2021年10月10日大阪東教会主日礼拝説教「悪魔への抵抗」吉浦玲子
<思い煩いをゆだねられるか>
「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」とペトロは語ります。この言葉は、福音書の中にある主イエスご自身の「思い悩むな」という言葉と響き合います。「明日のことを思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイ6:34)」私たちの日々には思い煩い、思い悩みが多くあります。小さな子供であっても、さまざまに胸を痛めて思い悩みます。そんな私たちをこれらの言葉は慰めてくれます。実際、大きなトラブルがあって夜も眠れない状態で思い悩んでいたノンクリスチャンの友達に、このマタイの言葉をメールしたことがあります。普段は宗教的なことを嫌う友人が「ほっとする言葉ですね」とその夜はゆっくり眠ることができたと言われたことがあります。
ところで、一般的に信仰者というのは、泰然自若(たいぜんじじゃく)として、なにかあっても神に委ね切って動揺しないことが信仰深さの現れのように考えられています。たしかに、くよくよ思い悩んだり、取り乱すのは信仰者らしくないように感じられます。私が小学生か中学生のころに読んだマンガで忘れられない場面があります。少女漫画でしたが、内容は社会的なことを取り扱っていて、とてもシリアスなものでした。と言いましてもほとんどストーリーは忘れたのですが。主人公の女の子、たしか中学生か高校生くらいなのですが、その主人公の友人の女の子がいて、その子がクリスチャンという想定でした。当時私は教会に行ったこともなく、信仰というものをまったく分かっていなかったのですが、そのクリスチャンの友人が、重い病気になるのです。友人は緊急手術になり、命も危ないかもしれないという状況で、手術室に運ばれていくとき、不安のあまり、とても取り乱すのです。その友人に対して主人公の女の子が「あなたクリスチャンでしょう!信仰を持っているんでしょう。それなのにその態度はなんなの。しっかりしなさい」と言うんです。いわれた友人ははっとして「そうだったわ」と気を取り直して手術室に向かうという流れになっていました。私は何十年も前に読んだ、全体のストーリーすら忘れたそのマンガのその場面がずっとひっかかっていました。まだ自分が信仰を持っていない時だったのですが、「あなたクリスチャンでしょ、信仰者でしょ、取り乱さないでしっかりしなさい」という言葉には、少し違和感があったのです。
実際、自分がクリスチャンになって、自分が何か事が起こった時いつも平静でいられるかというとそうではありませんし、明日のことをまったく思い悩まないなどということもないのです。そして思い煩いをすべて神にお任せできない自分につくづく自分は信仰者としてダメだと思ってしまって、そこで思い悩みがさらに深まる、ということすらあります。
しかしまた、主イエスご自身、けっして思いまどうことなく父なる神の御心をいつもおうけになったかというと、そうでもないのではないかという場面が福音書にはあります。ゲツセマネの祈りの場面です。キリストは十字架を前にし、ゲツセマネでひどく恐れ悲しみもだえられました。古今東西、死を前にして勇敢に恐れることなく立ち向かった人間は多くあります。それに対して、イエス・キリストは恐れ、悲しみ、もだえられました。血のような汗を流されました。この場面をもって、イエスは情けないという人もあります。さすがのイエス様でも逮捕や死ぬことは怖かったのだと思う人もあるようです。しかし、主イエスの十字架の死は、通常の人間の死ではありませんでした。全人類の罪を負い、その罪ゆえに神の裁きをお受けになる、神の怒りをお受けになる、そのような死でした。竹森満佐一牧師は、いまだ人間の誰も経験したことのない完全なる死とおっしゃっていました。父なる神の怒りを受けることの、ほんとうの恐ろしさをご存知だったのは、神なるキリストだけです。ですからキリストは十字架の前、恐れ悲しみもだえられました。そこには救い主の戦いがありました。
キリストのゲツセマネでの苦しみ、十字架の上の悩みは、私たちの思い煩い、思い悩みとはまったく次元の違うものであるといえます。しかしまた、同時に、父なる神に自分をゆだねていくということにおいて、私たちもまた、キリストと同じように戦うのです。一人一人の戦いがあるのです。戦いもなくゆだねますというのは丸投げでしかありません。本当に神に信頼している姿ではありません。私たちは肉体を持ち、生物学的な欲求を持ち、肉体的な苦痛を恐れます。また自分の意思を持ち、一方で社会的な存在として生きていきます。その中で、私たちは霊的に神と交わりながら、神に自らをゆだねていきます。しかしそこには戦いがあるのです。ヤコブが一晩中、神と戦ったように、ヨブが神と口論したように。イサクを奉献せよと命じられたアブラハムとイサクに静かな戦いがあったように。私たちには思い煩いの中で、戦いがあります。その戦いの中で、神ご自身が語ってくださるのです。神が私たちを心にかけてくださっていることを。繰り返し繰り返し、知らされるのです。あの時は神は心にかけてくださったけれど、今は忘れられている、そういうことはないのです。そんなちっぽけなことにくよくよするお前はだめだなどとはおっしゃらないのです。一人一人にそれぞれの戦いがあることをよくよく神はご存知なのです。そして、いつもいつも心にかけてくださっているのです。そのことを私たちは戦いの中で繰り返し知らされるのです。
<悪魔の策略>
そして私たち一人一人のちっぽけとも思える戦いは、実は大きな意味を持っています。私たちの思い煩い、そして戦いの本質にあるものは、衣食住の悩みから将来への思い煩い、あるいはどうしようもない人間関係などなど、それらは極めてこの世的、現実的なことのようです。しかし、突き詰めますと、自分の存在そのものの不確実さと、さらに突き詰めますとそこには「死」への恐れがあります。この自分の存在が自分ではどうしようもないというところに至ります。自分の身の回りのことも、これからの時間も自分の手のうちにないのです。ただ神の手のうちにあるのです。ですから私たちは思い煩うのではなく、神に向いて生きていくのです。「身を慎んで目を覚ましていなさい」とペトロは語っています。これは単に謙遜の美徳を説いているわけではありません。私たちには、私たちを神から引き離そうとする力が働くからです。私たちの心を私たちではどうしようもないところへと向けようとする力が働くからです。ペトロはそれを悪魔と呼んでいます。
ペトロの手紙が送られた人々は迫害の中にありました。まさに吠え猛る獅子のような存在があったのです。現代では、そのような悪魔はいないのかというと、やはりいるのです。そして、悪魔が悪魔の姿をして現れるのであれば、まだこちらも防ぎやすいのです。しかし実際に悪魔は、悪魔の姿をしてはやって来ません。むしろ信仰深そうな姿をしてやってきます。愛や平和を語るのです。パウロの手紙を読みますと、教会の中に、律法を守ることを主張する人々が入り込んできたことが記されています。その人たちは実に信仰的宗教的に見える人々でした。割礼をすること、食事の規定を守ることを勧めました。しかし、それはつまりキリストの十字架だけでは救われないと言っているのです。福音だけでは不十分だと言っているのです。実際彼らは真面目な宗教家の側面があったでしょう。しかし、彼らは反キリストであり、福音を汚す狼でした。パウロは「残忍な狼」と言いました。宗教的な信仰的な姿をして狼は、人びとを福音から引き離そうとします。これは現代でもあります。律法的なこと、行為義認的なことを勧め、福音から人々を引き離す力というのは現代でも働いています。キリスト者自身が真面目なキリスト者になろうとしてどうしても律法的になる傾向があるのです。そこに悪魔が入り込んでくるのです。
そして、繰り返し語っていることですが、現代の教会でもっとも多い悪魔は、それはやはり世俗化を進めて来る悪魔でしょう。愛と平和を語りながら、教会を楽しいこの世的なコミュニティセンター化する力が入り込んできます。身を慎んで神の言葉の前に立つのではなく、キリストの愛の名のもとに、自分たちの居心地の良さや楽しみを求める力が働きます。
しかし私たちは、そのような悪魔に対して自分の力で戦うのではありません。「信仰にしっかり踏みとどまる」のです。信仰にしっかり踏みとどまるというのは、なにより、神が私たちを心にかけてくださっていることを知るということです。神の顧みが、私たちの思いをはるかに超えて深いこと、神のなさることが私たちの為すことを越えてはるかに大きいことを知るということです。それがすべて私たち一人一人のために為してくださっていることを知るということです。
神が私たちを深く心にかけてくださっていることを知っているから、私たちは身を慎むことができるのです。神の前にへりくだることができるのです。思い煩いをゆだねることができるのです。神がとてつもなく私たちを愛してくださっているから、私たちは神の前で謙遜になることができます。神が私たちのことをほったらかしで、私たちが自分でいろんなことを自分でどうにかしないといけない、自力で悪魔と闘わなくてはいけない、というのであれば、私たちは自分の力に頼らざるをえません。そして私たちはへりくだることはありません。
悪魔と戦ってくださるのは神ですが、その神へへりくだるプロセスにおいて私たちには戦いがあります。戦いには痛みと悔い改めが伴います。神と戦ったヤコブが、足の腿の関節を神から外されたように痛みを負います。誰よりも聖書に詳しく神に忠実だと高ぶっていたバウロはダマスコ途上でキリストの光によって打ち倒されました。この手紙を書いているペトロ自身、主イエスの前に出て主イエスをいさめようとして「サタン、引き下がれ」と言われました。神の前にへりくだらない時、自分自身が悪魔となってしまうのです。神のなさることを妨害する者となってしまいます。自分では神のために教会のために、と思いながら、むしろ、神の業を阻害する者となってしまうのです。
その時私たちは神から打たれます。しかし、神から打ち倒されることは恵みなのです。神に対して高ぶり、悪魔に取り込まれことがないように神は憐れみをもって私たちを打たれるのです。打ち砕かれ悔い改めたとき、私たちは謙遜を学ばせていただきます。一生涯、謙遜の学びともいえます。しかしそれこそが神が心にとめてくださることを知り、神の愛を知ることです。