大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

2014年6月22日 マタイによる福音書4章23~5章2節

2014-06-25 13:47:56 | マタイによる福音書

大阪東教会 2014年6月22日主日礼拝説教
マタイによる福音書4章23~5章2節
「あなたへ語られる神」    吉浦玲子伝道師
 聖書には多く、主イエスによって病が癒されるという記事が出てまいります。主イエスによって、病が癒されたというのは実際にあったことでしょう。主イエスの奇跡は奇跡として現実に起こったことであります。大げさに書いてあるのでも、イエス様の力を比喩的に書いてあるわけでもないと思います。しかし、私は、そう理解しながら、なぜその癒しの記事が聖書にはたくさん載っているのだろうかとも思っていました。
 と言いますのは、現代において、主イエスを信じたからと言って、病を持った人が奇跡的に癒されるということは全くないわけではありませんが、あまりありません。そのようななかで、ことに病を持っておられる方にとって、聖書の病の癒しの話は、病の癒されない人に反発を感じさせないだろうか、聖書に躓きを覚えさせることにならないであろうかと考えたりしていました。
でも一方で私には生まれつき目の見えないクリスチャンの友人がおります。彼女はクリスチャンになったからと言って、聖書の記事にあるように、目が見えるようになったわけではありません。しかし彼女は、信仰を持ち続けています。そしてそれはいつか目が見えるようになるようにと、そのために信じているわけではありません。彼女は、目が癒されようが癒されまいが、すでに自分が救われていることを感謝しているのです。罪赦されて、救われた、新しい人間とされている、その喜びの中にすでにいるのです。
 また、来月、ガーデンコンサートをこの教会では開きますが、そこに来ていただくアーティストのお一人には事故で半身不随になって車いす生活をされているゴスペルシンガーの女性もいます。彼女は、もともとダンサー志望だったのです。ダンサーを目指していたのに踊れなくなってしまった。その失意の中から、神によって力を与えられてゴスペルを歌うようになられた方です。彼女は信仰によって、ダンスをふたたび踊れるようになったわけではありません。しかしなお、彼女はとても力強い歌声で神を賛美されます。ぜひお時間のある方は、来月、平日の昼間ではありますが、お聞きに来られると良いかと思います。ちなみにコンサートを企画されている方に、彼女のことを少しお聞きしましたが、彼女はむしろ、自分が癒されることを祈られることに感謝を覚えながらも少し違和感があったそうです。自分はもうすでに車椅子の自分というものを受け入れている、そのなかでみこころを信じている、なのになお癒しを求められるのが、善意であっても、今現在、すでに神から祝福を頂いているのに、その祝福が不完全であるように感じられ、少し困惑されたようです。車いすの自分はそのままで、神に愛され、祝福を受けているのだから、とおっしゃるそうです。
 そのようなことを考えますとき、信仰というのはあくまでも魂の救いの問題ではないかと思うのです。ではなぜ聖書には肉体的な癒しの話が数多く載っているのでしょうか。
 今日の聖書箇所にも、主イエスの癒しの業が記載されています。「ありとあらゆる病気や患いを癒された」とあります。患いという言葉は、弱さという言葉でもあります。また悩みや艱難というニュアンスもあります。つまり主イエスは、人々のありとあらゆる心身の痛みや苦しみを癒されたのです。そして今日の聖書箇所からはわかりませんが、福音書の中の主イエスの癒しの場面を読むとき、主イエスは、一人一人を癒されるとき、一人一人の人間と向き合い、ご覧になるのです。その人の病気の状態のみならず、その人の病気に関わる悩み、病気であるがゆえに家族の中でもしんどい立場にあることとか、病気であるがゆえに断念せざるを得なかったこと、そんなさまざまな思いを御覧になりました。さらには病気とは関係のない問題をも、主イエスはご覧になったでしょう。
 今日の聖書箇所の直前は、4人の漁師を弟子にする話でした。そこでも主イエスは、弟子にする前に、そのひとりひとりをご覧になった。今月のはじめの礼拝で共に読みましたが、4章18節に「ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった」とある通りです。
 主イエスは一人一人と向き合い、その一人一人が抱える問題を御覧になって癒しをお与えになった。一人一人違う方法で癒された。その癒しの業を通じて、主イエスは一人一人と人格的に交わられたと言えます。
 病院の診察室で病気の様子と検査結果のデータだけをみて、薬の処方を出したら椅子をクルリと回して患者に背なかを向ける医者とは違うのです。
 24節にイエスの評判がシリア中に広まったとあります。これは、奇跡をおこなう人、病気を何でも治せる人がいるということで評判が広まったのだと思います。そして人々は主イエスのもとに殺到しました。
 とにかく癒されたい、わらをもすがる気持ちで主イエスのところへやってきたのでしょう。そのおびただしい人たちを主イエスは癒されました。人格的な交わりを持ちました。そしてその人々の中から、大勢の群衆が来てイエスに従ったのです。
 癒されて従わなかった人たちもたくさんいたでしょう。しかし、従った人たちもいたのです。彼らは、群衆と記されています。群衆と弟子の明確は違いはなんだったのでしょうか。それは明確ではありません。ひょっとしたら群衆と呼ばれる人たちは、弟子になるという確固とした意志までは持っていなかったのかもしれません。しかし、それでもその人たちも主イエスに従ったのです。この従うという言葉は、4人の漁師が弟子になって従ったという言葉と同じです。
 さきほど、信仰は魂の救いだと申しました。しかし、肉体を持ち弱い心を持っている私たちは、現実的に、いま抱えている問題が顧みられた時、はじめて顧みてくださった人へと目が向けられるのではないでしょうか。主イエスは私たちが弱い人間であることを知っています。私たちが痛みを癒され、苦しみを取り除かれたときはじめて、その業をなしてくださった方に感謝をし、ついていこうと思うような者であることをご存知です。そもそも神の業は、理屈だけのものではないのです。病を得やすい肉体を持ち、弱い心を持つ人間のすべてにおいて働いてくださる、それが神の救いの業です。
 最初に病を癒されなくても信仰も持っておられる方の話をしました。しかし、人間は現実的な問題をまったく抜きにして信仰を得るわけではありません。癒されなくても信仰を持っておられる一人一人に対しても、現実的に体や心を通して、やはり主イエスは働かれたと思います。私たちは頭の理解、精神的な充足を得る部分だけで信仰を与えられるわけではありません。肉体を持った、心を持った私たちの現実的な存在のすべてに神の力が働かれるとき、私たちは目を開かされるのです。聖書に体の癒しの話が多くあるのは、そのような私たちが神へと導かれるための一つのステップとして記されているのではないかと思います。
そのようにして、主イエスへと目を開かされて、従ってきた群衆は、それでも半信半疑で主イエスに従ったのかもしれません。この人はすごい人だ、王様になるかもしれないと思って従ったかもしれません。現世的なご利益を求めていたかもしれません。
 しかしそのような群衆を主イエスは否定はなさらなかったのです。その従ってきた群衆、そして弟子とはいえ、まだ主イエスの本当の救い主としての姿を理解してはいなかった弟子達を前にして、いよいよ有名な山上の説教を主イエスは語り始められます。
 この山上の説教は形としては弟子たちに語られています。弟子の心得みたいなものが語られていると言えます。では、ここに従ってきた群衆は、主イエスと弟子の様子を遠巻きに見ているだけの存在だったのでしょうか。外野と言いますか、説教の聴衆とはみなされていないかったのでしょうか。
 そうではありません。たしかに主イエスは弟子たちにお語りになりました。しかしなお、この言葉は弟子たちほどは確固とした決意を持って従ってきたわけではないかもしれない群衆たちにも届けられたのです。
 5章1節に「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。」とあります。主イエスの目にはしっかりと群衆が見えています。主イエスは十分に群衆を配慮されています。そして「腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。」たしかに主イエスの近くにいたのは弟子たちでした。しかしなおその主のことばは群集にも語られたのです。この山上の説教は、7章まで続いていますが、7章の28節には「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。」とあります。つまり山上の説教の最初と最後に群衆の姿が描かれているのです。
 ここで示されているのは、主イエスはどのようなものであれ、自分に従って来た者に語ってくださるということです。私たちはいつもいつも主イエスの傍らでしっかりと主イエスのお言葉を聞きたいと思います。思いつつ、つい離れてしまう時もあるのではないでしょうか。弟子たちのようにすぐそばにはいれないときもあるでしょう。さまざまなこの世のことで忙殺され、また自分自身の中にいろいろな気持があり、かろうじて教会につながっている、聖書を開いている、でも心は定まっていない。そのようなときもあるかもしれません。それでもこの場にいた群衆のように、かろうじて主イエスに従っていく、近くではなくても声の聞こえる距離にいる、それが大事なのだと思います。
 ところで、ここでは主イエスが山に登っておられます。山といえば、旧約聖書において、モーセは神の言葉をきくためにシナイ山に登りました。出エジプト記の出来事です。そのときはモーセは預言者として一人で山に登ったのです。神聖な神の山には、神に召された特別な預言者モーセ以外は登れなかったのです。普通の人間はそのシナイ山には近づくことができなかった、神の怒りを買って死ぬと考えられたのです。しかし、今日の聖書箇所では主イエスと共に弟子達も山に登っているのです。群衆も主イエスの声の届く範囲にいたでしょうから、山に登ったのです。モーセの時代、山に登ることができなかった、直接神の声を聞くことができなかった人間が、神である主イエスと共に山に登っているのです。そこで主イエスご自身から語っていただいているのです。
 主イエスは「天の国は近づいた」とおっしゃいましたが、それは近づいたという言葉でありながら、すでに成就しているということでもあると、これまでも何回か申しました。今日の子の聖書箇所において、神である主イエスと共に山に登り、そして主イエスご自身から直接話を聞くことができる、そこにはもうすでに天の国が成就しているのです。
 そのすでに成就している天の国は今日でいえば、教会です。
 私たちは主イエスといま共に山に登り、御声を聞いています。教会につながる私たちは、それぞれの場所においても主の声を聞きます。日々の煩わしさや困難の中で、いつもいつも主イエスの真ん前で声を聞くことは難しいかもしれない、でもなお、声の聞こえるところにいたい、そのような私たちの毎日でありたいと願います。主イエス・キリストと共に歩み、その声を聞く、その喜びの中にこそ新しくされた人間の、すでに神に国の者とされた生活があります。


2014年6月15日コリントの信徒への手紙Ⅱ5:16~21節

2014-06-19 13:22:11 | コリントの信徒への手紙Ⅱ

大阪東教会 2014年6月15日主日礼拝説教
コリントの信徒への手紙Ⅱ5:16~21節
「あなたは、今日、新しくされました」    吉浦玲子伝道師
  先週、私たちはペンテコステの礼拝をお捧げいたしました。平山牧師を通して、本来、私たちとは関係ない私たちの外側にあるべき神の救いの出来事が、聖霊によって私たちの内側の出来事となったこと、主イエス・キリストの十字架の救いが私たち一人一人のものであること、を知ることができるようになったことを聞き、そのことをあらためて感謝し、ペンテコステをお祝いいたしました。そのペンテコステから2000年後の今日において、教会につながっている私たちもまた教会にあって、神の言葉を聞き、新しく生かされています。
 たしかに私たちは新しく生かされているのです。そして新しくされたのは私たち一人一人だけでなく、この世界も新しくされたのです。私たちはそのことを聖霊によって知らされています。でも、次のような言葉を聞かれるとどう思われますでしょうか?
 宗教改革者であるルターは言います。「この世界のなかに死も罪もない」と。「もし罪や死が見えているとしたら、それはあなたが不信仰だからだ」と。いかがでしょうか?そんな馬鹿なことがあるか?!と思われますでしょうか?私は思いました。そんな馬鹿なことがあるか、この世界には悪が満ち、罪が満ち、おびただしい死があるではないかと思います。しかし、ルターはいうのです。主イエス・キリストの十字架によって、それらはすべて新しくされたのだと、もうこの世界には罪も死もないのだと。
 たいへん強烈な言葉です。わたしにはまったく肯い難かった言葉でした。私の母は一年半前、家族の見守る中で召されました。そこにたしかに死があったのです。血が流れ、痛みがあり、命は死にとってかわられました。
 しかしなお、死も罪もない、そうルターはいうのです。キリストの十字架のゆえに世界は全く新しくされたのだと。このルターと同じように、世界を見た人が今日の聖書箇所のことばを記したパウロです。パウロはけっしてお気楽な人生を送った人ではもちろんありません。迫害の中、宣教を続けました。鞭うたれ、獄につながれ、難破してみずからも病を負っていました。しかしなおルターと同じようにこの世界はすでにキリストの十字架のゆえに新しくされたとパウロも考えていました。
 今日の聖書箇所16節に「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません」とあります。肉に従って知る、とありますが、肉に従って知る、というのは、従来の価値観に従って世界を知ることです。
 それは、利害関係によって人間関係をつくっていくビジネスライクな価値観に従って世の中を知ることであったり、古いしがらみに縛られて生活を考えることであったり、私なんて欠点だらけでどうしようもないと自分を貶める感情にとらわれて自己認識をすることです。それらをまとめて言えば、十字架の救いを知らない、罪人の目で世界を見るということです。
 しかし、パウロは、もうそのようには見ないのだと言います。
 先々週、名古屋の説教塾セミナーに参加いたしました。指導してくださった先生は85歳です。奥さまは86歳で要介護5の寝たきりの状態です。認知症もあります。その奥様を自宅で85歳の先生が介護されている、老老介護の現実があります。奥様も伝道者でした。その方がいまは寝たきりで身の回りの世話をすべて夫に委ねておられる。しかし85歳の先生はおっしゃいました。「この状態をはたからみたら、実にみじめで悲惨な老老介護の状況だろう。人から見たら<ふたりとも神の福音を長く語ってきていながら、いまは老老介護の悲惨な状態だ、語って来た福音はどこにいったのか>と思われるかもしれない。しかし、違う。この老老介護の日々の上にも神の恵みは降りそそいでいる、神の祝福の中の日々なのだ。」と。これはどのようなときでも、どんな状態でも神の恵みを信じましょう、祝福だと思いましょう、というキリスト者としての心の持ち方とか考え方を示しているのではありません。そうではなく本当の現実をみるということです。新しくされた現実を見るということを先生は語られたのです。肉に従って知るのではなく、霊の目、新しくされた者の目で知る時、そこに神の恵みが見え、祝福が見える、それが本当の現実なんだということを先生はおっしゃったのです。

 「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」これは決定的なことです。
 日本人は、古き良き時代というノスタルジックな感覚を好む傾向があるかもしれません。心のなかにある良き思い出を大事にすること、そのこと自体は悪いことではありません。しかし、今日の聖書箇所でいわれている「あたらしいもの」は神が新しくされた世界の現実です。神が新しくされた現実と、古い現実は全く違います。目の前に新しい世界があるのにもかかわらず、わたしたちが肉の目、つまり古い価値観で縛られた目、罪人の目でみるとき依然として世界は古く見えます。しかし、キリストによって新しくされた者は、そう見ることはできないのです。
 なぜならそれは「すべて神から出たことだから」です。神がそのようになされたのです。神はキリストを通してわたしたちをご自分と和解させられました。いま、聖書研究祈祷会で創世記を学んでいます。その一章において、世界のすべてのものを良いものとして神はお造りになったことが記されています。創造の七日間において「神はこれを見て、良しとされた」あるいは「見よ、それは極めて良かった」という言葉が繰り返し記されています。創造の最初において、この世界は良いものであったし、わたしたち人間も良いものとして神は創造されました。その世界が、私たち人間の罪によって壊れました。私たちは罪人として神の前に立てない者となりました。端的に言って私たちは神に敵対する者となったのです。
 敵対するということに関してですが、信仰をお持ちでない方であっても、自分が何一つ非の打ちどころのない人間であると思っている方はおそらくおられないでしょう。しかしだからといって、「あなたは神に敵対する者である」といわれると違和感を覚える方もおられるのではないでしょうか。自分は神と敵対したことなどはない、と。そもそも敵対どころか神と自分は関わりがなかった、敵対しようもないではないか、と。
 しかし、神によって創造された人間が神とかかわりなく生きている、神によって造られ命を与えられているものが、神と共に生きていない、神を向いて生きていない、そのことが罪であり、神への敵対です。親に愛されて育った子供が「自分は親とは何もかかわりがない」といって家をでていくようなものです。人間の悲惨はそこから生じてきました。

 しかし神は、勝手に家を出て行った子供のような人間と、イエスキリストを通して、そのキリストの十字架によって和解をしてくださいました。和解するという言葉は、交換するという言葉でもあります。罪を知らないキリストの命と、私たちの罪が交換されたのです。またこれは経済の言葉でもあります。
 本来、和解とは、非のある方が、損害を与えた方がなんらかの賠償を支払って成立するものです。でも神が和解をしてくださった、それは神の方が御子を罪人として十字架につけて賠償を支払われました。神は大損して人間は大もうけをしたといえます。しかしそうではありません。神は実は大損はされなかった、御子の命を失われましたが、私たちの命がそれに値するものだと神は考えておられたからです。私たちの命が尊いものであり、値高いものであると神は考えてくださったからこそ、御子を十字架にかけて、交換なさったのです。わたしたちを愛しておられたからです。
 そして「神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく」と書かれています。責任を問うことなくというのは、責任を数えないということです。自分たちの罪を数え上げようとしたらどれほどになるでしょうか。それを神は一切数えないとおっしゃっているのです。それはわたしたちひとりひとりと和解をしてくださったということでもありますが、なにより「世」、世界と和解をしてくださったのです。

 ヨハネによる福音書3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」とありますが、まさにこのことが実現したのです。独り子を信じるもの、その和解の出来事を受け入れる者が一人も滅びないで永遠の命を得る、それが成就したのです。
 つまり世との和解は成立しました。すでに成立しているのです。
 その成立している和解を受け入れるだけで、私たちは神との関係を修復できるのです。今、教会に結ばれている者はすでにその和解を受け入れたものです。すでに神との関係改善は済んでしまっています。そんなわたしたちは、ただ感謝の生活を送るのです。新しくされた者、新しく創造された者として生きるのです。
 その感謝の生活が真実である時、おのずとその喜びを人に伝えたくなるのです。人間と神が、この世界と神が和解してくださった、その和解にまだ気づいていない人たちにも気づいてほしいという思いになるのです。 ちょっと良いことがあったとき、徳をしたとき、そのようなときは、ときどき、このことは他の人には内緒にしておこうという気持ちになったりします。ずるい考え方ですが。
 20節に「神がわたしたちを通して勧められるのでわたしたちはキリストの使者の務めを果たしています」とあります。この使者はパウロや伝道者だけのことではないのです。神と和解していただいたものすべてが使者となるのです。
 ちょっとではない、ほんとうに素晴らしいことがあったとき、その喜びに満たされたとき、そのことは人に伝えずにはいられなくなると思います。変な話ですが、わたしが福岡で学生生活をしていた時、福岡に良く宝くじがあたるという売り場があったんです。長崎の実家の母から宝くじをそこで買ってほしいと言われまして、長崎への帰省の折に買って帰ったことがあります。でも、結局その宝くじははずれました。外れたのですが、その宝くじの当選発表の時期、私はすでに福岡に戻っていましたが、母は風邪をひいて、数日寝込んでいたようです。母は近所の人に娘に福岡で宝くじを買ってもらったということを吹聴していたようです。そもそも、むかしの田舎のことですから、近所の人間の動静というのは丸わかりなんです。母が数日カーテンを引いたままで出てこない、ちょっと近所に買い物くらいにはでかけているけど、ほとんど家の中にこもっている、あれはきっと娘さんが買ってきた宝くじが当たって、そのお金の使い道を家をとざしてこっそり考えているに違いない、そんな噂が近所に流れたそうです。
 でも私たちがほんとうに喜びに満たされていたら、カーテンを閉めて部屋に閉じこもることなんてありえません。宝くじに当たるよりももっと大きな喜びである、神に和解をしていただいている、新しい人間とされている、罪も死もない世界に生きるものとされている、その喜びのリアリティにあるとき、わたしたちはそれを伝えたい、そのための使者になりたいと願うのが自然のことです。
 大阪東教会もそのような教会であったのではないでしょうか。
 不幸な歴史がありました。繰り返し無牧の時代がありました。しかしなお、みなさんは良くこの教会を守ってこられました。たいへんな、ほんとうにたいへんなご苦労があったと思います。そのなかで毎週礼拝を欠かさず守ってこられました。人数が多い教会ではありません、若い人がたくさんいるわけでもありません。限られたご奉仕の方がやりくりをして教会を守ってこられました。みなさんはひょっとしたらはっきりとは、意識はなさっておられなかったかもしれません。でもやはりキリストに於いて、キリストの愛によって皆さんは使者とされていた、和解のための使者として生かされていた、そのことのゆえに、教会を守られた。現実的な必要は多くあったでしょう。教会を守る理由は人それぞれにたくさんあったでしょう。しかし、その心の奥には教会への愛があったのだと思います。その愛は、キリストが皆さんに与えられた愛であったと思います。キリストにおいてキリストの十字架において皆さんと和解してくださった神の愛があったのだと思います。皆さんはすでに和解のための使者としてこの教会に立てられていたのです。和解の言葉をゆだねられていたのです。そしてそれはこれからの大阪東教会もそうです。和解の使者としてこの世界にカーテンを開け扉を開いて立っていくのです。

 パウロは言います。「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」パウロはお願いしているのです、キリストに代わって。これは命令ではありません、お願いです。パウロはキリストに代わって願っているのです。なぜならキリストご自身が願っているからです。御子の命によって世と和解してくださった神は、なおその和解に関して命令ではなく願っておられるからです。神は私たちを縛り上げて、何がなんでも和解に同意しろとは言われていないのです。願っておられる。罪とはなんのかかわりもなく十字架につけられ罪とされたキリストがご自身が願っておられる。和解させていただきなさい、と。私たちの意思を尊重してくださるからです。
 また、20節の神が勧められているので、という勧めるという言葉は、慰める、力づけるという意味でもあります。神は、もう罪のために苦しまなくてよいと、慰めてくださる、新しい世界で生きていきなさいと励ましてくださる、その慰めや励ましを私たちもまた他の人へ手渡していくのです。
 そしてわたしたちもまた、願うのです。まだ和解を知らない方々が和解を受け入れてくださるように、永遠の命をえてくださるように。力づくで教会に連れて来るのではないのです。願うのです。
 和解していただいた感謝の生活、神によって義とされている、正しくない者が正しいとされているその喜びの生活に、罪を数えられない感謝の日々に、世のすべての人があずかることができるように願い続けるのです。神と和解していただいたそれは洗礼において終了するのではありません。その神の恵みを感謝して生きる、この世の中にあって、カーテンを開けて扉を開いて世の人を招きながら、世にある人のために祈り続けるその生活を喜びをもって生涯続けるのです。罪も死もない、新しくされたこの世界の現実の中で、新しくされた者として祈りつつ、願いつつ、この一週間も生きていきましょう。
 


2014年6月1日マタイによる福音書4:18-22

2014-06-13 18:23:45 | マタイによる福音書

大阪東教会 2014年6月1日主日礼拝説教
マタイによる福音書4章18~22節
「あなたは何を捨てますか」    吉浦玲子伝道師

 今日の聖書箇所の主イエスのお言葉はただひとつ、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」です。この言葉は、2000年前の4人の漁師たちだけに語られた言葉ではありません。いま会堂にいるわたしたちすべてが神によって「わたしについてきなさい」と声をかけられた者たちです。意識なさっていようとそうでなかろうと、わたしたちはすでに神に召され、「わたしのあとについてきなさい」といわれているのです。だからこそ、いま、わたしたちはここにいるのです。
 しかし、今日の聖書箇所を読んで、私自身がどうしてもひっかかるのが、呼ばれた漁師たちがすぐに網をすてて従った、というところです。また、舟と父親を残して従った、というところです。漁師にとって網を捨てること、あるいは舟を残す、この残すという言葉も捨てるという言葉と同じ意味なのですが、舟を捨てるというのは、生活のすべてを捨てるということに他なりません。それまでの生活の基盤をすべて放棄するということです。それもすぐに、です。何年かかけて準備をして、ということではないのです。
 私たちには私たちの生活があり、その生活基盤を根底から変えることは容易ではありませんし、もし、神がそのように何もかも捨てて自分に速やかに従うことを求められるのであれば、そんなことは到底できないという反発も覚えます。

 昔、ある牧師が自分が牧師になるために献身した時の話をなさいました。先生は、献身した当時、普通に会社に勤めておられたそうです。30代の半ばで、学校に行っているお子さんが三人おられた。ちょうど家も買って、3800万円のローンを抱えた直後のことだったそうです。さあこれからますますはりきって家族のために働くぞ、そんな家庭も仕事も充実した壮年期に入ったところでの、召命、牧師になれという神の召しだったそうです。でもその方は、その神の召しにしっかりと応えられました。
 また、昨年、大阪東教会に夏期伝道実習に来られたS神学生からも似たような話を聞きました。S神学生の同級生の話でした。その方は小さなお子さんを抱え、奨学金と借金でほそぼそと一家で生活をしながら神学校に通っておられるそうです。
 こういう話を聞くと、すごいなと思います。すべてを捨てて献身をする、本当にすごいことだと思います。わたし自身も会社を辞めて献身をしたものです。ある意味、それまでの生活すべてを変化させたともいえるのですが、わたしの場合は子供も大きかったですし、それなりに準備の期間もありました。だから今日の聖書箇所のペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネが、すぐさま、すべてを捨ててイエスさまに従った、そこを読むと、すごいなあとちょっとコンプレックスを感じます。お子さんを抱えて献身した方々を偉いなあと思います。
 でも、今日の聖書箇所は、ペトロはえらかったな、アンデレはえらかった、わたしたちも少しは見習いましょうね、というだけのお話しではありません。
 そもそも神は必要な時に必要な人を召されます、それは断固としてそうされます。伝道者としての献身という場合は特にそうです。
 神様がそう決めたらもうそうなってしまうんです。
 人間の側の覚悟の問題ではありません。人間には拒否することはできません。
 教会学校でお話しすることが多い物語にヨナ書のヨナの話があります。たいへん廃頽した大都会、罪に溢れた町ニネベにいって伝道しなさいという神の召しから逃げていくヨナの話です。海に放り出されて魚にのみこまれてしまうちょっとユーモラスなヨナの話は、物語としてもおもしろく、子供たちに話がしやすいところがあります。
 実際、そのヨナのように、わたしたちもほんとうに神から召しを受けている時、逃げても逃げても神は追いかけてきます。神様はある意味、執念深いです。
 ひとりひとりに召しを与えられる神様はその召しから絶対に逃がさない神でもあります。
 そのような召しを「強いられた恩寵」という言葉で表す時もあります。ある意味、人間からみると有難迷惑ともいえます。でもそんな有難迷惑の恵みとしての召しからわたしたちは逃れることができません。

 しかし、わたしたちの人生にはそのような神からの一見強制的な激しい召しだけがあるわけではありません。多くの場合、もっと静かな召しをうけています。日々、受けています。
 そしてその召しの前に主イエスはわたしたちをご覧になります。18節に「ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった」とあります。主イエスはありのままの、ごく普通の彼らの生活をご覧になったのです。彼らは特別な能力や技術があったわけではありません、ごく平凡な漁師として日々つつましく生活をしていた。そのありのままの姿をご覧になったのです。21節にも「ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのをご覧になると」とあります。その主イエスのまなざしは私たちにも注がれています。ありのままの私たちをご覧になります。ペトロたちの人生は変わり映えのしない日々の連続だったかもしれません。先週も少しお話ししましたが、ガリラヤ地方、ガリラヤ湖のまわりはそれなりに土地としては豊かな土地でした。荒れ野ではなく、花が咲き、果物が実っていました。主イエスは植物を良く例え話に使われたのはそのような背景があるからかもしれません。そしてガリラヤ湖にも漁をできるだけの魚がいたのです。ですからパレスチナ地方としては自然の豊かな場所だったのです。そんな自然に恵まれた素朴な町で、つつましく暮らしていたであろうペトロたちです。極貧ではなかったかもしれませんが、だからといって豊かではなかったでしょう。人生の先に大きな希望があるわけでもない、そのような生活だったでしょう。彼らのそんな日々の辛さや悲しみ、そして折々の喜びも主イエスはわかっておられたでしょう。
 そして、私たちの悲しみも喜びもまた主イエスはご覧になられます。
 そしてそのうえで私たちにおっしゃいます。「わたしについて来なさい」と。
 その言葉は、ホイッスルを鳴らして、「さあ来なさい、集まりなさい」という号令ではありません。ひとりひとりに個別にかけられる言葉です。
 わたしたちは日々、その言葉に従い、主イエスのあとをついていかねばなりません。主イエスのうしろなのです。前ではありません。自分で歩いていて、困った時にはわたしのあとから急いでやってきて助けてください、というのではありません。
 でもここのところがやはり難しいのです。
 私たちはなるべく自分で歩きたいのです。そんな自分で歩きたい自分を捨てるというのが信仰の歩みといえます。私たちが捨てないといけないのは、網や舟や家族ではなく、まず第一に自分です。自分のプライドであり、やり方です。<私はぜんぜんだめな人間でプライドなんてありません>とおっしゃる人もあるかもしれません。でも逆に自分はだめだという思い込みに縛られていませんか?そのように自分を自分で勝手に規定してしまう、制限してしまう自分も捨てないといけません。
 一生懸命生きているとき、どうしてもこだわりもできてきます。わたしもどちらかというと、いろんなことにこだわります。これはこうでなくてはいけない、そんな自分自身のこだわりも捨てないといけません。
 自分で自分の人生に縛りをかけてしまう、そのような考え方も捨てないといけません。現実的には介護がある、子供がいる、住宅ローンがある、さまざまな縛りがたしかにあるのです。でもそれを絶対視するのではなく、そこから人生を考えるのではなく、主イエスに聞きながら歩むのです。そうするとき、主イエスの光が差し込みます、がんじがらめのように見えた生活に別の視点、光が入ってきます。先週の聖書箇所で「暗闇に住む民は大きな光を見」とありました、その光は私たちの生活に射し込んで来る光でもあります。
 でも、もちろんそれはとても難しいことでもあります。しかし少しずつ主イエスの後についていく歩みをしていくとき、私たちはわかっていくのです。昨日まで<私は自分はこうだ>と<こんな人間だ>と考えていた、その姿は本当の自分ではなかった、<これが自分の生活だ>と思っていた生活は本来の自分の生活ではなかった、と。ここはこうしないといけないと思い込んでいた、でも違うやりかたもあった、そういうことを主イエスに従っていくとき、わかってきます。そして、どんどんとわたしたちは自由に、大胆に生きていけるようになります。
 でもそのように歩む人は少ないのです。聖書の中でも主イエスの奇跡を目の前で見たり、自分自身が癒された人でも、イエスのあとについていった人は少ないのです。わたしたちもまた、おりおりに自分勝手な道を歩んでしまいます。せっかく自由にだいたんに朗らかに生きていく道を、主イエスが先だって歩んでくださっているのに、窮屈で暗い方向に私たちは歩んでしまいます。しかし、道を外れたとしても、主イエスは探しに来てくださいます。ですから安心していいのですが、できれば、主イエスのすぐ後を歩んでいきたいものです。

 そしてその歩む目的は「人間をとる漁師にしてあげよう」ということです。人間をとる漁師、それは人間を神の方へ、救いの方へ導く漁師ということです。それはなにも直接的に伝道をする、教会に導くということだけではありません。それぞれの生活の中で、わたしたちの家族を、また隣人を神の光の方へ導くということです。
 私はむかし、いまでも多少そうなんですが、自分みたいなものがクリスチャンだというのは、かえって反伝道的なことなのではないかと思っていました。あんな人がクリスチャンなの~?!と、かえって私を見た人がキリスト教に反発を覚えないかと思っていました。ですから、できるかぎり隠れキリシタンというか、あんまり人前ではそういう話はしないようにと思っていました。
 でもそういう心配はしなくていいのです。なぜなら、「あなたは人間をとる漁師になりなさい」と主イエスはおっしゃっているのではありません。「人間をとる漁師にしてあげよう」とおっしゃているのです。主イエスご自身が私たちを漁師にしてくださるのです。私たち自身が努力をして漁師になるのでもなく、漁師にふさわしくならねばならない、ということではないのです。だから安心していいのです。

 ただ、もちろん主イエスが私たちを漁師にしてくださるのですが、私たちもまた私たちと出会うひとりひとりの姿と向き合わないといけなくなります。主イエスがわたしたちひとりひとりのありのままの姿をご覧になってくださったように、わたしたちも、ひとりひとりと真実に出会い、交わらないといけなくなります。
 ビジネスライクな付き合い、形式的な付き合いでは、すまされなくなります。私たちは本当の意味での人間関係を要求されるようになります。肩書きや立場ではなく、その人そのものと出会わないといけなくなります。でもそれは幸いなことでもあります。会社に長くいて感じたことですが、もちろん優秀な人、力のある人は、影響力が大きいです。たくさんの人が周りに集まります。しかし、それほど役職も高くない、目立っている人でもない、でも、なんとなく周りに人がたくさん集まってくる人というのもいます。そういう人というのは地位や立場ではなくその人自身の人間的な力で、豊かな交わりができる人なのです。定年退職をしたあと、つまり肩書きや立場がなくなったとき、そういう人はたぶん役職が上で優秀だった人より、豊かな人生を送るだろうなと思います。

 私たちも人をとる漁師となる時、自分自身の本来のあるべき人間として人と向き合う存在とされていくでしょう。しかもそれは自分自身の力でそうなるのではなく、主イエスがそうしてくださるのです。そして、それは家族や身近な人に対してもそうです。自分の子供だ、だからこうあるべきと見ていた子供の本当の姿を見ることになります、自分の親なんだからという枠で見ていたけれど、そうではなく一人の人間として見ていく、ようになります。それは場合によっては苦しいことであるかもしれません。しかし、そのような漁師として私たちは召されていくのです。

 そのためにも大事なことは、「主イエスについていくこと」です。自分自身を捨てて、ただただ主イエスに従っていくことです。
 その姿、、、仮に時に道に迷い、自分本位な歩みをして、繰り返し失敗をしたとしても、そのような歩みをしているあなたをきっとだれかが見ているでしょう。そのような私たちであっても、そんな私たちの歩みの前におられる方へ、わたしたちに先立って歩まれている方へと、やがて目を向けてくださる人が起こされるでしょう。なぜなら、主イエスご自身が、わたしたちをそのように召して人間をとる漁師としてくださっているからです。


2014年5月25日マタイによる福音書4:12-17

2014-06-13 18:00:09 | マタイによる福音書

大阪東教会 2014年5月25日主日礼拝説教
マタイによる福音書4章12~17節
「光が差し込んだ」    吉浦玲子伝道師

 主イエスは洗礼者ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれたとあります。ここで、ヨハネの逮捕とイエスの移動の関係というのは明確にはわかりません。そのときのイエスさまの心情というものもうかがい知ることはできません。ご自身が洗礼をお受けになったヨハネが捕らえられた、そののちから主イエスは公の宣教活動を開始された、その事実だけが記述されています。
 しかしながら、主イエスがヨハネの逮捕に心を痛められたことは容易に想像できます。そもそもヨハネは悪事を働いて捕らえられたのではありません。むしろ悪事をなしていたのはヘロデであって、そのヘロデに対して、正しいことを言ったからヨハネは捕らえられたのです。そのことを悲しみ心痛められたのは当然でしょう。
 ただ、ここで言えますことは、主イエスの宣教の開始、それは、先見者としてのヨハネの活動の終焉の時に、イエスが具体的な活動を始められた、それが神の時であったということです。そして神の時というのは、かならずしも華々しい明るい中にあるのではないということです。さあ行け!という心躍るような思いで主イエスは宣教を開始されたわけではないのです。陰鬱な状況の中で、しかしなお神によって押し出され、宣教の道を歩み出されたのです。私たちにおいてもそうです。大きな変換点、新しい歩みというのは、時として、大きな挫折や痛みのなかから、はじまります。それはこの大阪東教会のこれまでの歩みにおいてもそうだったのではないかと思います。
 ここで「退いた」とありますが、イエスさまはヨハネが捕らえられたのでガリラヤに逃げたのではありません。もしそうであれば、ヨハネを捕えたのはヘロデですから、そのヘロデの領土であるガリラヤはたいへん危険です。ですから、ヘロデを恐れるのであればガリラヤには向かわれないはずです。ここでガリラヤに行かれたのは、それは後に出てきます預言の成就のためです。ここでもイエスさまの歩みがそのまま神のご計画の中にあったということを示しています。
 ちなみにヨハネが捕らえられたというときの<捕らえられた>という言葉は<引き渡された>という言葉でもあります。この言葉は、これは後に主イエスご自身が祭司長たちに捉えられた時にも使われる言葉であり、ピラトに引き渡されたときに遣われた言葉でもあります。したがって、ここでは、洗礼者にして先見者であるヨハネの運命と、すべてを成就なさる主イエスの歩みが重ねられているもいるのです。つまり、ヨハネはヨハネの役割を、また主イエスは主イエスの歩みを、それぞれに神のご計画の中でなしたのだということが暗示されています。

 そして、ここではさらにイエスはカファルナウムに来て住まわれた、とあります。なぜ主イエスがナザレからカファルナウムに移られたのか、その現実的な理由はわかりません。しかし、ここでもこの地がゼブルン、ナフタリの地であった、その地名に大きな意味がある、と、この福音書の著者は預言の引用から考えています。この移動においても、イエスが預言者たちが預言した内容通りに、つまり神のご計画に基づいて、その活動を開始されたのだということをマタイは語っています。
 さて、その15節からのイザヤ書の預言の引用でも、はっきりとわからないところがあります。異邦人のガリラヤとはどこか、そして暗闇に住む民とはだれなのか、死の影の地に住む者はだれなのか?厳密に特定しようとすると、学者によってさまざまな意見があります。ただ、ガリラヤというのはユダヤの一地方でしたが、ここはイスラエルの北のはずれであるという土地柄から、歴史的に他国から侵入され従属を余儀なくされてきた土地です。そのために、宗教的に、また民族的にさまざまなものが混在していました。「異邦人のガリラヤ」というのはそういった経緯から、たとえばエルサレムの人々から見たら、下げずまれていたガリラヤ、ユダヤの純粋性に乏しい不純な混血した地域ということによる蔑称です。そこに住む人に対して、神を知らない人々、神から離れている人々という軽蔑が投げかけられている言葉でもあります。
 しかも当時のガリラヤ地方というのは貧しい小作人が多かったようです。またイエスさまがお住まいになったカファルナウムは平野で豊かな土地だったのですが、海抜がマイナス200メートルくらいで夏などは暑いところだったようです。ハエや蚊などの虫が大量に発生して病気なども媒介したようです。貧しい人、病の人の多い地域、そのようなところから主イエスはそこから伝道を始められたのです。

 16節には「暗闇に住む民」という言葉があります。イザヤ書と微妙に言葉が違っています。マタイはあえて、「住む」という言葉を使ったのです。暗闇のなかにとどまっている人々ということです。つまり、この暗闇に住む民とは、まさに神から離れた民、神を知らない民です。
 暗闇と言えば、小学生の時、九州の実家近くのそろばん塾に通っていました。夕方から夜の時間帯でした。冬の時期ですと、帰りはすっかり真っ暗でした。当時、子供達は懐中電灯で道を照らしながら帰りました。いまは、夜道を懐中電灯を照らしながら帰るということはしないですよね。さすがに私の実家の近くも、今は夜に懐中電灯つけることはありません。当然、街灯もあればいろんな灯りがあるんです。ちょっと関係ありませんが、数年前に、わたしの実家から徒歩五分のところに、大きなユニクロができていたのにはショックをうけました。私の実家近くは田んぼが多かったんですが、いまはまったく田んぼはありません。田んぼやら、ぼた山やらがあった場所にユニクロがどーんとできていてほんとうにびっくりしました。だいたい、ここ20年くらいでしょうか、都会と地方の差がなくなってきています。どこにもユニクロがあってマクドナルドがあります。24時間営業のコンビニが深夜でも明るく光をともしています。もちろん、地方でも、もっと郡部に行くとまた違うのですが。
 しかし、日本の多くの土地が明るく、闇がない、清潔で機能的な町になっています。
 特に都会では、クリスマスでない時期でも、年がら年中綺麗なイルミネーションが輝いています。これは多くの人が言っていることでもありますが、このきれいな街並み、その人工的な明るさは、本当の意味での闇を隠すものでもあると思います。ほんらいそこにあるはずの闇、影というものをみえなくしてしまっている。この明るい清潔な町で多くの人が精神を病み、自殺をしています。
 私たちは、このような現代の町で、闇を失ってしまった世界で、自分の中にある闇も分からなくなっているように思います。人工的な光のなかで、自分たちが本当は暗闇の中に住んでいることを知らず、本当の光へと向かえないままに破滅に向かっている、そのような人々が多くいるのではないでしょうか。

 数年前、ある青年が洗礼を受けました。彼は薬物依存の過去を持っていました。警察に捕らえられ執行猶予中でした。なにより彼自身がその依存症のために苦しんでいました。彼はその告白の中で、自分は、昔、自分が王様のように思っていた、好きなように生活をしていた、でも気がつくと、薬物に支配され、とんでもない地獄のようなところに落ちていた、そのどん底のなかで神と出会った、と語りました。正確に言いますと、そのどん底で苦しさのあまり助けを求めたとき、たしかに答えてくれたものがあり、平安を得たそうです。その答えてくださった方が聖書の神であったことを、その後、依存症の更生施設に置いてあった聖書を手にとってわかったそうです。
 わたしたちは彼を特別な人だと考えることはできません。彼が「異邦人のガリラヤ」といえる薬物依存の暗闇の中で苦しんでいたように、私たち一人一人もまた、主イエスを救い主と受け入れる前は、それぞれの闇の中にいたのです。異邦人として、神から離れた者として暗闇に住んでいたのです。

 ところで、マタイによる福音書の著者はユダヤ人として福音書を書きましたが、主イエスの宣教のはじめが「異邦人のガリラヤ」であったと記しています。つまり、ここには主イエスの宣教は異邦人へ及ぶことが暗示されています。つまり「死の影の地に住む者に光が射し込んだ」とありますが、この光は全世界に及ぶことを著者は暗示しています。そして、マタイによる福音書の28章にある「すべての民にのべ伝えよ」という大宣教命令につながる「すべての民」への出来事が、主イエスの宣教のはじめにおいて暗示されています。

 17節に「そのときから」とあります。まさにそのときから、なのです。決定的な出来事がおこったということです。「悔い改めよ、天の国は近づいた」これは3章2節の洗礼者ヨハネの言葉と同じです。意味としては同じなのです。しかし、決定的に違うことがあります。ヨハネは先見者として言葉通り「近づいた」ということを語りました。しかし主イエスは成就される方です。この天の国が近づいたということが、そのときから、まさに成就したのです。先週、K牧師がおっしゃったように、天の国はすでにいま駅のホームに入って来た列車のように、すぐに目の前にあるのです。扉が開かれるのはあと少しあとですが、もう発車のベルも鳴っている、すでにここにあるのです。まだ先の遠いことを言っているのではなく、ほんとうに臨場感にあふれた、手をかざせば届くような近さに迫っている、それが主イエスの伝えられた、いや成就された天の国です。
 だからこそ悔い改めるのです。神の方を向くのです。人の作った光ではなくまことの神を光を見るのです。真の光を見る時、私たちは自分の闇とも向き合います。しかしそれは幸福なことです。真の光によって私たちは自分の闇を雪のように白くしていただくのです。私たちは毎週、礼拝の中でざんげの祈りを致します。それは私たちの悔い改めの心を表すものです。すばらしいことです。
 しかし、忘れてならないことがあります。私たちは私たちの意思で、車に乗り、電車に乗り、歩いて、礼拝に来ていますが、まず先だって、神が私たちを招いてくださっていたということです。
 私たちが暗闇の地にすむものであることを、そのご自身の光によって明らかにして下さった。主イエスご自身が私たちに触れてくださったということです。さきほど申しました青年が、自分から聖書を読んだのではない、まず神に呼ばれた、そう告白していた、そのようなことがわたしたちにひとりひとりにもおこっているのです。
 そうでなければ、神のほうから触れていただかなければ、私たちは自分ではわからないのです。人工の光にだまされてしまうのです。暗闇にいたものが、本当の光を見ることができる、そのために、主イエスご自身が私たちを招いてくださる、触れてくださる、そのことを感謝して覚えたいと思います。その、まことの光を与えてくださる主イエスに感謝しつつ、なお、主イエスに触れていただき導いていただく、新しい一週間を生きていきましょう。


2014年5月11日マタイによる福音書4:1-11

2014-06-13 17:30:05 | マタイによる福音書

大阪東教会 2014年5月11日主日礼拝説教
マタイによる福音書4章1~11節
「逃れられない誘惑」    吉浦玲子伝道師

 わたしたちが礼拝の中で、さきほど共に祈りました「主の祈り」、そのなかに「われをこころみにあわせず悪より救い出したまえ」という言葉があります。この「こころみ」は「誘惑」とも訳せますし、「試練」とも訳せます。試練であれ誘惑であれ、私たちは人生において逃れることはできません。そしてその逃れられないこころみにおいて、往々にして私たちは負けるのです。サタンに膝を折り誘惑に屈するのです。あるいは試練の中、自分と神を見失います。そして「主の祈り」の中では、「われらをこころみに打ち勝たせてください」とは祈っていません。「こころみにあわせず」と祈っています。私たちはほとんどの場合こころみに勝つことはできない弱い人間だからです。だから<こころみにあわせないでください>なのです。
 <いやいや私は100戦連勝でこころみに勝ってます>そういう方もおられるでしょうか。おられたら、それは大変立派です。しかし、はっきり申します。連勝できるようなこころみはこころみではありません。こころみというのは、打ち勝ちがたいものなのです。100戦連勝のうち、たしかに何勝かは打ち勝たれたかもしれませんが、ほとんどはあなたにとって、それはこころみではなかったのです。
 私たちは試練であれ誘惑であれ、負けて、そこに囚われてしまう時、罪の中、悪の中へ、とりこまれてしまいます。だからこそ、「こころみにあわせず」、しかし、もしこころみにあってしまって負けたとしても、なお、あなたが-父なる神が-私たちを救い出してくださいと祈るのです。
 私たちはこころみに勝てませんが、地上でただお一人すべてのこころみに完全に勝利された方がおられます。イエス・キリストです。今日はその主イエス・キリストがこころみにあわれた場面です。

 悪魔がでてまいります。聖書には悪魔やサタンといったものがよく出てまいります。現代人はこういうものをばかにします。悪魔やサタンを、自分の中の悪へ向かう力のことであると解釈する人もいます。それは間違いではありません。私たちの中には悪へ向かう、神から離れようとする力がたしかにあります。しかし、それだけではないのです。この世界には明確に悪魔やサタンの力は働いています。それを甘く見てはいけないのです。しかも悪魔やサタンは、倫理が荒廃した神から遠いところに働くのではないのです。神の祝福があるところに往々にして働くのです。そして神から人を引き離す力として働きます。教会において問題がおこったり、教師が不祥事を起こしたりする、そこ働く力を軽く見てはいけないのです。サタンが働く時、もともと揉めていた教会ではなく、円満だった教会に一気に亀裂が入る、そんなことがおこります。そもそも神から遠いところにあるものを神から引き離す必要はなく、むしろ神と円満な関係にあるところに悪魔やサタンの力は働きます。私たちは十分に注意をしないといけません。

 今日の聖書箇所には、3つの悪魔の誘惑が出てまいります。ところで、普通いかがでしょうか、悪魔の誘惑と言ったら、富や権力をちらつかせて人を堕落させるようなイメージがないでしょうか?あるいは快楽、特に性的な誘惑でもって人を堕落させるようなイメージがないでしょうか?今日の聖書箇所の誘惑はそういう意味では、わかりにくいといいますか、あまり悪魔の誘惑のようには思えません。あえていえば三つ目の誘惑だけが、悪魔の誘惑っぽく見えます。
 しかし、やはりこの三つの誘惑はわたしたちが陥りがちな典型的な誘惑としてここに記されています。
 まず最初の誘惑の前に、イエスは悪魔から誘惑を受けるために霊に導かれて荒れ野に行かれたとあります。霊によって、つまり神によって、です。
 私たちが誘惑にあうのも、試練に合うのも突き詰めれば、神によって、なのです。これは、考えますと、神様、どうしてそんな誘惑や試練にわたしたちをあわせられるのですか?と言いたくなることです。なんでこんなひどい目に神様は私をお合わせになるのか?それは理解しがたいことのように思えます。
 しかしいまはそれに触れずに先を見ていきたいと思います。イエスさまは断食をなさっていた。40日間、当然、空腹であるのです。すると誘惑するものが来て、「神の子なら石がパンになるように命じたらどうだ」と言うのです。イエスさまは飢えておられる、肉体の危機なのです。そのようなときパンを食べることがいけないことには思えません。石をパンに変えることは、もっともなことのように思えます。
 しかしイエスさまは、申命記の中の言葉を使っておっしゃいます。「人はパンだけでいきるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」
 「人はパンだけでいきるものではない」たいへん有名な言葉です。キリスト者でなくても知っている言葉です。この言葉は今日、もう一か所お読みしました聖書箇所に含まれています。この箇所は、モーセがエジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を率いて神の助けでエジプトを脱出して、乳と蜜の流れる約束の地をめざして旅した40年の歳月のおわりにモーセが語っている場面です。40年の荒れ野の旅は、水がない、食べ物がない、さまざまに民の間でもめごとがおこる、あるいは周囲の部族と衝突をする、たいへんな旅でした。その40年間、神に従って、モーセは歩みました。極めて反抗的な民を率いてきたモーセは、結局、自分自身は約束の地に入れないのです。自らは入れない約束の地を前にして、民へモーセは説教をしている、万感の思いを込めて民に語っている、その中の言葉です。

 彼はいいます、たしかにたいへんな旅であった、と。それはこころみの連続であったからです。過酷な試練の連続でした。さきほどもいいました、水がない食べ物がない、命の危機と隣り合わせの旅でした。しかしその40年をへてモーセはいいます。あなた方のまとう着物は古びず、足がはれることもなかった、神の守りはたしかにあったではないか?
 水がなければ岩から水を出され、食べ物がなければマナを振らせてくださった、神は私たちの必要をすべてご存知の神である、そういうものはすべて整えられるのである。もちろん私たちは「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」と願うことができます。しかし、そういうことはもちろん神は与えてくださるのだ、そのうえで私たちは何をなすべきか、なにが大事か?それは主の口から出るすべて言葉によって私たちが本当に生きる者となることを知ることだ、とモーセは言っているのです。
 そしてこの箇所は二重写しになっています。この申命記は、モーセの死後、約束の地に入ったイスラエルの民が、やがて王国を作ります。ダビデ・ソロモンの栄光の時代ののち、結局、彼らは神から離れ神の裁きを受け、国は滅びます。バビロンの捕囚としてとらえられて行きます。その国家滅亡を経て、もう一度、はじめの信仰に立ち帰るために、信仰を言い表し、まとめられたのが申命記を含む書物でした。ですからこの申命記の箇所には、出エジプトをした、まさに大いなる神の恵みにあずかった後、試練にあったモーセの時代と、国家滅亡の廃墟の中にたち、ふたたび神に立ち帰ろうとする捕囚時代以降の時代、二つに時代を重ね合わせたイスラエルの民の思いが込められているのです。
 もういちど神の祝福を受けようではないか、何もかも失ったように思えるわれわれに、しかしなお、まだ神の恵みがあったではないか、着物は古びず、足ははれていない。確かに神はわれわれを試練にあわせられた、こころみにあわせられた、しかしまたそれも、ただ私たちが神の言葉によって生きる者とされるためのこころみであったのだ。
 あふれるほどに肉を食べ、おいしいお酒を飲み、豪華な住居に住んでいることが幸せなのではない、神の試みをうけつつ、神の訓練に耐えながら、神の言葉こそ、私たちが生きていくうえで一番大事なことであるということを知っていくことこそ幸せなのだ。
 そのモーセの言葉、あるいはバビロン捕囚以後の民の言葉を、このマタイによる福音書の中でイエスさまはおっしゃっているのです。

 そして、こころみの本質は、神の言葉こそが私たちをまことに生かすものであるにもかかわらず、理由をつけてその大事なものを別のものにすり替えようとします。教会に行くことより、もっと家庭を大事にしっかりしないといけないのではないか。聖書を読む時間があれば、困っている人を助けるボランティアをする方が大事なのではないか。さまざまに形をかえて一番大事なことをすり替えるようにこころみはなされます。家庭もボランティアももちろん大事です。場合によってはどうしても教会にこれない時もあるでしょう。しかし一番大事なことは何か、それを見失ってはいけません。

 二番目の誘惑もわかりにくいものです。悪魔は詩編の91編の12節の言葉を引用してイエスさまを誘惑しています。神を試すな、ということです。現実的には、自分が神を試しているかどうか、はっきりとはわかりにくいかもしれません。しかし私たちは往々にして神を試すのです。神がこれをしてくれるなら信じましょう、と、意識的に、あるいは無意識的に私たちは神を試すのです。自分の願いをかなえてくれたら神を信じましょう、私たちはいつも神の行動を査定し、評価しています。最初の誘惑のところで話をしたモーセの時代、モーセの後を継いだヨショアと共に約束の地に入ろうとした人々はヨルダン川を越えました。民がそのヨルダン川の水に足を踏み入れた時、ヨルダン川の水はせき止められて、水のない乾いたところを民は渡ることができました。彼らはまず、足をひたしたんです。彼らは神はほんとうに私たちを守ってくれるかどうか試しはしなかった。まず彼らはその冷たい川の流れに足を入れたんです。神を試すことなく、足を踏み入れる、私たちの信仰の在り方もそうでありたいものです。

 そして最後の誘惑、これは比較的分かりやすいと思います。権力や財産、欲望を神より優先してはいけない。もちろん普段私たちは、全世界の王になろうなんて思いはしません。しかし、ほんの少しの名誉、出世、ちょっとした見栄に弱いのです。そのささやかな欲望のため、神のことをおざなりする、でもまあちょっとだけだからと思う、でもそれはちょっとだけではないんです。

 ところで最初に申しました。私たちはほとんどの場合、こころみに弱い、誘惑に負けるのだと。たとえば先月お読みしましたペトロが主イエスを否認した話。ペトロもこころみに負けたのです。イエスさまが捕らえられ、イエスさまを置いて逃げた。しかし、そのこころみに負けるということを通じてペトロは自分の弱さを知りました。罪を知りました。
 神様、こころみにあわせないでください。誘惑にあわせないでください、そう私たちは祈ります。しかしなおこころみに神様はあわせられます。しかし、そのこころみにあう、そのことにも意味があるのです。
 私自身、キリスト者になってある大きなこころみに会い、負けました。それはある教会を去ることになった出来事でした。私はたいへん苦しみました。自分が悪いことはもちろんわかっていたのです。自分が悪いことはわかっていながら、苦しみの中で私は神に問いました。「自分が悪いことはわかっています。でもほんとうに本質的に悪いことは何ですか、わたしの何が具体的に悪いのですか?」その答えは、驚くべきものでした。「あなたが苦しむことが悪いのだ」ということでした。そのときわかったのは神は人間が苦しむことを良しとされない、仮に本人の自業自得のようなことであっても、神は人間が苦しまれることをご自身の苦しみとされる神であると。私が苦しむとき、神は私以上に苦しまれる神であるということがわかりました。一方で神はこころみにあわせられる神です。でも高みから人間を試して喜んでいる神ではないのです。こころみに負けて苦しむ人間、痛む人間をみずからも苦しみつつ痛みつつご覧になられる。そしてそこから救い出そうとされる神です。そのような神であるからこそ、私たちはこころみにあい、仮に負けても、そこからふたたび立ち上がっていくことができるのです。悔い改め、あたらしく生きていくことができるのです。

 神が人間の苦しみを人間以上に苦しまれるお方であると申し上げました。その苦しみの最たるものが十字架でした。十字架において主イエスは、肉体と精神において、最大限の苦しみを受けられました。それは私たちの罪のためでした。十字架は主イエスにとって、こころみでありました。主イエスはそのこころみをお避けになろうとしなかったのです。つまり主イエスは荒野で誘惑をうけ、ふたたび十字架の試みにも合われました。そして打ち勝ってくださいました。私たちのためです。私たちがこころみにあって負けても、罪にかられとられても、ふたたび立ち上がることができるように、救われるためにです。人間の苦しみをすべてご存知の神である主イエスであるからこそ、わたしたちと同様にこころみにあわれた主イエスであるからこそ、こころみに負けてしまう私たちを救ってくださることができるのです。

 そのことを覚え、わたしたちはこころみにあっても、主イエスにより頼みつつ、平安をいただいて歩んでいきましょう。