大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

2016年12月18日主日礼拝説教 ルカによる福音書1章57~66節

2016-12-19 11:45:08 | ルカによる福音書

2016年12月18日主日礼拝説教 ルカによる福音書1章57節~66節

「喜びの前の沈黙」

 キリストの到来は、新しい王の登場にたとえらえます。実際にキリストは王だったのです。人間の王を越えた王でした。王の王と言って良いでしょう。王の到来を人々はお迎えせねばなりません。新しい王さまがやってくる、その王を迎えるにはそもそも人々は王の到来を知る必要があります。「新しい王が王位につかれたぞ」あるいは「王がもうすぐ到着されるぞ」そういうことを知らせる伝令が必要です。その伝令の言葉を聞いて、人々は王の住まわれる王宮までの道を整えます。礼を尽くして準備をするのです。

 そのような伝令として、救い主たる王キリストの到来を告げる伝令として、登場したのが洗礼者ヨハネです。

 その洗礼者ヨハネの母エリザベトは高齢であったといいます。老人と言っていいような年齢であったと言われます。そのエリザベトが子供を産みました。その子供、のちの洗礼者ヨハネについては、アドベントの期間に語られることも多いのですが、受胎告知や、ベツレヘムの物語に比べて少し地味な印象を与える聖書箇所かもしれません。しかし、すべての福音書は洗礼者ヨハネについて語っているのです。受胎告知の場面がなくても、東方の博士の話がなくても、洗礼者ヨハネについてはどの福音書でも語られています。キリストの到来ということについて、また福音伝道のはじまりについても、洗礼者ヨハネ抜きで福音書は語ることをしていません。さきほど伝令と申しました。私たちは聖書にかぎらず歴史を学ぶとき、どこの国のなんという王があるいはなんという皇帝や大統領がどのようなことをしたかについて学びます。この王はこの皇帝は大統領はどんな人物だったかについては聞かされます。その実績をきかされます。しかし、その王が戴冠したときの伝令がどんな人間だったかといった話など通常は語られません。

 もちろん洗礼者ヨハネは単に伝令だっただけではなく、その名前のように、主イエスに洗礼を授けるというとてつもなく重要な役割をも担ったのです。その主イエスへの洗礼は、主イエスご自身が神の愛する御子として聖霊を受けて伝道を始められる合図でもありました。いってみれば王キリストへの正式な戴冠がなされたような出来事でした。しかしそうであったとしても、やはり戴冠を施した司式者に多くのことが語られることは通常ありません。

 しかし、福音書では比較的丁寧にこの洗礼者ヨハネについて語られます。礼者ヨハネはそれぞれの福音書の書き出しの部分に登場して、比較的すぐに福音書の表舞台から消えます。それにしても、やはり洗礼者ヨハネについては、かなり重きがおかれて記述されているといえます。ことにルカによる福音書では、洗礼者ヨハネの誕生について詳細に記しています。

 それは、洗礼者ヨハネによって、キリストの到来が突然あったわけではないということをしめすためです。今日読んでいただきました旧約聖書のイザヤ書40章をはじめ、マラキ書など、救い主到来に先立ち、道を備える者が現れることは旧約聖書にしるされています。洗礼者ヨハネの誕生はその預言が成就したということになります。それは単に預言が当たったということだけではなく、大きな神の救いの物語の中に福音書の出来事も入れられているということです。福音書に記されているのは2000年前のごく短い時間の物語です。キリストの生涯は30年ほど、そのなかの宣教の期間は三年ほどであったと言われます。しかしそのような数年や数十年の物語が私たちに示されているわけではない、天地創造からキリストの再臨にいたるまでの壮大の物語の中に、キリストの降誕がある、そのことを洗礼者ヨハネの登場によって福音書は示しているのです。そのために洗礼者ヨハネは旧約聖書と新約聖書を橋渡しする存在であると言ってもいいでしょう。

そして福音書において知らされる神の物語は、夜明けに向かう壮大な夜の出来事であるともいえます。わたしたちはまだ救いの物語のはじまりのところにいるのです。洗礼者ヨハネの誕生そしてキリストの降誕から2000年たった現在でも、わたしたちは未来へ続く壮大な物語の入り口にいるにすぎません。パウロは「いまは鏡におぼろに映った者を見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」と言いました。そのパウロの言葉のように私たちにはいまはおぼろにしか知ることができません。そして2000年前、まだおぼろにすら明けていなかった夜の闇の中で、叫ぶ声がしました。それが洗礼者ヨハネでした。夜があけるぞというヨハネの声によって、福音の到来の物語は始まるのです。そして暗闇にたしかに光がきました。夜明けの光がきました。でもまだ完全に夜明けではない、わたしたちはまだおぼろにしか見ることはできません。しかしヨハネの声によって、それが確実な夜明けの光であること、壮大な救いの物語が確かであることを私たちは知らされます。おぼろなうすらあかりのなかに、しかし確かに私たちは夜が明けるぞ、新しい王が来られるぞという声を聞くのです。その声のゆえに、光がまことの光であること、神のご計画の中にある光であることを知るのです。

  ルカによる福音書の第一章には洗礼者ヨハネの父と母について記されています。マリアへの受胎告知のように、天使ガブリエルがやってきて父ザカリアに子供の誕生を告げます。そのとき天使の言葉をすぐには信じることができなかった父ザカリアは今日お読みしていますヨハネが生まれて名付けの時まで口がきけなくなっていました。

 ザカリヤは口がきけませんでしたが、今日の聖書箇所は喜びの場面です。年老いたエリザベトに子供が生まれた。なんという神の恵みであろうと人々は喜んだのです。「主がエリザベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った」いぶかしんだのでもなく、ねたんだのでもなく、喜び合った、ここには純粋な人々の心があります。

 その喜びのピークに名付けの場面があります。先週もお話ししましたが、子供が生まれて、その子供に名前を付けるというのは大きな喜びの行為です。親類縁者たちは「ザカリヤ」という名をつけようとします。当時、親類の名前を付けるのが一般的だったかどうかは歴史的にははっきりとはしません。しかし、「ザカリヤ」という命名は誰が聞いても納得するものだったのでしょう。しかし、その喜びの集まりのピークで母はいいます。「いいえ、名はヨハネとしないといけません」きっぱりとした言葉です。集まった人々はたいへん驚いたことでしょう。誰が聞いても納得する名前を人々がつけようとした、そこに母親からきっぱりと否定の言葉があるというのは、ありえないことだったでしょう。喜びの場面が混乱します。

 結局、父であるザカリアも「ヨハネ」という名に同意をします。人々はますます驚きます。ヨハネという名は「主はいつくしみぶかい」という意味があるといいます。まさにかみにいつくしまれた年老いた夫婦は、天使ガブリエルから告げられたとおりに名付けるのです。ここに神への従順な姿勢があります。

 そのとき父ザカリアの舌がほどけて声が出るようになります。声が出るようになったザカリアは、まず親類縁者たちになぜヨハネと名付けるのかという説明をしたのではありません。神を賛美したのです。人々は恐れを感じたとあります。神を賛美するザカリアの姿に、人々は説明はされなくても、なにかとてつもない神の力がこの夫婦に働いたことを悟ったことでしょう。

 ところで、ザカリアが口がきけなくなり、本日の場面で舌がほどけたということがらを、ザカリアが、主イエスの母マリアのようにすぐにガブリエルの言葉を受け入れなかったことへの懲罰的な解釈をすることがあります。たしかに1章で天使ガブリエルは「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現する私の言葉を信じなかったからである。」と言っています。

 しかしこのことは、単にザカリアへの懲罰、懲らしめ以上の意味があります。

 ザカリアは喜びの前に沈黙しました。沈黙を余儀なくされました。わたしたちもまた神の与えられる喜びの前に沈黙をするのです。神の出来事は人間にとって恐れと不可解に満ち満ちているからです。わたしたちは沈黙をせざるを得なくなるのです。主イエスの母マリアは天使ガブリエルに対してはお言葉通りこの身になりますようにと語りました。しかしマリアは主イエス誕生ののち、さまざまな信じがたい出来事、理解しがたい出来事と遭遇し、そのつど「思い巡らし」「心に納めていた」と聖書にしるされています。羊飼いたちが赤ん坊を見に来たとき、少年イエスが神殿で学者たちと話をしていた時、マリアはそれらのことをすべて心の中に納めたのです。神のなさることの前で沈黙したのです。

 神に心が向いていない時、私たちは饒舌になります。神のいないクリスマスは、ただのバカ騒ぎをするパーティであるように、神に心がむいていないとき、私たちは騒々しくなります。あのことこのことをしゃべります。しんどいとき愚痴をこぼします。またいろいろなことに腹を立てて怒ります。しかし、現実に神の働きを見る時、私たちは沈黙するのです。あるいは一人でいても、心が自分だけを見ている時、心は騒がしくなります。自分のことばかり考えている時、あああの時こうすればよかった、あしたのことが不安で不安でたまらない、と心の中で思いが渦巻いて心が騒ぎ立ちます。心は沈黙していないのです。

 しかし私たちは沈黙するとき、心を静かにするとき、神の業を見るのです。そしてまた逆に神の業の前では沈黙せざるを得ないのです。 ザカリアも、神の業を見るために沈黙を与えられました。 そしてその沈黙は神の業をはっきりと見た時、賛美によって破られます。

  数年前「失語の時代」という言葉を聞きました。現代は、言葉が失われていく時代であるといいます。かつて抒情豊かな言葉がこの国にはありました。万葉の昔から、日本は言葉の豊かな国でした。明治時代にも外国からの文化を取り入れて、さらに豊かな言葉がこの国にはあふれていました。しかし、現代はどうか?記号のような言葉があふれています。そしてまた人の揚げ足を取るような、人を監視するような言葉が満ちています。特にネットでは毎日、だれかの発言に対して炎上しています。一方で現代には、言葉を失うような出来事があまりに多くあります。大きな自然災害の前で、理不尽な事件事故のの前で、私たちは言葉を失ってしまうのです。嘆くこともできない現実のなかで私たちは言葉をなくしてしまいます。言葉をなくしながら、なお、騒々しいのです。ほんとうのことや、豊かなことは語られていないのに、テレビ画面にはたくさんのテロップが流れているように、むなしい言葉だけが満ちています。それは神の前の沈黙ではありません。虚無へ向かっていく事柄です。

 私たちは神の前で沈黙をしないといけません。言葉を失うような現実の前で静まるのです。心かき乱す現実の中で静まるのです。

 

 沈黙ののち、まことの喜びが与えられます。神が与えられる喜びです。ザカリアが子を与えられ、そしてその誕生によって神の御業をしったように、私たちも知ります。神のご計画を知ります。そのとき、私たちは本当の言葉を与えられます。賛美の言葉です。賛美の言葉は祈りの言葉でもあります。今日の聖書箇所のあとの部分で、言葉を与えられたザカリヤは預言をしています。救い主の到来と、生まれてきた赤ん坊がいと高き方の預言者となることを語っています。まことの言葉を語りました。

 誕生した赤ん坊、洗礼者ヨハネは伝令だと申しました。王の到来を伝える使者、夜明けを告げる使者でした。そのヨハネののちにたしかにキリストが来られました。私たちに光が与えられました。いまはおぼろげであっても確実な光です。そのおぼろげな光のなかで、わたしたちもひとりひとりが洗礼者ヨハネとして召されています。神の前で沈黙し、静まり、そして新しい言葉を与えられるのです。私たちはだれかにとっての洗礼者ヨハネとなるのです。喜びの使者となるのです。

 クリスマスが近づいています。わたしたちもいま、クリスマスの喜びの前に静まります。沈黙をします。静かに神の前に新しい言葉を待ちます。クリスマスの喜びが増し加えられるように。神にある喜びが豊かにあるように静まります。クリスマスの喜びを隣人に告げ知らせるために喜びの使者となるために静まります。