2024年9月22日大阪東教会主日礼拝説教「罪深きゆえに愛を知る」吉浦玲子
<罪深い女>
知り合いで、若い時、暴走族の頭だった方を存じ上げています。暴走族といっても、ただ暴走するだけでなく、限りなくやくざに近い、警察にお世話になるようなかなり悪いことをしていたそうです。その方が、ひょんなことから、教会に通うようになりました。その方は、教会に行ったら、牧師がいつも「罪人、罪人」と罪人について話をしていて、どうしてこの人は自分のことを知っているのか?と思ったそうです。なんでいつも自分のことを話しているんだろうと不思議だったそうです。なんだか不思議に思いつつ教会に通い、やがて回心をして、クリスチャンになったそうです。クリスチャンになったあとも、昔の争っていた敵方の族のメンバーが襲ってくるのではないかと思って、しばらくは、寝る時は護身用にドスを枕元にずっと置いていたそうです。
神の前での罪というのは、この世界で言う犯罪とか、道徳的・倫理的に悪いこととは違います。神と離れていること、神なしで生きることです。神なしで生きることはつまり自分が自分の神としていきることですが、それが神の前での罪です。神の前に罪を犯している時、その罪のあらわれとして、犯罪となったり、道徳的・倫理的な悪いことになったりするのです。ですからその元暴走族の人が、自分が警察にお世話になるような悪いことをしているから「罪人」だと思ったというのは、完全に間違っているわけではありませんが、厳密にいうと、神の前で罪を犯しているという意味での「罪人」とは異なります。
さて、今日の聖書箇所で、主イエスはあるファリサイ派の人から家で食事をしてほしいと願われ、その人の家に行かれ食事の席につかれました。ファリサイ派というと多くの場合、主イエスと敵対している人として聖書には登場します。しかしこのファリサイ派の人は、主イエスを食事に招きました。当時のユダヤにおいて食事に招くというのは相手への敬意を示すものでした。このファリサイ派の人は、一応、主イエスを「先生」として家に招いたようです。しかし実際のところ、今日の後半のところを読むと、主イエスが来られても足を洗う水も出さなかったというのですから、丁寧な招き方ではありません。むしろ主イエスを試そうという思いがあったのではないかと考えられます。
その主イエスを食事に招いたファリサイ派の家に、一人の女性がやってきます。「罪深い女」と書かれていますから、おそらく娼婦であったと考えられます。娼婦は当時、徴税人と並んで、「罪人」とみなされ、人々からさげずまれていました。「この町に一人の罪深い女がいた」と書かれていることから、有名な女性であったのかもしれません。当然、そんな女性をファリサイ派の人は呼ぶはずがなく、女性の方から勝手に入ってきたのです。当時、食事の席にふらっと人が入ってくること自体はあったそうですが、女性は自分が人々からさげずまれていることは知っていたでしょうから、この席に入ってくるのは大胆なことです。
さらにその女性は異様なことをします。香油の入った壺をもってきて、「後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらしはじめ、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」とあります。ヨーロッパの絵画を見ると勘違いしてしまうのですが、聖書の時代、食事はテーブルに椅子に座って食べていたわけではありません。床に横になって肘をついて食事をしていました。ですから、女性が主イエスの足元に近寄ったというのは、テーブルの下にもぐりこんだわけではなく、さほど不自然なことではありません。近寄ったこと自体は不自然ではなくても、自分の涙を他の人の足にかけるということも、それを自分の髪でぬぐうということも、足に接吻して香油を塗るということも、どれもこれもかなり異様です。この場面で女性は異様な行為をしているのです。これと似た場面にナルドの香油を女性が主イエスにぶちまけるという場面が別の箇所に書かれています。そのナルドの壺の場面も今日の聖書箇所も、主イエスは女性の行為を褒められますが、実際女性たちがしたことは非常識なみっともない行為です。うるわしい物語として美化して語られがちですが、けっして美しい場面ではありません。今日の聖書箇所でも、体を触れる行為が多く、これはファリサイ派の人でなくても、一体何なんだ?と思う光景ではないでしょうか。現代でも、ちょっと目立つあきらかに色っぽい格好をした女性が突然やってきて、その場にいる男性にべたべたボディタッチしていたら、ぎょっとしてしまうと思うのですが、それに近い状況です。まして当時は聖書を教える先生と呼ばれる人は女性と道であっても挨拶もしないようにしていたくらいなのです。
<愛をあらわす>
それを見たファリサイ派の人は案の定、心の中で「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思います。
さきほども申しましたように、この当時、徴税人や娼婦は罪人だとさげずまれていました。しかし、神の前で罪人であるということは、職業や生まれといったことでひとくくりにされて決められることではありません。あくまでも、神との関係において人間は罪に定められるのです。
心の中で、この女性を罪深いと決めつけて、その女性に自分を触らせている主イエスに対してもファリサイ派の人は呆れていました。このファリサイ派の人は、神に遣わされた預言者だという評判もある主イエスが疑っていて、預言者ではないしっぽを捕まえてやろうと思っていたのです。そして、主イエスの様子を見て、「なんだこいつはやっぱり預言者なんかじゃない」と感じたのです。
そのファリサイ派の人の心の中を分かっていた主イエスはたとえ話をなさいます。それは借金を帳消しにしてもらった人の話でした。とても単純なたとえ話で、500デナリオン借金している人と、50デナリオン借金している人がそれぞれ借金を帳消しにしてもらったけれど、どちらが帳消しにしてくれた金持ちを愛するかという内容です。ファリサイ派の人は躊躇なく「帳消しにしてもらった額の多い方」だと答えます。
そしてこの女性について主イエスは語られます。女性が涙で足を濡らしたこと、そして髪でぬぐったこと、足に接吻したこと、香油を塗ってくれたこと、そのすべてがこの女性の主イエスへの愛を示すものだったのだと語られました。さきほど、客観的に女性の様子を見ると異様なことのように見えるだろうと申し上げました。しかし、人間の目にはどのように見えようとも、神は人間の感謝の思い、愛の思いを喜んで受け入れてくださいます。この女性が、多額の献金をするとか、教会のために熱心に奉仕をするといったことであれば、この女性の愛や感謝の気持ちは分かりやすかったかもしれません。しかし、今、この女性に出来ることは、涙で足を濡らし、髪でぬぐい、足に接吻し香油を塗ることだけだったのです。人間がそのとき、精一杯できることを通して神に愛を捧げる時、それが仮にこの世の常識からしたら変に思えることであったとしても、神は人間の思いを喜んで受け入れてくださいます。
私たちは神を愛するというと、とてつもなく壮大なことや立派なことをしないといけないように思います。でもそうではないのです。私たちが本当に感謝をしてささやかな喜びを表す時、神はそれを喜んで受け入れてくださいます。いや、逆に言いますと、私たちが神に近づくということは、神からご覧になったらこの女性のようなものなのです。私たちは今、整った形式で礼拝をお捧げしています。しかし、心においては、この女性と変わらないのです。罪深い者が、感謝の思いでおずおずと主イエスの足元に近寄っていくのです。私たちが神に近づくということはそういうことです。
<多く赦された者>
そしてまた神への感謝をあらわすとき、それは義務のように、がんばってあらわすものではありません。本当に心にあふれている感謝が自然にあらわれているものなのです。あふれているからおのずと出てくるのです。この女性もそうでした。感謝がとめどなくあふれてきて、他人から見たら異様とも思える行為となったのです。
ではその溢れる様な感謝はどこから出てくるのでしょうか。主イエスはこうおっしゃいます。「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
感謝は、罪を赦されたことに対して出てきます。罪を赦された、ということはたとえ話のように借金を帳消しにされたということです。借金をチャラにされたというと世俗的なことのように思います。自分が作った借金なんだから自分で返せよ、と思ったりもします。でもほんとうのところ、私たちは自分の罪という神への借金を自分で返すことはできません。どれほど善行を積み上げても、私たちの罪の重さはあまりにも重すぎて、罪の借金を返すことはできません。借金を返せない私たちのために、主イエスがご自身の命を差し出して借金を返してくださった、だから私たちは感謝をします。その感謝ゆえに愛があふれるのです。
赦されることの少ない者は、愛することも少ない、と主イエスはおっしゃいます。神が多く赦されたり、少なく赦されたりするのでしょうか?そうではありません。神は主イエスの十字架による贖いと、肉体を持った復活を信じる者をお赦しになります。多く赦したり少なく赦したりはなさいません。すべてを赦してくださいます。それを多く赦されたと考える者は、多く感謝をし、多く愛するのです。主イエスの贖いの話を聞いて理解して、自分の罪も赦されたんだなあとありがたいなあとぼんやり考えている人は多く赦されたという実感がなく、感謝もそれほど湧いてきません。愛も薄いのです。赦されたという自覚は一人一人の罪の自覚と悔い改めによって異なります。多く赦されたと感謝できる人は、自分の罪をそれだけ多く自覚しているということです。
<あなたの罪は赦された>
主イエスはおっしゃいます。「あなたの罪は赦された」。救い主であり、十字架にかかられる主イエスただお一人が、人間の罪をお赦しになることができます。この女性は、赦されました。それはこの女性が立派なことをしたからではありません。さらにいえば懺悔をしたからでも信仰告白をしたからでもありません。懺悔や信仰告白が不要だということではありません。赦しというのはただただ一方的な主イエスからの恵みなのだということを申し上げたいのです。自分で罪の借金を返せない私に、主イエスが「あなたの罪は赦された」と宣言してくださるのです。そんな主イエスに近寄り、女性は愛を示しました。その行為は非常識でとんでもないことです。それでもなお主イエスは「あなたの罪は赦された」とおっしゃってくださるのです。
これを見てファリサイ派の人は「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた、とあります。おそらくこの人は主イエスへいっそう反発を強めたと思います。罪を赦す権限を持っておられるのは神お一人だからです。目の前にいるどこからどうみてもただの人間に過ぎないこの男が罪の赦しの宣言をおこなうなんて神への冒涜だと考えたかもしれません。しかし、神のもとから来られた子なる神であるキリスト・イエスは、罪をお赦しになることがおできになります。ただキリストゆえに私たちは赦されます。
ところで、冒頭でお話をした元暴走族の方は、その後、牧師になられました。最初は、犯罪と神の前での罪の違いが分かっていないかった方が、本当の自分の罪を知ったのです。そして、どれほど多く赦されたかを知ったのです。その方はそのとてつもない赦しの大きさゆえに、生き方を変え、牧師となられました。敵が襲ってくるかもしれないと恐れ、枕元にドスを置いていた人が、かつての罪の苦しみから解放されて恐れから解放されて、神の愛と赦しを伝える者にされました。
今、礼拝に集っている私たちは、それなりの服装をして、きちんと礼拝をしています。罪深い女とは違うように思うかもしれません。また寝る時にドスを枕元に置くこともしません。しかし、私たちもまた主イエスの足元におずおずと近寄り愛を捧げる者です。そのおずおずとキリストに近寄る場が礼拝です。礼拝を通して主イエスに近づいた私たちに、今日も主イエスは宣言をしてくださいます。「あなたの罪は赦された」と。
そのキリストの赦しの宣言を聞くところが教会であり礼拝です。そのキリストの声を聞いて、教会以外のどこにあっても得ることの出来ない平安と喜びをいただいて私たちはそれぞれの場所に出ていきます。キリストの御守りの内に出ていきます。私たちのちっぽけなたどたどしい愛を、信仰とみなしてくださり、主イエスは喜んで受け取ってくださり、この世へと送り出してくださいます。
「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」