大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ペトロの手紙Ⅱ第3章1~18節

2021-12-26 15:07:34 | ペトロの手紙Ⅱ

2021年12月26日日大阪東教会主日礼拝説教「キリストはふたたび来られる」吉浦玲子 

 先週、私たちはクリスマスの祝いをいたしました。クリスマスの祝いは、この世界に救い主であるキリストを遣わしてくださったことを感謝すると同時に、ふたたびお越しになるキリストを待ち望む希望を確認することです。本日の聖書箇所は、再臨について語られており、降誕節に読むにふさわしい箇所であると言えます。そしてまた、今日は2021年最後の礼拝ですが、新年を迎えるにあたって、私たちの希望の源を確認するためにも味わうべき聖書箇所であると言えます。 

 ところで、今に始まったことではないのですが、とはいえ最近とみに増えていることが、異端からの電話や郵送での勧誘です。場合によっては訪問してきて、牧師である私に対して、勧誘しようとすらします。彼らは一見正統的なキリスト教のふりをして、「聖書セミナー」や「修養会」と称して一緒に勉強しましょうと牧師にも信徒にも誘いの言葉をかけるのです。十分に注意をしていただきたいと思っています。彼らは三位一体の神を信じていませんし、キリストについても正統的な解釈をしません。ただ、そのあたりを突っ込んで聞いても、うまくはぐらかされます。言葉巧みに、あなたたちと同じ信仰なのだと最初は安心させて勧誘して、実際のところは全く違う異端の教えに引っ張り込もうとしているのです。彼らの勧誘スキルはかなり高いので、基本的には絶対に関わらないという態度が大事です。下手に戦って論破しようと思っても、特別に訓練されている人々ですから、かえってつけこまれることになります。そういう異端で多くあるのは、その教派のリーダーや教祖が、再臨のキリストとされていることです。普通に聞くとばかばかしいことですが、それを素朴に信じている人々もいます。 

 ペトロの手紙Ⅱが書かれた時代、2世紀にも、怪しげな論説は多く流れていたようです。そういう怪しげな論説に惑わされないためには、きちんと、聖書の教理を身に着けておく必要があります。そしてそれ以上に、キリストの復活ということを信仰において確信していることが大事です。復活のキリストと出会い、導かれているという信仰体験を積み重ねていくことが大事なのです。そのような信仰体験の積み重ねがないと、外からの異端に対しても、教会内に潜む異端的な言説にも私たちは対抗できません。実際、多くの教会内に異端的な言説を語る者たちはいます。そのような者たちによって教会は内側から破壊されます。破壊されると言っても最初から目に見える形で壊されていくのではなく、緩やかに穏やかに異端的な言説が入り込んできて、気がつくと、教会の本質が脅かされるのです。やがてそれが目に見える形での分裂や争い、あるいは教会が教会でないものに変質する発端となるのです。私たちは復活のキリストと出会い、信仰体験を積み重ねているからこそ、終わりの日のキリストの再臨、そして私たち自身の肉体の復活、神の国の完成を信じることができるのです。なんとなくぼんやりと天国で楽しく暮らすというような形で復活や再臨のことを思っているようでは、怪しげな論説に軽々と流されてしまいます。ことに再臨の希望があやふやなところでは異端的な考えに容易に流されてしまいます。新興宗教の教祖様を再臨のイエスだと思うようになるのです。異端や新興宗教でなくても、大阪東教会にも、そのような危険な状況はいくたびかありました。ペトロ、そしてパウロの時代にも危険な言説に流されてしまった人々は多くあったようです。 

 ただ、再臨について言えば、再臨を強く語る教派もある反面、逆に再臨ということをあまり強く言わない教派もあります。改革長老教会もどちらかというと後者かもしれません。もちろん信仰の希望の源に再臨があるのですが、再臨について直接語られることは少ないかもしれません。いろいろな理由がありますが、ひとつには再臨については黙示録などで語られてはいますが、それはあくまでも「黙示」であり、明確には語られていないからです。語られていないというより語りえないことだと言えます。実際、主イエスご自身が「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存知である」とおっしゃっているように、いつどのようにということは具体的には明かされていないことなのです。それを、見てきたかのようにあれこれ語ることは父なる神のご計画を軽んじることであるという背景があります。 

 だからといって、再臨などないといったり、すでに再臨は起こったなどということは間違っています。4節「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか」そのような声が2世紀にもあったのです。父たちというのは初代の信徒たちのことを指します。初代の信徒たちは再臨の希望を語ったが、まだ再臨は起こってはいないではないかという批判が強くあったのです。ことにパウロの書簡を読むと、パウロは自分たちが生きているうちに再臨が起こると考えていたふしがあります。それゆえに、その後の世代の人々の中には、初代の使徒たちの時代に再臨が起こらなかったではないか、彼らの言うことなどあてにならないという言葉が出て来たのです。 

 しかしこういう言葉は突き詰めれば、神に従って生きるという選択をしたくない人々の言い逃れに過ぎないとペトロは語っています。少しわかりにくいのですが5節から7節に書かれていることは裁きとの関わりです。5節に水という言葉が出てきますが、これは聖書の時代では、水というものが特別な存在として考えられていたことによります。当時の宇宙観では、地は水の上にあったのです。「その世界は水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました」とノアの時代の洪水のことが語られています。つまり人間の罪のゆえにかつて裁きが起こったことが語られているのです。そしてまた次は火による滅び、つまり終わりの日の裁きが起こるのだとペトロは語ります。つまり神の裁きということを信じていないから、終わりの日など来ないというのだとペトロは説明しています。 

 裁きがないということになれば、人間は放縦に生きることになります。逆に放縦に生きたいからこそ、裁きなどない、終わりの日などない、キリストの再臨などないと語るのだというのです。パウロがコリントの信徒への手紙の中でイザヤ書を引用して「もし、死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります」と語っているように、裁きがなく、肉体の死ですべてが終わりならば、命ある時に好きに生きたらよいということになります。 

 しかしだからといって、じゃあ私たちは裁きが怖いからこの世にあって身を慎んで生きるのでしょうか?地獄に行きたくない、ばちが当たらないようにと、行いを正すのでしょうか?それは違います。どうせ死ぬのだから食べたり飲んだりしよう好き勝手に生きようということも、地獄に行きたくないから立派に生きようということも、いずれにしてもそこには希望がありません。喜びがありません。 

 そもそもキリストの到来は、喜びの知らせであったはずです。良き知らせでした。私たちがこの世においても、やがて来るべき、神の国においても、喜びにあるための知らせでした。ただその良きこと、喜びということの認識については確認しておく必要があります。私たちが私たちの好きに生きることが良いことで、喜びであるとするなら、ペトロが語ることは理解できません。好きに生きるというのは先ほど申しました放縦に生きるということとは違います。それなりの善意や倫理観に基づいて社会的責任を果たしたうえで、自らの生きがいを求めて生きるということです。多くの人々が普通にしていることであると言えるでしょう。 

 では私たちキリスト者は、一般の人々より高い倫理観で生きなければいけないということでしょうか?そうではありません。私たちはただただキリストを「主」として生きるのです。「主」とは主人ということです。「主」とは聖書の時代、奴隷にとっての主人を指す言葉でした。私たちはキリストを主人として生きます。しかしそれは、みじめな奴隷としてではなく、神から本当の自由をいただいて、神の僕、キリストのものとして生きるということです。キリスト、つまり私たちの新しい主人は、愛と慈しみと憐れみをもって私たちを導いてくださるお方です。かつての奴隷の主人は多くの場合、鞭をもって奴隷を懲らしめ従わせる主人でした。しかし、私たちの主人であるキリストは、愛をもって、そしてまた忍耐をもって私たちを導いてくださるお方です。キリスト者は洗礼を受けた時、キリストを主として受け入れました。キリストの愛の導きに従うこと、自分の人生の主人公は自分ではなくキリストであることを受け入れました。 

 ですから私たちはキリストが行けとおっしゃる方向に行き、キリストがご命令されることを為します。不思議なことに、そこには自分の意思がないように見えて、むしろ、もっとも自分らしい喜びに満ちた歩みが開かれるのです。しかしまた一方で、洗礼を受け、キリストを主として受け入れたからといって、やはり自分中心で生きていきたいという願いは私たちには根強くあります。困った時には助けてほしいけど、普段は放っておいてほしい、自分のことは自分でやります、という思いをもって生きる傾向があります。自分には自分なりに生きがいもあるし、この世での使命もありますから、イエス様はご心配なくという思いでいることもあるかもしれません。そのような私たちを神であるキリストは忍耐強く待っていてくださいます。15節「また、私たちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい」とペトロは語ります。私たちはキリストを主として受け入れながら、まだ完全にはすべてのことをキリストにお任せできない状態であるかもしれません。それでも忍耐強くキリストは待っていてくださいます。そこに私たちの救いがあります。 

 一方、今日の聖書箇所の最初のところで「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ」と嘲る人々がいると語られていました。私たちはそのように嘲りはしませんが、主の再臨が遅い、再臨の時まで忍耐できるだろうかと不安に思うことはあるかもしれません。しかし、むしろ忍耐なさっているのは神の方なのです。神は忍耐強く、私たちの悔い改めと成長を待ってくださっているのです。一人でも多くの人がキリストを信じ、そしてまたキリストの再臨を信じ、その再臨の時に滅びることがないように、神はこの罪の世界を忍耐しておられるのです。「神は、その独り子をお与えになったように世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と福音書にあるように、神のその愛ゆえ、今も、忍耐しておられるのです。 

 16節「無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています」と語られています。これはかつてパウロが語ったことを理解できない人々への言葉です。「無学」とペトロは語りますが、むしろ現代においては、自分は賢い、知識があると自負している人こそ、パウロの言葉も聖書の真理も理解できないことが多いのです。教会の中においてもそうです。 

 17節に堅固な足場とありますが、その足場は神に与えられるもの、聖霊によって示されるものです。私たちはその堅固な足場を失ってはなりません。神が私たちを愛されていること、私たちは神に愛されている子供であること、そして私たちはキリストのものであること、キリストのものであるゆえ、どのようなときでも私たちには慰めが与えられること、それが足場です。2022年がどのような年になるかは分かりません。しかし、私たちには堅固な足場があります。どのようなときも神の慰めがあります。「わたしが、生きている時も死ぬ時も、私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものであること」それが慰めだとハイデルベルク信仰問答は語ります。生きる時も死ぬ時も良き時も試練の時も、その慰め、たしかな足場の上に、新しい年もキリストのものとして、キリストを主として歩んでいきます。そのとき再臨は輝く希望となります。 


ペトロの手紙Ⅱ第2章11~22節

2021-12-12 13:57:23 | ペトロの手紙Ⅱ

2021年12月12日大阪東教会主日礼拝説教「誘惑は滅びの門」吉浦玲子 

 今日の聖書箇所も少し怖いような過激な言葉が多く書かれています。教会に入り込んで来た悪しき者たちへの激しい非難が並んでいます。主を待ち望むアドベントの時期にそぐわないように思われるかもしれませんが、私たちを惑わし、神の恵みから引き離す存在に対して声の限りに忠告されています。前の週にも申し上げましたように、この手紙が成立した2世紀の深刻な状況が背景にあったのでしょう。当時、グノーシスなどの異端がはびこっていました。「彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています。彼らは汚れやきずのようなもので」と激しい言葉があります。キリスト教はパレスチナの狭い地域から飛び出し、各地に広がっていました。それは同時に多くの異教に囲まれた環境の中にキリスト教があったということです。そこには多くの誘惑があったと思われます。なにより面倒なのは、教会の外の誘惑以上に、教会の中に、そのような誘惑や異教的なもの異端的なものが入り込んでくることです。昼間から享楽にふけるというと性的放縦も含んだかなりいかがわしいことのようです。実際そういうこともあったのでしょう。今日の聖書箇所で描かれているのはかなりの悪徳のように思えます。 

 しかし私たちは注意をしたいのです。私たちは昼日中から、一般的に言ういかがわしいことはしないかもしれません。しっかりと社会生活をしている、常識的な健康的な生活をしているかもしれません。しかし、そこにしっかりと神の方を向いた生活がなければ、社会通念上は何ら問題のない生活をしていたとしても、クリスチャンは<上品な冷たさ>や<和やかな排他性>を持つ場合があります。それは教会が陥りやすいところです。一見、厳粛でかっちりした雰囲気のなかに、まことの愛がなく、交わりを排除する冷たさ、そんな「上品な冷たさ」を教会が持つ場合があります。あるいは一見、なごやかで和気あいあいとした雰囲気でありながら、異質なものを排除して同質なものしか受け入れない多様性を排除していく、内輪で固まって外から入りづらい、「和やかな排他性」の傾向も教会は持ちがちです。もちろん教会は、神の言葉によって一致をするのであって、人間的なつながりで一致をするわけではありません。一方、神はすべての人を救うために御子をこの世界に確かに送られました。ですから、教会はすべての人に扉を開きます。しかし、同時にそこには神への誠実な応答も求められます。神への誠実な応答をする共同体が教会です。そこにはまことの神の愛に根差したあり方がおのずと生じるはずです。しかし、残念ながら教会の中に、<上品な冷たさ>や<和やかな排他性>といったことがうまれてくることがあります。これは、ペトロのいうひどい悪徳とは異なるかもしれません。しかし、共同体の中の人々をまことの神から引き離していく、かなり根強い悪であることにおいて変わりはありません。御言葉を求めてくる人を御言葉から引き離し、排除していくことの罪はとてつもなく大きいのです。 

 なぜそのようなことが生じるかというと、最初の神の救いの出来事、さらに言えば神との出会いの出来事を忘れているからです。いま、アドベント、クリスマスを待ち望む季節です。聖書には2000年前にこの地上の人間の歴史の中にたしかに到来されたイエス・キリストの出来事が記されています。神が人となってこの地上にお越しになった。それは2000年前のことでしたが、キリストの到来は21世紀に生きる私たち一人一人のためでもありました。次週のクリスマス礼拝では一名の高校生が洗礼をお受けになります。その方のところにもたしかにキリストが来られたのです。そしてまた私たち一人一人のところにもたしかにキリストが来られました。私たちは、一人一人、異なったあり方で、ある人には劇的に、ある人にはいつの間にかいう感じで、到来したキリストと出会いました。それぞれに最初のクリスマス、ファーストクリスマスがありました。私たちはすでにキリストと出会っているのです。そして新しい命をいだだきました。さらに、自分で意識するとしないに関わらず、キリストと出会った者は変えられます。自分では変わっていないと思っても変えられているのです 

 しかしまた、自分が変わったかどうかなど、ある意味、どうでもよいのです。キリストと出会い、キリストと共に歩んでいる私たちは、どれほど恵みを受けているか、どれほど神の祝福の内に生かされているか、そのあふれるばかりの恵みと祝福に感謝をする、感謝をして神を賛美する、そちらのほうがはるかに重要なのです。日々、守られている、助けられている、一つ一つは些細なことでも、その中に神の奇跡を見ていく、そのことがとても大切なのです。いま、アドベント、そしてまた一年の最後の月です。皆さんは、今年、どのような神の奇跡と出会われたでしょうか?どのような神の恵みを感じられたでしょうか? 

 日々、神の恵みを数えつつ、神の助けを感謝しつつ歩む時、神を賛美して歩む時、私たちは、右にも左にも逸れることなく、信仰生活を行っていくことができます。いえ、極端に言えば、私たちは右に左に逸れて良いのです。神に対して疑問に思ってもいいのです。さまざまな思いなやみの中で、忙しさの中で、神のことを忘れていることもあるかもしれない。でも、日々たえず立ち帰るのです。神を忘れていた自分から、神を向く自分に方向転換をするのです。神へ向き直る、回心する、神へと向きを変える、そうすると見えてくるのです。自分の上に確かに働かれている神の力を。そのとき、私たちは、よい意味で神を畏れ、へりくだって生きることができます。そのとき、ペトロのいうような悪徳からも守られますし、「上品な冷たさ」にも「和やかな排他性」にも陥りません。 

 ところで、私は18年前のクリスマスの後の12月最終週に初めて教会に行き、翌年のペンテコステで洗礼を受けました。ちなみに洗礼を受けた時、牧師からクリスマスのときに初めて教会に来る人は多いけれど、クリスマスの翌週から来た人は珍しいと言われました。クリスマスの翌週から教会に行き始めたので、洗礼を受けた年のクリスマスが、初めての教会でのクリスマスでした。クリスマス礼拝では聖歌隊で奉仕をしてたいへん緊張しましたが、その後の愛餐会では、教会学校の子供たちの劇やら、クリスマスで受洗した人のお祝いやら、にぎやかな雰囲気がありました。特に、印象的だったのは、当時40代だった男性牧師を中心にした壮年男子の方々が黒人霊歌を歌われ、それが大変盛り上がったことです。その雰囲気を言葉ではうまくお伝えすることはできないのですが、40代から70代の男性が、とても上手に黒人霊歌を歌われたのです。黒人霊歌といってもクリスマスらしいたいへん陽気な曲でした。歌の歌詞の中で「アーメン」という言葉が、南部なまりで「エイメン」と歌われるのですが、男性たちがとてもうれしそうに「エイメン」「エイメン」と歌うのです。牧師先生がギターで伴奏をして、それはそれは楽しそうに歌われました。ふだんは難しい神学議論をしているような男性やら、どう見ても普段は仲の悪い役員さん同士も、ひどく盛り上がって歌っておられました。ほんとうに楽しそうで、実際、聞いている人も盛り上がって、何度もアンコールがでて、最後には牧師先生の声が枯れるくらいにぎやかに歌っておられました。それを見ながら、横にいた年配のご婦人が感心して「あの男の人たちしらふだよね、お酒なしで、なんであんなに盛り上がれるんだろう」と笑っておっしゃっていて、私もたしかにそうだなと思いました。当時は私は会社員で、よく飲みに行ったり、二次会でカラオケに行ったりしていたのですが、そういう飲み会やカラオケのお酒の入った盛り上がりとは違う盛り上がりがそこにありました。私自身、その年に洗礼を受けたばかりで、まだ教会になじんではいなくて、愛餐会でも、周囲に親しい人もいなくて、どちらかというとぽつんと浮いていたのですが、それでもなんだか楽しかった記憶があります。これが教会のクリスマスというものか、と思いました。懐かしい思い出です。もちろん、私の母教会に「上品な冷たさ」や「和やかな排他性」がまったくなかったとは言えないとも思うのです。それは教会が陥りやすい罪だからです。しかし、日々、神に立ち帰りながら歩む時、教会も個人も守られるのです。そしてもう一つ言えば、神への賛美があるところには悪しきものは入り込めないのです。「エイメン」「エイメン」と共に賛美をするとき、人間的な仲の良さとか、対立を越えて、神の恵みが注がれます。 

 ところで、カルヴァンは礼拝における賛美が情感に流れるのを嫌いました。ですから、礼拝の音楽を、詩編歌のみにしていた時期があると言われます。音楽には音楽そのものに心を慰めたり、逆に鼓舞したりする効果があります。カルヴァンは音楽の力をよくよく知っていたのです。神を賛美するのではなく、音楽そのものに心が酔ってしまうことをカルヴァンは危惧したのです。「エイメン」と盛り上がっていた愛餐会は神を賛美していたのか音楽で単純に盛り上がっていたのか、客観的な判断は難しいところですが、飲み会の後のカラオケの盛り上がりとはもちろん違いましたし、長く良い思い出として残っているので神を賛美する心があそこにはあったのではないかと思います。ただ私たちは神を賛美する時ですら、神よりも自分の気持ちを大事にしてしまうこともあることはわきまえておくべきではあります。もちろん自分の心を大事にすること自体は良いことです。しかし、賛美は神へ向けるべきものであることをわきまえつつ、賛美をします。神へ感謝しつつ賛美をします。よく「聖霊に酔え」と言いますが、お酒や自分の気持ちに酔うのではなく、聖霊に導かれて聖霊に酔って賛美します。使徒言行録で聖霊に導かれて福音を語っている弟子たちを「彼らは酒に酔っているのだ」と悪口を言う人々もあったことが記されています。それが真の賛美であるかどうかは外側からは分かりにくいとしても、私たちは賛美をします。そして神に立ち帰ります。 

 ペトロは「わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれ打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります」と語ります。私たちはたえず悪しき力に巻き込まれそうになります。「上品な冷たさ」「和やかな排他性」を持ってしまいがちになります。神に救われながら、隣人を救いから引き離す行いをすることは、自分自身を「前よりずっと悪い」状態に置くことになります。そうならないために、私たちはたえず神に立ち帰ります。そしてたえず素直に喜びをもって神を賛美します。 

 クリスマスは、私たちが救い主のもとに、立ち帰る時です。そして心からなる賛美を捧げる時です。ちまたにはたくさんのクリスマスソングが流れています。私たちが歌うより、もっと上手な歌や演奏があふれているかもしれません。でも私たちは素朴に素直に神に心を向けて歌います。賛美をします。神はその賛美を、私たちからの心からなるよきなだめの香りとしてうけとってくださいます。そして私たちは良き力によって守られます。 


ペトロの手紙Ⅱ第2章1~10節

2021-12-05 15:23:49 | ペトロの手紙Ⅱ

2021年12月5日大阪東教会主日礼拝説教「真理を歪める者」吉浦玲子 

 季節外れの話題ですが、今年は庭の奉仕をしてくださる方がまいてくださったひまわりがたいへん大きく育って、2メートルを越えるような高さになって、そしてまたとても長い期間、11月までも花を咲かせてくれました。福音書の中に、「からし種」のたとえ話が出てきます。からし種はとても小さな種だけれども、成長すると大木になる、小さな信仰もそのように成長することができるというたとえです。からし種の種を実際に見たことがありますが、ほんとうに小さくて、ゴマ粒よりも小さな種でした。ひまわりの種はからし種よりはずっと大きな種です。教会学校の生徒さんが、花のあとから種をとってくれましたが、薄い楕円形の1センチから2センチほどの大きさの種です。からし種より大きいと言っても、種は小さなものです。その小さな種から、身長の高い男性でも見上げるくらいの高さのものが成長するというのは驚きます。茎も支えをしなくても2メートルの高さを自分で支えるようにがっちりとしているんです。花のあと、切り倒すのがけっこう大変だったとお聞きしています。小さな種が大きく育つ、それは植物の神秘です。そしてそれは同時に命の神秘でもあります。吹けば飛ぶような種の中に、命があるのです。その命は豊かに大きく成長をするのです。同じような大きさや形の砂や石や鉄くずからは当然ながら何も生まれません。命がないからです。信仰もまた、命を持っています。命のない信仰はないのです。血の通った生き生きとした信仰は、神の命によって生かされています。私たちは、信仰の命を神からいただきました。また、その命は、キリストによって与えられた命と言っていいでしょう。クリスマス、キリストの到来は、私たちがまことに命の信仰に生かされるためのものものでした。 

 ところで、今から8年前の12月にこの大阪東教会で日本基督教団大阪教区の准允式がありました。私自身もそのとき准允を受領いたしました。そしてまた5年前に按手礼式がやはりこの会堂で行われ、私は按手を受けました。実は、自分が仕えている教会で准允・按手共に受けるというのは珍しいことです。いずれの時も、当日、120名もの人々がこの会堂に集いました。それまで、いくたびも無牧を経験し、教勢も落ちていたこの教会に、ひとときとはいえ、入りきれないくらい人々が集いました。神の憐れみが注がれた出来事であったと言えます。今日は新たに任職された執事の任職式がのちほど行われます。牧師、伝道師、長老、執事、それぞれに役割は異なりますが、それぞれに神によって立てられた者です。牧師も長老も執事もそれぞれに立てられるにあたって、テストであったり選挙であったり推薦であったりといったプロセスがあります。そのプロセスは人間が決めて人間の思いによって進められているように感じるかもしれません。もちろん、そこに人間の思惑やさまざまな事情というものはあります。そういったものがまったくないなんてことは逆にないのです。しかし、神に立てられるということは、そのような人間の思惑や事情を越えた出来事なのです。そのことを私たちはしっかりわきまえて教会生活を行わなくてはなりません。人間の思惑や事情というものを越えて、私たちの信仰や教会には神の力が働くのです。そこに信仰の命があるからです。逆に信仰の命がなければ、人間の思いだけですべてが進んでいき、個人の信仰も、信仰共同体である教会も壊れていくのです。 

 今日の聖書箇所には偽預言者、偽教師という言葉が出てきます。神の言葉を歪めて伝えるのが偽預言者であり、神の真理を偽って語るのが偽教師です。この偽預言者や偽教師は、当然、神から立てられた者でも、神から遣わされた者でもありません。旧約聖書の時代、繰り返し偽預言者が現れました。神に遣わされた本当の預言者は、イザヤにしてもエレミヤにしても、神へ立ち帰るように人々に語りました。神を軽んじていた人々に対して警告を送ったのです。それに対して、偽預言者は、人びとにおもねった言葉を語りました。人々が聞きたい言葉を語ったのです。「大丈夫だ、神はあなたたちを救ってくださる。イスラエルは滅びたりしない」「あなたたちは今のままでいい、神は愛の深い方だ、イスラエルはこれからも繁栄する」そういう言葉を語ったのです。一方で、「このままでは神の裁きが下る、国が亡びるぞ」と、神から遣わされた預言者たちは声をあげました。しかし、神から遣わされた預言者たちがどれほど声をあげても、人々は聞きませんでした。信仰の命を失った者たちは、自分の聞きたい言葉を聞きたいのです。神の言葉ではなく、自分の耳に心地よい言葉を聞きたいのです。それはひととき心地よく響いても命はなく、死へと、滅びへと人々を向かわせる言葉です。 

 そしてまた新約聖書の時代、ペトロやパウロたちの時代に偽教師は現れたのです。たとえば彼らは「律法を守らなくてはいけない」「割礼を受けなくてはいけない」と語りました。これらは、一見、宗教的でまじめな言葉のように聞こえます。しかし、キリストが完全に成し遂げてくださった救いの業を軽んじ、人間の行いによって救いを勝ち取らなくてはならないという教えであり、福音を根っこから否定する言葉です。そのようなことを語る偽りの教師たちが教会の中に入り込んで来たのです。また特にこのペトロの手紙Ⅱの時代はグノーシスという人間の知恵を重んじる異端が入り込んで来ていました。しかし、いずれにしても、旧約の時代の偽預言者たちは、国を破滅へと向かわせました。それに対して、新約時代の偽教師は、教会の中に対立を生じさせたかもしれませんが、旧約時代の偽預言者より、さほど害は大きくないと思われるでしょうか?そうではありません。偽教師も偽預言者も、神の救い、神の命から人間を引き離す存在です。せっかく神が命へと導いてくださっているのに、偽預言者や偽教師は人間を死へ導くのです。 

 いま、アドベントを私たちは迎えています。世の中もクリスマスモードのこの時期、教会でも、クリスマスにふさわしく、天使やマリアや羊飼いたちの話をしたら、クリスマスを待ち望む喜びが増し加わるように思います。正直、今週と来週の聖書箇所は、まったくクリスマスらしくない箇所のように思えるかもしれません。 

 でも、皆さんに考えていただきたいのです。キリストは何のために来てくださったのか?いうまでもなく、皆さんに、救いを、命を与えるために来られたのです。私たちが罪による滅びではなく、信仰によって永遠の命を得ることができるように救い主が来られた、それがクリスマスでした。飼い葉桶に寝かされた赤ん坊は、布にくるまれていました。それは死者をくるむ布を暗示していました。つまり生まれたばかりの赤ん坊は、死の陰を帯びて飼い葉桶に眠っていたのです。キリストは死ぬためにお生まれになったからです。もちろん私たちの日々も肉体の死に向かって進んでいます。私たちもいつか死にます。しかし、キリストが死を帯びて、死者を包む布にくるまって、この世界に来られたということはまったく違う意味を持っています。キリストはご自身の死をもって、すべての人間に命をお与えになるために来られたからです。その命は福音を信じることによって与えられます。福音は命を与えるのです。しかし、福音ならざるものは命を与えないのです。宗教的に立派な生き方をしても、人に親切にしても、身を粉にして誰かのために働いたとしても、そこには命がないのです。そしてまた信仰の命のないところに、愛はないのです。 

 主イエスの時代、立派な宗教家であったファリサイ派が目の前にいる腕の動かない人や中風の人への憐れみよりも、安息日の規則を優先したように、命のない信仰は、愛のない形式的な教条主義になります。本来の安息日は神から人間に与えられた平安であったはずなのに、宗教的に生きようとしていた人々は、むしろ神の愛から離れていったのです。 

 今日の聖書箇所で、ペトロは、偽預言者や偽教師への批判をしています。偽教師は、現代の教会にも入り込んできます。ペトロの言葉を読みますと「みだらな楽しみ」とか「嘘偽り」という言葉があり、いかに偽教師がよこしまな者であるかが強調されています。しかし、実際に偽教師というのは、偽教師の顔をして入り込んでくるのではないのです。柔和で親切で謙遜そうな態度で入り込んでくるのです。おそらく本人にもまったく悪気はないのです。むしろ本人は信仰的な思いに満ちてすらいるのです。そして彼らは聖書の言葉を語ります。愛や福音という言葉を語るのです。十字架の犠牲だって語ります。ですから多くの場合、すぐには判別できないのです。一つの手立てとしては、教理的な基礎をしっかりともっておくということがあります。愛や十字架を語りながら、偽教師の言葉は、突き詰めると教理的に破たんしているからです。偽教師は、三位一体や復活をきちんと理解していないということが往々にしてあります。 

 ただ、理屈で彼らを論破しようと思っても難しいところがあります。理屈と理屈で対抗しても不毛になることが多いのです。信仰の本質は聖霊によって与えられる真理に支えられているからです。2000年前に降誕されたキリストが神であること、処女懐胎や肉体の復活などという非科学的な事柄を理屈で語ろうと思っても困難です。そこは信仰的な事項だからです。人間の理性ではとらえられない事項だからです。 

 では私たちは偽教師に対してなすすべがないのでしょうか。そうではありません。私たち自身の信仰の命を十分に養っていくことによって、悪しき教え、歪んだ信仰姿勢に対抗することができます。ウィルスや細菌に対して特効薬がなくても、人間の側のもともとの基礎体力や免疫力が十分にあれば撃退できるように、私たちは自らの信仰の健やかさが養われているとき、偽教師に引きずられたりしなくなります。その養いは、信仰の命を与えてくださる神ご自身がなさってくださることです。その神への信頼に固く立つことが大事です。神を信頼し「我らを試みにあわせず悪より救い出したまえ」と祈り続けることが必要です。私たち自身の信仰が健やかであれば、偽教師がどれほどフレンドリーに近づいて来ても、それに教理的に対抗できなくても、なんらかの違和感を感じ取ることができます。表面的なあたたかさ、和やかさの奥にある、自己中心性や傲慢さを感じとることができます。 

 もちろん無理に感じ取る必要はありません。私たちはひたすら神に信頼して、自らの信仰の命を養っていただきます。信仰の命の養いの源は礼拝です。御言葉の礼拝につながっているとき、信仰は豊かに養われます。み言葉を聞くことはお勉強ではありません。聖霊によって今日の私自身に与えられる命の糧としていただくのです。悔い改めと恵みを与えられるのが命の言葉です。新しく生きようという思いをもって礼拝の場からそれぞれの生活の場へと戻るのです。そして、共に御言葉を聞き、共に聖餐に与る共同体にある時、私たちは物理的な交わりを越えて、まことの愛の交わりのなかに入れられます。今日、聖餐式を行いますが、そこで、十字架で死なれ、肉体をもって復活されたイエス・キリストと出会います。飼い葉桶に布をまかれて寝かされていた御子が、まさに私たちに命を与えてくださった、そのことを聖餐において覚えます。そして、御子を与えてくださった神の愛に触れます。人間が勝手に考える形式的な宗教ではない、まことの神の愛が示されます。まことの神の愛が示されたのがクリスマスの出来事です。その愛に触れましょう。聖餐において触れさせていただきましょう。その愛に触れる時、私たちの信仰の命は豊かに息づくのです。 


ペトロの手紙Ⅱ第1章16~21節「そこに明りはある」

2021-11-21 16:32:06 | ペトロの手紙Ⅱ

2021年11月21日大阪東教会主日礼拝説教「明りはそこにある」吉浦玲子 

 次週からアドベントが始まります。クリスマス前の4週がアドベントです。待降節、クリスマスを待ち望む季節です。教会の暦はこのアドベントから始まります。長老教会ではあまり教会暦ということを言いませんが、教会の一年はアドベントから始まるのです。ですから、今週はまさに教会が新しい年に向かっていく時であり、心を新たにして信仰生活を整えるべき時です。私自身は、アドベントから聖書通読を新たに始めたいと思って、この時期、遅れていた予定を取り戻すべく焦って大量に聖書を読んだりすることもあります。しかし、そういう形だけのことではなく、私たちがほんとうに今このときに覚えなければいけないことは、キリストを中心にしっかりと立つということです。そのキリストはどなたなのかということを繰り返しわきまえねばなりません。 

 ペトロは「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨」と語っています。「力に満ちた来臨」は原文では端的に「力と来臨」となっています。まさにキリストは2000年前にこの地上に来臨されました。そしてキリストは力だったのです。みなさんにとって、キリストは力に満ちてお越しになられたでしょうか?それは力そのものだった。そして皆さんのところへもキリストは来られた、力に満ちて、力そのもののお方として来られました。 

 旧約聖書の時代、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、シナイ山で神の顕現を目の当たりにします。それは全山が煙に包まれ、煙は炉の煙のように立ち上がり山全体が激しく震えた、という恐ろしい場面でした。まさに神の来臨のすさまじい力を思い知らされたのです。旧約の時代の神のイメージというのは、シナイ山での顕現に象徴されるように力と威厳に満ちたものですが、新約の時代では、「やさしいイエス様」というイメージになるかと思います。もちろん旧約と新約で神様が違うということはありません。神の愛と憐れみも、また力と威厳も、旧約であれ新約であれ変わりません。ただ、人間の繰り返される罪にもかかわらず、人間の救いのために来臨された主イエスのイメージが「やさしいイエス様」のイメージが強くなるのは、ある意味、間違っていないのです。 

 しかし、私たちは忘れてはならないのです。キリストは神そのもののお方であり、力そのもののお方であることを。ペトロはそれを巧みな作り話を用いて知らせたわけではありませんと語ります。そして「わたしたちはキリストの威光を目撃したのです」と言います。ここは原文では、わたしたちはキリストの威光の目撃者だと語っているのです。確かに彼は目撃者でした。 

 何を目撃したかというと、福音書の中に語られています主イエスが山の上でお姿が変わられた、いわゆる「山上での変容」でした。ペトロとヤコブとヨハネが主イエスと共に山に登ると、主イエスのお姿が光り輝くお姿に変わり、さらにそこにはモーセとエリヤまで現れたという出来事です。もともと福音書の中で主イエスの外見的な様子は語られていません。たとえば、主イエスに先立って現れた洗礼者ヨハネはらくだの毛衣をきて革の帯を締めていたと書かれています。当時としては際立った特徴的な外見をしていたのです。しかし、主イエスの関してはそのようなことは書かれていません。つまり、特徴的な外見はおそらくなかったということです。しかし、山の上でお姿が変わった時、「顔は太陽のように輝き、服までが光のように白くなった」と描かれています。ある意味、主イエスが神らしいお姿をなさっていたのは福音書中ではこの場面だけであると言えます。十字架の場面でも、さらには復活の場面ですら、外見的な輝かしさ、特徴は伝えられていないのです。 

 しかしまた、逆に言いますと、作り話ではないとペトロは語りますが、ある意味、山上の変容の場面は、その話が他の主イエスのエピソードと比べ、主イエスのお姿に際立った違いがあるだけに、また旧約の時代の有名人が登場することとあいまって、ある意味、作り話めいて感じられる場面であるとも思います。もちろん福音書には主イエスによってなされたたくさんの奇跡の話はあります。水をぶどう酒に変えたり、病を癒したり、嵐を静めたりという場面はあります。しかしそれは、そこにいる苦しんでいる人間、悲しんでいる人間への救いや助けのための奇跡でした。もちろんそこには、実際のところ、たいへんな神の力と威光があるわけですが、山全体が轟くような神の威厳の現れということとは少しイメージが異なります。 

 しかし、ペトロが山上の変容をここで語っていることにはもちろん意味があります。それは、今日の聖書箇所には直接語られていませんが、先ほど申し上げましたように、この場面にはモーセとエリヤが出て来るのです。モーセは旧約聖書における律法を象徴し、エリヤは預言を象徴します。この場面で、モーセとエリヤの姿はやがてかき消え、主イエスだけが残られます。つまり旧約の「預言と律法」の時代から、主イエスの時代へと大きく時代が変わったことが山上の変容の場面では語られているのです。そしてペトロ自身、今日の聖書箇所で、主イエスの来臨は聖書の預言の言葉の成就であることを語っています。2000年前、突然、主イエスがお越しになったのではない、旧約の時代からの神の救いの歴史の中でお越しになったのだとペトロは語っています。シナイ山でモーセの前に顕現された神、あるいはホレブで預言者エリヤに語りかけられた神と断絶した神ではない神として、力に満ちた神としてキリストはお越しになったのだと語られているのです。 

 そしてまたモーセやエリヤは人間ですが、キリストは神から来られた神、子なる神です。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声をペトロはたしかにきいたのだと語ります。つまり神が律法や預言を通してではなく、救い主である主イエスご自身が私たちと出会ってくださる時代がやってきたことが語られています。恐ろしく轟く山ではなく、私たちの日常の日々に共にいてくださる神として来られたことが語られています。しかしだからといって、神は神であり、誉れと栄光に満ちておられる方なのです。私たちはそのことを忘れてはならないのです。これからクリスマスに向け、飼い葉桶に眠るかわいらしい赤ん坊のイエス様、天使と星に満ちたメルヘンのような降誕の物語が街にあふれます。それは人間が受け取りやすいイメージとして流通しているのです。しかし、私たちは、神を神として拝せねばなりません。ここにいる私たちはもちろんメルヘンチックなクリスマスを求めてはいないかもしれません。しかし心のどこかに、神を誉れと栄光に満ちたお方、力あるお方としてではなく、自分にとって心地の良い、受け取りやすい神としてイメージしていないかということは考えねばなりません。それは神を偶像化していることでもあります。もちろん、逆に怖い神、悪いことをしたらばちを当てられる神、自分の言動をひとつひとつ査定されるような神として考えることも間違っています。 

 「~ねばなりません」とか「間違っています」というように、少し強い口調で語っていますが、これは、私たちの希望がここにかかっているから申し上げています。信仰の喜びがここにかかっていると申し上げてもいいかもしれません。「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意をしていてください」そうペトロは語っています。夜が明け、明けの明星が昇るというのはキリストの再臨のときです。この世界の救いが完成する時です。しかし、すでにキリストはこの世界に来られ、ともし火をわたしたちの心に灯されました。私たちはたしかに暗い所に今置かれています。不条理や不公平に満ちた世界に生きています。ことにコロナの状況も分からない中、すっきりと心晴れやかになりにくい毎日です。しかし、たしかに私たちはともし火を灯されています。 

 むかし、信徒であったころ、8キロほど離れた教会まで自転車で通っていました。神崎川の川沿いの自転車道を走っていってたのです。ある冬の日曜日、前日、夜に雪が降っていたので積もっていないか心配したのですが、屋根には少し雪が残っていましたが、道路は全く大丈夫だったので自転車でいつものように礼拝に向かいました。しかし、地上の道から神崎川の自転車道に降りてびっくりしました。自転車道は雪がいちめんに積もっていたのです。川沿いは冷えて、雪が溶けていなかったのです。これは自転車で行くのは無理だと感じました。しかし今から別ルートでいくと遅刻してしまうとも思いました。見ると、足もとから一筋に幅10センチほどの雪が溶けた部分がありました。その部分は雪もなく凍ってもいませんでした。それがずっと教会方面に向かって続いている感じです。それが途中で途切れていたら積もっている雪の中立ち往生してしまうことになりますが、えいやっと思い切って、その10センチほどの幅のところをずっと走って行きました。その雪の溶けたところは、教会に近くの地上へののぼり口のところまでありました。そこから先はありませんでした。その時は無邪気に教会までの道を神様が整えてくださったのだと感じました。実際のところはたまたま誰かが、雪の中を先にバイクかなんかで走って行かれた跡かもしれません。しかし、ちょうど、私が走るその区間だけ、雪の溶けた部分があったことは忘れられません。それは出エジプトの民が目の当たりにした山がとどろく神の威光とはスケールが違うことかもしれません。海が割れるような奇跡でもありません。しかし、私はまっしろな一面の雪の中に一筋雪のない部分があった、その一筋のなかに神の力を今でも感じます。凍える川沿いの道に、そこだけまさにともし火が灯されたような思いで思い起こします。 

 「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。」とペトロは語ります。しかし私たちはどうしても自分勝手に、自分が理解できる範囲で神をとらえてしまいます。やさしいやさしいイエス様であったり、怖い神様であったりします。山上の変容の場面で、ペトロは、主イエスとモーセとエリヤのために三つの小屋を作ろうと言いました。三人のそこにいてほしいと願ったのです。これは人間が人間の都合のよいところに神にいてほしいという思いの表れでもありました。神は人間の都合のよい場所に住まわれたり、人間の勝手なイメージに合わせて存在させているわけではありません。 

 「なぜなら、預言は、決して人間の意思に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです」とペトロは語ります。神のなさることは人間の意思や思いをはるかに超えていることです。人間の願いをはるかに超えた祝福を与えられるのが神です。昨日の青年会でイザヤ書の40章を黙想しました。「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。/エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。/罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた」という有名な聖句です。救いの到来の預言です。罪に罪を重ねてきたイスラエルの罪が償われ、それまでの罪に倍する報い、つまり祝福が与えられるという預言です。これは神に背いた罪のためにイスラエルが滅びバビロンに捕囚となっていた民への解放の預言でありました。そしてまた同時に、やがて来られるキリストによる罪からの解放の預言でした。ある未信徒の青年が「それまでの罪に倍する報い」が赦しや祝福であることに驚いていました。たしかにそうです。罪の報いとして罰や苦しみが与えられるならば理屈として合います。しかし、そうではない。罪の報いが赦しであり祝福なのです。しかも罪と同量ではなく、倍もくださる、そこに神の人間の理屈では考えられないご計画があります。人間が考えるやさしさやおもいやりといったものをはるかに超える報いを神はくださる、それこそが私たちの希望の源であり光です。そこに救いがあり慰めがあります。 

 教会のフェンスや建物などに先週より電飾を灯していただきました。大阪の街の華やかな電飾に比べたらささやかなものですが、近隣の方には喜んでいただけているようです。日の暮れの早いこの季節、仕事帰りの方々に神がともしてくださるともし火を少しでも感じていただけたらと思います。私たちの心にはすでにともし火が灯されています。アドベントはそのともし火をこの世界に掲げる季節です。 

 

 

 

 


ペトロの手紙Ⅱ第1章12~15節

2021-11-14 16:21:40 | ペトロの手紙Ⅱ

2021年11月14日大阪東教会主日礼拝説教「あなたが世を去ったあとも」吉浦玲子 

 昨日、まだ十代の少年ーその実績からして少年などと軽々しく呼んではいけない感じですが―が将棋の世界で4つ目のタイトルを取ったというニュースが流れました。将棋のことはまったく分からないながら、とんでもないことなのだろうなと感じました。世の中には将棋の世界のみならず、とびぬけた才能で、記録に残る人々、歴史に残る人々がいます。 

 翻って聖書の世界を見ますと、たしかに優れた人物は出てきます。ダビデやソロモンはイスラエルに帝国を打ち立てました。ダビデは戦争の天才であったと言えますし、ソロモンは行政においての天才であったといえます。しかし、ダビデもソロモンも聖書ではその天才性を称賛されているわけではありません。彼らの上に働かれた神の働きが記され、神の前にあって、ダビデもソロモンも罪人に過ぎなかったことが語られます。さらに新約聖書の時代の登場人物を見ますと、歴史的な観点でみて、特記すべき人々はいないように感じます。イエス様の弟子たちは、もちろん聖書の中では重要な人々ですけれど、彼らは王国を立てたわけでも、この世的において実際的な影響力があったわけでも実績をあげたわけでもありません。 

 今共にお読みしています手紙に名前を冠されているペトロにしても、主イエスの一番弟子であり、ローマ・カトリックにおいては初代教皇とされている人物です。プロテスタントの私たちにとって、偉大な信仰の先人ではありますが、一般的に言うところの天才や偉人というわけではありません。 

 昔、少し読んだキルゲゴールの本に、「天才と使徒(キリストに選ばれた弟子)は異なる」という文章があったと記憶しています。読んだ当時は、天才が羨ましくて天才に憧れていた頃なので、少し反発するような思いがありました。天才はすごいし、使徒より天才がいいと思いました。 

 もちろん、天才と使徒、どちらがいいというようなものではなく、全く異なるものです。天才というのは言ってみれば、神から特別な才能という賜物を与えられた人々です。使徒は、神に仕えること、福音を伝えることへの特別な召しを与えられた人々です。使徒というのは基本的にはキリストの直接の弟子たちに与えられた称号ですが、今日を生きる私たちもキリストの証し人として生きる時、福音を伝えていくとき、使徒的なあり方を受け継いでいるといえます。天才はごくごく一握りの人間しかなれないけれど、使徒的な生き方は、ある意味、誰でもできると言えるかもしれません。 

 今日の聖書箇所を読みますと、まさにペトロは使徒として語っています。使徒として何を語っているかというと「思い出せ」と語っているのです。今日の聖書箇所では三回「思い出す」という言葉をペトロは使っています。最初は「従って、わたしはいつも、これらのことをあなたがたに思い出させたいのです。」これは手紙の前の箇所を受けています。「信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」と語られていました。キリストにすでに招かれている者、選ばれた者としてふさわしく生きていきなさいということを思い出させたいというのです。そもそも、これらはここでペトロが語る前に皆さんは知っていたはずだというのです。「あなたがたは既に知っているし、授かった真理に基づいて生活しているのですが。」 

 ペトロは使徒であって天才ではありません。何か特別な才能で弟子たちに彼が真理を授けたわけではありません。真理に至るための方法を伝授したのでもありません。すでに神ご自身が授けてくださっている真理を思い出すように語っています。真理とはキリストであり、福音です。キリストに愛され、キリストに罪赦され、希望を与えられたことそのものです。 

 「わたしは、自分がこの体を仮の宿としている間、あなたがたにこれらのことを思い出させて、奮起させるべきだと考えています」また「自分が世を去った後もあなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらうように、わたしは努めます」使徒たるペトロは、その生涯をかけて、弟子たちが最初の信仰にとどまりつづけるように、最初の信仰を「思い出すように」語り続けました。ペトロの手紙Ⅱの最初で申し上げましたように、この手紙は新約聖書のなかでもっとも成立が遅い時期のものです。2世紀半ば、迫害の中で生きるキリスト者に、最初の信仰にとどまれ、最初に与えられた福音を思い出せと語られているのです。そのなかで、何か新しいことを知るのではなく、また、新しいものを手に入れるのではなく、私たちがすでに手にしていることを忘れるなというのです。 

 いま、会堂にいる私たちはすでにキリストによって福音の灯を心に灯された者です。まだ洗礼をお受けになっていない方も、すでにキリストによって招かれています。しかし、私たちは私たちの内に灯されているともし火がときどき分からなくなったり、弱まったりします。しかし、ペトロは、もともと灯されているともしびを思い起こしてほしいと言っているのです。使徒は、神によってすでに灯されているともしびを思い起こすために、消えかかった炭火に風を送るかのように言っているのです。 

 ところで、私がまだ洗礼を受けてそれほどたっていない頃のことです。当時、教会に少し癖のある年配の婦人がいました。彼女はトラブルメーカー的なところがありました。その人の言動で傷つく人がときどきありました。私自身、ある集会の時、かなり意地悪なことをされました。お子さんが障害をもっておられ、そのお子さんの障害に関わる製薬会社との裁判や親族との争いなど、苦しみ多い人生を送って来られた方でした。その方の言動にはそういう人生の背景があったのかもしれません。意地悪をする癖に、人恋しい思いの強い方で、その方がご病気で入院された時、なんとなくお見舞いに行かないといけないかなと思わされるようなところのある方でした。で、実際、お見舞いに行ったら行ったで、さんざん愚痴や不満ばかり聞かされる感じでした。それでも、帰り際には「また来てや、また来てや、絶対やで」とおっしゃるような方でした。やがてその方は天に召されました。その方は天に召される前に、伝道のために使って欲しいといくばくかのお金を教会に託されました。そのお金で教会は自動で照明が点灯する大きな看板を設置しました。教会は通りから少し奥まったとろこにあったので、遠くからも教会の場所を示すことのできる看板ができて、教会の場所が分かりやすくなりました。夜でも、あそこに教会があるということがはっきりわかるようになりました。そういう献金をされたから、というわけではないのですが、あの少々お付き合いするにはしんどかった方も、キリストに召された方だったのだなと思いました。こじつけめきますが、キリストによってともし火を与えられた方だったから教会を示す明かりをともされたのだと思います。年中、文句ばっかり言っておられ、けっして、模範的なクリスチャンというわけではなかったのですが、彼女もまたキリストによって、心に福音のともし火を灯され生きた方であったと思います。彼女の苦しみ多い人生の傍らにキリストがおられた、怒り、涙し、不満を言う彼女をキリストはいつも抱きしめられていた。「また来てや、絶対やで」とおっしゃっていた、その傍らにキリストがおられたと思います。 

 ペトロも、またパウロも、そしてまたこの教会の先人たちも、キリストによって福音の光を灯された人々でした。すばらしい才能を持った方や、この世でさまざまに貢献された人々もあったでしょう。家族にとってかけがえのない一人一人であったでしょう。また信仰生活においても、模範となるような方々も多くおられたことでしょう。しかし、キリストと共にある人生は、誰かに、キリストのことを知らせる人生であり、またキリストを思い出させる人生なのです。それはその一人一人の自然な生き方において為されることです。決して信仰者として模範的とは言えなかった「また来てや、絶対やで」とおっしゃった方もまた、その人なりのあり方でキリストを人々に思い起こさせてくださったと思います。 

 私たちがこの地上に残すのは人の記憶に残る記録ではありません。データとして残る歴史ではありません。神の歴史のなかに記される使徒的なあり方です。神によって選ばれ、キリストと共に歩んだ、そしてそのことを通して誰かにキリストを示した、キリストを思い出させた、それは神の歴史の中に確かに刻まれるのです。その歴史は、命の歴史です。冷たい死んだ記録としての歴史ではありません。一人一人が喜びの時も悲しみの時も、神の命の中で、生き生きと生かされたその命が脈々と受け継がれていく歴史です。 

 今日は逝去者記念礼拝です。私たちの教会の先人たちを導かれた神を覚え、神を讃えます。先人たちが神の歴史に記され、それぞれに光をともされ、命を継いで来てくださったことを覚えます。教会は命から命をつないでいく場所です。自分だけが救われればいいということではありません。自分だけが崇高な真理に到達したらよいということではありまえん。そこには本当の命はありません。冷たく滅びに至るむなしさだけがあります。 

 しかし、私たちの信仰は新しい命を生み出す信仰であり、教会は命が連綿と続いていく所です。新しい命を生み出さなかったとしたら、それは信仰共同体ではありません。自分たちだけが楽しく過ごせたら良いとするなら、それは教会ではありません。先人たちが、この地上の仮の宿におられたとき、のちに続く者たちに、キリストを示してくださったように、そして、キリストの命を手渡してくださったように、私たちも続く人々に信仰の命を手渡します。神に与えられた命は、自分の中で握りしめている時ではなく、誰かに手渡す時、輝くのです。 

 「また来てや」といったご婦人の話をまたすれば、その方は高校生の時、小さな伝道所の集会に出ていたそうです。その伝道所は、牧師でも宣教師でもない、一信徒の老婦人が、当時、教会のなかった地域にぜひ教会を立てたいと、所属教会の牧師にかけあって、副牧師や神学生を派遣してもらって、公民館のようなところ借りて伝道所として始めたところでした。高校生だったその方は、伝道所で一生懸命働いておられた老婦人から、「いまは借りている会館でやってるけど、いつか会堂を建てるねん、会堂のある教会にすんねん」という言葉を聞いたそうです。高校生だった女性は、こんな少人数でそんなことができるわけがないと笑ったそうです。でも老婦人は大まじめで、「いや、あそこに教会が建つ、あのあたりや」と指さされたそうです。高校生だった女性は、それを聞いて「ありえない」と思って大笑いしたそうです。その方はその後、その土地を離れ、20年後に戻って来られました。そして町を歩いていると、ある場所に教会がありました。その場所は、かつてあのおばあさんが「あそこに教会を建てる」と指さしていた場所でした。まさかと思って、教会に入って、牧師に聞くと、まさにあの老婦人が始めた伝道所が発展して、この教会になったのだというのです。その婦人は腰を抜かさんばかりに驚いて、その教会に通うようになったそうです。一老婦人がキリストを指さし、教会を建て、その老婦人からキリストを指し指めされた婦人が、教会を遠くからも指し示す夜に輝く看板を捧げられました。信仰がつながり、命が今も続いているのです。 

 多くの人間は天才ではなく、天才のようなまぶしい輝いはその人生にはないと思われるかもしれません。そうではないのです。私たちは、輝かされるのです。命を手渡していくとき、美しく輝かされるのです。神が輝かされるのです。神に特別な賜物をいただき、その才能を発揮する天才たちも確かにまぶしく美しい存在です。しかし、私たちもまた、美しく輝かされる存在です。信仰の命を手渡す者として輝かされるのです。すでに仮の宿を離れた方も、今仮の宿にいる私たちも、共に神によって輝かされています。