをゆったりと流れる大河は、いのちあるものを養い、私たちに安定と平安をもたらしてくれます。都、そこには、人々が住んでいます。その民がいるそこに神様も共におられるのです。民と共におられる。民のいるところに、神様もおられる、そして、そこは、揺らぐことがありません。命を育む水の流れがそこにはあります。
 また、神様は、世の争いを鎮め、平和へと導かれるお方です。「主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる」。そして、続けてこのように述べています。「力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる」。
 ですから、私たちは、己の力を捨て、力を抜いて、この神様にすべてを委ねることをするのです。ミカ書の4章3節でも「主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは、剣を打ち直して鋤とする。国は国に向かって剣を上げず。もはや戦うことを学ばない」。これは、世の終わりにおける神様の約束としても理解されています。
 「万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神は私たちの砦の搭」。この言葉は、8節にも出てまいりました。神様は、私たちと確かにいつも共におられます。そして、神様は、私たちにとって、敵から私たちを守る砦であり、しかも、そのなかの搭だと、述べています。砦の搭は、堅固であり、ゆるぎないものです。
 神様とは、私たちにとって、そのような存在です。ただ、それにしましても、私たちは、ほんとうに苦しいときに、神様を避けどころとしているのでしょうか。そのように真実に頼りとなるお方であるのに、私たちは神様に求めているのでしょうか。自分の弱さを否というほど、知らされたとき、神様が、共におられて私を助けてくださると真実に信じているのでしょうか。私たちは、自分の身に困難がふりかかってきたとき、神様を呼び求めているのでしょうか。私たちは、神様にいろいろな苦しい胸の内を打ち明けているのでしょうか。誰にも知られたくない苦しみや悲しみを神様に告白したり、助けを願い出ているのでしょうか。ほんとうに、今、ここに、このわたしの苦しみのなかに、神様が共にいてくださるのだろうか、そのことを信じているのでしょうか。
 私たちは、福音書のなかで、イエス様に助けを求めてやってきた多くの人々のことを知っています。病人自らがイエス様のところへやってきましたが、病人を抱えている人々が、イエス様のところへ、その人々を連れてやってくるケースもたくさんありました。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土から、イエス様の教えを聞くため、病気を癒してもらうために来たとあります。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしてもらったとあります。
 群衆は、皆、何とかしてイエス様に触れようとしました。イエス様から力が出て、すべての人の病気をいやしていたからでした。私たちは、そこまで、イエス様に必死になって求めているでしょうか。異邦人の百人隊長もイエス様に瀕死の状態にある部下の癒しを願い、やってきました。そして、やってきたすべての人々は、イエス様から癒しをいただいて、帰路についたのでした。
 ルカによる福音書18章1節から9節には、そのイエス様が、一つのたとえを語られています。それは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないということを弟子たちに教えるためでした。ある神を畏れず人を人とも思わないひどい裁判官のところに、一人のやもめがやってきます。彼女は、相手を裁いて、自分を守って欲しいということでした。最初から、公平な裁判をお願いしますというのではなく、とにかく相手を裁いて自分を守って欲しいという一方的な願いでした。このような裁判官ですから、このような弱い立場の、しかも何の見返りみも期待できそうにないやもめを相手にするはずもありませんでした。
 初めは、そのように彼女のことを無視していた裁判官でしたが、あまりにもしつこくてかなわないと思うようになり、このままでは、自分をさんざんな目に遭わすに違いないと恐怖さえおぼえるようになって、この女性のために裁判をしてあげます。もちろん、いろいろ調査してできるだけ公平な裁判を心がけたのではなく、あとあと自分に迷惑をかけないようにと、この女性の側に立った裁判を行ってあげたはずです。
 イエス様は、このたとえ話を語られながら、この不正な裁判官でさえ、こうなのだから、神様は、「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わず、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる」と言っておられます。これは、イエス様が弟子たちに奨めていることなのです。このような神様なのだから、求めなさい、日夜求めなさい、祈りなさい、神様は必ずそのとおりにしてくださる、ということを信じなさい。
 しかし、イエス様は、言われます。「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか」と。こともまた、イエス様は、わかっておられます。しかしながら、この神様に真実に願い求める人間がどれほどいるのだろうか、ということであります。
 本日の聖書の箇所、詩編の46編は述べています。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」。このことを信じ、実際に、日夜求め続け、祈り続けましょう。そして、そのような証しを立てることができますなら、それもまた、喜ばしいことだと思います。
 今日、来られたギデオン協会の池田さんは、福岡女学院教会の会員の方ですが、聖書に描かれている神様が、まさに、人々の避けどころ、苦難のときに必ず、そこにおられて、助けてくださるお方であることを信じて、こうして聖書配布の業をずっとなされてこられたとのだと思います。
 必ず、そこにおられて、助けてくださる、苦難のなかにあるとき、神様はどこにもおられない、そう思いたくなるようなそのとき、そうではない、必ず、そこにおられる、私たちの神様は、インマヌエルの神様であることをこれからも信じてまいりましょう。これが私たちの神様の名です。私は有る、私はいるかいないかわからない、そのような神ではなく、私はある、私は確実に存在している、今、ここに、あなたがたのなかに確実にいる、それが、私たちの神様のお姿です。
「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」。この主に、これからもわたしたちの人生には、いろいろな苦しみや苦悩があるでしょうが、この神様が、わたしと共にいてくださることを信じ、その、ゆらぐことのない信仰をもって、歩んでいきたいと思います。


平良牧師

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