説教「銀貨30枚で売られた神」
<裏切りの理由>
イスカリオテのユダが裏切り、祭司長たちへ主イエスを売りました。このことはクリスチャンでなくても良く知っていることがらです。私自身も教会に行くようになるずっと前から、ユダという名前は知っていました。詳細は知りませんでしたが、裏切った悪い人だと知っていました。ユダと言えば、裏切り者の代名詞のように使われます。ユダを題材にした芸術作品も多くあります。
人間の世界での裏切りというのはいくらでもあることです。人間同士の裏切り、国家間での裏切り、さまざまな裏切りがあり、一般の映画やドラマにも裏切りは多く登場します。主イエス・キリストをめぐる出来事の中でもこのユダの裏切りはドラマチックなものとして興味深く読まれます。
ユダが裏切りに走った直接的なきっかけは先週お読みしたナルドの香油の場面にあったようです。それまでもユダは主イエスに対して、徐々に失望するような思いを抱いていたかもしれません。このままこの人についていっていいのか悩んで悶々としていたのかもしれません。自分自身が思い描いていた救い主のイメージと、主イエスがかけ離れていると感じていたかもしれません。ユダはもっとこの世的な王や救い主のイメージを主イエスに期待していたのかもしれません。
それは聖書にはっきりと記されてはいないので推測でしかありません。しかしはっきりしているのは、先ほど申しましたようにある女性が主イエスの頭にナルドの香油という高価な香油をぶちまけた、そのことを主イエスがほめた、そのできごとによってユダがついに行動に出たというです。
ユダは冷静で計算高い人だったのかもしれません。実際、他の福音書ではイエスのグループの活動の財布を管理していたとあります。つまり会計担当者であった。実務的な能力の高い人であったのでしょう。他の福音書にはユダが会計的な不正をしていた、ということまで記されています。しかし、ユダという人物がほんとうのところ、どこまで悪人であったのか、それは定かではありません。しかし、香油の件で、彼がついに行動に出たことから分かることは、ユダに見えていたのは現実的なことだけだったということです。彼には高価な香油を頭に注ぐなどということは到底ゆるせないことだったということです。しかも、主イエスはその行為を最高と言っても良いような言葉でほめました。彼に見えていたのは、大の男がほとんど一年働いて買えるくらいの高価なものを無駄にしたにも関わらず、それを叱るどころか、ほめている主イエスの姿です。とんでもないにおいを放つ香油を頭から滴らせ、なおその女性をかばっている主イエスの姿です。それがとてつもなく愚かに見えたのでしょう。そのとき、もうこの人には、ついていけない、彼はそう感じたのでしょう。
<奴隷よりも安く神は売られた>
彼は銀貨30枚で主イエスを売りました。この銀貨30枚の価値については諸説あります。旧約聖書の時代は、銀貨30枚というのが奴隷一人が売り買いされる金額であったようです。主イエスの時代の価値がどのようであったかは定かではありません。旧約聖書の時代より価値が下がっていたと考えるのが普通のようです。銀貨30枚では奴隷一人を買うことができなかったみたいです。一説には一ヶ月分の賃金程度とも言われます。前の聖書箇所でぶちまけられた香油の価値は300日分の賃金とも言われますから、その10分の一程度だったというのです。少なくとも、ユダは、自分の先生であった人を、ナルドの香油より、はるかに安い値段で売ったということになります。
ユダはかつては主イエスにすべてをかけていたのです。主イエスに従い、仲間のために働いた。多くの人がこれまでも主イエスに躓いて去っていきました。他の福音書によるとエルサレム入城のころには多くの弟子が去って行ったと記述されています。しかしそれでもユダは残っていた。残っていただけではなく、弟子たちの中の中核の存在である12弟子の一人だった。でも、そこにもう何も価値を見出すことができなくなった、だから、売り飛ばしたのです。その思いはけっして単純なものではなかったかもしれません。しかし、つきつめると、自分にとって必要がない、メリットがない、だから売ったのです。銀貨30枚でも20枚でも良かったのです。廃品回収に古新聞を出すとき、大金を手にしようと思って出す人はいません。ユダもひと儲けしてやろうと思って主イエスを売ったのではないでしょう。ごく単純に自分に必要がなかったから売ったのです。イエスは自分に役に立つ人ではなかったから売ったのです。
のちにユダはそのことを後悔します。主イエスが殺されることを知って後悔し、銀貨30枚を祭司長たちに返して自殺をします。そういう意味でユダは根っからの悪人ではなかったといえます。もともと、そんなだいそれたことをするつもりはユダにはなかったのでしょう。祭司長たちに引き渡したとしても、主イエスは死刑になるとは思っていなかった。自分にとって価値がないものだから売り払っただけで、まさかそのことが命にかかわることであるとは思わなかったのです。
<この信仰は損か得か?>
人をお金で売るということはとてつもない悪だと私たちは考えますが、しかし、わたしたちもまた自分の中で計算をします。自分を中心にこれは得か損かを考えます。この学校に入ることは将来得だろうか、この仕事に就くのは得だろうか?これは自分にとって得にならない、そう考える時、わたしたちはそれを手放します。手放す時、人間は恐ろしく冷淡になるのです。
そしてそれは信仰においてもあるのです。信仰においても、信じたら得なのか、なにか御利益はあるのか、教会に行ったらなにか良いことがあるのか、わたしたちは計算をします。計算をしないではいられないのです。それが人間なのです。そしてどこまでも愚かな計算をしながら、本当に大事なものを私たちは失って行くのです。命を失って行くのです。
たかだが銀貨30枚で、ユダは自分の命を失いました。それは肉体的な命だけではありません、永遠に続く霊的な命すら失ってしまったのです。
良く言われることです。ユダはたしかに裏切りました。しかし、弟子達の中で、裏切り者はユダだけではないと。長く聖書をお読みの方はご存知のように、ペテロとて、主イエスの逮捕ののち、「主イエスなんて知らない」と三回も言いました。ペテロとて主イエスを裏切ったのです。ペテロとユダは共に主イエスを見捨て、裏切ったことに置いて同じです。そこには自分を守りたい、自分は難から逃れたい、主イエスに巻き込まれて逮捕されたくないという恐れがあったかもしれません。いずれにせよ、裏切りという点ではペトロもユダも同じなのに、ペトロは生き残り、やがて大伝道者となりました。何が違ったのか?それはペトロは復活のイエスに出会ったということです。しかし、ユダは主イエスの復活の前に自ら命を断ってしまいました。計算高いユダは、いまこのときの現実しか見えていませんでした。今現在いくら手元にお金があるか、今現在の自分の状態がどうなのか、それだけしか見えていませんでした。今しか見えていない時、計算をする時、人間は絶望するのです。自分の手元しか見えなくなるのです。未来が見えなくなるのです。本当に大事なものを失ってしまう。希望が見えなくなってしまいます。
<希望は計算できない>
これは以前にもお話ししたことがあると思います。私は献身前、会社を辞める時、ちょうど、希望退職が募られましたので、それに応募する形で会社を退職しました。無事、円満退職ができました。同時期、若いころからボランティア活動をしていたある人は、この期に、本格的に福祉活動をしたいと願って退職しました。体に障害がある人たちが働けるパン屋さん、ベーカリーを造りたいと考えておられたのです。そこで退職金で専門学校に行ってパンづくりを学ぶんだと聞きました。また別のある人は、もうその人は定年まじかの方で、希望退職をするつもりだったのですが、結局、フィナンシャルプランナーに生涯所得を計算してもらって、正規の定年より少し早く退職することによって退職金やら年金やらを合わせた生涯所得が500万円減るということが分かって退職するのをやめました。それぞれの人生ですから、誰が良くて誰が悪いということはありません。それぞれの価値観で生きていけばよいと思います。たしかに計算で考えたら、満期定年まで働いた人が賢いのかもしれません。中年男性が退職金で専門学校に行ってベーカリーを造っても、けっしてその後は経済的には恵まれないことでしょう。体に障害のある人が働けるようにという話は、話としては美しい話かもしれない、でもうまくいくとは限りません。人生はきれいごとではすまない側面があることを現実の中で生きていく時、私たちはいやというほど知らされます。しかし、やはり私は思いました。フィナンシャルプランナーが無謀だと言おうと、障害のある人のために退職してベーカリーを作った人は、豊かな未来を手に入れたのだと。フィナンシャルプランナーには計算することのできない未来への希望をその人は手に入れたのだと。
自分の見えている範囲での計算は自分を豊かにしません。むしろ豊かな未来を失わせるものです。信仰においてもそうです。この信仰は自分にとって得なのか?私は損をするのではないか?そう心配しながら、自分の手元しか見ず計算するとき、さらに私たちは視野が狭くなっていくのです。視野が狭くなり、ますます、計算を重ねます。損か得か、そう計算しながら、自分自身の命を狭めていくのです。
それにしても、そもそもそのようなユダをなぜ主イエスは弟子にお選びになったのでしょうか?主イエスにはユダの心が見えていなかったのでしょうか?そうではないでしょう。ユダの計算高さ、この世的な価値観でしか物事を見ることのできない貧しさを主イエスは十分に分かっておられたでしょう。そして自分を裏切り、祭司長たちに引き渡すことになることも知っておられたでしょう。しかし知りながらなおユダを弟子に選ばれたとしたら、それはある意味、残酷なことではないでしょうか?ユダは弟子に選ばれなければ、特にその中でも特別な位置にあった12人のうちに選ばれなければ、ひょっとしたら裏切ることがなかったかもしれない。大勢の弟子のうちのすみっこにいるような者であれば、祭司長たちも相手をしなかったかもしれません。弟子達の中でリーダークラスの位置をもっていたユダであればこそ、主イエスを祭司長たちへ巧みに引き渡す機会をとらえることもできると考えられます。
一方で、主イエスが十字架にかかられることは神のご計画でした。この過越し祭の季節に石打でも絞首刑でもなく、十字架にかかって主イエスが殺されることが神のご計画でした。それが旧約聖書において預言されていたことです。しかし、マタイによる福音書の26章の最初に記されていたように、当初、祭司長たちは主イエスを殺す時期として、祭りの期間は避けようとしていました。しかし、ユダの裏切りによって、主イエスの殺害計画は一歩前進したのです。ユダの裏切りは皮肉にも、神のご計画を進める役割を担ったのです。ですからユダに意図的に神は裏切る機会をお与えになったのかとすら考えられます。しかしそうであれば、本当に残酷な話です。
また別の見方をすれば、教師であり指導者であった主イエスの弟子であり仲間であった者から裏切り者が出たということでもあります。それは今日的な言い方をすれば、主イエスの指導力を問われる問題でもあります。主イエスであってもなお、自分の造った組織を完全にはマネジメントできてなかった、人心を掌握できていなかったということなのかという問題になります。
<ユダのためにも死なれた神>
ユダの裏切りを巡ることは、大きな謎を含みます。下手に踏み込んでいくと、つまずいて倒れそうなことでもあります。しかし、一つはっきり言えますことは、すべてを知りながらなお主イエスはユダを受け入れておられたのだということです。それは裏切り者としりながら裏切るまで泳がせていたということではありません。主イエスはユダがはっきりと裏切りの行動を起こすまでユダに声をかけ続けられます。裏切られた後も叱責や呪いの言葉はかけられません。
そして主イエスはだまって十字架にかかられます。その最後までユダへの呪いの言葉はありません。なぜなら主イエスはユダのためにも十字架にかかられたからです。自分を裏切った者のためにも主イエスは十字架にかかられたからです。使徒信条には「十字架にかかり、よみにくだり」とあります。主イエスはよみに降られた。父なる神と天におられた高い存在であった御子が、クリスマスの日に地上に降ってこられ、さらにはよみにまで、死者の国まで下られた。そこには自殺したユダもいたでしょう。ペトロの手紙Ⅰの三章に死んだイエス・キリストが捕らわれていた霊のところに行って宣教したと記されています。ユダの裏切りと悲惨な最期は痛ましい出来事でそれを巡ることは多く謎です。しかしなおはっきり言えますことは主イエスはユダのためにも死なれたということです。未来を見ることのできない計算高いユダのためにも死なれた。
わたしたちもまた、絶えず計算をします。愛を捧げるのではなく、損をしないように計算してしまいます。そんな私たちのためにも主イエスは十字架にかかられました。私たちが豊かな命を得るためです。輝かしい未来を得るためです。