平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2011年12月11日 心が燃えるとき

2012-03-01 12:06:30 | 2011年
ルカによる福音書24章13~35節
心が燃えるとき


 イエス様が十字架につけられて死んで、三日目のことでした。その日の朝、香料を持ってイエス様が葬られている墓に行った婦人たちは、墓をふさいでいる大きな石が、転がされているのを見ました。中に入ってみると、そこには遺体はなく、御使いらしき二人の人が現れて、イエス様の復活を告げられたのでした。そして、そのことを弟子たちのもとに行って、告げたところ、彼らは、この話しがたわごとのように思えたので、婦人たちを信じませんでした。
 この二人の弟子たちも、おそらく、その話しを婦人たちがしたときに、その近くにいたのでしょう。しかし、彼らは、今、エルサレムをあとにして、11キロほど離れたエマオという村に向かっておりました。彼らもまた、他の弟子たちと同じように、これらの婦人たちの話しを信じようとはしませんでした。その証拠に、彼らは、婦人たちがイエス様は復活したと御使いが告げたという、そのエルサレムを離れようとしていたのです。彼らは、不思議な話しがあるものだ、くらいには思いましたが、だからといって、婦人たちの話しを信じることはありませんでした。
 しかし、彼らは、この一連の出来事について、エマオへの途上、話し合い、論じておりました。イエス様は、どうして、十字架につけられたのだろうか、イエス様は、いったい何者だったのだろうか、今朝方の婦人たちの話しは、いったいどういうことなのだろうか、などと、いろいろと話し、論じ合っていたことでしょう。これらのことについては、もう解決したお話ではなく、実は今もなお、私たちは、そのようにしているのではありませんか。イエス様はどうして、十字架におかかりになったのだろうか、イエス様というお方はいったい何者だったのだろうか、復活はほんとうはどういうことだったのだろうか、自明のこととして済ますには、あまりにも、事柄が大きすぎるのです。
 しかし、このとき、この二人のところへイエス様はやってこられて、一緒に歩き始められます。そして、「歩きながら、やり取りしているその話しは何のことですか」と問われました。イエス様は、彼らが、何を問題にしているのか知りたいのです。その場に、いたいと願われるのです。二人は、暗い顔をして立ち止りました。彼らのその暗い表情の中身は、イエス様が十字架にかけられて、死んでしまったということでした。
ここには、彼らが、イエス様をどのように捉えていたのか、何を期待していのかが書かれています。24章の19節「この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした」。21節「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」。彼らは、イエス様は、力のある預言者であり、イスラエルをローマ帝国の支配から解放してくれる人、そのように考え、期待をしていたのでした。
それは、何も彼らだけでなく、当時の多くのユダヤ人たちが抱いていたメシア、キリスト、救い主に対するイメージでもありました。しかし、その期待はもろくも崩れ去ったのです。おまけに、そのとき、弟子たちは何もできず、否、それどころか、イエス様を見捨てて、逃げてしまったのでした。彼らには、そうした痛みもなかったとは言えないでしょう。彼らが暗い顔をしていたのは、イエス様が十字架で殺された、それだけでなく、そうした自分たち自身に対する負い目、そうした思いも含んでいたと思います。
 その彼らと、イエス様は一緒に歩き始められました。そして、まずは、お聞きになるのです。彼らの胸のうちをすべて、お聞きになるのです。「歩きながら、やりとりしているその話しは何のことですか」。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存知なかったのですか」。そこで、イエス様は、言われます。「どんなことですか」。そこで、彼らは、見ず知らずの男に、イエス様のことを堰を切ったように語り出しました。彼らは、イエス様をどのようなお方だと見ていたか、また、彼らはこのイエス様に何を期待していたか、そして、今朝方起こったことを語ったのでした。
 イエス様は、彼らの話しをじっと聞かれていたと思われます。しかし、それで、ほんとうにそれはつらかったね、と同情して終わりではありませんでした。イエス様は、彼らに喝を入れます。「ああ、物分りが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。
 つまり、こうした一連の苦難を受けて、栄光に入るはずだったのではないか、と一喝されたのでした。苦難は、栄光へとつながっている、苦難なしには栄光もない、だから、十字架につけられて死んだということは、一つのプロセスだったのだ、と、何かの間違いなどではない、必要なことだったのだと、イエス様は教え諭されました。そのことのために、モーセとすべての預言者からはじめ旧約聖書全体にわたり、イエス様ご自身について、メシア、キリスト、救い主について述べられていることを説明されたのでした。
 イエス様ご自身がお語りになる、聖霊がお働きになられる、これは、聖書を読む私たちには、幾らでも経験のあることです。聖霊のお働きのないところでは、聖書の言葉をいくら読んでも、私たちの心には、わかったという形では、なかなか入ってこないのではないでしょうか。聖霊のお働きが強く臨むとき、それまで、何も感じなかった聖書の御言葉に心おどらされたり、気づかなかったことに、気づいたり、勇気や励ましを受けたりします。
 そして、私たちの信仰も強められます。このとき、彼らの心のうちには、イエス様の言葉、旧約聖書の言葉、それらの内容が、どんどん入ってきたのでした。彼らはそのときのことを後で振り返ってこう言っています。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。
 イエス様は、彼らに話されたあとも、なお、先に行こうとされていました。どこへ、行こうというのでしょうか。エマオを過ぎて、それからどこへ行かれるのでしょうか。彼らは、エマオにたどり着き、目的を果たしましたが、イエス様はなおも先へ行こうとされていたとあります。彼らは、一時的に隠れる所を求めたのでしょうが、それはイエス様が求めるところでは、このときはなかったのです。イエス様の目指すものがあられるのです。私たちには、それが何か、どこかわかりませんが、イエス様に従うことをイエス様は願っておられるでしょう。
 しかし、このとき、二人の弟子たちは、無理に引き止め、自分たちと一緒に泊まるようにお願いしまた。この方にいつまでも一緒にいて欲しいと願いました。そして、一緒に食事の席についたときのことでした。この方は、パンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いて、それを二人に渡されました。そのとき、この二人の目が開けて、目の前にいる男が、イエス様だと気づいたのでした。不思議なことです。これまで、ずっとイエス様といて、イエス様のお姿を見、イエス様のお声を聞いていた弟子たちであったと思います。
 それなのに、気がつかなかったと言います。信じない者には、何を見ても、何を聞いても、悟ることがない、そういうことなのでしょうか。イエス様は、どこにでもおられるのに、私たちの心がにぶいばかりに、それがイエス様だと気づかないのでしょうか。私たちは、イエス様とお会いしたいと思います。イエス様が今ここにおられたらと、願うのです。しかし、イエス様は、共に歩んでおられる、私が、ただそれに気づかないだけかもしれないのです。私たちは、ほんとうに復活の主に会いたいと願っているのでしょうか。
 不信仰ゆえに、そんなはずはない、と思っているのではないでしょうか。この二人の弟子たちは、婦人たちの話しを聞いたときに、不思議なことがあるものだ、と思ったようですが、イエス様が復活されたという話しに真実に耳を傾けることはありませんでした。そのようなことに、期待はしていなかったのです。それがために、彼らには、イエス様が目の前におられるのに、そのお方に気づかなかったのです。私たちは、信仰によってのみ、復活のイエス様と出会うことができるのです。
 イエス様が、パンを裂かれる行為を見たとき、彼らは、それがイエス様だと理解しました。確かに、讃美の祈りを唱えてから、パンを裂き、弟子たちに渡すという行為自体が、イエス様特有のものであっただろうといわれていますから、それを見たときに、さすがに、イエス様だと理解できたのでしょう。ここには、主の晩餐を共にするとき、その中に、復活のイエス様もまた、共におられる、そこにこそ、イエス様を見出すことができる、そういうことを述べようとしているのかもしれません。確かに、主の晩餐は、私たちに、イエス様の臨在を強く感じさせるものであります。
二人の弟子が、イエス様の存在に気づいたとき、イエス様の姿は見えなくなりました。しかし、二人の弟子たちは、時を移さず出発して、エルサレムに戻りました。なぜ、エルサレムに戻ったのでしょうか。少なくとも、逃れようとしない、恐れることをしなくなっている彼らの姿を見ます。
 彼らは、エルサレムにイエス様が戻られたと思ったからではないでしょうか。また、イエス様の復活を他の弟子たちに伝えないといけないと考えたからではないでしょうか。彼らの心は燃えていました。イエス様が、共に歩まれ、旧約聖書すべてにわたってそこに記されているイエス様のことを説明されたときに、彼らの心は燃え上がりました。その火は、消えることがなかったのです。
 戻った彼らが、見たものは、そこに11人の弟子たちが集まっているという光景でした。そして、ほんとうにイエス様は、復活されて、ペトロに現れたということを言っていたのです。そこで、彼らも、エマオへ行く道で起こったことや、パンを裂いてくださっときにイエス様だと分った次第を話しました。教会は、こういうところです。イエス・キリストの教会に必要なことは、こうした、証言ではないでしょうか。
 私もイエス様と出会わされた、イエス様が、私が、このように苦しんでいたときに、共に歩んでくださって、このようなことをしてくださった、このように道を開いてくださった、私の話しを聞いてくださった、救いの御手をさしのべてくださった、このようにお語りになった、そうした数多くの証言が飛び交うところが、イエス・キリストの教会ではないでしょうか。一人一人に起こった出来事を共に分かち合うところ、それが教会である、そうとも言えるでしょう。そして、それは、共通の財産になるのです。
 教会には、悲しみを負って来られる方や救いを求めて来られる方が、多いのです。当然なことです。イエス様が、重荷を負う者は、私のもとに来なさい、休ませてあげよう、と言われているからです。そして、そうであった方々が、イエス様に出会って力を得、癒され、元気を取り戻していくのです。二人の弟子たちのように、失意の中に暗い顔をして、歩いていた者たちが、心を熱くさせられて、再び、苦難が待っているであろう、その厳しい状況の中に、戻っていくことができるのです。
 そのとき、信仰告白をします。その中で、イエス様がいったい私に何をしてくださったかを語ります。イエス様についての証言です。心に、火をともされた瞬間です。心が燃える始まりです。しかし、それは、これまでの状況とはいっぺんします。復活のイエス様が共におられるということを知っているのですから、これは、それまでの状況とは、まったく違います。
 このイエス様が、2000年前、この世に来られました。このお方は、インマヌエルと呼ばれると言われました。そのインマヌエルという名は、「神は我々と共におられる」、という意味である、とあります。この弟子たちの悲しみと失望の中を一緒に歩まれたイエス様は、今なお、私たちと共に歩まれるお方です。ときに、話しを聞いてくださり、ときに、お叱りも受けます、教えさとされることもあります。
 そして、あえて、厳しい状況へと押し返されることもあります。そのときには、それらに耐えられるような、勇気を与えてくださいます。このお方は、世の終わりまで、共にいてくださるお方です。


平良師

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