大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ペトロの手紙Ⅰ第5章6~14節

2021-10-17 15:00:10 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年10月10日大阪東教会主日礼拝説教「悪魔への抵抗」吉浦玲子 

<思い煩いをゆだねられるか> 

 「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」とペトロは語ります。この言葉は、福音書の中にある主イエスご自身の「思い悩むな」という言葉と響き合います。「明日のことを思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイ6:34)」私たちの日々には思い煩い、思い悩みが多くあります。小さな子供であっても、さまざまに胸を痛めて思い悩みます。そんな私たちをこれらの言葉は慰めてくれます。実際、大きなトラブルがあって夜も眠れない状態で思い悩んでいたノンクリスチャンの友達に、このマタイの言葉をメールしたことがあります。普段は宗教的なことを嫌う友人が「ほっとする言葉ですね」とその夜はゆっくり眠ることができたと言われたことがあります。 

 ところで、一般的に信仰者というのは、泰然自若(たいぜんじじゃく)として、なにかあっても神に委ね切って動揺しないことが信仰深さの現れのように考えられています。たしかに、くよくよ思い悩んだり、取り乱すのは信仰者らしくないように感じられます。私が小学生か中学生のころに読んだマンガで忘れられない場面があります。少女漫画でしたが、内容は社会的なことを取り扱っていて、とてもシリアスなものでした。と言いましてもほとんどストーリーは忘れたのですが。主人公の女の子、たしか中学生か高校生くらいなのですが、その主人公の友人の女の子がいて、その子がクリスチャンという想定でした。当時私は教会に行ったこともなく、信仰というものをまったく分かっていなかったのですが、そのクリスチャンの友人が、重い病気になるのです。友人は緊急手術になり、命も危ないかもしれないという状況で、手術室に運ばれていくとき、不安のあまり、とても取り乱すのです。その友人に対して主人公の女の子が「あなたクリスチャンでしょう!信仰を持っているんでしょう。それなのにその態度はなんなの。しっかりしなさい」と言うんです。いわれた友人ははっとして「そうだったわ」と気を取り直して手術室に向かうという流れになっていました。私は何十年も前に読んだ、全体のストーリーすら忘れたそのマンガのその場面がずっとひっかかっていました。まだ自分が信仰を持っていない時だったのですが、「あなたクリスチャンでしょ、信仰者でしょ、取り乱さないでしっかりしなさい」という言葉には、少し違和感があったのです。 

 実際、自分がクリスチャンになって、自分が何か事が起こった時いつも平静でいられるかというとそうではありませんし、明日のことをまったく思い悩まないなどということもないのです。そして思い煩いをすべて神にお任せできない自分につくづく自分は信仰者としてダメだと思ってしまって、そこで思い悩みがさらに深まる、ということすらあります。 

 しかしまた、主イエスご自身、けっして思いまどうことなく父なる神の御心をいつもおうけになったかというと、そうでもないのではないかという場面が福音書にはあります。ゲツセマネの祈りの場面です。キリストは十字架を前にし、ゲツセマネでひどく恐れ悲しみもだえられました。古今東西、死を前にして勇敢に恐れることなく立ち向かった人間は多くあります。それに対して、イエス・キリストは恐れ、悲しみ、もだえられました。血のような汗を流されました。この場面をもって、イエスは情けないという人もあります。さすがのイエス様でも逮捕や死ぬことは怖かったのだと思う人もあるようです。しかし、主イエスの十字架の死は、通常の人間の死ではありませんでした。全人類の罪を負い、その罪ゆえに神の裁きをお受けになる、神の怒りをお受けになる、そのような死でした。竹森満佐一牧師は、いまだ人間の誰も経験したことのない完全なる死とおっしゃっていました。父なる神の怒りを受けることの、ほんとうの恐ろしさをご存知だったのは、神なるキリストだけです。ですからキリストは十字架の前、恐れ悲しみもだえられました。そこには救い主の戦いがありました。 

 キリストのゲツセマネでの苦しみ、十字架の上の悩みは、私たちの思い煩い、思い悩みとはまったく次元の違うものであるといえます。しかしまた、同時に、父なる神に自分をゆだねていくということにおいて、私たちもまた、キリストと同じように戦うのです。一人一人の戦いがあるのです。戦いもなくゆだねますというのは丸投げでしかありません。本当に神に信頼している姿ではありません。私たちは肉体を持ち、生物学的な欲求を持ち、肉体的な苦痛を恐れます。また自分の意思を持ち、一方で社会的な存在として生きていきます。その中で、私たちは霊的に神と交わりながら、神に自らをゆだねていきます。しかしそこには戦いがあるのです。ヤコブが一晩中、神と戦ったように、ヨブが神と口論したように。イサクを奉献せよと命じられたアブラハムとイサクに静かな戦いがあったように。私たちには思い煩いの中で、戦いがあります。その戦いの中で、神ご自身が語ってくださるのです。神が私たちを心にかけてくださっていることを。繰り返し繰り返し、知らされるのです。あの時は神は心にかけてくださったけれど、今は忘れられている、そういうことはないのです。そんなちっぽけなことにくよくよするお前はだめだなどとはおっしゃらないのです。一人一人にそれぞれの戦いがあることをよくよく神はご存知なのです。そして、いつもいつも心にかけてくださっているのです。そのことを私たちは戦いの中で繰り返し知らされるのです。 

<悪魔の策略> 

 そして私たち一人一人のちっぽけとも思える戦いは、実は大きな意味を持っています。私たちの思い煩い、そして戦いの本質にあるものは、衣食住の悩みから将来への思い煩い、あるいはどうしようもない人間関係などなど、それらは極めてこの世的、現実的なことのようです。しかし、突き詰めますと、自分の存在そのものの不確実さと、さらに突き詰めますとそこには「死」への恐れがあります。この自分の存在が自分ではどうしようもないというところに至ります。自分の身の回りのことも、これからの時間も自分の手のうちにないのです。ただ神の手のうちにあるのです。ですから私たちは思い煩うのではなく、神に向いて生きていくのです。「身を慎んで目を覚ましていなさい」とペトロは語っています。これは単に謙遜の美徳を説いているわけではありません。私たちには、私たちを神から引き離そうとする力が働くからです。私たちの心を私たちではどうしようもないところへと向けようとする力が働くからです。ペトロはそれを悪魔と呼んでいます。 

 ペトロの手紙が送られた人々は迫害の中にありました。まさに吠え猛る獅子のような存在があったのです。現代では、そのような悪魔はいないのかというと、やはりいるのです。そして、悪魔が悪魔の姿をして現れるのであれば、まだこちらも防ぎやすいのです。しかし実際に悪魔は、悪魔の姿をしてはやって来ません。むしろ信仰深そうな姿をしてやってきます。愛や平和を語るのです。パウロの手紙を読みますと、教会の中に、律法を守ることを主張する人々が入り込んできたことが記されています。その人たちは実に信仰的宗教的に見える人々でした。割礼をすること、食事の規定を守ることを勧めました。しかし、それはつまりキリストの十字架だけでは救われないと言っているのです。福音だけでは不十分だと言っているのです。実際彼らは真面目な宗教家の側面があったでしょう。しかし、彼らは反キリストであり、福音を汚す狼でした。パウロは「残忍な狼」と言いました。宗教的な信仰的な姿をして狼は、人びとを福音から引き離そうとします。これは現代でもあります。律法的なこと、行為義認的なことを勧め、福音から人々を引き離す力というのは現代でも働いています。キリスト者自身が真面目なキリスト者になろうとしてどうしても律法的になる傾向があるのです。そこに悪魔が入り込んでくるのです。 

 そして、繰り返し語っていることですが、現代の教会でもっとも多い悪魔は、それはやはり世俗化を進めて来る悪魔でしょう。愛と平和を語りながら、教会を楽しいこの世的なコミュニティセンター化する力が入り込んできます。身を慎んで神の言葉の前に立つのではなく、キリストの愛の名のもとに、自分たちの居心地の良さや楽しみを求める力が働きます。 

 しかし私たちは、そのような悪魔に対して自分の力で戦うのではありません。「信仰にしっかり踏みとどまる」のです。信仰にしっかり踏みとどまるというのは、なにより、神が私たちを心にかけてくださっていることを知るということです。神の顧みが、私たちの思いをはるかに超えて深いこと、神のなさることが私たちの為すことを越えてはるかに大きいことを知るということです。それがすべて私たち一人一人のために為してくださっていることを知るということです。 

 神が私たちを深く心にかけてくださっていることを知っているから、私たちは身を慎むことができるのです。神の前にへりくだることができるのです。思い煩いをゆだねることができるのです。神がとてつもなく私たちを愛してくださっているから、私たちは神の前で謙遜になることができます。神が私たちのことをほったらかしで、私たちが自分でいろんなことを自分でどうにかしないといけない、自力で悪魔と闘わなくてはいけない、というのであれば、私たちは自分の力に頼らざるをえません。そして私たちはへりくだることはありません。 

 悪魔と戦ってくださるのは神ですが、その神へへりくだるプロセスにおいて私たちには戦いがあります。戦いには痛みと悔い改めが伴います。神と戦ったヤコブが、足の腿の関節を神から外されたように痛みを負います。誰よりも聖書に詳しく神に忠実だと高ぶっていたバウロはダマスコ途上でキリストの光によって打ち倒されました。この手紙を書いているペトロ自身、主イエスの前に出て主イエスをいさめようとして「サタン、引き下がれ」と言われました。神の前にへりくだらない時、自分自身が悪魔となってしまうのです。神のなさることを妨害する者となってしまいます。自分では神のために教会のために、と思いながら、むしろ、神の業を阻害する者となってしまうのです。 

 その時私たちは神から打たれます。しかし、神から打ち倒されることは恵みなのです。神に対して高ぶり、悪魔に取り込まれことがないように神は憐れみをもって私たちを打たれるのです。打ち砕かれ悔い改めたとき、私たちは謙遜を学ばせていただきます。一生涯、謙遜の学びともいえます。しかしそれこそが神が心にとめてくださることを知り、神の愛を知ることです。 

 

 


ペトロの手紙Ⅰ第5章1~5節

2021-10-10 15:53:37 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年10月10日大阪東教会主日礼拝説教「高慢こそ罪の根源」吉浦玲子 

<弱さと痛みにゆえに> 

 昔、お世話になった隠退牧師があります。女性の牧師でした。いまよりも、女性の牧師の数が少なく、さまざまに制約のあった時代に、女性の牧師として道を切り拓い方でもあります。その先生は、現役時代、4つの教会でそれぞれに会堂建築をされた方でもあります。その4つとも、小さな教会で、経済的には常識的に考えて会堂建築なんて無理と思われていたところでした。にもかかわらず、建築を実現された。話をしていても大変迫力がある方でした。ずばずばと厳しくはっきりものは言われる方で、男性の牧師がたじたじとなるような方でした。しかしまた言葉の奥に愛を感じる方で、皆が頼りにしていました。その牧師と共通の知人がいて、その知人から聞いたことです。その牧師先生は結婚をなさっていましたが、子供がなかったそうです。高齢になってからも、それを時々気に病んでおられたそうです。先生は、若い時に病気をされて、子供を産むことができない方だったのです。ご主人はそれを承知で納得されて結婚をされ、夫婦二人で歩んでこられたのです。それでも、女性の先生は、時々思い出したように、自分には子供がいないということを悲しんでおられたそうです。で、知人がその都度に、「先生、自分には子供がいないというけれど、あなた、たくさん<霊の子供>を産んだでしょう?」というのだそうです。<霊の子供>は、信仰の上での子供ということです。その先生が洗礼を授けた人たちであり、また信仰を導いた人たちです。そうしたらその先生は「ああ、そうやそうや、感謝や、私には神様がたくさん<霊の子供>を与えてくださった」と気を取り直されたそうです。その話を聞いて、あの迫力のある、信仰の情熱の塊のような先生にも弱いところがあるのだなと感じました。でもかえって親近感がわいたところもありました。どんなに強いように見えていても、人間は神の前では皆弱い者です。しかしまた、思いました。私たちは神の前に生きる時、弱さや痛みゆえにゆだねられているものがあると。私たちは弱い罪人ですが、その弱さゆえ、罪ゆえに、むしろ神は、私たちに委ねてくださるものがあるのです。 

 さて、今日の聖書箇所には、長老という言葉が出てきます。ここでいう長老とは今日でいう長老教会における長老とイコールではありません。長老、執事、牧師、監督といった教会の職制はもう少し時代が新しくなってから成立します。今日の手紙の箇所で書かれている長老とは、その呼び名の通り、年配の人、というニュアンスがあります。ベテランの信仰者ということでもあります。しかし、ただ信仰歴の長い人、歳をとった人というだけでなく、教会を導いていくリーダーというニュアンスもあります。そういう意味では、今日の長老や牧師とも通じるところがあります。 

 その長老たちに私自身も長老なのだとペトロは語ります。同じ長老同士として長老方へ語りたいと、親身な思いで語りかけています。そしてまた「キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として」とも語っています。ペトロにとって「キリストの受難の証人」ということは痛みを伴う言葉であろうと思います。福音書を読みますと、彼は、キリストの受難の時、つまり主イエスが逮捕され十字架におかかりになる時、逃げて、裏切った者だからです。ペトロは、おそらく、キリストの十字架そのものは見ていないと考えられます。ですからここでペトロは、自分は主イエスの生前からの弟子で、直接にその受難も目撃したのだということで受難の証人と語っているわけではないのです。逃げて裏切った自分が、復活のキリストに赦され、いままさに教会において長老として歩んでいる、その赦しのうちに、キリストの受難を覚えているということです。弱くて裏切った自分のために、キリストが十字架にかかってくださった。その十字架のゆえに自分が赦されている、つまりキリストの受難の意味を身をもって知らされた者としての、受難の証人なのです。そういう意味では、私たちもまた受難の証人です。2000年前の十字架の出来事を目撃はしていませんが、今、それぞれにキリストのゆえに罪赦され、歩んでいる、その感謝の内に十字架を覚える時、私たちもまたキリストの受難の証人なのです。歳が若かろうが、信仰歴が浅かろうが、私たちは皆、キリストの受難の証人なのです。そして受難の証人であるということは、私たちは自らの罪ゆえにキリストを十字架につけた者であるという痛みと切り離して語ることはできません。 

<羊をゆだねられる> 

 さらにペトロは語ります。「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい、」「ゆだねられている」とありますが、これはペトロのいうところの長老が、神に対して、この羊とこの羊とこの羊を引き受けますと申告して引き受けたわけではありません。逆に羊の側も、この長老が良いと牧者を選んだわけではありません。牧者も羊も、神が引き合わせ、神が牧者にゆだねられたのです。牧者の側も、羊の側も、ある意味、選択権はないのです。神が羊を牧者にゆだねられたということを、牧者も羊も信じることができるかというのが、まず重要なことです。牧者が羊を選んだわけでも、羊が牧者を選ぶわけでもないのです。それが分かっていなければ、教会は成り立っていきません。牧師であれ長老であれ信徒であれ、それぞれに互いが能力や人格を査定しあって、この人は牧師にふさわしくないとか、長老としてふさわしいとか、人間的に判断をするのではないです。企業であれば、課長にふさわしいとか、社長の器の人だとか、優秀な社員だと査定はできるかもしれません。しかし、教会においては、そのような人間的な判断よりもまず先に神のご意志があることをわきまえ、それを大事に受け止める必要があります。もちろんこれは教会では一切文句を言うなということではないのです。適切な議論や批判はもちろん為すべきです。しかし、突き詰めますと、神の教会において、神にふさわしい者など、どこにもいないのです。ふさわしくない者、罪深く、弱い者が神の恵みによって、神から役割をゆだねられているのです。まずそこに立って歩むのが教会です。 

 ところで、ペトロが、牧者や羊という言葉を出すとき、私たちはヨハネによる福音書の21章を思い出します。このペトロの手紙を読む時、以前にも、引用した箇所です。主イエスが逮捕された時、「イエスなんて知らない」と三度も否定したペトロが、主イエスの復活の後、ガリラヤ湖の湖畔で復活の主イエスと出会う場面がありました。主イエスはペトロに「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と問われました。ヨハネの子シモンとはペトロの正式な名前です。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」という問いは、イエスなんて知らないと言って主イエスを裏切ったペトロにとって複雑な思いを抱かせる問いだったでしょう。裏切る前の熱血漢だったペトロなら「はい、私は誰よりもあなたを愛しています」と自信満々で答えたでしょう。しかし、ペトロは「わたしがあなたを愛していることはあなたがご存知です」と答えることが精いっぱいでした。自分の弱さ、罪を知ったペトロは、端的に「愛しています」と答えることができなかったのです。 

 信仰というのは、確信をもって信じるとか、自信をもって愛するということとは少し違うのです。ペトロだけではありません。私たちは誰でも、神の前に立ったとき、自分の弱さや罪が見えてきます。たしかに神を愛している、目の前におられる復活の主イエスを愛している、でも、そんな自分の心ほどあてにならないものはない、ペトロはよくよく分かっていたでしょう。といってもペトロは、もしふたたび事が起こった時、自分がまたイエスを裏切るとは思ってなかったでしょう。実際、復活のキリストと出会い、ペンテコステで聖霊を受けたペトロは、そののちどれほどの迫害にあってもひるまずキリストを宣べ伝える者に変えられました。しかし、変えられたからといって、変えられた自分、別人になった自分を誇ることはできないのです。変えられれば変えられるほど、自分の罪が見えてくるからです。それを赦してくださっている神の愛の深さを知るからです。「わたしの羊を飼いなさい」という言葉は、よしお前は試練をくぐり抜けて一皮むけて成長したからわたしの羊をゆだねようとおっしゃっているのではないのです。赦され、神の本当の愛を知った者とみなされ、神の憐れみにうちにゆだねられたのです。 

 そして、神の愛を知る者は、自分に権威を持つことができません。羊をゆだねられている、それは確かに神から権能を授かっているということです。しかし、だからといって、それを誇ることはできないのです。「権威を振り回してはならない」とペトロは戒めますが、神に愛されていること赦されていることを知る者は権威を振り回すことはできないのです。 

<愛に感謝して> 

 さらにペトロは若い人たちへ勧めます。「長老に従いなさい」と。神から羊をゆだねられている長老に従うということは、神の御心に従うということです。繰り返しますが、それは無批判に従えということではありません。そしてまた、長老が立派だから従うのでもありません。長老に模範となれ、とペトロは語っていますが、それは立派な信仰者として模範を示せということではないのです。神の前に弱い者、罪人して、誠実に立ち続ける姿を見せよということです。失敗して罪を犯して悔い改める姿、弱い者としてひたすら神にすがる姿をもって模範となるということです。若い人たちもまた、その姿勢を見習って、神の前に弱い者として立っていくのです。 

 とはいえ、模範となれと言われると、とてもとても無理だと感じられるかもしれません。また逆に、他の人を見て、ついついこの人は模範にならないと感じたりするかもしれません。私自身、ある大先輩の牧師が、私を始め、居並ぶ後輩の牧師たちに対して「あなたがたは、信徒さんに対して、パウロのように「わたしを倣いなさい」と言わなくてはならない」とおっしゃるのを聞いて、それは難しいなと思ったことがあります。実際、パウロはコリントの信徒への手紙Ⅰ4章16節で「そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい」と語っています。これはパウロが特別に大伝道者だから言えることであって、普通は言えないことだと感じてしまいます。さらに言えば、いくら立派な伝道者だからといって、「自分に倣え」なんてちょっと傲慢なんではないかと感じたりもします。しかし、パウロは自分の何を倣えといっているかというと「キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方」だというのです。ここで、キリスト・イエスに結ばれたとパウロが語っている「結ばれた」という言葉は、ギリシャ語でν Χριστῷという言葉です。「キリストにあって」とも訳される言葉です。何回か説明をしたことがありますが、これはキリストにすっぽり包まれているというニュアンスのある言葉です。パウロは、自分はすっぽりとキリストの愛に包まれている、自分が立派だとか、功績があるということではない、ただただキリストの愛に包まれているあり方をしている、その生き方を倣いなさいということです。逆にそのキリストの愛からはみ出して、自分の手柄や宗教的な立派な態度に価値を置く生き方をしてはならないということです。 

 キリストの愛にすっぽり包まれていることを感じる時、私たちは、平安を与えられます。不安を取り除かれます。そして本当に謙遜な者とされます。謙遜の前にキリストの愛が先立つのです。「互いに謙遜を身につけなさい」とペトロは語りますが、謙遜は、神の愛に自分が包まれていることを知らなければ身につきません。自分の行いや思いが神の愛より先立っているならば、謙遜にはなれないのです。努力をして腰を低くして、謙遜な態度を身につけるのではありません。ただただ神の愛を知る時、私たちはおのずと謙遜にされるのです。今ここにいる私たちはそれぞれに豊かに神の愛を受けている者です。しかしまたその愛に感謝しながら、その愛の深さを実はあまり知らない者でもあります。私たちが思っているより、ずっとずっと私たちは神に愛されています。私たちはその愛を、生涯かけて深く知っていきます。その愛を知れば知るほど、謙遜な者とされます。謙遜な者にいっそうの恵みが与えられるのです。そして多くをゆだねられる者とされます。 


ペトロの手紙Ⅰ4章1~12節

2021-10-03 15:36:17 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年10月3日日大阪東教会主日礼拝説教「恥多き人生でよし」吉浦玲子 

<キリストさん> 

 キリスト者、英語でいうところのクリスチャンという言葉が使われ出したのは、もともとユダヤ教の一派と思われていた初期のキリスト教徒たちが、ユダヤ人以外の、聖書でいうところの異邦人への伝道を開始したころです。使徒言行録で少し前に皆さんとお読みしたところでもありますが、初代教会最初の殉教者ステファノの死を契機にエルサレムでキリスト教徒への迫害が始まり、多くの人々がエルサレムから各地に散らされました。その散らされた先の一つであるアンティオキアという町で熱心に伝道がなされました。バルナバの働きがあり、またバルナバに見いだされたパウロも本格的に活動を開始したころです。キリスト者、クリスチャンという言葉には、当時、善いニュアンスがあったのか悪いニュアンスがあったのかははっきりとは分からないようです。しかし、イエス・キリストを宣べ伝えている人々をアンティオキアの人々が「キリスト者」と呼んだのです。キリストのことばかりしゃべっている人たち、年中、「キリスト、キリストと言ってるあの人たち」という感じかもしれません。 

 ある牧師が仕えている教会で、ホームレスの人々への弁当を配るという活動をしていたそうです。配布当日、牧師も奉仕に参加しました。配布場所の講演でホームレスの人々がずらっと並んで、弁当が配られる順番を待っていました。その配布場所では、いろいろな団体が、そのような支援活動をしているそうです。弁当を配っていると、列の後ろの方から、並んでいる人々の会話が聞こえてきたそうです。「今日はどこのや」と言ってるのです。毎週のようにいろんな福祉団体が、弁当を配ったり炊き出しをしていて、今日の弁当配布はどこの団体がやっているのかという意味で「今日はどこのや」と聞いていたのです。そうしたら横にいた別のホームレスの人が「今日はキリストさんや」と答えたそうです。そしたら聞いた方も「そうか、キリストさんかー」と納得していたそうです。その会話を聞いた牧師先生は「いやいや、キリストさんじゃなくて、うちは○○教会なんやけど」と言いたくなったそうですが、はっと気づいたそうです。「そうやそうや、たしかにこれはイエス様が、なさってくださっていることや。自分たちがやってる、うちの教会の活動やと思ったらあかんわ。ほんとにキリストさんがなさってるんや。キリストさんの弁当やわ、これは」と思ったそうです。キリスト者というのはキリストを宣べ伝えながら、すべてを神の栄光に帰する者たちのことです。キリストの名によって宣教をし、すべてのことをキリストにゆだねていく、これは<キリストさん>のなさったことだと心から感謝して歩んでいく、それがキリスト者です。 

 しかし、人間はついつい、これはあの人ががんばったからとか、場合によって自分の手柄だと思ったりします。もちろん自分が頑張ったことを否定する必要はありません。自分で自分をほめてもいいですし、頑張った方、努力をなさった方に、ねぎらいや感謝の心を持つことは大事です。しかし、まず感謝すべきは神に対してです。キリスト者は、聖霊によって<キリストさん>の働きを知らされます。ですから、あの人のおかげだとか、この人のがんばりだとかばかり考えるのはキリスト者の姿勢ではありません。神は、ご自分に従う者たちへ、それぞれに賜物として力や志を与え、道を整えてくださいます。まず最初に<キリストさん>、つまり神の働きがあり、神の祝福があります。<キリストさん>の働きを知っている者には、かならず聖霊の実りがもたらされます。キリスト者はすべてのことを人への誉れとは思わないのです。 

<キリスト者として辱めを受ける> 

 さて、キリストを宣べ伝え、キリストの力を信じるキリスト者には苦しみがあることを、繰り返しペトロは語っています。そしてそのことを「驚き怪しんではならない」と言います。驚き怪しむどころか「喜びなさい」というのです。使徒言行録第5章には、最初の迫害によってペトロたちが最高法院で調べを受け、鞭を打たれ、その後、解放されたあと「使徒たちはキリストの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ」と記されています。キリスト者として、キリストの名のために、つまりキリストを宣べ伝えるために、やましいことはないのに、不当な目に遭って、それを耐え忍びなさいというのはまだ理解できます。しかし、喜べとまで言われるとどうなんだろうかと考えてしまいませんか。使徒たちのように、辱めを受けることを喜ぶというのはなかなか難しいことだと思います。辱めは受けたくない、恥はかきたくない、それが普通の感覚だと思います。 

 そもそもペトロが語る苦しみとは、キリストの苦しみにあずかるものです。キリストの苦しみは私たちを救うための苦しみでした。肉体的な苦痛と、侮辱と、裏切りにあった苦しみでした。それはすべて私たちのためでした。そして、そのキリストの苦しみはけっして無駄にならなかったのです。私たちもまたキリスト者として、キリストを宣べ伝えていくときに苦しみに遭うならば、それはキリストの苦しみにあずかることです。宣教の上での苦しみのみならず、病やさまざまな試練といった自分一人の苦しみであっても、キリストと共に歩む歩みの中で味わう苦しみはキリストの苦しみにあずかっているのです。さまざまな痛み、苦しみ、孤独、その苦しみの中で十字架のキリストと出会います。なぜこんな苦しみに遭うのか、なぜこのような痛みを担うのか、分からない、そのような時、キリストと必ず出会います。そしてキリストの苦しみにあずかっていることを知らされます。キリストの苦しみにあずかっているのなら、当然、それは決して無駄には終わらないのです。 

 「それはキリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです」とペトロは語ります。地上においても、終わりの時においても、キリストの栄光が現れるとき、苦しみを耐えた者には、喜びが満ちあふれるのです。ある牧師が、ある教会に赴任してたいへん張り切っていたそうです。ところが、慣れぬ土地で、牧師の奥様が体調を崩され、その看病のために、思うように伝道ができなかったそうです。奥様の病の心配と、新任で赴任したばかりなのに、満足な働きができないことへの焦りで、ひどく苦しい思いで過ごしていたところ、一年たって、赴任以来の新来会者の数を数えたら百人ほどになっていたそうです。もともと20名ほどの教会で、かつ、最寄駅から少し距離がある不便な場所の教会だったのに、たくさんの新しい人が招かれていたことが分かりました。もちろん新しく来た人々がすべてが継続的に教会に繋がったわけではないですが、その牧師は、そこに神の業を見て、畏れ、喜ばれたそうです。思うように自分が動けない困難の中で、神の業を見て、力を与えられたそうです。私たちは苦しみにあっても、必ず、神の業を見ることができます。神のご栄光を見ることができます。それを知っているから喜ぶことができるのです。さらに終わりに日には、キリストがふたたび来られ、そのご栄光を顔と顔を合わせるようにはっきりと見ることができる、神の業の完成を見ることができる、だからいま地上であう苦しみに耐えることができ、さらに喜ぶことができるのです。 

<恥多きキリスト者の人生> 

 さらにペトロは、「しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません」と語ります。ペトロたちは鞭打たれ辱められましたが、喜びました。私たちもキリスト者として受ける苦しみを恥じてはならないのです。そもそも、日本の文化は恥の文化といわれていました。世間に恥ずかしくない生活をするということがひとつの規範でした。不祥事を起こしたとき、その問題自体を詫びるのではなく、まず「世間をお騒がせ」したことを謝罪します。世間に対して恥ずかしいことをしたことを詫びるのです。「恥」という感覚は、倫理的なあり方を支える側面があります。そういう意味で、悪いものではありません。しかし、昨今は、そういう「恥」の概念が変化してきているとも言えます。もともと「恥」への感覚は、世間を騒がせなければよい、人様から恥ずかしい奴と思われなければ何をしてもよいというところへ落ち込みやすい傾向がありましたが、いまや、恥ずかしいことをしても堂々としているという状況が日本でも多いように思います。電車などの公共の場で人目を気にせず化粧をする女性から、平気で嘘をついてどこまでも詫びない権力者まで、恥を失った人々が堂々としている社会になりました。多様化した価値観や人とのつながりが希薄になった中で、昔のような、固定的な価値観を支える「世間」とか「常識」というものが通用しなくなったせいかもしれません。恥ずかしいと感じる対象の「世間」という感覚が希薄になったからかもしれません。しかし、恥の感覚が希薄になったとはいえ、やはり、恥はかきたくない、というのが普通の感覚だと思います。同調圧力の強い日本の社会にあって、個人が個人のあり方を貫くことは難しく、人と違っていることは恥ずかしい、生き辛いということがあります。そのような日本においてはクリスチャンはマイノリティです。私自身、親戚中で、ただ一人のクリスチャンで、親戚が集まる場で、好奇の目で見られたりします。日本の社会の中で、クリスチャン、キリスト者であることは、恥ずかしさ、生き辛さをおのずと持っているといえます。 

<本当の宝> 

 迫害を受け辱めを受けたペトロたちが喜んだという使徒言行録の記事に先ほど触れましたが、最初に教会ができた頃から、キリスト者は、ある種の恥ずかしさの中で生きて来たと言えます。ローマの信徒への手紙に有名なパウロの言葉があります。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」わたしは福音を恥としないと敢えてパウロが書いているというのは、福音は恥だという風潮が当時、あったからです。ギリシャ人は知的な人々です。その知的な人々に「死者の復活」などということを言っても「その話はいずれまた」と敬遠されます。ユダヤ人にとっては、十字架でみじめに死んだ男が救い主だなどということは怒りすら覚えることです。当時の社会において、福音を信じることは、はみ出し者であり、ばかげたことでした。バウロ自身、福音を信じることによって、それまでのユダヤ人の中でのエリートとしての地位を失いました。しかし、そこに悲壮なものがあったかというとそうではないのです。自分の思想信条のためにすべてを投げ打つとか、夢のために犠牲を払うということではなかったのです。福音の力の素晴らしさを確信したゆえに、他のことはどうでもよくなったのです。フィリピの信徒への手紙にパウロのこのような言葉があります。「わたしは主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」パウロはキリストという宝を見つけた人でした。福音書の中に、畑の中に宝を見つけた人が、財産すべてを売り払って、その宝を手に入れるという話がありました。天の国は畑の中に隠されている宝のようなものだとたとえられているのです。その宝の価値が分かっていない人には財産を売り払うなどということはばかげた話です。しかし、宝の価値を分かっている人は、財産すべてを失っても、むしろ喜ぶのです。ペトロもパウロもそうでした。 

 福音は力であり、何にも代えがたい宝です。私たちの人生を根底から変える力であり、祝福を源である宝です。それを得るためにこの地上で受ける恥などささいなことだとペトロもパウロも考えていました。福音の力、キリストという宝、それは聖霊によって知らされることです。人間や世間に忖度している人には決して見えない力であり、宝です。私たちには、今、その福音の力を感じているでしょうか?キリストという宝が見えているでしょうか?今、目の前にキリストの宝はあるのです。聖霊を求めなければ、私たちの目は曇り見えないのです。聖霊に祈り願い、福音の力をいっそう感じ、キリストという宝を見えるようにしていただきましょう。そこから新しい人生が始まります。 

 

 

 

 

 

 

 

 


ペトロの手紙Ⅰ第4章5~11節

2021-09-26 14:42:19 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年9月月26日日大阪東教会主日礼拝説教「万物の終わり」吉浦玲子 

<ゴールとは> 

 昔、ソフト開発の仕事をしていたとき、開発が当初の予定より遅れ遅れになって、たいへんだったことがあります。「だったことがあります」と言いましたが、実際は、ほとんど毎回そうだったのです。だいたい新規の技術をいますから、そもそも開発に必要な時間が正確には見通せないなかで、営業的な必要から終わりの日程だけが決まっているような場合が多かったのです。そうこうしているうちに、開発が遅れ、結局、製品自体の発売が遅れることになって、ソフト開発のスケジュールも再度調整されるということがありました。スケジュールが伸びて、開発が楽になったともいえるのですが、むしろ、精神的にはしんどい面がありました。ゴールに向かって走っていたのに、ゴールがうしろに下げられて、モチベーションがかえって落ちてしまうということがありました。人間は、ゴールに向かって走るものです。ゴールという目標がなければ、日々に張り合いがありません。片や、子育てや介護というものは、ゴールが見えない働きですから、精神的に辛いところがあります。 

 さて、聖書は明確にゴールを示しています。それは終わりの時、裁きの時です。段落の少し途中からの言葉になりますが、「彼らは生きている者と死んだ者とを死んだ者にも福音が告げ知らされたのは」という部分は3章の19節以降のことと関係をします。ノアの洪水の時死んだ人々のところへ主イエスが宣教しに行かれたということです。私たちはこの地上においてキリストを信じようと信じまいとやがて神の前に立ちます。それは、「肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」とあるように、神の前で問われることは、この世でどれほどいいことをしたとか悪いことをしたとか、たくさん祈ったとか、教会のために尽くしたということではなく、神との関係がどうであったかということです。神の働きや御心にどれほど感謝していたのかということです。しかし、実際のところ、この世を生きていくとき、神のことよりも人のことを気にした方がうまくいくのです。互いに思いやりを持って、自分のわがままばかり言わず節度を持って生きていく、これはクリスチャンでなくてもやっていることです。社会や組織といった少し大きな集まりとなると、様々な考えや利害を調整して物事を進めていきます。これは実際、この世においては重要なことです。そうしなければこの世界はやっていけません。教会においてさえそうであるかもしれません。御心よりも人間の思惑に配慮した方が、うまくいくことがあるかもしれません。 

 しかし、それでうまくいっているようで、どうにもならない時が来るのです。個人においても社会においてもどうにもならなくなるのです。人間が互いの思いやりや、さまざまな利害の調整でどうにかやっていく、それが立ち行かなくなる時が来るのです。それは個人における肉体の死の時であり、またペトロが語る「万物の終わり」の時です。私たちはともすれば死んだ後は、天国に行って、そこで先に天に召された人と再会して平和に暮らすと考えています。しかし、「万物の終わり」が来るのです。ヨハネの黙示録に記されている、新しい天と地が現れるのです。その新しい天と地が現れる前、今ある世界は終わるのです。それは滅亡ではありません。神が創造されたすべてのものが終わりを迎え、新しくされるのです。終わりの時、私たちの肉体も甦りますが、世界も新しくされます。それは神の御業の完成の時です。 

<なぜ信じられるのか> 

 しかし、そういう荒唐無稽のことを、どうして信じるのでしょうか?これから起こることですから、誰も実際には見てはいないのです。科学的にはいつかは太陽系が終焉することは分かっています。しかし、そういことと、神の御業の完成とは異なることです。また、一方で、旧約においても新約においても、かつて預言者や使徒たちが幻で終わりの時について見たことは聖書に書かれています。実際のところ、ペトロやパウロのたちの時代は、その万物の終わりの時が、自分たちが生きている間に来ると考えられていたようです。そういう切迫感があったのです。しかし、2021年現在、まだ終わりの時は来ていません。預言者たちが見た幻は、何か宗教的陶酔のうちにみた幻覚に過ぎないのでしょうか。 

 よくお話しすることですが、私自身が洗礼を受けた頃、終わりの時とか体の蘇りとか天国といったものはあまり深くは考えていませんでした。とにかく、今、生きている、この人生において楽になりたい、救われたいと願って洗礼を受けました。実際、当時はそれで十分だったのです。そう言う思いで洗礼をうけたことに、まったく後悔はありません。しかし、キリストの救いということを深く考える時、もっと大きなもの、この地上の命を越えたものを考えざるを得ないことに気づきました。単にこの世を良く生きるためのよすが、良い人間として生活していくための道徳的規範としてキリスト教を考えるならば、キリストの復活も再臨も終わりの時もいらないのです。心が疲れた時、心を軽くしてくれる言葉、恵み深い言葉で慰められ、元気になるために聖書を読むのであれば、終わりの時は要らないのです。しかし、実際のところ、それだけでは、人間はほんとうには救われないのです。人生の苦しみも悩みも解決しないのです。 

 ペトロはずっと苦しみについて語っています。この世にキリストの教会ができてから 

300年ほどは、キリスト教は迫害を受けていました。もちろんペトロたちの時代もそうでした。このペトロの手紙が送られた先は特に、キリスト教がマイノリティで、キリスト者が迫害を受けていた地域でした。迫害によって命を落とすこともあり得ました。実際、少し前まで読んでいました使徒言行録には、使徒たちが命からがら伝道をする姿が描かれていました。しかし、2000年後の今の世界を見ても、迫害だけではない、さまざまな苦しみというものが私たちの日々にもあります。その苦しみのすべてが、私たちの生きている間に解決できるものではありません。どうにもならないことがあり、なぜなのかと思いつつ苦しむ苦しみがあります。人には言えない、心の中にずっとしまって、それこそ墓場まで持っていくような苦しみもあります。しかし、万物の終わりの時があるということは、そして神の完成の時が来るということは、私たちの命が死では終わらないということです。私たちの苦しみが完全に取り去られ、涙がぬぐわれる時が来るということです。それは単に人間の願望を反映した絵空事ではありません。人生の中でどうしようもできなかったことが死後に解決していただきたいという願いを反映したのではありません。なぜ絵空事ではないことがわかるのでしょうか。それは私たちはキリストと出会っているからです。生きて働いておられる神の業を体験しているからです。自分の内なる願いや思いを越えたところでキリストと出会い、神の業を見ているからです。それは特別に大きな奇跡を体験したというようなことに限りません。普通に聖書を読み祈り、礼拝を守る日々にあって、気がつくと、キリストが共にいてくださる、キリストが導いてくださっている、その小さな体験が積み重なっていくのです。信仰が知的理解や形式的なあり方でなく、素直に神を求める時、おのずと神は出会ってくださるのです。 

<慎んで生きる> 

 神と出会っている者は、万物の終わりの時が来ることを知っています。そんな私たちにペトロは語ります。「身を慎んで、よく祈りなさい。」慎んで祈る、というのは厳粛にとか、礼儀正しくということではありません。この部分についてルターは「裸になって祈りなさい」と言っているそうです。終わりの時を思えば、周りの目を気にして自分を取繕うことはできなくなります。祈りにおいても真摯にならざるを得ません。神の前で、素直に思いを注ぎだす祈りになります。竹森満佐一先生が紹介されていましたが、ペトロはここで、かつてゲツセマネで、主イエスが血のような汗を流して祈られている時、横で眠りこけていた自分を思っていたのではないかという人があるといいます。ペトロは、ゲツセマネで、そのあと何が起こるか分かっていなかったのです。神の偉大な業がなされることを知らなかったのです。だから眠りこけてしまった。ルカによる福音書では「悲しみの果てに眠り込んでいた」と記されています。ペトロたちは、これから不穏なことが起こることは予感していたかもしれません。イエス様はご自身の死を覚悟されているようで、自分たちが考えていたような形で、主イエスがイスラエルの王となって、神の国が建てられることができないかもしれない、という不安があったかもしれません。そんななんともいえない悲しみの果てに眠り込んでしまったのです。私たちも終わりの時の希望、神がすべてを完成してくださるという希望がなければ眠り込んでしまうのです。霊的に目覚めていられないのです。この世のことで疲れてしまって、眠り込んでしまうのです。しかし、終わりの時が来ることを知っている者は、目覚めて、身を慎んで、神の前で心素直に心を注ぎだす祈りをするのです。 

 そしてまた「心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」と語られます。愛し合うというとキリスト教においてはいたって当たり前のことのように考えます。そしてまたその愛は、優しく温かくすべてを受け入れる愛のように考えられます。たしかに主イエスは、社会からはじき出されていた人々、徴税人や娼婦を受け入れられました。共同体から排除されていた病の人を受け入れられました。しかし、主イエスは温かい心で罪人や病の人を受け入れられたのではありません。そこには戦いとも言うべき、厳しさがあったのです。「心を込めて」という言葉は深くとか、緊張をして、というニュアンスがあります。そして罪を覆うというのは、まあまあと罪を咎め立てず、なかったことにするということではありません。赦すということです。罪を見なかったことにする、咎め立てないということではありません。罪は罪として明らかにして、赦すということです。赦しには痛みが伴います。その痛みをもって愛し合うということです。それが緊張感を持って愛し合うということです。そしてまた私たちがなあなあで罪をいい加減にしていても、終わりの時、たしかに裁きがあります。個人の罪も、共同体の罪も明らかにされます。その終わりの時を迎える緊張感を持って、愛し、赦し、歩んでいくのです。 

 その緊張感の中で、私たちは為すべきことを示されます。そして為すべきことのための賜物を私たちはすでにいただいているのです。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」そうペトロは語ります。私たちは賜物においてもついつい人と比べてしまいます。あの人のようなことはできない、こういうことができたら教会の役に立つのに自分には無理だ、そう思ってしまいます。しかし、必要な賜物はすでに与えられているのです。また、苦手だと思っていたことも、神の必要のために神が訓練してくださり、用いてくださるのです。その結果、最初から得意だった人とはまた違った形で良い働きができる場合もあります。得意なことであれ、不得意なことであれ、それは神の恵みを管理するために用いるのです。自分がほめられるため、自己実現のために用いられるのではありません。とてつもない才能や能力のある人が破滅していくということはこの世でよくあることです。しかし、神から与えられた賜物を、神の恵みのために、つまり誰かの救いのために用いるならば、自分もまた他の人も満たされるのです。管理をするということは、コントロールするということです。自分に与えられたものを感謝し、善く用いるのです。それが神から与えられたものであることをわきまえ謙遜になって用いるのです。賜物によって為したことを自分の手柄のように高ぶることなく、いっそう神にへりくだって生きる時、私たちも、また周囲の人々も神の恵みの内に喜びに満たされるのです。  

 

 

 

 


ペトロの手紙Ⅰ第4章1~4節

2021-09-19 14:53:02 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年9月月19日日大阪東教会主日礼拝説教「あなたの残りの生涯」吉浦玲子 

<罪の世ゆえの苦しみ> 

 苦しみということをペトロは手紙の中で、繰り返し語っています。クリスチャンであれ、ノンクリスチャンであれ、生きている限り苦しみにあいます。二年前、高齢者が運転する車が暴走して多くの死傷者が出た事件がありました。運転をしていた、つまり加害者の老人は、かたくなに車の欠陥のためであると主張し、自らの過失を認めませんでした。しかし、最近のニュースによれば、ようやく裁判が終わり、判決が出て、原因は加害者の過失であるとされ、加害者の男性に実刑が言い渡されました。それに対して、加害者は控訴せず、刑を受けることが確定しました。事件で、愛する家族を失った被害者の男性がその結果をうけて、コメントを発表されていました。この交通社会の中で、だれもが被害者にも加害者にも遺族にもなりうるけれども、だれもがそのどれにもなってほしくない、また、加害者を中心に関係者への誹謗中傷が過熱してしまったが、そのような誹謗中傷のない社会になってほしいといった、たいへん冷静でしっかりした言葉がありました。考えさせられたのが、亡くなった家族への思いの中で「(亡くなった)二人の愛してくれた僕に戻って生きたい」という言葉があったことです。事件から二年の歳月の中で、かつて妻と子供から愛されていた自分とは違う自分となっていた、とその男性は感じておられたのです。しかし、これからは亡くなった二人に愛されていた元の自分に戻りたいという言葉に深い重みを感じました。苦しみの重さを感じました。突然、妻と子供を失なうという悲しみに見舞われ、その事件の重大性ゆえいやが応にも世間の注目を浴び、被害者であるにもかかわらずさまざまな批判も受け、なかなか進まない原因究明や裁判の中、自分の非を認めない加害者へのいたたまれない思いもあったと思います。様々な意味での長い闘いの中で、自分自身が、かつて妻や子供に愛されていた自分ではない自分になっていた、その心の中は当事者でなければ到底分からないことだと思いますが、その苦しみの深さはたいへんなものだったであろうと思います。自分が自分ではなくなってしまうような苦しみ、悲しみや怒りや絶望といったさまざまな思いの中で、ある部分、心を鋼のようにして戦って来られたと思います。自分で自分の心を固くして戦って来られた、そこに苦しみがあったと思います。それまで普通に笑ったり泣いたりしていた柔らかい心、愛されていた自分から遠く離れていた、その苦しみを思います。愛されていた自分に戻りたい、そこに人間を変えてしまう苦しみの深さを思います。 

 ペトロは人間の苦しみというものを、この世の罪の問題の中で語ります。人間の罪、社会の罪ゆえに苦しみはあるのだと。暴走事故の被害者の遺族の苦しみは、単に一人の老人の過失や自分の非を認めない頑迷さゆえに生じるのではないでしょう。事件のすべてを取り巻く社会のあり方、この世の人間のさまざまな感情、矛盾、そういったすべてのなかに沈む人間の深い罪とかかわります。 

 「キリストは肉に苦しみをお受けになった」そうペトロは語ります。この肉というのは、肉体ということではなく、肉体を含めた、この世における存在そのものということです。キリストは確かに、生身の体に釘を打ち込まれ、血を流され、苦しまれました。同時に、人々の嘲笑に晒され、弟子たちにも裏切られ、苦しまれました。肉というのは、罪ある世における人間存在そのものとも言い代えられます。この罪の世における存在は苦しみを受けるのです。この世界に罪が満ちていなかったら、罪のないお方が苦しまれる必要はなかったでしょう。また、この罪の世界に、周りと同じように罪を犯しつつ生きていれば、苦しむことはなかったのです。これは私たちにも言えることだとペトロは語ります。 

 「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。」 

 キリストを信じる者もまた肉に苦しみを受けることになる、罪のこの世界で苦しむことになる、その心構えをもって武装しなさいとペトロは語ります。通常、武装と言いますと、相手を攻撃するための備えをするものです。こちらから先制攻撃はしない防衛のためであったとしても、攻撃された時、反撃できるだけの戦力を持ちます。武装とは本来そういうことです。しかしここでいう武装は、苦しむことをもって武装せよというのです。苦しみを与えるものに対して、反撃をしたり議論をするわけではないのです。苦しみを忍耐する、それが武装なのだとペトロは語ります。 

<罪とのかかわりを絶てるのか> 

 そして罪なきキリストが苦しみを受けられたように、私たちも苦しみを受けます。そしてそれは罪とのかかわりを絶った者だからだとペトロは語ります。先ほど申し上げましたように、この罪の世と同調して生きていれば苦しみはありません。もちろん自らの罪による苦しみはあるかもしれません。またこの世の不条理や不正によって苦しむことはあるでしょう。しかし、聖書が語る苦しみとは、なにより罪による苦しみなのです。しかしまた、不思議なことに、その罪を自分から絶ったとき、むしろ外から受ける苦しみは深まるのだというのです。罪とかかわりを絶った者ゆえ苦しみを受けるとペトロは語ります。罪を犯せば苦しみ、また罪を絶った者ゆえ苦しむというのです。 

 しかしまた、ここで私たちは立ち止まります。私たちはキリストのように、罪とのかかわりを絶った者と言えるでしょうか?洗礼を受けて、神の恵みの内に生かされながら、なお罪を犯しつつ生きている者ではないでしょうか。だからこそ私たちは礼拝の冒頭で懺悔の祈りをささげるのです。もちろんこの罪の世界に生きる時、自らに非のないことのゆえに苦しむことはあるかもしれません。しかしだからといって、私たち自身が罪とのかかわりを絶っているとは言い難いのではないでしょうか。 

 「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像崇拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です」とペトロは語ります。つまり欲望に引きずられ、神ではないものを神として生きていたというのです。しかしクリスチャンになったからといって、完全に欲望から自由になっているのか、神以外のものを神とはいっさいしていないといえるのでしょうか。神以外のものを神より大事にしていることがまったくないとは言えないと思います。 

 そもそも聖書は、人間の行いにはいっさい期待していないのです。人間が自分の力で罪から逃れられるなどとはまったく考えられていないのです。アダムとエバ以来、人間の弱さ愚かさを、神はよくよくご存じなのです。 

 さきほど、「武装」という言葉が出てきました。この武装とはエフェソの信徒への手紙6章に出て来た神の武具を身につけるということでもあります。人間の力で罪から逃れられることはないのです。エフェソの信徒への手紙の6章10節に「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」に始まる言葉がありました。曰く「神の武具を身につけなさい」と。神の武具とは何か?それは「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい」とあるように、真理の帯、正義の胸当て、福音を告げる準備の靴と言われています。さらに信仰の盾、救いの兜、霊の剣をもてと言われます。しかし、真理の帯にしても、正義の胸当てにしても、それは私たちが自分の手で入れる真理や正義ではないのです。神からいただくものです。信仰の盾も、救いの兜も、神のものです。霊の剣も、自分で修行して剣の使い手になるのではありません。神に依り頼み、聖霊によって主なるイエス・キリストからいただくものです。 

<愛されている自分へ> 

 自分には何もない、自分にはまったく力はない、罪に抗うことはできない、そのような神への徹底したへりくだりによって、信仰の武具は与えられます。自分に多少なりとでも力があると思う時与えられません。自分は聖書をよく知っている、良いことをたくさんしている、だから罪から逃れられるなどということはまったくないのです。節制して欲望をコントロールできている、信仰一筋に生きている、などと自負を持つこと自体が罪の深さを知らないことの現れです。そもそも自らの行いによって神の裁きから逃れられると思うことほどの罪はありません。どれほど柔和な態度で善い行いを積み重ねていたとしても、自分の行いに頼ること以上の傲慢はありません。それはキリストの十字架を愚弄することです。 

 そういう私自身、自分の業にこだわってしまうことがあります。その結果、あれもできていない、こういうことじゃだめだというような、何か焦りのようなものに追い立てられます。人には祈れと言いながら、十分に祈れていない、御言葉の前に立てていないという罪悪感のようなものに包まれるときがあります。そして自分が腹立たしいようなふがいない気持ちになります。しかし、あれもできていない、これもダメだという思いというのは結局、自分に依り頼んでいるのだと思います。肝心なところで、神にゆだねきれていない。キリストの十字架への信頼がないということだと思います。そしてそれは、十字架の恵みへの感謝がないということだと思います。 

 神の恵みへの感謝というのは、今自分が、そこそこの生活ができているとか、病や試練はあっても、どうにか守られていると感じる感謝もあります。それも大事なことなのですが、それ以上に、深いところで、神が自分と出会ってくださることへの感謝というものが大事です。罪深い、どうしようもない自分、その心の中を見たら瓦礫のようなものばかりがちゃがちゃと積み重なっている、しかし、そこにキリストがいてくださる、ほんとうはもっときれいにしたところにキリストをお迎えしたい、もっとちゃんとした自分としてキリストとお会いしたいと思いつつ、なおどうしようもない自分があります。しかしそこになおキリストは来てくださるのです。 

 若くして洗礼をお受けになった方も、私のように中年になって洗礼を受けた者も、あるいは、さらには高齢で洗礼を受けられた方、いろいろおられますが、それぞれにキリストの救いにあずかってからのちの生涯の時間は異なります。しかしそれぞれのこの地上での残りの生涯、何をしたかが問題ではありません。どれほどのことを神がしてくださったか、どれほどキリストが自分と出会ってくださったか、そのことにどれほど感謝ができたか、が問題なのです。その神の恵みを知ることが、神の御心に従うことです。神の御心に従うとは、たくさんの善いことをすることではないのです。欲望に打ち勝って清廉潔白にいきることでもありません。ただただ、キリストに出会っていただき、ただただ感謝をする。キリストと出会うとき、私たちはおのずと謙遜にされます。自分の手の業、良い心がけなど無意味なことだと知らされます。ただただキリストが出会ってくださり恵みにあずかり感謝をする、そのとき、私たちは自らの罪にもかかわらず、そしてまたこの罪の世に関わらず、本当の自分に戻っていけるのです。神に愛されている本当の自分に戻っていけるのです。私たちは残りの生涯、愛されている者として本当の自分に戻っていく道を歩みます。