平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2011年12月18日 神にできないことは何一つない

2012-03-02 00:00:20 | 2011年
ルカによる福音書1章26~38節
神にできないことは何一つない


 メシア、キリスト、救い主誕生の物語は、当時としては、非常に意外なところから始まりました。ユダヤの都エルサレムから遠く離れた辺境の地とも思われていたガリラヤ地方のナザレという小さな町でした。しかも、その救い主を産むことになるのは、王の娘でも、どこそこの令嬢でもありませんでした。身分の低い者と、マリア自らが自分のことを述べていますが、それは若干の謙遜はあったでしょうが、おそらくそうであっただろうと思われます。
 当時は、ローマ帝国が、勢いを強め、全世界を支配していた時代でした。ユダヤもすでにローマ帝国の支配下にあったのでした。一方において、そうして、隆盛を誇るローマがあり、その皇帝を神として崇めよという圧力もある時代状況がありました。そのなかにあって、神の子、イエス・キリスト、救い主は、辺境の地のガリラヤ、そして貧しい乙女から生まれることになるのです。この二つのありよう、出来事は、非常に対照的です。
 この世の、力を誇る王のありようと神の国の、平和の君とよばれる救い主としてのありようと言えるでしょうか。ただし、このマリアについてですが、救い主を産むにあたって、まったく血筋に関して、縁もゆかりもない者であったかというと、ルカによる福音書では、そうでもなさそうです。祭司ザカリヤの妻、エリサベトとは親類関係にあり、のちにエリサベトが産む子が、バプテスマのヨハネとなります。
 また、マリアは、ダビデ王の末裔にあたるヨセフという男のいいなづけであったと言います。しかし、聖霊によって、マリアは救い主をやどすことになりますから、血のつながりという人間的な問題は絶たれているとは言えるのです。そして、このときのマリアは、確かに、貧しい女性であって、夫ヨセフも大工を生業としていたのでした。
 そして、マリアは、のちにヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンという男児を生み、他にも娘たちもいたとマルコによる福音書の6章3節には書かれていますし、イエス様が大人となり公的な活動を始められたときには、これらの子どもたちを引き連れてイエス様が気が変になったのではないかと心配して取り押さえに来たりしていますから、何か崇高で聖なる女性というよりも、普通の女性であったと思っていた方がいいのかもしれません。
 しかし、この箇所は、マリアに信仰者としての気高さを感じさせるところではあります。天使ガブリエルが、ガリラヤのナザレの町に住むマリアのところへ来ました。彼女への言葉は、「おめでとう。恵まれた方、主があなたと共におられます」というものでした。その出来事がめでたいのか、或いは、恵まれたと言えるのかは、天使ガブリエルからするとそうだったのでしょうが、当初、本人がどう思ったかは、はなはだ疑問であります。
 マリアは、この挨拶はいった何のことを言っているのか、と思いました。あれこれ考えてみましたが、心当たりは何一つありませんでした。そうこうしていると「マリア、恐れることはない。あなたは、神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は、偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は、永遠にヤコブの家を治め、その支配は終ることがない」と告げたのでした。
 その子は、偉大な人になり、いと高き方の子と言われ、神様がダビデの王座をくださり、イスラエルを永遠に支配するお方である、そのような子を産むことになるのですから、めでたいと言えば、めでたいのかもしれません。しかし、後に預言者シメオンが、マリアに告げたように、「あなた自身も剣で心を刺しぬかれます」と言ったように、イエス様が十字架につけられるというようなこともあり、マリア自身も心に深い痛みを負うことになったと思われます。ですが、この天使の御告げを受けたときのマリアの不安は、その子が将来どのような人となるかというよりも、自分の立場の問題がありました。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。
 マリアには、ヨセフといういいなずけがおりましたが、彼とはまだ、一緒に生活はしていませんでした。そのようななかで、もし、子をやどすということになれば、ヨセフの信頼を失い、彼との関係は、壊れてしまいます。また、当時、律法に生きているユダヤ社会にあっては、姦淫の罪を犯したというので、石打の刑にあわないとも限りません。それは、本人だけでなく、家族、親類にまで、その影響が及びます。
 そして、ガブリエルは続けます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。これもまた、非常に不安なことでした。つまり、聖霊によって身ごもるというのです。それは、いったいどういうことなのか、まだ、出産ということも経験したことのないマリアが、聖霊によって身ごもると言われても、想像もできなかったことでしょう。ですから、これもまた、とても不安な事柄でありました。しかも、その子は、聖なる者、神の子と呼ばれる、というのですから、なおさらでした。
 しかし、ガブリエルは、そのことは必ずなされるという一つの証拠を示したのでした。「あなたの親類のエリザベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう6ケ月になっている」ということでした。エリザベトは、マリアの親類でありましたから、彼女のことはある程度は知っていたと思います。そのエリザベトのことを言われたときに、マリアは、えっと思ったことでしょう。あのエリザベトが、身ごもって6ケ月にもなっているなんて。それは、確実に彼女に決断をうながす一つの材料にはなったはずです。
 そして、ガブリエルは「神にできないことは何一つない」と結びました。マリアは、そうだ、神様にできないことは何一つないのだ、そう思わなかったでしょうか。神様が、そのようにされたいと望まれれば、そのように事柄は、進んでいきます。全知全能の神様にできないことは何一つないのです。
 しかし、この場合、あくまでも、天使ガブリエルは、そのことについて、マリアに同意を得ようとしています。マリアを説得しようとしています。理解を得ようと努力しています。そのように思えます。ですから、マリアも、最後に、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と、返事をするのでした。
 マリアが、どの程度のことを予想し、覚悟したかわかりません。しかし、このあと、エリザベトのところを訪れたマリアに対して、エリザベトは、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言っているように、マリアの信仰が、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」との言葉には、表われていました。彼女は、いろいろな不安やリスクを負いつつ、しかし、神様が恐れることはないと言われ、共におられるのであって、しかも、神様にできないことは何一つない、というその言葉を信じて、決断をしたのでした。
 さて、この物語においてもまた、二つの世界が描かれていて、私たち人間にどちらの世界に生きるかのチャレンジを要求していると言えないでしょうか。一つは、神の国です。もう一つはこの世です。つまり、神の国の喜びとなるように生きるのか、この世で、安心安全を求めて生きるのか、そういうことの迫りがあります。神の目に適うように生きるのか、人の目に適うように生きるのか、ということです。
 明らかに、マリアの選択は、神の目に適うように生きるものとなりました。神様のご意志を受け入れることとなりました。ところが、人の目からは、まだ結婚もしていないのに、子をやどしたマリアは、人々からは、不信の目、非難の目で見られることとなったでしょう。
 マタイによる福音書では、いいなずけのヨセフが、子をやどしたマリアを受け入れたために、ことなきを得たことになっていますが、マルコによる福音書では、イエス様は、「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか」、マリアの子という言い方をされています。普通は、ゼベダイの子のヤコブというように、父親の名前を言って、その親の子の誰それという言い方ですが、ですから、ヨセフの子のイエス、と言われるはずですが、マリアの子という呼ばれ方をしているのです。
 つまり、イエス様は、父親がいないことになっておりまして、このとき既に、ヨセフが、死んでしまっていたのか、いずれにしても、マルコによる福音書には、ヨセフの名前はでてこないのです。ですから、イエス様は、幼い頃から、父なき子どもとして、扱われていた可能性もあります。
 マリアは、この世の人々の目を気にして、神様の御心を受け入れないという選択をせず、この世的には、いろいろな障壁が予想されるけれども、神様の御心を受け入れる選択をしたのでした。
 神の目からするならば、マリアは、「おめでとう。恵まれた方。主があなたと共におられる」そういう人物でした。「恐れることはない。あなたは神から恵をいただいた」そういう人でした。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」そういう女性でした。これはすばらしいことではありませんか。最高に恵まれ、祝福された人ではありませんか。
しかし、これは、ただマリアにだけに、語られている言葉でしょうか。これは、私たち一人一人にも同じように、語りかけられているお言葉だと思うのです。「おめでとう。恵まれた憲誠、主が憲誠と共におられる」。「恐れることはない。憲誠は神から恵をいただいた」。「聖霊が憲誠に降り、いと高き方の力が憲誠を包む」。そのように語りかけられているのではないでしょうか。これで、十分、十分以上、すべてのことが満たされるお言葉です。
 それに対して、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。これもまた、すばらしい応答の言葉ではないでしょうか。ただ、そのことは、マリアの場合は、子をやどし出産する、ということでした。私たちの場合は、それはいったいどのようなことでしょうか。それは、この世にあっては、果たして、おめでとう恵まれた方、と言われるような事柄に見えるでしょうか。やはり、恐れがどうしても生じてしまうような事柄であるかもしれません。とても、割に合いそうにない事柄であるかもしれません。想像もつかないような事柄であるかもしれません。リスクを伴う事柄であるかもしれません。
 しかし、神様は、恐れるな、と言われます。なぜなら、神様が共におられるからです。聖霊の力に包まれるから大丈夫だということであります。そして、何よりも、「神にできないことは何一つない」という宣言をいただいているのです。この世の状況や人々の目がどうであれ、私たちは、神様の御言葉に押し出されて、ことを選び取っていくのです。
 マリアは、ほんとうに貧しい身分の者であったのかどうか、1章の46節からのマリアの賛歌の中では、そのように自分のことを言っています。「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」。そして、彼女が貧しかったということを否定する材料もないように思われます。「わたしは主のはしためです」。
 はしため、というのは、女の召使という意味ですが、神様に仕えようとする彼女の謙遜な姿勢を見てとることができます。そして、お言葉どおり、この身に成りますように、と言いました。これから起こるであろう、もろもろのことを彼女は、受け入れる覚悟を決めました。それらの歩みには、つらいこともあり、喜ばしいこともあることでしょう。彼女は、すべてを心のうちに納めたのではないでしょうか。そして、恐れることはない、主が共におられる、というその道の選択をしたのでした。
 「神にできないことは何一つない」。これは、神様が望まれるのであれば、そのとおりになるということで、私たちが、願っているように事柄をしていただける、というのとは違います。ですから、私たちは、自分たちの願うことを叶えて欲しいと思えば、それが神様の御心となりますように、と祈る以外にはありません。しかし、私たちには、全然望んでいないことが、ときには示されます。もし、それが、神様の望まれる人生の道、事柄であるのなら、そのことがこの身に成りますように、と私たちは決断をすることが求められます。
 しかし、マリアは、そのとき、「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられます」という宣言を受けてからことの次第を聞くことになりました。私たちも、神様が示される道であるのならば、先に、「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられます」という宣言の中に、これから進もうとしている道、事柄の選びは、おかれているということです。神様に示されて進む道は、神様の祝福で満たされ、神様が共におられる、そういう道であることを信じてまいりましょう。
 たとえ、この世的には、そう思われないような道であったとしても、マリアがすべてを受け入れていったように、私たちもそうしようではありませんか。神様が望まれるのですから、「神にできないことは何一つない」のであります。そして、できるならば、私たちの願いが神様の御心となるように祈ってまいりましょう。


平良師

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