大阪東教会礼拝説教ブログ

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使徒言行録8章16~40節

2020-08-16 14:31:35 | 使徒言行録

2020年8月16日大阪東教会聖霊降臨節第12主日礼拝説教「導き手は与えられる」吉浦玲子

【聖書】

さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。すると、“霊”がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。

彼が朗読していた聖書の個所はこれである。

「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、/口を開かない。

卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」

宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。

道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」

<底本に節が欠けている個所の異本による訳文>

フィリポが、「真心から信じておられるなら、差し支えありません」と言うと、宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます」と答えた。

そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った

【説教】

<寂しい場所>

 「さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。」とあります。そしてそこは「寂しい道である」と記されています。

 フィリポのサマリア伝道は大きな成果を上げました。それはサマリアに福音が告げ知らされ、多くの人々が救われた、ということのみならず、エルサレムの教会にとっても、大きな喜びが与えられた出来事でした。歴史的な経緯から、仲の悪かったユダヤ人とサマリア人の間の障壁を神が取り除かれた出来事でした。まことに神は人をわけ隔てなさらず福音を与えられることが分かったのです。けっして、取り去ることのできないと思われていた人間の間の壁が壊れました。神が壊されました。神がすべての人々を愛し、人と人炉の間の壁も壊される、そのことが示され、人々は喜びに満たされたのです。特に、それはユダヤ人中のユダヤ人、神から特別に選ばれた民という自負のあったヘブライ語を話すユダヤ人で構成されていたエルサレムの教会の人々にとって、人種的にも宗教的にも他民族と混血していたサマリアの人々にも聖霊が注がれ、救いを与えられたことは驚きであり、神の偉大さをいっそう知らされる出来事でした。

 その喜びの出来事ののち、フィリポは突然、エルサレムからガザへ下る道へ行けと言われます。寂しい道へ行けと言われるのです。通常、伝道をするなら、にぎやかなところのほうが有利のように感じます。実際、開拓伝道をする時、教会は人が集まりやすい場所に建てます。明治時代、宣教師がやってきて、こぞって伝道を始めた時、大阪では、現在の市内の中心部に各教派は拠点となる教会を建てました。現在の中央区をはじめとしたこの地域には明治初期に建てられた、創立140年150年といった教会がたくさんあります。大阪東教会もそのひとつです。しかし、フィリポは寂しい道へ行かされました。

 少し前に、私はある先輩牧師から「あなたも寂しい道へ行きなさい」と言われたことがあります。キリスト教の伝道の行き詰まりが言われて久しい時代ですが、それでも大阪市内はまだまだ恵まれている地域です。人の流動もあり、新しく教会に来られる方もおられます。この地域は寂しくはない、にぎやかなところなのです。しかし、これが一歩、中心部から離れると、ましてやもっと地方に行くと、人の流動はなく、本当に寂しいところなのです。そういう地域での伝道は過酷を極めます。しかし敢えて、牧師は寂しいところへ行くべきだとその先生はおっしゃいました。そして実際その先生は関西での牧師生活から隠退され、地方に移住をされました。寂しいところで生きていく決意をされたのです。

 しかしまた、寂しいところとは、単に、人のいないところ、栄えていないところ、ということだけではありません。ある意味、クリスチャンとして生きるということは寂しいところで生きることという側面があるのです。多くの人の称賛を浴びたり、称賛を浴びることはないにしても達成感や自己実現を得るというところとは少し違う生き方をすることになるのです。ヨハネによる福音書の21章でペトロに対して、「あなたは若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」と主イエスはおっしゃっています。両手を伸ばし、帯を締められ、行きたくないところへ行くということは十字架にかかるということを暗示している言葉ですけれど、寂しいところへ行く、人のあまりいないところ、一般的な賞賛を受けにくいところへ行くということでもあります。

 ここには、まだ受洗して間もない方もおられますが、このようなことをいうと、せっかく洗礼を受けたのに、これからなにかわびしい人生が待っているのかとがっかりされるかもしれません。もちろんがっかりなさる必要はありません。人間的な目で見たら寂しい道でありながら、本当の意味での豊かな確かな道、実りが与えられる道へと信仰者は導かれるのです。

<あの馬車と一緒に行け>

 寂しい道へ向かうフィリポには迷いはありませんでした。「すぐに出かけて行った」のです。そこでエチオピアの宦官に出会います。エチオピアとありますが、現在でいうとスーダンに近いところであったようです。この宦官はエチオピアの女王の全財産の管理を任されるほど地位の高い人でした。エルサレムに礼拝に来たというのは、この人は、異邦人でありながらユダヤ教を信じる人であったと考えられます。

 その宦官とフィリポはまさにこの時しかない、という出会いをします。神が備えてくださった出会いです。宦官はまさにイザヤ書53章を読んでいたのです。これはイザヤ書の中のキリスト預言の箇所の一つです。

 ここは来るべき救い主が華々しいお姿で来られるのではなく、みじめな僕の姿で来られ苦難に遭われることが描かれています。つまりイエス・キリストの十字架の出来事を預言しているのですが、聖霊の導きがなければそれは理解できないことです。イザヤ書は何百年もユダヤで読まれながら、ペンテコステの時まで、その本当の意味は理解されていなかった箇所です。

 フィリポは「読んでいることがお分かりになりますか」と問います。宦官は「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう。」と答えます。突然現れたフィリポに素直に宦官は手引きしてくれるよう頼みます。地位が高くともこの宦官はたいへん謙遜に教えを乞うたのです。そもそもこの宦官は、神を求めて、エルサレムまで宦官は礼拝に行ったのです。現在のエチオピア、スーダンからエルサレムまでというのは2000キロほどもあります。その距離を旅してもぜひエルサレムに行きたかったのです。神を求めていたのです。しかし、彼は満たされなかったのです。神殿に行き、祈り、律法学者の聖書の話を聞いたかもしれません。ユダヤ教は、現在でもそうですが、律法の定めに手順に従えば、異邦人でも信仰者となることができます。正式にユダヤ教に改宗した異邦人はユダヤ人として扱われるのです。しかし、宦官であったこの人は、去勢された者は神の会衆に加わることはできないという律法の定めによって神の会衆に加わることは許されなかったのです。どれほど地位が高く、お金を持っていても宦官は神の民とはなれなかったのです。神を求めながら、満たされない思いの中で、宦官は当時たいへん高価だった聖書を入手して帰路についていたのです。その聖書を読みながら、いっそう神への求めが高まっていたまさに、その時、フィリポは「あの馬車と一緒に行け」と示されたのです。このフィリポと宦官の出会いは、神を求めていた宦官にとって恵みであったと同時に、伝道者フィリポにとっても幸いでした。伝道者は福音を聞く人と出会うことが何よりの幸いだからです。どれほどたくさんの人がいても、だれも神に興味がない、福音を聞く耳を持たない人々の中では伝道者は働くことができません。ですからこの出会いは二人に神から与えられた素晴らしい時間だったと言えます。

<ここに水があります>

 神を求めていた宦官は乾いた綿が水を吸うように、フィリポを通して語られた福音を受け取りました。彼はエルサレムで得られなかった真理を、この寂しい道の途上で得たのです。彼が求めていた神は宦官だからあなたを受け入れないとおっしゃる神ではなかったのです。ですから、フィリポが躊躇なく、寂しい道へと向かったように、宦官にも躊躇はありませんでした。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」そうフィリポに提案します。フィリポの答えは本文には記されていません。しかし、十字のようなしるしがあります。これは翻訳をする時、多くの聖書の写本を参照するのですが、信ぴょう性の高い写本に欠けているけれど、いくつかの写本には記されている部分があるというしるしです。それが脚注のような形で272ページに記されています。そこを読みますと「「フィリポが、『真心から信じておられるなら、差し支えありません』と言うと、宦官は、『イエス・キリストは神の子であると信じます』と答えた」。とあります。異邦人であれ、宦官であれ、神は心から信じる者を受け入れられるそうフィリポは答えました。それに対して、フィリポはイザヤ書の53章で語られた苦難の僕がイエス・キリストであり、この方こそ神の子であると信仰告白をしたのです。

 福音の真理を知ることは、それは、新しく生きることと直結します。福音は知識ではなく、生き方を根本から変える力です。福音を聞きながら、生き方を変えないあり方は実際のところ、福音が知識でとどまっている状態です。福音は力であり、命そのものです。それゆえ福音は人を洗礼へと突き動かすのです。ヨハネによる福音書の3章でニコデモとの会話のなかで、主イエスは「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」とおっしゃいました。知識として十字架や復活のことを聞いていてもそれだけで神の国を見ることはできないのです。自分で考えを改めたり、新しい行動を起こしたりしても神の国は見ることはできません。新たに生まれなければならない、そう主イエスはおっしゃいました。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」水と霊によって生まれるとは、洗礼を指していました。洗礼は単なる儀式ではありません。人間の目にはただ数滴の水が頭に垂らされるだけのものです。しかし、そこで起こっていることは死と復活なのです。古い命に死に、新しい命に復活をする出来事が洗礼では起こっています。

 宦官は「ここに水があります」そう言いました。彼は福音の力に突き動かされました。フィリポが「洗礼を受けられては?」と促す前に、「洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」と言いました。神を求めていた宦官は、聖霊によって御言葉を聞きとり、命へと促されたのです。フィリポはただちに洗礼を授けました。

<喜びにあふれる>

 さて、最後の部分に不思議なことが書かれています。洗礼を終え、水から上がったとたん、「主の霊がフィリポを連れ去った」とあります。宦官は洗礼によってキリストと結びつけられました。新しい命に生かされる者とされました。洗礼の後、キリストを指し示してくれたフィリポの姿は見えなくなりました。しかし、宦官はすでにキリストと結びついていたのです。ですから「喜びにあふれた」のです。喜びとはキリストと共にあることです。そしてキリストと共にあることを示してくださるのが聖霊です。

 普通なら短い時間とはいえ、キリストを指し示し、福音をかたってくれた先生であるフィリポと唐突に別れてしまうというのは寂しいことです。しかし宦官は喜びにあふれました。宦官が冷たい人だったからではありません。洗礼は、宦官とフィリポの間のことではなく、宦官と三位一体の神とのことであったからです。フィリポは確かに宦官を神へと、救いへと導きました。しかし、ここで大事なことはフィリポは確かに神に従順に寂しい道へ行き大事な働きをしましたが、宦官の救いはあくまでも神の働き、ことに聖霊の働きであったということです。

 宦官は喜びにあふれて旅をつづけました。一方、フィリポは数十キロ離れたアゾトに現れました。フィリポもまた宦官との別れを悲しむことなく、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせました。

 私たちにも私たちを神へと導いてくださったフィリポがそれぞれにいます。ひょっとしたらそれは人間ではなく書物であったり音楽であったりしたかもしれません。しかし、神を求める者には必ず導き手が与えられます。もちろん聖霊ご自身が最大の導き手といえます。同時に、聖霊によって、そのときもっとも必要とする人間を私たちは導き手として与えられることもあります。しかしまた、聖霊の働きは風のように、どこからきてどこへいくか分からないものです。でも、たしかに私たちは導かれます。寂しい道へと導かれます。しかし、そこは目には見えなくても実は恵みにあふれた道です。フィリポに宦官が与えられたように、私たちも寂しいところで、かけがえのない出会いをします。よろこびに満ちた奇跡を体験します。今は天におられ目には見えないキリストを信じる信仰は、現実に目に見えるこの世の素晴らしいものを越えた喜びを与えてくれます。一見、にぎやかで豊かに見えるところには決してない、真実の恵みを与えてくれます。聖霊に導かれて歩む寂しい道は孤独な歩みのようで孤独ではないのです。人間を新しくし、命の輝きを増し加える愛の交わりに満ちた喜びの道です。

 



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