平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2004年9月19日 神様が共におられ、示される

2006-06-03 21:35:57 | 2004年
創世記41章15~25節
   神様が共におられ、示される

 ヨセフが、奴隷としてエジプトに売られて行った先は、エジプト王ファラオの宮廷役人で、侍従長を務めていたポティファイルのところでした。「主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた」とあります。主が共におられることを主人も認めざるをえなかったというのです。
 それで、彼に重要な仕事を任せることにしたのです。ヨセフは、顔も美しく、体つきも優れていたと書かれてあります。主人の妻は、そういうヨセフに言い寄ってきました。ヨセフは、それをきっぱりと断ります。そうしましたら、その妻が、自分の誘惑にのってこないヨセフを憎らしく思い、逆に自分にみだらなことをしようとしたとありもしないことをいい、罪に陥れたのでした。妻からことのいきさつを聞き、怒った主人は、ヨセフを牢獄に入れます。
 「しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、看守長の目にかなうように導かれた」とありまして、ここでも、主の力が働かれ、それによって、看守長は、監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手に委ね、獄中の人のすることはすべてヨセフが、取り仕切るようになったのでした。しかも、看守長は、ヨセフに仕事を委ねたことで、自分ではもう何もしなくてよいようになったのでした。
 聖書は、「主が共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである」とここでも述べているのです。彼は、逆境のときも主が共におられて、うまくことを計られるという恵みに与って生きていきました。
 あるとき、何かの落ち度があって、エジプト王ファラオに仕えていた給仕役と料理役がヨセフのいる牢獄へ入れられました。ヨセフは、彼らの世話をすることになったのでした。ある晩、この二人が、同時に夢をみました。給仕役の夢は、ぶどうの木が生え、花が咲き、実がなり、その実から作ったぶどう酒を彼が王ファラオにささげるというもので、料理役の夢は、かごに入った王に捧げるべき料理を鳥が食べているという夢でした。その夢によって二人はふさぎ込んでしまいました。
 しかし、誰もその夢を解いてくれる者はいません。そこで、ヨセフが、夢の「解き明かしは神がなさることではありませんか」と言いつつ、彼がその夢を解いてあげるのでした。その夢に隠されていたことは、給仕役の方は、再び元のように、給仕役に復帰できるということであり、料理役は、残念ながら処刑されるということだったのです。果たして、そのようになってしまいました。
 ヨセフは、給仕役に、彼が解放されたときには、自分のことを思い出し、ファラオに自分が無実で獄につながれていることを言ってくれるようにお願いしました。ところが、給仕役は、出獄したとたんに、ヨセフのことを忘れてしまったのでした。
 それから2年して、今度は、ファラオが、夢を見たのす。その夢は、とてもきみの悪いものでした。一つは、つややかな肥えた7頭の雌牛が、後からやってきた醜い痩せ細った牛に、食べられてしまうというものでした。もう一つの夢は、太ってよく実った7つの穂を、実の入っていない干からびた7つの穂が、呑み込むという夢でした。ファラオは、動揺し、国中の魔術師や賢者などを呼び集めさせて、夢を解き明かさせようとしましたが、できる者はおりませんでした。
 そこで、あの給仕役が、ヨセフのことを思い出したのです。ヨセフのことを聞いたファラオは、ヨセフを呼び出します。「聞くところによれば、お前は、夢の話を聞いて、解き明かすことできるそうだが」。ファラオの前に立ったヨセフは、こう言いました。「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです」。ヨセフは、自分ではなく、神様が示されるのだと言ったのでした。ヨセフは、神様の力であって、私ではないと、彼の信仰を明らかにします。
 ヨセフが解き明かした内容は、次のようなものでした。この二つの夢の内容は、同じことを述べているのでした。それは、これから神様がなさろうとしていることを示していて、それは、7年の間、エジプトの国中が大豊作となり、その後、7年間、飢饉が訪れるというものでした。しかも、同じような夢を二つも見たというのは、ことが差し迫っていることを表していたのでした。ヨセフは、これから食料を備蓄し、飢饉に備えることを提言しました。
 ファラオは、「このように神の霊が、宿っている人はほかにあるだろうか」と家来たちに言い、ヨセフに向かって「神がそういうことをみな示されたからには、お前ほど聡明で知恵ある者はほかにないだろう。お前をわが宮廷の責任者にとする」と言ったのでした。ファラオは更に彼に、ツァフェナト・パネアという名を与えました。これは、「神が語るので彼は生きる」という意味でした。
 エジプト王ファラオは、ヨセフの上に、神様が臨まれていることを理解したのでした。こうしてヨセフは、ファラオに次ぐ権力を王から与えられ、エジプトをこれから襲うことになると予想される飢饉への対策をたて、その上に権力を振るうことになったのでした。
 夢で示されたとおり豊作の年は7年続き、それから7年の飢饉がやってきました。飢饉は、世界に及びました。エジプトだけでなく、世界各地からも、人々が穀物を買いに、ヨセフのところへやってくるようになりました。
 ヨセフは、兄たちから穴に落とされて、ファラオの前に立たされるまでに、13年の歳月がたっていました。ヨセフは、このとき30歳でした。それから、少なくとも9年経過して、穀物を買いにエジプトにやってきた兄たちに面会することになるのです。聖書では飢饉がはじまって2年のうちに彼らは穀物を買いにきたことになっています。
 それにしても、ファラオの次に位置するほどの権力を与えられるまで、13年間、ヨセフは、牢獄の中での生活を強いられておりました。彼は、兄たちから穴に落とされて、兄たちがどんなにか自分を憎らしく思っていたかを知り、ショックだったでしょう。しかしまた、そこまでしなくてもいいのではないか、といった逆に、兄たちを恨む気持ちもあったでしょう。
 それから、今度は、まじめに働いていた侍従長の家の妻からは、偽りの証言によって牢獄に入れられることになりました。いずれの出来事も、人間不信につながります。心の痛手はとても大きかったと思います。
 しかし、彼は、自分がファラオの次に位置するくらいの宰相になっても驕り高ぶることもせず、自分に課せられた仕事を淡々と行っていくのでした。それは、奴隷としてエジプトに来たときから、そうした自分の身の上をいつまでも嘆くこともなく、前向きに自分の賜物を発揮していくという姿に反映されていました。牢獄に入れたときも、どんなにか悔しく残念な思いがあったでしょうか、絶望感に支配されることもあったことでしょう。
 しかし、そうした思いに打ちのめされることにはならず、やはり、そこでも自分の与えられている境遇の中で、精一杯の生き方をしていくのです。それが認められるのです。それは、聖書によれば、神様が共におられたからだ、神様が、うまくいくようにとり計られたからだと説明するのです。その神様に支えられて、彼は、その人生を何とか乗り越えていくのです。
 それは、いいときもあれば、まずいときもある、うれしいときもあれば、苦しいときもある、しかし、気がつけば、何とか、その場をしのいできたという人生でした。私たちも彼と変わらぬ人生を歩んで来させてもらっているのではないでしょうか。確かに、無実の罪で、13年もの間、牢獄に入らなければならなかったのは、とても、苦しく、悲しいことだったでしょう。
 しかし、彼は、兄たちのことをいつまでも恨みに思い、その気持ちから解放されずに、ずっと過ごしていたようなふうはありませんでした。彼は、兄たちのことを忘れることはできたのです。兄たちの仕打ちも赦すことをしていたのかもしれません。それは、偽証を行った侍従長の妻を恨みに思っているようすがないのと同じです。
 それは彼の人となりというよりも、神様が忘れさせてくださったのです。神様は、全知全能の神様ですから、そういうこともおできになるのです。人間の思い、ものの感じ方、考えなどは、なかなか変わるものではありません。しかし、それすらも変えてくださることのおできになるのが、神様なのです。
 そういうことは確かにあるのです。私の知っている人は、昨晩までは、ある方のことを赦せないと思っていたのに、その夜の夢によって、和解に押し出されていったということを知っています。人の気持ちまでも神様は変えてしまうことのおできになる方だということを私は間近に見ましたから、そのことは確信しているのです。
 今日のところからは、信仰の二つのポイントを私たちは教えられます。一つは、神様が共におられ、うまくことが運ぶようにとり計られるということです。ヨセフの場合も、たいへんなことが人生に起こっているのに、その都度、神様が共におられて、それぞれの場所で、彼が重要な役目を果たす者として用いられるようになります。彼の賜物が生かされるようになるのです。
 それによって多くの者たちが、利益を得るようになります。最後には、ヤコブ一族が、助かることになったのです。その中には、あの自分を穴に落として、奴隷として売ろうとした兄たちも含まれていました。
 もう一つは、夢の持つ意味です。夢には、自分の願望や欲求が込められているといいます。確かに人間の見る夢には、そういうものが多いのでしょう。夢によって、逆に、日頃自分が意識していないことを意識させられることもあります。自分ではわりきっているつもりでも、夢の中では、迷っていたりということもあります。心の奥底では、ほんとうはまだわりきれずに悶々としているのでしょうか。これは深層心理学的な見地から指摘されるものでしょう。
 しかし、神様が示す啓示のようなものがときに、確かにあるものです。料理役、エジプト王ファラオが見た夢などはそうでしょう。そこには、彼らの願望や心理学的な何かがあるなどとは、到底思えません。それらの夢には、確かに神様からのある事柄が示されております。極端な場合は、夢の中に神様やイエス様が登場して、メッセージを伝える場合もあります。聖書の記述には、そういうことはざらにあるのですから、現代に生きる私たちにもまたありうることです。
 しかし、その場合、気をつけなければならないこともあります。独りよがりの話もあります。だから、パウロも異言で祈る場合は、それを解き明かす人がいることが望ましいと言ったのです。何でもかんでも、神様のお告げがあったのだと言えば、これもまた、たいへんな混乱を与えることになるからです。ですから、聖書自らが、そういうことを想定して、ある人が、これこれは神様のお告げですという場合、それを吟味する人の存在もまた必要であることを述べているのです。
 私もまた個人的な事柄として、自分の献身を夢によって促されたという体験を持っています。しかし、どこかでは、その献身を吟味する人が必要だったわけです。牧師としての準備のために神学校に行く場合、教会の推薦状が必要なのはそういうこともあるのです。教会もまた、その人の献身の思いが神様の働きを受けてのことで、真実なものかどうかを吟味する必要があるのです。それは、神様から教会がまた委託されていることなのです。
 夢について語ってきました。それは、夢にこそ、神様の啓示が隠されているということではなくて、夢もまた神様は御自身の意志や御計画を伝えるのに、用られるということなのです。多くの手段の一つとして、用いられることがあるのです。
 ヨセフと神様は共におられ、ヨセフのために、いろいろなことを計られました。彼は、人に裏切られ、だまされ、ひどいめに遭わせられましたけれど、それでも、そうしたつらい状況の中で、彼は、その場の中心的な人物、欠かすことのできない重要な人物となっていったのです。神様が共におられ、彼のために計られたからです。
 そして、神様は、ヨセフとその周りの人々に夢という神様のご意志を伝える媒体をとおして、事を成就させていかれました。それによって、ヤコブ一族、イスラエルの民は救われ、その隣国にあったエジプトの国も救われることになりました。
 神様は、共におられ、いつまでも捕え続けてくださり、私たちの状況にはたらかれ、また、ご意志を示され、遂には、救いへと導いてくださいます。そのことを信じて、この週も歩んでまいりましょう。

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