2020年8月30日大阪東教会聖霊降臨節第14主日礼拝説教「起きなさい」吉浦玲子
【聖書】
ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った。
そしてそこで、中風で八年前から床についていたアイネアという人に会った。ペトロが、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐ起き上がった。リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。
ヤッファにタビタ――訳して言えばドルカス、すなわち「かもしか」――と呼ばれる婦人の弟子がいた。彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた。ところが、そのころ病気になって死んだので、人々は遺体を清めて階上の部屋に安置した。リダはヤッファに近かったので、弟子たちはペトロがリダにいると聞いて、二人の人を送り、「急いでわたしたちのところへ来てください」と頼んだ。ペトロはそこをたって、その二人と一緒に出かけた。人々はペトロが到着すると、階上の部屋に案内した。やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた。ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。ペトロは彼女に手を貸して立たせた。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。ペトロはしばらくの間、ヤッファで皮なめし職人のシモンという人の家に滞在した。
【説教】
<聖なる者たちを巡るペトロ>
使徒言行録の後半ではパウロの働きが中心に描かれるようになりますが、今日の聖書箇所では、パウロの回心の記事から、ふたたびペトロへと話が移っています。話が連続していないようにも思えます。これは使徒言行録が、その名の通り、使徒の働きを描いたものではありますが、個々の使徒たちに着目して編集されているわけではないからです。あくまでも、使徒言行録は聖霊による教会の成長が描かれています。ペトロ物語でもパウロ物語でもないのです。この9章から12章は特に異邦人への宣教という流れの中での教会の働きが描かれています。
さて、ペトロはエルサレムの教会の中心となる存在でしたが、「方々を巡り歩き」とあるように、彼自身もまた広範囲に宣教と牧会に励んでいたことが分かります。少し前のところではサマリアに向かいましたし、今日の箇所ではリダやヤッファを訪問しています。リダはエルサレムの西に位置しており、ヤッファはさらに西で地中海沿いの町です。このペトロの働きは各地にできたキリスト教徒の群れを指導するためでもありました。リダの「聖なる者たち」というのはリダのキリスト者の群れ、教会を指します。教会は各地のそれぞれの教会が、それぞれにばらばらにあるのではなく、全体として一つの教会でもあったのです。これは現代においてもそうなのです。各教会は、大きな一つの教会のなかにあります。教会は一つの大きな教会として前進し成長していくのです。そういういわゆる全体教会の働きとしてペトロはリダやヤッファを訪問しました。ペトロは個人的に各教会を視察しに行ったのではなく、教会から派遣されて、それぞれの地域の教会を指導しにむかいました。
<キリストの業をなす>
教会というとき、「教会はキリストの体である」といわれます。つまり教会はキリストの働きをなす共同体であるといえます。教会は、聖書や教理をお勉強しに来るところではありません。いやもちろん教会ではみ言葉を学び、教理を学びます。しかし、教会は学校ではないのです。教会はキリストの体なのです。天におられる頭なるキリストの地上における実働部隊といっていいのです。愛の実践をなす実働部隊です。その教会には、キリストの権能、つまりキリストの力が与えられています。
ところで、使徒言行録を読みますと、既視感のある場面が時々出てきます。それは、福音書で主イエスがなさったことと同じように、使徒言行録で弟子たちが行っている、そういう場面があるのです。少し前にお読みしましたステファノの殉教の場面で自分を殺そうとする人々に対して「この罪を彼らに負わせないでください」とステファノが叫ぶところは、キリストの十字架の上での「父よ、彼らをお赦しください」という言葉と重なります。そしてまた今日の聖書箇所は使徒であるペトロが、中風の人を癒したり、さらには死んだ人を生き返らせたという話が記されていますが、福音書を読みますと、福音書にも主イエスが中風の人を癒されたという話があります。福音書において中風の人に主イエスがおっしゃった言葉は「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」でした(ルカ5:24)。今日の聖書箇所では、ペトロが中風の人にこう言っています。「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい。」です。共に、起き上がって、床を自分で担いだり整えなさいと言っています。それまで床に横たわることしかできなかった人が、その床を自分で動かすことができるようになるのです。床だけがその人の世界だったのに、その床から解放されて新しい生き方ができるようになったのです。
また、ヤッファでタビタが蘇る話も、福音書にあるヤイロの娘の蘇りの話と似ています。福音書では、すでに息を引き取っていたヤイロの娘の手を取り、主イエスは「起きなさい」とおっしゃいました(ルカ8:54)。今日の聖書箇所ではペトロがタビタの遺体に向かってひざまずいて祈り、遺体に向かって「タビタ、起きなさい」と言います。中風の人の癒しの時もヤイロの娘の時も、ペトロは主イエスの側にいて、その奇跡の業を見ていました。その時のことはペトロの脳裏に鮮烈に焼き付いていたことでしょう。そして自分自身がアイネアやタビタに向かうとき、あのときと同様に、キリストの御業がなされることをペトロは期待をしたのです。当然ながら、ペトロは自分自身が、癒しや死者を蘇生させる力を持っているとは思っていませんでした。キリストの御業が自分を通して、そして教会を通して、働くことを知っていたのです。
そしてキリストの力が働いたとき、そこには神への立ち帰りが起こるのです。リダにしてもヤッファにしても、そこにはすでにイエス・キリストを信じる者たちがいたのです。しかし、キリストの奇跡の力を見た時、リダの人々は「主に立ち帰った」とあり、ヤッファでは「多くの人が主を信じた」とあるように、多くの人が神へと導かれました。キリストの業は、病の癒しや蘇生が、人々を驚愕させることにとどまらず、人びとを神へと結びつけるのです。
<無力を感じる>
しかしまた、このような癒しの奇跡の場面を読む時、正直申しまして、信仰者として無力感も覚えるのです。聖書の場面では、奇跡が起こり、病が癒され、死人すら蘇ります。しかし、現実には、そのような奇跡は多くの場合、起こりません。まったく起こらないわけではありませんが、多くの場合は起こりません。
しかし、一つはっきりしていることは、病が癒されても、さらには死から蘇生できたとしても、信仰によって人間は肉体的に不死となるわけではないということです。いずれにせよ、人間はやがて死ぬのです。アイネアもタビタも死んだのです。しかし、肉体の死が絶望ではない、終わりではないということを私たちは信じています。私たちの信仰は、旧約聖書に出てくるエノクやエリヤのように死なずに天に上げられることを求めるのではなく、神による救いと、肉体の命を越えた永遠の命を求めるものです。そしてそれは、単に、逃れようのない肉体の死をごまかすための詭弁や作り話ではありません。葬儀で天の御国でふたたび会いましょうと語ることは死による別れの悲しみを紛らすための方便ではありません。私たちは信仰によって、たしかにキリストが死に勝利されたこと知っていますし、私たちにも復活に命が与えられていることを知っています。
しかし、やはり、今日の聖書箇所のような癒しの場面、奇跡の場面を読みますと、さまざまな思いがあります。人生を重ねていくとき、多くの癒されない病や死と出会います。それはクリスチャンであれ、ノンクリスチャンであれ、変わりはありません。どれほど祈ってもだんだんと重くなっていく病を目の当たりにします。そして息を引き取られた、棺の中の方に「起きなさい」と声をかけても、その目がふたたび開くことはないのです。それが現実であるにもかかわらず、なぜ聖書には、旧約新約を問わず、癒しや蘇りの記事が多いのでしょうか。
<しるしとしての奇跡>
6年前に一度お話ししたことをここで少し話したいと思います。7年前に私の母は逝去しました。当初軽い心筋梗塞と言われ入院し手術も成功したのですが、2週間後に急変して、亡くなりました。急変の知らせを受け、母が入院している長崎県の佐世保に向かうとき、私はたいへん動揺しました。実は、母のなくなる前の数年間、私は母とあまり良い関係ではありませんでした。いろいろな複雑な事情があったのです。もちろん、和解したいという願いはありました。が、母は認知症が急激に進み、一気にすべてのことを忘れてしまいました。ですから和解はできなくなったのです。それで―これは私の勝手な願いで、信仰的でも何でもないのですが―この地上で母と和解ができないのであれば、せめていつか母が召される時、葬儀は自分が司式をしたいと思っていました。せめて自分の手で心を尽くして母を送り出したいと思っていました。ところが母が急変したのは、私が伝道師になるための補教師試験の10日前でした。今、母が召されたら、まだ伝道師にもなっていない私が葬儀をすることはできない、母と和解もできないまま、葬儀の司式もできないまま、母が召されたらどうしようという思いがありました。
動揺して、東京におられる牧師に相談の電話をしました。その先生には当時、献身のことなどについて、年に一回くらい相談事の電話をしていたのですが、いつも穏やかに対応してくださる方でした。しかし、そのとき、その先生は、思いがけず、いつもと違って、厳しい口調でおっしゃいました。「吉浦さん、あなたとお母さんの間にこれまで何があったかなんて関係ありません。いいですか。あなたはすでに神に召されて、いま、佐世保に向かっているのです。これからお母さんの身に何が起ころうとも、あなたは、佐世保に行って、神に召された者として、なすべきことをなしなさい。大丈夫です。おかあさんにもしものことがあったとしても、死で終わりではありません。神様の業は死では決して終わりません。だから、安心して、あなたはそこでなすべきことをなしなさい」
いま、「タビタ、起きなさい」という言葉を読みながら、その時の言葉を思い出します。私の母は、臨終の床で目を覚まして、起きることはありませんでした。しかしまた、同時に「死では終わりではない」という先生の言葉も強く思い起こすのです。母は蘇ることなく葬られたままですが、死で神の業は終わらない、その言葉は7年たった今も真実の響きをもって私の中にあります。
キリストの奇跡は、私たちに、終わりの日の現実を見せてくださるものです。私たちは皆、黙示録に書かれている終末の日に目を覚ますのです。「起きなさい」という声をその時私たちも聞くのです。寝たきりでこの地上で死を迎えた人も、そのとき、「立ち上がって、床を整えなさい」という声を聞くのです。かつて床に縛られていた人も起き上がり、歩むのです。聖書に繰り返し記されている奇跡は、やがて私たちが神の国で目の当たりにする現実です。
<安心してこの世の使命に生きる>
では私たちはこの地上では奇跡なきむなしい現実を生きるのでしょうか?そうではありません。いますでに神の国は始まっているのです。キリストの到来によって、神の国はすでに開かれました。この地上で、奇跡的な癒しを目にすることはあまりないかもしれません。しかし、私たちのこの地上での現実にもやはり奇跡はあるのです。私の母の死も死では終わりではない家族の物語がその後、続きました。今も続いています。むしろ世界は奇跡に満ちています。神の力はあふれているのです。聖霊によってその力を私たちは感じることができるのです。
その神の力の満ちているこの地上を、私たちは、それぞれの使命をもって生きるのです。神の力によって神に立ち帰らせていただきながら、神の使命に生きるのです。「あなたはすでに神によって召されている」そう東京の牧師が私におっしゃいましたが、それは私が伝道師になるからとか牧師になるからということではなく、イエス・キリストを信じて生きる者はすべて神によって召されて聖なる者とされています。それぞれに神の使命を与えられて、それぞれになすべきことをこの地上でなすのです。神のなさる奇跡の業に応答するのです。
そしてすでに神に召された者として生きる時、アイネアの物語も、タビタの物語も深い慰めをもって私たちに響きます。自分とは関係のない、ラッキーにもキリストの力によって癒された人の遠い物語ではなく、やがて私自身が体験することになる出来事として感じることができるのです。私たちはすでに神に召された者として生きながら、今はまだ終わりの時ではありませんから、そこには苦しみも悲しみもあります。道の途上で倒れそうな時もあり、実際、力尽きる時もあります。しかし、私たちはそこでも聞きます。「起きなさい」という言葉を。やがて、終わりの時に完全な形で聞く「起きなさい」という声をこの地上でも聞くのです。やがて完全な形で聞くことができる約束の言葉として聞きます。聖霊によってその声を聞かせていただき、神に慰められ、力を与えられ、私たちはこの一週間も起きてなすべきことをなしてこの地上を生きていきます。