大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

2017年1月22日主日礼拝説教 マタイによる福音書26章14~16節

2017-01-26 18:12:04 | マタイによる福音書

説教「銀貨30枚で売られた神」

<裏切りの理由>

 イスカリオテのユダが裏切り、祭司長たちへ主イエスを売りました。このことはクリスチャンでなくても良く知っていることがらです。私自身も教会に行くようになるずっと前から、ユダという名前は知っていました。詳細は知りませんでしたが、裏切った悪い人だと知っていました。ユダと言えば、裏切り者の代名詞のように使われます。ユダを題材にした芸術作品も多くあります。

 人間の世界での裏切りというのはいくらでもあることです。人間同士の裏切り、国家間での裏切り、さまざまな裏切りがあり、一般の映画やドラマにも裏切りは多く登場します。主イエス・キリストをめぐる出来事の中でもこのユダの裏切りはドラマチックなものとして興味深く読まれます。

ユダが裏切りに走った直接的なきっかけは先週お読みしたナルドの香油の場面にあったようです。それまでもユダは主イエスに対して、徐々に失望するような思いを抱いていたかもしれません。このままこの人についていっていいのか悩んで悶々としていたのかもしれません。自分自身が思い描いていた救い主のイメージと、主イエスがかけ離れていると感じていたかもしれません。ユダはもっとこの世的な王や救い主のイメージを主イエスに期待していたのかもしれません。

それは聖書にはっきりと記されてはいないので推測でしかありません。しかしはっきりしているのは、先ほど申しましたようにある女性が主イエスの頭にナルドの香油という高価な香油をぶちまけた、そのことを主イエスがほめた、そのできごとによってユダがついに行動に出たというです。

 ユダは冷静で計算高い人だったのかもしれません。実際、他の福音書ではイエスのグループの活動の財布を管理していたとあります。つまり会計担当者であった。実務的な能力の高い人であったのでしょう。他の福音書にはユダが会計的な不正をしていた、ということまで記されています。しかし、ユダという人物がほんとうのところ、どこまで悪人であったのか、それは定かではありません。しかし、香油の件で、彼がついに行動に出たことから分かることは、ユダに見えていたのは現実的なことだけだったということです。彼には高価な香油を頭に注ぐなどということは到底ゆるせないことだったということです。しかも、主イエスはその行為を最高と言っても良いような言葉でほめました。彼に見えていたのは、大の男がほとんど一年働いて買えるくらいの高価なものを無駄にしたにも関わらず、それを叱るどころか、ほめている主イエスの姿です。とんでもないにおいを放つ香油を頭から滴らせ、なおその女性をかばっている主イエスの姿です。それがとてつもなく愚かに見えたのでしょう。そのとき、もうこの人には、ついていけない、彼はそう感じたのでしょう。

<奴隷よりも安く神は売られた>

 彼は銀貨30枚で主イエスを売りました。この銀貨30枚の価値については諸説あります。旧約聖書の時代は、銀貨30枚というのが奴隷一人が売り買いされる金額であったようです。主イエスの時代の価値がどのようであったかは定かではありません。旧約聖書の時代より価値が下がっていたと考えるのが普通のようです。銀貨30枚では奴隷一人を買うことができなかったみたいです。一説には一ヶ月分の賃金程度とも言われます。前の聖書箇所でぶちまけられた香油の価値は300日分の賃金とも言われますから、その10分の一程度だったというのです。少なくとも、ユダは、自分の先生であった人を、ナルドの香油より、はるかに安い値段で売ったということになります。

 ユダはかつては主イエスにすべてをかけていたのです。主イエスに従い、仲間のために働いた。多くの人がこれまでも主イエスに躓いて去っていきました。他の福音書によるとエルサレム入城のころには多くの弟子が去って行ったと記述されています。しかしそれでもユダは残っていた。残っていただけではなく、弟子たちの中の中核の存在である12弟子の一人だった。でも、そこにもう何も価値を見出すことができなくなった、だから、売り飛ばしたのです。その思いはけっして単純なものではなかったかもしれません。しかし、つきつめると、自分にとって必要がない、メリットがない、だから売ったのです。銀貨30枚でも20枚でも良かったのです。廃品回収に古新聞を出すとき、大金を手にしようと思って出す人はいません。ユダもひと儲けしてやろうと思って主イエスを売ったのではないでしょう。ごく単純に自分に必要がなかったから売ったのです。イエスは自分に役に立つ人ではなかったから売ったのです。

 のちにユダはそのことを後悔します。主イエスが殺されることを知って後悔し、銀貨30枚を祭司長たちに返して自殺をします。そういう意味でユダは根っからの悪人ではなかったといえます。もともと、そんなだいそれたことをするつもりはユダにはなかったのでしょう。祭司長たちに引き渡したとしても、主イエスは死刑になるとは思っていなかった。自分にとって価値がないものだから売り払っただけで、まさかそのことが命にかかわることであるとは思わなかったのです。

<この信仰は損か得か?>

 人をお金で売るということはとてつもない悪だと私たちは考えますが、しかし、わたしたちもまた自分の中で計算をします。自分を中心にこれは得か損かを考えます。この学校に入ることは将来得だろうか、この仕事に就くのは得だろうか?これは自分にとって得にならない、そう考える時、わたしたちはそれを手放します。手放す時、人間は恐ろしく冷淡になるのです。

 そしてそれは信仰においてもあるのです。信仰においても、信じたら得なのか、なにか御利益はあるのか、教会に行ったらなにか良いことがあるのか、わたしたちは計算をします。計算をしないではいられないのです。それが人間なのです。そしてどこまでも愚かな計算をしながら、本当に大事なものを私たちは失って行くのです。命を失って行くのです。

 たかだが銀貨30枚で、ユダは自分の命を失いました。それは肉体的な命だけではありません、永遠に続く霊的な命すら失ってしまったのです。

 良く言われることです。ユダはたしかに裏切りました。しかし、弟子達の中で、裏切り者はユダだけではないと。長く聖書をお読みの方はご存知のように、ペテロとて、主イエスの逮捕ののち、「主イエスなんて知らない」と三回も言いました。ペテロとて主イエスを裏切ったのです。ペテロとユダは共に主イエスを見捨て、裏切ったことに置いて同じです。そこには自分を守りたい、自分は難から逃れたい、主イエスに巻き込まれて逮捕されたくないという恐れがあったかもしれません。いずれにせよ、裏切りという点ではペトロもユダも同じなのに、ペトロは生き残り、やがて大伝道者となりました。何が違ったのか?それはペトロは復活のイエスに出会ったということです。しかし、ユダは主イエスの復活の前に自ら命を断ってしまいました。計算高いユダは、いまこのときの現実しか見えていませんでした。今現在いくら手元にお金があるか、今現在の自分の状態がどうなのか、それだけしか見えていませんでした。今しか見えていない時、計算をする時、人間は絶望するのです。自分の手元しか見えなくなるのです。未来が見えなくなるのです。本当に大事なものを失ってしまう。希望が見えなくなってしまいます。

<希望は計算できない>

 これは以前にもお話ししたことがあると思います。私は献身前、会社を辞める時、ちょうど、希望退職が募られましたので、それに応募する形で会社を退職しました。無事、円満退職ができました。同時期、若いころからボランティア活動をしていたある人は、この期に、本格的に福祉活動をしたいと願って退職しました。体に障害がある人たちが働けるパン屋さん、ベーカリーを造りたいと考えておられたのです。そこで退職金で専門学校に行ってパンづくりを学ぶんだと聞きました。また別のある人は、もうその人は定年まじかの方で、希望退職をするつもりだったのですが、結局、フィナンシャルプランナーに生涯所得を計算してもらって、正規の定年より少し早く退職することによって退職金やら年金やらを合わせた生涯所得が500万円減るということが分かって退職するのをやめました。それぞれの人生ですから、誰が良くて誰が悪いということはありません。それぞれの価値観で生きていけばよいと思います。たしかに計算で考えたら、満期定年まで働いた人が賢いのかもしれません。中年男性が退職金で専門学校に行ってベーカリーを造っても、けっしてその後は経済的には恵まれないことでしょう。体に障害のある人が働けるようにという話は、話としては美しい話かもしれない、でもうまくいくとは限りません。人生はきれいごとではすまない側面があることを現実の中で生きていく時、私たちはいやというほど知らされます。しかし、やはり私は思いました。フィナンシャルプランナーが無謀だと言おうと、障害のある人のために退職してベーカリーを作った人は、豊かな未来を手に入れたのだと。フィナンシャルプランナーには計算することのできない未来への希望をその人は手に入れたのだと。

 自分の見えている範囲での計算は自分を豊かにしません。むしろ豊かな未来を失わせるものです。信仰においてもそうです。この信仰は自分にとって得なのか?私は損をするのではないか?そう心配しながら、自分の手元しか見ず計算するとき、さらに私たちは視野が狭くなっていくのです。視野が狭くなり、ますます、計算を重ねます。損か得か、そう計算しながら、自分自身の命を狭めていくのです。

 それにしても、そもそもそのようなユダをなぜ主イエスは弟子にお選びになったのでしょうか?主イエスにはユダの心が見えていなかったのでしょうか?そうではないでしょう。ユダの計算高さ、この世的な価値観でしか物事を見ることのできない貧しさを主イエスは十分に分かっておられたでしょう。そして自分を裏切り、祭司長たちに引き渡すことになることも知っておられたでしょう。しかし知りながらなおユダを弟子に選ばれたとしたら、それはある意味、残酷なことではないでしょうか?ユダは弟子に選ばれなければ、特にその中でも特別な位置にあった12人のうちに選ばれなければ、ひょっとしたら裏切ることがなかったかもしれない。大勢の弟子のうちのすみっこにいるような者であれば、祭司長たちも相手をしなかったかもしれません。弟子達の中でリーダークラスの位置をもっていたユダであればこそ、主イエスを祭司長たちへ巧みに引き渡す機会をとらえることもできると考えられます。

一方で、主イエスが十字架にかかられることは神のご計画でした。この過越し祭の季節に石打でも絞首刑でもなく、十字架にかかって主イエスが殺されることが神のご計画でした。それが旧約聖書において預言されていたことです。しかし、マタイによる福音書の26章の最初に記されていたように、当初、祭司長たちは主イエスを殺す時期として、祭りの期間は避けようとしていました。しかし、ユダの裏切りによって、主イエスの殺害計画は一歩前進したのです。ユダの裏切りは皮肉にも、神のご計画を進める役割を担ったのです。ですからユダに意図的に神は裏切る機会をお与えになったのかとすら考えられます。しかしそうであれば、本当に残酷な話です。

また別の見方をすれば、教師であり指導者であった主イエスの弟子であり仲間であった者から裏切り者が出たということでもあります。それは今日的な言い方をすれば、主イエスの指導力を問われる問題でもあります。主イエスであってもなお、自分の造った組織を完全にはマネジメントできてなかった、人心を掌握できていなかったということなのかという問題になります。

<ユダのためにも死なれた神>

 ユダの裏切りを巡ることは、大きな謎を含みます。下手に踏み込んでいくと、つまずいて倒れそうなことでもあります。しかし、一つはっきり言えますことは、すべてを知りながらなお主イエスはユダを受け入れておられたのだということです。それは裏切り者としりながら裏切るまで泳がせていたということではありません。主イエスはユダがはっきりと裏切りの行動を起こすまでユダに声をかけ続けられます。裏切られた後も叱責や呪いの言葉はかけられません。

 そして主イエスはだまって十字架にかかられます。その最後までユダへの呪いの言葉はありません。なぜなら主イエスはユダのためにも十字架にかかられたからです。自分を裏切った者のためにも主イエスは十字架にかかられたからです。使徒信条には「十字架にかかり、よみにくだり」とあります。主イエスはよみに降られた。父なる神と天におられた高い存在であった御子が、クリスマスの日に地上に降ってこられ、さらにはよみにまで、死者の国まで下られた。そこには自殺したユダもいたでしょう。ペトロの手紙Ⅰの三章に死んだイエス・キリストが捕らわれていた霊のところに行って宣教したと記されています。ユダの裏切りと悲惨な最期は痛ましい出来事でそれを巡ることは多く謎です。しかしなおはっきり言えますことは主イエスはユダのためにも死なれたということです。未来を見ることのできない計算高いユダのためにも死なれた。

 わたしたちもまた、絶えず計算をします。愛を捧げるのではなく、損をしないように計算してしまいます。そんな私たちのためにも主イエスは十字架にかかられました。私たちが豊かな命を得るためです。輝かしい未来を得るためです。


2017年1月15日主日礼拝説教 マタイによる福音書26章1~13節

2017-01-20 13:39:46 | マタイによる福音書

説教「ぶちまける愛」

<すべて語り終えられた>

 主イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた

 とあります。主イエスはその教えをすべて語り終えられたのです。実はマタイによる福音書には<イエスが語り終えられる>という意味の箇所が何か所かあります。たとえば山上の説教が終わった箇所にもあります。語り終えられたというのは主イエスの一連の教えが終わったということです。そしてこれから場面が変わること、主イエスの歩みが次の段階に向かうことを示します。それがこれまでマタイによる福音書では4回あり、この箇所が5回目で最後となります。そしてその5回目の最後に記されているこの言葉は、「これらの言葉をすべて完成されたとき」、とも訳すこともできる言葉です。主イエスは言葉を完成された。その教えをすべて伝えられた、そして、そのときにおっしゃったのです。

「二日後の過越し祭で十字架につけられるために引き渡される」と。

 これまでも主イエスは幾たびかご自身の死を予告されていました。自分が祭司長たちに捕えられ苦しみにあうことを語られていました。そしてそのことは二日後に迫っている、そう宣言されました。

 そのころ、まさに祭司長たちや民の長老たちは大祭司の屋敷に集まり、イエス殺害の計画を練っていたのです。しかし、このときはまだ民衆は主イエスの味方でした。ですから、祭司長たちは主イエスを捕えることによって民衆の間に自分たちへの反感が起き、騒ぎになると自分たちの立場が危うくなる、と恐れました。

 祭司長たちは民衆にたいして正々堂々と自分たちの正当性を示すことはできなかったのです。彼らは権力者でありましたが、民衆をおそれ騒ぎをおそれ自らの立場を守ることに汲々とする人々でありました。しかし、教会に長く来られている方はご存じのように、祭司長たちが恐れていた民衆がやがて主イエスを見捨てます。主イエスを「十字架へつけろ」と叫ぶようになります。民衆だけではありません、弟子たちも主イエスを裏切っていくのです。そのすべてを主イエスはご存知でした。ご存じでありながらなお主イエスは弟子たちに語られたのです。「人の子は、十字架につけられるために引き渡される」

 「引き渡される」という言葉には特別の意味があります。「渡される」ということですけれど、それは、ささげものとして「渡される」ということです。過越しの祭りでは、小羊が罪の贖いのために捧げられます。しかし、ここで主イエスご自身が自分こそが小羊として捧げられる、つまり渡されるのだと語っておられます。過越しの祭りは、かつて、イスラエルの人々が奴隷として苦しんでいたエジプトを出て行くときに、神がエジプトに向けて起こされた災いがイスラエルの人々を家を通り過ぎていくように過越していくように、家の戸に小羊の血を塗ったことが起源です。神が奴隷であった人々を解放するために働かれた、そのことを覚える祭りが過越し祭です。しかしいま、人間を罪の奴隷から解放するためにささげられるのは小羊ではなく、神の御子である主イエスなのです。

 主イエスは、やがて捕えられ、十字架につけられ、殺されますが、それは外側から見ると、イエスという人物が人々に捕えられ十字架につけられ、殺されたという、イエスにとって受け身の出来事のようですけれど、そうではありません。むしろ主イエスは主体的にご自身をご自身で十字架へと引き渡されたのです。また、父なる神が御子を十字架にささげるというご意志をご存じでそれに従ってご自身を引き渡されたともいえます。

 そしてまた「引き渡される」には裏切られるという意味もあります。実際、その主イエスの思いの裏側で策略は進みます。そして今日お読みした聖書箇所の次の場面ではユダの裏切りが描かれています。実に殺伐とした、受難への序章ともいうべき物語が続きます。しかし、今日お読みした聖書箇所にはベタニアで主イエスが香油を注がれた話がでてきます。これは殺伐とした受難への序章の中で、少し違う印象を与える話です。

<香油ぶちまけ事件>

 食事の席で一人の婦人が主イエスに歩み寄ります。そして主イエスの頭に香油を注ぎかけたとあります。他の福音書にはナルドの香油として記されている有名な香油注ぎの場面です。この場面はこの女性の主イエスへの献身の印であると、言ってみれば美しい場面であると解釈されます。「ナルドの香油ならねど」という讃美歌があります。愛唱する方の多い讃美歌です。たしかにあの讃美歌のように本質的には美しい場面ですが、常識的に考えるととんでもない場面でもあります。注がれた香油は他の福音書によると1リトラ、326gほどであったと記されています。ナルドの香油は匂いが強い、しかも癖の強い匂いであるといわれます。その比重がどのくらいかわかりませんが、少なくともコップ一杯以上の量の香油をぶちまけたと考えられるでしょう。当時の香油がどのような製法でできていたかはっきりとはわかりません。今日でいうアロマテラピーに使う精油のようなものなのか香水のようなものなのかはっきりとはわかりません。しかしいずれにせよ、通常、用いるときはせいぜい数滴を使うくらいのものだったでしょう。通常、香水をコップ一杯もぶちまけたらたいへんなことになります。今日の聖書の場面でもとんでもないにおいが充満したでしょう。そもそも香油というのは死体に塗るものでもありました、死体のにおいを隠すほどのにおいをもっていたものです。それをぶちまけたのです。それも主イエスの頭に注いだのです。主イエスの髪も顔も服もびしょびしょになったことでしょう。おそらくちょっとやそっとでとれるような匂いではなかったと考えられます。とてつもなく非常識で、はた迷惑なことをこの女性はしたのです。しかも食事の場面です。イエスはびしょびしょになり、部屋には匂いが充満し、料理を食べるどころではなくなったでしょう。食事の席がだいなしにされたのです。普通に考えて、同席した人々は憤慨して当たり前のところです。しかも、その香油はとても高価だったのです。他の福音書では「なぜ300デナリで売って貧しい人に施さなかったのか」と弟子たちは言っています。300デナリというと300日分の賃金です。今日の価値で言うと数百万円もの高価なものだったようです。

 普通に考えて迷惑でしかない、非常識な場面です。しかし、主イエスはこの女性を庇います。それは単にこの女性に同情したからではありません。主イエスはおっしゃいます。「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。」

 これから十字架の死に向かわれる主イエスがわたしを葬る準備をしてくれたのだとはっきりおっしゃっています。実際、これから十字架にお掛になり死なれたのち、主イエスの遺体は日程の関係上、大急ぎで十字架から引き下ろされ、墓にいれられます。本来ならば、香油を塗って丁重に葬るべきところ、それをなすことができなかった。復活の日の朝、婦人たちが主イエスの墓に駆け付けたのは、なにより香油を塗って、しっかりとイエス様を葬りたかったからです。しかし、結果として、歴史上、主イエスを葬ったのはこの非常識な婦人一人ということになりました。「世界中どこでも、この福音がのべ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」と主イエスはおっしゃり、現実にそのようになりました。2000年にわたり、この女性がなしたことを教会は語り伝えてきたのです。主イエスの死を覚える時、この女性を記念するようになったのです。

<御霊の息吹に導かれて>

 ではこの女性はほんとうにそのような主イエスの葬りを自分がやっているという意識のもとにこのことをなしたのでしょうか。それは今日の聖書箇所からは読み取ることはできません。ヨハネによる福音書のベタニアで香油を注がれる場面において、注いだ女性はマリアとされています。マリアとマルタで有名なマリアです。台所で一生懸命働いていたマルタと、主イエスのそばでいつも話を聞いていたマリアという姉妹のうちのマリアです。そのマリアであるならば、主イエスの死を理解していたかもしれない。いつも熱心に主イエスのそばで話を聞いていたマリアなら、主イエスが死の近いことをこれまでの話から感じ取っていたかもしれません。そしてさらに、いよいよ主イエスが二日後に十字架につけられるとおっしゃっているのを聞き、そこに、特別なものを感じて、矢も楯もたまらずこのような行為に及んだとも考えられます。

 しかしそれも推測にすぎませんし、ヨハネによる福音書とマタイでは少し場面設定も違いますのではっきりとは言えません。カルヴァンはこの場面についてこのようにいっているそうです。

「御霊の息吹に導かれてキリストへの義務を果たさないわけにはいかなくなった」

 またある神学者はこの場面を「聖なる浪費」と言っているそうです。

 女性は、主イエスがこれからなさそうとしておられたことの意味を、はっきりとは理解していなかったかもしれない、しかし、やむにやまれぬ思いで、高価な香油をぶちまけるという方法でキリストへの感謝を表したのです。それは単に感謝というより、主イエスに救われた者としての義務ですらあったとカルバンはいいます。

 そもそも、キリストが犠牲の小羊として捧げられる、神の御子が捧げられる、それほど、高価な犠牲が歴史上あったでしょうか。主イエスがその命を捧げて、私たちを新しい出エジプトといえる、救いを成就してくださる、そのことへの感謝の応答をすることは救われた者として、むしろ当然の義務である、カルヴァンはそのことを美しく語りました。御霊の息吹に導かれて、つまり頭で理解したことではなく、聖霊によって、この女性は導かれてキリストへの愛を注ぎだしたのです。愛をそのまま、ぶちまけたといっていい。なぜなら最初に高価すぎるくらいに高価な愛を自分に注ぎだしてくださったのはキリストだからです。

 そもそも、愛という言葉の前で、値段の高い安いということが問題とされること、それはおかしなことではないでしょうか。すぐる週、共にお読みしました聖書箇所に、最も小さな者への小さな業のことが記されていました。そこで主イエスは、あなたたちは身を粉にして、すべてを犠牲にして大きな愛の業をしなさいとはおっしゃっていなかった。自分でもそれと気づかないような愛とも呼べないような愛の業、コップ一杯の水を渡す程度の小さな業を神は目に留められることを共にお読みしました。そもそも愛の行為を人間のこの世的な尺度で図ることはできないのです。

 コップ一杯の水であれ、数百万円の香油であれ、そこに聖霊の息吹があって、その聖霊の息吹に素直に従ってなされたことを神は目に留められるのです。

 弟子たちは「高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」と言います。これはこの世の価値観としてはまっとうなことです。この香油を売ってそのお金で慈善行為を行えばたしかに多くに人が助かるでしょう。しかし、キリストが二日後に引き渡される、犠牲の小羊として引き渡される、そのことを前にして、今、なすべきことはなにか?聖霊がそのことをこの女性に指し示したのです。そのキリストの死を、その死への感謝をなにものにも代えがたい思いをそのままぶちまけよ、と。たしかに数百万円の香油をぶちまける行為は無駄に見えます。何の意味もないように感じます。この愛の行為は無謀で乱暴でばかげています。しかしなお、神の目に聖なる浪費なのです。なぜならば、主イエス・キリストご自身がいっさい罪がないのに、罪人として十字架にお掛になるということ自体、計算をするこの世の感覚でみたとき、無謀で乱暴でばかげたことだからです。しかし、そこにこそ、聖なる聖なる、愛がありました。

ですから私たちもその愛に応えます。そこに聖霊に導かれた切なる思いがあり、キリストへの愛があればそれは聖なるものなのです。そこには300デナリオンだの、コップ一杯の水だのという計算はないのです。逆に計算しているとき、そこには愛はありません。

 わたしたちが愛したのではありません。キリストが愛してくださいました。命を捧げて愛してくださいました。その愛に立つとき、私たちはそれぞれに、切なる思いで聖なる応答をなしていきます。


2017年1月8日主日礼拝説教 マタイによる福音書25章31~46節

2017-01-11 11:31:22 | マタイによる福音書

説教「右か左か」

<審判者は覆面警察か?>

 アドベントからしばらくマタイによる福音書からの連続公開説教を離れておりました。本日より、またマタイによる福音書に戻ります。さて、その本日の聖書箇所ですが、いろいろな意味で怖いことが書かれていると思うのです。

 まず第一に「裁き」ということについて書かれています。終わりの日の裁きです。このとき、すでに死んでいた者も生きている者も神の大法廷で裁かれる。裁きという言葉を聞いて、喜ばしい気持ちになる方はあまりおられないのではないかと思います。そこで羊と山羊が分けられる、右と左に分けられるというのです。そうなりますと、どうしても私たちは自分はどちらなのか羊なのか山羊なのか右なのか左なのか、と考え込んでしまいます。ここを読んで不安にならない人はあまりおられないと思います。キリスト者はすでにキリストの贖いの業のゆえ、罪を問われないので、自動的に終わりの日に羊にされるのだと信じていたとしても、今日の聖書箇所を読んで、私は絶対大丈夫と100%羊だ山羊だという自信を持てる方は少ないのではないでしょうか。

 そしてまた、今日の聖書箇所が怖い、もう一つの理由として、右か左かの判断基準として「最も小さい者へのあり方」が問われているように読めることです。本人にはそれと気づかないように最も小さな者の一人が私たちのもとにやってきて、その人に奉仕をしたら、それは「わたしにしたことだ」と栄光の座におられる審判者に認められて、審判の時に、右に入れられる。

 そうなりますと、今朝、急いでいるときに、駅で知らない人に道を聞かれたけれど、急いでたのでぞんざいに応えてしまった、ひょっとしたら道を聞いたあの人がもっとも小さい者のひとりだったかもしれない、あるいはおととい、悩みの相談の電話がかかってきたけど、こちらの体調が悪い時だったので途中で失礼して電話を切ってしまった、あれはまずかっただろうか、あの人がもっとも小さい者の一人だったかもしれない、とか、だんだんと疑心暗鬼になります。

 そうなりますと、たえず、だれかれに親切に親身にしてあげていないと、終わりの日に左に入れられてしまう、そのような恐れにとらわれてしまいませんか?なにか、覆面警察のように私たちの日々に審判者やその使いが、最も小さな人として来られて、その対応が手厚いかどうかチェックされるような感じがします。でも、そのような親切や善行を積み重ねていって点数を稼いでいかないと裁きの日に左に入れられるというのであれば、やはりそれはどこか福音として変です。私たちはそのような話を聞いて慰められることはありません。

<小さな者への行い>

 ここで、ポイントとなるのは、裁かれる人々は、誰も、自分が「最も小さな者の一人」と出会ったことを知らないということです。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いているのを見て飲み物を差し上げたでしょうか」と右に入れられた人々は驚いて聞きます。また「主よ、いつ、わたしたちは、あなたが飢えたり、乾いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話しなかったでしょうか」と左に入れられた人々も聞きます。右に入れられる人も、左に入れられる人も、「最も小さな者の一人」がだれで、そしてその人と出会ったとき、自分が何をしたのか覚えていないのです。ですから、ここで言えますことは、私たちが、審判者に対して、点数を稼ごうと、せっせと日頃から親切運動や慈善活動をしたからといって、それが審判の日の判断材料になるわけではないということです。わたしはこれだけ、困った人を助け、苦しむ人々のために奉仕をした、だから終わりの日に羊とされる、右に入れられる、そういうことでは根本的にないということです。

 私たちの意識に上らないようなところでの私たちの行いを審判者は見ておられるということです。ごくごく無意識的な自然な愛の行いをご覧になるのです。そしてそれは自分で良くやったと思えるような事柄ではないということです。そもそも点数稼ぎのための善行というのは、それは相手への愛ゆえの行いではなく、むしろ自己中心的な自己愛ゆえの行いだと言えます。

<小さな者とはだれか>

 そもそも「小さな者」という表現は、主イエスご自身は弟子たちに対して使っておられます。たとえば、マタイの10章42節「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水いっぱいでも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」とあります。つまり、小さい者というのはご自分を信じる者たち、弟子たちのことです。つまり私たちのことです。まず何より私たちのことを、小さな者としてその配慮の内にイエス様はおいていてくださるのです。私たちが冷たい水の一杯でも飲ませてもらえることを、つまり、受け入れられ、大事にされることを、まず主イエスは考えてくださっているのです。私たち自身が、小さな者として、渇きを癒され、飢えを満たされ、病から癒され、困難から救出されるべき者だと主イエスはお考えになっておられるのです。

 

 こんな光景はご覧になったことはないでしょうか?ようやく口が回るようになったくらいの小さな子供は、良く大人の、ことに親の口真似をします。たとえば自分が転んだりしたとき、すぐにお母さんがかけよってきて「よしよし、大丈夫、もう痛くないよ、強かったね」と言われていたとします。その子供が今度友達といる時、その友達が転んだとき、お母さんの口真似をして「よしよし、大丈夫、もう痛くないよ、強かったね」と言ったりします。完全に口真似なのですが、その子供なりに友達を心配しているのです。「よしよし、大丈夫」と友達を力づけているのです。その小さな子供は親の口真似をしているだけで、何か良い行動をして大人から褒められたいというわけでやっているのはないのです。でも自分が親から言ってもらって安心した言葉、うれしかった言葉を、そのまま友達に言っているのです。

 わたしたちもまた、神から小さな者として、恵みと配慮を受けてきました。今も受けています。そのことをほんとうに感謝をしているとき、親の口真似をする子供のように、神からされたことを、同じように誰かにしてあげたいと思うのではないでしょうか。けっして無理をしてなにかをするというのではありません。特別な親切運動や慈善運動というのではなく、神から小さな者として、いとしまれている、心にかけていただいている、その実感があるとき、私たちの日々はおのずと喜びの日々になります。そのとき、私たちの出会う人々にもその喜びがいつの間にか伝わっていく、良いことを一生懸命積み重ねていくのではなく、喜びの中に自然に生きていくとき、私たちは出会う人々に知らないうちに愛の行いをしているといえます。でもそれはほんとうにささやかなことであって、私はなにをしたともいえないことでしょう。

<小さな業を認めてくださる方>

 一方で私たちは別に審判の日のための点数を稼ごうというつもりではなくても、ごく自然な善意から人のためになにかをしたい、困っている人の力になりたいとも願います。目の前にたいへんな思いをしている人をみて、あるいはニュースで災害にあった人や事件に巻き込まれた人を見て、私たちは自然な感情として同情しますし、できることなら何か力になりたいと願います。その自然な感情を押し殺す必要はもちろんありません。

 しかし、私たちは、そのようなとき、同時に自分の非力さとも向き合います。現実に困っている人がいる、でもその人のために、たいした力にはなれない自分であることをふがいなく思います。それがテレビの向こうの人であってもそうですし、まして自分がよく知っている人、大事な人であれば、充分にその人の力になれない自分を情けなく思います。

 しかし、今日の聖書箇所で神が目に留めておられるのは喉の渇いた人にコップ一杯の水を与えるような小さな業です。そもそも神が目に留めてくださるのは私たちの小さな業なのです。神は私たちに大きな業を求めてはおられないのです。神に小さな者といとしく顧みていただいている私たちが、他の小さな者にコップ一杯の水を与えるほどのことです。それは親切だ愛だというまでもないようなささやかなことを神は求めておられるのです。

 もちろん十分な力になれない自分をふがいないと思う感情もまた自然なことで、それを無理に押し殺す必要はないのですが、人間が人間の尺度で、あの人を充分に助けよう、大きな力をもって人に奉仕をしようと思うとき、そこには自分自身が大きくなろうとする思いが入り込んできます。

 小さな者が小さな者へ、小さな業をするのではなく、人間はどうしても大きな業を目指してしまいます。大きな業はできなくても、もっと大きな業を、と目指してしまいます。善意であっても、やはりそこには、神の前でどうしても小さなくなれない自分がいるのです。大きな業を目指す自分がいます。なにごとかをなそうとする自分がいます。

 さらにいえば、小さい大きいということを、私たちのなすことの質や量を自分自身で測っていくとき、そこにはどうしても不純なものが入り込んでくるのです。

 先に申しましたように、終わりの日に問題とされていることは、なした本人たちすら記憶にないこと、なのです。私たちが自分たちの業の大きさを問題にするとき、逆に自分自身で自分を秘密警察のようにして自分のなすことのチェックをするようになります。自分で自分を縛っていくことになります。

<小さな者のための十字架>

 神はそういうことを求めておられるのではありません。「小さな者」というと、小さな子供のような、あるいは小さな動物のような愛くるしいかわいらしい者というイメージもあるかもしれません。しかし、ここでいう「小さな者」の言葉のニュアンスは、弱さとか、みじめさを含みます。助けがなければ生きていけない者です。神の助けがなければ生きていくことができない者です。そしてまた一方で、自分で自分の犯した失敗を、どうすることもできないものです。根本的な問題として、罪をどうすることもできない者です。それでいながら自分でどうにかできると思っていた、自分のことは自分でちゃんとやっていけると思っていた人間です。自分で何とかできる、その自分のやったことを数え上げていくような人間です。

<御国は準備されている>

 ところで、今日の聖書箇所はマタイによる福音書における主イエスご自身の教えの最後になります。次の26章からいよいよ主イエスは十字架にむかっていかれます。受難節、レントは今年は三月からになりますが、私たちはこれからちょうどその受難節に向かう時期に合わせるようにキリストの十字架への道のりを共に読んでいきます。

 その十字架の前の、主イエスご自身の教えとしては最後のものとして今日の聖書箇所は語られています。主イエスはここで言われています。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」ここで語られているのは、すでに御国が準備されて、あなたがたは祝福をされているということです。この言葉をこれから主イエスが十字架に向かわれるという文脈の中で読むとき、ここで主イエスが十字架によって実現されることをのべておられることが分ります。すでに御国が用意されている、キリストの十字架によって本来はそこに入ることのできなかった罪人である人間が皆そこへはいることができるようになる、祝福を受けるようになる、それはもう定められたことなのだとおっしゃっています。その祝福を受けるあなたたちは小さな者としてその喜びの内に小さな業を行うことができるはずだ、そのようにできるはずだ、そう主イエスはおっしゃっています。

 これは、主イエスの最初の教えの言葉でありました山上の説教を思い起こさせることでもあります。「心の貧しい人は幸いである。天の国はその人たちの者である」から始まる山上の説教は、心が貧しければ天の国が与えられるというような祝福を受けるための条件としての人間のあり方が語られているのではありませんでした。心の清い人は幸いである、その人たちは神を見る、心を清くしたら神を見ることができるというのではない、すでに私たちはキリストの到来とその十字架の業によって祝福を受けている、御国を約束されている、だからあなたがたは自らの貧しさを知りまた心を清らかにすることができるということでした。

 主イエスはその教えの最後におっしゃっているのです。あなたたちは御国が準備されている、だから小さな者として他の小さな者に小さな業をかならずできるのだ、とおっしゃってくださっているのです。


2017年1月1日主日礼拝説教 ルカによる福音書2章22~35節

2017-01-05 15:28:11 | ルカによる福音書

説教「万人のための救い」

 <聞きいれられた>

 新しい年が始まりました。2017年です。

 今日お読みしました聖書箇所にはシメオンという祭司が出てきます。シメオンは、おそらく主イエスの生前のみならず復活ののちペンテコステの日に聖霊が注がれる前までの時に、ただ一人、主イエスという存在の本質を理解していた人物であったと考えられます。洗礼者ヨハネも主イエスの道を備えた先見者でありましたが、シメオンは、主イエスの救い主、慰め主としての本質をもっと深く悟っていたと考えられます。主イエスのまことの降誕の意味を聖霊によって示されていた点において、シメオンは、最初の一人であったと考えられます。

 そもそも、シメオンとは「聞き入れられた」という意味です。新しい年、この一年、私たちも私たちの切なる願いが神に聞き入れられるようにと思います。

 さては、シメオンの願いの何が聞き入れられたのでしょうか。25節に「イスラエルの慰められるのを待ち望み」とあります。そうシメオンは待っていたのです。イスラエルが慰められる時を待っていました。彼はイスラエルが慰められますようにと願っていたのです。現実に、確かにイスラエルは慰められなければならない状況でした。シメオンの年齢は、はっきりと記されていませんが、おそらく高齢でしょう。彼はその長い人生において、イスラエルが独立を保っていた時代も知っていたでしょう、しかしその独立王朝が滅び、ローマに支配されるまでの歴史の流れの中で、血なまぐさい時代に翻弄されながら、生きて来たことでしょう。大国にいいようにもてあそばれ、イスラエル人ではない王をローマの傀儡としていただき、本来は神に選ばれた神の民であったイスラエルが、民族としての誇りもぼろぼろになっていた、そのイスラエルの地で、そのかたすみで、なおそのイスラエルの神に期待をしていたのです。

 シメオンは、イザヤがイザヤ書40章「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる」と預言した救い主メシアを待ち焦がれていたのです。その待ち焦がれる思いを神から与えられていました。「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」とあります。シメオンは、その生涯をメシアとの出会いに定められていた人であります。その生涯のすべてが、メシアと会う、その一点に絞られていた人でありました。そのような特別な神からの召しを受けた人でありました。

 シメオンにも、長い人生の中、さまざまな思いがあったことでしょう。祭司として神殿に仕えながら、宗教儀式に関わりながら、淡々と日々の為すべきことをなしながら、なおまことのイスラエルの救いを祈り求めていたことでしょう。シメオンは祭司という地位にありましたが、むしろ預言者として生きていたといえます。神の預言に、つまり神のご計画に、未来の希望に生きる人でありました。切に慰めを求めていた人でありました。

 慰めとはギリシャ語でパラクレーシスと言います。救いへの導きであるとか、励ます、また力が出るように安心させるというニュアンスがあります。日本語の慰めという言葉よりもっと積極的な意味があります。救いへ向かって、力へ向かって導いていくような強いイメージがあります。シメオンは慰め主パラクレートスをその両腕に抱きました。実際、その腕にいるのはただの力ない生後40日の赤ん坊です。貧しい夫婦の子供に過ぎない赤ん坊です。しかしなお、この赤ん坊にシメオンは見たのです。力強い救い主としての姿を、打ちひしがれているイスラエルとその民を奮い立たせる者である姿を。救いへと、力へと導く強い慰め主であるとそのみどりごを見て確信したのです。そして言います。「主よ、今こそあなたは、おことばどおり/このしもべを安らかに去らせてくださいます。」

 シメオンが新約聖書に登場するのはこの場面だけです。ただ律法の規定通り神殿に捧げられたみどりごイエスを両腕に抱いた、それだけの救い主との交わりでした。そしてそのひとときのために、そのひとときだけのためにシメオンの人生があったこと、それは今日的な価値観からしたらあっけないような、もう少しいろんなことがあってもいいのではないかとも思えることかもしれません。しかしそれだけに「このしもべを安らかに去らせてくださいます」という言葉は極めて大きな重みがあります。ただ救い主と出会う、それだけのためにシメオンは生きてきていた。そしてその願いは聞かれ、その救いを目の前に見た、両手で抱いた、もう良い、これで十分だ、彼の心は安らかにされたのです。

 彼の目に見えていたのはさきほども申し上げましたように貧しい夫婦の憐れな赤ん坊でした。律法によれば、赤ん坊を神殿に捧げる時、小羊を捧げないといけなかったのですが、貧しい夫婦は山鳩しか捧げることができなかったのです。職業的な祭司として、たくさんの、神殿に子供を捧げる夫婦を見て来たことでしょう。裕福な夫婦もたくさん見て来たことでしょう。しかしいまシメオンの前にいるのは、ただの貧しい若い夫婦です。

<異邦人を照らす光>

 しかし、聖霊によってシメオンは語ります。預言者として語ります。

 「これは万人のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」

 万人のために整えてくださった救い、異邦人を照らす啓示の光、この言葉はみどりごイエスの父と母を驚かせました。なぜなから彼らはこの幼子がダビデの末裔として特別な存在になることは天使ガブリエルから聞いていましたが、それはユダヤ人への救いと理解していたと考えられるからです。異邦人を照らす啓示の光、つまり、神の救いがイスラエルだけでなく、異邦人にも届けられる、これは当時のイスラエルでは考えられないことでした。しかし、この光はまさにシメオンの預言ののち、1000年以上の時を経て、この東方の島国にまで届いたのです。日本にまで届いたのです。そして、私たちも今また異邦人を照らす啓示の光の中に照らされています。

 これはイスラエルの人々にとって大きな転換点でした。理解しがたい転換点でした。救いは特別に選ばれた民イスラエルのもの、それが当たり前のことでした。こののち、ペンテコステののち本格的に福音伝道が開始されたのちであっても、使徒言行録などを読みますと、なお、異邦人への伝道は、当時の伝道者の間で問題となり物議をかもしたことがわかります。

  ところでパラダイムシフトという言葉が少し前よくつかわれていたと思います。このパラダイムという言葉自体にそもそもは深い意味があるようですけれど、広い意味では意識の変革とか社会構造の変化みたいに比較的軽く使われていたようです。会社員時代も、新規技術によるマーケットの変化をパラダイムシフトと呼んでいたりしました。 本来のパラダイムシフトというのは天動説が地動説に代わるような根本的な人文学的変化、あるいは生物学的史上における先カンブリア紀のカンブリア生命大爆発のような決定的な変化が起こるようなことです。聖書に記された神のご計画された歴史の中でもしパラダイムシフトという言葉を使うとするならば、シメオンが抱いたおさなごによって、起こったことがパラダイムシフトでありましょう。つまり神のご計画が一民族から異邦人への救いと全人類への救いへと一気に爆発的に広がったということです。神の救いということの価値観がまったく変わってしまったということです。

<私たちのパラダイムシフト> 

 しかし、そもそも神の業というのは人間にとって、一人の人間にとっても、根本的なパラダイムシフトを起こすものでした。マリアの母が主イエスを身ごもった時、ルカによる福音書の2章46節からマグニフィカートと呼ばれる神への賛美を歌いました。その中に「主はその腕で力をふるい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ・・」と歌っています。つまり自分のような辺境のガリラヤの貧しい女が神の目に留められ、いま、権力の座にある豊かな者身分の高い者が引き下ろされると歌っています。つまりここにも決定的な神によるパラダイムシフトが伝えられているのです。価値観がひっくり返ってしまう出来事を神は人間ひとりひとりに起こされるのです。

 母マリア自身、たしかに、すべてのことがひっくりかえる信仰的霊的な啓示を受けたのです。しかし話はそれにとどまりません。シメオンはマリアにいます。

「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ちあがらせたりするためにと定められ、また反対を受けるしるしとして定められている」

 救い主、万人のための救いである、このみどりごが、イスラエルの多くの人を倒したり立ちあがらせたりする、とシメオンは言いました。万人のための救いなのだから、本来は、万人が救われるはずです。万人がたちあがるはずです。しかし現実には、このみどりごによって倒される人々もいるということです。救いを受け取らない人々もいるということです。この万人への救いであるみどりごは、人を立たせもし、倒しもする、つまりこのみどりごのまえで人間は決断を迫られるということです。救いを受け入れる者は立ちあがり、救いが来たのに受け入れないものは倒されるのです。

 さらにシメオンは言います。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人々の心にある思いがあらわにされるためです。」

 多くの人々にある思いは、やがてこのみどりごを十字架に付けようとする思いとしてあらわれます。救いを拒否し、30年後のこのみどりごを「十字架に付けよ」と叫ぶ心です。そのあらわにされた人間の罪の前で母マリアの心は貫かれます。

 しかし、また私たちの心も貫かれます。

 私たちがまことに救いを受け入れていくとき、私たちもまた私たちのうちなる罪の思いが露わにされ、貫かれます。しかし貫かれたゆえ、私たちは立たされました。罪によって倒れていた私たちは立ちあがることができるようになったのです。倒れていた私たちが立ちあがるようにされた、それこそが救いであり、慰めです。慰めは力へと向かう強い言葉だと申し上げました。倒れていた私たちは万人を照らす光のうちに力を得て立ちあがるようにと慰めの言葉をいただきました。キリストと出会い、罪の心を刺し貫かれました。そして新しくされました。立ち上がらることができました。これこそ神によるパラダイムシフトです。

 新しい一年が始まりました。

 私たちは立ちあがります。まったく新しい歴史の中に立ちあがって行きます。起きよ光を放て、イザヤ書60章のことばは、私たちを万人を照らす光のなかに目覚めさせるものです。私たちは万人を照らすキリストの光のうちに、2017年を目覚めて生きていきます。世界は混沌として、私たちの日々も明日のことは分かりません。しかしなお、いま万人を照らす光の中に私たちはあります。その光の前で罪の心を貫かれ、新しくされ、日々新しくされ、起き上がります。

 世界は変わって行くでしょう。日本も変わって行くでしょう。劇的な変化、とんでもないことが起こるかもしれません。しかし、すでにキリストによって、新しくされている私たちはやがてキリストがふたたび来られるその日まで揺らぐことなく力強く生きていきます。

 シメオンはたしかに願いを聞き入れられました、イスラエルの慰められるのをまっていたシメオンは、イスラエルのみならず、万人の慰めを見たのです。私たちの願いも聞き入れられます。キリストの前で決断し、キリストを受け入れ信じる者の願いは聞き入れられます。そして神の業は私たちの願いを越えるものです。シメオンの願いがシメオンの願いを越えて聞き入れられたように、私たちの願いも、私たちの願いを越えて、もっと豊かにもっと大きくもっと光を放つ神の業として私たちの前におかれます。

 大いなる期待をもって歩みましょう。


2016年12月25日主日礼拝説教 ルカによる福音書2章8~20節

2017-01-05 15:15:37 | ルカによる福音書

説教「飼い葉桶の救い主」

<ある国でのクリスマス>

 7,8年前でしたか、12月にある国に出張に行ったことがあります。この国はキリスト教を迫害している国でした。しかし、教会の数はとても多く、クリスチャン数もかなりの数になるそうです。そのほとんどが非合法な地下教会につながるクリスチャンです。迫害と言っても、大きな迫害を加えるのは特殊な時で、通常は見て見ぬふりをしているようです。そんな国のそれほど大きくない町に仕事で行った時、知識としてキリスト教を迫害しているというのがあったのですが、町にある商店の壁に日本で言うと年末セールみたいな宣伝ポスターが貼ってありました。わたしはその国の字は読めないのですが、クリスマスツリーのような絵も書かれていて、あ、これはクリスマスセールのポスターなんだと思いました。キリスト教を公には認めていない国の町で、ごく普通にクリスマスセールがされている、なんだか妙な気分でした。2016年、今年も、日本で、世界で、クリスマスが祝われています。その祝い方はさまざまです。日本では、もう今晩、スーパーマーケットに行ったら一気にお正月の雰囲気になっていることでしょう。クリスマスがいっきにどこかに行ってしまいます。日本でのクリスマスの扱いも、本質的にはキリスト教を迫害している国とさほど変わりません、経済効果のみを期待した扱いであるように感じます。しかしなお、どのような扱いを人間がしようと、神はそういうこともすべてご存知で、なお、救い主がこの世界に与えられたことを告げ知らせられます。2000年前から現在に至るまで、キリストの到来は途切れることなく告げ知らされ続けました。人間がそれを無視しようと、あるいは別の目的で利用しようと、なおキリストの到来は告げ知らされてきました。教会において告げ知らされたのです。キリストの体なる教会で神が働き告げ知らせておられるのです。

<クリスマスへ態度>

 現代でも、キリストの降誕に関して、人々の態度はさまざまですが、2000年前、救い主イエス・キリストがお生まれになった当時も、そのことに関していろいろな人が関わりました。いうまでもなく、もっとも重大な関わりを持ったのは、母マリアでしょう。彼女はほかならぬ神の御子をみずからの体内に身ごもったのです。そしてそのマリアを妻として迎えるヨセフ、さらにはすぐる週、共にお読みしました洗礼者ヨハネとその両親、そのほかに、さまざまな人がさまざまな在り方で救い主の誕生と関わっています。

 今日お読みしたルカではなくマタイによる福音書には、東方からやってきた博士たちがユダヤ人の王が生まれたことをエルサレムのヘロデ王に告げると、ヘロデ王やエルサレムの人々は不安になったと記されています。救い主、新しい王の誕生を聞いたヘロデ王はイエス・キリストを亡きものにしようとすらしたのです。

 つまり、すべての人々を救うために来られた救い主が、すべての人々から大歓迎されたわけではない、そう聖書に記されています。むしろ、ほとんどの人には知られず、一部の者からは猛烈な嫌悪感を持って迎えられたのが神の御子の誕生であり、私たちの救い主の降誕でした。そしてそのことは2000年前の遠い国の出来事ではありません。さきほど申しましたように今日においてもやはりそうなのです。イエス・キリストをどう考え、どのように自分の態度を決めるかというのは千差万別なのです

<顧みてくださる神>

 今日お読みいただいた聖書箇所は毎年のようにクリスマスの時期に読まれる箇所でもあります。讃美歌「まきびとひつじ」に歌われている場面です。「まきびとひつじ」は英語の題名では「ファーストノエル」。つまりはじめてのクリスマスということになります。はじめての救い主への礼拝ということです。その初めてキリストを礼拝したのが羊飼いたちだったと聖書は記しています。本来、羊飼いたちは、羊から離れることはできません。夜も羊を守らなければなりません。ですから野宿をして夜通し番をしていたのです。当然、律法で定められた安息日も守れません。当時の人々から見たら、生活の面でも宗教的な面でもさげずまれていた人々でした。その人々に初めてのクリスマスが告げ知らされました。辺境の土地、誰からも顧みられないガリラヤ地方の貧しい少女マリアに天使ガブリエルが現れたように、神はここでも、誰からも顧みられない人々のうえに素晴らしい知らせを届けられました。

 私たちは、そのことを毎年のように繰り返し聞きながら、すべての人を顧みてくださるお方、神様って素晴らしいと思います。たしかにそうです。でも神様が素晴らしいのは、マリアを顧みられたからでも、洗礼者ヨハネの母を顧みられたからでも、羊飼いたちを顧みられたからでもありません。ほかならぬ私、自分を顧みてくださったからです。ここにいる一人一人が個別に神に顧みられたのです。今も顧みられています。

 私たち自身が、暗闇の中にいました。野宿をしている羊飼いのようによるべなく日々を送っていたのです。神を知らなかった私たちは本当の平安を知ることがありませんでした。そんなわたしたちにクリスマスの出来事が告げ知らされたのです、私たちの上にも天使がやってきて、私たちも天使と天の大群の讃美の声を聞いたのです。これは遠い遠い国のおとぎ話ではありません。私たちの物語です。

 そんなことはない、私は野宿をしているわけでもない。セレブや大金持ちではないけれど、それなりにちゃんと社会生活を送っている。天使などやってきていないし、まばゆい神の栄光も見ていない、天使と天の大群の讃美など聞いたこともない。そう言われるかも知れません。たしかにこの耳で天使のお告げは聞かなかったかもしれません。まばゆい神の栄光を見ることはなかったかもしれません。天の大群の讃美は聞こえなかったかもしれません。しかし、いまここにいる私たち一人一人に最初のクリスマス、ファーストノエルがあったのです。そして繰り返し繰り返しクリスマスの出来事は告げ知らされています。そしてそれは個人的な神秘体験ではありません。

<わたしのファーストノエル>

 今年は12月25日が日曜日で、クリスマスの当日にクリスマス礼拝をお捧げすることができています。日本のプロテスタントの教会の多くは、通常なら25日の前で25日に一番近い日曜にクリスマス礼拝をお捧げします。そして年内にもう1週日曜日の礼拝があり、元旦の礼拝と続いていきます。でも今年は今日が年内最後の礼拝で、元旦は通常の主日礼拝となります。私が初めて教会の礼拝に行ったのは、25日が平日の年で、クリスマス礼拝の翌週の12月最後の礼拝でした。「クリスマス礼拝のときに初めて教会に行く人は多いですが、その翌週にはじめて教会にくる人は珍しい」とあとから言われました。珍しいと言われましても、その前の週がクリスマス礼拝だなんて、当時の私は知らなかったのです。たまたま教会に行きやすかったのが会社が冬休みに入った最初の日曜日だったのです。クリスマス礼拝には100人以上が集う教会でしたから、おそらく前の週の礼拝やら祝会はさぞにぎやかだったことでしょう。それに対して年内最後の礼拝は、帰省する人などもいて、人数も少なく、寂しい礼拝だったかもしれません。そういうことは当時の私にはよくわかりませんでした。たしか説教の箇所もぜんぜんクリスマスとは関係のない旧約聖書のモーセの話だった記憶があります。

 でも、クリスマスの讃美歌もページェントもごちそうもない地味な日曜日でしたけど、私はあの時、ファーストノエルを体験したのだと思います。礼拝において、飼い葉おけに眠っている幼子イエスに出会ったのだと思います。

 なぜそういえるのか?

 その翌日から、一気にというわけではないのですが、それからわたしの生活は変わって行ったからです。最初は興味半分で礼拝に行ったようなところもありました。でも気がつくと毎週礼拝に行くようになっていました。やがて洗礼を受けました。その直後、職場と家庭で大きな変化がありました。劇的というのではないですが、確実に、わたしの中のなにかが変わって行き、また私を取り巻く環境が変わって来ました。

 その変化の基点にあるのは、地味な、寂しい12月最後の礼拝がありました。そのときは、ああ礼拝ってこんなものかと、ただ「ふーん」と自分では聞いていたつもりでした。でもそのとき、すでに飼い葉桶のみどりごはわたしの救い主となられるためにわたしと出会ってくださったのです。

<羊飼いたちの行動>

さて、2000年前の羊飼いたちは天使のお告げを聞いて、ただちに行動を起こしました。仕事をそのままにしてベツレヘムへ向かいました。もういてもたっても居られなかったのです。神が語りかけてくださった、そのことを見に行こうではないか、すぐに行こうではないか、神に語られた人はすぐに行動を起こすのです。明日、とか、来週ではないのです。創世記のアブラハムの物語で大事な大事な息子イサクを捧げよと夜神に言われたアブラハムは翌朝、すぐに旅立ちました。マリアを妻として迎えなさいと告げられたヨセフもすぐにマリアを妻として迎えました。羊飼いたちもすぐにベツレヘムへ向かいました。

そこでまさに見たのです。飼い葉おけに眠っている赤ん坊を。神の救いの業を見たのです。ある方はこの場面をけっして美しい場面ではなかったであろうとおっしゃっています。わたしもそう思います。クリスマスのページェントでは美しく描かれる場面ですが、そのようなものではなかったでしょう。若い夫婦が初めての出産を体験したのです。それだけでもたいへんなことです。2000年前であれば今以上に出産にともなう危険は大きかったでしょう。しかも、若い貧しい夫婦は長い苦しい旅をしてきました、そして子供を産むにはふさわしくない非衛生的な環境でどうにか子供が生まれてきた。飼い葉おけに寝かされていた赤ん坊は、貧しさとこの世の暗さのただ中に生れて来たのです。この世の悲惨のゆえにそのような生まれ方しかできなかったのです。その飼い葉桶のみどり子を羊飼いたちは見ました。普通に見たら悲惨なかわいそうな赤ん坊でしかないみどりごを見たのです。しかし、羊飼いたちはそこに神の業を見ました。そして羊飼いたちは帰って行きました。元の場所に帰って行ったのです。

帰って行った彼らの生活が表面的には変わったわけではありません。羊飼いが別のものになったわけではありません。羊飼いは羊飼いのまま、やはりそれからも野宿をしながら羊の世話をしながら、たいへんな生活をしつづけたのです。救い主を見たから大金持ちになったとか、出世したということはないのです。でもやはり彼らは元の自分たちの生活に帰りながら、なお変えられたのです。

救い主と出会った者は変えられるのです。人々からさげずまれていた彼らは人々に自分たちが体験したことを伝えたのです。社会的な地位の低かった彼らは仕事などで必要な事柄以上は、世間の人々と話をすることはあまりなかったでしょう。そんな彼らが飼い葉おけにおられた救い主のことを人々に伝えました。伝えずにはいられなかったのです。そのように変えられました。そんな彼らの言葉を人々は不思議に思ったとあります。これは驚いた、びっくりしたということです。でも聖書はそれを聞いた人々が、聞いて驚いた人々が、さらにヨセフとマリアのもとへ飼い葉桶の主イエスを見ようと押しかけた、とは書いていません。多くの人々の主イエスへの姿勢は、すぐに救い主を見に行った羊飼いたちと同じではなかったのです。おそらく多くの人は、クリスマスを体験することができなかったのです。

<わたしたちのファーストノエル>

 いま、私たちはクリスマスを体験しています。飼い葉桶のキリストと共にあります。それは、私たちもまたここからそれぞれの場所へ送りだされるためです。私たちの住む地上にはたくさんの悲惨があります。私たちの人生にも悲惨があります。罪の悲惨があります。その悲惨を平和へと祝福へと変えてくださる、それが飼い葉おけに寝かされているみどりごの主イエスです。やがて十字架に向かわれるキリストです。悲惨な世界に悲惨な形でおうまれになったキリストです。しかしそのことのゆえに私たちは私たちの悲惨から救われています。そして変えられていきます。それぞれの場所に私たちは戻ります。昨日と何一つ変わらない日々に。でも飼い葉おけに寝かされた赤ん坊によってその日々は変えられていきます。飼い葉おけに寝かされた赤ん坊を礼拝した者たちはすでに希望を持って生きていきます。クリスマスに与えられた希望のゆえに、本来は悲惨でみじめな非衛生的な馬小屋の場面が、礼拝をする者にとって喜びに満ちた美しい場面となるのです。