創世記19章14~26節
主は憐れんで
神様の目に、ソドムとゴモラという町の住人たちは、かなり堕落し、罪に陥っておりました。それは、創世記の13章の13節にまず出てまいります。「ソドムの住民は、邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた」とあります。ここに、アブラハムの甥のロトは、住むことになりました。それは、この低地が、「主の園のように、エジプトの国のように、見渡す限りよく潤っていた」からでした。
主の園は、すばらしいところでありましたが、アダムとエバ、最初に創造した男女からして、神様に罪を犯し追放されたところでありましたし、エジプトの国もまた、飢饉から逃れたヨセフたち一族、イスラエル民族が、そのあと奴隷として酷使されるという共に苦い土地でありました。
アブラハムとロトは、それまで一緒の土地に住んでおりましたが、何かと手狭になってまいりまして、それぞれの一族の間で争いが生じるようになってしまいました。それで、別々に住むことにしようということになりました。アブラハムは、ロトに先ずどちらを選ぶかの選択をさせました。
ロトは、ソドムとゴモラのあるヨルダン川流域の低地を選び、アブラハムは、残されたカナン地方に住むことになりました。ロトは、土地の潤っている方を選んでそこに住むことにしたのでした。それは、とても自然なことでしたが、土地は潤っていたものの、そこに住む人々は、神様の目に罪多き人々でありました。
それからしばらくして、神様は、アブラハムに「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう」と言われました。そのとき、アブラハムは、甥のロトが、ソドムに住んでいるということを頭にすぐに思い浮かべたことでしょう。
そこで、神様に、「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が50人いるとしても、それでも滅ぼし、その50人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずがございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか」。そう言うのでした。
それに対して、神様は、「もし、ソドムの町に正しい者が50人いるならば、その者のために、町全部を赦そう」、と言われました。ここに、神様の憐れみがあります。50人、正しい者がいたとするなら、町全体を赦すということです。ソドムとゴモラを合わせて何千何万人という人々がいたかもしれませんが、たった50人の正しい人のために町全体を赦すと言われたのでした。
しかし、アブラハムは、話しをどんどん狭めてまいります。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、50人の正しい者に5人足りないかもしれません。それでもあなたは、5人足りないために、町のすべてを滅ぼされるのですか」このような調子で、次第に数を減らしていきました。つまり、もし、45人であれば、40人であれば、30人であれば、20人であれば、10人であれば、とどんどん正しい人の数を少なくしていきまして、最終的に、「その十人のためにわたしは滅ぼさない」との神様の約束を取り付けたのでした。ここには、アブラハムのロトを思う、否、彼だけではなく、町全体の救いを願う、執り成しの思いが込められておりました。
ところが、実際には、10人も正しい者がいなかったようです。神様は、ソドムとゴモラを滅ぼすことにしました。その町がいかに邪悪な町であったかは、19章に御使いがやってきたときの町の男たちの出方が証明しておりました。
この二人の御使いたちをロトが、世話をして、一晩泊めてやることにするのですが、そのとき、「彼らがまだ、床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた。今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから」と言って来たのでした。
若者も年寄りも、というところに、町全体が、ほんとうに暴力的で、罪にまみれ、どうしようもない者たちで溢れかえっている感じです。結局、この御使いたちは、戸口の前にいる男たちに、目潰しを食わせ、難を逃れることができました。そして、いよいよ、町が滅びるそのときが、刻一刻と迫ってきていたのでした。
自然災害は、それまでのその人のありようをまったく関係なかったかのように、誰それの区別なく、襲って、災いをもたらすものです。ときには、命までをも奪い取ってしまいます。そういうとき、人々は、どうして、善良な罪なき人までもが、一律にその災害に遭わねばならないのか、と考えます。アブラハムは、ロトをはじめ、彼らの住むソドムの町の救いを願いました。
ここでの考え方をつきつめると、多くの罪ある人々のために、少しの正しい人々までもが、罰せられるというのではなく、少しの罪ある人々のために、多くの正しい人が罰せられるという話しでもまたなく、少しの正しい人のために、多くの罪ある人々が救われるということでした。それは、イエス様の十字架を思い起させるのではないでしょうか。罪なきただお一人の、しかも神様の御子が十字架につくことで、全人類の罪が赦された、そのことを思い起こさせられます。
御使いたちは、「あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい。実は、わたしたちは、この町を滅ぼしに来たのです。大きな叫びが主のもとに届いたので、主は、この町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです」と言いました。
ロトは、嫁いた娘たちの婿のところへ行って、主が、この町を滅ぼすので、逃げるように、告げ、促したのでした、彼らは、冗談だと思いました。おそらく、婿たち、つまり、嫁いだ娘たちやその子供たちも含めて、逃げようとはしなかったのでしょう。息子たちもいたと記されていますが、息子たちも逃げることをしませんでした。町が滅びるから、と突然言われて、誰がそれを信じるでしょうか。彼らは、逃げることをしなかったのでした。
つまり、主のなさるということを彼らは信じることができませんでした。それは、何の前触れもなかったのですから、なおさらだったでしょう。自分たちの町の神様に対する罪深さをしっかりと受け止めていたら、まだ、考えることができたでしょうが、悔い改めることなど、彼らにしても、ほど遠かったようです。
夜明け頃、御使いたちは、そのときが来たというので、ロトをせきたてました。もう、ロトと妻と二人の嫁いでいない娘だけでも救おうと神様はされました。ところがロトは、決断がつきかねています。ためらっています。それは、おそらく、他の家族たちのことも何とかならないだろうか、と思いあぐねていたからでしょう。いかに、神様が、救いの御手を差し伸べてくださっても、それを拒否するならば、それ以上はまた、致し方ないのでしょう。
そして、ためらっているロトを神様は、憐れんで、御使いたちに、妻と二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされたのでした。そして、町外れに来たときに、神様は「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる」と告げられました。
そこまでも必死で走って逃げてきたことでしょう。それだけでなく、これからさらに、向こうの山まで、逃げていかねばなりません。ロトたちは、力尽きておりました。それで、「主よ、できません」、「山まで逃げ延びることはできません。恐らく、災害に巻き込まれて、死んでしまうでしょう」と言いました。そして、「ご覧ください。あの町を。あそこなら近いので、逃げて行けると思います。あれは小さな町です。あそこへ逃げさせてください。あれはほんの小さな町です。どうか、そこでわたしの命を救ってください」と訴えました。
それに対して、神様は、「よろしい。そのこともあなたの願いを聞き届け、あなたの言うその町は滅ぼさないことにしよう。急いで、逃げなさい。あなたがたのあの町に着くまでは、わたしは何も行わないから」と言われたのでした。
ロトは、このとき神様のなさっておられることを「あなたは僕に目を留め、慈しみを豊かに示し、命を救おうとしてくださいます」と述べています。こうして、自分たちが、危機から救い出されそうになっているのは、自分たちの良い業のためではなく、神様の慈しみであると考えています。
19章の29節には、「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された」とあります。それは、アブラハムが御心に留められたという大きな流れの中で、このロトの救いの出来事もなされていたということを表しています。
ひょっとしたら、ロトも含めて誰一人として、このソドムには、神様の目から正しいとされる者はいなかったということなのでしょうか。ロトは、山まで逃げるように言われた神様に、もうだめです、あの山まではとても行けそうにありません、せめて、あの小さな町までだったらいけるでしょう、あそこで、命を救ってくださいと願ったのでした。それを神様は、受け入れてくださいました。どうして、あの頑丈そうな建物でも、あの大きな町でも、あの高い山でも、ではなかったのでしょうか。
そういったものが近くになかったということでしょうが、あえて、「あれは、小さな町です」とか「あれはほんの小さな町です」とか、逆に小さなを強調しているのではないでしょうか。それは、神様のお力がそこに注がれるならば、それは、人間の思いや価値観をはるかに超えるということでしょう。或いは、神様のお力は、そういったむしろ小さい、弱いところに働かれるそうことをも意味しているかもしれません。
<その町は以後ツォアル(小さい)と名付けられたそうです。博多弁のツォアラン、つまらんといい意味ですが、大きいのはツォアラン、小さいのがツォアル、博多弁がこんなところに使われているとは思いませんでした。>
神様は、そんな小さな町は、硫黄の雨が降ってきたならば、ひとたまりもないとむしろ思われるようなところを、ロトの逃れ場所として、お認めになられました。そして、あの山まではとても無理とするロトの思いを受け入れてくださったのでした。たとえ、ロトたちが、山まで辿りつく前に、動けなくなったとしても、神様は、ロトたちのことを守ってくださったと思うのですが、ロトの中には、そこまでの信仰はなかったようです。もしそうだとすれば、そうしたロトのありようまでも含めて、神様は、ロトを受け入れてくださったのでした。
ただ逃げる際に、妻が、振り返ってはならない、と言っていたにもかかわらず、それをなして、塩の柱になったのは、とても残念なことではありました。ロトにとっても、悲しいことではなかったかと思いますが、神様の指示に従わなかったからでしょうが、塩の柱は、このとき、滅びを表しておりました。振り返ることは、ときに滅びにつながることをおぼえておかねばならないのでしょうか。
さて、神様が、ためらっていたロトを憐れんで、二人の御使いをして、妻と二人の娘たちの手を取らせて、ある意味では、強引に、逃げるという行動に移させたのですが、新約聖書にも同じように、神様がためらっている者に強引に介入される、そうしたお話が書かれています。
マタイによる福音書の14章の22節のところに、「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた」という記事があります。ここでは、イエス様が、弟子たちを強いて舟に乗せ、ということをされています。
直前には、5000人に給食するということをされていますから、それは、大きな作業だったと思われます。弟子たちがパンを配り、弟子たちがパン屑を回収していますから、それは、成人男性だけで5000人ということでした。女性や子供を入れたらもっと多い人数でしたでしょうから、非常な重労働だったことでしょう。それで、イエス様は、疲れている弟子たちのことを思って、イエス様のところから離れようとしない弟子たちを無理やりに彼らの休息のために、舟に乗せ、向こう岸へ行かせたものと思われます。
しかし、イエス様は、そのあと、「群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた」とあります。イエス様ご自身が、お一人になりたかったということもあるでしょうが、弟子たちに休息をお与えになろうとされたということもあったのではないかと私はここを理解します。
このときイエス様が、何を祈っておられたのかは、書かれてありません。しかし、先ほどまで一緒にいた群衆のこと、強いて舟に乗せ、向こう岸へ行かせた弟子たちのことを思って、祈っておられたということは想像できるのではないでしょうか。イエス様の祈りの中にある、祈りにおぼえられているということが、私たちにとっては、恵です。
ロトがためらっていたときに、憐れんで主は、彼らの手をとって、町の外へ連れ出してくださったのでした。そして、その後もなお、神様は彼らに目をとめ続け、おぼえていてくださる、それが、恵みです。イエス様が、弟子たちの疲れを思い、強いて舟に乗せ、そのあと、祈ってくださっておられる、それが恵みです。
神様のときに強引とさえ思われるわたしたちの人生に対する介入は、それは、神様の憐れみであり、その背後になお、イエス様の祈りが注がれていることを思って、歩みをなしてまいりましょう。
私の人生において、このタイミングで、こうした出来事がおこるなんて、これは、神様の私の人生への強引な介入でなくて、何だと考えたらいいのか、そう思われるような事柄は、結構あるものです。それは、突然過ぎるかもしれません。全然待ってはくれないかもしれません。
しかし、そこに神様の救いの御手が差し伸べられていた、そういう形で、結果的には、今の恵に満ちた状態に導かれた、そういうことはあるものです。主は、憐れんで、そうされるのです。すべては、主の憐れみによってなされることです。
平良師
主は憐れんで
神様の目に、ソドムとゴモラという町の住人たちは、かなり堕落し、罪に陥っておりました。それは、創世記の13章の13節にまず出てまいります。「ソドムの住民は、邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた」とあります。ここに、アブラハムの甥のロトは、住むことになりました。それは、この低地が、「主の園のように、エジプトの国のように、見渡す限りよく潤っていた」からでした。
主の園は、すばらしいところでありましたが、アダムとエバ、最初に創造した男女からして、神様に罪を犯し追放されたところでありましたし、エジプトの国もまた、飢饉から逃れたヨセフたち一族、イスラエル民族が、そのあと奴隷として酷使されるという共に苦い土地でありました。
アブラハムとロトは、それまで一緒の土地に住んでおりましたが、何かと手狭になってまいりまして、それぞれの一族の間で争いが生じるようになってしまいました。それで、別々に住むことにしようということになりました。アブラハムは、ロトに先ずどちらを選ぶかの選択をさせました。
ロトは、ソドムとゴモラのあるヨルダン川流域の低地を選び、アブラハムは、残されたカナン地方に住むことになりました。ロトは、土地の潤っている方を選んでそこに住むことにしたのでした。それは、とても自然なことでしたが、土地は潤っていたものの、そこに住む人々は、神様の目に罪多き人々でありました。
それからしばらくして、神様は、アブラハムに「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう」と言われました。そのとき、アブラハムは、甥のロトが、ソドムに住んでいるということを頭にすぐに思い浮かべたことでしょう。
そこで、神様に、「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が50人いるとしても、それでも滅ぼし、その50人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずがございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか」。そう言うのでした。
それに対して、神様は、「もし、ソドムの町に正しい者が50人いるならば、その者のために、町全部を赦そう」、と言われました。ここに、神様の憐れみがあります。50人、正しい者がいたとするなら、町全体を赦すということです。ソドムとゴモラを合わせて何千何万人という人々がいたかもしれませんが、たった50人の正しい人のために町全体を赦すと言われたのでした。
しかし、アブラハムは、話しをどんどん狭めてまいります。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、50人の正しい者に5人足りないかもしれません。それでもあなたは、5人足りないために、町のすべてを滅ぼされるのですか」このような調子で、次第に数を減らしていきました。つまり、もし、45人であれば、40人であれば、30人であれば、20人であれば、10人であれば、とどんどん正しい人の数を少なくしていきまして、最終的に、「その十人のためにわたしは滅ぼさない」との神様の約束を取り付けたのでした。ここには、アブラハムのロトを思う、否、彼だけではなく、町全体の救いを願う、執り成しの思いが込められておりました。
ところが、実際には、10人も正しい者がいなかったようです。神様は、ソドムとゴモラを滅ぼすことにしました。その町がいかに邪悪な町であったかは、19章に御使いがやってきたときの町の男たちの出方が証明しておりました。
この二人の御使いたちをロトが、世話をして、一晩泊めてやることにするのですが、そのとき、「彼らがまだ、床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた。今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから」と言って来たのでした。
若者も年寄りも、というところに、町全体が、ほんとうに暴力的で、罪にまみれ、どうしようもない者たちで溢れかえっている感じです。結局、この御使いたちは、戸口の前にいる男たちに、目潰しを食わせ、難を逃れることができました。そして、いよいよ、町が滅びるそのときが、刻一刻と迫ってきていたのでした。
自然災害は、それまでのその人のありようをまったく関係なかったかのように、誰それの区別なく、襲って、災いをもたらすものです。ときには、命までをも奪い取ってしまいます。そういうとき、人々は、どうして、善良な罪なき人までもが、一律にその災害に遭わねばならないのか、と考えます。アブラハムは、ロトをはじめ、彼らの住むソドムの町の救いを願いました。
ここでの考え方をつきつめると、多くの罪ある人々のために、少しの正しい人々までもが、罰せられるというのではなく、少しの罪ある人々のために、多くの正しい人が罰せられるという話しでもまたなく、少しの正しい人のために、多くの罪ある人々が救われるということでした。それは、イエス様の十字架を思い起させるのではないでしょうか。罪なきただお一人の、しかも神様の御子が十字架につくことで、全人類の罪が赦された、そのことを思い起こさせられます。
御使いたちは、「あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい。実は、わたしたちは、この町を滅ぼしに来たのです。大きな叫びが主のもとに届いたので、主は、この町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです」と言いました。
ロトは、嫁いた娘たちの婿のところへ行って、主が、この町を滅ぼすので、逃げるように、告げ、促したのでした、彼らは、冗談だと思いました。おそらく、婿たち、つまり、嫁いだ娘たちやその子供たちも含めて、逃げようとはしなかったのでしょう。息子たちもいたと記されていますが、息子たちも逃げることをしませんでした。町が滅びるから、と突然言われて、誰がそれを信じるでしょうか。彼らは、逃げることをしなかったのでした。
つまり、主のなさるということを彼らは信じることができませんでした。それは、何の前触れもなかったのですから、なおさらだったでしょう。自分たちの町の神様に対する罪深さをしっかりと受け止めていたら、まだ、考えることができたでしょうが、悔い改めることなど、彼らにしても、ほど遠かったようです。
夜明け頃、御使いたちは、そのときが来たというので、ロトをせきたてました。もう、ロトと妻と二人の嫁いでいない娘だけでも救おうと神様はされました。ところがロトは、決断がつきかねています。ためらっています。それは、おそらく、他の家族たちのことも何とかならないだろうか、と思いあぐねていたからでしょう。いかに、神様が、救いの御手を差し伸べてくださっても、それを拒否するならば、それ以上はまた、致し方ないのでしょう。
そして、ためらっているロトを神様は、憐れんで、御使いたちに、妻と二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされたのでした。そして、町外れに来たときに、神様は「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる」と告げられました。
そこまでも必死で走って逃げてきたことでしょう。それだけでなく、これからさらに、向こうの山まで、逃げていかねばなりません。ロトたちは、力尽きておりました。それで、「主よ、できません」、「山まで逃げ延びることはできません。恐らく、災害に巻き込まれて、死んでしまうでしょう」と言いました。そして、「ご覧ください。あの町を。あそこなら近いので、逃げて行けると思います。あれは小さな町です。あそこへ逃げさせてください。あれはほんの小さな町です。どうか、そこでわたしの命を救ってください」と訴えました。
それに対して、神様は、「よろしい。そのこともあなたの願いを聞き届け、あなたの言うその町は滅ぼさないことにしよう。急いで、逃げなさい。あなたがたのあの町に着くまでは、わたしは何も行わないから」と言われたのでした。
ロトは、このとき神様のなさっておられることを「あなたは僕に目を留め、慈しみを豊かに示し、命を救おうとしてくださいます」と述べています。こうして、自分たちが、危機から救い出されそうになっているのは、自分たちの良い業のためではなく、神様の慈しみであると考えています。
19章の29節には、「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された」とあります。それは、アブラハムが御心に留められたという大きな流れの中で、このロトの救いの出来事もなされていたということを表しています。
ひょっとしたら、ロトも含めて誰一人として、このソドムには、神様の目から正しいとされる者はいなかったということなのでしょうか。ロトは、山まで逃げるように言われた神様に、もうだめです、あの山まではとても行けそうにありません、せめて、あの小さな町までだったらいけるでしょう、あそこで、命を救ってくださいと願ったのでした。それを神様は、受け入れてくださいました。どうして、あの頑丈そうな建物でも、あの大きな町でも、あの高い山でも、ではなかったのでしょうか。
そういったものが近くになかったということでしょうが、あえて、「あれは、小さな町です」とか「あれはほんの小さな町です」とか、逆に小さなを強調しているのではないでしょうか。それは、神様のお力がそこに注がれるならば、それは、人間の思いや価値観をはるかに超えるということでしょう。或いは、神様のお力は、そういったむしろ小さい、弱いところに働かれるそうことをも意味しているかもしれません。
<その町は以後ツォアル(小さい)と名付けられたそうです。博多弁のツォアラン、つまらんといい意味ですが、大きいのはツォアラン、小さいのがツォアル、博多弁がこんなところに使われているとは思いませんでした。>
神様は、そんな小さな町は、硫黄の雨が降ってきたならば、ひとたまりもないとむしろ思われるようなところを、ロトの逃れ場所として、お認めになられました。そして、あの山まではとても無理とするロトの思いを受け入れてくださったのでした。たとえ、ロトたちが、山まで辿りつく前に、動けなくなったとしても、神様は、ロトたちのことを守ってくださったと思うのですが、ロトの中には、そこまでの信仰はなかったようです。もしそうだとすれば、そうしたロトのありようまでも含めて、神様は、ロトを受け入れてくださったのでした。
ただ逃げる際に、妻が、振り返ってはならない、と言っていたにもかかわらず、それをなして、塩の柱になったのは、とても残念なことではありました。ロトにとっても、悲しいことではなかったかと思いますが、神様の指示に従わなかったからでしょうが、塩の柱は、このとき、滅びを表しておりました。振り返ることは、ときに滅びにつながることをおぼえておかねばならないのでしょうか。
さて、神様が、ためらっていたロトを憐れんで、二人の御使いをして、妻と二人の娘たちの手を取らせて、ある意味では、強引に、逃げるという行動に移させたのですが、新約聖書にも同じように、神様がためらっている者に強引に介入される、そうしたお話が書かれています。
マタイによる福音書の14章の22節のところに、「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた」という記事があります。ここでは、イエス様が、弟子たちを強いて舟に乗せ、ということをされています。
直前には、5000人に給食するということをされていますから、それは、大きな作業だったと思われます。弟子たちがパンを配り、弟子たちがパン屑を回収していますから、それは、成人男性だけで5000人ということでした。女性や子供を入れたらもっと多い人数でしたでしょうから、非常な重労働だったことでしょう。それで、イエス様は、疲れている弟子たちのことを思って、イエス様のところから離れようとしない弟子たちを無理やりに彼らの休息のために、舟に乗せ、向こう岸へ行かせたものと思われます。
しかし、イエス様は、そのあと、「群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた」とあります。イエス様ご自身が、お一人になりたかったということもあるでしょうが、弟子たちに休息をお与えになろうとされたということもあったのではないかと私はここを理解します。
このときイエス様が、何を祈っておられたのかは、書かれてありません。しかし、先ほどまで一緒にいた群衆のこと、強いて舟に乗せ、向こう岸へ行かせた弟子たちのことを思って、祈っておられたということは想像できるのではないでしょうか。イエス様の祈りの中にある、祈りにおぼえられているということが、私たちにとっては、恵です。
ロトがためらっていたときに、憐れんで主は、彼らの手をとって、町の外へ連れ出してくださったのでした。そして、その後もなお、神様は彼らに目をとめ続け、おぼえていてくださる、それが、恵みです。イエス様が、弟子たちの疲れを思い、強いて舟に乗せ、そのあと、祈ってくださっておられる、それが恵みです。
神様のときに強引とさえ思われるわたしたちの人生に対する介入は、それは、神様の憐れみであり、その背後になお、イエス様の祈りが注がれていることを思って、歩みをなしてまいりましょう。
私の人生において、このタイミングで、こうした出来事がおこるなんて、これは、神様の私の人生への強引な介入でなくて、何だと考えたらいいのか、そう思われるような事柄は、結構あるものです。それは、突然過ぎるかもしれません。全然待ってはくれないかもしれません。
しかし、そこに神様の救いの御手が差し伸べられていた、そういう形で、結果的には、今の恵に満ちた状態に導かれた、そういうことはあるものです。主は、憐れんで、そうされるのです。すべては、主の憐れみによってなされることです。
平良師