平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2018年12月16日 神様の介入

2019-02-14 15:08:44 | 2018年
マタイによる福音書 1章18節〜25節
神様の介入

 今年もこの箇所を扱うこととなります。この季節になるたびに、何度も目を留める箇所でありまして、今度で何回目でしょう。しかし、どの聖書の箇所もそうなのですが、そのたびに新しい発見や示しがあるものです。聖霊は生きて働いておられるのですから、当然と言えば当然なのですが。今回もまた、新しい発見がありました。それは、インマヌエルということについてです。つまり、神様は我々と共におられる、ということの意味をこの箇所から、また、新鮮な感覚をもって教えられました。
 さて、マタイによる福音書の降誕物語では、マリアというよりもヨセフにスポットが当てられています。マタイという福音書記者は、ユダヤ人の救いということを第一に考えていたような人でしたから、そのユダヤ社会は父権制度に立った社会ですから、また、ダビデの子イエス様という概念に基づいていましたから、その末裔としてのヨセフが、血筋として表に登場するということになるのでしょう。
 ここらは、ルカとは大違いです。ルカでは、ヨセフの存在はまったく薄いですね。もちろん、マタイにおいても、ヨセフの登場は、この降誕物語から幼いイエス様時代くらいなもので、あとは、登場致しません。また、ルカでは、マリアが天使の御告げを受けて、天使と対話する場面がありますが、マタイでは、一方的に、天使がヨセフに情報を提供するだけで、ヨセフからの問いかけなど、会話する場面もありません。こういう点もまた、ヨセフの存在の薄さを物語っているかもしれません。
 ヨセフは、マリアが既に身ごもっていることを知りました。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」。これは、どのような経緯でそれがわかったのかは書かれてありません。とにかく、彼にそのことははっきりと伝わったということです。それを明らかにしたのは、聖霊のお働きだったということでしょうか。それにしても、婚約中の女性が、まだ、何の関係もないうちに妊娠するというのはこれから結婚しようとしている男性にとっては、かなりショックな大事件だったはずです。
 そのとき、ヨセフは、マリアのことを表ざたにすることを避けて、ひそかに縁を切ろうと考えました。マリアから事情を聞こうとは思わなかったのでしょうか。また、マリアもヨセフにことの経緯を説明しようとは思わなかったのでしょうか。今の時代に生きる私たちは、ここらは、ちょっと不自然な気が致します。男と女の対等な関係などなかった時代でしょうから、そうしたことで会話を交わして問題を正すなどといったこともなかったのかもしれません。
 しかし、これは大人の対処の仕方と言えば、そうなのかもしれません。そして、もし、そのような話し合いらしきことを実際行えば、泥沼状態になるのは必至でした。マリアが、聖霊によって自分の身に起こったこと、つまり、子を宿したことが聖霊の働きによるものだと説明したとしても、ヨセフがそうだったのかと納得できるはずもありませんでした。
 私たちは、どこかでは、話せばわかるということを信じて人との関係を続けたいとは思いますが、確かに、話してもどうにもならない、理解してもらえないということがあることも事実です。そして、このような常識では考えられないケースは、話しても埒が明かないということになるでしょう。いくら、時間をかけたとしても、こうした内容は、どうにもならないのではないでしょうか。
 天使が間に入って、ことの真実を夢をとおしてヨセフに告げます。ルカによる福音書では、マリアに天使がこれから起こる事柄を直接に告げています。それ以外に、両者が夫婦としての関係を続けていくことは不可能だったのではないでしょうか。イエス・キリストが私たちにもたらす福音は、和解の福音でした。和解の中身は、神様と人間の関係が第一です。
 それから、人と人との和解においてもまた、イエス様が十字架におつきになられた故に可能となったのであって、私たちもイエス様から他者を赦すことを教えられているのです。人と人との和解です。イエス様は、インマヌエルと呼ばれるお方です。「神は我々と共におられる」という意味です。共におられるということは、傍らで眺めておられるだけのお方ではなく、私たちのなすことに、或いは、私たちをめぐって起こることに介入をなさるということではないのでしょうか。
 この降誕物語では、はじめに出来事を起こされたのは、神様です。そして、そのことによって生じた亀裂を修復しようとして、主の天使がやってきて、説明をしたからこそ、二人は、自分たちの身に起こることを受け入れていくことができました。
 天使は、このイエス(主は私たちの救いという意味)というお方は、インマヌエルとも呼ばれると言われました。「神は我々と共におられる」という意味ですが、私たちは、このインマヌエルの神様をどのような形で実感しているでしょうか。私は、この実感するという体験は非常に重要なものだと思っています。
 実際、信仰に与った方々は、何らかの形で、そのことを体験したはずです。神様がこの私と共にいてくださっているということを実感できたからこそ、信じる決心をしたはずなのです。理屈だけでもって信仰することにしたという方もおられますが、それは割合的には少数です。少なくとも、私の、これまで信仰に導かれた方々との出会いからは、少数であるということは言えます。多くは、神様が、イエス様が共におられることを実感されています。
 もし、信仰に入るときには、そのようなことはなかったとしても、信仰生活を送っていくなかで、そうしたことがらを体験して、信仰の確信が得られる、そういうこともあります。そして、おそらく、そうしたことの体験のある方は、そうした体験のない方よりも、今なお、キリスト者としての生活を送ることができるのかもしれません。
 24節には「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた」とあります。ヨセフは、この出来事について、天使の説明を聞いたときに、このことに納得することができたし、しかも、神様が共におられることに確信をもてたのでしょう。
 ですから、天使からイエスと名付けるように言われたとおり、父親が認知したことを証明する行為としての命名を彼はなしたのでした。ただし、それまでは彼はほんとうに苦しかったと思います。なぜなら、彼は、いい加減な人間ではなかったからです。「夫ヨセフは正しい人であったので」とあります。正しいというのは、当時のユダヤ社会において正しいということであり、それは、律法をしっかりと守って生きていた人だったということです。
 そういう人ですから、婚約相手のマリアが妊娠をしたということは、人一倍にとても許しがたいことであったはずです。しかも、マリアを愛していてこれからの人生設計を彼なりにあれこれと考えていたときであったことでしょう。それが台無しになってしまいますし、さらに、愛する人に裏切られたという思いがまた、彼を苦しめたはずでした。それでも、「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」というのは、マリアに対して、まだ、少なからずの愛情があったからかもしれません。
 そもそも当時は、婚約期間も結婚もあまりさしたる差はなかったような時代でした。婚約中に男性が死亡した場合には、結婚はしていなくても、女性はやもめとしての扱いを受けました。ですから、婚約中で、まだ、正式な結婚生活までには至っていなかったので、傷は浅かったということではなかったのです。それで、このような場合、ヨセフがとった選びが、一番、双方にとって傷が浅くすむものであっただろうとは思います。表ざたにしないと言うやり方でした。表ざたにするということは、マリアを姦淫の罪に問うということになります。
 それは、最悪の場合、石打の刑ということにもなりました。そして、ことは、それだけにとどまらず、ヨセフ自身が物笑いのタネにならないとも限りません。自分の不名誉ということにもなりかねません。それは、双方がたいへん傷つくことになります。ひそかに縁を切るというのは、法廷に持ち込むというようなことをせず、離縁状を渡し、それを証明する二人がいれば、婚約破棄は成立したのでした。彼は、ひそかにそういうやり方で、ことを収めようとしたのでした。
 しかし、ヨセフの方は、それでよいとしても、マリアの方はもし婚約破棄となり、これからのことを思えば、それは厳しい事態が待ち構えていたということはあったでしょう。お腹は、だんだん大きくなり、それが誰の子であるかも明かすことができません。たとえ、明かしたとしても誰もそのようなことを信じることはしないでしょう。
 ですから、この窮地を救う道は、ヨセフが、マリアとの関係を夫婦ということで、つなぎ通すことしかありませんでした。それは、二人の話し合いという形では、できなかったということです。そこで神様が使いを遣わしたということです。天使が、それぞれに説明してそれは可能になったということです。神様の介入があったということです。イエス様は、インマヌエルと呼ばれるというのですが、そして、それは、神様は我々と共におられるという意味だというのですが、それは、神様が私達に何らかの形で、介入してくださる、そういうことではないでしょうか。
 もちろん、すぐそばにいるだけで、何もなさらないという介入の仕方もあることでしょう。少なくとも、イエス様が十字架におつきになられたとき、神様は、いかなる御手も差し伸べられることはありませんでした。それこそ、それは私たちのためであったのです。
 私たちは、福音書を読む限り、イエス様は、いろいろな奇跡をなさる、力強いお方であります。また、私たちに大切なことを教えてくださる、そして、私達を罪から解き放ち、心の底から私たちを自由に、解放してくださる、そのようなお方です。と同時に、十字架の上では、無力なお姿を私たちに示されました。
 先週、マタイによる福音書の系図のところからの説教で、この系図は、私たち罪ある者たちもまた、イエス様との系図のなかに組み込まれていると考えることを許容しているものだと言いました。それで言えば、イエス様をマリアが聖霊によって身ごもったということなのですが、人は誰もが、聖霊との間で生まれた子供たちと考えることもできるでしょう。
 そして、今もなお、イエス様としっかりとつながらされて、日々新たなる命に私達は生きているのです。イエス様が人としてこの世に来られたのは、私達人間の弱さもまたその身に帯びて、来られたはずですから、イエス様は、この世界に入って来られたということです。私たちがこの世に誕生したということは、既に私たち人間は、神様の介入、聖霊のお力が働いて、誕生したということがまずあるでしょう。
 すべての人々が、そうだと言えると思うのです。すべての人々は、神様のお恵み、聖霊のお力によって命をいただき、この世に誕生したし、その命は、イエス様としっかりとつながり続けるときに、日々また新たなる命を更新し続けているのだと思えるのです。
 神様の介入は、まずは、すべての人々の命の創造に際してありました。そして、また、イエス様を信じることにおいて、人生の上にも、日々共におられるという形であるのだと言えるのではないでしょうか。私たちのキリスト者の人生は、神は我々と共におられるという、力強い神様の介入を信じているというところにあるのではないでしょうか。人間の力ではどうにもならない問題にこそ、そのお方は力を発揮してくださいます。もちろん、一見何もしてくださらなかったと見えても、どこかに何らかの形で、神様は、即座に、あるいは、時間をかなりおいて、応答してくださっているはずなのであります。
 本来でしたら、とうにダメになった二人の関係をつなぎとめ、さらに、強い信仰の人々として成長させたのは神様であり、そこには大きな神様の介入があったことがわかります。


平良牧師

最新の画像もっと見る