大阪東教会 2014年6月15日主日礼拝説教
コリントの信徒への手紙Ⅱ5:16~21節
「あなたは、今日、新しくされました」 吉浦玲子伝道師
先週、私たちはペンテコステの礼拝をお捧げいたしました。平山牧師を通して、本来、私たちとは関係ない私たちの外側にあるべき神の救いの出来事が、聖霊によって私たちの内側の出来事となったこと、主イエス・キリストの十字架の救いが私たち一人一人のものであること、を知ることができるようになったことを聞き、そのことをあらためて感謝し、ペンテコステをお祝いいたしました。そのペンテコステから2000年後の今日において、教会につながっている私たちもまた教会にあって、神の言葉を聞き、新しく生かされています。
たしかに私たちは新しく生かされているのです。そして新しくされたのは私たち一人一人だけでなく、この世界も新しくされたのです。私たちはそのことを聖霊によって知らされています。でも、次のような言葉を聞かれるとどう思われますでしょうか?
宗教改革者であるルターは言います。「この世界のなかに死も罪もない」と。「もし罪や死が見えているとしたら、それはあなたが不信仰だからだ」と。いかがでしょうか?そんな馬鹿なことがあるか?!と思われますでしょうか?私は思いました。そんな馬鹿なことがあるか、この世界には悪が満ち、罪が満ち、おびただしい死があるではないかと思います。しかし、ルターはいうのです。主イエス・キリストの十字架によって、それらはすべて新しくされたのだと、もうこの世界には罪も死もないのだと。
たいへん強烈な言葉です。わたしにはまったく肯い難かった言葉でした。私の母は一年半前、家族の見守る中で召されました。そこにたしかに死があったのです。血が流れ、痛みがあり、命は死にとってかわられました。
しかしなお、死も罪もない、そうルターはいうのです。キリストの十字架のゆえに世界は全く新しくされたのだと。このルターと同じように、世界を見た人が今日の聖書箇所のことばを記したパウロです。パウロはけっしてお気楽な人生を送った人ではもちろんありません。迫害の中、宣教を続けました。鞭うたれ、獄につながれ、難破してみずからも病を負っていました。しかしなおルターと同じようにこの世界はすでにキリストの十字架のゆえに新しくされたとパウロも考えていました。
今日の聖書箇所16節に「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません」とあります。肉に従って知る、とありますが、肉に従って知る、というのは、従来の価値観に従って世界を知ることです。
それは、利害関係によって人間関係をつくっていくビジネスライクな価値観に従って世の中を知ることであったり、古いしがらみに縛られて生活を考えることであったり、私なんて欠点だらけでどうしようもないと自分を貶める感情にとらわれて自己認識をすることです。それらをまとめて言えば、十字架の救いを知らない、罪人の目で世界を見るということです。
しかし、パウロは、もうそのようには見ないのだと言います。
先々週、名古屋の説教塾セミナーに参加いたしました。指導してくださった先生は85歳です。奥さまは86歳で要介護5の寝たきりの状態です。認知症もあります。その奥様を自宅で85歳の先生が介護されている、老老介護の現実があります。奥様も伝道者でした。その方がいまは寝たきりで身の回りの世話をすべて夫に委ねておられる。しかし85歳の先生はおっしゃいました。「この状態をはたからみたら、実にみじめで悲惨な老老介護の状況だろう。人から見たら<ふたりとも神の福音を長く語ってきていながら、いまは老老介護の悲惨な状態だ、語って来た福音はどこにいったのか>と思われるかもしれない。しかし、違う。この老老介護の日々の上にも神の恵みは降りそそいでいる、神の祝福の中の日々なのだ。」と。これはどのようなときでも、どんな状態でも神の恵みを信じましょう、祝福だと思いましょう、というキリスト者としての心の持ち方とか考え方を示しているのではありません。そうではなく本当の現実をみるということです。新しくされた現実を見るということを先生は語られたのです。肉に従って知るのではなく、霊の目、新しくされた者の目で知る時、そこに神の恵みが見え、祝福が見える、それが本当の現実なんだということを先生はおっしゃったのです。
「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」これは決定的なことです。
日本人は、古き良き時代というノスタルジックな感覚を好む傾向があるかもしれません。心のなかにある良き思い出を大事にすること、そのこと自体は悪いことではありません。しかし、今日の聖書箇所でいわれている「あたらしいもの」は神が新しくされた世界の現実です。神が新しくされた現実と、古い現実は全く違います。目の前に新しい世界があるのにもかかわらず、わたしたちが肉の目、つまり古い価値観で縛られた目、罪人の目でみるとき依然として世界は古く見えます。しかし、キリストによって新しくされた者は、そう見ることはできないのです。
なぜならそれは「すべて神から出たことだから」です。神がそのようになされたのです。神はキリストを通してわたしたちをご自分と和解させられました。いま、聖書研究祈祷会で創世記を学んでいます。その一章において、世界のすべてのものを良いものとして神はお造りになったことが記されています。創造の七日間において「神はこれを見て、良しとされた」あるいは「見よ、それは極めて良かった」という言葉が繰り返し記されています。創造の最初において、この世界は良いものであったし、わたしたち人間も良いものとして神は創造されました。その世界が、私たち人間の罪によって壊れました。私たちは罪人として神の前に立てない者となりました。端的に言って私たちは神に敵対する者となったのです。
敵対するということに関してですが、信仰をお持ちでない方であっても、自分が何一つ非の打ちどころのない人間であると思っている方はおそらくおられないでしょう。しかしだからといって、「あなたは神に敵対する者である」といわれると違和感を覚える方もおられるのではないでしょうか。自分は神と敵対したことなどはない、と。そもそも敵対どころか神と自分は関わりがなかった、敵対しようもないではないか、と。
しかし、神によって創造された人間が神とかかわりなく生きている、神によって造られ命を与えられているものが、神と共に生きていない、神を向いて生きていない、そのことが罪であり、神への敵対です。親に愛されて育った子供が「自分は親とは何もかかわりがない」といって家をでていくようなものです。人間の悲惨はそこから生じてきました。
しかし神は、勝手に家を出て行った子供のような人間と、イエスキリストを通して、そのキリストの十字架によって和解をしてくださいました。和解するという言葉は、交換するという言葉でもあります。罪を知らないキリストの命と、私たちの罪が交換されたのです。またこれは経済の言葉でもあります。
本来、和解とは、非のある方が、損害を与えた方がなんらかの賠償を支払って成立するものです。でも神が和解をしてくださった、それは神の方が御子を罪人として十字架につけて賠償を支払われました。神は大損して人間は大もうけをしたといえます。しかしそうではありません。神は実は大損はされなかった、御子の命を失われましたが、私たちの命がそれに値するものだと神は考えておられたからです。私たちの命が尊いものであり、値高いものであると神は考えてくださったからこそ、御子を十字架にかけて、交換なさったのです。わたしたちを愛しておられたからです。
そして「神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく」と書かれています。責任を問うことなくというのは、責任を数えないということです。自分たちの罪を数え上げようとしたらどれほどになるでしょうか。それを神は一切数えないとおっしゃっているのです。それはわたしたちひとりひとりと和解をしてくださったということでもありますが、なにより「世」、世界と和解をしてくださったのです。
ヨハネによる福音書3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」とありますが、まさにこのことが実現したのです。独り子を信じるもの、その和解の出来事を受け入れる者が一人も滅びないで永遠の命を得る、それが成就したのです。
つまり世との和解は成立しました。すでに成立しているのです。
その成立している和解を受け入れるだけで、私たちは神との関係を修復できるのです。今、教会に結ばれている者はすでにその和解を受け入れたものです。すでに神との関係改善は済んでしまっています。そんなわたしたちは、ただ感謝の生活を送るのです。新しくされた者、新しく創造された者として生きるのです。
その感謝の生活が真実である時、おのずとその喜びを人に伝えたくなるのです。人間と神が、この世界と神が和解してくださった、その和解にまだ気づいていない人たちにも気づいてほしいという思いになるのです。 ちょっと良いことがあったとき、徳をしたとき、そのようなときは、ときどき、このことは他の人には内緒にしておこうという気持ちになったりします。ずるい考え方ですが。
20節に「神がわたしたちを通して勧められるのでわたしたちはキリストの使者の務めを果たしています」とあります。この使者はパウロや伝道者だけのことではないのです。神と和解していただいたものすべてが使者となるのです。
ちょっとではない、ほんとうに素晴らしいことがあったとき、その喜びに満たされたとき、そのことは人に伝えずにはいられなくなると思います。変な話ですが、わたしが福岡で学生生活をしていた時、福岡に良く宝くじがあたるという売り場があったんです。長崎の実家の母から宝くじをそこで買ってほしいと言われまして、長崎への帰省の折に買って帰ったことがあります。でも、結局その宝くじははずれました。外れたのですが、その宝くじの当選発表の時期、私はすでに福岡に戻っていましたが、母は風邪をひいて、数日寝込んでいたようです。母は近所の人に娘に福岡で宝くじを買ってもらったということを吹聴していたようです。そもそも、むかしの田舎のことですから、近所の人間の動静というのは丸わかりなんです。母が数日カーテンを引いたままで出てこない、ちょっと近所に買い物くらいにはでかけているけど、ほとんど家の中にこもっている、あれはきっと娘さんが買ってきた宝くじが当たって、そのお金の使い道を家をとざしてこっそり考えているに違いない、そんな噂が近所に流れたそうです。
でも私たちがほんとうに喜びに満たされていたら、カーテンを閉めて部屋に閉じこもることなんてありえません。宝くじに当たるよりももっと大きな喜びである、神に和解をしていただいている、新しい人間とされている、罪も死もない世界に生きるものとされている、その喜びのリアリティにあるとき、わたしたちはそれを伝えたい、そのための使者になりたいと願うのが自然のことです。
大阪東教会もそのような教会であったのではないでしょうか。
不幸な歴史がありました。繰り返し無牧の時代がありました。しかしなお、みなさんは良くこの教会を守ってこられました。たいへんな、ほんとうにたいへんなご苦労があったと思います。そのなかで毎週礼拝を欠かさず守ってこられました。人数が多い教会ではありません、若い人がたくさんいるわけでもありません。限られたご奉仕の方がやりくりをして教会を守ってこられました。みなさんはひょっとしたらはっきりとは、意識はなさっておられなかったかもしれません。でもやはりキリストに於いて、キリストの愛によって皆さんは使者とされていた、和解のための使者として生かされていた、そのことのゆえに、教会を守られた。現実的な必要は多くあったでしょう。教会を守る理由は人それぞれにたくさんあったでしょう。しかし、その心の奥には教会への愛があったのだと思います。その愛は、キリストが皆さんに与えられた愛であったと思います。キリストにおいてキリストの十字架において皆さんと和解してくださった神の愛があったのだと思います。皆さんはすでに和解のための使者としてこの教会に立てられていたのです。和解の言葉をゆだねられていたのです。そしてそれはこれからの大阪東教会もそうです。和解の使者としてこの世界にカーテンを開け扉を開いて立っていくのです。
パウロは言います。「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」パウロはお願いしているのです、キリストに代わって。これは命令ではありません、お願いです。パウロはキリストに代わって願っているのです。なぜならキリストご自身が願っているからです。御子の命によって世と和解してくださった神は、なおその和解に関して命令ではなく願っておられるからです。神は私たちを縛り上げて、何がなんでも和解に同意しろとは言われていないのです。願っておられる。罪とはなんのかかわりもなく十字架につけられ罪とされたキリストがご自身が願っておられる。和解させていただきなさい、と。私たちの意思を尊重してくださるからです。
また、20節の神が勧められているので、という勧めるという言葉は、慰める、力づけるという意味でもあります。神は、もう罪のために苦しまなくてよいと、慰めてくださる、新しい世界で生きていきなさいと励ましてくださる、その慰めや励ましを私たちもまた他の人へ手渡していくのです。
そしてわたしたちもまた、願うのです。まだ和解を知らない方々が和解を受け入れてくださるように、永遠の命をえてくださるように。力づくで教会に連れて来るのではないのです。願うのです。
和解していただいた感謝の生活、神によって義とされている、正しくない者が正しいとされているその喜びの生活に、罪を数えられない感謝の日々に、世のすべての人があずかることができるように願い続けるのです。神と和解していただいたそれは洗礼において終了するのではありません。その神の恵みを感謝して生きる、この世の中にあって、カーテンを開けて扉を開いて世の人を招きながら、世にある人のために祈り続けるその生活を喜びをもって生涯続けるのです。罪も死もない、新しくされたこの世界の現実の中で、新しくされた者として祈りつつ、願いつつ、この一週間も生きていきましょう。