2018年6月24日大阪東教会主日礼拝説教 「偶然ではない」吉浦玲子
<主イエスのしるし>
ヨハネによる福音書では主イエスの行われた奇跡は「しるし」と書かれています。「しるし」というのは本来、何かの区別をつけるときにつけるものです。ある幼稚園では子供たちが、クラスごとに違う動物の形をした名札をつけています。クラスの違いを現わす「しるし」です。むかし、仕事でお付き合いのあったある製鉄会社は、役職によって帽子や腕章にひかれた線の数がちがっていて、その線の数を見て、新入社員はお辞儀の角度を変えるように指導されていました。私が働いていた職場でもある一定の役職以上になると、座る椅子の肘かけが変わりました。
他と違うことを端的にあらわすのが「しるし」です。主イエスは、奇跡を「しるし」として行われました。そこに神の栄光が現わされていることを示す「しるし」です。ヨハネによる福音書での主イエスの最初の「しるし」はカナの婚礼の席での、水をぶどう酒にお変えになったことでした。その箇所を見ますと、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現わされた」とあります。栄光というのは、ヘブライ語のカーボードという言葉が元になりますが、これには輝きという意味と、重たいというニュアンスがあります。もちろん栄光と言うと輝かしいのですが、それはなにより重たいものなのだといえます。神の出来事を現わすのですから、当然、それは軽いものではなく、重たいのです。その重たい神の出来事のしるしとして主イエスは奇跡を行われました。
<ピンチはチャンス>
しかし、人間にはその「しるし」の重さはなかなかわからないのです。神の栄光の輝きはなかなか見えないのです。ただ起こされた奇跡の出来事に驚嘆し、あるいは逆に偶然ではないか、トリックではないかと疑ったりするのです。
そしてまた心からこれはすごいと驚嘆していても、その出来事に現わされた「しるし」を感じ取ることができません。そこに神の栄光を見ようとしません。神の栄光を見ない時、その出来事のすごさのみに注目します。そしてすごさを自分のために利用しようとします。利用というとなにか非常に悪いことのようですが、私たちは往々にしてそうなりがちなのです。
主イエスはサマリアで二日間お過ごしになって、ガリラヤに戻られました。<「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきりおっしゃったことがある。>そう書いてあります。他の預言書には故郷の人々から明確に排斥される記事などもあります。しかし、今日の聖書箇所では、<ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した>とあります。ガリラヤの人々はこの場面では排斥したわけではないのです。むしろ、主イエスのなさった素晴らしい出来事を聞いて、自分たちの故郷のヒーローのような歓迎をしたのです。そこに悪意はなかったでしょう。しかしその歓迎は、神の出来事の重さを感じたものではなかったのです。主イエスを神の預言者として敬うものではなかったのです。今で言うならば、地元出身のオリンピックのメダリストや芸能人を歓迎するようなものです。そこに悪意や明確な計算はなく素直に地元出身者の活躍が嬉しいということはあるかもしれません。しかしその根底には地元になんらかの利益をもたらしてくれたという喜びや同郷の人の活躍に自分自身を重ねた自己肯定感による快さがあります。明確な悪意はなくとも、その根底に自分にとっての利益不利益、快や不快といったものが尺度となります。
それに対して、王の役人は切羽詰まっていました。今日の聖書箇所に出てくる王の役人は息子が病気でした。それも重篤な病気でした。カファルナウムからガリラヤまで30キロぐらいありますが、その道のりを主イエスのところまでやってきたのです。王の役人ですから、それなりに権威のある人です。当然、子供を医者にも見せたでしょう。お金のかかる薬やさまざまな治療法も試みたかもしれません。結局、王の役人という権威は、息子の病気の前では何の役にも立ちませんでした。病と死の現実の前ではこの世の権力は無力であることをいやというほど知らされました。そして万策尽きてしまったのです。そこに主イエスの奇跡の噂を聞きました。もうこの方にお願いするしかない、そう思いつめて役人は来たのです。
軽い言い方になってしまいますが、信仰において「ピンチはチャンス」であるといえます。キリスト教に限らずなにか信仰を持っている人、ことに生まれ育った家の宗教とはことなる宗教に入った人には、信仰を持っていない方から「よほどたいへんなことがあったのですね」と思われる節があります。病気であるとか、特別な悩みがあって宗教に入ったのだろうと思われる、人生のピンチにおいて宗教にすがる、そのように世間の人からは見られているところがあります。20代の頃、たまたま通勤電車の中で「仏教入門」のような本を読んでいました。当時はいろんな本を濫読していただけで、特に悩み事があったとかいうわけでもなく、仏像とかきれいだなあというくらいの興味で読んでいたのです。ところが数日後、職場の友人から言われました。その友人の友人が、私が電車の中で仏教の本を読んでいたを見ていたそうなのです。で、友人の友人は、私の友人に声をひそめて「あの人、なにか悩みでもあるのでは?」と伝えたというのです。その友人は私のことをよく知っていましたから、笑って伝えてくれましたが、世間一般では、よほどのことがあって宗教に入ると思われているようです。
教会に来られている人が教会に来られるようになった理由は実際のところさまざまです。別にピンチだったからではないという人もありますし、実際、なにか人生に行き詰まって救いを求めて来られた人もいます。しかし、どちらであるにせよ、人生に行き詰まってしまった、そんなピンチは、神から与えられたピンチであり、同時に神を知るためのチャンスでもあります。すでに信仰を持っている人々も同様です。その信仰が深められ、信仰が実りを豊かにされるために試練と言うピンチが与えられます。
この王の役人もそうでした。子供の病気という、自分の権威や財産ではどうしようもない現実の前に、主イエスのところへ向かったのです。それはその時は役人には分からなくても、神との必然の出会いのために神によって供えられたものでした。サマリアの女が暑い正午ごろ、ヤコブの井戸の前で主イエスと出会ったことも必然であったように、この王の役人にとっても、主イエスと出会う必然のために、息子の病という試練は与えられました。
<神のやり方>
どうにかこの試練の中で、問題を解決してほしい、人間は願います。そこで神が解決をしてくださったら人間は満足をするでしょうか?そのときは満足し感謝をすると思います。そのことを通じて信仰を持つこともあるかもしれません。でもそれは神が自分の願いを聞いてくれたから信じるという信仰です。次の試練の時、神が解決してくださらなかったら、なんだこんな神様なんていらないというような信仰です。そういう信仰ではない、まことに神の「しるし」を「しるし」として見ることのできる、神の栄光の重さを感じ取ることのできる信仰が必要なのだと福音書は語ります。「しるし」を「しるし」として感じ取るには、神が自分の思い通りになされるのではなく、神が神ご自身のやり方で業をなさるのだということを知る必要があるのです。王の役人もそうでした。
王の役人は「カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。」とあります。しかし主イエスは「ではすぐに行きましょう」とはおっしゃいませんでした。主イエスは「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない。」と、意外にも冷たくおっしゃるのです。王の役人は、当然、主イエスはカファルナウムの自分の家までやってきて息子に手を置いて癒してくださると思ったのです。30キロの道のりを歩いてきた父親です。主イエスへの信仰がなかったわけではないのです。しかしその信仰の質が問われたのです。
似たような場面が旧約聖書にもあります。異邦人であるナアマン将軍というすぐれた将軍が重い皮膚病に罹りました。ナアマン将軍の上司である王がイスラエルの王に病気の癒しを依頼したという経緯もあり、ナアマン将軍は預言者エリシャに重い皮膚病を癒してもらうことになりました。そしてイスラエルにやってきました。ナアマンは数頭の馬と戦車に乗って部下と共にエリシャのところにやってきたのです。そこでエリシャは使いの者をナアマン将軍のところにやって「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい」と言わせました。これに対してナアマン将軍は怒りました。将軍と呼ばれ王からも目に掛けられている自分がわざわざイスラエルまでやって来たというのに、エリシャ本人は出てこず、使いをよこしてきただけで、ただヨルダン川で体を洗えとしか言われなかったのが不満だったのです。当然、預言者エリシャ自身がでてきて、体に手をおいて、癒してくれると思っていたからです。しかし、ナアマンは家来たちにいさめられ、結局、エリシャの使いが言ったとおりにヨルダン川で七度身を浸して癒されました。そしてナアマン将軍にはイスラエルの神への信仰を与えられました。ナアマン将軍は自分が期待したようなやり方ではなく癒されました。しかしその期待したようなやり方ではなかったというプロセスにおいて、自分が砕かれました。自分のやり方ではなく、神は神のやり方で良きことをなさることを知らされました。そこに本当の信仰が生まれました。
今日の聖書箇所の役人もおそらく、主イエスにカファルナウムまで来ていただいて、手を置いていただき、病を癒していただきたかったのです。しかし、主イエスは自分が望んだようなやり方では願いを聞いてくださいませんでした。望んだようなやり方で願いが叶うのであれば、それは神はアラジンの魔法のランプの魔人のようなものになってしまいます。
あることがらを熱心に願って祈っていてもなかなか聞かれない、そういうことが良くあります。状況はちっとも自分の願っている方向に向かわない、ところがある時、気がつくことがあります。自分の願ったようには状況は変わってはいないけど、もともと悩んでいたことは、気がつくと解消していた、ということに。たとえば、ある方は病気が癒されさえしたら、自分はもっとたくさんの人と知り合えて、またたくさんの人のために働くことができるのにと病の癒しを願っていました。でも病は癒されませんでした。しかし気がつくと、その人の書いたブログで多くの人が慰められていました。病気のために多くの人と知り合うことができない、人の役に立つことはできない、と思っていたら、実はブログを通して多くの人との交わりが与えられていました。その人の病の中にありながら明るく柔らかな文章に、しかし時には正直に辛さも打ち明けてあるブログに、とても多くの人が慰めや支えを与えられました。そしてなによりその本人が知り合った多くの人との豊かな交わりの内に喜びを与えられていました。
<神の言葉によって>
王の役人は必死に主イエスに言いすがります。「主よ、子供が死なないうちに、おいでください。」さきほど、信仰の質が問われると申し上げました。子供が生きるか死ぬかの時にこれはとても厳しいことであると思います。信仰の質はもう少し落ち着いた時に問うてほしい、今はとにかく、子供の命がかかっているのだ、そっちのほうが大事だ、こう考えるのは人間として当たり前の感情です。しかし、実際のところ、信仰の質は、厳しい状況においてこそ問われるのです。ゆったりと余裕のある時、聖書もじっくりと読め、祈りの時間も取れる、そのような日々ではなく、むしろ、切羽詰まったぎりぎりの時に、あなたにとって信仰とは何か?と神は問われるのです。
王の役人に主イエスはおっしゃいます。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」
すると王の役人は「イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」とあります。これはとても不思議なことです。カファルナウムまで主イエスをお連れして癒してほしいと願っていた役人が、主イエスの言われた言葉を信じて帰って行ったのです。息子が死なないうちにと言いすがっていた49節とイエスの言葉を信じた50節にはおおきな信仰の飛躍があります。49節で息子が死なないうちにといいすがっていた必死だった役人は、50節で「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と主イエスに言われたとき、なんだ来てくれないのか、結局治せないんだな、何もしてくれないでいい加減なことを言いやがってと怒り狂うこともありえたはずです。しかし、驚くべきことに、この役人は<主イエスの言われた言葉を信じて帰って行った>のです。元気になった息子の姿をまだ役人は見ていないにもかかわらず、「信じて」役人は帰って行ったのです。主イエスの言葉によって信じさせていただいたのです。ヘブライ人への手紙11章の有名な言葉であります「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」があります。この役人にはまだ元気になった息子の姿は肉眼では見えていなかったのです。しかし、その癒しを確信させていただいたのです。主イエスの言葉によって、です。自分中心の信仰から、神のなさることをそのままに受け入れる信仰へと変えていただいたのです。自分の望みが自分のやり方で叶えられるのではなく、神の栄光の重みが現わされることを待ち望む信仰へと変えられたのです。それは主イエスの言葉によって起こることです。無理やりに役人はそう思いこんで帰って行ったわけではありません。主イエスの言葉によって確信を持って帰って行ったのです。そして実際に息子は癒されました。息子は生きたのです。しかし生きたのは、息子だけではありません。なにより王の役人自身が神の栄光の内に新しく生かされる者とされたのです。サマリアの女に与えられた永遠の生きた命の水が与えられたのです。肉体的には、癒された息子も父である王の役人もサマリアの女もやがて死んだでしょう。しかし彼ら彼女らは、主イエスの言葉によって「生きた」のです。それは単に心に平安が与えられたということではないのです。自分たちがまことに死を越える命に生かされているということを知ったのです。
信仰はたいへんなときにこそ問われると申し上げました。先般、大阪に大きな地震がありました。私自身、震度5強の地域におりまして、人生で体験した最大の地震の揺れでした。本棚が倒れ、いくばくかのものが壊れました。私にとっては驚きでしたが、今回の地震の被害としてはごく小さなものです。亡くなった方もおられ家屋に大きな被害に遭われた方もおられます。しかし、そのような非常事態の中にこそ問われるのが私たちの信仰です。もちろん揺れている最中、あるいはさまざまな日常の復旧作業の中、祈りもままならないということはあります。目の前のことで精一杯ということは現実にあります。地震当日、二時間かけて淀川区の自宅から教会まで歩いてきました。祈っていたといえば祈っていました。しかし、正直、その日から数日はいろんな意味で自分の信仰が試されていると感じました。しかしなお、私たちの信仰は、その現実を越える命の信仰なのです。今は目の前の復旧活動に専念して、どうにか落ち着いてから信仰のことは思い出しましょうという信仰ではないのです。
私たちは「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と叫んだ役人のように、目の前の現実に恐れ怯えます。死と崩壊の現実を恐れます。苛酷な現実に立ちつくします。しかしなお主イエスはおっしゃいます。「あなたの息子は生きる」。これは私たち自身にも<あなたは生きる>とおっしゃっているのです。<あなたは生きる>、どのような現実のなかでも私たちは生かされる、現実を越えて、永遠に生かされる、その命の言葉を聞くのです。単なる人生訓ではない、表面的な励ましではない。かつてがんばろー神戸という言葉がありました。がんばろー東北、がんばろー熊本、大分、もちろん傷ついた人々が立ちあがっていくとき、そのような合い言葉のようなフレーズは力になります。無駄ではありません。しかし根本的に人間をたちあがらせ、頑張る力を内側から与えるのは「あなたは生きる」という主イエスの言葉だけです。十字架の死から復活されたイエス・キリストの命の言葉だけが私たちをまことに生かすのです。人間は弱いので一度聞いても、また現実の中で怯えます。ですから繰り返し聞かせていただくのです。「あなたは生きる」という主イエスの言葉を。その命の言葉を繰り返し聞かせていただきながら私たちはどのような現実の中でも生き生きと歩みます。