大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

使徒言行録14章1~20節

2020-10-25 15:41:13 | 使徒言行録

20201025日大阪東教会主日礼拝説教「神を知る」吉浦玲子 

【聖書】 

 イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。ところが、信じようとしないユダヤ人は、異邦人を唆して、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。それでも、二人はそこに長くとどまり、主に信頼して堂々と語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。 

 町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側に付いた。異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人を辱め、石を投げつけようとしたとき、二人はこれに気付いて、リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に難を避けた。そして、そこで福音を告げ知らせた。 

 リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。この人が、パウロの話に耳を傾けていた。パウロは彼を見つめ、癒やされるのにふさわしい信仰があるのを認め、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした。 

 群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、「神々が人間の姿をとって、私たちのところに降りて来られた」と言った。 

そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、また主に話す者であることから、パウロを「ヘルメス」と呼んだ。町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした。使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、衣を引き裂いて、群衆の中に飛び込んで行き、叫んで、言った。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。私たちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、私たちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そこにあるすべてのものを造られた方です。神は過ぎ去った時代には、すべての民族が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神はご自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天から雨を降らせて実りの季節を与え、あなたがたの心を食物と喜びとで満たしてくださっているのです。」こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。 

 ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。 

【説教】 

<信仰の剣> 

 パウロとバルナバは、迫害によってピシティア州のアンティオキアを去り、東に向かいイコニオンというところで宣教をしました。しかし、やはりこの地域でも信じようとしない者が妨害をしてきました。この迫害は「石を投げつけようとした」とあるように、パウロたちに対して殺意をも持ったものでした。このあたりの感覚は、私たちにはなかなか理解しがたいところです。現代の日本に生きる私たちは、パウロとバルナバの教えが納得できなければ聞かなければ良いだけの話だと考えます。なんで殺意まで持つのかわかりません。主イエスを信じる信仰は反社会的なものではありませんし、強引に信仰を押し付けるものでもありません。気に入らなければ、話を聞かなければいいのです。 

 殺意を持つまでにいく理由のひとつは、前にもお話ししましたことですが、ユダヤ教を信じるユダヤ人にとって「信じるだけで救われる」という教えは律法を守って来た自分たちのこれまでの行いを否定されることと感じられるから、受け入れがたかったということがあります。信じるだけではなく、律法を守り、さまざまなことを行ってきたことを否定されると感じられたのです。自分たちの最も大事なよりどころ、長き歴史のなかで受け継いできたアイデンティティを否定されるように感じ、徹底的に排除したかったということがあると思われます。 

 そしてそのことは、また別の側面で見ることもできます。神の言葉には罪と裁きが必ず語られます。それは人間にとっては、耳障りの良いことではありません。人間の罪と裁きの言葉は、人間にとって、本来、聞くに堪えないことなのです。しかし、ペンテコステの日のペトロの説教も、アンティオキアでのパウロの説教も、ともにキリストの十字架の意味を語るものでした。キリストを殺したことに象徴されるすべての人間の罪と本来受けるべき裁きを語るものでした。その罪と裁きの言葉の前で、自分の罪を否応なく突きつけられるのです。その突きつけられた自分の罪を認め、キリストを信じ、罪の赦しを受ける人もあります。信じる者にとって、罪と裁きの言葉は、赦しの言葉、福音の言葉となります。しかし、そうでない人もあります。罪と裁きの言葉を受け入れない人は、そのまま、罪と裁きの言葉を通り過ぎることはできないのです。「へえ、そういう考えもあるんですね」とスルーすることはできないのです。罪と裁きの言葉は真理の言葉だからです。キリストを信じる人にとっては救いの言葉、慰めの言葉であり、神の愛を示す言葉が、受け入れない人には、剣となって自分を突き刺してくるのです。罪と裁きの言葉は受け入れない人にとっては憎しみと怒りを引き起こす言葉となるのです。 

 主イエスご自身、こうおっしゃっています。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。マタイ10:34」主イエスは平和の主ではないのか、平安を私たちにもたらす救い主ではないのかと、この主イエスの言葉を読むと不思議に思います。もちろん主イエスは平和の主です。しかし、罪と裁きをないことにして平和が来るのではありません。平和とは、神と人間の間の平和であり、神と人間の間の平和が成立してはじめて、本当の意味での人間と人間の間の平和も成立します。神と人間の間の平和は、人間の罪の問題が解決されてはじめて成立します。罪への裁きが十字架によって成し遂げれてはじめて神と人間の間の平和が成立しました。その十字架の出来事、つまり神の裁きの出来事を受け入れ、私たちが自らの罪を知り、神に立ち帰ったとき、そこに本当の平和が来るのです。 

 しかし、十字架を神の裁きとして受け入れない者には、十字架の言葉、罪と裁きの言葉は剣でしかありません。かつて幼子イエスが神殿に捧げられたとき、ルカによる福音書の中で、祭司シメオンはこう語りました。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定めされています。ルカ2:34」十字架において裁きを受けられた主イエスご自身、そしてその主イエスの言葉は、多くの人から「反対を受ける」のです。そしてそのキリストの言葉、罪と裁きを語る宣教者もまた反対を受けました。命まで狙われる反対を受けたのです。使徒言行録の中で繰り返される迫害は、罪を裁きの言葉を剣として受け入れられない人間によって必然的に引き起こされる者なのです。 

<生ける神と偶像> 

 さて、パウロとバルナバは、次にリストラへ向かいそこでも宣教をします。そこでパウロたちは、生まれつき足の不自由な人と出会います。その人はパウロが話すのを聞いていました。「パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った」とあります。ここでひっかかるのは「いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め」という言葉です。この足の不自由な人に立派な信仰があったから癒されたように感じられるかもしれません。では、もし自分に立派な信仰がなければ、病気になっても癒されないのかと不安になります。ここでいう「いやされるにふさわしい信仰」とは、御言葉を聞く信仰ということです。そもそも、ここでいわれている「いやし」とは単なる肉体の癒しを表す言葉ではありません。「救い」とか「助け」という意味を持つ言葉です。罪を赦されて救われるということです。この足の不自由な、まだ一度も歩いたことがなかった人は、この世的に見れば、無力な何もできない人でした。しかし、この人は神の言葉を聞いたのです。罪と裁きの言葉を聞きました。しかしそれはまた、聞いただけ、とも言えます。何かこの人は聞いて行動を起こしたわけではありません。しかし、生ける神は、ただ神の言葉-罪と裁きの言葉-を聞いただけのこの人を救われるにふさわしい、罪赦されるにふさわしいと者として、救われました。肉体のみならず、罪からの救いをも与えられました。御言葉を聞く人に神は救いを与えられるのです。 

 さて、そもそも奇跡は、本来、人びとを神を信仰へと導くものです。神の救いのしるしを表すものが奇跡です。ところがこの奇跡を見た人々は、この地域の人々が信じる多神教の神々が降りて来たと勘違いしました。おそらく年長で堂々とした風貌のバルナバをゼウスと呼び、言葉達者なパウロをヘルメスと呼んで、二人にいけにえまで捧げようとしたというのです。パウロやバルナバが神としてあがめられそうになったのです。これは滑稽なことのようですが、むしろ、日本ではありえることではないでしょうか。ある方は、神と人間の境がしっかりとしない文化においては、容易に人間は<人間を神とする>とおっしゃっています。神と人間の境のはっきりしない文化は容易に偶像を生むのです。日本もこのリストラのように多神教的な風土を持ったところです。絶対的な一人の神という概念がもともとありませんでした。そもそもゼウスやヘルメスといった神々は天地創造の神ではなく、「生まれた」ものです。神同士で争ったり、人間的な行動をします。きわめて人間的な神々です。そもそもが人間の思いや願望を投影して人間が作りだした神だからです。それは神羅万象に神を見る日本の宗教観とも似ています。神と神ならぬものの境が明確ではないのです。ですから、容易に偶像を作り上げることができるのです。想像上の神々や動物や岩や人間を神として祀り上げます。 

 しかし、神ならぬものを神とする文化は―つまり偶像を作りだす文化は―喜んで、神ならぬものをあがめているのではないのです。そこには、不安と恐れと現状への不満が根底にあります。大事にしなければばちが当たる、祟りがある、不幸なことが起こるとおそれて偶像をあがめるのです。そしてまた現実的な利益を求めてあがめます。五穀豊穣や商売繁盛、家内安全を願って、あがめます。パウロとバルナバにいけにえを捧げようとした人々も、その土地にあったゼウスとヘルメスによって洪水から守られた伝説によってゼウスとヘルメスをあがめていたと言われます。偶像という言葉は、そもそも「むなしい」という意味を持ちます。むなしいものを恐れのゆえに拝み、むなしいものを自分の利益のために拝むのです。現代人は想像上の神々や動物や岩や人間を神として祀り上げたりすることはないでしょうか?そうとは限らないでしょう。私たちはキリスト者であっても、ある人を慕うあまりに、その人を偶像化してしまうときがあります。教派や教会の創始者や偉大な先輩をどこかで偶像化してしまうのです。 

 また、人間の不安や恐れや現状への不満は、歴史的にも偶像としてのヒーローを生み出してきました。そのヒーローは人間が勝手に祀り上げた、そもそもがむなしい偶像ですから、祀り上げられていた人が不祥事を起こしたりするとたちまち水に落ちた犬を叩くようなバッシングに晒されます。今日の聖書箇所の最後のところでも、パウロたちを神としてあがめようとしていた人々が今度はユダヤ人にそそのかされて石を投げつけます。自分たちの思いを裏切り、利益をもたらさない者だと知ったとたん、石を投げるのです。偶像とはそのような存在です。しかしまた偶像は、石をもって追われるだけの存在ではなく、時として、それ自体が強大化して、人間の側で手の付けられない存在になっていく場合もあります。偶像が、やがて人間を誤った方向へ導き、縛り付け支配する独裁者となったりします。そういうことも歴史的に繰り返されてきたことです。そもそも偶像とは人間のむなしい思い、自分中心の罪によって作り上げられたものだからです。 

<恵みを与えてくださる神> 

 さて、パウロとバルナバは人々の中に飛び込んで叫びます。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。」偶像ではなく、生ける神に立ち帰れ、とパウロたちは叫びました。そしてその生ける神はどのような方であるかを語りました。 

 パウロたちは、生ける神は、「天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方」だと語りました。先ほども言いましたように、ギリシャ神話においては、神々自身も生まれて来た存在です。しかし、天地を創造された生ける神は生まれて来た方ではありません。すべてのものを造られました。創造者なのです。創造者と被造物には明確な境があります。そして生ける神は、この世界を造って造りっぱなしでそのまま、という方ではありません。ただお一人の生ける神は、おのずとご自身の存在を示される神であるのだとパウロは語ります。「神はご自分のことを証ししないでおられたわけではありません。」それは恵みを与えるという形で私たちと関わってくださる神なのです。そしてその言葉を聞きさえすれば、信じさえすれば、救いを与え、永遠の命を与えてくださる神なのです。パウロの話を聞いていた足の不自由な人が癒されたように、人間一人一人に本当に必要な救いと助けを与えてくださる神です。  

 その救いと助けは今も私たちに注がれています。恵みの上に恵みを与えてくださる神は、天地創造の時から変わらぬ恵みを私たちに注がれます。私たちがむなしいものから離れ、御言葉に聞くとき、神の傍らにいる時、私たちはすでに注がれている恵みと祝福に気づきます。いまも傍らに生ける神がおられます。新しい一週間、私たちはただお一人の生ける神と共に歩みます。なお恵みの上に恵みをいただいて歩みます。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日(Ⅱコリント6:2)」御言葉を聞き、キリストのもとで、恵みと救いにあずかり、喜びのうちに新しい一週間を過ごします。 

 


使徒言行録13章42~52節

2020-10-18 14:23:02 | 使徒言行録

2020年10月18日大阪東教会主日礼拝説教「地の果てまでも」吉浦玲子

【聖書】

パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。

次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。

しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。

『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、/あなたが、地の果てにまでも/救いをもたらすために。』」

異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。

【説教】

<神の恵みの下に>

 アンティオキアでの最初の説教は好意的に受け取られました。集会が終わってからも多くの人々がついて来たということは、キリストを信じる信仰者が起こされたということです。彼らにパウロとバルナバは「神の恵みの下に生き続けるように勧めた」とあります。キリストを信じる者は神の恵みの下にすでに生かされています。パウロとバルナバは、その恵みから外れないようにと勧めました。そもそも恵みとはなんでしょうか?神さまの恵みによって物事がうまく進むことでしょうか?キリスト者は特別ラッキーな人生を送ることができるのでしょうか?そうとは限らないことを私たちは信仰生活が長くなればなるほど知ります。恵みとは、キリストの十字架ゆえに、罪の赦しを得て、罪の重荷を取り除かれて神との交わりを回復させていただいて生きることです。そしてその恵みは自分の力とは無関係に神から与えられるものゆえに、恵みなのです。神が一方的に与えられるものが恵みです。その恵みに生きるのがキリスト者なのです。昨日は寒い冷たい雨の一日でしたが、今日は晴れ間がのぞいています。神の恵みというのは、この晴れ間のように、私たちの努力や思いを越えて、一方的に与えられるものです。私たちはただ感謝してその恵みを受け取るのです。

パウロは恵みの下に生き続けるようにと言っていますが、それは恵みを恵みとして感謝して受け取るというしごく単純なことです。私たちは雨が続いた数日の後に晴れた空を見るとうれしくなります。しかし、毎日晴れが続いているときは、それほど晴れた空をありがたくは思いません。また晴れていてもカーテンを閉ざして部屋に籠っていたら美しい空を見上げることもありません。神の恵みを恵みとも思わず、当たり前の者のように思っていれば感謝の気持ちはわきません。あるいは目をそらしているならば、さらにはその恵みを自分の手柄のように思うのであれば、感謝はできません。あの青空はこの私のおかげで晴れているのだと思っている、そのような滑稽なことが、傲慢な心を持っている時、実際起こってきます。あの青空は自分ががんばって徳を積み重ねたから晴れたのだというような勘違いが起こるのです。神の恵みは神から与えられたものを感謝して受け取るとき、まさに恵みとして私たちの日々を喜びに満たすのです。

<異邦人への光>

 さて、神の恵みの下で喜び感謝する人もいれば、恵みに対してカーテンを閉ざしたままの人もいます。閉ざすだけでなく、その恵みの下に生きようとする人々に反対する人々もいます。パウロとバルナバは、このビシティア州のアンティオキアでも、反対者、妨害者と対立をします。反対者・妨害者はユダヤ人でした。彼らは、当初は好意的に受け取ったパウロたちの言葉にやがて妬みの心を起こしました。それは彼らが多くの人々を集めたということがらに対してでした。しかしまた同時に、そこにはパウロたちが語る「信じる者は皆、キリストによって義とされる」という言葉への反発が本質的にあります。律法を守り努力してきた自分たちのあり方を否定されたと感じたのです。神の言葉より、自分たちの行い、努力を彼らは大事にしました。反対者たちは、神中心ではなく人間中心だったのです。

そしてまたこの箇所では大変重要なことが語られています。そしてまた重要ではありますが、注意深く読むべき箇所でもあります。つまり救いは、ユダヤ人たちにまず与えられるはずだったのだが、ユダヤ人のかたくなさのゆえに異邦人へ与えられることになったということです。ただ、ここは短絡的にユダヤ人批判と読むと、歴史的に繰り返されたユダヤ人への迫害につながっていくものなので注意が必要です。

そしてまた、救いが異邦人に向かったというのは、自分たちを拒絶するユダヤ人に対してパウロが短気を起こして「わたしたちは異邦人の方に行く」と言ったからというのではありません。そもそも異邦人の救いは、旧約聖書において、預言者によって預言されています。つまり神によって定められていることなのです。引用されている言葉はイザヤ書の49章にある言葉です。異邦人への救いの光としての主イエスを預言した言葉です。「わたしは、あなたを異邦人の光と定めた」という「あなた」は本来、主イエスを指します。しかし、さらにパウロは、このイザヤ書に記された「あなた」を主イエスによって伝道に召された伝道者である自分たちも含めて語っています。神の福音はユダヤ人を越えて、地の果てまでも照らす光であり、実際、この極東の地にまでその光は届いたのです。地平線にほのかに太陽の光が感じられる、それがキリストの到来でした。その光が東の空に広がり太陽が姿を見せるようにキリストはご自身を示されました。さらにその光が、やがて空全体を地上全体をくまなく照らすように地の果てまでも福音は伝えられました。

<神に定められた>

 さて、パウロの言葉を異邦人たちは喜び、主を賛美し、「永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った」とあります。この言葉は少し不安を与える言葉です。「永遠の命を得るように定められている人」とは誰でしょうか?永遠の命を得るように定められた人がいるということは、定められていない人もいるということです。何より、お定めになったのは神であるとするならば、そもそも人間の意志というのは意味があるのでしょうか?あるいは伝道をするということは意味があるのでしょうか?結局、神が定めておられる人は信仰に入り、定められていない人は入らないのならば、信仰に入ろうと決める人間の決断や伝道をすることには意味がないのではないでしょうか?

 たしかにそれはそうなのです。すべては神が定められることです。とても変なたとえかもしれませんが、神はあらかじめ定められた人に救いの招待状を送られます。その招待状は、人間によって配達をされるのです。牧師から配達されたり、友人のクリスチャンであったり、音楽や文学を通して配達されます。そして配達された招待状を受け取った人は救いのプレゼントを受け取るために指定の場所まで行くのです。それが洗礼であり信仰告白です。結局、それは最初の恵みの話とも繋がりますが、神から招待状を受けて、それを受け取り応答をするか否かというところに救いはかかっています。救いを受け取った人が、逆に言いますと命を得ると定められていた人と言えます。実際のところ神はすべての人に招待状を送られるのです。それに応答した人が結果的に命を得ると定められていた人なのです。もちろん招待状に応答するというのは人間の行動ですが、何より先に神の恵み、配慮があったということが「定められた」と例えられているのです。

<なお信仰は残った>

 そしてこの地域に、神の言葉は広がりましたが、同時にパウロとバルナバへの迫害も起こりました。結局、パウロとバルナバはこの地方から追い出されました。「ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々扇動して」とありますから、権力者・政治的な力によって追い出されたということです。これは反対派からしたら勝利です。これはこの地域の福音伝道においては大きな打撃です。福音伝道の挫折と言える出来事です。反対派は快哉を叫んだことでしょう。パウロとバルナバは、「足の塵を払い落とし」て他の地域に向かいました。この「足の塵を払い落とす」という表現は主イエスの言葉です。福音書によりますと、かつて弟子たちを宣教に送り出された主イエスは弟子たちに言います。「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出ていくとき、足の埃を払い落としなさい。」福音を受け入れない人の家や地域の埃や塵さえも、もらう必要はないということです。主イエスは何が何でも、人々が回心するまでがんばれ、とはおっしゃっていないのです。きちんと、福音を語ったら、あとはその恵みを受け入れるか受け入れないかは聞いた人に任せるのだということです。永遠の命を得るように定められている人は福音を受け入れるからです。伝道に関わらず、人間はもちろん努力をしますが、最終的には神にゆだねます。100%人間の努力で物事がすべて決まるのなら、そこには神の恵みの意味はありません。

さて、福音を受けれいなかった人々からしたらパウロとバルナバはほうほうの体で逃げ出したと思ったかもしれません。しかしパウロとバルナバはやるべきことをやり、毅然として去ったのです。この世には、勝ち負けがついたと感じられることがあります。結果が出てしまったと思われることがあります。教会でいえば、宣教が失敗したと思われることもあります。しかし、聖書を読みますと、「他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」とあります。パウロとバルナバがこの地方から追い出され、福音を信じた人々はがっかりしたのではありません。喜びと聖霊に満たされたのです。神の恵みはたしかにこの地域に注がれたのです。蒔かれた種はたしかに根付いたのです。

<神が見せてくださる>

私たちの日々にも徒労に終わってしまったように感じられることが起こります。試験に失敗する、仕事が行き詰まって途中でやめざるをない、そんなこともあります。以前勤めていた会社でしたら満を持して売り出した製品が売れなくてプロジェクトが解散する、そんなことがありました。多くの時間とお金と労力が無駄になってしまったのです。具体的な製品名は上げられませんが、実際、売れなくて失敗とみなされた商品がありました。しかし、数年後、売れなかった製品のために開発された技術が、まったく違うカテゴリーの製品に使われて、その製品がヒットをするということもありました。失敗したと思われたいた製品開発で培われた技術やノウハウが生かされたのです。

私たちの日々においても、失敗だと思っていた時に積み重ねていたことが、ひょんなことからやがて役に立つこともあります。そもそも神の業には全く無駄はありません。一ミリたりとも、一秒たりとも、神の目からは無駄なものはないのです。ひとときは失敗だと思っていたことが、やがて大きく成長します。私たちは必ずしもその成長を自分の目で見ることはないかも知れません。種をまいただけ、あるいは種も蒔けずに土を耕しただけ、耕すこともできず、ただ荒れた土地からせっせと石を取り除いただけで終わることもあるかもしれません。しかしそこにやがて、神が豊かな実りを与えてくださいます。私たちはその実りを地上において自分の目で見ることができないかもしれません。

ヘブライ人の手紙に有名な言葉があります。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束のものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ」たという言葉です。かつて荒れ野を40年旅したモーセは約束の地に入ることができませんでした。人生を終える時、ネボ山の上から、やがて出エジプトの民が入っていく約束の地を見ました。乳と蜜の流れる神の約束の地を見たのです。私たちもこの人生において願ったものをすべて手に入れることはできないでしょう。やろうと思って果たせないこともあるでしょう。しかし信仰において、私たちは来るべき未来、神が成し遂げられるビジョンを見せていただきます。目の前には荒れ果てた土地が広がっていようとも、足の塵を払い撤退しないといけなくとも、未来の希望を見せていただきます。それは現実に屈することではありません。そこになお神の恵みがあるのです。信じる者には神の恵みの光は絶えることはありません。そして同時に、神が見せてくださる希望の未来に生きるのです。未来へ続く現在の恵みに生きる。それが私たちの歩みです。

 

 

 

 


使徒言行録13章13~41節

2020-10-11 15:08:37 | 使徒言行録

2020年10月11日大阪東教会主日礼拝説教「私たちの時代に行われること」吉浦玲子

【聖書】

パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。

法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして、「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と言わせた。そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った。

「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから導き出してくださいました。神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び、カナンの地では七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させてくださったのです。これは、約四百五十年にわたることでした。その後、神は預言者サムエルの時代まで、裁く者たちを任命なさいました。それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』

兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました。こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです。このイエスは、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっています。わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも、

『あなたはわたしの子、/わたしは今日あなたを産んだ』

と書いてあるとおりです。また、イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことについては、

『わたしは、ダビデに約束した

聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える』

と言っておられます。

ですから、ほかの個所にも、

『あなたは、あなたの聖なる者を

朽ち果てるままにしてはおかれない』

と言われています。ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。それで、預言者の書に言われていることが起こらないように、警戒しなさい。

『見よ、侮る者よ、驚け。滅び去れ。わたしは、お前たちの時代に一つの事を行う。人が詳しく説明しても、

お前たちにはとうてい信じられない事を。』」

【説教】

<私たちのルーツ>

若い方はご存じないと思いますが、40年以上前のアメリカのテレビドラマに「ルーツ」という番組がありました。アフリカ系アメリカ人である男性が、6代前の先祖にさかのぼって、自分の家族の歴史をたどりつつ自分のルーツを確かめるという物語でした。そもそもルーツという言葉が普通に使われ出したのは、この番組の影響だといえます。その6代前の先祖はクンタ・キンテという名前で、アフリカのガンビアという国から奴隷としてアメリカに連れてこられました。その後のクンタ・キンテの家族と子孫の物語がドラマでは描かれました。もともとのルーツであるガンビアから遠く離れたアメリカの地で人種差別の中に生きてきた家族の物語は大きなセンセーションを巻き起こしました。この番組はアメリカで人種を越えて大きな反響を呼びました。日本でも放映されて、評判になったと記憶しています。人間には自分は何者なのか?自分はどこからきてどこへ行くのか?という潜在的な問いがあります。「ルーツ」はその人間の潜在的な問いを呼び覚ますドラマであったといえます。しかし世の中には6代前の先祖の姿をイメージできる人ばかりではありません。遠い異国から移り住んだという―悲劇でありますが―ドラマティックな家系の歴史を持つ人はことに日本では多くはないでしょう。そもそも私などは祖父母の代より昔の先祖についてさかのぼることもできません。

しかし、突然、ひどく話が飛ぶように感じられるかもしれませんが、先祖代々、古い時代からの系図をさかのぼれる人であれ、そうでない人であれ、私たちは皆、偉大な歴史の中にたしかに置かれています。私たちはけして根無し草のように、20世紀から21世紀の時代にぽっと出て来た者ではありません。

<ヨハネの離脱>

さてパウロたちは、キプロス島での宣教がうまくいったのち、さらに宣教の歩みを進めました。キプロスから北西のピシティアというところへ向かいます。そこのアンティオキアで宣教を行います。このアンティオキアはパウロやバルナバがもともといたシリア州のアンティオキアと名前は同じですが、違います。このアンティオキアに向かう途中で、「ヨハネがエルサレムに帰ってしまった」と書かれています。バルナバとパウロは、マルコと呼ばれるヨハネをエルサレムの教会からシリア州のアンティオキアの教会へと連れてきました。バルナバとパウロは、若いマルコを伝道者として育てていこうと思っていたのでしょう。さらにマルコはバルナバとパウロの助手として、今回の宣教旅行にも同行しました。何があったのか具体的には書かれてはいませんが、このマルコと呼ばれるヨハネは宣教旅行から離脱してエルサレムに帰ってしまったのです。もともとエルサレムにいたユダヤ人であったヨハネには、異邦人への伝道は荷が重かったのかもしれません。文化や風習も違うなかでの慣れない旅の生活も負担だったのかもしれませんし、なんらかの人間関係の問題もあったのかもしれません。使徒言行録の先の部分(15章)を読みますと、この宣教旅行ののち、ふたたび宣教旅行に出ようとしたバルナバとパウロは、このマルコと呼ばれるヨハネを連れて行くかどうかで衝突をします。バルナバは連れて行こうといい、パウロはだめだと譲らなかったのです。バルナバ、パウロ、ヨハネの人間模様が興味深く書かれています。こういうところを読みますと、初代教会を担った人々が、皆、聖人君子のような人間ではなく、そしてまた皆がいつもいつも仲良く平安な間柄であったわけではないことが分かります。彼らはごく普通に喧嘩したり、途中で挫折したりする欠けた所や弱さを持った人間だったのです。しかし神は、そのような人間を用いて御業を進められました。人間同士の内輪もめや分裂を越えて、いやそういうことをも神は用いられて、いっそう宣教を進められたのです。そういう意味でも、この使徒言行録は、立派なキリストの弟子たちの偉人伝ではありません。神が中心におられ、欠点だらけの弱い人間を用い、導いてくださって福音を広められた、神ご自身の物語であるといえます。それは初代教会のみならず、2000年に渡る教会の歴史、そしてこの大阪の地にある大阪東教会においても同様なのです。人間臭いさまざまな出来事を越えて、神が働いてくださり、道が開かれてきました。そしてこれからも開かれていくのです。

<励ましの言葉>

 さて、ピシディア州のアンティオキアに彼らは来ました。ここで彼らはユダヤ人の集会に出席したのです。そこで会堂長たちから「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と言われます。かつて主イエスがそうであられたように、彼らは巡回伝道者として扱われたのです。会堂長が言った「励ましの言葉」とは「慰めの言葉」ともいえる言葉です。かつて十字架におかかりになる前、主イエスは自分が去ったあと聖霊が与えられることを話されましたが、ヨハネによる福音書で、主イエスがこの聖霊を指して語られた「弁護者」という言葉と、この「励まし」は同じ語源を持ちます。弁護者という言葉は文語訳聖書では「慰め主」と訳されていた言葉です。つまり励ましの言葉は慰めの言葉であり、私たちを神の前で助けてくださる、弁護してくださる言葉でもあります。私たちがどれほど罪深くても、いたらなくても、神の前で弁護してくれる、慰めてくれる、そういう意味を持った励ましの言葉です。

 その励ましの言葉をパウロは語りだします。聴衆であるユダヤ人が良く知っているイスラエルの歴史をパウロは語りました。出エジプトの出来事からイスラエル王国の成立、ダビデ王の話をしました。それはイスラエルの人々のルーツの話でした。そしてさらに洗礼者ヨハネによって語られていたイエス・キリストを語りました。イエス・キリストはパウロたちの時代に突然現れたのではなく、23節に「神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです」とあるように、イスラエルの歴史のなかで神のご計画として救い主として来られた方であることを語ったのです。

 しかしまたそれは、この話を聞いている人々には理解しがたい話でもありました。神に選ばれた民イスラエルの歴史の中から出てこられる救い主が、彼らの記憶からしたらほんの少し前、みじめにエルサレムで十字架で殺された人物であるなどとは到底信じがたいことでした。それは自らのルーツに誇りを持っていた人々の誇りを踏みにじるものでした。彼らにとってそんな話は、励ましでも慰めでもあり得ませんでした。

<ただ信じることによって>

 しかし、パウロは畳みかけるように言うのです。27節「エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪と定め」と。つまり、そもそも預言者によって主イエスの到来と苦難はあらかじめ預言されていたのだと語りました。救い主がみじめな死刑で死ぬわけがないと思っているのはそもそも旧約聖書で語られていたことを人々が知らなかったからだというのです。そしてさらにパウロは皆に勧めます。「だから、兄弟たち、知っていただきたい。」と。「信じる者は皆、この方によって義とされるのです」、つまりイエス・キリストを預言者によって預言され、神から来られた救い主だと信じる者は罪赦され救いを得ることをパウロは語りました。

 イスラエルの人々は神によって律法を与えられ、たしかにそれを担ってきました。そして律法を守ることによって、自分たちは義とされると考えていました。しかし、もともと神の前で罪人である人間にはそもそも律法を守ることはできなかったのです。神に従い得ないのです。神に特別に選ばれた民としてのルーツを持っていても、キリストを信じる信仰によらなければ、罪を赦されず、神の前で義、正しいとはされないのです。

 信じさえすれば救われる、罪赦される、これは信仰義認ということになります。信じさえすればいいというのは簡単なことです。しかし逆に簡単だからできないのです。イスラエルの人々は自分のルーツにこだわりました。自分たちが担ってきた律法にこだわりました。ではイスラエル人ではない私たちはどうでしょうか?私たちにとっても、信じさえすれば良いというのは、普通に考えると、なにかばかばかしいことのようにも思えます。

 旧約聖書の列王記にナアマン将軍というアラムの武将が出てきます。この人は重い皮膚病にかかっていて、イスラエルの預言者エリシャのもとに癒してもらいに行きました。しかし、エリシャは訪ねて来たナアマン将軍に直接会うこともせず、使いの者に「7回ヨルダン川に入って身を清めたら癒される」と伝えさせただけでした。ナアマン将軍は怒って帰ろうとしましたが、家来がとどめて言いました。「あなたはあの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、そのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか」と。その家来の言葉を聞いてナアマンは思いなおして、ヨルダン川で身を洗うと重い皮膚病は癒されました。

 人間は、この家来が言ったように「大変なこと」のほうを大事に思うのです。大変なことをするという自分の行為に価値を感じるからです。信じるだけではなく、あれもやり、これもやらねばならないということの方が受け入れやすいのです。善い行いをする、修行をする、奉仕をする、そういう積み重ねが大事だと言われる方が納得するのです。自分の行為に価値があると考えるからです。イスラエルの人々が律法を守るという自らの行為に価値を見いだしていたのと同じです。しかしそれは自分の罪の深さを知らないゆえのことなのです。

<罪の深い井戸>

 たとえばそれは深さも分からないような深い井戸の中にいる人間が、自分の力でこの井戸から出ることができると考えているようなものです。私たちは罪によって深い深い井戸の底にいるようなものです。自分のルーツへの誇りや努力ではこの井戸をよじ登ることは到底できないのです。そして罪ゆえの闇のため、その深さすらも私たちにはまったく見えていないのです。だからちょっと訓練して足腰を鍛えたらよじ登っていける、知恵を働かせたら外に出るための道具を作ることができると考えたりするのです。しかし、実際は、キリストによって救い出されなければ、井戸の外には出ることができません。そして井戸の外に出たとき初めて本当の神の光を知ります。自分がこれまでどれだけ暗いところ深いところにいたのかがわかります。

 今日の聖書箇所の最後にはハバクク書が引用されています。かなり恐ろしい調子の言葉です。これは信じない者への裁きの言葉です。「わたしは、お前たちの時代に一つの事を行う」神はお前たちの時代に決定的な裁きを行うと語られています。実際、裁きは起こったのです。十字架の上で起こりました。罪なきイエス・キリストが裁かれました。私たちの罪のゆえに裁かれたのです。十字架の出来事は歴史上ただ一度起こりました。その一回で、私たちの罪が裁かれたのです。神の御子が、つまり神ご自身が、十字架の上で裁かれたのです。それは人間の歴史では2000年前のことでした。しかし、それは過去のことではありません。十字架の裁きは、2000年後の私たちの罪をも完全に裁かれました。十字架の出来事は、私たちの時代の出来事でもあります。

 そして裁きは裁きで終わりませんでした。キリストは復活したのです。パウロはダビデは朽ち果てたと語ります。しかしキリストは朽ち果てられませんでした。今も生きておられます。そして20世紀に生まれた私たちの深い深い罪の井戸に救いの手が届いたのです。私たちはその手に自分をゆだねさえしたらいいのです。キリストの御手だけでは足りない、人間の努力が大事、そう考えるのは真面目でも何でもない、キリストの力を小さくとらえているのです。神が死んでくださらなければ赦されなかった自分の罪を軽く考えているのです。私たち一人一人がどのような人間であろうとも、どんなルーツを持とうとも、どんな罪を重ねてきていようとも、私たちの時代に、確かにキリストの救いは届いたのです。

そしてまた同時に、それは、神の歴史のなかに私たちも入れられているということでもあります。私たちはイスラエル人ではありませんが、信仰においてアブラハムの子孫なのです。神の国にルーツを持つ、神の国の相続者なのです。私たちはキリストを信じることによってのみ、もうすでに神の子供とされています。


使徒言行録13章1~12節

2020-10-05 18:36:28 | 使徒言行録

2020年10月4日大阪東教会主日礼拝説教「なぜ祈るのか」吉浦玲子

【聖書】

アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。

聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた。島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。魔術師エリマ――彼の名前は魔術師という意味である――は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした。パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。

【説教】

<多様な人々が心を合わせて>

 バルナバとサウロはエルサレムからアンティオキアの教会へ戻ってきました。アンティオキアの教会は、ヘブライ語を話すユダヤ人を中心としたエルサレムの教会に比べると、多様な人々が集まっていました。本日の聖書箇所の最初のところに、当時の教会のリーダーたちの名前があげられています。バルナバに続き、「ニゲルと呼ばれるシメオン」と記されていますが、ニゲルというのは黒いという意味です。このシメオンはアフリカ系の人であったと思われます。キレネ人のルキオもまた肌の黒いキレネの人ですが、シメオンがヘブライ系の名前であるのに対してルキオはラテン語系の名前で、この二人の文化的背景が異なっていることがわかります。一方マナエンは領主ヘロデと一緒に育ったとあります。領主ヘロデは12章で急死したヘロデ王のおじにあたるヘロデ・アンティバスです。このヘロデ・アンティパスの幼友達だったということですから、高貴な身分であったと思われます。最後にサウロの名前がありますが、最後に書かれているのは、リーダーたちの中では、サウロは一番年若かったからかもしれません。人種や育った環境の異なる人々がリーダーであり、おそらく、教会に集う人々も多様な人々であったと考えられます。

 主イエスはさまざまな人々へ宣教をされました。主イエスが選ばれた12弟子は人種的にはユダヤ人でしたが、その出自はさまざまでした。ローマの傀儡であった徴税人もいれば、ユダヤ国粋主義者の熱心党のメンバーもいました。実に多様な人々が主イエスの弟子だったのです。同様に、健全な教会形成のためには、本来、多様な人々が集まったほうが良いのです。しかし、今日でも現実的には、それぞれの教会には教会ごとに、一定の階層や雰囲気の人々が集まりがちです。しかし、同質化傾向が強まり過ぎると、教会に限らず、組織は内向きになり、発展性が乏しくなります。何より同質化していくというのは、人間的な安心感や運営のしやすさによって教会が結ばれているということになります。教会は本来は神によって召された多様な人々が神を見上げることによって結ばれるものです。そこに本来の生きた信仰が満ち、力を持つのです。

その点、このアンティオキアの教会は多様な人々が集められ、エネルギーに満ちていました。もともとはバルナバが指導者としてエルサレムから派遣されていたのですが、いまや複数のリーダーが立てられる程、教会は発展していました。そのアンティオキアの教会に新たな宣教ヴィジョンが神によって与えられました。「主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた」とあります。共に礼拝し、断食してというのは心を一つにして祈りに集中していたということです。そこに聖霊によってあらたなヴィジョンが示されたのです。明確な示しが人々に与えられ、教会が一致したのです。ある説教者はここを、実際は皆で協議をして決めたことを敢えて聖霊が告げたと書いてあるのだと解釈していました。しかし、それはまったく違います。人間の思いを越えた力がたしかに働いたのです。それを「聖霊が告げた」と表現したのです。それは2000年前のアンティオキアの教会においてだけでなく、今日においてもそうです。神は必ず示してくださいます。その示されるあり方は、使徒言行録でも様々に描かれています。幻が見えたり、主の天使が現れたりします。そういったことはばかげた昔の人の非現実的な表現というわけではありません。神の現実は人間の現実を越えているのです。たしかに「聖霊が告げ」てくださるのです。聖霊が告げておられることを聞きとるためには祈りが必要です。祈り自体が聖霊によって与えられるものですが、祈りによってさらに聖霊の示すことがわかるのです。聖霊と祈りは相互に切り離せないものです。信仰者は、単に目的や利害がいっしょであるとか、人間的に心地が良いというところで一致するのではなく、共に神を見上げ、聖霊によって示されたところで一致するのです。

<送り出される>

 さて、アンティオキアの教会の人々は心を一つにして祈り、バルナバとサウロを「送り出す」ことによって新しい一歩を踏み出したのです。「送り出す」というのは派遣するという意味の言葉です。そしてこの言葉には「解き放つ」というニュアンスがあります。アンティオキアの教会の中心的指導者であるバルナバと若いけれど有能なサウロという強力なリーダーたちを敢えて教会から解き放ったのです。これはアンティオキアの教会内部を見れば大きな損失です。しかし、バルナバとサウロは、アンティオキアを遠く離れて宣教旅行に向かいしました。ちなみにこの宣教旅行は、サウロ、つまりパウロの生涯における三回の宣教旅行の第一回目にあたります。やがてヨーロッパへまでも及ぶ壮大な宣教の旅がアンティオキアの教会の祈りによって、今、始まりました。

 教会が自分たちだけの狭い発展を考えるのではなく、愛の業としての宣教を目指す時、アンティオキアの教会がバルナバとサウロを旅へ送り出したように、何かを解き放ちます。大阪東教会を創立したヘール宣教師もアメリカのカンバーランド長老教会から解き放たれ日本へと送り出されました。米国のカンバーランド長老教会は大阪東教会の独立を支援をし、自分たちに従属させることはしませんでした。ようやくキリシタンの禁令が解かれた日本の地にイエス・キリストを伝えるという宣教の業を、神から与えられた、まさに聖霊によって語られた使命としてまっとうしたのです。

 たとえば、教会から牧師を目指す献身者を立てる時もそうです。神学校にいく、あるいは任地へ赴任する、それはあくまでも神の召しによることですから、献身者が自分が育った教会で牧師になるとは限りません。いえ普通はまずそうはなりません。献身者を送り出すということは、教会としては一人の信徒を失うことになります。そうであっても、神の業が進むことを喜んで教会は献身者を物心両面で支え解き放つのです。その時教会には大きな祝福があります。それは個人の日々においてもそうです。自分の狭い枠を守って生きていくとき、損をすることは少ないかもしれません。しかし、神の示しに従って、何かを解き放つ時、神は豊かな祝福を与えてくださいます。

 逆に言いますと、私たちは聖霊によって、私たちは失うことを恐れなくなるのです。聖霊によって、私たちは深いところで解放されるのです。日々の生活、お金の苦労、そして自分自身のなかのこだわり、そういったものから自由にされます。解き放たれるのです。そしてそこにまことの愛が注がれです。聖霊によって、私たちは深いところで解放されるのです。日々の生活、お金の苦労、そして自分自身のなかのこだわり、そういったものから自由にされます。解き放たれるのです。そしてそこにまことの愛が注がれ祝福が満ちるのです。

<祈りに守られて>

 さて祈りによって送り出されたバルナバとサウロはアンティオキアから200キロ以上隔たったキプロス島へと向かいました。キプロスはバルナバの故郷でもありました。土地勘のあるところで伝道を開始しようとしたのかもしれません。彼らは東岸のサラミスから西岸のパフォスまで廻りました。パフォスはローマの行政所在地でした。つまり、彼らはキプロスの文化行政の中心地で宣教を行なったのです。しかし、うまくことが運んでいるようでしたが、妨害が入りました。アンティオキアの教会で祈られ、聖霊によって導かれて来たはずの土地で、偽預言者、そして魔術師でもある、バルイエス、またの名をエリマという男がバルナバとサウロに対抗してきたのです。

 こういうことは私たちの日々にもよくあります。祈りつつ、神の御心と思って進めて来たことがうまくいかない、問題が起こる、そういうことがあります。そのとき、さまざまな思いが起こってきます。祈って、御心だと思ってやってきたけど、これはそもそも御心ではなかったのだろうか?と不安になることもあります。いや御心なのだけど、サタンのようなものが妨害しているのだと考えたりもします。ある方が、信仰書を出版しようとしていたとき、やはり当初いろいろなトラブルが起こり頓挫しそうになったそうです。最初これはサタンの攻撃かと思ったそうですが、祈りつつ、当初の予定よりもかなり回り道をして出版することができたそうです。あとから、これはより良いものにするために神が導いてくださった結果だとその方は分かったそうです。もちろん妨害や問題のさ中には、一体これはどういうことかすぐには分からないこともあります。しかし、祈りから始まったこと、聖霊によって示されたことは、決して頓挫しません。人間の当初の思いとはずいぶん違った着地をすることもあるかもしれませんし、時間のかかることもあるかもしれません。目指すところは同じでも方法論的にはかなり当初とは異なったことを為すことになることもあるでしょう。しかし、忍耐強く祈りつつ歩む時、必ず神が導いてくださいます。そもそもむしろ忍耐なさっておられるのは神なのです。人間の罪や、さまざまな身勝手な思いの中で、神ご自身が辛抱強く導いてくださっているのです。祈りによって私たちは神が辛抱強く導いてくださっていることを示されます。祈りこそ、苦難の時の守りであり、道しるべです。

<すべてを用いられる神>

 さて、魔術師でもあり偽預言者でもある男が出てきますが、当時、キプロス島は、さまざまな地域の宗教がまじりあって、宗教混交が起こっており、このような怪しげな人間が結構いたようなのです。まことの神を知らない時、人間はさまざまな恐れや不安のゆえに怪しげなものに頼ります。科学技術が進んだ現代でもそうです。占いやある種のスピルチャルなものへの頼るというのは魔術師が跋扈していた2000年前のキプロス島と人間の心は変わっていないということです。

さてこの魔術師は、権力者に取り入って宮廷神学者とか家付き魔術師のような地位を得ていたと考えられます。現代でも大企業の社長が占い師に伺いを立てることもあるように魔術師はたくみに権力者にすり寄っていくのです。このエリマも総督の家で何らかの地位を得ており、その既得権を守るため、バルナバやサウロを総督から引き離したかったのかもしれません。

 しかしこのような福音ならざる者は、正統的な福音の前で無力なのです。この男も聖霊に満たされたパウロによって、その無力さを暴かれました。目が見えなくなるというのは無力さの象徴です。前の章でヘロデ王が急死したところでも申しましたが、聖書は悪い奴が成敗されたということだけを私たちに伝えているのではありません。

 そのエルマの存在によって、総督はバルナバとサウロを信じるようになったのです。それは単に奇跡的なことを見たからではなく、そこに主の働きを総督は見たからです。不思議な力で魔術師をやっつけたということで総督が信じたのではあればそれはあらたな魔術となんら変わりません。そうではなく総督は「主の教え」に驚いたのです。宗教混交のはなはだしいキプロスで、まことに信じるに足る、まことの神の業を総督は見たのです。そしてそれこそが神がなさったことでした。バルナバやサウロにとっては障害であり、神に背く悪徳の男をも神は用いられました。総督、ひいてはキプロスの多くの人々が神を信じ、救われるために用いられたのです。神はすべてのことを、救いへと、愛とへと用いられます。私たちをも用いてくださいます。そしてまたこの私たちのためにも神はすべてのことを用いてくださいます。