大阪東教会礼拝説教ブログ

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使徒言行録5章17~42節

2020-07-19 12:23:58 | 使徒言行録

2020年7月19日大阪東教会聖霊降臨節第八主日礼拝説教「神に由来するものは滅びない」吉浦玲子
【聖書】
そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、 
使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ境内に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間が集まり、最高法院、すなわちイスラエルの子らの長老会全体を召集し、使徒たちを引き出すために、人を牢に差し向けた。下役たちが行ってみると、使徒たちは牢にいなかった。彼らは戻って来て報告した。「牢にはしっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中にはだれもいませんでした。」 
この報告を聞いた神殿守衛長と祭司長たちは、どうなることかと、使徒たちのことで思い惑った。 そのとき、人が来て、「御覧ください。あなたがたが牢に入れた者たちが、境内にいて民衆に教えています」と告げた。そこで、守衛長は下役を率いて出て行き、使徒たちを引き立てて来た。しかし、民衆に石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしなかった。 
彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。 
「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」 
これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。 
それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。
【説教】
<死へと向かう心>
 3章ではペトロとヨハネが逮捕された記事がありましたが、今度は、使徒たちが全員逮捕されるという事態になりました。教会が勢いを増せば増すほど、権力者たちの迫害は強まってきました。「そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた」とあります。「ねたみに燃えて」というのは生々しく人間臭い言葉です。しかし、ねたみという言葉は新約聖書のここ以外にも出てきました。
 マタイやマルコによる福音書で、主イエスを死刑にするために、権力者たちがローマ総督ポンテオピラトのもとに主イエスを連れて来た時、ピラトは主イエスを釈放しようと努めた記事がありました。「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。」とありますように、ピラトは主イエスが罪を犯したわけではなく、宗教指導者たちはねたみのゆえに主イエスを殺そうとしているということが分かっていました。厳密にはギリシャ語の原文で使われている単語は今日の聖書箇所と福音書のポンテオピラトの言葉では異なりますが、ねたみ、そねみ、嫉妬という同様の意味をもった言葉が使われています。
 つまりこの場面は、かつて主イエスに向けられていた権力者たちのねたみが今や、弟子たちに向けられている場面といえます。それにしても宗教指導者たちが、主イエスや弟子たちをねたんでいるのです。普通に考えますと高徳であるべき宗教指導者がねたみの心にとらえられるなんてありえないように思います。しかし、ねたみという感情というのは、根本的に神から離れた罪から生まれてくるものです。徳を積んだり、修行したり、心を鍛えても、神を知らない限り、人間は罪から離れられません。ねたみの心から自由になることはできません。宗教指導者は聖書は知っていたかもしれませんが、生きて働かれる神は知らなかったのです。彼らもまた神から離れた罪の中にありました。ねたみという感情に捉えられていたのです。今日の聖書箇所で「ねたみに燃えて」という言葉は「ねたみに満たされて」という意味です。神を知らないとき人間はねたみに心を満たされてしまうのです。そしてまた聖霊に満たされていない時、神が見えず、心はねたみに満たされるのです。
 ねたみや嫉妬という感情はほんの小さな子供でも持っているものです。小さな子供であってもねたみや嫉妬によってびっくりするような行動をします。嫉妬に駆られた人間がどれほど醜いことをするかというのは私たちは経験によって知っていますし、聖書にも記されています。聖書に記された最初の殺人は有名なカインとアベルの物語でした。弟アベルが神に目を留められたことを妬んだ兄カインが、アベルを殺してしまいます。ねたみは人を殺す負、マイナスのエネルギーを持っているのです。ねたみによって、かつてアベルの血が流れ、さらに主イエスの血も流されました。ねたみは死を呼ぶ感情だと言えます。
<命の言葉を語る者は守られる>
 そのようなねたみに満たされた権力者たちから使徒たちは逮捕されましたが、不思議なことが起こります。「主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った」とあります。主の天使が使徒たちを救うということは不思議な奇跡的な出来事ではありますが、流れとしてはなるほどと思うことです。しかし、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」という言葉には驚きます。使徒たちが捕らえられているのは、まさに福音を告げ知らせたからにほかなりません。使徒たちに助けるのであれば、「さあ、遠いところに逃げなさい」という方が普通のように感じます。にもかかわらず、さらに権力者たちの怒りを買うであろう行為をせよと神はおっしゃるのです。
 さきほどねたみを死を呼ぶ感情だと申し上げました。その感情から守られるのは「命の言葉」を告げ続ける者です。命の言葉、福音を告げる者は守られるのです。キリストの死と復活、そして罪からの救いを語り続ける者は守られます。こののち、さらに教会には大きな迫害が起こります。さすがにエルサレムで伝道をすることが難しくなる事態が起こります。しかし、弟子たちは遠くへ逃げて息をひそめていたわけではありません。逃げながら、なお命の言葉を告げ続けたのです。むしろ迫害が起これば起こるほど、命の言葉は告げ知らされ、教会は広い範囲に広がっていったのです。使徒言行録はエルサレムに起こった小さな新興宗教に過ぎなかった教会が、やがて当時の世界の中心であったローマにまで伝えられたことを記しています。そしてさらに使徒言行録の時代ののち、命の言葉は、ヨーロッパ全域、世界中へと告げ知らされました。死を呼ぶ罪を打ち破って命の言葉は広がっていったのです。
<助ける者>
 神殿で教えていた使徒たちはふたたび捕らえられます。最高法院に使徒たちは立たされます。しかしそこでも使徒たちはキリストの十字架と復活の証人として恐れずに大胆に語ります。かつて十字架の出来事の時、主イエスを置いて逃げ出した弟子たちが、いまや、最高法院で命の言葉を大胆に語っているのです。当然、聞いていた人々は激しく怒ります。「使徒たちを殺そうと考えた」とあります。
 しかしそこに意外な助け手が与えられます。ファリサイ派のガマリエルという人です。律法の教師とあります。ファリサイ派のリーダーと言える人でした。権力者のなかでサドカイ派は神殿を司る人々で、議会においても多数派でした。それに対してファリサイ派はまじめに律法を守る人々で、議会においては少数派でした。しかし、民衆から人気があったのはサドカイ派ではなく、ファリサイ派の方でした。ファリサイ派は福音書では主イエスと対立する悪役のような形で登場することが多いのですが、実際のところは、まじめな宗教家たちであったのです。多数派のサドカイ派でありましたが、議会においては、民衆に影響力を持つファリサイ派の賛同を得ることは重要なことでした。
 そのファリサイ派のリーダーであるガマリエルは使徒言行録の後半で活躍することになるパウロの律法の先生でもありました。パウロ自身が使徒言行録22章で「ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け」たと語っています。このパウロが語るガマリエルと、今日の聖書箇所で出てくるガマリエルが同一人物かということに関して議論がないわけではありませんが、歴史的には同一人物とみなされています。
当時、誰に律法を学んだかということは大きなことでした。現代でいえば学歴のようなものでした。パウロがガマリエルに学んだとあえて語っているのは、ファリサイ派であった自分のかつてのステータスを示すためのことでした。
 いずれにせよ、キリスト教の神学基盤を打ち立てたパウロのような優秀な人物の師であったガマリエルは民衆からも尊敬されていたなかなかの人物であったようです。彼は、使徒たちから手を引けと語ります。
 その語った内容も実に理にかなったことでした。彼はかつて民衆から支持されたテウダやガリラヤのユダたちがやがて滅んでいった例をあげ、「あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、滅ぼすことはできない。」と語ります。ガマリエルは使徒たちが言うキリストの十字架と復活の出来事は信じていないと考えられます。福音を信じることのない律法主義者でありました。この場面は、キリスト教徒ではない人に使徒たちが助けられた場面であると考えられます。
 実際、その後2000年に渡り、教会やクリスチャンは、キリストを信じてはいない人々によって助けられるということが往々にしてありました。ローマの時代、激しい迫害に教会が耐えられたのは、特にその迫害の後半においては教会が社会にあって一定の理解と信頼を得ていたからだと言われます。教会には、クリスチャンではない人々と良好な関係があり、場合によっては助けられてきた歴史があります。もちろんそれは教会の外に神が助け手を備えてくださっていたとも言えます。
 さらに歴史をさかのぼりますと旧約聖書の時代にも、聖書の神を信じない異教の人々にイスラエルの民が助けられる場面が描かれています。代表的な出来事は、バビロンに敗れてイスラエルが滅んだのち、ペルシャのキュロス王によってイスラエルが解放されたことです。バビロン捕囚となっていた人々は解放され、故国に戻ってくることができました。イスラエルを再建し、崩壊していた神殿を立て直すことができたのです。神はそのように不思議なあり方で、ご自身を信じる人々を守られます。今日の聖書箇所のガマリエルもまたそのように神から用いられた人物であったと考えられます。
<神の前での態度>
 私はここで少し疑問に思いました。たしかにガマリエルはこの場面で使徒たちのために神から用いられました。彼自身の本心はどこにあったのでしょうか。彼は「もしかしたら、諸君は神に逆らう者になるかもしれないのだ」と語っています。ここを読むと、彼は福音を完全には信じていなかったかもしれないけれど、彼自身は神を畏れる人であったのではないかと感じられるかもしれません。私自身、判断がつきかねるところがありました。しかし、彼は「あの者たちから手を引きなさい。ほおっておくがよい」とも言っています。本当に神を畏れ、神に逆らう者になるかもしれないと感じているならば、「ほおっておく」ことはできないと思います。いてもたってもいられず、使徒たちの話をさらに聞くなり、聖書を調べるなりすると思います。しかし、彼がそうしたとは書かれていません。実際、彼はほおっておいたのです。
 神を畏れる者は、ほおっておくことはできないのです。ペンテコステのとき、ペトロの説教を聞いた人々は、ペトロの言葉は、自分たちへの罪の告発の言葉であったにも関わらず心を打たれて、回心して、洗礼を受けました。「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と彼らはペトロたちに聞いたのです。
 神を畏れ、神の前に立つ者は、望むと望まざるとに関わらず、態度を決めざるを得ないのです。「わたしたちはどうしたらいいのですか」と問い、一歩を踏み出さざるを得ないのです。ガマリエルはそうしませんでした。彼にはおそらく勝算があったのです。すでに使徒たちのリーダーである主イエスは死んでいる、テウダやガリラヤのユダと一緒だと考えていたのでしょう。そして残されているこの使徒たちもやがて自滅すると考えていたのではないかと思われます。
 そういう意味でガマリエルの弟子であったパウロの態度は異なっていました。回心前、彼はキリスト教徒たちをほうっておくことはできず、徹底的に迫害していました。彼はキリストを知らず、結果的には間違ったことをしていましたが、神を畏れ熱心に求めていたのです。ですから当時の彼にとって神を冒涜していると考えられたキリスト教徒のことをほおっておくことはできなかったのです。そのパウロを神ご自身がほおっておかれませんでした。間違った行為を為していたにもかかわらず、赦し、ご自身のもとへと迎えられました。求める者には神は確かにそのご自身を与えられるのです。
<喜びをもって>
 しかしまたガマリエルの言ったことには深い意味もあります。「人間から出たものなら自滅するだろうし、神から出たものであれば、滅ぼすことはできない」これはガマリエルの口を通して神が語られた真実の言葉です。
 ただこれを短絡的にとらえてはいけません。例えば今日の聖書箇所からののち教会は迫害の中で殉教者も出していきます。殉教した人は神に逆らったから亡くなったわけではありませんし、殉教者を出した教会が神から出ていなかったということでもありません。さらにはせっかく立った教会が継続できなくなるところも多くありました。ガマリエルが見たらまさに自滅しつつあると思えるような事態も多々あったのです。今日においても、教会の教勢が増えたら神の祝福があり、減れば神に祝されていないと単純に考えられることもあります。しかし、短期的にそういうことを考えることは控えなくてはいけません。しかし、神のご計画は人間が考えるよりとても深く長期的なものです。人間の目には滅びつつあるように見えても、しっかりと根を張り、やがて大きく繁栄することもあります。実際問題として、この世界においては、この世と迎合して、現代の人々に受けることをマーケッティングリサーチをして上手にパフォーマンスをしていけば、ひとときは繁栄することができるのです。しかしそこに残るのは虚しさと壮大な廃墟です。
 大事なことは、私たちが神の御手を信じ、喜びをもって命の言葉を聞き、伝えているかということです。そこには、かならず豊かな種が蒔かれるのです。荒れ野のように見える殺伐としたところにやがて芽が出て、大樹になっていきます。私たちは喜びをもって小さな一粒の種を今日も蒔きます。神からいただいたけっして滅びることのない希望の種を私たちは蒔いていきます。



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