平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2011年10月23日 神様の宝の民(わたし)

2012-02-21 13:09:58 | 2011年
申命記7章6~11節
      神様の宝の民(わたし)

 かつて、わたしの妻は、幼い子どもたちに、ことあるたびに「あなたたちは、お母さんのな~に?」と尋ねていました。そうすると、子どもたちは、「宝」と答えました。もちろん、こどもたちにそういう発想がもとよりあったというのではなく、これは、明らかに、母親が、このようにお母さんが尋ねたときには、宝と答えるように、教えたからなのです。
 それでも、そうやって、子どもたちが答えると、妻は、非常に満足げでありました。こどもたちも母親が喜ぶので、うれしそうに答えるのでした。今もなお、そう子どもたちが答えるかどうかは、ご想像にお任せ致します。ただし、彼女の中では、そのように子供たちのことを思っていることは今も変わっていないはずでありますし、これは私も親でありますから、また、同じなのであります。宝、宝物、それは何物にも換えがたいほどに、大事なものを指す言葉です。
 イエス様は、天の国のたとえとして、次のような話しをされたことがありました。「畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」。天の国は、宝です。
 それは、この世では、隠されていて容易にはわかりません。しかし、何かの拍子にそれを見出すことができます。そうしますと、それを見つけた者は、この上なく喜んで、自分の全財産を売り払ってでも、それを得ようとするだろう、と言っています。それは非常に高価なのもであって、人に見つかるとすぐに人々が殺到してくるだろうから、隠しておいて、わからないように畑ごと買い求めて、それから、その宝を手にしようと考えているのですが、ここには、人間のエゴのようなものも含まれているでしょうが、それでも、天の国という宝を手にいれることができるならば、と必死なのです。
 全財産を売り払っても、そこまでやっても構わない、それは、そうまでしないと得られないほどに難しく、想像もできないほどの値打ちがあるものなのだと言っているかのようです。天の国は、それくらいの宝である、全財産を売り払っても、この世のいかなる努力をもってしても得ようとしなければならないような、値打ちをもっているところである、そういうたとえ話です。そして、どのようなことをしても求めなさい、そういうお話でしょう。
 さて、今日の聖書の箇所ですが、これは、いよいよこれからモーセの率いるイスラエルが、ヨルダン川を越えて、約束の地に入るというときに、再び、モーセが、十戒とその詳細について、イスラエルの人々に語り聞かせているところです。彼は、ヨルダン川を渡って約束の地に入ることは許されませんでした。40年もの間、苦労に苦労を重ねてここまでやってきたモーセでしたが、彼の犯した罪のゆえに、そのことは、モーセには許されなかったのです。彼に代わって、イスラエルの人々を導いていくのはヨシュアでした。
 それで、モーセは、約束の地を前にして、再び、イスラエルの人々に、神様を愛し、神様に対して精神誠意仕えるように、その神様の御言葉に従うように、かつてホレブ山でいただいた十戒についての話しを改めて熱く、一つ一つを噛みしめるように語ったのでした。
 「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である」、そうモーセは、ここで述べます。イスラエルが、聖なる民であったかどうか、その後の彼らの行動は、神様をがっかり失望させるものでした。また、ときには、大きな怒りさえ、神様は彼らに抱くのでした。私の他に神があってはならない、と言われていたにもかかわらず、イスラエルは、幾度も、真の神様を裏切り、異教の偶像の神々を拝むという行為を致しました。
 神様は、怒りに燃え、彼らを罰しましたが、しかし、後には、彼らを赦し、また彼らの愛の神として、彼らを慈しむのでした。ところが、イスラエルの民は、ほとぼりがさめると、再び、神様を裏切るといった具合で、実に、情けない民でもありました。その彼らを、神様は、聖なる民とされたのでした。聖なるというのは、神様が選ばれたから、そうなのだということです。それ以外に、彼らが聖なるという理由はありません。
 「あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」。当時も、今ほどではないにしろ、地上、地球上には、たくさんの民族と国々があったことでしょう。しかし、神様は、イスラエルの民を選ばれました。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民族よりも数が多かったからではない。あなたたちは、他のどの民族よりも貧弱であった」とあります。
 選びについて、記されています。私たちは、何かを選ぶときに、その多くは目的を果たすために選ぶのです。そうすると、いくつかの条件が出てまいります。そして、その条件に適うものを選ぶのです。選びですから、多くは、他よりも優れているものを選ぶのです。
 例えば、その条件の一つには、資格が必要だというのもあるでしょう。知識や技術を十分にもっているかということも問われるところでしょう。あとは、その仕事をするに適した性格のようなものもあるでしょう。選ぶという行為は、その条件を十分に満たしているかどうか、ということになります。
 それで言えば、彼らは、聖なる民であったから、というのは、最初に申し上げましたように、とてもそのようなものたちではありませんでした。それに対して、選ばれる理由として、何か優れて秀でるものが、他の民族よりもあったかというと、そういうことはなかったのです。「あなたたちが他のどの民族よりも数が多かったからではない」とあるのは、民族としての当時の価値を言っているでしょう。
 数が多い民族、それは、強いし、力をもっております。それは当時の民族というものへの、世の価値基準だったと言えるでしょう。その理由で神様が、イスラエル民族を選んだのではないということです。そのようなことで言うなら、むしろ、「あなたたちは、他のどの民よりも貧弱であった」とあります。
 民族の力としては、貧しく、弱かったのです。その民を神様は、選ばれました。貧弱だったから選ばれたという理由を考えることができますが、それもまた、否定はできないと思いますが、ここでは、少なくとも世の基準をもって、神様が選ばれるということはないということだけは言えるのではないでしょうか。神様の選びの理由は、私たちにはわからないのです。
 もし、それが条件として示されるのであれば、ここでは貧弱ということが条件のようになれば、それこそまたもや私たちは、これこれさえしていればよい、神様に選ばれる、といった律法に生きることを余儀なくされるのです。ただし、イエス様が「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」と言われたように、この世の物差しが、逆転される解放された世界が神の国でもある、という理解は示されています。
 ルカによる福音書のイエス様の言われた貧しい人というのは、マタイと違って、経済的に貧しいということですが、そのことを幸いだ、というイエス様は、私たちには見えない価値、見えない世界をそこに見出されておられるのです。経済的に貧しいというのは、この世の価値基準に照らしていうと、幸いかと聴かれると、そうですとはいいがたいものが多分にあります。しかし、イエス様は、貧しい者は幸いだ、と言われました。だからといって、私たちに貧しくなれとは言われません。貧しい者は幸いである、と言われたのです。
 イスラエルの民が、神様によって、選ばれたのは、この世の価値観、価値基準によるものではありませんでした。それでいうなら、むしろ逆の立場に彼らはあったと言えるのです。
 さて、その彼らのことを、「御自分の宝の民とされた」、とモーセは言いました。もっとも大事なものとしてくださったとモーセは理解しました。宝、その人にとって、かけがえのないほどに大事なものを言っています。神様にとって、イスラエルの民は宝だということの意味は、いったい何でしょうか。
 彼らの歴史的な行いを見るならば、聖なるものなどとは、とても言えませんでした。また、選ばれたときには非常に数が多いということでもなく、力のない、むしろ、貧弱な民族でした。ですから、宝と言えるようなものは何ももっておりませんでした。そこらの石ころを拾ってきて、これこそ、わたしの宝というようなものだったかもしれません。
 しかし、神様がそのように言われるとき、そのように扱われるとき、それは宝としての輝きを放ち始めるのです。彼らも、完全には神様に従う民とはなりえませんでしたが、しかし、そうしようと努力をしたことはたびたびあったのであります。それは、当然、他の民族にはなかったことでした。
 イエス様は、マタイによる福音書の6章19節からのところで、「富は、天に積みなさい」と教えておられます。この富と言う言葉は、むしろ、宝と訳した方がよいと言われております。「富(宝)は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富(宝)のあるところに、あなたの心もあるのだ」と言われました。
 そうしますと、イスラエルの人々という宝の上に、神様の御心もある、ということです。神様は、イスラエルの民を通して、何事かをなそうとされたのです。つまり、神様と人間の関係を、イスラエル民族をとおして、現わそうとされました。
 いかに、神様が、愛のお方であるか、赦しの神様であられるか、忍耐なさるお方なのか、正義に基づいて、厳しい裁きをなさる方であり、罪をお赦しにならないけれども、それでも、慈しみに富たもう、愛のお方であられるか、を。イスラエル民族との関係をとおして、示そうとされたのでした。神様は、一方的な愛をもって、イスラエルを選ばれました。そこに、選ばれるべき、何かすぐれた理由はありませんでした。むしろ、その逆と思えるほどの状態でした。
 しかし、神様は、彼らを選び、宝として用いられました。彼ら自身が、宝としての輝きを、多くは放つことができませんでしたが、ときに表すことになりました。しかし、宝とされたのです。そして、神様のご栄光は、明らかに、イスラエル民族との関係をとおして表されました。
 私たち現代に生きる一人一人も、神様によって選ばれました。或いは、選ばれるべく、ここに招かれています。私たちに何か他の人々よりも優れた何かが、自分にあったからだとは、誰も思っている人などいないと思います。それよりは、むしろ、他の人々よりも自分は、だめなくらいには、思っておられるかもしれません。
 少なくとも、キリスト者としてイエス様に招かれたときの私たちは、神様の前に罪ある自分を嘆き悲しんでいたに違いありません。弱く、愚かな自分であることに失望していたかもしれません。そのわたしを神様はむしろ選ばれたのです。
 なぜ、わたしを選ばれたのですか、お救いになられたのですか、その問いにお応えできるのは、神様だけです。神様の目的があられ、わたしたちを宝としてくださったのです。そこには、神様の愛だけがあります。宝とすると約束してくださいましたから、私たちは、そのことに感謝して、わたしをあなたの宝として、用いてください、と告白するのです。
 そして、わたしを宝にしてくださった神様は、これからも私たちを聖なる者として用いられ、約束された祝福でもって、満たしてくださるのです。


平良師

最新の画像もっと見る