2021年4月25日大阪東教会主日礼拝説教「長い闘い」吉浦玲子
【説教】
<聖霊が語らせてくださる>
パウロがエルサレムの教会のための献金をもって、エルサレムへと上ってきてから目まぐるしいことが起こりました。逮捕、最高法院での裁き、カイサリアへの移送などがありました。今日の聖書箇所では、エルサレムのユダヤの権力者たちがパウロをローマ総督フェリクスに訴えるためにやって来た場面です。まず、ユダヤの権力者側の弁護士テルティロがローマ総督フェリクスにパウロを訴えます。弁護士は前半は、慇懃にローマに対して賞賛と感謝を述べ、自分たちがローマに対して従順であることを示します。そしてパウロに関しては、パウロはユダヤの律法を犯し、ユダヤ人の間で騒動を起こしている、さらには神殿までも汚した者なのだと告発します。新共同訳聖書の本文にはありませんが、7節の最後に十字架のしるしがあります。これはこの箇所で違う内容を記述した聖書の写本があることを示します。その内容は、使徒言行録の最後の箇所に脚注のような形であげられています。そこを見ますと、自分たちはこの件を律法の問題として、つまりユダヤ人のなかの問題として裁こうとしていたのに、エルサレムの千人隊長がやってきて、無理やり、パウロを自分たちから引き離してしまったと語っていることが分かります。つまり、ユダヤ人たちにとって、これは純粋にユダヤの問題であり、本来は、ローマ総督を煩わすような問題ではないのだと語っているのです。言外に、パウロを自分たちに引き渡し、自分たちで裁きをさせてほしいと訴えているともとれます。脚注の部分を含めても弁護士の言葉は短いものです。このあとパウロに反論されますが、具体的な証拠などのない説得力に欠けるものでした。
それに対して、パウロは論理的に答えています。そもそも自分は数年ぶりにエルサレムに入ってからまだ12日しかたっていない。その短い期間で、騒動を起こすなどできないし、騒動を起こしたことを見た者はいないと訴えます。ユダヤ人たちの訴えには証拠がないというのです。そしてまたユダヤ人たちが一番問題としている神や律法の問題についても何ら非はないと訴えます。そもそも発端となった出来事、自分が律法に従ってきよめの儀式をしているときにそばにいたのはアジア州から来たユダヤ人だけで、自分を告白するならそのアジア州からきたユダヤ人がするべきだと言います。また、今、総督の前にいる大祭司を初めとする人たちは最高法院での裁きの場にもいたのだから、私に非があるなら最高法院の裁きで見つけたはずだ、その見つけた私の不正を訴えてみよと言ったのです。実際のところ、最高法院での裁きもユダヤ人の中のファリサイ派とサドカイ派が対立して紛糾し、パウロの不正を立件できる状態ではなかったのです。このパウロの弁明は堂々たるものです。
パウロはもちろん優秀な頭脳を持っていた人物です。しかし、ローマ総督、そしてまたユダヤ人の権力者たちを前にこれほどにたじろがずに語れたのは、単にパウロが優秀だったからではありません。そこに神の守りがあり、聖霊によって語るべきことを示されたからです。主イエスは福音書の中で、やがて弟子たちが迫害を受けることになることを知っておられ、その時に備え、こうおっしゃっていました。「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。(マタイ10:18-20)あなたたちが将来迫害を受けて捕らえられ追及されたとしても、そのとき何をしゃべろうと心配しなくていい。話すべきことは与えられる、主イエスの「父の霊」すなわち聖霊によって与えられるから心配しなくていいと主イエスはおっしゃったのです。パウロもまた主イエスの「父の霊」によって弁明の言葉を与えられたのです。
私たちはパウロのように迫害を受けて尋問されるということはないかもしれません。しかし、日々の中で、言わなければよかったと後悔することや、なぜあの時、大事なことを言えなかったのかとふがいなく思うことは多々あります。しかし私たちが、日々祈り、神に求めて生きる時、言わなければよかったと思うこと、言えばよかったと思うこと、それらすべてのことを越えて神は良き方向に導いてくださいます。それはちょっと虫が良いのではないかと思われるかもしれません。しかし、私たちが日々祈りのうちに歩む時、そしてもちろん、自分なりに精一杯のことを語った時、そこには聖霊が働いてくださるのです。自分の思いを越えて神が語られるということもあります。
<信じることの恐れ>
さて、この論戦はパウロに有利に進みました。しかも、総督自身、「この道」つまりキリスト教のことについて「かなり詳しく知っていた」とありますから、キリスト教がユダヤ人たちの言うような騒動を引き起こすものではないことは総督は分かっていたのです。しかし、結局、総督はパウロをこのままカイサリアで監禁します。総督は正しい判断、裁きをしようとしたのではなく、あくまでも自分に有利に事を進めたいだけでした。パウロを無罪放免にしたら、ユダヤ人たちの憎しみを買います。また、どのようなことをしてもユダヤ人たちはパウロを殺すでしょう。ローマ市民権を持っているパウロが殺されたり、騒動が起こると自分の責任になります。しかしまたローマ市民権を持っているパウロを証拠不十分な状態で有罪とするわけにもいきません。ですから、ユダヤ人たちの機嫌を損ねないように結論を先送りにしたのです。この期間は、結局、総督の交代の時まで続きました。組織の中ではこういうことが時々起こります。なんらかの思惑のため、敢えて、問題が塩漬けにされて放置されてしまうようなことがあります。
パウロがエルサレムからカイサリアに移され、ここから一気にローマへの歩みは進むかと思っていたら、パウロはカイサリアで実に二年間も足止めを食うこととなります。審議中断のまま被疑者として拘束され続けることは、精神的にも辛いと思います。しかし、先週もお話をしましたように、この期間、パウロは獄中書簡と言われる手紙を執筆しました。そしてまた、総督夫婦にキリストの教えを語る機会もありました。使徒言行録の先を読みますと、カイサリアを出た後のパウロのローマへの道も、けっして平坦なものではありません。神はパウロをローマへ遣わすことを決めておられながら、なおパウロはさまざまな困難に見舞われます。しかし、その歩みの中で、パウロはキリストを証ししながら進みます。しかし、足止めのようなことも、災難のようなことも、神によって、その場、その時、最適な状態で人間がことを為すことができるように配慮されているのです。
そのような神の配慮のなかで、パウロは総督フェリクスに対して、イエス・キリストを信じる信仰について語ります。ここで興味深いことが記されています。「しかし、パウロが正義や節制や来るべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなり、「今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする」と言った。」フェリクスは、イスラエルを治めていくうえでの職務上の情報収集の必要と、知的興味を持って、パウロの話を聞いたと思われます。しかし、正義や節制や裁きについて聞くと恐れを抱いたのです。自分と関わりのない風変わりな新興宗教の話と思って聞いていたら、その話は、フェリクス自身に向かって突き刺さって来る話だったのです。彼自身の弱いところ、端的に言えば、罪を突いて来る話だったのです。パウロは、フェリクスが不正をしていること、節制をしていないことを特段意識して、あてつけのように語ったわけではないでしょう。ごく普通に、人間の罪と、神の裁きを語っただけだと思われます。しかし、聞いているフェリクスにとって、そのパウロの言葉は「神の言葉」として響いたのです。そして恐ろしく感じたのです。フェリクスはユダヤ教の分派の変わった教えとして、知識として聞き流すことができなかったのです。
この恐れから、信仰へと入ってくる人々もいます。ペンテコステの日、「イエス・キリストを殺したのはあなたがただ」というペトロの説教を聞いて「大いに心を打たれた」人々が三千人洗礼を受けました。「大いに心を打たれた」とは心を動かされたということです。キリストを十字架につけた、その罪を問われた人々は反発や恐れを越えて、心動かされて主イエスを信じて生きる者とされました。しかしまた、フェリクスのように、恐れは感じても、心は動かされても、とどまってしまう人々もいます。洗礼者ヨハネを殺したヘロデ・アンティパスも洗礼者ヨハネの話自体には興味を持っていたのです。また十字架におかかりになる前、主イエスが自分のところに送られて来たとき、とても喜びました。主イエスの評判を聞いていたので、興味があったのです。しかし、そのヘロデも主イエスを信じませんでした。フェリクスにしても、ヘロデにしても、自分自身のなかに手放せない欲望が大きい時、神の言葉に触れても、恐れは感じても自分の欲望の中にとどまるのです。
<長期戦へ>
ところで、使徒言行録のなかでは、イエス・キリストを信じる信仰のことを「この道」と記されていることがあります。今日の聖書箇所では14節のパウロの弁明の中にあり、また先ほど触れました22節、総督フェリクスについて「この道についてかなり詳しく知っていた」という箇所です。少し前の聖書箇所でいえば、22章でパウロ自身が自分の回心について語る中で「わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです」と、「この道」を使っています。
この道というときのギリシャ語の「道」という言葉は、まさに人が歩く道そのものです。英語ではWayです。日本人的な感覚では茶道とか柔道とか、「道」という言葉は親しいものではないでしょうか。武術や芸事でひとつのことを極めていくこと、精神的な修行を含めたあり方を「道」と言います。また造語的に武術や芸事以外のものに対しても、ひとつのことを精神面を含めて、極めていくという意味で「○○道」と言ったりします。
しかし、キリストを信じることを指す「この道」は鍛錬して何事か極めるというあり方とは違います。ごく素朴にイエス・キリストと共に歩む道といういうことです。「生きていくこと」そのものなのです。精神的修行とか、努力して極めていくということとは違います。私たちは道なき道を自分で切り拓きながら歩むような時もあります。でもそのようなときですら、道を拓いてくださるのは実のところは主イエスなのです。「わたしは道である」とおっしゃるイエス・キリストと共に歩むとき、道は拓け、道は整えられていくのです。その道が作られた道を私たちは歩むのです。そしてその「道」は信じて洗礼を受けておしまいではなく、そこからずっと続いていくのです。主イエスを信じて歩む道は、神の国まで続く道です。試練も苦労もある道ですが、一人ではない道です。歩いているその時は夢中で歩んでいてわからないのですが、振り返ると、あの時もこの時も主イエスが共におられ、導いてくださっていたことがわかる道です。今日もその道を私たちは未来に向かって歩みます。