説教「安心しなさい」吉浦玲子
本日の聖書箇所の最初のところで、イエス様は弟子達を強いて船に乗せ向こう岸に行かせ群衆を解散させたとあります。「強いて」という言葉には、不思議な印象を持ちます。なぜ、主イエスは弟子達に強いたのでしょうか?一刻も早くご自分が独りになって祈りたかったのでしょうか。
そしてそののち、イエス様がお一人でおられるとき、強いて船に乗せられた弟子達は難儀をしていました。船が逆風にあって弟子達は悩まされていたとあります。弟子達の中には漁師もいたのですが、その舟のプロを持っても難儀するような逆風だったのです。イエス様は言ってみれば、その逆風の中に弟子達を送り込まれたのです。強いて送り込まれました。少し弟子達を苦労させて鍛えてやろうと考えられたのでしょうか?
そうではないでしょう。今お読みしています章は洗礼者ヨハネの斬首というおぞましい記事から始まっています。人間の欲と悪に極みのような出来事、主イエスの道ぞなえをした偉大なヨハネを殺すようなこの世のおぞましい現実が記されていました。その一方で今日の聖書箇所で弟子達は逆風の中で行き惑っているのです。この世界は暗く、かつ人間の個々の人生、日々の歩みも試練の中にある、そのようなことを感じさせられます。
暗澹たる世界のかたすみで弟子達も夜の湖で試練にあっていました、しかし、夜が明ける頃、主イエスが湖の上を歩いて弟子達のところへ行かれたのです。主イエスがまだ日は昇らない頃、この時刻設定は正確には夜の第4時という単位なんですが、それはだいたい午前3時~6時です。まだ真っ暗であったか、うすら明かりがあったかわかりませんが、朝が近づいたころ、主イエスは湖の上を歩いてこられたのです。
しかし、その主イエスと出会うことは、弟子達にとっては恐怖の出来事でした。主イエスが来られたというのに、「幽霊だ」と叫んだのです。しかし、常識的に考えますと、たしかに恐怖の出来事です。人間が湖の上を歩いているのですから。しかも夜明け前の、波の激しい中の出来事です。ただでさえ死の恐怖の中にいた弟子達に心理的に追い打ちをかけるようなことであったでしょう。死の恐怖の中にあった弟子達に「幽霊」という言葉は自然に出てきたのでしょう。
神が、超越的な神として、人間をはるかに超えた存在として、たとえば湖の上を歩く存在として突然現れた時、それはやはり人間にとっては恐怖なのです。実際、旧約聖書の時代の人々は神の顔を見たら死ぬと信じていました。それほどに神と接することは恐ろしいことでした。それは当然なのです。本来、人間がかたわらによることもできない、きよいお方であり、絶対者だからです。しかし、その神は御子として主イエスをお遣わしになりました。主イエスは、言葉なる神です。人間の言葉で語りかけてくださる神です。父なる神は、御子イエス・キリストによって私たちと交わりを、関係を持ってくださる神です。
主イエスは弟子たちに声をかけられます。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
旧約聖書出エジプト記において、シナイ山で神は雷鳴と稲妻と厚い雲のなかに現れました。当然、人々は震えました。神が現れる、神の顕現というのは本来このようなものなのです。しかし今、主イエスは「安心しなさい、わたしだ」と声をかけておられます。この「わたしだ」という言葉は、原語では「わたしである」と「わたし」を強調した特殊な言い方です。エゴーエイミーという言葉です。これはモーセに神がその名前をあらわされた「あってあるもの」という言葉をギリシャ語にしたものになります。つまりイエスさまが「わたしだ」とおっしゃっているのは、出エジプト記で神がモーセにご自身の名をあかされたと同じ意味があるのです。つまり「わたしだ」という言葉は、主イエスがご自身が神からきたものであることを示されたということです。
わたしだ、わたしがここにいる、だから安心しなさい、主イエスはそうおっしゃっているのです。ほかの誰でもない、「あってあるもの」モーセにその名を示された神から遣わされた、そして神そのものである私がいまここにいる、だから安心しなさい、と主イエスはおっしゃっています。
ところで、わたしの洗礼式のとき、その冒頭で「吉浦玲子、しっかりしなさい、あなたの罪はゆるされた」と司式者がおっしゃったと記憶していました。ずっとそう思っていたんですが、洗礼を授かった牧師によくよく確認させていただきましたら、実際におっしゃっていたのは、「吉浦玲子、父子聖霊の名によって洗礼を授ける、子よ、しっかりしなさい、あなたの罪はゆるされた」だったとのことでした。<子よ、しっかりしなさい、あなたの罪はゆるされた>は、マタイによる福音書の9章2節の口語訳です。これは教団の洗礼式の式文にはない文言です。ただ、いずれにせよ、この「しっかりしなさい」と言われたことがとても印象に残っていたのです。「吉浦玲子、しっかりしなさい」、なにかことさらに私がよろよろしていたり、おろおろしていたのかというとそうではありません。もちろん緊張はしていたのですが。今、考えますとどなたにもその先生は、「しっかりしなさい」とおっしゃっていたのです。その「しっかりしなさい」という言葉は印象的でした。ちなみにマタイによる福音書の9章2節の新共同訳は「元気をだしなさい」です。
今日の新共同訳の聖書箇所には「しっかりしなさい」という言葉は出てきません。しかし、27節に「安心しなさい」という言葉があります。これは、口語訳では「しっかりするのだ」と訳されています。つまりこの「安心しなさい」という言葉は、「しっかりしなさい」なのです。この言葉は、元気を出しなさい、勇気を出しなさい、というニュアンスのある言葉なのです。
でも、私たちは意気消沈しているときに「しっかりしなさい」とか「元気を出しなさい」と言われても、すぐにはしっかりできません。しっかりできないからこそ、元気が出ない状況だからこそ、意気消沈しているのですから。しっかりもできないし、安心もできません。逆風の中で命の危険に怯えている時、しっかりはできないのです。
しかし主イエスはおっしゃるのです。「しっかりしなさい」「安心しなさい」と。「元気を出しなさい」と。
なぜなら私がいるから、主イエスがそばにいるから。しっかりしなさい、あなたの罪はゆるされたのだから。
だからあなたはしっかりできるのだ、安心できるのだ、そう主イエスはおっしゃっています。まだ夜が明けていなくても、波が強くとも、あなたはしっかりできる、元気を出せる、もう罪は赦されるのだから。もっとも人生で大切な罪の問題はもう大丈夫なのだ、だから波も試練ももう大丈夫だ。そうイエス様はおっしゃっています。私が来たのだから、夜の明ける前にあなたのもとへ歩いてきたのだから。
その「しっかりしなさい」「元気を出しなさい」という言葉を聞いて、ペトロはがぜん元気になります。教会学校などでは、<少しおっちょこちょいなペトロさん>といったニュアンスでユーモラスに話をされることの多い場面ですが、ペトロは自分も湖の上を歩こうとします。主イエスが命令してくださったら湖の上を歩けると思ったのです。そして命じてくださいとお願いします。これは主イエスの力を信じたペトロの信仰的な言葉です。実際、ペトロは湖の上を歩くのです。しかし、強い風が吹いて来ると怖くなって沈みかけてしまいます。
ここで信仰が揺らいだのです。信仰というのは二心がないということです。ひとつの心を持つということです。主イエスのお顔だけを見て歩いていた時、ペトロは沈むことがありませんでした。でも心が風に気を取られてしまった。主イエスのお顔と風、二つのことに心が別れてしまった。二つに心が分裂してしまった。そのときペトロは沈み出したのです。ペトロはすぐに「主よ、助けてください」と助けを求めます。すると主イエスはすぐに腕を伸ばして捕まえてくださいました。そして「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とおっしゃいます。最初に「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と苦言を呈したあとに、腕を伸ばされたのではありません。ペトロがぶくぶく沈んでから、腕を伸ばされたのではなく、すぐに手を伸ばされた。助けを求める者を主イエスはすぐに腕を伸ばして助けてくださるのです。旧約聖書においても神の救いのイメージとして神が腕を伸ばすという、御手を伸ばしてという表現がありますが、まさに主イエスもまたご自身を呼ぶ者を腕を伸ばして助けてくださいます。
そののち「信仰の薄い者よ」とお語りになります。「信仰が薄い」という言葉はこれまでマタイによる福音書に何度か出てまいりましたが「信仰が小さい」ということです。ペトロの信仰は薄かったのです。小さかったのです。主イエスだけを見ることができなかった。
私たちの信仰もまたそうです。主イエスだけを見続けることができない、そしてよく沈みそうになります。しかし、沈みそうな私たちのすぐそばに主イエスはおられます。助けを求める声を聞かれ、腕を伸ばしてくださる方がおられます。
主イエスは信仰の薄い私たちを助けてくださる方です。信仰を養ってくださるのも主イエスです。いままだ信仰は薄く小さい、だからだめなんだということではないのです。信仰が小さいゆえ、疑いやすいゆえ、沈みそうになる都度、助けてと叫びなさいと主イエスはおっしゃっています。この位、信仰が大きくなったら助けましょうということではないのです。小さな信仰、からし種程の信仰でも大きくしてくださる神は、救いを求める者を助けてくださる神です。信仰の薄い弱い私たちを腕を伸ばして助けてくださる方です。
32節で二人が船に乗り込むと、風は静まりました。そののち弟子達は、「本当にあなたは神の子です」といってイエスを拝んだとあります。弟子達はこの直前には男だけで5000人に食事を与えられた奇跡を見ています。さらにその前にも多くの奇跡を見てきたはずです。なのになぜここで弟子達は「あなたは神の子です」と言ってイエスを拝しているのでしょうか。これは「安心しなさい、わたしだ」という主イエスの言葉と呼応しているといえます。主イエスが、神からきたものであることを宣言された言葉、その言葉と対応して弟子達は主イエスを拝しました。そしてこの箇所は、なにより、教会を現わした物語として記されています。主イエスがのっている舟が教会なのです。ですから主イエスを拝する、礼拝をするのです。教会は主イエスがおられる船です。
しかしその舟は時として逆風にあおられます。教会は、明るい光の中だけではなく、暗い夜の湖の上もゆきます。しかし、その舟には主イエスが共におられます。「安心しなさい、わたしだ」とおっしゃる方が、教会の舟の中に共におられます。信仰の弱い私たちを助けてくださいます。
もちろん、私たち一人一人の人生の舟にも主イエスはおられます。共に航海をしてくださいます。信仰が薄く、沈みそうな時もその手をしっかりと捕まえてくださいます。
ところで、今日、お読みした旧約聖書はルツ記でした。ルツはモアブという、イスラエルの人々からはさげずまれていた外国人でした。しかし、謙遜な心やさしい女性でした。みずからのイスラエル人の夫を失った後、未亡人になった後も、しゅうとめのイスラエル人のナオミに仕えました。そしてやがて、イエス・キリストに連なる血筋の夫を得て子供を産みます。その子供はマタイによる福音書1章のイエス様の系図に乗ります。ルツ自身の名も異邦人でありながら、しかも、当時、いまよりももっと男尊女卑の時代であったにもかかわらず女性であるルツの名が福音書に記されることになりました。ここにも深い神のご計画と愛の配慮を見ることができます。神はルツと共にいてくださった、貧しい異邦人の女性の上にも目を注がれました。救いの腕を伸ばされました。その愛のご計画の中に、その愛の歴史の中に、主イエスはこの地上へと来られました。今日からアドベントです。主イエスの御降誕を覚え、再臨を待ち望み、降誕日に備える季節です。マタイによる福音書の1章にあるように、神の気の遠くなるような長い長い年月をかけたご計画を覚えたいと思います。
マタイによる福音書の本日読みました最初のところに弟子達を強いて船に乗せたとあります。これもまた愛の配慮でした。神のご計画でした。主イエスの「安心しなさい、わたしだ」という言葉を弟子達に聞かせるためでした。沈みそうな弟子を腕を伸ばして救う神であることを知らせるためでした。弟子達はこの後、もっと大きな苦難に会います。主イエスの逮捕、死刑、復活、聖霊降臨ののちも、弟子達の宣教には大きな迫害がありました。しかし、そのときも、「安心しなさい、わたしだ」「しっかりしなさい、わたしがいる」その言葉に、弟子達がたち帰ることができるように、恵みの計画として、主イエスは弟子達を逆風の湖へと送られました。どのような試練の中でも、主イエスに叫び求める時、助けがあることを主は弟子達にしらせられました。
私たちのもとにもすでに夜明け前に歩いてこられた主イエスがおられます。安心しなさい、わたしはここにいる、わたしだ、しっかりしなさい、そうおっしゃってくださる方が来られたことを覚え、助けを求めることのできる方がいることを覚え、このアドベントを祈りのうちに歩みたいと思います。
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