平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2018年12月24日 貧しくなられた神

2019-02-14 22:34:24 | 2018年
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コリントの信徒への手紙 II 8章9節
貧しくなられた神

 先日、ある国の情報機器を扱っている会社のお偉い方が、逮捕されて、その保釈金が8億円だったと聞きました。持っている人は持っているものです。また、どこかの自動車会社の会長は、脱税したり会社のお金を勝手に使ったりと、その総額は数十億円にのぼると報じられていて、取り調べを受けています。持っている人は、持っていますね。今の時代、貧富の差、格差はほんとうに激しいと思います。
 私は、あと1年ほどで65歳になりますが、そうすると年金をもらえます。しかし、それで、生活ができるかというと、これがおぼつかないわけです。妻の年金と合わせてきっとかつかつなのでしょう。今の日本は、一握りの裕福な人と多くの貧しい人々がいるということで、ほんとうは豊かでは全然ないのではないか、そんな感じを最近は受けています。もし、裕福な国や人々が持っている富を何らかの形で、貧しい国々や人々に分け与えるならば、それは互いに友情や愛情さえも生まれて、バランスのとれた好ましい平和な社会になるだろうとは思います。
 しかし、富める人が、意図的に自分の富を分配するでしょうか。富める者が、自ら自分の財産を分け与えることがいかに困難かは、福音書のなかの富める青年、或いは男の話からもわかります。イエス様は、彼に言われました。自分(イエス様)に従ってきたいと思う者は、持てる物をすべて売り払い、貧しい人々に施して、それから、従ってきなさいと。そうしたら、彼は、悲しい顔をしてその場から去っていきました。
 聖書には、彼は、多くの財産をもっていたからであるとあります。彼はその富を手放すことはできませんでした。そして、イエス様は、言われるのです。富んでいる者が、天の国に入るよりはらくだが針の穴を通る方がたやすい、と。握りしめているものを手放すのは、難しいのです。そして、彼を支えていたのは、理想のお話ではなく、現実的にはお金、富だったのです。彼は、いかにしたら天の国に入れるかを模索しておりました。
 イエス様は、これまであなたが学んできたところでは何と言われていたか、そう聞きました。彼は、盗むな、姦淫するな、父母を敬え、隣人を自分のように愛しなさい、などの十戒のもろもろをイエス様に述べるのです、そして、これらのことについて、自分は幼い頃からしっかりと守ってきたと誇らしげに述べるのでした。そこで、イエス様は言われるのです。「あなたに欠けているものが一つある。行って、持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。
 私たちは、お金、富、これらのものがいかに自分たちに幸せとおぼしきことをもたらしてくれるかを知っています。お金と富、これらのものでできないことはない、と思えることの方が多いのではないでしょうか。強いて言えば、命を永らえさせることくらいです。これとても、お金をたくさん積めば少々はできるかもしれません。しかし、命のことについては、明らかに限界があるということです。いくらお金を積んでも、命については、ある程度以上のことはできないのです。
 そして、この欠けているものが一つといいますが、これこそ、最大のものでして、私達が、手放すことのできない、否、むしろ、それを追い求めているというのが人間なのです。価値とするものが、お金や富である場合が多いのです。
 ですから、例えば、国家でも個人としても、某国の大統領などは、多くを持っておりますが、否、それゆえにといった方が適切でしょうか、彼には、それらの富を貧しい国々や人々に分け与えるということができないでいるのです。彼は、富を手放すどころか、しっかりと握りしめ、さらに増やそうとしております。否、それは大国同士の覇権争いのような形に最近では表されておりまして、IAや情報機器などをめぐり、それは、双方の国が、あるいは、それらの大国と近い関係にある国々までもが、一緒になって対立した勢力を作り出してしいるといった形にまでなっています。
 利権や富は絶対に手放さない、そうしたことが大手を振ってまかりとおる社会となってきました。いつの時代も、人間が考えることはそんなところだ、と諦めるわけにもまいりません。というのは、これらのことが平和を脅かしているからです。
 私たちは、神様からすべてのものを恵みの賜物としていただいております。そうです、すべてのものが、神様からのものなのです。そして、その恵みに応答すべく、献げる生活を自ずとしています。そして、その献げる度合いが大きいほど、富により頼むのではなく、神様により頼む領域も大きくなるわけですから、その姿勢は、信仰のバロメーターにもなりうると言われるのです。多くを献げる人は、多くを神様に委ねて生きているということです。もちろん、献げるものは、金品に限らず、その人の持てる時間や能力など、いろいろとあることでしょう。
 聖書はしかし私たちに教えています。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。
 イエス様が、来られていったい何が豊かになったというのでしょうか。これは、実に具体的なことが書かれているのです。まずは、信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、パウロたちから受ける愛など、すべての点で豊かになっていると言っています。それから、富めるものが、そうでない者に分け与えることによって、貧しかった者たちが潤って、その潤った者たちが、今度は、与えてくれた者たちに与えることをするようになって、それでバランスがとれる、等しくなるという形での豊かさです。
 マケドニア州の諸教会が、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させて欲しいと、しきりにパウロたちに願い出たということが書かれています。聖なる者たちというのは、エルサレム教会のイエス様の直弟子たちを中心とする信徒たちを指しております。
 彼らは、どちらかというと、異邦人たちの世界にできたキリストの教会に比べ、貧しい生活を最初の頃からずっと送っておりました。それで、パウロは、エルサレム教会の者たちへの支援をマケドニア州の諸教会の人々が、申し出たということを喜んでいます。おそらく、パウロ自身が、以前からマケドニア州の諸教会にこのエルサレム教会支援のための献金の奨めをしていたものと思われます。
 それをコリントの教会の人々に話したか、テトス自らが支援活動をコリントで始めたのかは定かではありませんが、テトスという人物がリーダーになって、今度は、コリントの教会でそのことを積極的に進めようとしたのでした。それで、パウロも、一旦はじめたからには、その業を最後までやり遂げるように勧めているのです。
 パウロは、コリント教会の人々もまた、マケドニアの教会の人々と同じように、支援活動に積極的に取り組んで欲しいと願っているのです。パウロは、コリントの教会の人々に対して「あなたがたは信仰、言葉、知識、すべての点で豊かなのですから、この慈善においても豊かな者となりなさい」と言っています。パウロが彼らにそのことを勧めたのは、命令としてではなく、コリントの教会の人々の愛の純粋さを確かめるためであったと言っています。
 パウロは、この献金運動がどのような結末を生むかを知っています。「他の人々には楽をさせ、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです」。
 つまり、お互いに助け合って、互いが豊かさを享受することが可能となるというのです。神様や人に献げる、尽くすということが、心の豊かさ、ゆとりとなります。決して、献げた者や尽くした者が、苦労をするだけに終わる話ではないのではないです。それにより、それを受けた者は、楽をすることになりますが、献げた者も、豊かな気持ちにさせられ、いずれは、また、献げた相手から助けられるということがおこることでしょう。
 そこで、両者の間には、釣り合いがとれる関係がうまれます。よく言われますように、ボランティアをする者もまた、多くの勇気や励ましをその活動をとおして受けることができます。2019年は、ほんとうに災害の年でした。被災された方々のために、私たちの教会も森牧師をはじめ、被災地へ足しげく通い、できることをできる形でさせていただいたと思います。それから、2・11の東日本大震災被災地のことも、あれ以来おぼえ続けて、当教会の「被災地をおぼえるミニストリー」というミニストリーチームがバザーなどで支援金を日本バプテスト連盟を通して送らせてもらってきております。
 そこで、献げる側の心がけですが、「進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです」。つまり、持ってない物までを無理して献げることはいりません。あなたが持っている物のなかから、献げればよいのです。それが神様にも受け入れられるのです。
 イエス様も5000人に給食をしたときには、少年の持っていた5つのパンと二匹の魚でした。それらを分け与えることで、そこに集まっていた男性の大人5000人が、満腹したのです。そこには、成人した男性だけではなく、女性も子供もいたはずでありますから、もっと大勢の人々が、分け与えられたものを食べて、満腹したのでした。そこには、イエス様が、祝福されて配り与えたという出来事がありました。つまり、私達が、持てるささやかなものでも、それを神様が祝福してくださるならば、本来そのものがもっている値打ち以上の豊かさを与えることができるということなのです。その神様の働きを期待することが、私たちの信仰です。
 ヨハネによる福音書の1章の16節には「わたしたちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」とあります。また、フィリピの信徒への手紙2章6節から8節のいわゆるキリスト讃歌と言われる箇所にもこうあります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じになられました。人間の姿で現れ、へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。
 このようなへりくだりもまた、貧しさの一つと言えます。そして、イエス様のご降誕のさまがまさに、そのことを物語っておりました。当時、メシア、救い主は、ローマ帝国の皇帝のような英雄的な存在を人々はイメージし、期待もしておりました。
 それは、決して、弱い者ではありません。弱い者に何ができるというのでしょうか。他者を助けることのできるのは、貧しい者を助けることができるのは、強い者だといったイメージは、当時だけではなく、現代に生きる私たちにもまた、そのような思いを持っている人々は多いのだろうと思います。そしてまた、ローマ皇帝自らも、自分を神として礼拝することを強要していたのでした。
 しかし、イエス様の場合は、人口調査のために故郷に戻ってきたヨセフの出身地のガリラヤのナザレの町には、泊まる宿もなく、いたしかなたく、家畜小屋でお生まれになり、飼い葉桶に寝かされるといった具合でした。そのようなお方として、この世に来られました。ダビデの末裔であるとされるヨセフは、大工であり、マリアは、当時の祭司の一人であったザカリアの妻エリサベトの親類であったということですが、それ以上の素性はわからず、自らは、身分の低い者といっています。そのように、貧しい夫婦を肉の親として、この世に来られたのです。
 しかも、このメシア、キリスト、救い主の誕生が、いち早く知らされたのは、野宿して羊の番をしていた羊飼いたちや、異邦人で星の研究をしていた占星術師たちだったのです。彼らに共通していたことは、当時は、これらの人々は神様の救いからもれた人々だと、考えられていたということです。その彼らのところに、いち早く、救い主誕生の知らせが届いたのでした。
 貧しき者、異邦人つまり神なき人々、羊飼いなど、仕事の性格上、律法を守ろうしない罪人、そのような人々のところにこそ、救い主がやってきたのでした。貧しき人々といった目で見られたり、救いからもれたと考えられていた人々のところに、いち早く救い主の誕生は告げ知らされたのでした。
 イエス様が、私たちを豊かなものとするために、自らは、貧しくなられた、私たちのために、命までもお与えになられた、それがクリスマスの出来事です。私たちが、クリスマスのこのときに、互いにプレゼントをするのは、神様が、最大のプレセントを私たちにしてくださったからです。神様がその独り子という最大のプレゼントを私たちにすることによって、私たちは多くの点で豊かにされています。
 罪が赦され、永遠の命を約束していただきました。そのことによって、初代教会の時代から、教会は、愛の行為として、互いに助け合うこと、与え合うことを教えられています。助け、与えることで、たとえ、一見、そのときには貧しくなったかに見えても、いずれは、釣り合う状態、つまり、等しくさせられる状態が生まれる。今の時代は、権力の座につくもの、多くの人々から敬意を払われてよい立場の者たちが、自分たちさえよければそれでよいといった風潮を自分の国民に与えても恥じようともしない、居直りの時代といってもいいくらいの時代です。
 しかし、クリスマスの今宵、私達は、富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられた御子イエス・キリストの、ご降誕から十字架におかかりになった、そのご生涯に目を留めるべきなのではないでしょうか。その貧しさゆえに、父なる神様は、栄光に輝く復活へと、ことを成し遂げてくださいました。私たちもこのイエス様に従うならば、神様からの大いなる賜物をいただくことになるでしょう。
 私たちが、今年もまた喜んでお迎えするのは、わたしたちの命のために、富んでおられたのに、むなしいまでに自分を無にされ、十字架におつきになられた、そういった形で、貧しくなられた神、イエス・キリストです。


平良牧師

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