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平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2019年2月10日 喜ぶべきこと

2019-06-05 11:36:25 | 2019年
 私たちすべてのキリスト者は日曜日を挟んだ形で、毎週宣教に遣わされています。そして、1 週間のこの世での歩みを終えて、教会に帰ってきます。それから、神様に1週間に何があったのかを語ります。その内容は、苦労したことや失敗したこと、人間関係の行き詰まり、逆に、とてもうまくいった仕事や人間関係のこと、イエス様の話を懇ろに聞いてくれた友人や家族のこと、祈ったことが聞かれたこと、ああ神様が働いてくださったのだ と感謝の気持ちでいっぱいになったことなど、いろいろです。イエス様は宣教活動をなさったときに、それを弟子たちにもまた、訓練の一つとして、行った先々の町に住む人々の病の癒しをなすことと「神の国はあなたがた に近づいた」と宣教するように伝え、彼らを町や村に二人ずつ組みにして派遣しました。そのときには、財布も袋も履物も持って行くな、と言われました。つまり、あるものは、イエス様の名前を用いてなされる業だけであったということです。それ以外のものに頼らないようにとのことだったと思われます。そして、彼らはでかけて行きました。ところが、彼らは、喜んだのです。それは、イエス様の名前で、ことをなそうとすると、すべてそのとおりになったからでした。彼らは、帰ってきてイエス様に報告しました。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」。彼らは、自分たちが持ち得ない力が、与えられたという手ごたえを感じておりま した。それで、ある意味では、有頂天になってイエス様に報告をしたことでしょう。 ところが、イエス様はこう言われたのです。「悪霊があなたがたに屈服するからといって、喜んではならない。 むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。私たちの喜ぶべきこととは何かを教えら れます。それは、信仰によって何ができたということよりも、あなた自身が神様におぼえられていること、その ことこそ喜ぶようにとのことです。 . . . 本文を読む

2019年2月3日 もう泣かなくてよい

2019-02-16 23:03:48 | 2019年
 子供を亡くした親の悲しみは、その立場になってみないとわからないというのが、正直なところです。このナインで出会った母親は、一人息子が死んで、その葬儀の列の先頭に立っており、イエス様一行に向かって、歩いてきていたのでしょうか。イエス様の方は、弟子たちや大勢の群衆が一緒についてきておりました。ひょっとしたら、イエス様もまたその先頭を歩んでいたのかもしれません。この女性はやもめでした。ですから、なおさら、その悲しみは人一倍に大きいものがありました。  この女性の方は、町の人が大勢そばに付き添っておりました。イエス様の群れは、病を癒すなどの奇跡をなさり、最近著しく脚光を浴びている、人々の期待を一心に集めている話題の人物を中心に、希望に溢れるものでした。片や、女性の群れは、やもめという厳しい状況のなかで暮らしをなし、唯一の希望であった一人息子をさらに亡くした、深い絶望のなかにある者と悲しみを共にしているものでした。その両者の列が、ナインという町で出くわしたのでした。希望と絶望、期待と失望、始まりと終わり、歓喜と悲しみ、明と暗、すべてのものが対照的な二つの群れが対峙するようにして出くわしたのでした。  そのとき、何が起こったのでしょうか。「主はこの母親を見て、憐れに思い、もう泣かなくてもよい」と言われたのでした。「そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止った」のです。もう、泣く必要もないし、この死者を町の外に担ぎ出す必要もなくなったのです。それは、イエス様のこの母親を憐れに思われたことによりました。  イエス様が、私たちを憐れに思ってくださる、そのことによって、私たちの大きな悲しみは取り除かれます。このあと、イエス様は、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われ、起き上がった息子を母親にお返しになりました。人々は皆恐れを抱き、「神はその民を心にかけてくださった」と神様を讃美しました。 . . . 本文を読む

2019年1月20日 教会を造り上げる人

2019-02-15 11:25:45 | 2019年
 日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていると、ギリシア語を話すユダヤ 人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出たため、12人が他の弟子たちすべてを 呼び集めてことの解決に臨みました。つまり、その頃はまだ、12人の弟子たちがこうした分 配に関すること、つまり食事の世話もしておりました。そのため、このような苦情も彼らが処理することになっていました。そうして、本来の神様の言葉を語るという仕事がおろそかになっていたのです。  そこで、12人は、「兄弟たち、あなたがたの中から、霊と知恵に満ちた評判のよい人を7人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。私たちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」と言って、一同がこの提案に賛成したのを受け、ステファノ以下7人を選んだのでした。そして、「使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた」、とあります。手を置く、このときの按手の祈りは、職務の委託、権威の賦与、祝福といった意味があったかと思われます。  その結果、「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った」とあります。祭司というのは、ユ ダヤ教の祭司のことです。このときの7人が、いわゆる執事だったとの理解もできるでしょう。教会の運営が成り立っていくために、実質的ないろいろなお世話をするのです。それら の人々は、「霊と知恵に満ちた評判のよい人」ということを基準に致しました。一言でいうなら誠実な教会生活をおくっているということでしょうか。  しかし、ステファノに見られるように、彼らもまた、イエス・キリストの福音を語り、不思議な業としるしも行っていたのです。使徒たちと同じような働きもしておりました。万人祭司といった概念は、このようなところからも来ているのかもしれません。教会を造り上げるのは、教会員ひとり一人ですが、執事は、その中の祈りをもって選ばれた人々です。 . . . 本文を読む

2019年1月13日 福音を受け入れる

2019-02-14 22:44:43 | 2019年
 イエス様は、サタンの誘惑を荒野で受けたあと、ガリラヤで宣教を開始されました。瞬く間に、イエス様の評判は周りの地方一帯に広がり、イエス様は会堂で教え、尊敬を受けられ たのでした。そして、故郷のナザレに来て、いつものように会堂に入り、聖書朗読のために立たれました。その時渡されたのが、イザヤ書であり、18節の言葉でした。「主がわたしを遣わされたのは・・主の恵みの年を告げるためである」という「主の恵みの年」とは、「主に受け入れられる年」という意味があったようです。  イエス様がこの言葉を語られた後、席に座られましたが、会堂にいるすべての人々が、イエス様に注目しておりました。つまり、聴衆は、この言葉を受けて、イエス様が何と言われるかを期待していたのでした。するとイエス様は「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われたのです。 つまり、イエス様が来られた今日こそが、まさにこの御言葉の内容が実現した、あなたがたが神様によって受け入れられるその日になったのだと語ったのでした。  そして、これを聞いた人々の間では、いろいろな憶測や反応が飛び交うことになりました。それは、ある人々は、イエス様をほめ、また、ある人々は、イエス様の恵み深い言葉に驚き、そして、同時に、それにしてもこの人は、ヨセフの子ではないか、といった具合で、聞いた者たち自身が、素直にイエス様の存在を受け入れる構えには至りませんでした。むしろ、どうしてこの男は、あたかも自分がこの言葉の実現者のごとく言うのだろうと思うほどでした。  そこで、イエス様は、預言者は故郷では歓迎されないものだと言われ、イスラエルの歴史においても、預言者たちがイスラエルの多くの困窮した者たちの所ではなく、ひとりの異邦人に遣わされたことを御語りになりました。それは、このとき会堂に集まってきた者たちの怒りをかい、殺意にさえ発展することとなりました。 . . . 本文を読む