2018年10月28日 大阪東教会主日礼拝説教 「因果応報ではない」
<因果応報という穴>
主イエスは、通りすがりに、生まれつき目の見えない人を、見かけられました。この生まれつき目の見えない人は神殿の外で物乞いをしていたのです。生まれつき目の見えない人は神殿に入ることができなかったのです。「目の見えない人と足の不自由な人は神殿へ入ることができない」当時のイスラエルではそのように言われていました。それは律法的な根拠があったわけではないようです。ただ旧約聖書のサムエル記にはダビデを巡る物語の中で「目の見えない人、足の不自由な人」が神殿に入ることを認めないという記述が見られます。律法ではなく慣習的なことであったようですが、神殿に入ることができないということは、神から見捨てられている人とみなされているということです。そして信仰共同体からはじき出されているということです。その神殿に入ることができない生まれつき目の見えない人は、神殿の外で神殿に詣でる人々からめぐみをいただこうとしていたのです。それはその人にとって、ずっと毎日続けてきたことでした。そのようにしてしかその人は生きていくことができなかったのです。その人を前にして弟子たちは不躾にも「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」と聞きました。このように自分に対して失礼なもの言いをされることも、この目の見えない人にとっては改めて腹を立てるようなことではなかったでしょう。多くの人々がこの人を前にしてそのような言葉を発してきたと考えられます。そういう言葉を聞き流して、ただいくばくかの小銭でももらえたらいい、そのようにしてこの人の日々は過ぎていったのです。体に障害がある、それはきっと罪のためなのだ、そういう因果応報的な考えが当時は一般的だったのです。ひょっとしたら本人もどうして自分が生まれつき目が見えないのかは、はっきりとはわからないなりに、なにか因果応報的なことがあるのかもしれないと感じていたかもしれません。
現代においてもそうです。わたしが存じ上げている、生まれつき目の見えない方も、子供のころからいくたびもいろんな人が「この子の目が見えないのは先祖が悪いことをしたからだ」とか「ばちが当たったのだ」という言葉を聞いて来たとおっしゃいました。
因果応報、原因があって、結果がある。それはミクロの状態では成立します。また理論的には成立することです。作用する条件が限られていて、そのなかで、ある事柄が原因となって、結果が生じます。私は理学部の出身ですので、実験環境の中での原因と結果というのは分かりやすく感じます。しかし、現実の生活は試験管の中やビーカーの中のようにはいきません。もっともっと複雑です。なにが原因でなにが結果か、いろんな条件があって、それはよくわからないのです。分からないからこそ、逆に私たちはあることが起こったとき原因を追究したくなります。もちろん原因を追究しないといけないこともあります。たとえば企業が販売している製品に問題が起こったとき、問題が再発しないために、なにがなんでもその原因を調べて対策をしないといけません。コンピューターのシステム開発をしているとき、システムに問題があったとき徹底的に何日もかけて原因を調べました。
しかし、ある限られた条件下でなら原因と結果は分かりやすいのですが、私たちの人生や世の中のことを考えるとき、原因と結果というのは分かりません。たまたま交差点で交通事故にあった、その交差点にその時間に行かなければ事故にはあわなかった、じゃあ交差点に行ったのが原因でその結果として事故にあったのか。そんなことはないのです。交差点に行くのは毎日のことで、いつも同じ時間に行っていてなぜその日だけ事故にあったのか。そういうことは、なぜ、と考えてもわからないのです。しかし、どの時代でも、どこの国でも、因果応報的な考えは根強いのです。悪い結果が起こったとき、そこには何か原因があると考えます。不幸なことが起こったとき、苦しいことが続くとき、それはこれこれこういうわけで起こったのだと誰かが説明してくれたら気が楽になります。場合によっては原因を取り除いて状況を改善できると感じます。かつてテロ事件を起こした新興宗教には高学歴な若者の信徒がたくさんいたことが話題になりました。それも理科系の若者が多かったのです。新興宗教の一つの特色として上げられるのは、そこでは問題に対して明確に答えが与えられるということです。人生について、苦しみについて、未来について、さまざまな問いに対して明快に答えが与えられるのです。もちろんそこには、どこかごまかしがあるのです。あるいは特殊な洗脳によって信じ込まされる側面もあります。しかし問いに対して答えが与えられるというのは、一般に理論的な思考ができると思われている理科系の若者にはことに魅力的だったのではないかと想像できます。もちろん、さまざまな人生経験をしていたら、人生はそのように単純に原因と結果で割り出せるようなものではないと判断できたかもしれません。しかし、人生経験の浅い若者は因果応報的な考えの穴に落ち込んでしまったのです。
正統的な宗教においては、そうおいそれとさまざま人生の問いについて明確な答えは得られません。聖書においてもすかっと謎が解けるような爽快感を覚えることはそうありません。むしろヨブ記をはじめとして、神のなさることの不条理のなかに置きっぱなしにされるような感じを持たされるようなことも多々あります。
<遣わされた者によって>
では、聖書は私たちをただ不条理なところに置きっぱなしにして、でもそれが神のなさることなんだとあきらめるようにと語っているのでしょうか。もちろんそうではありません。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」という弟子たちの問いに主イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」とお答えになりました。
この聖書箇所によって、私が存じ上げている生まれつき目の見えない方は信仰を得られました。そしてまた、多くの目の見えない方がこの箇所を信仰を得た契機として上げられたり、愛誦聖句として上げられると聞きました。しかし、不思議なのは、「神の業がこの人に現れるためである」という言葉における「神の業」とは何でしょうか?実際、今日の聖書箇所に出てくる生まれつき目の見えない人は、目が見えるようになりました。神の業が現れたのです。しかし、この聖書箇所を愛誦する多くの目の見えない人たちは依然として目は見えないままなのです。しかしなお、その人たちは、この聖書箇所を読むとき、涙ぐむようにして、神の恵みについて語られます。
主イエスはこの目の見えない人の目に唾でこねた泥を塗られました。そういうことを主イエスがなさった理由はさまざまに解釈されます。唾には消毒作用があると考えられていたというのはよく言われます。そしてまた、その泥を目に塗るという行為は、なんらかのことを主イエスがなさっているということを、この目の見えない人にが理解できるようになさったのではないかとも言われます。そして主イエスは洗い流すためにシロアムの池に行くように命じられました。その泥を洗い流すという行為をこの目の見えない人がするために敢えて主イエスは泥を塗るという行為をなさったとも言えます。その人は従順に主イエスの言葉に従いました。神殿からシロアムの池まで行きました。シロアムの池というのは神殿からけっして近いわけではありません。1キロくらいあります。ちなみに7章で出てきた仮庵祭のとき祭司が水を汲むギホンの泉のはずれにあります。もともとは考古学的にはギホンの泉の場所がシロアムの池と考えられていました。しかし、14年ほど前、あらたに100メートルほど離れたところに、遺跡が発見され、そちらがシロアムの池だということが分かったのです。神殿からそのシロアムの池までの道のりをこの目の見えない人は歩いて行ったのです。そしてシロアムの池で目を洗うと、たしかに目が見えるようになりました。これはシロアムの池の水がなにか霊験あらたかな作用をしたということではありません。聖書にはシロアムの池の説明としてわざわざ「遣わされた者」と記してあります。「遣わされた者」とはそもそも誰でしょうか?それは神から遣わされた主イエスにほかなりません。この目の見えない人は遣わされた者である主イエスの言葉に従ってシロアムの池まで行って目が開かれました。
遣わされた者と出会って、遣わされたお方の言葉に従うとき、人間は目を開かれるのです。いままで見えなかったものが見えるようになります。それは肉体の目が見えている人でも同様です。肉体の目は見えながら、しかし、霊の目は閉じている、神の光が見えていないということがあります。しかしその見えない目は、遣わされたお方によって開いていただけるのです。
この生まれつき目の見えない人は肉体の目が開かれたとともに、霊の目も開いていただいたのです。現実世界の太陽の光のみならず、神の光を感じることができるようになったのです。実際、この人が単に肉体の目が開かれただけではないということが、9章の後半を読むとよくわかります。神殿の外にいた、神から隔てられているように扱われていたこの人に神の業が現れたのです。
そもそもこの人の目が見えない理由は、本人の罪のためでもない、両親の罪のためでもない、と主イエスはおっしゃいました。人間には理由は分からないのです。しかし、分かっていることは、遣わされた者に従って行くとき、そこに神の業が現れるということです。闇の中に生きていた人間が、神の光を受けることができるということです。
知合いの目が見えない人が、目が見えないままに、癒されないままに、この聖書箇所を愛誦しておられるのは、その友人もまた、たしかに自分に神の業が現れたという思いを持たれているからだと思います。肉体の目の視力は回復しなくても、なお、自分には神の光が注がれている、そのことをはっきり確信されていたのです。
<遣わされた者として>
そもそも目に塗られた泥を洗うという行為は象徴的な意味を持ちます。見えなかった目が見えるようになるためには、洗い流さなければならないのです。自分で洗い流すことはできないのです。遣わされたお方の言葉に従って洗っていただくのです。使徒言行録における伝道者パウロの目から鱗のようなものが落ちた話は有名です。彼はかつてはキリスト教徒を迫害していました。しかし、ダマスコ途上で、キリストと出会い、遣わされたお方の鮮烈な光によって目が見えなくなりました。数日後、目から鱗のようなものが落ちて目が開きました。そして、それまで自分が迫害していたキリスト教徒たちが信じるキリストこそが救い主であることを知りました。パウロの霊の目が開かれた瞬間です。
私たちもまた霊の目をふさいでいる泥を洗い流していただかなくてはいけません。鱗のように目を覆っているものを洗い流していただかなくてはいけません。洗うということは一つには洗礼を象徴しています。遣わされたお方であるキリストのもとにいって、キリストご自身によって洗い流していただく必要があります。しかし、それは洗礼の時だけではありません。遣わされた者の言葉に聞き従うとき、私たちの目は洗われるのです。
そしてまた主イエスは「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日があるうちに行わなければならない」ともおっしゃっています。これは弟子たちにおっしゃった言葉です。「わたしたちは行わなければならない」、主イエスだけではない、弟子たちにも行うようにとおっしゃっています。何を行うのか?「シロアムの池に行け」と伝えるのです。遣わされたお方のところへ、人々を導くようにとおっしゃっているのです。そう弟子たちに、そして私たちにおっしゃっています。遣わされたお方によって目を開かれた私たちは、今度は遣わされたお方を指し示す者とされるのです。
私たちはなぜこういうことになったのか?と過去に因果を原因を問う者でした。しかし、キリストは指し示されます。神の業が現れる未来を。私たちは遣わされたお方によって過去ではなく未来を見る者とされました。未来を見る目を開かれました。未来に向かうまことの光を見る目が開かれたのです。そしてその未来に向かう光なるお方を指し示す者となります。