コリントの信徒への手紙二 9章1〜15節
教会に限らず、宗教団体の運営は、お布施や献金によって、その多くが成り立っています。当然と言えば、当然のことです。ちなみに、宗教法人には、収益事業もいくつかの種類が認められており、税金を納める形で、法的には問題はありません。
しかし、そのような収益事業などしないでもすむ形で教会の運営はなされていくのが、健全だとも言えます。初代教会もまた、信徒たちの献金でその宣教活動は運営されていました。一般的には、この当時のユダヤ人たちは、ローマへ納める人頭税の他に、神殿税というものをユダヤ当局に納めておりました。それによって、ユダヤ教の宗教的な諸々の行事や活動は行われていたのでした。
現在、私たち、キリスト者たちは、収入の10分の1をまず聖別して、残りの10分の9を用いて自分たちの生活を立てるように、聖書から奨められています。すべては神様のものなのに、その10分の9は私たちが自由に使ってよいというのは、神様は何と太っ腹なお方なのだろうという人もおられます。キリスト者たちの多くは、10分の1を努力目標にして生活をなさっておられると思います。
それとても、イエス様は、全財産のレプタ2枚を献げた女性のお話をとおして、すべてを献げるように、つまり、すべてのことを神様に委ねるようにと奨められているのだと思われます。しかし、10分の1、そのこともなかなかできるものでありません。それぞれの事情がありますから、それらを無視して、まずは10分の1をこれは神様のものだからと聖別して、献金するのは、難しいのでしょう。しかし、イエス・キリストの教会は、皆さん、信徒たちの献金によって成り立っているというのは、間違いないことなのです。
パウロは、エルサレム教会を助けて欲しいと、献金のお願いをコリント教会の人々に致しました。この一種の献金運動は、パウロが、本格的に異邦人伝道に専念する際、エルサレム教会の使徒たちとの会議において、約束したことでした。ガラテヤの信徒への手紙2章の9節、10節には「また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱(エルサレム教会の柱)と目されるおもだった人々たちは、わたし(パウロ)とバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々(ユダヤ人)のところに行くことになったのです。
ただ、わたしたちが貧しい人たち(エルサレム教会の主に使徒たちを指す)のことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です」。そして、コリント教会の人々は、パウロの奨めに従って、そのことへの取り組みを約束したようです。しかし、最後の詰めのところで、何かうまくいっていないようです。それで、それについて、再度、パウロは、こちらから献金受け取りのために、兄弟たちを派遣することを伝え、献金がそれまでに整っていて欲しい旨、伝えています。
それが、9章2節からのところになります。「わたしはあなたがたの熱意を知っているので、アカイア州(そのコリント教会のある州)では去年から準備ができていると言って、マケドニア州(テサロニケ、フィリピ、エフェソの教会のある州)の人々にあなたがたのことを誇りました。あなたがたの熱意は多くの人々を奮い立たせたのでした。わたしが兄弟たちを派遣するのは、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りが、この点で無意味なものにならないためです。
また、わたしが言ったとおり用意していてもらいたいためです」とあります。続けて述べています。「そこで、この兄弟たちに頼んで、一足先にそちらに行って、以前あなたがたが約束した贈り物の用意をしてもらうことが必要だと思いました。渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意してもらうためです」と、パウロにとって、献げるときの気持ちの持ちようまで、否、これこそが大事なことだったのでしょう。
献げる姿勢について、パウロは語ります。「惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」。そして、9節では「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と、詩編112編を引用して、神様の豊かな恵みと慈しみを語ります。同じく、コリントの信徒への手紙二の8章9節では「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。
すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」と、パウロは述べています。私たちがするべきお手本の中で、何ごともイエス様以上のお方はおられません。神様が、イエス様が、まず、私たちに惜しみなく与えられたのです。そして、神さまが私たち人間にしてくださったように他者にする人々を神様は顧みてくださいます。
パウロは、神様は惜しみなく与える者を顧みて下さり、その者をさらに富まし、恵まれ、その者の働きが実を結ぶようになると述べています。
それだけでなく、献げる者たちに対して、エルサレムの人々が「この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分け与えていることで、神をほめたたえます」とその証しの業が、エルサレム教会の人々を励ますことにもつながるのだと言うのでした。
今、私たちが行っている協力伝道の姿です。否、初代教会の時代から、キリスト教が推し進める福音宣教の中身の一つに、こういう協力伝道の在り方が備わっていたのだと思います。これもまた、パウロが述べていることですが、ローマの信徒への手紙1章の11節、12節「あなたがたにぜひ会いたいのは、霊の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」とあります。
まさに、協力伝道のめざす姿だと思います。協力伝道は、自分たちの教会の成長だけを求める姿勢から、解放してくれます。支援を受ける方も支援する方も、同様に、神様を讃美することになります。もし、私たちが自分たちの教会の成長だけを求めようとすれば、福音の中身を変質させてしまう可能性が出てまいります。自分たちのことだけを考える視点は、決して福音的ではありません。神様は、神様に仕え、人に仕えよと教えておられます。
ちょっと視点は異なりますが、例えば、アメリカファースト、都民ファーストと言う言葉があります。これは、自国のこと、自分のいる地域を第一に考えるということです。これを突き詰めていきますと、どういうことになるでしょうか。行き着くところは、ナショナリズム、民族主義、そして、それが行き着くところは、自分たちこそが一番、つまり、それ以外を貶めたり、排除する方向に動いていきます。かつての、ヒトラーのような人物を歓迎するようなことになりかねません。
全世界に現時点では、これこれの食物があり、それを皆で分け合って食べるとすれば、皆が食べて満腹できるくらいのものがあるのに、いくつかの先進国が財力にものを言わせて、自国のためだけにそれを集めようとすれば、飢える人々が出てくる構造と同じです。しかし、これとても、歴史的には、かつてキリスト教国のいくつかが、アフリカ、アジアを植民地としていったことを考えると、人間の罪というものは、早々に消え失せるものではないことがわかります。
しかし、神様は、そのような人間の負の歴史であったとしても、それを何とか乗り越える形に変えることのおできになる方ですから、そのことを信じて、歩み続けるしかありません。バプテストの教会も教会が分裂して痛みを負うことがあります。それによって、もう一つの教会ができてしまうこともありますが、そのときにはとてもつらい体験となります。しかし、それによって、それまで教会がなかった地域にもう一つの教会ができたと、いうことになりまして、時間が経ってから、そのことを結果として、よしとすることもあります。
そのような一面もあって、バプテストの教会は増えてきたという人もいるくらいです。ただ、ここで教えられることは、ほんとうに喜びに満ちた宣教活動は、協力伝道が生み出す喜びであることということです。これは、支援する側も支援される側も共に、主にある喜びに満たされることになります。
例えば、全国女性連合の働きもあり、日本バプテスト連盟は国外宣教師をカンボジアやインドネシア、シンガポールなどに派遣しています。また、全国壮年会の働きによって献金が集められ、これから牧師とした立とうしている方々の学びや生活を奨学金という形で支えております。そして、宣教師や神学生たちの働きを私たちは聞いて、喜び励まされるのです。14節に、「更に、彼ら(エルサレムの貧しい人々、聖なる人々)はあなたがたに与えられる神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです」とあります。
エルサレム教会の人々は、コリント教会の人々が自分たちのために献金を集め、こうして届けてくれた、そのことを知って、そこにコリント教会を祝福している神様のお恵みを見るのです、そして、キリストの教会としてのうるわしい交わりがそこに感じられ、ほんとうにキリストに呼び集められた群れが形成されているなあといった思いを与え、そして、エルサレム教会の人々は、そのようなコリント教会の人々のためにこれから祈ってくれるというのです。
協力伝道ということでは、連合もまた協力伝道を行っています。この福岡地方バプテスト連合には、壱岐教会があります。壱岐の島は、長崎県ですので、連合としては西九州地方連合になるのですが、歴史的に、福岡地方連合に所属しています。離島ですので、なかなか伝道が思うように進みません。現在も10名足らずであり、9月には牧師も代われると聞いております。この壱岐教会を連合は、ずっと経済的に、ほんのわずかですが支えさてきています。
また、しばらく無牧師になるということもあり、連合の牧師や協力牧師、伝道師、その他、他の教会の信徒の方々の説教のご奉仕をお願いしたいと、今のN牧師は語っておられました。そうやって、福岡地方連合は、壱岐教会を支える、支えさせてもらうことを通して、壱岐教会との関係だけでなく連合のきずなが深いものとなったり、壱岐教会の皆様の宣教の業をおぼえて、他の連合の教会の者たちも励まされたりするのです。
私たちバプテストは、教理的なものは、他の一般的なキリスト教と何ら変わるところはありません。そもそも教派の違いというのは、いくつかの大事にしているものが違うということだけなのだろうと思います。一つには、洗礼を、信仰告白をした者にしか施さないということです。親の意思で、幼児に施す、幼児洗礼を認めません。教会運営の仕方は、民主的であるということです。皆の意思を大切にします。また、何ごとも聖書から聞いていきます。聖書第一主義です。
そうです。キリスト者たちのことを言うなら、聖書ファーストということになるでしょう。また、政教分離の原則を大事にしています。政治の力によって、私たちの信仰が弾圧されたり、命が脅かされた時代がありました。私たちは、二度とそのようなことがないようにと、祈って運動しています。しかし、こうしたことを大切にしているバプテスト派の教会が協力伝道ということで、この日本バプテスト連盟に加盟し、力を合わせて、宣教活動を行っているのは、そのことによって、互いに励まし合うということが一番の目的にあるのだと思います。互いの成している宣教活動を知って、お互いに力づけられ、お互いに励まし合っていけるのです。これは、教会の福音宣教が担っている実に本質的なことではないでしょうか。
協力伝道の業は、支援する側もされる側も共に富むことになる、共に励まされることになる、共に神様を讃美することになる、そうやって、神様にあって一つになることができる、それに尽きるのだと思います。そういった意味では、お隣との協力による宣教活動もそろそろ具体的に考える時期を迎えているかもしれないと思います。私たちは、色々な方々を受け入れる多様性を大事にしている教会です。そのためにも、多くの方々と交わり、多くの方々の考えを理解し、多くの方々と力を合わせて、ある意味ではこの地上における神の国の建設のための宣教の業に励んでまいりましょう。
平良 師
協力伝道の業
教会に限らず、宗教団体の運営は、お布施や献金によって、その多くが成り立っています。当然と言えば、当然のことです。ちなみに、宗教法人には、収益事業もいくつかの種類が認められており、税金を納める形で、法的には問題はありません。
しかし、そのような収益事業などしないでもすむ形で教会の運営はなされていくのが、健全だとも言えます。初代教会もまた、信徒たちの献金でその宣教活動は運営されていました。一般的には、この当時のユダヤ人たちは、ローマへ納める人頭税の他に、神殿税というものをユダヤ当局に納めておりました。それによって、ユダヤ教の宗教的な諸々の行事や活動は行われていたのでした。
現在、私たち、キリスト者たちは、収入の10分の1をまず聖別して、残りの10分の9を用いて自分たちの生活を立てるように、聖書から奨められています。すべては神様のものなのに、その10分の9は私たちが自由に使ってよいというのは、神様は何と太っ腹なお方なのだろうという人もおられます。キリスト者たちの多くは、10分の1を努力目標にして生活をなさっておられると思います。
それとても、イエス様は、全財産のレプタ2枚を献げた女性のお話をとおして、すべてを献げるように、つまり、すべてのことを神様に委ねるようにと奨められているのだと思われます。しかし、10分の1、そのこともなかなかできるものでありません。それぞれの事情がありますから、それらを無視して、まずは10分の1をこれは神様のものだからと聖別して、献金するのは、難しいのでしょう。しかし、イエス・キリストの教会は、皆さん、信徒たちの献金によって成り立っているというのは、間違いないことなのです。
パウロは、エルサレム教会を助けて欲しいと、献金のお願いをコリント教会の人々に致しました。この一種の献金運動は、パウロが、本格的に異邦人伝道に専念する際、エルサレム教会の使徒たちとの会議において、約束したことでした。ガラテヤの信徒への手紙2章の9節、10節には「また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱(エルサレム教会の柱)と目されるおもだった人々たちは、わたし(パウロ)とバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々(ユダヤ人)のところに行くことになったのです。
ただ、わたしたちが貧しい人たち(エルサレム教会の主に使徒たちを指す)のことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です」。そして、コリント教会の人々は、パウロの奨めに従って、そのことへの取り組みを約束したようです。しかし、最後の詰めのところで、何かうまくいっていないようです。それで、それについて、再度、パウロは、こちらから献金受け取りのために、兄弟たちを派遣することを伝え、献金がそれまでに整っていて欲しい旨、伝えています。
それが、9章2節からのところになります。「わたしはあなたがたの熱意を知っているので、アカイア州(そのコリント教会のある州)では去年から準備ができていると言って、マケドニア州(テサロニケ、フィリピ、エフェソの教会のある州)の人々にあなたがたのことを誇りました。あなたがたの熱意は多くの人々を奮い立たせたのでした。わたしが兄弟たちを派遣するのは、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りが、この点で無意味なものにならないためです。
また、わたしが言ったとおり用意していてもらいたいためです」とあります。続けて述べています。「そこで、この兄弟たちに頼んで、一足先にそちらに行って、以前あなたがたが約束した贈り物の用意をしてもらうことが必要だと思いました。渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意してもらうためです」と、パウロにとって、献げるときの気持ちの持ちようまで、否、これこそが大事なことだったのでしょう。
献げる姿勢について、パウロは語ります。「惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」。そして、9節では「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と、詩編112編を引用して、神様の豊かな恵みと慈しみを語ります。同じく、コリントの信徒への手紙二の8章9節では「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。
すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」と、パウロは述べています。私たちがするべきお手本の中で、何ごともイエス様以上のお方はおられません。神様が、イエス様が、まず、私たちに惜しみなく与えられたのです。そして、神さまが私たち人間にしてくださったように他者にする人々を神様は顧みてくださいます。
パウロは、神様は惜しみなく与える者を顧みて下さり、その者をさらに富まし、恵まれ、その者の働きが実を結ぶようになると述べています。
それだけでなく、献げる者たちに対して、エルサレムの人々が「この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分け与えていることで、神をほめたたえます」とその証しの業が、エルサレム教会の人々を励ますことにもつながるのだと言うのでした。
今、私たちが行っている協力伝道の姿です。否、初代教会の時代から、キリスト教が推し進める福音宣教の中身の一つに、こういう協力伝道の在り方が備わっていたのだと思います。これもまた、パウロが述べていることですが、ローマの信徒への手紙1章の11節、12節「あなたがたにぜひ会いたいのは、霊の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」とあります。
まさに、協力伝道のめざす姿だと思います。協力伝道は、自分たちの教会の成長だけを求める姿勢から、解放してくれます。支援を受ける方も支援する方も、同様に、神様を讃美することになります。もし、私たちが自分たちの教会の成長だけを求めようとすれば、福音の中身を変質させてしまう可能性が出てまいります。自分たちのことだけを考える視点は、決して福音的ではありません。神様は、神様に仕え、人に仕えよと教えておられます。
ちょっと視点は異なりますが、例えば、アメリカファースト、都民ファーストと言う言葉があります。これは、自国のこと、自分のいる地域を第一に考えるということです。これを突き詰めていきますと、どういうことになるでしょうか。行き着くところは、ナショナリズム、民族主義、そして、それが行き着くところは、自分たちこそが一番、つまり、それ以外を貶めたり、排除する方向に動いていきます。かつての、ヒトラーのような人物を歓迎するようなことになりかねません。
全世界に現時点では、これこれの食物があり、それを皆で分け合って食べるとすれば、皆が食べて満腹できるくらいのものがあるのに、いくつかの先進国が財力にものを言わせて、自国のためだけにそれを集めようとすれば、飢える人々が出てくる構造と同じです。しかし、これとても、歴史的には、かつてキリスト教国のいくつかが、アフリカ、アジアを植民地としていったことを考えると、人間の罪というものは、早々に消え失せるものではないことがわかります。
しかし、神様は、そのような人間の負の歴史であったとしても、それを何とか乗り越える形に変えることのおできになる方ですから、そのことを信じて、歩み続けるしかありません。バプテストの教会も教会が分裂して痛みを負うことがあります。それによって、もう一つの教会ができてしまうこともありますが、そのときにはとてもつらい体験となります。しかし、それによって、それまで教会がなかった地域にもう一つの教会ができたと、いうことになりまして、時間が経ってから、そのことを結果として、よしとすることもあります。
そのような一面もあって、バプテストの教会は増えてきたという人もいるくらいです。ただ、ここで教えられることは、ほんとうに喜びに満ちた宣教活動は、協力伝道が生み出す喜びであることということです。これは、支援する側も支援される側も共に、主にある喜びに満たされることになります。
例えば、全国女性連合の働きもあり、日本バプテスト連盟は国外宣教師をカンボジアやインドネシア、シンガポールなどに派遣しています。また、全国壮年会の働きによって献金が集められ、これから牧師とした立とうしている方々の学びや生活を奨学金という形で支えております。そして、宣教師や神学生たちの働きを私たちは聞いて、喜び励まされるのです。14節に、「更に、彼ら(エルサレムの貧しい人々、聖なる人々)はあなたがたに与えられる神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです」とあります。
エルサレム教会の人々は、コリント教会の人々が自分たちのために献金を集め、こうして届けてくれた、そのことを知って、そこにコリント教会を祝福している神様のお恵みを見るのです、そして、キリストの教会としてのうるわしい交わりがそこに感じられ、ほんとうにキリストに呼び集められた群れが形成されているなあといった思いを与え、そして、エルサレム教会の人々は、そのようなコリント教会の人々のためにこれから祈ってくれるというのです。
協力伝道ということでは、連合もまた協力伝道を行っています。この福岡地方バプテスト連合には、壱岐教会があります。壱岐の島は、長崎県ですので、連合としては西九州地方連合になるのですが、歴史的に、福岡地方連合に所属しています。離島ですので、なかなか伝道が思うように進みません。現在も10名足らずであり、9月には牧師も代われると聞いております。この壱岐教会を連合は、ずっと経済的に、ほんのわずかですが支えさてきています。
また、しばらく無牧師になるということもあり、連合の牧師や協力牧師、伝道師、その他、他の教会の信徒の方々の説教のご奉仕をお願いしたいと、今のN牧師は語っておられました。そうやって、福岡地方連合は、壱岐教会を支える、支えさせてもらうことを通して、壱岐教会との関係だけでなく連合のきずなが深いものとなったり、壱岐教会の皆様の宣教の業をおぼえて、他の連合の教会の者たちも励まされたりするのです。
私たちバプテストは、教理的なものは、他の一般的なキリスト教と何ら変わるところはありません。そもそも教派の違いというのは、いくつかの大事にしているものが違うということだけなのだろうと思います。一つには、洗礼を、信仰告白をした者にしか施さないということです。親の意思で、幼児に施す、幼児洗礼を認めません。教会運営の仕方は、民主的であるということです。皆の意思を大切にします。また、何ごとも聖書から聞いていきます。聖書第一主義です。
そうです。キリスト者たちのことを言うなら、聖書ファーストということになるでしょう。また、政教分離の原則を大事にしています。政治の力によって、私たちの信仰が弾圧されたり、命が脅かされた時代がありました。私たちは、二度とそのようなことがないようにと、祈って運動しています。しかし、こうしたことを大切にしているバプテスト派の教会が協力伝道ということで、この日本バプテスト連盟に加盟し、力を合わせて、宣教活動を行っているのは、そのことによって、互いに励まし合うということが一番の目的にあるのだと思います。互いの成している宣教活動を知って、お互いに力づけられ、お互いに励まし合っていけるのです。これは、教会の福音宣教が担っている実に本質的なことではないでしょうか。
協力伝道の業は、支援する側もされる側も共に富むことになる、共に励まされることになる、共に神様を讃美することになる、そうやって、神様にあって一つになることができる、それに尽きるのだと思います。そういった意味では、お隣との協力による宣教活動もそろそろ具体的に考える時期を迎えているかもしれないと思います。私たちは、色々な方々を受け入れる多様性を大事にしている教会です。そのためにも、多くの方々と交わり、多くの方々の考えを理解し、多くの方々と力を合わせて、ある意味ではこの地上における神の国の建設のための宣教の業に励んでまいりましょう。
平良 師