大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ヨハネによる福音書 4章43~54節

2018-06-28 18:09:31 | ヨハネによる福音書

2018年6月24日大阪東教会主日礼拝説教 「偶然ではない」吉浦玲子

<主イエスのしるし>

 ヨハネによる福音書では主イエスの行われた奇跡は「しるし」と書かれています。「しるし」というのは本来、何かの区別をつけるときにつけるものです。ある幼稚園では子供たちが、クラスごとに違う動物の形をした名札をつけています。クラスの違いを現わす「しるし」です。むかし、仕事でお付き合いのあったある製鉄会社は、役職によって帽子や腕章にひかれた線の数がちがっていて、その線の数を見て、新入社員はお辞儀の角度を変えるように指導されていました。私が働いていた職場でもある一定の役職以上になると、座る椅子の肘かけが変わりました。

 他と違うことを端的にあらわすのが「しるし」です。主イエスは、奇跡を「しるし」として行われました。そこに神の栄光が現わされていることを示す「しるし」です。ヨハネによる福音書での主イエスの最初の「しるし」はカナの婚礼の席での、水をぶどう酒にお変えになったことでした。その箇所を見ますと、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現わされた」とあります。栄光というのは、ヘブライ語のカーボードという言葉が元になりますが、これには輝きという意味と、重たいというニュアンスがあります。もちろん栄光と言うと輝かしいのですが、それはなにより重たいものなのだといえます。神の出来事を現わすのですから、当然、それは軽いものではなく、重たいのです。その重たい神の出来事のしるしとして主イエスは奇跡を行われました。

<ピンチはチャンス>

 しかし、人間にはその「しるし」の重さはなかなかわからないのです。神の栄光の輝きはなかなか見えないのです。ただ起こされた奇跡の出来事に驚嘆し、あるいは逆に偶然ではないか、トリックではないかと疑ったりするのです。

 そしてまた心からこれはすごいと驚嘆していても、その出来事に現わされた「しるし」を感じ取ることができません。そこに神の栄光を見ようとしません。神の栄光を見ない時、その出来事のすごさのみに注目します。そしてすごさを自分のために利用しようとします。利用というとなにか非常に悪いことのようですが、私たちは往々にしてそうなりがちなのです。

 主イエスはサマリアで二日間お過ごしになって、ガリラヤに戻られました。<「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきりおっしゃったことがある。>そう書いてあります。他の預言書には故郷の人々から明確に排斥される記事などもあります。しかし、今日の聖書箇所では、<ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した>とあります。ガリラヤの人々はこの場面では排斥したわけではないのです。むしろ、主イエスのなさった素晴らしい出来事を聞いて、自分たちの故郷のヒーローのような歓迎をしたのです。そこに悪意はなかったでしょう。しかしその歓迎は、神の出来事の重さを感じたものではなかったのです。主イエスを神の預言者として敬うものではなかったのです。今で言うならば、地元出身のオリンピックのメダリストや芸能人を歓迎するようなものです。そこに悪意や明確な計算はなく素直に地元出身者の活躍が嬉しいということはあるかもしれません。しかしその根底には地元になんらかの利益をもたらしてくれたという喜びや同郷の人の活躍に自分自身を重ねた自己肯定感による快さがあります。明確な悪意はなくとも、その根底に自分にとっての利益不利益、快や不快といったものが尺度となります。

 それに対して、王の役人は切羽詰まっていました。今日の聖書箇所に出てくる王の役人は息子が病気でした。それも重篤な病気でした。カファルナウムからガリラヤまで30キロぐらいありますが、その道のりを主イエスのところまでやってきたのです。王の役人ですから、それなりに権威のある人です。当然、子供を医者にも見せたでしょう。お金のかかる薬やさまざまな治療法も試みたかもしれません。結局、王の役人という権威は、息子の病気の前では何の役にも立ちませんでした。病と死の現実の前ではこの世の権力は無力であることをいやというほど知らされました。そして万策尽きてしまったのです。そこに主イエスの奇跡の噂を聞きました。もうこの方にお願いするしかない、そう思いつめて役人は来たのです。

 軽い言い方になってしまいますが、信仰において「ピンチはチャンス」であるといえます。キリスト教に限らずなにか信仰を持っている人、ことに生まれ育った家の宗教とはことなる宗教に入った人には、信仰を持っていない方から「よほどたいへんなことがあったのですね」と思われる節があります。病気であるとか、特別な悩みがあって宗教に入ったのだろうと思われる、人生のピンチにおいて宗教にすがる、そのように世間の人からは見られているところがあります。20代の頃、たまたま通勤電車の中で「仏教入門」のような本を読んでいました。当時はいろんな本を濫読していただけで、特に悩み事があったとかいうわけでもなく、仏像とかきれいだなあというくらいの興味で読んでいたのです。ところが数日後、職場の友人から言われました。その友人の友人が、私が電車の中で仏教の本を読んでいたを見ていたそうなのです。で、友人の友人は、私の友人に声をひそめて「あの人、なにか悩みでもあるのでは?」と伝えたというのです。その友人は私のことをよく知っていましたから、笑って伝えてくれましたが、世間一般では、よほどのことがあって宗教に入ると思われているようです。

 教会に来られている人が教会に来られるようになった理由は実際のところさまざまです。別にピンチだったからではないという人もありますし、実際、なにか人生に行き詰まって救いを求めて来られた人もいます。しかし、どちらであるにせよ、人生に行き詰まってしまった、そんなピンチは、神から与えられたピンチであり、同時に神を知るためのチャンスでもあります。すでに信仰を持っている人々も同様です。その信仰が深められ、信仰が実りを豊かにされるために試練と言うピンチが与えられます。

 この王の役人もそうでした。子供の病気という、自分の権威や財産ではどうしようもない現実の前に、主イエスのところへ向かったのです。それはその時は役人には分からなくても、神との必然の出会いのために神によって供えられたものでした。サマリアの女が暑い正午ごろ、ヤコブの井戸の前で主イエスと出会ったことも必然であったように、この王の役人にとっても、主イエスと出会う必然のために、息子の病という試練は与えられました。

<神のやり方>

 どうにかこの試練の中で、問題を解決してほしい、人間は願います。そこで神が解決をしてくださったら人間は満足をするでしょうか?そのときは満足し感謝をすると思います。そのことを通じて信仰を持つこともあるかもしれません。でもそれは神が自分の願いを聞いてくれたから信じるという信仰です。次の試練の時、神が解決してくださらなかったら、なんだこんな神様なんていらないというような信仰です。そういう信仰ではない、まことに神の「しるし」を「しるし」として見ることのできる、神の栄光の重さを感じ取ることのできる信仰が必要なのだと福音書は語ります。「しるし」を「しるし」として感じ取るには、神が自分の思い通りになされるのではなく、神が神ご自身のやり方で業をなさるのだということを知る必要があるのです。王の役人もそうでした。

 王の役人は「カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。」とあります。しかし主イエスは「ではすぐに行きましょう」とはおっしゃいませんでした。主イエスは「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない。」と、意外にも冷たくおっしゃるのです。王の役人は、当然、主イエスはカファルナウムの自分の家までやってきて息子に手を置いて癒してくださると思ったのです。30キロの道のりを歩いてきた父親です。主イエスへの信仰がなかったわけではないのです。しかしその信仰の質が問われたのです。

 似たような場面が旧約聖書にもあります。異邦人であるナアマン将軍というすぐれた将軍が重い皮膚病に罹りました。ナアマン将軍の上司である王がイスラエルの王に病気の癒しを依頼したという経緯もあり、ナアマン将軍は預言者エリシャに重い皮膚病を癒してもらうことになりました。そしてイスラエルにやってきました。ナアマンは数頭の馬と戦車に乗って部下と共にエリシャのところにやってきたのです。そこでエリシャは使いの者をナアマン将軍のところにやって「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい」と言わせました。これに対してナアマン将軍は怒りました。将軍と呼ばれ王からも目に掛けられている自分がわざわざイスラエルまでやって来たというのに、エリシャ本人は出てこず、使いをよこしてきただけで、ただヨルダン川で体を洗えとしか言われなかったのが不満だったのです。当然、預言者エリシャ自身がでてきて、体に手をおいて、癒してくれると思っていたからです。しかし、ナアマンは家来たちにいさめられ、結局、エリシャの使いが言ったとおりにヨルダン川で七度身を浸して癒されました。そしてナアマン将軍にはイスラエルの神への信仰を与えられました。ナアマン将軍は自分が期待したようなやり方ではなく癒されました。しかしその期待したようなやり方ではなかったというプロセスにおいて、自分が砕かれました。自分のやり方ではなく、神は神のやり方で良きことをなさることを知らされました。そこに本当の信仰が生まれました。

 今日の聖書箇所の役人もおそらく、主イエスにカファルナウムまで来ていただいて、手を置いていただき、病を癒していただきたかったのです。しかし、主イエスは自分が望んだようなやり方では願いを聞いてくださいませんでした。望んだようなやり方で願いが叶うのであれば、それは神はアラジンの魔法のランプの魔人のようなものになってしまいます。

 あることがらを熱心に願って祈っていてもなかなか聞かれない、そういうことが良くあります。状況はちっとも自分の願っている方向に向かわない、ところがある時、気がつくことがあります。自分の願ったようには状況は変わってはいないけど、もともと悩んでいたことは、気がつくと解消していた、ということに。たとえば、ある方は病気が癒されさえしたら、自分はもっとたくさんの人と知り合えて、またたくさんの人のために働くことができるのにと病の癒しを願っていました。でも病は癒されませんでした。しかし気がつくと、その人の書いたブログで多くの人が慰められていました。病気のために多くの人と知り合うことができない、人の役に立つことはできない、と思っていたら、実はブログを通して多くの人との交わりが与えられていました。その人の病の中にありながら明るく柔らかな文章に、しかし時には正直に辛さも打ち明けてあるブログに、とても多くの人が慰めや支えを与えられました。そしてなによりその本人が知り合った多くの人との豊かな交わりの内に喜びを与えられていました。

<神の言葉によって>

 王の役人は必死に主イエスに言いすがります。「主よ、子供が死なないうちに、おいでください。」さきほど、信仰の質が問われると申し上げました。子供が生きるか死ぬかの時にこれはとても厳しいことであると思います。信仰の質はもう少し落ち着いた時に問うてほしい、今はとにかく、子供の命がかかっているのだ、そっちのほうが大事だ、こう考えるのは人間として当たり前の感情です。しかし、実際のところ、信仰の質は、厳しい状況においてこそ問われるのです。ゆったりと余裕のある時、聖書もじっくりと読め、祈りの時間も取れる、そのような日々ではなく、むしろ、切羽詰まったぎりぎりの時に、あなたにとって信仰とは何か?と神は問われるのです。

 王の役人に主イエスはおっしゃいます。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」

 すると王の役人は「イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」とあります。これはとても不思議なことです。カファルナウムまで主イエスをお連れして癒してほしいと願っていた役人が、主イエスの言われた言葉を信じて帰って行ったのです。息子が死なないうちにと言いすがっていた49節とイエスの言葉を信じた50節にはおおきな信仰の飛躍があります。49節で息子が死なないうちにといいすがっていた必死だった役人は、50節で「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と主イエスに言われたとき、なんだ来てくれないのか、結局治せないんだな、何もしてくれないでいい加減なことを言いやがってと怒り狂うこともありえたはずです。しかし、驚くべきことに、この役人は<主イエスの言われた言葉を信じて帰って行った>のです。元気になった息子の姿をまだ役人は見ていないにもかかわらず、「信じて」役人は帰って行ったのです。主イエスの言葉によって信じさせていただいたのです。ヘブライ人への手紙11章の有名な言葉であります「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」があります。この役人にはまだ元気になった息子の姿は肉眼では見えていなかったのです。しかし、その癒しを確信させていただいたのです。主イエスの言葉によって、です。自分中心の信仰から、神のなさることをそのままに受け入れる信仰へと変えていただいたのです。自分の望みが自分のやり方で叶えられるのではなく、神の栄光の重みが現わされることを待ち望む信仰へと変えられたのです。それは主イエスの言葉によって起こることです。無理やりに役人はそう思いこんで帰って行ったわけではありません。主イエスの言葉によって確信を持って帰って行ったのです。そして実際に息子は癒されました。息子は生きたのです。しかし生きたのは、息子だけではありません。なにより王の役人自身が神の栄光の内に新しく生かされる者とされたのです。サマリアの女に与えられた永遠の生きた命の水が与えられたのです。肉体的には、癒された息子も父である王の役人もサマリアの女もやがて死んだでしょう。しかし彼ら彼女らは、主イエスの言葉によって「生きた」のです。それは単に心に平安が与えられたということではないのです。自分たちがまことに死を越える命に生かされているということを知ったのです。

 信仰はたいへんなときにこそ問われると申し上げました。先般、大阪に大きな地震がありました。私自身、震度5強の地域におりまして、人生で体験した最大の地震の揺れでした。本棚が倒れ、いくばくかのものが壊れました。私にとっては驚きでしたが、今回の地震の被害としてはごく小さなものです。亡くなった方もおられ家屋に大きな被害に遭われた方もおられます。しかし、そのような非常事態の中にこそ問われるのが私たちの信仰です。もちろん揺れている最中、あるいはさまざまな日常の復旧作業の中、祈りもままならないということはあります。目の前のことで精一杯ということは現実にあります。地震当日、二時間かけて淀川区の自宅から教会まで歩いてきました。祈っていたといえば祈っていました。しかし、正直、その日から数日はいろんな意味で自分の信仰が試されていると感じました。しかしなお、私たちの信仰は、その現実を越える命の信仰なのです。今は目の前の復旧活動に専念して、どうにか落ち着いてから信仰のことは思い出しましょうという信仰ではないのです。

 私たちは「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と叫んだ役人のように、目の前の現実に恐れ怯えます。死と崩壊の現実を恐れます。苛酷な現実に立ちつくします。しかしなお主イエスはおっしゃいます。「あなたの息子は生きる」。これは私たち自身にも<あなたは生きる>とおっしゃっているのです。<あなたは生きる>、どのような現実のなかでも私たちは生かされる、現実を越えて、永遠に生かされる、その命の言葉を聞くのです。単なる人生訓ではない、表面的な励ましではない。かつてがんばろー神戸という言葉がありました。がんばろー東北、がんばろー熊本、大分、もちろん傷ついた人々が立ちあがっていくとき、そのような合い言葉のようなフレーズは力になります。無駄ではありません。しかし根本的に人間をたちあがらせ、頑張る力を内側から与えるのは「あなたは生きる」という主イエスの言葉だけです。十字架の死から復活されたイエス・キリストの命の言葉だけが私たちをまことに生かすのです。人間は弱いので一度聞いても、また現実の中で怯えます。ですから繰り返し聞かせていただくのです。「あなたは生きる」という主イエスの言葉を。その命の言葉を繰り返し聞かせていただきながら私たちはどのような現実の中でも生き生きと歩みます。


ヨハネによる福音書 4章27~42節

2018-06-28 18:05:17 | ヨハネによる福音書

2018年6月17日大阪東教会主日礼拝 「信じる根拠」吉浦玲子

<主イエスと出会った者>

 主イエスは出会ってくださる神です。そして主イエスが出会ってくださったとき、そのとき、人間は、主イエスを伝えていく者とされます。まことに主イエスと出会った人は、出会ってくださった主イエスのことを語らざるを得なくなるのです。それは専門の牧師や伝道者になるということではなく、それぞれの場にあって、それぞれのあり方で出会ってくださった主イエスを語って行く者にされるのです。

 なぜなら、主イエスは私たちに尽きることのない泉をくださったからです。永遠の水をくださったからです。私たちは主イエスと出会う前、からからに渇いていました。渇いていることに気づかなかったかもしれませんが、実際、命の瀬戸際で私たちは渇いていました。その私たちを潤す永遠の水を主イエスはくださいました。からからに乾いていることすら気づいていなかった私たちを潤してくださいました。その水はとても豊かで、豊か過ぎて、自分の中でとどまるものではありません。あふれだしていくのです。主イエスの永遠の水があふれ出すので、私たちは主イエスを伝えます。もちろん福音書には主イエスの大宣教命令と呼ばれるものがあります。全世界へ出ていって、キリストの弟子にせよ、そう主イエスはおっしゃいました。しかし命令だから、しんどいけど、伝道をしないといけない、そういうことではないのです。キリストとまことに出会った者は、あふれ出す水の勢いによって、おのずと主イエスのことを語るのです。

 さて、少し前回の箇所の振り返りにもなりますが、サマリアの女と記されている女性と主イエスのやり取りを見てみたいと思います。サマリアの女性はスキャンダラスな女性でした。過去に5人の夫があり、現在は夫ではない男性と暮らしていました。言ってみれば、このサマリアの女は噂話のかっこうのタネになるような女性でした。普通に結婚をしている多くの人々が眉をひそめるような女性でした。女性はそのような世間の人々の自分に対する冷たい視線を痛いほど感じていました。ですから、なるべく人々と交際をしない生活をしていました。他の多くの女たちが水を汲みに来る朝ではなく、暑い正午にサマリアの女は水を汲みに来ていました。

 この女性は、心の奥底に満たされない思いがあったのでしょう。その満たされない思いを満たしてもらうことを人間に求めていたのでしょう。しかし、5人の夫を次々に持っても、サマリアの女の思いは満たされることはありませんでした。先週の聖書箇所では井戸の水について、女性と主イエスとの会話は始まりました。女性の心は、渇いていたのです。からからに渇いていたのです。井戸の水を汲んで飲めば肉体はうるおいます。しかし、それでも決して潤うことのできない心が女性にはありました。そしてその渇きは、そのサマリアの女性だけでなく、神を知らないすべての人間の渇きでもありました。私たちの渇きでした。罪による渇きでした。罪、すなわち父なる神と離れていることが渇きの根本的な原因でした。

 その渇いた人間が主イエスと出会いました。救い主である主イエスと出会ったのです。主イエスと出会った者は、父なる神との関係を回復させていただけます。主イエスの十字架と復活によって、私たちは父なる神と交わることができるようになったのです。ですから、深いところにある渇きを癒していただけるのです。聖霊をいただき、主イエスを通して父なる神との交わりを回復します。そして父なる神との関係が回復した者は、父なる神との関係を回復させてくださった主イエスを証せざるを得なくなります。最初にいいましたように、あふれるような思いに捉えられるのです。

<水がめを置いて>

 昼ごろ、人目を避けて水を汲みに来ていた女性は、28節を見ますと、「水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。」とあります。女性は水を汲みに来ていたのです。肉体を潤し、生活になくてはならない水を汲みに来ていた、そうしなければ彼女の生活は成り立たなかったのです。暑い昼に重労働でした。でもやらざるを得ない大事なことでした。その大事なことを放り出して女性は町に出て行ったのです。ヤコブの井戸から町までは距離としては1.5キロぐらいだそうです。むちゃくちゃ遠いわけではありませんが、歩くにはそれなりの距離があります。そこを暑い昼に20分ほどもかけて歩いたのです。いや、女性は水がめを置いて行ったくらいですから、矢も盾もたまらず小走りで町まで行ったかもしれません。人目を避けていた女性が、もともとの大事な用事を放り出して、人々のところへ出て行ったのです。それは単にすごい人と出会った、聖書で伝えられていたメシアかもしれない人と出会った、そのことを皆に伝えたいというだけではありません。いうなれば、さっき道で有名人と出会ったことを誰彼に吹聴したいというような、そのような思いではありません。その程度のことであるならば人の目を気にしていた彼女がわざわざ出ていくことはないでしょう。

 彼女が出て行ったのは、彼女が変えられたからです。深いところの飢え渇きが癒され、力が与えられたからです。もう人の目に怯える必要はなくなったからです。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて言いあてた人がいます。」と彼女は語りました。その姿は大胆でした。彼女は自分自身のこれまで日蔭の存在であったあり方をも臆することなく語っています。そして彼女は、なにか自分が立派な者として語っているのではないのです。この時点で彼女は自分の生活を変えたわけではありません。夫ではない男性との関係を解消したわけでもありません。まして過去を変えることはできません。ただただ、今のありのままの自分として語っているのです。

 主イエスの時代、ファリサイ派や律法学者たちは、人々の尊敬を受けていました。新約聖書の中では悪役的な存在ですが、実際には、人々から信仰深い人としてうやまわれていた人々でした。そしてファリサイ派や律法学者たちは基本的にはたしかにまじめで尊敬に値する生活をしていたのです。そしてその言葉は立派な人物が語る立派なこととして人々に聞かれました。しかし、サマリアの女は違います。もとより誇るような生活はしてこなかったのです。スキャンダラスな、人が眉をひそめるような生活をしていました。そんな自分のそのままで彼女は語りました。「さあ、見に来てください」と。

 世のなかには元やくざの牧師もいれば、元暴走族の頭の牧師もいます。元暴走族の頭の牧師は私自身、面識がある方です。有名な讃美歌AmazingGrace「いつくしみ深き」を作ったのは元奴隷商人でした。それらの人々は、すっかり自分が過去を清算して立派な人間になったから、主イエスのことを伝えているわけではありません。ただただ主イエスと出会っていただいた、そして変えられた、その喜びのゆえに主イエスのことを語っているのです。変えられた、というのは、まずその第一歩は、やくざから足を洗ったり、奴隷商人を辞めたということではなく、神の方向を向いて歩く歩みに変えられたということです。神に顔を向けて歩み出したということです。神の光の中を歩み出したということです。神の光の中を歩み出した時、それに続いて具体的な自分の生活も変わって行くのです。サマリアの女が、それまで人目を避けて生活をしていたのに、人々の前に出ていったように変えられます。光の中を歩んでいくとき、当然、やくざや暴走族の頭ではやっていけません。奴隷商人を続けることはできません。一人一人の生活は少しずつ、場合によっては劇的に変えられていきます。つまり、主イエスとの出会いと、主イエスについて語り出すことと、自分自身が変えられていくことは、同時進行的に起こることなのです。もっとも自分自身が変えられていく、それは一生かかって変えられていくということでもあります。変え続けられていくといっていいでしょう。どう変えられるのか?それはよく言われる言葉ですが「キリストに似た者」に変えられていくのです。一生かかって、少しずつ、私たちはキリストに似た者に変えていかれるのです。

<信じる根拠~ひとりひとりが出会う>

 主イエスとの出会いによって、新しく歩み始めたサマリアの女性は、「さあ、見に来てください」と語りました。繰り返しますが、世間的な評判の芳しくない女性の言葉です。通常なら、「ああ、あの女の言葉か」と聞いた人は聞き流すでしょう。ところが、驚くべきことに、39節を見ますと「さて、その町の多くのサマリア人は『この方が、わたしの行ったすべてのこととを言い当てました』と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。」とあります。つまり女性の言葉に力があったということです。女性自身に力があったわけではありません。主イエスと出会って変えられた女性に主イエスからの力が、そしてまた聖霊の力があったということです。律法学者やファリサイ派のように聖書に詳しいわけでもない一人の女性が、ただ主イエスとの出会いによって変えられた、その言葉に力があったのです。

 そして女性によって主イエスのことを知らされ、主イエスのもとに人々は行きました。「更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた」とあります。そしてまた今日の聖書箇所の最後のところに、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」と町の人々のサマリアの女への言葉が記されています。これはさらっと読むと、町の人々は、サマリアの女性へすこし意地悪なことを言っているようにも感じられます。しかし、そうではなく、人間はだれでも、一人一人が直接、主イエスと出会うのだということをここは語っているのです。最初に誰かから話を聞かされるかもしれません。主イエスを知るきっかけはさまざまあるのです。しかし、やがてひとりひとりが直接、主イエスと出会うことになるのです。主イエスを体験すると言ってもいいでしょう。今日においては、礼拝が主イエスとの出会いの場所となります。礼拝は、単に聖書の解釈を学ぶ場ではありません。聖霊が注がれ、ここで私たちは生ける主イエスと出会います。御言葉によって、聖餐によって、主イエスと出会います。永遠のいける水である聖霊が注がれ、私たちは主イエスを指し示されます。そして「わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かる」のです。そして信じるのです。礼拝ごとに新たに信じるのです。

<豊かな刈り取りへ向けて>

 さて、主イエスとサマリアの女性、そして町の人々とのやり取りに挟まれるように、主イエスと弟子たちのやりとりが31節から記されています。弟子たちは、主イエスがサマリアの女性とのやり取りをし、そしてまたサマリアの女性を通じてサマリアの人々がやってきて多くの人々が主イエスを信じる者とされるという出来事において、なんら、具体的な役割を担ってはいません。

 ただ、たとえば27節に「ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた」とあります。通常、「先生」と呼ばれる教師は、当時は女性とは話などはしなかったから弟子たちは驚いたのです。女性は数の内に入らなかったからです。話すに足りない者とされていたからです。しかし、弟子たちはサマリアの女性と話をされている主イエスのお姿に何かを感じたのでしょう。主イエスを止めたり、問いただす者はいなかったのです。そしてサマリアの女性が水がめを置いて町に行ったあと、弟子たちは主イエスに食事を進めますが、そこでの会話も主イエスと弟子たちの間はちぐはぐな感じです。主イエスは、サマリアの女性が御自身の言葉を信じて、人々に伝えにいったことを知っておられました。そして目の前にいる弟子たちもまた、やがて人々に自分のことを知らせに行く者となることを御存知でした。サマリアの女性は暑い中を町まで行きました。弟子たちもやがて迫害の中を伝道することになるのです。

 そのことを主イエスはよくよく御存知であって、御存知のゆえにおっしゃるのです。「あなたがたは『刈り入れまでまだ四カ月ある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。」あなたたちの目の前にはまだ実っていない畑が見えているだろう、刈り入れはまだまだ先だと思っているだろう、しかし、そうではない、もう色づいている、刈り入れを待っているではないか?この色づくというのは、黄金色とも訳せる言葉です。あるいは白いとも訳せ、白く輝いているとも言える言葉です。私たちの現実は、多くの場合、黄金色でもなく輝いてもいないように見えるでしょう。しかし、主イエスの目にはそうではないのです。神の目にはそうではなく、すでにたわわに実っている、輝いているのです。私たちの日々も、また教会の置かれている状況も、現実においては厳しく多くの課題があります。しかしなお、顔を上げて見よ、それは輝いている、既に実っているのだと主イエスはおっしゃいます。暑い中を小走りに町に向かう女性へ、やがて宣教へと乗り出す弟子たちへ、あなたたちの道には豊かな実りがある、それはすでにもうここにあるのだと主イエスはおっしゃるのです。

 荒れ野のように見える現実が、主イエスが共のおられる時、豊かに実った畑とされるのだとおっしゃいます。私たちは、荒れ野のように見える現実の中で、しかし、主イエスが共におられる時、たしかに豊かに収穫させていただくのです。中庭に鉢植えのぶどうがあります。昨年の秋、実ったぶどうを皆で食べましたが、冬には枯れたようになっていました。特にこの間の冬は寒い日が続き、本当に、ぶどうの木は枯れてしまったのではないかと思いました。実際、葉はすべて落ち、幹や枝もばさばさな感じになり、例年の冬より、ボロボロの状態になっていたのです。ところが春になり、また緑の葉が茂り、いますでに何房かぶどうが実りつつあります。植物の生きる力はすごいものだと感じます。私たちは、葉は落ちて枝もばさばさしてる、その状態を見て、もうだめだと現実に考えてしまいます。しかし、主イエスはおっしゃるのです。顔を上げて見なさい、そこには違う現実がみえるはずだ、神の現実が見えるはずだとおっしゃるのです。神の現実は豊かに実っているのです。すでに実っているのです。そして私たちはその刈り取りをさせていただきます。神が養い育ててくださったものを私たちが刈り取らせていただき、喜びの収穫を祝うのです。私たちの日々には労苦があります。多くの試練があります。しかし、主イエスと出会った者はすでに神の現実の中を生かされています。その神の現実のなかで、私たちは多くの実りを得ます。その実りは、わたしたちの労苦を越えて、神ご自身の労苦によって与えられるものです。それゆえに収穫の喜びは限りないのです。その喜びを私たちは味わいながら歩んでいきます。


ヨハネによる福音書 4章1~26節

2018-06-11 19:00:00 | ヨハネによる福音書

2018年6月10日 大阪東教会主日礼拝説教 永遠に渇かない水」吉浦玲子

<出会ってくださる主イエス>

 私たちは、だれでも主イエスの恵みなしには、胸を張って神と向かい合うことはできません。聖書には、やくざまがいのあこぎさでローマへの税金を人々から徴収していた徴税人や、娼婦というような、世間のつまはじき者が出てまいります。姦淫の罪を犯した女が出てまいります。そしてまた今日の聖書箇所にはサマリアの女という、少しわけありな女性が出てまいります。私たちは、自分は一点の非の打ちどころもない人間であるなどとはもちろん思っていません。主イエスの恵みなしには神の前に立つことのできない者であることは分かっていながら、なお、聖書に出てくる徴税人や娼婦や姦淫の女や、そして今日読みますサマリアの女と自分は違う、とどこかで考えてしまいます。しかし、私たちは徴税人であり娼婦であり姦淫の女でありサマリアの女であったのです。今もそうなのです。しかしなお、いえ、むしろそうであるからこそ、主イエスはお越しになり、徴税人や娼婦や姦淫の女やサマリアの女と交わってくださったように、私たちとも交わってくださるのです。親しく言葉をかけ、救いへと導いてくださるのです。

 さて今日の聖書箇所に出てまりますサマリアと言いますと、エルサレムなどがある南のユダヤ地方と主イエスのお生まれになった北部のガリラヤ地方との中間地点に位置しています。9節に「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」とあるように、サマリア人はユダヤ人からは嫌われていました。もともとは同じイスラエルの部族でありながら、ユダヤ人とサマリア人には不幸な歴史の中で、断絶がありました。北イスラエル帝国が紀元前8世紀にアッシリアによって滅んだ後、主だった人々は連れ去られ、地元に残された人々は後から入ってきた他民族と混血をしました。その混血をした人々がサマリア人でした。その後、南イスラエルが北イスラエルに150年ほど後れて滅びました。人々がバビロン捕囚とされたのちペルシャ王キュロスによって解放された時代に、バビロン捕囚から帰還した人々が故国で神殿を再建しようとしたとき、サマリア人が妨害したと言われます。そのあたりから根深い対立があったようです。また、サマリア人は紀元前4世紀にゲリジム山にエルサレムとは別の神殿を築きました。今日の聖書箇所でサマリアの女が後半で語っているのはその神殿のことです。そのゲリジム山の神殿はユダヤ人から非難を浴びました。そのような背景の中でユダヤ人とサマリア人は対立をしていました。

 そのような背景の中で、主イエスはユダヤ地方からガリラヤに向かう途中にサマリアを通られました。4節に「サマリアを通らねばならなかった」と書いてありますが、当時、サマリアを通るしかユダヤからガリラヤに行くルートはなかったのかというとそうではありません。むしろ、ユダヤ人はさきほど申しましたような対立がありましたから、サマリアを避けるルートを通ることが多かったのです。ですから、ここで主イエスは意図的にこのルートを選ばれたと考えてよいと思います。主イエスはあえてこの道を選ばれ、ヤコブの井戸のある場所まで来られたのです。サマリアの女と出会うためです。訳ありな女性と出会うために主イエスは、この道を選ばれました。「正午ごろであった」とあります。まさにその時間に女性は水を汲みに来たのです。主イエスとサマリアの女の出会いは偶然ではありませんでした。女からしたら偶然かも知れません。しかし、主イエスにとっては必然でありました。この女性と出会う必要があったのです。まさにこの場所で、この時間に主イエスは女性と会う必要があったのです。私たちもまた、神の必然によって、しかし私たちには偶然と思われるようなやりかたでイエス・キリストと出会います。

<ちぐはぐな会話>

 女性が昼ごろに水を汲みに来るのにはわけがありました。他の女たちと顔を合わせたくなかったからです。通常、水を汲むのは朝の仕事です。しかし、あえて他の女性たちと顔を合わせないようにこのサマリアの女性は水を汲みに来ていたのです。この女性は、言ってみればスキャンダラスな女性だったのです。周囲の女性たちから格好の噂話の種とされるような生き方をしてきた女性です。その女性に主イエスの方から話しかけられます。「水を飲ませてください」。

 女性は驚きます。主イエスの姿や言動からあきらかにユダヤ人であることが分かったからです。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」これはもっともなことです。イエスの言葉は意表を突いていました。しかし、さらに意表を突く言葉を主イエスはおっしゃいます。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるかを知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」最初、水を乞うている、喉が渇いているかわいそうな旅人だと思っていた相手が、力強く語りました。女性はこの言葉に心を動かされました。どうもこの人はただものではないと感じたのでしょう。女性は主イエスに「主よ」と答えています。このときの「主」という呼びかけは、「先生」「教師」として相手を認識したものです。しかしまだ主イエスがおっしゃった「生きた水」という意味が女性には分かっていません。ここからあとの会話はちぐはぐに進みます。ちょうど、少し前にお読みしたニコデモと主イエスの会話がちぐはぐであったように、二人の会話はかみ合いません。

 「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

 「この水」とはヤコブの井戸の水です。旧約聖書には明確にシカルの井戸をヤコブが掘った井戸とは記されていません。しかし、創世記に出てくる族長たちの一人であるヤコブが掘った井戸としてサマリア人の間の伝承として伝えられていたのでしょう。シカルと記されている地名は旧約聖書に記されているシケムとも考えられ、たしかにシケムにヤコブはいたのです。パレスチナの人々にとって、水は貴重なものです。その貴重な水を供給してくれる井戸を偉大な祖先と結びつけてサマリアの人々は大事にしていたのでしょう。

 しかし、主イエスはおっしゃいます。肉体の渇きを潤すこの由緒あるヤコブの井戸の水よりもはるかに偉大な水があるのだと。けっして渇かない水があるのだと。でも女性は、まだ勘違いをしていて、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみにこなくてもいいように、その水をください。」と言います。

 人間は、どうしても今自分に必要だと思うことを中心に考えます。この女性にとって当然、肉体を潤す水、また生活のための水は必要不可欠のものでした。そしてまた、女性にとって、暑い昼に水を汲みに来るのはたいへんなことでした。だから「ここにくみにこなくてもいいように、その水をください」と女性はいったのです。これは女性にとってとても切実なことでした。この女性の勘違いを私たちは笑うことはできません。私たちも、どうしても自分の必要からしかものを考えることはできません。自分にとって切実なことがやはり第一なのです。水と、わずらわしい人の目を避ける生活からの解放、それが女性にとって切実なことでした。

<ありのままの姿で神の前に立つ>

 主イエスは、この女性の切実さは十分に御存じだったのでしょう。そしてあえてその女性の切実さへと踏み込んでいかれます。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」これは女性にとって、もっとも触れられたくないことだったでしょう。彼女の人生の暗さがここに凝縮していることでした。主イエスは女性には現在夫がないこと、これまで5人の夫がいて、いまは夫ではない男性と暮らしていることを言いあてられました。しかし、主イエスはそのような女性の過去と現在を批判なさっているわけではありません。そのような過去と現在を持っているそのままの女性に「わたしを信じなさい」とおっしゃっているのです。そこからすべてが変わって行くのだと主イエスは女性におっしゃっているのです。今のあなたの嘘いつわりのない姿で私を信じなさいとおっしゃっています。神の前で良い恰好をするのではありません。行儀のいい、立派な姿で神の前に立つのではありません。良いところも悪いところもすべてそのままに神の前に立つのです。

 しかし、なかなかそれが私たちにはできません。どうしても取り繕ってしまうのです。サマリアの女も、「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」と言った後、一般的な宗教談義へと話を持っていきます。「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」これはさきほど申しましたサマリア人がゲリジム山で礼拝していたことを指しています。どうしても自分の問題からは目をそらしたいのです。一般論で話をしたいのです。求道中の方と話をしていると、良くこういうことはあります。キリスト教とは、とか、聖書とは、といった宗教的な一般論をされる方が多いのです。もちろん素朴な疑問として質問されているので、一生懸命私も答えますが、そこから少しずつ、自分と神との関係を考える方向に導けたらと思っています。なにより私自身、教会に行き始めた頃は、一般論ばかりで話しをしていたので、一般論を話しをしたい人の気持ちはよく分かります。

 ところで、最近はひねる形の蛇口は少なくなってきました。押したり上げたりするタイプの蛇口が多いようです。どんなタイプのものであっても、水道の水は、蛇口から出てくることを私たちは知っています。水が必要な時、私たちは蛇口をひねるなり、押すなりします。陳腐な例えかもしれませんが、主イエスが「永遠に渇かない水」とおっしゃった水を手に入れるためには、主イエスを信じるということが必要です。主イエスを信じることが「永遠に渇かない水」を手に入れるための蛇口といえます。私たちは喉がからからに渇いているのに水道の蛇口を前にして、水道の仕組みやら、大阪の水の水質について語ったりしません。とにかく蛇口をひねるなり押すなりするのです。しかし、主イエスを前にして私たちは往々にして、宗教の一般論をしてしまうのです。自分がほんとうは深いところで、からからに渇いていることを隠したり、そもそも渇いていることに気づかなかったりします。本当は、渇いて渇いてもう死を待つだけであるのに、「その水をください」と言えないのです。

<永遠に生きた水とは>

 さて、一般論を語るサマリアの女性に、主イエスはおっしゃいます。「婦人よ、わたしを信じなさい。」さらにゲリジム山でもエルサレムでもないところで、まことの神を礼拝する時が来る、とおっしゃいます。それは主イエスを信じることによって実現することでした。一般論ではなく、ただ主イエスとサマリアの女性との個別な関係が重要なのです。主イエスと私たち一人一人との関係が大事なのです。主イエスを信じる、そこからおおいなる新しいことが始まるのです。

永遠に生きた水とは7章において、人々が受けることになる“霊”だと記されています。つまり聖霊のことです。聖霊は主イエス・キリストを指し示す霊です。私たちは水道の水に限らずこの世のさまざまなもので一時的には満たされます。しかし、それは永遠のものではありません。喉は再び渇きますし、そのほかのもろもろもやがては失われるものです。失われていくものに取り囲まれて、私たちの深いところ渇きます。その私たちの深い渇きは罪に源があります。罪のゆえに神と共にいない、そこにわたしたちの深い渇きの原因があります。神から造られた私たちが神を失っている、そこに渇きがあるのです。

私たちが神との関係を取り戻すことができるようにキリストは来られました。必然として来られました。その方を指し示すのが聖霊です。つねにキリストと私たちは結びつけてくださるのが聖霊です。主イエスと共にある時、私たちは神との関係を取り戻します。ですから深いところで潤されるのです。

 「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と主イエスはおっしゃいました。わたしはまだ求道者であった頃、はじめてこの箇所を読んだ時、永遠の命に至る水というのが具体的には何であるかを分かりませんでしたが、とてもきれいな心ひかれる言葉だと感じました。聖書を読み始めて最初に心ひかれた聖句の一つです。しかしこの言葉は美しいものですが、私たちにこの永遠の水を与えてくださるために誰よりもからからに渇いてくださったのはイエス・キリストです。ヨハネによる福音書の19章には主イエスの十字架の出来事が記されています。主イエスが十字架の上でお亡くなりになる時の言葉が「渇く」でした。私たちの罪ゆえの深い渇きを癒すために、主イエスご自身が渇ききって死んでくださった。そのことのゆえにわたしたちは永遠に生きた水を頂きました。「渇く」に続く、主イエスの十字架上の最期の言葉は「成し遂げられた」でした。主イエスは永遠に渇かない水を私たちに与えるために御自身は渇ききり、救いを成し遂げてくださいました。

 十字架のゆえに、私たちは深いところから潤され、神に感謝をして礼拝をお捧げします。ゲリジム山でもエルサレムでもない、まことの神を礼拝することができるようになりました。信じる者とされました。信じる者は心からなる礼拝を捧げるのです。いつかではなく今お捧げします。今、出会ってくださるイエス・キリストがここにおられるからです。


ヨハネによる福音書 3章16~36節

2018-06-11 17:56:16 | ヨハネによる福音書

2018年6月3日 大阪東教会主日礼拝説教 天から与えられるもの」吉浦玲子

 

<誰でも慰めが必要>

 どんなに強い人でも、いえ、むしろ強ければ強い程、ほんとうは慰めを必要としていると思います。本人はそう思っていなくても、本人は慰めや癒しなんて必要ないと感じていても、実際のところは必要なのです。精神的にタフであればある程、多くの痛みや困難に耐えて生きていきます。しかし、耐えているようであっても、やはり痛みや困難は確実に心や魂に傷をつけるのです。大丈夫だ平気だと思って生きていても、ほんとうは心の奥に無数の傷がある。ガラスのグラスがきらきらと光っている、でもふと取り上げて光にさらしてみると、たくさんの小さな傷が入っている、そのように人間には生きていけばいくほど、傷や痛みを経験します。そしてそれらは癒され、慰められねばならないのです。ガラスのグラスの無数の傷はやがてグラス全体を粉々にしてしまうのです。

 

 よく言われますのは、肉親を天に送った後、さまざまにその葬りやらいろいろな手続きに忙殺されて悲しむ暇もなく時を過ごし、ようやくひと段落したときに精神的にがっくりきてしまうことがあるということです。本当は嘆き悲しみたい気持ちを押し殺して、さまざまな葬りのために必要なことをやっていく、それはある意味では、別離の直後のその人の心を支える効果もあると言います。しかし、やはりその心には悲しみや痛みがあるのです。さまざまな葬りのためのあれこれが済んでしまった時、はじめて心の痛みと向き合うということがあります。

 

 そのように、本人が意識するとしないとに関わらず、悲しみやらさまざまな思いを抱えた人間にとって今日の聖書箇所は慰めのある言葉です。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」これは聖書の中で<福音書中の福音書>と言われる箇所です。金色の言葉とも言われる箇所です。クリスマスの時に良く読まれる聖書箇所でもあります。聖書やキリスト教のことをあまり知らない人でも、この言葉を聞く時、神の愛や、神に遣わされた独り子に関して、その恵みの深さや喜びといったものをある程度感じ取ることができるのではないでしょうか?独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る、この言葉に、なぐさめをかんじられるのではないでしょうか?この世は、はかなく虚しいことに満ちています。大帝国も滅び、人間も死にます。そのような世界にあって、「滅びない」という言葉は輝いています。そして、精一杯生きてきた、たくさんの悲しみやら痛みやらを抱えて来た、もうこれ以上は勘弁してほしい、そんな人々に、神は「滅びないためにはこれこれをしなさい」というように、なにか要求をなさるわけではないのです。ただ、神はこの世を愛して、独り子を与えてくださった、そう聖書は語ります。

 

<なぜキリストが来られたか?>

 しかしまた一方で、クリスマスの出来事で、多くのこの世の人がほんとうのところは理解できないのは、なぜ世を愛された神とイエス・キリストの降誕が結びつくのかということです。もちろんなんとなく漠然とは感じられるかもしれません。主イエスは、多くの人の病を癒し悪霊を追い出し救われました。お腹をすかせた人々を魚とパンで満腹にさせられました。有能な医者で社会活動家で、その言動がいかにも愛に満ちてやさしかった、そこに主イエスの偉大さを見、イエスの愛を見るのかもしれません。やさしいやさしい愛に満ち満ちたイエス様、そのイエス様を遣わされたというところに神の愛を見るのでしょうか?クリスマスのきらきらした輝かしくもやさしい愛の物語として私たちはキリストの到来を聞くのでしょうか?

 

 もちろんそうではないのです。

 

 神はその独り子を殺すために、端的に言えば、人間に殺させるためにこの世に与えられました。自分の子を殺されることが分かりながら差し出す親は通常はいません。しかし神はお与えになった。それが神の愛だった、そうヨハネは記すのです。今日の聖書箇所の少し前に、先週お読みしたところですが、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」と主イエスは語っておられました。毒蛇にかまれた人々が助かるようにモーセによって青銅の蛇を干し竿につけられ高く掲げられたように、主イエスもまた十字架に高くあげられる、そのことのゆえに人間は永遠の命を得るとおっしゃっていました。

 

 神はまさに青銅の蛇のように御子を十字架に高く上げられるために、この世に独り子を与えられました。本来は神の裁きによって裁かれねばならない人間が、私たちが、裁かれることなく救われるために、神はその独り子を裁かれました。

 

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」この言葉は美しい言葉ですが、その愛はキリストの肉を裂き血を流すことによって示されたのです。キリストの命と引き換えに与えられた愛です。キリストの命、神の御子の命によって与えられた愛です。ですから、その愛は死を越えるのです。

 

 私たちの人生におけるどのような試練も困難も悲惨も超えるのです。想像を絶するような過酷な体験をした人にもキリストの十字架から注がれる愛は届くのです。その愛はただの上っ面の慰めではないのです。キリストの命と引き換えの永遠の命なのです。死を越える、死を打ち砕く命がほとばしる愛なのです。

 

<闇にとどまる人>

 

 その愛に対して、私たちは、ただ顔を向けて受け取れば良いのです。私自身が、ある時期、信仰に懐疑的になった時期がありました。クリスチャンになっても何も変わらない、いやむしろ状況は悪くなっていくようにすら思えたのです。なにより自分自身がいやになってしまった。明日は今日の続きであって、毎日同じような日々が続くように思えました。そんなとき、牧師から言われました。「吉浦さんは明日も今日と同じと思っているでしょう?」そういうことを牧師には言ったことはなかったのです。でも牧師は「明日は今日と同じ」と思っている私の心を知っていました。そして言いました。「吉浦さん、そんなことないですよ。神様のくださるプレゼントはそんなちっちゃなものじゃない。必ず驚くようなプレゼントが与えられる。だから明日に期待して良いのですよ」と。神様のプレゼントというとなにか幼稚な言い方のようにも聞こえるかもしれません。それにそもそも神様の最大のプレゼントはイエス・キリストであったわけです。しかしそのイエス・キリストを与えられ、それを信じた者にはさらに豊かなプレゼント、祝福があるのだとその牧師はおっしゃったのです。イエス・キリストを信じる者には永遠の命が与えられその一日一日に恵みがあります。

 

 しかし、一方でその神様からのプレゼントを受け取らない人がいます。さきほど申し上げた青銅の蛇でいえば、荒れ野で毒蛇にかまれて倒れているのに、掲げられた青銅の蛇を見上げようとしない人々、そのような人々は蛇の毒がまわってやがて死ぬのです。十字架に上げられたキリストを信じない人々もまた闇の中にあり、やがて命を失います。「信じない者は既に裁かれている」ということは、滅びへの道を歩んでいるということです。

 

 逆に言いますと、私たちは伝道をしますが、それは光の方へ来ませんか?という勧めなのです。神の光の方へ、滅びではなく永遠の命のほうに顔を向けませんか、歩み始めませんかという勧めです。<信じないと地獄に落ちますよ>という脅しの言葉で伝道をするのではありません。少しここは言い方が、難しいところですが、とにかく、私たちはマイナスのことを言って人を導くのではありません。ただ「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された」と伝えるのです。あなたが抱えている痛みも傷も、自分では気づいていない痛みも傷も、十字架の独り子を見さえすれば癒されるのだと伝えるのです。それほどの愛があるのです。その愛を受け取るか受け取らないか、神様のプレゼントを受け取るか受け取らないかはその人の決断にかかっているということなのです。しかし、その決断には命がかかっているのです。

 

<天から来られた方>

 

 今週と来週は少し長い箇所、聖書をお読みいただきますが、今週の聖書箇所の22節からは洗礼者ヨハネの話がふたたび出てまいります。ここにも深い言葉があります。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」そもそもヨハネによる福音書ではイエス様の最初の弟子であるペトロたちももともとヨハネの弟子だったと記されています。洗礼者ヨハネの弟子であった人々がイエスのもとに移って来て、さらにはそれまではヨハネのもとに押し掛けていた人々の流れもすっかりイエスの方に移ってしまったというのです。「時代の寵児」という言い方が昔はありましたが、最近はしません。ある時代にある人がたいへんもてはやされたけれど、やがて別の人に注目が移り、もともともてはやされた人の人気や影響力が衰えていく、そういうことは現代でもあります。最近は人の関心が移るスピードがあまりに速くて、「時代の寵児」が生まれる前に人の関心が別のところに移ってしまうようなところがあるかと思います。2000年前、ヨルダン川の洗礼者ヨハネのもとに多くの人々が押し掛けていた、そのヨハネが洗礼を授けて証しした主イエスという人の方が人気が出て、人々はそっちへ行ってしまった、それは現代でもある先ほど申し上げた人気の移り変わりの話のようでもあります。しかしここでヨハネは深い言葉を語ります。自分自身を花婿の介添え人に例え、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶとヨハネは語ります。神と人間の祝福された様子は結婚式で良く現わされます。キリストは花婿で私たちは花嫁である、と。ヨハネはその花婿の傍らに立つ介添え人である、と。イスラエルの結婚式では介添え人は花婿の傍らで式全体を支えます。介添え人は主役ではありません。しかし重要な役割です。花婿と花嫁の喜びのために奉仕をするのです。

 

 このヨハネの言葉は、単なる謙遜の言葉ではありません。後進に道を譲るといった鷹揚な態度でもありません。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」あの方は栄え、わたしは隠退してのんびりするというのではありません。私は衰えねばならないと言っているのです。これは厳しい言葉です。普通「わたしが衰えたから、あの人が栄えた」とは言えます。でも、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」とは言えません。

 

 ところで、「神に栄光を帰す」という言葉があります。この言葉は詩編などの旧約聖書にも出てくる言葉です。私たちは、この言葉を言う時、ほんとうに「神に栄光がありますように」と思っています。しかし、本来は、神にのみ栄光があるのですから、お返しするというのは変な言い方ではあります。でもこの言葉を思う時、本来の持ち主にお返ししますと言わざるを得ないほどに、私たちは普段、栄光を自分の内に握りしめているとも言えます。ヨハネが、「あの方は栄え、私は衰えねばならない」というとき、それはすなわちキリストのみに栄光があると言っています。神に栄光はあるが、私にも少しはある、ということではなく、ただ神にのみ栄光がある、そしてまたキリストのみが栄え、他は衰える、ということなのです。そしてそれはいやいやながら、キリストに栄えを譲ったというのではなく、花婿の介添え人が大いに喜ぶように、喜んで自分は衰えるのだといっているのです。そこに神と人間の本来の姿があり、キリストを迎える人間のあり方があるといえます。

 

 そのような関係が築けるのは、そもそも、キリストがどこから来られたのかということをはっきりとわきまえているからでもあります。ヨハネがキリストがただの人間であると思っていたのだったら、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」とは言えなかったと思います。少なくとも喜んでは思えなかったでしょう。

 

 しかし、「天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」とあります。31節以降については誰が語った言葉かということで、学者の間でも論争のあるところです。主イエスご自身の言葉であるとか、ヨハネの言葉の続きであるとか、意見があります。しかし、ヨハネ自身が、キリストは天から来られた方であることは十分理解していたことは間違いありません。

 

 この地上には暗闇が満ちています。混沌が満ちています。しかし、天から来られた方は光をもたらされました。まことの救いをもたらされました。大いなる賜物が与えられました。それはキリストへと顔を向ける時、気づきます。顔を向けなければ気づきません。救いにも慰めにも気づきません。いえ、キリストを見上げなければ自分自身の本当の痛みや傷にも気がつくことはできません。キリストへと顔を向け、顔を向け続けながら歩んでいきましょう。私たちはなかなか自分自身の栄光を手放せない者ですが、なお、天から来られたキリストは御自分をを見上げる者に、ご自身のご栄光の光の中から、大いなる喜びを与えてくださいます。

 

 

 

 

 


ヨハネによる福音書3章1~15節

2018-06-11 17:52:06 | ヨハネによる福音書

2018年5月27日 大阪東教会主日礼拝説教 「水と霊によって生まれる」吉浦玲子

<招かれたニコデモ>

 主イエスは人々を招いておられます。人々が、信じない者ではなく信じる者へとされるように、滅びではなく救いへ向かうように、闇ではなく光の中に生きるようにと招いておられます。その招きをうけた一人が今日の聖書箇所のニコデモです。もちろん、今日の聖書箇所ではニコデモが主イエスに招かれたという記載はありません。ニコデモはみずから主イエスのもとへ赴いて来ました。ニコデモの社会的立場からすると危険すら犯して、主イエスのもとに来ました。主イエスは、先週お読みした神殿での出来事をはじめ、その行動と言葉において、ファリサイ派や祭司たちを敵に回しました。エルサレムの権力者たちから疎まれていました。その権力側にニコデモはいました。ですから、ニコデモは夜の闇に乗じて来たのです。人目を避けて来たのです。ニコデモは人目を避けて、自分の思いで、危険を冒して、自分の意志で来たのです。しかしなお、ニコデモは主イエスに招かれたのです。深いところで、ニコデモは主イエスからの招きを感じたのです。

 ニコデモはファリサイ派であり、聖書に詳しかったのです。信仰的で熱心な人でした。議員であり、人々に教える教師でした。そのニコデモの深いところに、主イエスがなさったしるしは響いたのです。ニコデモが目の前で主イエスの業をみたのか、伝え聞いたのかは分かりません。いずれにせよ、聖書の教師であり議員であったニコデモがごく単純に主イエスのなさった奇跡に驚き、主イエスを<わあ、すごい>だと思ったのではありません。ニコデモは求めていたのです。ほんとうの救いを求めていたのです。ほんとうの神の業を求めていたのです。聖書のことは誰よりも詳しく知っている、人に教えるほど知っている、そんな自分でありながら、自分が救われていないことをニコデモは感じていたのです。どれほど熱心に聖書を学んでも、まじめに律法を守っても、そこには真実の平安がなかったのです。

 思い起こすのは幾度かお話ししたことのある宗教改革者のルターの若き日のことです。ルターもまた、まじめな修道者として、そしてまた聖書の学者として日々を送りながら満たされていませんでした。満たされるどころか、むしろ恐れに囚われていたのです。自分自身が救われる確信がありませんでした。どれほどまじめに修道者として生活をしても、熱心に学んでも、自分の罪が赦されるとは思えませんでした。絶えず不安がありました。

 しかしルターは、ローマの信徒への手紙のパウロの言葉を再発見しました。「信仰によって義とされる」ということを自身の信仰的確信として発見しました。まじめな修道者としての生活や聖書の学びといった行いではなく、ただ十字架と復活の主イエスを信じる信仰によって救われる、そのことを知ってルターは初めて平安を得ました。救いの確信を得ました。しかし、ルターは神学的にまったく新しいことを言ったわけではありません。「ローマの信徒への手紙」で、そしてまた「ヘブライ人への手紙」で語られている信仰の意味を16世紀に新しく捉えなおしたのです。行いによって正しい者とされる、救われるという誤った当時の考えを、もともと聖書で語られていた原点へと引き戻したのです。

 ニコデモもまた、求めていました。信仰によって義とされ救われるという確信に至るまでのルターのように不安で、救いを求めていたのです。求めていたニコデモは主イエスに呼ばれました。深いところで主イエスの招きを感じ、やってきました。

<新たに生まれる>

そのニコデモに主イエスはおっしゃいます。「はっきり言っておく。人は、新たに生れなければ、神の国を見ることはできない。」

 これは、ニコデモにとって驚天動地なことでした。熱心に聖書を学び、律法を守っていた自分が生まれなおさなければ神の国を見ることができないなどと言われるとは思っていなかったのです。ニコデモは今の自分に何かプラスアルファすれば、救いを得られ、神の国へと入れると思っていたのです。しかしそうではない、もう一度生まれなおしなさい、と主イエスはおっしゃるのです。「年をとった者が、どうして生まれることができるでしょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」ニコデモは生まれ変わるということを肉体的に生まれ変わると感じているようです。このやり取りから分かることは主イエスがおっしゃっていることが、「生まれ変わったように何かをしなさい」とおっしゃっているのではなく、まさにもう一度「生まれる」ことをおっしゃっているということです。生まれ変わったようにまったく違った観点で聖書を読みましょうとか、まったく新しく生き直すように律法を解釈して実行しましょうということではないのです。徹底的に何かをしなさいということではありません。今の自分に何かをプラスしなさいということではないのです。

 聖書を長く読まれている方はここで主イエスがおっしゃっているのは洗礼のことだと理解されているかと思います。続いて主イエスが語られている「だれでも水と霊によって生れなければ、神の国に入ることはできない。」という言葉は、たしかに洗礼のことをおっしゃっているのです。しかし、一方において、現実に、洗礼をお受けになった方が、洗礼で「新しく生まれた!」という感覚をどれほど鮮烈に覚えられたかというと千差万別だと思うのです。私自身、洗礼を受けるとき、洗礼式が近づいたころ、当時の牧師から、「吉浦さんのこの世での命はあと何日ですねー」と何回か言われました。洗礼とはこの世の命にいったん死に、新しく生まれることだと理解していたので、その牧師の言葉はよく分かりました。しかし実際に洗礼の時、頭から水をたらされた、そのとき、現実的に自分が死んだとか新しく生まれたという感覚は持てませんでした。

 じゃあ洗礼はあくまでも形だけの儀式であって、洗礼を受けた人は死にもしなければ新しく生まれもしないのでしょうか?そうではありません。たしかにキリストを信じて信仰告白をして洗礼を受けた者は、新しく生まれたのです。生まれさせていただいたのです。ですから、洗礼を受けた者は洗礼の日を境に変えられてきたはずです。まったく変わっていないなどということはないはずです。変えられているのです。新しくされているのです。

<上から生まれる>

 そうしてもう一つポイントがあります。ここで主イエスが「新しく生まれなければ」とおっしゃっている「新しい」という言葉は、もう一度、とか再びというニュアンスと合わせて、「上から」というニュアンスもあるのです。ここで主イエスがおっしゃっている新しく生まれるということは、当然、もう一度、母の胎内に入ることではないと同時に、まったく違う生まれ方をする、上から生まれるということなのです。上から、つまり神からもう一度生まれさせて頂くということです。

 神から招かれて神のもとに来たら、今度は神にもう一度生まれさせていただくのです。神の招きは一回だけではありません。たとえばこの教会に入ってくるにも、正門側からにせよガレージ側からにせよ、まずブロック塀の内側に入ってきます。そののち、日曜日であれば礼拝堂であり、また平日であれば私が執務している別館へと入ってきます。ブロック塀の内側に入って、そのまま引き返す人もおられます。礼拝堂なり、別館へ一回だけ来て、それっきりの方もおられますし、継続的に来られる方もおられます。それまで教会に来たことのない方にとっては、ブロック塀の内側に入るのも勇気がいることかもしれません。わたしもそうでした。初めて教会に行く時は勇気が要りました。建物の中に入るのは更に勇気がいるでしょう。決断がいるでしょう。そしてまた物理的に建物の中に入るだけではなく、信仰という目に見えない招きの扉を開くのはまた勇気がいることです。決断がいることです。しかし、そのすべての扉は、神によって供えられ、神が開かれるものです。恵みによって供えられるものです。

 ニコデモは主イエスのところに来ました。招きに応えたのです。そしてまた、新しく生まれる、上から生まれるという新たな招きをいま受けています。新しい招きの扉の前にいるのです。恵みの扉の前にいます。上から、まさに上におられる神によって供えられた扉の前に立っています。私たちも上からの恵みによって、新たに生まれました。いまも生かされています。そして折々にまた新しく招きを受けるのです。さらに新しく生かされています。私たちの力ではなく、神の恵みによって、招かれて、上からの力によって生かされています。

<風は思いのままに吹く>

 しかしその恵みの招きの中で主イエスとニコデモの会話はどこまでいっても平行線なのです。ニコデモは「どうして、そのようなことがありえましょうか」と答えています。その会話のなかで「風は思いのままに吹く」という不思議な言葉があります。風はギリシャ語で、息とか霊という意味も持っています。つまり風はここで神の霊を重ねて語られています。神の霊は思いのままに吹くと主イエスはおっしゃっているのです。私たちの常識の中で、たぶんこっちから吹いてあっちに行くだろうと考えられるような形で神の霊の働きはないということなのです。しかし、その霊の働きは風のようになんとなく感じることもできるのです。物理的な風は、木の葉がざわめくのを見たり、実際に肌の感覚で感じたりします。神の働きもそうだと主イエスはおっしゃいます。ニコデモは主イエスに招かれたと言いました。ニコデモは主イエスのなさった業に神の働きを感じたのです。最初の主イエスへのニコデモの言葉は「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」でした。ニコデモは主イエスのなさったしるし、奇跡に神が共におられると感じたのでした。

 まじめな教師であるニコデモが長年培ってきた感覚や常識、宗教的知識を越えて、神は働かれ、その神の霊の働きによってニコデモは主イエスのもとに招かれました。私たちも同様です。私たちも人それぞれさまざまな経緯でありながら、なにか感じるところがあって、神が感じさせてくださって、教会へ来たのです。そこに神の霊の働きがあったのです。神の風が吹いたのです。先週はペンテコステの礼拝でした。2000年前に吹いた神の霊の風は今も吹き続きていました。しかしまた、一方で、人間は、その神の霊の働きを意識的にも無意識的にも押さえようとしてしまうのです。どうしても私はこっちからあっちへ向かいたいと、神の霊の風とは逆の方に歩むときがあります。神の霊の風をさえぎるように歩んでいても、私たちは神の働きを感じることができません。むしろ、その歩みは抵抗の多い、障害の多いものとなります。私たちはその時ニコデモのように「どうして、そんなことがありえましょうか」と神の霊の働きを信じない者になっているのです。エフェソの信徒への手紙に「神の聖霊を悲しませてはいけない」とあります。風は神の霊と申しましたが、一方で聖霊は人格を持ったお方です。聖霊の力は風のように感じるのですが、その存在自体はふわふわしたものではありません。人格をお持ちですから、聖霊は悲しまれることもあるのです。私たちは聖霊を悲しませてはならないのです。

<何度でもやり直せる>

 さて、<新たに生まれる>、つまり<上から生まれる>ということを別の観点で言いますと、それは神の子どもとされるということです。正確に言うと神の子どもとされる権利を得るということですが、神の子どもとされると言っていいでしょう。神から神の子どもとして新しく生まれさせて頂くのです。そしてまた、神の子どもとされた者は何度でもやり直せるのです。洗礼はただ一度ですが、一度、神の子どもと私たちの人生は、日々新しくされるのです。私たちの内に与えられた神の霊によって、新しくされるのです。

 現実の私たちの人生はやり直しの利かないことだらけのように感じます。もちろん、若いころならある程度、やり直しはきくかもしれません。若いスポーツ選手のことがニュースをにぎわせていますが、あの選手は、いろんな形でこれからやり直すことができるでしょうし、ぜひやり直してほしいです。一方で、一般的には歳をとればとるほど、やりなおしはできません。でも、神によって新しく生まれた者は、上から生まれた者は、何度でもやり直すことができます。神の前ではいくつになっても、子供です。聖霊によって愛と力と知恵を日々いただく子供です。肉体的には衰えても、新しく生きていくことができます。

 「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」そう主イエスはおっしゃいます、これは民数記に記されていることをもとに語られています。出エジプトのイスラエルの民が荒れ野で神に逆らいました。神がお怒りになり、炎の蛇を民に送られました。そこで多くの人が死にました。民が悔い改めると、モーセは神にとりなしの祈りをし、青銅の蛇を作り旗竿にかかげました。神から送られた炎の蛇にかまれた者はそのかかげられた青銅の蛇を見上げれば助かりました。主イエスご自身が自分も上げられねばならないというのは、十字架のことです。かつて荒れ野で人々が青銅の蛇を見上げて命を救われたように、わたしたちのためにキリストが十字架に上げられました。その十字架のイエスを見上げる者は救われるのです。永遠の命を得るのです。それは現実の中で行き止まりになる人生ではなく、幾たびもやり直しのできる神の子どもとしての人生です。死では終わらない希望のある日々です。