平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2004年10月3日 良い贈り物、完全な賜物

2006-06-04 13:52:30 | 2004年
ヤコブ1:12~19
   良い贈り物、完全な賜物

 しばらくヤコブの手紙の御言葉に耳を傾けてまいりましょう。ヤコブの手紙というのは、パウロの手紙などと、内容がかなり違っているので、その違いをとおして、聖書をさらに深く理解できるのではないのかと、考えるのです。ですから、パウロと比較してみるなどの扱い方を少しさせていただきたいと思います。
 ヤコブという名前は、聖書では旧約聖書のヤコブ、先週まで扱いましたヨセフ物語のヨセフの父親のヤコブがいます。しかし、ここは新約聖書ですから、そのヤコブではもちろんありません。それから、新約聖書のなかの福音書のなかの弟子たちの名前を紹介している部分にヤコブという名前は出てきます。
 マルコによる福音書3章13節からのところです。ヨハネの兄弟で、ゼベダイの子のヤコブ、それから、アルファイの子ヤコブという人物がでてまいります。また、他にも出てきます。ガラテヤの信徒への手紙一章に、パウロがペトロと知り合いになろうと考えて、エルサレムへ行ったときに、ペトロと主の兄弟ヤコブにだけ会ったという記事があります。つまり、イエス様の兄弟のひとりにヤコブという人物がいたのです。彼が、エルサレムの教会で、ペトロのあと、指導者となりました。
 ヨハネの兄弟で、ゼベダイの子のヤコブの方は、使徒言行録の12章で、「ヘロデ王が、教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した」とありますから、そうしますと、どうも、この手紙がパウロの影響を受けた人々をも想定して書かれてあるような部分もありますから、このゼベダイの子ヤコブではなさそうです。
 そうしますと、主の兄弟ヤコブというように考えた方がよいようです。また、ヤコブの言っていることは、パウロの信仰理解と相対立するようなところがありますから、そうした点でも、ヤコブがいたエルサレム教会は、ユダヤ人への伝道、律法へのこだわりをもっておりましたし、パウロのように異邦人伝道、律法からの自由を考えていた立場とは異にすることからも、やはり、主の兄弟ヤコブという線が強くなってきます。
 しかし、それにしては、イエス様の十字架と復活の理解がでてきませんし、生前のイエス様の言動に触れることもありません。むしろ、旧約聖書の引用などがでてきます。ですから、主の兄弟ヤコブの名を借りた、もっと時代がくだった別人ではないかという理解をする人もいます。パウロの手紙も、なかには、パウロが実際は書いたものではなく、パウロの名前を使って書いた手紙があるのと同じです。
 この手紙は、「離散している12部族の人たちに挨拶いたします」と書かれています。イスラエルの12部族ということですが、それは今や真のイスラエル、つまりキリスト者たちであるということです。そうしますと、キリスト者たち一般に書かれた手紙であるということになります。
 そして、手紙の内容から、このヤコブという人がどういう目的のために書いた手紙なのか、彼が頭の中に描いている教会には、どのような問題があったのか、そうしたことは手紙全体をみるときに、少々わかってはきます。ヤコブの手紙の最後の方の5章の19節に「わたしの兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ戻すならば、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると知るべきです」となっております。
 つまり、真理から迷い出た者たちを真理へ連れ戻す、そういう目的をもって書かれた手紙だということです。そして、手紙のなかで非難されている人々がいますが、その人々が、どうも真理から迷い出た者たちと考えることもできるでしょう。
  それは、富んでいる人々です。彼らについては、「富んでいる者は草花のように滅び去る」とか、5章1節からのところには「自分にふりかかってくる不幸を思って泣きわめきなさい」とか、あります。富んでいる者たちの何が悪いのかというと、具体的には賃金を不払いにしている、贅沢に暮らし、快楽にふけっている、正しい人を罪に定めたなどが指摘されています。また。これから、金儲けをしようとしている人々もまた非難されています。「『今日か明日、これこれの町へ行って、一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう』と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです」。
 また、3章では、「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています」。教師とは、教会の指導者たる教師のことです。驕り高ぶらず、言葉を制するよう注意しています。
 それから、全般にわたってヤコブは、行いを強調しています。2章17節「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」とか、2章24節「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」。これは、一見、パウロの「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(ローマ3:28)や「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました」(ガラテヤ2:16)という言葉と相反するように見えます。
 ですから、ヤコブは、パウロの捉えかた自体を批判しているようにも思えるのです。しかし、私たちは、パウロが、キリスト者としての行いをもまた、説いている箇所にも多くでくわすので、パウロがキリスト者としての行いなど、どうでもいいとは決して言ってはいないことを知っています。今日の招詞のローマの信徒への手紙15:1~6節などにも見られますように、「強い者は弱い者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。
 おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです」とか「聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」とかなどは、ヤコブの手紙の今日示されている箇所にも通ずるところです。私もまた、今日の「平和1丁目」で、礼拝の重さを語らせていただいて、礼拝への選び取りをお奨めさせていただきました。
 ただし、パウロは、キリスト者としての行いを語るとき、イエス様を模範者と捉えたり、イエス様の十字架の出来事、復活の出来事から事柄を説明しようとしますが、そして、そこに根拠をおこうとしますが、ヤコブにはそれがほとんど見られないということがあります。
 しかし、コリントの教会の人々のなかに、こういうパウロの言うことを当時広い世界で影響を与えていたグノーシスの考え方と一緒くたにしたり、一面的に捉えて誤解したり、都合よく考えたりした者たちがいたように、ヤコブが頭に浮かんでいる教会の人々のなかにも、つまり、人が救われるのは、その人の行いではない、というところを余りにも極端な形でとらえ、だから、行いはどうでもいい、自分たちは何をしても自由だ、そのように考えた者たちがいて、真理から離れた人々がいたということが予想されます。
 そういう人々の中には、富を蓄積することに心を奪われている者がいたり、あるいは、教師になろうという者たちがたくさんいた、それは、教師という仕事が、当時は、この世的にも安定していたか、それ以上に豊かであったのでしょう、ところが、そうした彼らはさらに、貧しい人などを差別し、虐げてもいた、そういう状況があったのではないかと想像させられるのです。
 それで、ヤコブは、行いの伴わない信仰は死んだも同じだと、言わざるをえなかった、行いを強調せざるを得なかったということがあったのではないでしょうか。以上、全般的なヤコブの手紙についてのお話をしました。
 さて、そこで今日の箇所ですが、2節から8節もまた含めて考えてみたいと思うのですが、まず、ここに書かれていることは、試練に遭っている貧しい人々へ向けての言葉のように思えます。これらの人々の中には、何とか物質的には豊かになりたいと思う者がいたり、教師になりたといという者がいたことでしょう。そして、苦しい生活を送っている人々も多かったのでしょう。或いは、キリスト者であるということで、迫害に遭っているという人もいたのでしょう。
 「いろいろな試練に出会うとき、この上ない喜びとしなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」。イエス様は、試みに遭わさないでくださいと、神様に祈るように弟子たちに教えてくださったのですが、しかし、ヤコブは、冒頭から試練に遭うことを喜びなさいと言います。試練と思われることは、人生にはたくさんあります。試練に遭ったとき、投げやりになったり、安易な方向へ行かないように、ただ、忍耐をもって事態に臨みなさいと言っております。
 そして、忍耐することで、完全な人となることができるというのです。このような奨めをされるとき、なぜ完全になければならないのか、どうしたらそういうことができるのか、と一歩突っ込んで、パウロなどは述べているのでしょうが、例えば、そこでは模範者としてのイエス様を語るとか、十字架の出来事、復活の
 出来事から説明するとか、そういうことは、ヤコブにははありません。そうしますと、単なる道徳的なお話になってしまうきらいがあります。しかし、すでに、そうした根拠などは自明なことになっていて、忍耐しなさい、完全な者になりなさいというのは、何ゆえか、どうしてそういうことを言うのか、どうすればそうできるのか、などは、聞いている者たちには、わかっていたのかもしれないのです。
 イエス様がかつて、弟子たちに、敵を愛しなさいと言われたときに、神様の似姿として造られた者なのだから、主が完全であられるようにあなたがたも完全な者となりなさい、と言われたようなことは、すでに知っていたのかもしれません。
 また、「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい」というのも、イエス様が、「だれでもこの山に向かい『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる」と、マルコ11:23で言われていますが、こうしたイエス様の言葉を知っていたということが、前提で、ヤコブは語っていたのかもしれません。
 ヤコブは、疑う人は、「そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方に安定を欠く人です」。ヤコブは、完全であることを奨めます。それは、神様を疑わないという点で、そうあるべきだというのです。試練によって、信仰のチャレンジを受け、そして、忍耐が生まれる、そして、忍耐し続けることで、完全で申し分のない、何一つ欠けたところのない人になる、そう言います。
 やはり、ここらは、どうして完全な人にならねばならないのか、ヤコブの言葉を聞きたいところです。いくつかの箇所で、先ほども述べましたように、神の似姿として造られているから、とか、イエス様がそう奨めておられるから、とか、私たちは他の箇所からはその答えを思い浮かべるのですが、ヤコブからは、それについては、説明が余り無い事は残念です。それに、パウロなどは、弱い時こそ、強いと言ったりしますので、完全になるという言葉の意味をもう少しヤコブから知りたいところです。
 12節の試練と13節の誘惑という言葉は原語は同じ言葉が使われているのですが、新共同訳では、12節では試練と訳し、13節では、誘惑と訳しています。岩波の訳では、いずれも試みと訳しています。そのことを頭において考えてみた欲しいと思いますが、ヤコブは、試練を耐え忍ぶ人は、適格者として認められ「命の冠」をいただけると語ります。
 テサロニケの信徒への手紙一の5章23節を祝祷のときに読みますが、あの「非のうちどころのないものとしてくださいますように」というのは、「わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき」というように、終末時のことを語っております。しかし、ヤコブは、この世において、あなたがたは完全な者となるようにと奨めております。それほどに、ヤコブは、この世での私たちの行為、キリスト者としての行為を重要視するのです。
 また、神様が誘惑(試み、試練)に遭わせるようなことはなさらない、それは、人間の自分の欲望のなせる業であって、その欲望に身をまかせることで、罪に陥ってしまうのだ、とこれもまた、神様の摂理というようなことはどうなってしまったのかと思うほどです。そうすると、自然、すべてはこちら側の努力しだいでのお話となってしまうのです。 しかし、17節において、こちら側の努力しだいで、何ごとも成されるのではないということを私たちは知らされて、ほっとします。「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです」と言うのです。その前に、「わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません」と語った後で、そう述べています。思い違いというのは、良き贈り物、完全な賜物というものが、自分たちの努力や力で、得られるということでしょう。
 試練が神様からのものではなく、自分の欲望からのものであるとすると、それに打ち勝つのもまた、自分の力であり、良き贈り物や完全なる賜物を得ることも、自分でうるということになりそうです。しかし、良き贈り物と完全な賜物は、神様から来るとヤコブは、この点についてはきっぱりと言うのです。それは、人の力で得られるものではないのです。しかも、こうした恵みは、移り変わることのない恵みであって、それを賜ってくださっている、と言います。
 それは、例えば、天体は日常においては、その移り変わりは顕著ではありません。しかし、少しずつは、変っています。しかし、神様の恵みは、天体のような、その少しの変化もなく、寸分変らずに注がれているというのです。5節のところで、「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、誰にでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば与えられます」。
 ここにも、神様が、誰にでも、とがめだてしないでお与えになる、そういうお方であると書かれていました。ですから、恵みは少しも変らず私たちにふり注がれ続けられているのです。良き贈り物と完全な賜物、そうです完全なるものも、神様から与えられるのです。
 自分が試練を忍耐して、それを得られるだろうけれど、そして、完全な者となることができる、一方でそう語りながら、しかし、結局は、完全な賜物もまた、神様が与えてくださる以外に、人の力ではその完全さを得ることも無理であるとやはりヤコブは言っているのではないでしょうか。確かに矛盾です。しかし、そこには、行為にこだわり続けるヤコブの正直な姿がある意味では表されております。
 私たちもまた、救いの条件として、行為があるとは教えられていません。イエス・キリストがわたしの罪のために死んでくださったこと、そして、三日目に蘇らされたことを信じる信仰によって救われることを知っています。しかし、救いに与った者として、イエス様に従っていくことを教えられています。そして、神様に喜ばれたいという気持ちはありますし、そのことを奨められていることも知っています。そこには具体の行為が当然あるのです。
 信仰と行為は、離せないのです。そのテーマをヤコブは、彼自身が自己矛盾を抱えながらも私たちに示してくれているのではないでしょうか。そして、それは、いつも立ち返るべき原点へ、私たちの戸惑いの場所へ、信仰の本質へと、誘ってくれることでしょう。信仰と行為、これはいつのときも私たちにはついてまわる重要なテーマなのです。

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