大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ペトロの手紙Ⅰ第1章13~20節

2021-07-25 16:09:18 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年7月25日日大阪東教会主日礼拝説教「聖なる生活」吉浦玲子 

<再臨> 

 ペトロは「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。 」と語ります。聖書箇所のこの前の箇所では、キリストの十字架による救いの成就は旧約聖書の時代の預言者も、天使すらも見て確かめたいと願っていたことなのだとペトロは語っていました。その預言者たちや天使すらも待望していた救いが成就された世界に、今私たちは生きています。「だから」さらに未来に向かって待ち望みましょう、とペトロは語ります。ここで「キリストが現れるとき」というのは、キリストがこの世界にふたたび来られる再臨の時のことです。これはいつのことか分かりません。明日かもしれませんし、千年後かもしれません。竹森満佐一牧師は東京神学大学で学生に教えておられたころ、神学生たちに「明日、キリストの再臨があるかもしれない。いつキリストが来られても良いように日々過ごしなさい。学生寮の部屋が汚くてキリストをお迎えできないなんてことがないように、ちゃんと掃除しておくように」とおっしゃられたそうです。実際、どんなニュアンスでおっしゃったのかはわかりません。厳しい感じで言われたのか、半分ユーモアでおっしゃったのかはわかりませんが、心にとどめるべき言葉だと思います。掃除と言われると、かなり耳が痛いですが。 

 私たちが礼拝ごとに告白しています使徒信条にありますように、今このときは、「全能の父なる神の右に座しておられる」キリストが、「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者を裁き給う」、その時がキリストがこの地上にふたたび現れられる再臨です。キリストの再臨の時は、世界の完成の時、救いの完全な完成の時であり、裁きの時です。この再臨の時を待ち望むのが、私たちの信仰生活の核です。裁きの時というとなにか恐ろしい気がしますが、キリストを信じる者にとって、それは希望なのです。キリストを信じるということは復活のキリストを信じるということです。キリストが肉体をもって復活なさったことを信じるということです。 

 ペトロは「イエス・キリストが現れるときに与えられる恵み」と語っています。キリストを信じ、復活を信じる者は、その再臨の時、裁きの時に、恵みを与えられるのです。神の罰や呪いではなく、恵みを与えられる、それが私たちの希望です。逆に言いますと、その再臨の希望がないところに、まことの神への信仰はありません。再臨は、神であるキリストが肉体をもってこの世界に来られ、肉体をもって復活をされ、ふたたびその肉体をもってこの世界に来られるという、非常に生々しいことなのです。再臨はなにか精神的なこと、寓話的なこと、象徴的なことではないのです。私たちがいま、指を切れば血が出ます。そのような現実的な生々しい出来事としてキリストの再臨はあります。 

 教会で葬儀をする時、天国でまた会いましょうと亡くなった方をお送りします。しかしそれは単純な意味で、あの世で会いましょう、私たちの霊魂は不滅です、と言うことではありません。なぜなら私たちの肉体が滅ぶとき魂も基本的には滅ぶのです。キリストがふたたび来られるまえに、私たちの地上の命が終わっていたら、キリストが「生ける者と死ねる者を裁き」の座に立たせられるまでは、私たちの霊魂がどのような状態にあるのかは聖書は明確には語っていないのです。ただはっきりわかっているのは、キリストが再臨なさる時に、私たちの肉体が復活し、私たちは裁きの座に立つのです。その裁きを抜きにして「あの世」も「天国」もないのです。復活の信仰、そして再臨の信仰のないところで天国、永遠の命というものは虚しいことなのです。 

<心を引き締め、身を慎む> 

 そのことを考える時、私たちの日々の生き方というのが定まってくるのです。竹森先生がおっしゃる部屋の掃除もそうですけれど、仕事においても、家族とのあり方においても、日々のさまざまなあり方をとっても、根本が定まるのです。根本が定まるとはどういうことかというと「いつも心を引き締め、身を慎む」ということです。この部分は、しっかり腰を据えて、しらふのようでありなさいというニュアンスです。しかし、これはいつも緊張してストイックな生活をしなさいという道徳的な勧めではありません。神に救われている者として、当たり前の生活をしなさいということです。 

 福音書の中に、主人が出かけている間、しっかり働いている忠実な僕と、そうでない僕の話があります。忠実なしもべは主人に言われた通りに働き、主人が帰って来たときも、変わらず働いている姿を見ていただきます。しかし、悪い僕は、主人の帰りが遅いと思って仲間を殴ったり、飲んだり食べたりします。そこに主人が突然帰って来て、罰せられます。忠実な僕はいつも通りの働きをしていたのです。なにか新しいことをしたとか、特別立派なことをしたわけではなく、やるべきことを腰を据えて、普通に行ったのです。「心を引き締め、身を慎む」といっても、一切の楽しみもない、がちがちな生活をしなさいといわれているわけではありません。品行方正であれと言っているわけではないのです。 

 先ほども申し上げました再臨のキリストから与えられる恵みを待ち望む時、私たちはごく普通に節度ある生活をしながら、日々を歩むことができます。再臨の希望がない時、あるいは弱くなる時、私たちの日々はその場限りのものになります。もちろんそれぞれにやるべきことを持ち、精一杯に生きていきますが、そこには本当の意味での希望ややすらぎはありません。実際のところ、この世界ではうまくいくことも、失敗することもあります。褒められることもあれば、頑張ったのにあまり評価されない時もあります。しかし、終わりの時、私たちは必ずキリストから恵みを受けるのです。日々、たしかに私たちは一喜一憂しながら生きていかざるを得ませんが、しかし、究極的な終わりの日、再臨の時の恵みの希望があります。ですから日々の一喜一憂を越えて、豊かに日々を生きていくことができるのです。 

 以前も説教で触れたことがありますが「パウロ~愛と赦しの物語」という映画の最後、ネタバレになりますけど、迫害され、投獄され、処刑されたパウロが、天の国と思しき場所で、キリストと出会う場面があります。映画は迫害の場面がかなり生々しく描かれていて特に前半は見るのが辛いところも多々ありました。全体に明るい映画ではありませんでした。最後に、死んだパウロは、パウロ自身が回心前に迫害して殺した人々とも出会うのです。これはもちろん映画としてフィクションの物語ですが。パウロに迫害され死んだ人々は喜んで走り寄ってパウロを迎えるのです。パウロは感慨深い表情をして、彼らと出会います。さらに振り返ると、キリストらしき人影が見えるのです。その姿を見て、パウロは驚きと万感の思いのこもった表情をして映画は終わります。そこでキリストがパウロにねぎらいの言葉をかけるとか、美しい感動的な情景が描かれているわけではないのですが、とても胸を打たれる場面でした。天国でお花畑のようなところで、幸せに暮らすというようなものではなく、ただキリストと出会うのです。しかし、そのキリストとの出会いこそが究極の希望なのだということを感じせる映画でした。 

 たしかに、私たちはやがてキリストと出会います。今も日々、祈りと御言葉によってキリストと出会いますが、再臨の時、顔と顔をはっきりと合わせます。それは本当に恵みなのです。私たちのこの人生のすべてはただその時のためにあると言っていいでしょう。キリストあいまみえ、私たちのすべての罪も涙も、すべて完全にぬぐい取られ、労苦はすべて報われる。誰からも顧みられなかったことも、理不尽な思いをしたことも、すべてキリストが受け取ってくださり、すべてにまさる平和と喜びを与えてくださる。その恵みはわたしたちのこの地上のすべてにまさるものです。だからこそ、私たちは、この地上において「心を引き締め、身を慎む」ことができるのです。大いなる祝福が待っているから、私たちはこの地上を節度を持って、普通に歩んでいくことができます。 

<私たちを呼んでくださる方> 

 「無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。」とペトロは続けます。無知であったころとは、キリストを知らなかった頃、ということです。私たちは無知でした。しかし自分たちは賢いと思っていました。いま世界は自分たちは賢いと思っている人たちにーいや実際、ある意味、彼らは賢いのですが―牛耳られています。世界中にバベルの塔が立ち並んでいます。賢い人々が、自らの知恵と力と権力をもって、この世界にさまざまなハードウエア、ソフトウェア、サービスを作り、コンテンツを作り、排他的な権力機構を作り、権力の囲い込みを行っています。私たちひとりひとりはそんな世界にあって、基本的には弱く愚かな者です。吹けば飛ぶような存在です。しかし、ペトロは言うのです。私たちは今、無知ではないと。世の中にたくさんいる天才や秀才とは違うかもしれないけれど、私たちにはすでにまことの知恵が与えられているのです。聖霊によって与えられています。かつては欲望にひきずられていた、欲望というと、なにか品のないことのように思いま+すが、神に栄光を帰さないことはそれはすべて人間の欲望と言えます。誰かのために良かれと思って行う行いも、さらには、宗教的な行為すらも、結局自分の欲望を満たしているだけということもあります。 

 「召し出してくださった聖なる方」とペトロは書いています。召し出してくださったという言葉は、「呼び出してくださった」ということです。コ―リングです。わたしたちひとりひとり、それぞれに神の呼ばれた者です。神が呼んでくださった、キリストが呼んでくださったのです。それぞれに、さまざまな理由で教会に来られたでしょう。聖書を手に取られたでしょう。誰かに誘われた、家がクリスチャンホームだった、悩み事があった、信仰を求めていたわけではなく何となく興味があって教会に来た、さまざまな経緯で、今ここに皆さんはおられます。しかしすべての方がキリストに呼ばれたから今ここにおられるのです。自分の意思で、場合によっては、家族の反対を押し切って教会に来た、この場に来ることさえ、かなりの努力の末に来られている方もおられますし、会堂に来ることが叶わず、ネットで礼拝を捧げておられる方もおられます。しかしそのすべての方がキリストに呼び出されて、いま礼拝を捧げておられます。 

 変な話ですが、人間であれば、あの人は好きだから呼ぼうとか、あの人は困った人だから呼ぶのはやめようということがあります。しかし神は私たちを呼んでくださいました。私たちは神に呼ばれるにふさわしい者だったからでしょうか?そうではなかったのです。無知であり、罪人でした。罪人であることすら知りませんでした。しかし、キリストは呼んでくださったのです。汚れのない、罪のない、聖なるお方が私たちを呼んでくださいました。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである。」聖なるお方が無知で罪にまみれていた私たちを呼んでくださいました。キリストのゆえに聖なる者とされたからです。すでに私たちは聖なる者とされました。聖なる者とされているのだから聖なる者にふさわしく生きるのです。もちろん、私たちの日々は完全な者ではありません。しかしなお、キリストに従順に生きていくとき、私たちは完全に聖なる者と変えられていくのです。 


ペトロの手紙Ⅰ第1章10~12節

2021-07-18 16:37:34 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年7月18日日大阪東教会主日礼拝説教「この時代に生きることの恵み」吉浦玲子 

<昔からの願い> 

 私たちは、かつて誰かが思い描いた時代を生きている、ということを時々言われます。レオナル・ド・ダヴィンチは1490年に羽ばたく形式の飛行機のデザインを描いています。人間が空を飛ぶ、そのことは長い間、人々が思い描いて、技術が人間のそんな思いに追いついて来て、1903年ライト兄弟によって初の有人飛行が実現しました。うちの子供は平成元年に生まれましたが、その子供が小学生の頃、母である私の子供のころに、パソコンもゲーム機も携帯電話もなかったと聞いてたいへん驚いて、「お母さんの子供のころは戦争だったのか」と言われたことがありました。子供にしてみれば、自分にとって当たり前にあるものがない世界というのは、とてつもなく遠い時代のように見えたのでしょう。パソコンもゲーム機も携帯電話も誰かがイメージした原型があって、その原型通りではないかもしれませんが、やがてこの世界に現れてきたものです。 

 「この救いについて、あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました。」救いについて、すでに調べていた人たちがいたと、ペトロは語ります。救い、つまりイエス・キリストの到来について、昔から待ち望んでいた人がいたとペトロは語ります。預言者の定義にはいろいろありますが、旧約聖書に記されているキリスト預言を辿りますと、その待ち望んでいた期間は、古い時代から考えますと、1000年以上も前といえます。飛行機や携帯電話などよりもずっと長い期間にわたってたといえます。 

 本日、お読みました旧約聖書のアモス書の預言をした預言者アモスは、主イエスの到来の800年ほど前に、来るべきイスラエルの裁きと救いを預言しました。預言ですから、神からの言葉を預かったのです。自分で勝手に考えたり想像したのではありません。「その日には/わたしはダビデの倒れた仮庵を復興し/その破れを修復し、廃墟を復興して/昔の日のように建て直す」とアモスは神の言葉を語ります。これはやがてアッシリアやバビロンに倒されるイスラエルという国の復興の預言であると同時に、神の民全体、人類すべての救いの預言でもあります。イスラエルにとどまらない救い、神の祝福の回復が語られています。しかし、アモスもアモスの時代の人々も、イスラエルの回復、まして世界全体の回復もその肉眼の目では見なかったのです。レオナル・ド・ダヴィンチが人間が空を飛ぶ姿を生涯見ることがなかったように、アモスは世界の回復を見ることはありませんでした。アモスだけではありません。イザヤ、エレミヤ、多くの預言者が救いの到来を語り、それを自分の目で見ることはできませんでした。 

<人間は救いを望んだか> 

 そしてそもそもその救いは、人間自身が望んだものではありませんでした。空を飛ぶことは人間が望みました。離れた場所の人と話ができるようになりたいということも人間が願ったことです。しかし、神の救いは、人間が望んだものではありませんでした。望んでいなかったと言い切ることは正確ではないかもしれません。この地上で悩み苦しんでいた人々は、その悩み苦しみから救われることを望んでいたと言えます。私自身、教会に来る前、救いという言葉ではありませんでしたが、自分は何かを必要としている、何かに飢えている、そういう感覚を持っていたと思います。その漠然とした何かが神からの救いであったことに気づいたのは教会に来てからでした。神からの救いについて、ことに特別に神から選ばれた民であるイスラエルの人々にとって、切実な問題であったと思います。しかし、旧約の時代から主イエスが到来なさった時代まで、神の救いの現実は、人々が望んでいた救いとは違ったのです。預言者たちの言葉を正確に理解する人々はいなかったのです。ペトロ自身、そうであったと言えます。使徒言行録を読みますと復活のイエス・キリストと出会ったのちも、主イエスによる救いはイスラエルという国家の救いであると認識していたようです。 

 そもそも旧約聖書の預言者たちの言葉は、その時代の人々にほとんど受け入れられなかったのです。神に背いていたら神の裁きを受ける、そう預言者たちは語りました。その言葉も受け入れられませんでした。アモスの言葉もそうでした。アモスの時代、そもそもアモスが活躍した北イスラエルはむしろ経済的には栄えていたのです。ですからこのままでは国が亡びるという警告の言葉は人々に聞かれませんでした。北イスラエルが滅んで100年後、エレミヤが南ユダ王国に聞きを伝えましたが、エレミヤの預言も人々には聞かれませんでした。まして裁き、具体的には国の崩壊とその先にある、神の救いのご計画については、理解されませんでした。国が滅んだあと、あるいは他国に支配されている時、イスラエルの復興を人々は願いました。しかし、預言者たちが語った神の救いの本当のところは理解されませんでした。 

 でも、理解されなかったとしても当然であるようにも思います。空を飛びたいという思いは、レオナル・ド・ダヴィンチだけが持った思いではありません。空を飛ぶ鳥を見て、空を飛ぶことに憧れるというのは、多くの人間が持ちうる思いです。しかし、神による救いという考えは人間の中からは出てこない事柄なのです。滅んだ国が復興してほしい、不幸な身の上を幸せにしてほしいという願いは誰でも持ちますが、神の救いというのは普通には出てこないのです。聖書における神の救い、すなわち罪からの救いという意味での救いは人間が普通に考えて出て来る思いではないのです。人間は、自分がそもそも救いを必要な人間だとは思わないのです。それこそが罪の根源なのですが、自分が救われなければいけないということが分からないから、救いの話を聞いても分からないのです。 

<神の時間> 

 ところで、私が洗礼を受けてすぐのころ、よく分からなかったのは、なぜキリストは長い時間ののちにこの世界に来られたのかということでした。なぜダビデの時代ではなかったのか?北イスラエルが滅ぶ前ではなかったのか?南ユダ王国が滅びてバビロン捕囚となる前ではなかったのか?たしかに人間は救われなければならない存在であることを多くの人々は知らなかった。でももっと早く救いは来ても良かったのではないか?そう考えたりもしました。キリストが来られる前、多くの人々が罪の闇のなかで地上の人生を終えました。なぜもっと早く来て多くの人々を救ってくださらなかったのか?しかし、それもまた神の時間の中に定められていたことなのでしょう。人間は神の時を知ることができません。 

 しかし、一方で人間にとって長い長い時間の流れの中で、預言者たちを通して、神が救いの計画をあらかじめ伝えてくださっていた、12節に「それらのことが、自分たちのためでなく」とありますように、預言者たちの時代のことではない救いを伝えてくださっていたのは、神の救いへの強い意志の現れであったといえます。神は一方的に救いを人間にお与えになることを決め、そしてそれを預言という形で人間に約束してくださっていたのです。その約束の意味が分かるのは、主イエスの弟子たち、ペトロたちに聖霊が注がれるペンテコステの時まで待たねばいけなかったのですが、その約束にこそ、神の揺るぎない人間への思いがありました。預言者たちは、その救いを見たかった、しかし、彼らは見ることができなかった。でも、彼らはやがて来る救い、キリストを神によって知らされ、当時の国の人々には理解されなくても、希望を持ってその地上での命を終えたと思います。預言は預言を信じる者にとって、今や近い将来起こることではなくても、人間に希望を与えるものです。 

<キリストの霊が語ったこと> 

 旧約聖書の預言者たちの時代、当然、まだイエス・キリストは、肉体をもってこの世界には来られていませんでした。ですから、11節に「キリストの霊」と書かれているのは不思議に思われるかもしれません。しかし、キリストは世の初めの時から父なる神と共にこの世界におられました。父なる神と共にこの世界を創造されたのです。そして肉体をもってこの世界に来られる前も、霊として預言者たちに働きかけていました。来るべきご自身の受難、栄光について、キリストご自身がお知らせにならなければ、それは到底、人間には理解できないことです。 

 新約の時代に生きる私たちにとって、キリストの受肉、降誕、十字架、復活ということはすでに知らされていることです。しかし、ペンテコステ以前の人々にとって、それは信じ難いことでした。イスラエルを救う救い主の到来を待ち望んでいましたが、その救い主が苦難をお受けになるということは到底信じがたいことでした。神のもとから来られる方が、そして神そのもののお方が、苦難に遭うということはキリストの霊によらなければ理解できないことなのです。イザヤ書で有名な主イエスの苦難を預言した53章で「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか」と預言者は語っています。キリストの霊によって知らされた預言者自身、到底、信じられないことが起こった、それがキリストの苦難です。 

 しかし、現代に生きる私たちもまた、知識としてはキリストの苦難を知っていても、本当にそれが自分の救いのためであること、キリストが私のために苦難を受けられたことを知ることは聖霊によらなければ不可能です。知識として十字架を知ることと、わたしのためにキリストが十字架にかかってくださったことを知るのは全く異なることです。神であるお方が、私のために苦しまれた、そのことを聖霊によって知る時、私たちは神から与えられた恵みの大きさを知ります。 

 いま、私たちに与えられている恵みは、3000年に渡って預言者たちが待ち望んでいた恵みであり、「天使たちも見て確かめたい」と願ったほどの恵みでした。そう考えますと、私たちに与えられている恵みの大きさが分かります。 

 私たちの時代は、飛行機を始め高速で移動できる交通手段を持ち、裕福な国においては、人々は豊かで便利にな生活が行えています。しかし同時に、それで人間が幸せになれるわけではないということも多くの人々は知っています。豊かなモノに囲まれても、孤独な人、心を病んだ人々がたくさんいます。そして一方で、コロナの禍に象徴されるように、どこまでいっても、人間の知恵や技術でコントロールできないことがらがあります。どこまで行っても、混沌として不安に満ちたこの世界です。しかし、キリストを信じる時、私たちは別のことが見えてきます。私たちはすでに救われているということです。預言者たちが、そして天使たちまでも見たいと願っていた救いを私たちは既に得ているということです。その恵みの内に生きているということです。そしてまだ神の約束は続いています。この世界全体を救いを完成させてくださる終わりの時があるということです。キリストがふたたびお越しになる、その希望を私たちは持っています。預言者たちにかつて語られた神の約束は今も続いています。希望の約束です。私たちは、今この時の恵みを感謝し、さらに未来に向かって希望を持って歩みます。 

 

 


ペトロの手紙Ⅰ第1章8-9節

2021-07-11 14:31:59 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年7月11日日大阪東教会主日礼拝説教「見えないものを愛する」吉浦玲子 

<なんたる恵み> 

 ペトロは語ります。万感の思いをもって語ります。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉で言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」 

 キリストが地上におられた時、十字架の前も、復活ののちも、一番近くにいたペトロです。キリストとただ二人だけで語りあったこともある、多くの弟子たちの中で、キリストのもっとも近くにいたペトロでした。そのお姿も、声も、ちょっとしたしぐさや癖も知っていたでしょう。キリストの奇跡も目の前で見たのです。なんといっても復活のキリストと出会ったのです。そんなペトロが肉体においてキリストを実際に見たことのない人々の姿に驚いているのです。彼らはキリストを愛している、信じている、そして、言葉で言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。 

 2000年前の信徒たちは、キリストを実際に見たことのある初代教会の弟子たちから、生々しく主イエスの話をよく聞いているから、見たことがなくてもキリストを愛し、信じ、喜びに満たされていたのでしょうか?キリストを実際に見たことはなくても、自分たちが生きている同時代に起こった十字架の出来事に対して、リアリティを感じられたから信じることができたのでしょうか?翻って、2000年後の私たちは、直接のキリストの目撃者から話を聞くこともなく、十字架の出来事のリアリティも感じられないから、ペトロが語っている人々とは異なるのでしょうか?しかし、そうではないのです。ペトロが目の当たりにして驚いている人々は私たちのことでもあります。ペトロの言葉は、キリストを直接肉眼で見ていないすべての人々に語られているのです。 

 いくたびかお話をしたことですが、かつてのこの教会の長老が天に召される前、最後の聖餐式を病室で行いました。ほとんど言葉もはっきりしない、寝たきりの状態で、飲食もできない中での最後の聖餐式でした。パンをぶどうジュースにひたして唇に触れました。もう召しあがることはできなかったのです。ご本人は食べたいと願われ、口を大きく動かされました。しかし、食べることは禁じられていたので、とても心苦しかったのですが、唇に触れるだけにしました。そのような聖餐式でしたが、私の感謝の祈りの後でしたか、その長老は、はっきりと大きな声でおっしゃいました。「なんたる恵み!」と。もう物理的にはほんの小さなパンのひと切れも食べることはできない、寝たきりで、ベッドの上での、短時間の簡易的な聖餐式でした。しかし「なんたる恵み」と叫ばれたのです。そこに本当の恵みがあったからです。立派な食事をしたからではない、元気を回復して、だれかれと楽しく懇親をしたからでもない、ただ聖餐の場にキリストがおられたから、そこに恵みがあったのです。キリストがおられたといっても、幻覚のようにキリストのお姿が見えたわけではないでしょう。あるいは実際に、長老にはキリストが見えていたかもしれません。聖霊によってキリストが示されたのです。復活の生けるキリストがおられたのです。だから「なんたる恵み」と叫ばれたのです。 

<目に見えないこと> 

 ところで、最近、教会員の方、そしてまた教会員ではありませんが、教会に集ってくださっていた方にお子さんが誕生しました。このコロナの禍の中、明るいニュースです。命の誕生というのは貴く、喜ばしいものです。実際のところ、新生児というのは驚くほど小さい存在です。お乳を飲ませたり、おむつのお世話をしたり、大人がさまざまにあれこれとしてあげないと生きていくことのできない、ある意味、弱い存在です。しかしまたその小さな、一見弱いと思われる存在が、命に満ちあふれているのです。眠っていても、泣いていても、命があふれている。抱くと、ずっしりと重く、たしかな存在感があります。 

 ひるがって大人はどうか?年年歳歳、年を取り、体は老いていきます。老齢にはまだ遠いと思われる年代の方でも、青年期を過ぎると少しずつ肉体は衰えていきます。新生児や、幼子がもっている命のほとばしりのようなものを失っていくように感じます。私自身、会社員時代は、比較的、若く見られ、元気な感じだったのですが、さすがにここ数年は、なにかちょっとしたトラブルがあって病院に行っても「老化ですね、加齢のせいです」と言われるようになりました。<加齢だから仕方がない>これほどがっかりする言葉はありません。薬を飲んだら治るとか、なにか鍛錬したら回復するというなら希望がありますが、「加齢です」で済まされると、仮に症状自体はたいしたことはなくても、本当にがっかりしてしまいます。 

 でも私たちは知っています。私たちの外なる人、肉体は衰えても、内なる人は日々新たたにされるということを。これは単に、心を若く持て、という精神論ではありません。わたしたちは実際、新しくされるのです。私たちは復活の命に生かされているからです。キリストの復活の命に生かされている時、私たちは日々、新生児のように、幼子のように、命に満たされたものとされます。 

 信仰生活が長かろうが短かろうが、私たちは復活の命のなかにあります。キリストはすでに私たちのために十字架にかかられ、死んで、復活をなさいました、その復活の命にすでに私たちは与っているのです。洗礼を受けたということはそういうことです。洗礼の時、皆さんはひとたび死にました。キリストと共に十字架にかかったのです。そして洗礼の水によって、新しく生まれられた。ヨハネによる福音書第3章で、主イエスがニコデモにおっしゃっました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」皆さんは、すでに水と霊によって生まれ変わったのです。新しくされました。自分が新しくされたか古いままか、それは、信仰において信じるべきものです。信仰によらなければ分からないことです。肉体に変化が見えるわけでも、性格が変わるわけでもありません。目には見えないことです。 

 目には見えないけれども、私たちは信じている、信じているから、今ここで共に礼拝を捧げているのです。礼拝を捧げるということは、キリストの復活を証しする者として集うということです。横に座っている人の名前も住所も知らないかもしれない、しかし共にキリストの復活の命に生かされている、そこにまことの教会の交わりがあります。言葉を交わさなくても、真実の愛の共同体が立ち上がるのです。そしてまた、ここに未信徒の方がおられるとしたら、その方々に、私たちが復活の命に生かされている者であることを感じ取っていただくのです。それが礼拝です。 

 ペトロの言葉は、いまここにいる私たちに与えられている言葉なのです。私たちもまた、肉眼ではなく、キリストと出会うのです。病室での聖餐式におられたキリストがここにもおられます。この礼拝の場で出会うのです。「言葉では言い尽くせないすばらしい喜び」とは、「言葉で言い表せない栄光に満ちた喜び」「輝かしい喜び」なのです。しかし、それは無理やりに喜ぶ喜びではありません。時にはワーシップソングを歌って飛び跳ねたくなるような喜びもあるかもしれません。しかしまた、あるときは、静かに祈りながら、じんわりと心があたたかくされるような喜びもあります。まだ洗礼を受けて間もないころ、大きなトラブルがあってたいへんな時でしたが、ひとまず礼拝に行きました。正直、それほど礼拝に集中はできませんでした。こんなだったら、家にいた方が良かったかもしれないと思いました。どうにか礼拝を終えて、家路を急ぎました。しかし、会堂を出て、駅までの道を急ぎながら、はっとしました。来た時と景色が違って見えるのです。来るときは、トラブルで心がざわついていて、公園で子供たちがキャッチボールをしている声もうるさく感じられていた。でも帰り道、不思議なことに心が落ち着いていたのです。公園の植物も子供たちの声もなにか穏やかに感じられたのです。けっして礼拝に集中できていたわけではないのに、しかし、身も心も、なんというか軽くされたのです。スキップしたくなるような喜びではありませんでした。しかし、たしかにそこに喜びがありました。キリストに与えられた喜びがありました。 

<信仰の実り> 

 「信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」そうペトロは語ります。キリストと出会い、喜びを与えられている私たちは信仰の実りをすでに受けているのです。信仰の実りを受けているから喜ぶのです。しかし実りといっても、私たちは、実際のところ、他の人の信仰を外から見ることはできません。信仰熱心そうな姿、謙遜そうな物腰であっても、その人が本当にキリストに出会い、言葉で言い尽くせないすばらしい喜びに生きているかどうか、実っているのか実っていないのかはわかりません。しかし、人のことは分かりませんけれど、自分のことは分かるのではないでしょうか? 

 日曜日ごとに、時間を作って礼拝に来ている。キリストは肉体の目に見えないけれど、礼拝を捧げ続けている。教会員の義務だ、クリスチャンだから当然という思いもどこかにあるかもしれません。しかし、そのときどきにはいろいろな思いがありながら、礼拝を捧げていくとき、なおそこに少しずつ、何かが蓄積されていくのです。キリストへ信頼する気持ちが蓄積されていくのです。雨だれがコップに一滴一滴落ちて、やがてコップを満たすように、私たちの内に、キリストご自身によって、キリストを信頼する心が蓄積されていく。私たちはすでに洗礼において救いを受けています。しかし、その救いの確信のあり方は人それぞれではないかと思うのです。しかし、だれでも、その確信は蓄積されていくのです。キリストを信頼する思いが深まっていくのです。キリストに信頼して、どんどんと自分の思いを手放していく、自分の手柄や力量から離れていくのです。すると、自分の中にキリストそのものが満ちていくのです。わたしが空っぽになるのです。自分が、自分がと思っていた思いがかき消えてしまう。自分が空っぽになります。しかし、自分がかき消えながら、本当の自分が現れて来る、キリストが満たしてくださり、救いの確信を与えてくださり、そこにキリストにすっぽりと包まれた、自分自身の本当の個性が出て来る。キリストに信頼し、キリストの命に生かされ、喜びに満たされた私たちとなります。私たちはどんどんと実っていきます。実らせていただきます。一滴一滴、豊かなキリストの命の水で満たされ、実っていきます。 


ペトロの手紙Ⅰ第1章5~7節

2021-07-04 16:18:16 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年7月4日日大阪東教会主日礼拝説教「終わりの時」吉浦玲子 

<終わりの時> 

 「あなたがたは終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」こうペテロは語ります。ここで、「終わりの時」とあります。終わりというと、「ジエンド」であり、一般的には、あまり良いものとは考えられません。「ああ、わたしはもうおしまいだ、おわりだ」という言葉は絶望の言葉です。しかし、聖書が語る「終わりの時」は、神の救いが完成する時です。聖書の神を信じる私たちは終わりの時の希望に生きています。そう聞いても、特に若い方は、何か遠い先のことのように、自分とは関係のないことのように思われるかもしれません。終わりの時は、ゴールと考えていいかもしれません。いま、ペトロの手紙を読んでいますが、しばらく前まで読んでいました使徒言行録に登場したパウロは、よくマラソン競技のように信仰を守って走り抜くという表現を使いました。私たちはこの地上をゴールを目指して走るのだと。単純に、この世は良くないけど、あの世はすばらしい、いまはしんどくても天国では楽ができる、ということではありません。私たちはこの地上を走り続けるのです。そしてゴールを目指すのです。ゴールが必ずあり、目指すものがあるということです。 

 ある牧師から、伝道牧会について励ましの言葉を受けたことがあります。何人かの方にはお話ししたことがあるかもしれません。「これからも苦難や試練はあるでしょう、でも、あなたが誠実にこの道を走り通して、御国についたとき、先にゴールしていた多くの先人が拍手をしてあなたを迎えてくれる、スタジアムで皆が、スタンディングオベーションして迎えてくれる」と言われました。それはおもしろいなあとその時、私は感じました。それは作り話めいているようで、腑に落ちるイメージでした。ゴールを切ったわたしを迎えてくれる人たちの中には知った人もいるかもしれないけど、知らない人もたくさんいるだろう、パウロとかペトロもいるかもしれない、そう考えると、ちょっと愉快でした。なにか力づけられるような胸が熱くなるようなイメージです。 

 私たちはゴールがあるから走り続けられるのです。一方で、私たちの人生にはさまざまなそのときどきのゴールがあります。入学試験に通って学校に入学する、それも試験勉強をしていたときには先に見ていたゴールです。しかし、入学してそれで終わりではなく、さらに上の学校に行くための試験があったり、職業に就くための関門があります。結婚、定年、人との別れ、さまざまなゴールが人生にあります。そのひとつひとつは聖書の言う終わりの時にくらべたらたいしたことないなどということはありません。私たちはこの地上で生きていくとき、一人一人のそれぞれの人生の上でのゴールを目指して生活します。それも大事なことです。大事なことですが、ただ地上のゴールだけを見ている時、私たちはこの地上のそれぞれのゴールにたどり着いたとき、そこでばたっと倒れて、あとが見えなくなったり、あるいはそれから先に何をしていいか分からないような虚しさを覚えたりするかもしれません。子育てが終わった時、定年を迎えた時、そこからどう人生を生きていけば良いのか分からなくなる人がいます。ひとつひとつの地上のゴールはたしかに大事なのです。でも、そこで終わりではない、本当の終わりがある、そう思ってこの地上を歩む時、かえって、この地上のひとつひとつのゴールも輝くのです。 

<神の力に包まれて> 

 その本当のゴール、終わりの時、救いが現されます。キリストの十字架によって救いは成就しました。しかし、終わりの時、救いが完成し、その救いがはっきりと私たちに現されます。その時まで、私たちは守られるのだとペトロは語ります。信仰によって、信じる者は、神の力によって守られるのです。終わりの時まで、さまざまに試練や紆余曲折があります。しかし、私たちは守られるというのです。 

 生まれながらに目の見えない友人がマラソン大会に出場されたことがあるそうです。そのときには一緒に走ってくれる伴走者がついてくれたそうです。1メートルほどのテープを友人と伴走者が持って、伴走者が周囲の状況などを伝え危険回避を図りつつ一緒に走るのだそうです。大会では、あくまでも選手として出場しますから伴走者は選手を引っ張ったりして加速させてはいけませんから、選手と並行か少し下がった位置で走るそうです。ただ危険が迫っている時は、前に出て制止したりすることはあるそうです。ここにいる私たちは目が見えますが、私たちの人生には神様が伴走してくださっているといえます。テープでつながっているのではなく、もっと強力に私たちをすっぽり包んで安心して走れるようにしてくださいます。もちろん、自分の足で走りますから、途中で転んだり、迷うこともあるかもしれません。でも目の見えない人のためお伴走者と同じように、本当に危険なことからは守られるのです。 

 <神の力により守られている>とペトロは語ります。この力とはデュナミスというギリシャ語です。「主の祈り」の最後に「国と力と栄とは限りなくなんじのものなればなり」と神を賛美する言葉がありますが、この部分の力と同じ言葉です。デュナミスとは、ダイナマイトの語源となった言葉です。ダイナマイトのように強い力、爆発的な力ということです。爆発的な神の力です。その力が私たちに及んでいるのです。そして「神の力により」と訳されていますが、この言葉は、ニュアンス的には、「神の力の中で」といえる言葉です。私たちはすっぽりと神の爆発的な力の内に包み込まれているのです。何か困った時、ひょいと神様が手を伸ばして救ってくれる、というより、すでにすっぽりと私たちは神の力の内に入れられているのです。特殊なシールドといいますか、目に見えない宇宙服のような防具によって守られているようなイメージです。 

<試練のゆえに> 

 「それゆえ、あなたがたは心から喜んでいるのです。」そうペトロは語ります。ここは少し面白い言い方だと思います。普通、喜んでいる人は、喜んでいる理由は分かりそうなものです。試験で良い点数を取ったとか、誰かに感謝されたとか、育てていた植物が花を咲かせたとか、普通何か良いことがあったから喜んでいるのです。ペトロはここで、それゆえ、といいます。つまり神の財産を受け継ぐから、また、神の力によって終わりの日まで守られているから、あなたたちは喜んでいるのだと前の部分から引き継いで、あえて喜ぶ理由を語るのです。 

 さらに「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」と続きます。私たちはゴールを目指して走ります。ゴールは近いのか遠いのか分かりません。そしてその道々に試練はあります。私たちは試練の時、喜びを忘れます。いえ試練ではなくても、一生懸命走っている時、喜べないかもしれません。先週、私は少し体調の悪い時がありましたが、そういうときは喜ばしい気持ちにはなれません。しかし、神の力に守られて走っている時、なおあなたたちは喜びの状態にあるんだとペトロは言うのです。神の爆発的な力に守られている、そしてたしかなゴールがある、だから試練はあっても、あなたたちは喜びの状態にあるのだとペトロは語っています。良いことがあったから喜ぶということを越えた喜びが私たちには与えられているのだとペトロは語ります。 

 「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され」とあります。私たちは試練というテストをくぐり抜けて合格したら本物と信仰において合格点をもらうのでしょうか?そうであれば、私などは、不合格の連続になりそうな気がします。あなたの信仰はいつまでもたっても本物じゃないと言われそうな気がします。 

 考えてみれば、ペトロ自身が、試練にあった人でした。試練の中で、キリストを三回も知らないと否認をした人、キリストを裏切ってしまった人です。ある意味、ペトロは、「あなたの信仰は本物ではない」と突きつけられた人です。しかし、ペトロはそこから立ち直った人でもあります。なぜ立ち直ることができたのでしょうか?それは主イエスが祈ってくださっていたからです。主イエスはペトロが裏切ることをご存じでした。主イエスはご自身が逮捕される前、ペトロにこうおっしゃっていました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。(ルカ22:31-32)」ペトロはたしかにふるいでふるわれてしまいました。試練にひとたび負けたのです。しかし、主イエスはペトロのために祈ってくださっていました。ですからペトロは、復活のキリストと出会い、ペンテコステの後、伝道者として新しく生きていくことができたのです。 

 ふるいにかけられること自体は信仰において悪いことではありません。そのときはたいへん辛いことですが。一般的に小麦の粉がふるわれる、ということは粉の粒度がそろえられることです。塊や不揃いのものが取り除かれ、均一に滑らかにされ、おいしい食べ物を作るために用いられます。私たちも人生においてふるわれます。おして、私たちのためにも主イエスは祈っていてくださるのです。信仰がなくならないように、と。 

 私たちはひととき「あなたの信仰は本物ではない」と思わされるような自分の現実と向き合います。しかしすでに私たちは主イエスに祈っていただいているのです。そして、試練から立ち直らせていただくのです。試練の前よりも、粒のそろった小麦のように用いられる者とされるのです。そして「あなたの信仰は本物だ」と言っていただけるのです。そして、「火で精錬されながらも朽ちるほかない金」よりもはるかに素晴らしい存在とされるのだとペトロは語ります。やがて来られるキリストがそんなわたしたちに「称賛と誉れと光栄をもたらす」というのです。ここは口語訳では「さんびと栄光とほまれとに変わるであろう」と訳されています。 

 私たちはこれからも何度も失敗をするかもしれません。罪を犯すかもしれません。しかし、私たちはすでに主イエスに祈っていただいているのです。主イエスの祈りのゆえに、私たちは金よりも貴いものとされ、称賛をいただく者に変えられます。走りはじめたときは、おぼつかないよちよちした走り方だったかもしれません。誘惑に負けて道をそれてしまうときもあるかもしれません。しかし、それでも神の爆発的な力に包まれて守られます。キリストに祈られた者として守られます。だから私たちは変えられるのです。ですから、終わりの時、私たちはまるで一流のアスリートのようにゴールを切るのです。私たちは万雷の拍手に迎えられます。誰よりも喜んで、そのゴールにおられるのは、絶えず私たちのために祈ってくださっている主イエスなのです。