平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2008年3月9日 キリストの香りを漂わす

2008-05-27 21:22:12 | 2008年
コリントの信徒への第一手紙2章12~17節
   キリストの香りを漂わす

 復活されたイエス様は、天に挙げられるとき弟子たちにこのように言いました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。私たちは、イエス・キリストの証人として、イエス様から福音宣教の働きのために遣わされています。地の果てに至るまで行くようにと、いわれています。

 ですから、地の果て、国外伝道だと考えたくなるのですが、丸い地球で、いったいどこが地の果てになるのかと、考えるときに、これまで何度もお伝えしましたように、それは、今や日本です。そう、答えなければならないのではないかと思います。日本ほど、キリスト者人口の少ない国はないからです。1%にも満たないのです。

 戦後間もない頃、日本のキリスト者の人口はぐっと伸びましたが、それ以降はわずかな成長があるだけで、ほとんど横ばい状態です。最後に、伝道しなければならない地の果てとして残されているのが、この日本でしょう。イスラム圏の国々よりも、社会主義、共産主義の国々よりも、佛教の国々よりも、この日本、私たちの国ではないでしょうか。なぜなら、私たちの国には、何ら、キリスト教を伝えるにおいて、規制されるような法律も目に余るような迫害もないにもかかわらず、このような状況だからです。私たちの使命は大きいと言わなければなりません。

 そこで、伝道を考えるときに、一つの示唆を今日の聖書の箇所からも、私たちはいただくことができます。それは、キリストの香りを漂わすということです。もし、1%足らずでも、キリスト者として、よい香り、それもちょっと強めの良い香りを放つなら、かなりの影響を与えることでしょう。

 そのことについて、聖書ではこのように書かれてあります。「神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」。

 ローマ帝国は、近隣の国々と戦争をして勝利しますと、凱旋のパレードをしました。パレードは、普通、将軍、指揮官がおり、そして、兵士、そして、捕虜がそのあとに従ったのでしょう。キリストの勝利の行進、そのとき、私たちは、勝利した側の人間として、その行進に参加させられています。しかし、そのあとに続く、捕虜になった人々、これらの人々もまた、イエス・キリストに勝ち取られた人々、キリストのものとなった人々であって、救いに与った人々ということになるのでしょう。

 私たちは、救いのために、キリストなる指揮官に従って、救いのための戦いをなし、多くの人を救いに導いた、キリストの支配のもとなる人とした、キリストの捕虜とした、これらの人々は、最後の最後まで、神様に激しく抵抗をした者たちもいただろうけれども、ついには救いに与る者となった、そういうことなのでしょう。この勝利の行進は、だから、勝利した者たちにも、負けて、捕虜となった者たちにとっても、共に喜ばしき行進になっているのです。

 そして、そのとき、この勝利の行進を記念して、あちこちで、香が焚かれています。香ですから、よい香りであることは間違いありません。その香りは、バラでしょうか、金木犀でしょうか、百合の香りでしょうか、その香りは、キリストを知るという知識の香りです。しかも、その香りは、私たちを通して、漂うというのです。神様がそうなさるのです。自分の努力でもって、香りを放とうとしても私たちにはなかなかできるものではありません。神様が、そのように私たちを通して、キリストを知る知識の香りを漂わせるのです。

 この私を通して、キリストの香りは漂っているのでしょうか。はっきりと意識できる、そう言われる方もいるでしょう。神様がそのようにしてくださっていると言いますから、自分では意識できないけれども、それとなく漂っているという人もいるかもしれません。できれば、そのようであって欲しいものです。

 さて、今日の箇所についての聖書教育の解説に、次のような資料が載っていました。バーナという人が述べているそうです。「一年を通して、自らの信仰をだれかに分かち合うバプテストは全体のおよそ40%である」また、これも聖書教育の記事ですが、「ある調査によると、多くのクリスチャンが、その使命を果たせないのは、福音のメッセージの本質と内容そのものがよくわかっていないだけである」これもまた、ちょっと信じられない衝撃的なお話です。

 神様がキリスト者たちを通して、イエス・キリストを知る知識の香りを漂わせているとあるのですが、ほんとうに、そのようになっているのか、といった問題提起の一つでしょう。一年のうちに、一回でいいから、イエス様のことをキリスト者ではない方にお話しされる人は、10人中、4人しかいないのです。それがなぜできないかというと、福音の内容がよくわかっていないからだということです。

 ある意味では、私たちが、もし、イエス・キリストの福音を語るということがないのであれば、いったいどのような方法をもって、キリストを知らない人々は、このお方のことを知るということになるのでしょうか。そして、驚くことに、語ろうにも何を語ってよいかわからないキリスト者が結構いるということなのです。

 もし、これが事実とするなら、キリストの香り以前のお話ということになるのではないでしょうか。香りを放とうにも、放つ中身がないということです。

 しかし、私たちは、神様がそのようにしてくださる、神様が、イエス・キリストを知るという知識の香りを漂うように私たちをしてくださる、その言葉にもう一度帰りましょう。その人を通してということは、その人から、キリストを知る知識の香りが漂ってくるのです。どのようにしてでしょうか。イエス・キリストを語らなくてもそれは漂うのでしょうか。誰もが、一目おくような道徳倫理的なすばらしい行いがなくても、キリストを知る知識の香りは放たれるのでしょうか。それは、放たれる、きっとすでにそのように香りは漂っています。神様がそのようにされているのです。

 ホームレスの中に、そのキリストを知る知識の香りが放たれているかもしれません。病気で弱り果てている人の中に、その香りは放たれているかもしれません。飢餓に苦しんでいる人々の中に、難民となり、逃げ惑う人々の中に、戦争で親しい人を失い悲しみの中にある人の中に、あれもこれも何一つ解決できないような課題を抱えている人の中に、彼らの中に、キリストを知る知識の香りが放たれているかもしれません。なぜなら、これらの最も小さい者の一人にしたのは私にしたのである、と言われたイエス様ですから。彼らが私だと言われたイエス様ですから。そうした人々を通して、イエス・キリストを知る知識の香りは、放たれているとも考えられるのです。

 「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです」。キリスト者である私たちの役目が述べられています。それは、パウロたち、弟子たち、私たちは、神様に献げられた、祭壇の上の焼き尽くされて煙となり、なだめの香りとなるべき、犠牲の献げ物だということです。パウロたち、弟子たちが、まさに、イエス様が私たちのために十字架の上で殺され、犠牲の小羊となったように、彼らもまた、そのように、今度は、他者のためにそのようになるということなのでしょうか。

 それは、救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、キリストによって神に献げられる良い香りとなるのです。つまり、福音を聞いて、それを受け入れ、救いの道に至るものにとっても私たちは犠牲のなだめのより香りとして働いたのだし、或いは、福音を聞いたけれども、そのようなキリストの十字架など、愚かなことだと考え、それを受け入れないで滅びに至る道をたどる者にも、私たちは、よい犠牲のなだめの香りとなったということなのです。

 両者に対して、私たちは、ただ、主の御用を果たしたのです。ただ、救いと滅びの事柄が完成するのは、終末だということは言えるでしょう。救いと滅びの事柄がどうなるかは、終末になってみないとわからないということであります。

 「滅びに至る者には、死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命へに至らせる香りです」。弟子たちの仕事は、イエス・キリストの福音を語り伝えることですが、その福音を聞いた者は、どうするかの選びをしなければならないのです。イエス・キリストの福音を受け入れるのか、受け入れないのか、死に至る道をたどるのか、命に至る道をたどるのか、いずれにしろ、彼らの放つ香りが、そのような道の選びを迫るものになっていくのです。最初からこの香りをかがなければよかった、と思う人もおられるでしょう。しかし、かいだ者は、どちらかの選択をせざるをえないというのが、道理です。

 しかし、その香りを放つ方も思うのです。「このような務めにいったい誰がふさわしいでしょうか」。滅びに至る道の選択を迫ることになるかもしれない、命に至る道の選択を迫ることになるかもしれない。そのような重大な務めをいったい誰が負うことができるでしょうか。そのような資格を持つ者など誰もいません。

 ですから、神様がそのように整えてくださる、神様が用いてくださる、神様が遣わしてくださる、神様が犠牲のなだめの香りとしてくださる、神様がイエス・キリストを知る知識の香りとしてくださる、そのことを信じる以外にはないのです。神様が遣わされるときには、キリスト者ではない者たちも、その御用をさせられることだってあるのですから。

 「わたしたちは、多くの人々のように、神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています」。パウロから見ると、なんと多くの人々が、神の言葉を売り物にしていたことでしょう。

 売り物にするというのは、酒を水で増やす、水増しをするという意味があったようです。神様の言葉を、人間の言葉で水増しするのです。これらの人々は、おもにユダヤ人からキリスト者に回心した人々であったという説もあり、そうだとすると、律法から完全に解放されていない人々、まだまだ、十分にこだわりをもっていた人々でしょうから、割礼を受けないといけないと言ったり、律法のいろいろな掟に縛られて、それを他のキリスト者たちにも強要したりということで、イエス様の福音をだいなしにしてしまっていた人々だったのでしょうか。

 また、これらの人々の中には、説教に対する支払いを要求するものもいて、文字通り、神の言葉を売り物にしていた、ということもあったようです。多くの人々がそうだったというのですから、現代に生きる私たちもまた考えさせられるところです。特に、牧師をしている者などは、考えないとなりません。4章の2節に、「かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます」というパウロの言葉がでてきます。

 神の言葉を売り物にするというのは、神の言葉を曲げる、真理を明らかにしない、そういうような説明もできるでしょう。私たちが、神の言葉を語るというとき、それは、神に属する者として、神の御前で、キリストに結ばれて語る、ということが条件です。

 しかし、実際は、私たちが伝道をするとき、キリストの証人として遣わされるとき、キリストを知る知識の香りとさせられるとき、私たちは神に属し、神の御前に出ており、キリストと結ばれているということなのでしょう。私たちは、イエス・キリストにある福音のお話をまだイエス様のことを知らない人々に語るときに、神様に属し、神様の前に出ており、イエス様と結ばれているということを意識したいと思います。

 確かに、すでに神様がそのようにしてくださっているからこそ、話すことができるのですが、しかし、そのことを意識するならば、私たちは力をさらに得るではありませんか。ただし、強烈な臭いというのは、あまり好まれません。強烈なにおいと芳しい香りとは紙一重のようなところがありますから、私たちは、キリスト者としてキリストの芳しい香りを放てるように、神様にお願い致しましょう。

 つまり、あまり自分の力で何とかしようとして力み過ぎたりしないで、やはり、イエス様の福音を語るときもまた、神様に委ねるという思いを持ちつつ、というところでしょうか。そして、ひょっとして、香りを放っているそのときは、私たち自身では、最悪のときかもしれません。自分自身では情けないと思うようなときをも、神様は、芳しい香りとして、用いられているかもしれないのです。神様が用いてくださるのですから、その可能性は十分にあります。

 そして、結ばれているイエス様をどのように、私たちが理解し、イメージしているか、ということは、放たれる香りの問題でいうと、それこそが一番大切なところなのでしょう。それでもなお、それらのものを超えて、私たちを、キリストを知る知識のよき香りとして、用いてくださる主に感謝しましょう。私たちは、キリストの証し人です。


平良師

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