2021年12月26日日大阪東教会主日礼拝説教「キリストはふたたび来られる」吉浦玲子
先週、私たちはクリスマスの祝いをいたしました。クリスマスの祝いは、この世界に救い主であるキリストを遣わしてくださったことを感謝すると同時に、ふたたびお越しになるキリストを待ち望む希望を確認することです。本日の聖書箇所は、再臨について語られており、降誕節に読むにふさわしい箇所であると言えます。そしてまた、今日は2021年最後の礼拝ですが、新年を迎えるにあたって、私たちの希望の源を確認するためにも味わうべき聖書箇所であると言えます。
ところで、今に始まったことではないのですが、とはいえ最近とみに増えていることが、異端からの電話や郵送での勧誘です。場合によっては訪問してきて、牧師である私に対して、勧誘しようとすらします。彼らは一見正統的なキリスト教のふりをして、「聖書セミナー」や「修養会」と称して一緒に勉強しましょうと牧師にも信徒にも誘いの言葉をかけるのです。十分に注意をしていただきたいと思っています。彼らは三位一体の神を信じていませんし、キリストについても正統的な解釈をしません。ただ、そのあたりを突っ込んで聞いても、うまくはぐらかされます。言葉巧みに、あなたたちと同じ信仰なのだと最初は安心させて勧誘して、実際のところは全く違う異端の教えに引っ張り込もうとしているのです。彼らの勧誘スキルはかなり高いので、基本的には絶対に関わらないという態度が大事です。下手に戦って論破しようと思っても、特別に訓練されている人々ですから、かえってつけこまれることになります。そういう異端で多くあるのは、その教派のリーダーや教祖が、再臨のキリストとされていることです。普通に聞くとばかばかしいことですが、それを素朴に信じている人々もいます。
ペトロの手紙Ⅱが書かれた時代、2世紀にも、怪しげな論説は多く流れていたようです。そういう怪しげな論説に惑わされないためには、きちんと、聖書の教理を身に着けておく必要があります。そしてそれ以上に、キリストの復活ということを信仰において確信していることが大事です。復活のキリストと出会い、導かれているという信仰体験を積み重ねていくことが大事なのです。そのような信仰体験の積み重ねがないと、外からの異端に対しても、教会内に潜む異端的な言説にも私たちは対抗できません。実際、多くの教会内に異端的な言説を語る者たちはいます。そのような者たちによって教会は内側から破壊されます。破壊されると言っても最初から目に見える形で壊されていくのではなく、緩やかに穏やかに異端的な言説が入り込んできて、気がつくと、教会の本質が脅かされるのです。やがてそれが目に見える形での分裂や争い、あるいは教会が教会でないものに変質する発端となるのです。私たちは復活のキリストと出会い、信仰体験を積み重ねているからこそ、終わりの日のキリストの再臨、そして私たち自身の肉体の復活、神の国の完成を信じることができるのです。なんとなくぼんやりと天国で楽しく暮らすというような形で復活や再臨のことを思っているようでは、怪しげな論説に軽々と流されてしまいます。ことに再臨の希望があやふやなところでは異端的な考えに容易に流されてしまいます。新興宗教の教祖様を再臨のイエスだと思うようになるのです。異端や新興宗教でなくても、大阪東教会にも、そのような危険な状況はいくたびかありました。ペトロ、そしてパウロの時代にも危険な言説に流されてしまった人々は多くあったようです。
ただ、再臨について言えば、再臨を強く語る教派もある反面、逆に再臨ということをあまり強く言わない教派もあります。改革長老教会もどちらかというと後者かもしれません。もちろん信仰の希望の源に再臨があるのですが、再臨について直接語られることは少ないかもしれません。いろいろな理由がありますが、ひとつには再臨については黙示録などで語られてはいますが、それはあくまでも「黙示」であり、明確には語られていないからです。語られていないというより語りえないことだと言えます。実際、主イエスご自身が「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存知である」とおっしゃっているように、いつどのようにということは具体的には明かされていないことなのです。それを、見てきたかのようにあれこれ語ることは父なる神のご計画を軽んじることであるという背景があります。
だからといって、再臨などないといったり、すでに再臨は起こったなどということは間違っています。4節「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか」そのような声が2世紀にもあったのです。父たちというのは初代の信徒たちのことを指します。初代の信徒たちは再臨の希望を語ったが、まだ再臨は起こってはいないではないかという批判が強くあったのです。ことにパウロの書簡を読むと、パウロは自分たちが生きているうちに再臨が起こると考えていたふしがあります。それゆえに、その後の世代の人々の中には、初代の使徒たちの時代に再臨が起こらなかったではないか、彼らの言うことなどあてにならないという言葉が出て来たのです。
しかしこういう言葉は突き詰めれば、神に従って生きるという選択をしたくない人々の言い逃れに過ぎないとペトロは語っています。少しわかりにくいのですが5節から7節に書かれていることは裁きとの関わりです。5節に水という言葉が出てきますが、これは聖書の時代では、水というものが特別な存在として考えられていたことによります。当時の宇宙観では、地は水の上にあったのです。「その世界は水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました」とノアの時代の洪水のことが語られています。つまり人間の罪のゆえにかつて裁きが起こったことが語られているのです。そしてまた次は火による滅び、つまり終わりの日の裁きが起こるのだとペトロは語ります。つまり神の裁きということを信じていないから、終わりの日など来ないというのだとペトロは説明しています。
裁きがないということになれば、人間は放縦に生きることになります。逆に放縦に生きたいからこそ、裁きなどない、終わりの日などない、キリストの再臨などないと語るのだというのです。パウロがコリントの信徒への手紙の中でイザヤ書を引用して「もし、死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります」と語っているように、裁きがなく、肉体の死ですべてが終わりならば、命ある時に好きに生きたらよいということになります。
しかしだからといって、じゃあ私たちは裁きが怖いからこの世にあって身を慎んで生きるのでしょうか?地獄に行きたくない、ばちが当たらないようにと、行いを正すのでしょうか?それは違います。どうせ死ぬのだから食べたり飲んだりしよう好き勝手に生きようということも、地獄に行きたくないから立派に生きようということも、いずれにしてもそこには希望がありません。喜びがありません。
そもそもキリストの到来は、喜びの知らせであったはずです。良き知らせでした。私たちがこの世においても、やがて来るべき、神の国においても、喜びにあるための知らせでした。ただその良きこと、喜びということの認識については確認しておく必要があります。私たちが私たちの好きに生きることが良いことで、喜びであるとするなら、ペトロが語ることは理解できません。好きに生きるというのは先ほど申しました放縦に生きるということとは違います。それなりの善意や倫理観に基づいて社会的責任を果たしたうえで、自らの生きがいを求めて生きるということです。多くの人々が普通にしていることであると言えるでしょう。
では私たちキリスト者は、一般の人々より高い倫理観で生きなければいけないということでしょうか?そうではありません。私たちはただただキリストを「主」として生きるのです。「主」とは主人ということです。「主」とは聖書の時代、奴隷にとっての主人を指す言葉でした。私たちはキリストを主人として生きます。しかしそれは、みじめな奴隷としてではなく、神から本当の自由をいただいて、神の僕、キリストのものとして生きるということです。キリスト、つまり私たちの新しい主人は、愛と慈しみと憐れみをもって私たちを導いてくださるお方です。かつての奴隷の主人は多くの場合、鞭をもって奴隷を懲らしめ従わせる主人でした。しかし、私たちの主人であるキリストは、愛をもって、そしてまた忍耐をもって私たちを導いてくださるお方です。キリスト者は洗礼を受けた時、キリストを主として受け入れました。キリストの愛の導きに従うこと、自分の人生の主人公は自分ではなくキリストであることを受け入れました。
ですから私たちはキリストが行けとおっしゃる方向に行き、キリストがご命令されることを為します。不思議なことに、そこには自分の意思がないように見えて、むしろ、もっとも自分らしい喜びに満ちた歩みが開かれるのです。しかしまた一方で、洗礼を受け、キリストを主として受け入れたからといって、やはり自分中心で生きていきたいという願いは私たちには根強くあります。困った時には助けてほしいけど、普段は放っておいてほしい、自分のことは自分でやります、という思いをもって生きる傾向があります。自分には自分なりに生きがいもあるし、この世での使命もありますから、イエス様はご心配なくという思いでいることもあるかもしれません。そのような私たちを神であるキリストは忍耐強く待っていてくださいます。15節「また、私たちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい」とペトロは語ります。私たちはキリストを主として受け入れながら、まだ完全にはすべてのことをキリストにお任せできない状態であるかもしれません。それでも忍耐強くキリストは待っていてくださいます。そこに私たちの救いがあります。
一方、今日の聖書箇所の最初のところで「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ」と嘲る人々がいると語られていました。私たちはそのように嘲りはしませんが、主の再臨が遅い、再臨の時まで忍耐できるだろうかと不安に思うことはあるかもしれません。しかし、むしろ忍耐なさっているのは神の方なのです。神は忍耐強く、私たちの悔い改めと成長を待ってくださっているのです。一人でも多くの人がキリストを信じ、そしてまたキリストの再臨を信じ、その再臨の時に滅びることがないように、神はこの罪の世界を忍耐しておられるのです。「神は、その独り子をお与えになったように世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と福音書にあるように、神のその愛ゆえ、今も、忍耐しておられるのです。
16節「無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています」と語られています。これはかつてパウロが語ったことを理解できない人々への言葉です。「無学」とペトロは語りますが、むしろ現代においては、自分は賢い、知識があると自負している人こそ、パウロの言葉も聖書の真理も理解できないことが多いのです。教会の中においてもそうです。
17節に堅固な足場とありますが、その足場は神に与えられるもの、聖霊によって示されるものです。私たちはその堅固な足場を失ってはなりません。神が私たちを愛されていること、私たちは神に愛されている子供であること、そして私たちはキリストのものであること、キリストのものであるゆえ、どのようなときでも私たちには慰めが与えられること、それが足場です。2022年がどのような年になるかは分かりません。しかし、私たちには堅固な足場があります。どのようなときも神の慰めがあります。「わたしが、生きている時も死ぬ時も、私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものであること」それが慰めだとハイデルベルク信仰問答は語ります。生きる時も死ぬ時も良き時も試練の時も、その慰め、たしかな足場の上に、新しい年もキリストのものとして、キリストを主として歩んでいきます。そのとき再臨は輝く希望となります。