大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ルカによる福音書第3章7~20節

2021-11-28 15:14:17 | ルカによる福音書

2021年11月28日日大阪東教会主日礼拝説教「あなたを切り倒す斧」吉浦玲子 

<クリスマスの驚き> 

 アドベントが始まりました。アドベントではなく、一足早くクリスマスの思い出ですが、まだ小学校に上がる前のことです。ある朝、目が覚めると枕元に、折り紙が置いてありました。普通に文房具屋で売ってある何の変哲もない折り紙です。なぜ折り紙が置いてあるのか分かりませんでした。折り紙を手に取って怪訝そうにしている私に母が言いました。「今日はクリスマスだから」と。ひょっとしたら、それ以前にも、クリスマスプレゼントというものは貰っていたのかもしれませんが、記憶にあるクリスマスプレゼントはそれが初めてでした。私にとって初めてのクリスマスの体験でした。へえ、クリスマスというのは、折り紙がもらえるのだ、子供心にそう感じました。我が家はクリスチャンホームではありませんでした。そしてまたそれ以前にたいへん貧しかったのです。その一年ほど前に父が病気で急死して、母と子供二人が残され、まさに路頭に迷っていた時期でした。昼間はガラス屋として営業している店舗の奥の一間を借りて母子で住んでいました。四畳半ほどの畳の間と台所として使える小さな土間が母子の住居で、母は仕事を探している時期で、経済的な余裕はなかったのです。いつもきりきりとして、怖かった母が、何を思ったのか、その朝は、プレゼントをくれたのです。ですから、とても印象に残っています。信仰的なクリスマスとはほど遠い思い出なのですが、あれもまた、自分にとっては、クリスマスがやってきた出来事でした。クリスマスの意味は全く分かっていなかったのですが、驚きをもってクリスマスというものはやってきました。目を覚ましたら、不意打ちのように、枕もとに何かが置かれている。クリスマスというのは驚きなんだ、そう感じたのです。それから30年以上のちにクリスチャンになりましたが、その後も、毎年思うのです。クリスマスというのは驚きなのだと。ふいに神から届けられるものなのだと。 

 実際、聖書においても、クリスマスは驚きの到来でした。貧しい家庭の枕元のプレゼントというとなんだか甘いような、うるわしいような話になりますが、聖書に記されたクリスマスの到来はほのぼのとするお話でもなければ、一般的に言うような美しいお話でもありません。今日の聖書箇所は、クリスマスのまえ、キリスト到来を告げる者として洗礼者ヨハネが登場します。この洗礼者ヨハネの物語は、少しもハートウォーミングでないどころが、ちょっとむさくるしく、厳しい話になります。しかしここは、このアドベントの期間に読まれることの多い聖書箇所です。 

<悔い改め> 

 洗礼者ヨハネは、マタイによる福音書によれば、らくだの毛衣を来て、革の帯をして、いなごとはちみつを食べていたと描かれています。なんとも野性味あふれるイメージです。そして、これは旧約時代の預言者の風貌でもありました。彼は、旧約時代ののち、数百年途絶えていたと言われる神の言葉、預言を語る預言者として、イスラエルに登場したのです。そして実際のところ、彼は最後の預言者とも言われます。旧約時代のイザヤが、エレミヤが、エゼキエルが、預言した神の救いのできごと、この世界の回復を告げる最後の預言者としてヨハネは登場しました。そしてそれは、彼によって旧約の時代は完全に閉じられ、新しい時代の幕開けが高らかに宣言されたことを示します。そして彼が伝えたことはただ一つでした。 

 「悔い改めにふさわしい実を結べ。」 

です。枕元に折り紙が置かれるよりこれは当時のイスラエルの人々にとって驚きでした。悔い改めとは、神の方を向け、ということです。当時、イスラエルの人々は、自分たちこそが神を向き、何より神を重んじ、神に従って歩んできたと思っていたからです。自分たちは、当然、神の救いに与る権利があり、神の国は自分たちのものだと思っていたからです。イスラエル以外の人々、異邦人とは自分たちは違うそういう自負がありました。イスラエルの信仰の父と言われるアブラハムの子孫である自分たちは当然神の救いにあずかれる、天の国に入れると思っていたのです。 

 翻って、今ここにいる私たちは昨年のアドベントから一年を過ごしてきました。ここにおられる方はほとんどがクリスチャンでありクリスチャンとして神と共に一年を歩んでこられたと思います。しかし、教会の暦として一年の始まりの言葉として、私たちは聞くのです。「悔い改めよ」という言葉を。繰り返し繰り返し、毎年聞くのです。らくだの毛衣を着て革の帯をした古い時代の風貌をした預言者の声を聞くのです。あなたは救われないといけない、あなたは神の国に入らねばいけない、さあだから悔い改めよという声を聞くのです。自分はすでに洗礼を受け救われている、天の国への切符をいただいている、たしかにそうです。その切符がただの紙くずになることはないでしょう。しかしまた一方、私たちはすでに切符を持っているのだから、当然の権利として天の国に入れると大きな顔をして神に申し上げることはできないはずです。この一年を振り返ってみてください。ヨハネの「『我々の父はアブラハムだ』などと言うな」という言葉は、そのまま「『我々はクリスチャンだ』などと言うな」という言葉として、私たちに返って来る言葉です。それよりまえの箇所でヨハネは過激な言葉を吐いています。「蝮の子らよ」これは1世紀の人々が神を重んじると言いながら、実際は偽善的だったからそういわれていたのであって、私たちとは関係のない言葉でしょうか?毎週、礼拝に来て、祈って、奉仕をして、そのうえなぜ「蝮の子らよ」などと言われねばならないのでしょうか。それは、1世紀のイスラエルの人々も同様だったでしょう。厳しい律法を守り、精一杯生きていたのです。蝮の子だなどと言われる筋合いはないと感じるのが普通だと思います。実際のところ、これは何を言っているのでしょうか?もっと祈れとか、もっと奉仕せよと言っているのでしょうか。聖書通読、聖書日課をサボるなと言っているのでしょうか?そうではありません。ヨハネの言葉は「悔い改めにふさわしい実を結べ」なのです。悔い改めの実を結ばない、その状態が蝮の子なのです。 

 今年、中庭の大きな植木鉢に植えられていたドイツヒイラギを庭の土に地植えしました。植木鉢の中で育ちすぎて、根詰まりを起こしていたからです。ぱんぱんに根がつまり、さらに植木鉢の下の穴から根が出て地面に根付いていました。そのドイツヒイラギを地植えにするためには植木鉢を割って、外に出すしか方法はありませんでした。地植えにしたドイツヒイラギが土と馴染んで、枯れずに生き続けるかどうか心配でした。そのまま鉢に入れていても弱っていくだろうし、一方で、新しい環境で生きることができるか心配でした。しかし幸い、無事に土に根付き、このアドベントの季節、赤い実をつけてくれました。その赤い実は今朝のアドベントキャンドルを飾ってくれています。言うまでもなく、植物が実をつけるということは、土から養分をもらって、生きているということです。「実を結べ」ということは「生きよ」ということです。肉体が自己完結して生きていけないように、信仰の命も神から養分をいただかなければ死ぬのです。神につながって「生きよ」ということです。クリスチャンとはかくあるべし、祈りとはこうあるべきだ、そういう自分で作った勝手な枠を作って、植木鉢の中で根詰まりしていたドイツヒイラギのようになっていないか点検をしないといけないいのです。信仰の命がガチガチに自分で作った枠の中で固まっているのなら、その枠を壊さねばなりません。植木鉢を割ったように、私たちの勝手な心の枠を壊すのです。十年一日のような自分のやり方が熱心な信仰だと思い込んでいる傲慢さ、伝統だ厳粛さだといって愛をはじき出している冷たさを叩き割りなさいとヨハネは語っているのです。ただただ、心素直に神につながり、神から命を得なさいと言っているのです。そこに命があるのです。 

 命には新陳代謝があるのです。人間の肉体の細胞が入れ替わるように、私たち一人一人の信仰も新陳代謝するのです。私たちは罪赦され新しい信仰の命をいただいた日から、まだ残っている古い肉の体を少しずつ捨てていくのです。体の細胞は60兆とも37兆とも言われます。その細胞の多くは入れ替わっていくのです。もちろん細胞の中には人間が生まれた時から死ぬまで体内にとどまる細胞もあります。しかし、多くの細胞は、入れ替わりの期間の長さは細胞によって大小ありますが入れ替わるのです。信仰の命もそうです。御言葉は変わりません。いただいた聖なる霊は変わりません。しかし私たちの肉の心は変わっていくのです。変わらねば、健やかな命はないのです。健やかな命には健やかな行いが現れます。ヨハネは貧しい人に施せと言ったり、徴税人に金をごまかすなと言っています。これは施しや公正なあり方が救いをもたらすのではなく、健やかな信仰の命は、おのずと健やかな行いに現れるのです。そしてまた行いの健やかさによって、信仰自体の健やかさが保たれるのです。泥棒をしながら健やかな信仰の命は保てないのです。 

<聖霊の風> 

 ヨハネはさらに恐ろしいことを語ります。やがて来るべきお方、これこそキリストですが、このお方は、手に箕をもって脱穀場をきれいになさるというのです。麦と殻を分け、殻は消えることのない火で焼き払われる、というのです。この消えることのない火という言葉に私たちは恐れを覚えます。悪いことをしていると地獄の火で焼かれる、というようなイメージを持ちます。しかし、ここで語られているのは、麦の殻が取り去られ、その殻が焼かれるということです。ある人が麦で、ある人が殻で、殻の人が焼かれるということではないのです。私たちの中の殻が焼かれるということです。そしてまた箕というものを私は良く知らなかったのですが、これは塵取りのようなざるのようなもので穀物を放り投げて風によって殻や小さな混じり物を吹き飛ばして、ふたたび箕で受ける、あるいは不純物が取り除かれたものを地面に落とすというものなのですね。つまり風によって、不要なものを取り去るのです。キリストは確かに裁き主としてこの世に来られます。箕に穀物をのせて風で殻を取り除かれます。この風は聖霊の風なのです。つまり私たちの内に聖霊の風が吹かねばなりません。聖霊の風はただ一度吹くのではないのです。何度も何度も箕に穀物が乗せられて風で殻が取り除かれるように、何度も聖霊の風に私たちは吹かれるのです。聖霊の風が吹かないように心を閉ざし、魂の扉を閉ざしていてはいけないのです。 

 たえず風が吹くように、願い求めるのです。聖霊よ来てください、と。聖霊というとペンテコステのようだと思われるかもしれません。しかし、聖霊の風の吹かなければ私たちは新しくされないのです。固い殻に覆われ、命から離れていくのです。古い死んだ細胞が皮膚の表面で皮膚をくすませているように私たちの信仰もどんよりとしていくのです。喜びから離れていくのです。教会の周りのブロック塀が撤去され、風通しの良いフェンスに代わりました。そのフェンスにアドベントの電飾が輝いています。私たちの魂にも聖霊の風がたえず吹き渡るようにと願います。そこに信仰の命が息づき、豊かに輝くのです。私たちは聖霊の風に促されて悔い改めます。そして新しい命の輝きに生きていきます。 

  

 


ペトロの手紙Ⅱ第1章16~21節「そこに明りはある」

2021-11-21 16:32:06 | ペトロの手紙Ⅱ

2021年11月21日大阪東教会主日礼拝説教「明りはそこにある」吉浦玲子 

 次週からアドベントが始まります。クリスマス前の4週がアドベントです。待降節、クリスマスを待ち望む季節です。教会の暦はこのアドベントから始まります。長老教会ではあまり教会暦ということを言いませんが、教会の一年はアドベントから始まるのです。ですから、今週はまさに教会が新しい年に向かっていく時であり、心を新たにして信仰生活を整えるべき時です。私自身は、アドベントから聖書通読を新たに始めたいと思って、この時期、遅れていた予定を取り戻すべく焦って大量に聖書を読んだりすることもあります。しかし、そういう形だけのことではなく、私たちがほんとうに今このときに覚えなければいけないことは、キリストを中心にしっかりと立つということです。そのキリストはどなたなのかということを繰り返しわきまえねばなりません。 

 ペトロは「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨」と語っています。「力に満ちた来臨」は原文では端的に「力と来臨」となっています。まさにキリストは2000年前にこの地上に来臨されました。そしてキリストは力だったのです。みなさんにとって、キリストは力に満ちてお越しになられたでしょうか?それは力そのものだった。そして皆さんのところへもキリストは来られた、力に満ちて、力そのもののお方として来られました。 

 旧約聖書の時代、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、シナイ山で神の顕現を目の当たりにします。それは全山が煙に包まれ、煙は炉の煙のように立ち上がり山全体が激しく震えた、という恐ろしい場面でした。まさに神の来臨のすさまじい力を思い知らされたのです。旧約の時代の神のイメージというのは、シナイ山での顕現に象徴されるように力と威厳に満ちたものですが、新約の時代では、「やさしいイエス様」というイメージになるかと思います。もちろん旧約と新約で神様が違うということはありません。神の愛と憐れみも、また力と威厳も、旧約であれ新約であれ変わりません。ただ、人間の繰り返される罪にもかかわらず、人間の救いのために来臨された主イエスのイメージが「やさしいイエス様」のイメージが強くなるのは、ある意味、間違っていないのです。 

 しかし、私たちは忘れてはならないのです。キリストは神そのもののお方であり、力そのもののお方であることを。ペトロはそれを巧みな作り話を用いて知らせたわけではありませんと語ります。そして「わたしたちはキリストの威光を目撃したのです」と言います。ここは原文では、わたしたちはキリストの威光の目撃者だと語っているのです。確かに彼は目撃者でした。 

 何を目撃したかというと、福音書の中に語られています主イエスが山の上でお姿が変わられた、いわゆる「山上での変容」でした。ペトロとヤコブとヨハネが主イエスと共に山に登ると、主イエスのお姿が光り輝くお姿に変わり、さらにそこにはモーセとエリヤまで現れたという出来事です。もともと福音書の中で主イエスの外見的な様子は語られていません。たとえば、主イエスに先立って現れた洗礼者ヨハネはらくだの毛衣をきて革の帯を締めていたと書かれています。当時としては際立った特徴的な外見をしていたのです。しかし、主イエスの関してはそのようなことは書かれていません。つまり、特徴的な外見はおそらくなかったということです。しかし、山の上でお姿が変わった時、「顔は太陽のように輝き、服までが光のように白くなった」と描かれています。ある意味、主イエスが神らしいお姿をなさっていたのは福音書中ではこの場面だけであると言えます。十字架の場面でも、さらには復活の場面ですら、外見的な輝かしさ、特徴は伝えられていないのです。 

 しかしまた、逆に言いますと、作り話ではないとペトロは語りますが、ある意味、山上の変容の場面は、その話が他の主イエスのエピソードと比べ、主イエスのお姿に際立った違いがあるだけに、また旧約の時代の有名人が登場することとあいまって、ある意味、作り話めいて感じられる場面であるとも思います。もちろん福音書には主イエスによってなされたたくさんの奇跡の話はあります。水をぶどう酒に変えたり、病を癒したり、嵐を静めたりという場面はあります。しかしそれは、そこにいる苦しんでいる人間、悲しんでいる人間への救いや助けのための奇跡でした。もちろんそこには、実際のところ、たいへんな神の力と威光があるわけですが、山全体が轟くような神の威厳の現れということとは少しイメージが異なります。 

 しかし、ペトロが山上の変容をここで語っていることにはもちろん意味があります。それは、今日の聖書箇所には直接語られていませんが、先ほど申し上げましたように、この場面にはモーセとエリヤが出て来るのです。モーセは旧約聖書における律法を象徴し、エリヤは預言を象徴します。この場面で、モーセとエリヤの姿はやがてかき消え、主イエスだけが残られます。つまり旧約の「預言と律法」の時代から、主イエスの時代へと大きく時代が変わったことが山上の変容の場面では語られているのです。そしてペトロ自身、今日の聖書箇所で、主イエスの来臨は聖書の預言の言葉の成就であることを語っています。2000年前、突然、主イエスがお越しになったのではない、旧約の時代からの神の救いの歴史の中でお越しになったのだとペトロは語っています。シナイ山でモーセの前に顕現された神、あるいはホレブで預言者エリヤに語りかけられた神と断絶した神ではない神として、力に満ちた神としてキリストはお越しになったのだと語られているのです。 

 そしてまたモーセやエリヤは人間ですが、キリストは神から来られた神、子なる神です。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声をペトロはたしかにきいたのだと語ります。つまり神が律法や預言を通してではなく、救い主である主イエスご自身が私たちと出会ってくださる時代がやってきたことが語られています。恐ろしく轟く山ではなく、私たちの日常の日々に共にいてくださる神として来られたことが語られています。しかしだからといって、神は神であり、誉れと栄光に満ちておられる方なのです。私たちはそのことを忘れてはならないのです。これからクリスマスに向け、飼い葉桶に眠るかわいらしい赤ん坊のイエス様、天使と星に満ちたメルヘンのような降誕の物語が街にあふれます。それは人間が受け取りやすいイメージとして流通しているのです。しかし、私たちは、神を神として拝せねばなりません。ここにいる私たちはもちろんメルヘンチックなクリスマスを求めてはいないかもしれません。しかし心のどこかに、神を誉れと栄光に満ちたお方、力あるお方としてではなく、自分にとって心地の良い、受け取りやすい神としてイメージしていないかということは考えねばなりません。それは神を偶像化していることでもあります。もちろん、逆に怖い神、悪いことをしたらばちを当てられる神、自分の言動をひとつひとつ査定されるような神として考えることも間違っています。 

 「~ねばなりません」とか「間違っています」というように、少し強い口調で語っていますが、これは、私たちの希望がここにかかっているから申し上げています。信仰の喜びがここにかかっていると申し上げてもいいかもしれません。「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意をしていてください」そうペトロは語っています。夜が明け、明けの明星が昇るというのはキリストの再臨のときです。この世界の救いが完成する時です。しかし、すでにキリストはこの世界に来られ、ともし火をわたしたちの心に灯されました。私たちはたしかに暗い所に今置かれています。不条理や不公平に満ちた世界に生きています。ことにコロナの状況も分からない中、すっきりと心晴れやかになりにくい毎日です。しかし、たしかに私たちはともし火を灯されています。 

 むかし、信徒であったころ、8キロほど離れた教会まで自転車で通っていました。神崎川の川沿いの自転車道を走っていってたのです。ある冬の日曜日、前日、夜に雪が降っていたので積もっていないか心配したのですが、屋根には少し雪が残っていましたが、道路は全く大丈夫だったので自転車でいつものように礼拝に向かいました。しかし、地上の道から神崎川の自転車道に降りてびっくりしました。自転車道は雪がいちめんに積もっていたのです。川沿いは冷えて、雪が溶けていなかったのです。これは自転車で行くのは無理だと感じました。しかし今から別ルートでいくと遅刻してしまうとも思いました。見ると、足もとから一筋に幅10センチほどの雪が溶けた部分がありました。その部分は雪もなく凍ってもいませんでした。それがずっと教会方面に向かって続いている感じです。それが途中で途切れていたら積もっている雪の中立ち往生してしまうことになりますが、えいやっと思い切って、その10センチほどの幅のところをずっと走って行きました。その雪の溶けたところは、教会に近くの地上へののぼり口のところまでありました。そこから先はありませんでした。その時は無邪気に教会までの道を神様が整えてくださったのだと感じました。実際のところはたまたま誰かが、雪の中を先にバイクかなんかで走って行かれた跡かもしれません。しかし、ちょうど、私が走るその区間だけ、雪の溶けた部分があったことは忘れられません。それは出エジプトの民が目の当たりにした山がとどろく神の威光とはスケールが違うことかもしれません。海が割れるような奇跡でもありません。しかし、私はまっしろな一面の雪の中に一筋雪のない部分があった、その一筋のなかに神の力を今でも感じます。凍える川沿いの道に、そこだけまさにともし火が灯されたような思いで思い起こします。 

 「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。」とペトロは語ります。しかし私たちはどうしても自分勝手に、自分が理解できる範囲で神をとらえてしまいます。やさしいやさしいイエス様であったり、怖い神様であったりします。山上の変容の場面で、ペトロは、主イエスとモーセとエリヤのために三つの小屋を作ろうと言いました。三人のそこにいてほしいと願ったのです。これは人間が人間の都合のよいところに神にいてほしいという思いの表れでもありました。神は人間の都合のよい場所に住まわれたり、人間の勝手なイメージに合わせて存在させているわけではありません。 

 「なぜなら、預言は、決して人間の意思に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです」とペトロは語ります。神のなさることは人間の意思や思いをはるかに超えていることです。人間の願いをはるかに超えた祝福を与えられるのが神です。昨日の青年会でイザヤ書の40章を黙想しました。「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。/エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。/罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた」という有名な聖句です。救いの到来の預言です。罪に罪を重ねてきたイスラエルの罪が償われ、それまでの罪に倍する報い、つまり祝福が与えられるという預言です。これは神に背いた罪のためにイスラエルが滅びバビロンに捕囚となっていた民への解放の預言でありました。そしてまた同時に、やがて来られるキリストによる罪からの解放の預言でした。ある未信徒の青年が「それまでの罪に倍する報い」が赦しや祝福であることに驚いていました。たしかにそうです。罪の報いとして罰や苦しみが与えられるならば理屈として合います。しかし、そうではない。罪の報いが赦しであり祝福なのです。しかも罪と同量ではなく、倍もくださる、そこに神の人間の理屈では考えられないご計画があります。人間が考えるやさしさやおもいやりといったものをはるかに超える報いを神はくださる、それこそが私たちの希望の源であり光です。そこに救いがあり慰めがあります。 

 教会のフェンスや建物などに先週より電飾を灯していただきました。大阪の街の華やかな電飾に比べたらささやかなものですが、近隣の方には喜んでいただけているようです。日の暮れの早いこの季節、仕事帰りの方々に神がともしてくださるともし火を少しでも感じていただけたらと思います。私たちの心にはすでにともし火が灯されています。アドベントはそのともし火をこの世界に掲げる季節です。 

 

 

 

 


ペトロの手紙Ⅱ第1章12~15節

2021-11-14 16:21:40 | ペトロの手紙Ⅱ

2021年11月14日大阪東教会主日礼拝説教「あなたが世を去ったあとも」吉浦玲子 

 昨日、まだ十代の少年ーその実績からして少年などと軽々しく呼んではいけない感じですが―が将棋の世界で4つ目のタイトルを取ったというニュースが流れました。将棋のことはまったく分からないながら、とんでもないことなのだろうなと感じました。世の中には将棋の世界のみならず、とびぬけた才能で、記録に残る人々、歴史に残る人々がいます。 

 翻って聖書の世界を見ますと、たしかに優れた人物は出てきます。ダビデやソロモンはイスラエルに帝国を打ち立てました。ダビデは戦争の天才であったと言えますし、ソロモンは行政においての天才であったといえます。しかし、ダビデもソロモンも聖書ではその天才性を称賛されているわけではありません。彼らの上に働かれた神の働きが記され、神の前にあって、ダビデもソロモンも罪人に過ぎなかったことが語られます。さらに新約聖書の時代の登場人物を見ますと、歴史的な観点でみて、特記すべき人々はいないように感じます。イエス様の弟子たちは、もちろん聖書の中では重要な人々ですけれど、彼らは王国を立てたわけでも、この世的において実際的な影響力があったわけでも実績をあげたわけでもありません。 

 今共にお読みしています手紙に名前を冠されているペトロにしても、主イエスの一番弟子であり、ローマ・カトリックにおいては初代教皇とされている人物です。プロテスタントの私たちにとって、偉大な信仰の先人ではありますが、一般的に言うところの天才や偉人というわけではありません。 

 昔、少し読んだキルゲゴールの本に、「天才と使徒(キリストに選ばれた弟子)は異なる」という文章があったと記憶しています。読んだ当時は、天才が羨ましくて天才に憧れていた頃なので、少し反発するような思いがありました。天才はすごいし、使徒より天才がいいと思いました。 

 もちろん、天才と使徒、どちらがいいというようなものではなく、全く異なるものです。天才というのは言ってみれば、神から特別な才能という賜物を与えられた人々です。使徒は、神に仕えること、福音を伝えることへの特別な召しを与えられた人々です。使徒というのは基本的にはキリストの直接の弟子たちに与えられた称号ですが、今日を生きる私たちもキリストの証し人として生きる時、福音を伝えていくとき、使徒的なあり方を受け継いでいるといえます。天才はごくごく一握りの人間しかなれないけれど、使徒的な生き方は、ある意味、誰でもできると言えるかもしれません。 

 今日の聖書箇所を読みますと、まさにペトロは使徒として語っています。使徒として何を語っているかというと「思い出せ」と語っているのです。今日の聖書箇所では三回「思い出す」という言葉をペトロは使っています。最初は「従って、わたしはいつも、これらのことをあなたがたに思い出させたいのです。」これは手紙の前の箇所を受けています。「信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」と語られていました。キリストにすでに招かれている者、選ばれた者としてふさわしく生きていきなさいということを思い出させたいというのです。そもそも、これらはここでペトロが語る前に皆さんは知っていたはずだというのです。「あなたがたは既に知っているし、授かった真理に基づいて生活しているのですが。」 

 ペトロは使徒であって天才ではありません。何か特別な才能で弟子たちに彼が真理を授けたわけではありません。真理に至るための方法を伝授したのでもありません。すでに神ご自身が授けてくださっている真理を思い出すように語っています。真理とはキリストであり、福音です。キリストに愛され、キリストに罪赦され、希望を与えられたことそのものです。 

 「わたしは、自分がこの体を仮の宿としている間、あなたがたにこれらのことを思い出させて、奮起させるべきだと考えています」また「自分が世を去った後もあなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらうように、わたしは努めます」使徒たるペトロは、その生涯をかけて、弟子たちが最初の信仰にとどまりつづけるように、最初の信仰を「思い出すように」語り続けました。ペトロの手紙Ⅱの最初で申し上げましたように、この手紙は新約聖書のなかでもっとも成立が遅い時期のものです。2世紀半ば、迫害の中で生きるキリスト者に、最初の信仰にとどまれ、最初に与えられた福音を思い出せと語られているのです。そのなかで、何か新しいことを知るのではなく、また、新しいものを手に入れるのではなく、私たちがすでに手にしていることを忘れるなというのです。 

 いま、会堂にいる私たちはすでにキリストによって福音の灯を心に灯された者です。まだ洗礼をお受けになっていない方も、すでにキリストによって招かれています。しかし、私たちは私たちの内に灯されているともし火がときどき分からなくなったり、弱まったりします。しかし、ペトロは、もともと灯されているともしびを思い起こしてほしいと言っているのです。使徒は、神によってすでに灯されているともしびを思い起こすために、消えかかった炭火に風を送るかのように言っているのです。 

 ところで、私がまだ洗礼を受けてそれほどたっていない頃のことです。当時、教会に少し癖のある年配の婦人がいました。彼女はトラブルメーカー的なところがありました。その人の言動で傷つく人がときどきありました。私自身、ある集会の時、かなり意地悪なことをされました。お子さんが障害をもっておられ、そのお子さんの障害に関わる製薬会社との裁判や親族との争いなど、苦しみ多い人生を送って来られた方でした。その方の言動にはそういう人生の背景があったのかもしれません。意地悪をする癖に、人恋しい思いの強い方で、その方がご病気で入院された時、なんとなくお見舞いに行かないといけないかなと思わされるようなところのある方でした。で、実際、お見舞いに行ったら行ったで、さんざん愚痴や不満ばかり聞かされる感じでした。それでも、帰り際には「また来てや、また来てや、絶対やで」とおっしゃるような方でした。やがてその方は天に召されました。その方は天に召される前に、伝道のために使って欲しいといくばくかのお金を教会に託されました。そのお金で教会は自動で照明が点灯する大きな看板を設置しました。教会は通りから少し奥まったとろこにあったので、遠くからも教会の場所を示すことのできる看板ができて、教会の場所が分かりやすくなりました。夜でも、あそこに教会があるということがはっきりわかるようになりました。そういう献金をされたから、というわけではないのですが、あの少々お付き合いするにはしんどかった方も、キリストに召された方だったのだなと思いました。こじつけめきますが、キリストによってともし火を与えられた方だったから教会を示す明かりをともされたのだと思います。年中、文句ばっかり言っておられ、けっして、模範的なクリスチャンというわけではなかったのですが、彼女もまたキリストによって、心に福音のともし火を灯され生きた方であったと思います。彼女の苦しみ多い人生の傍らにキリストがおられた、怒り、涙し、不満を言う彼女をキリストはいつも抱きしめられていた。「また来てや、絶対やで」とおっしゃっていた、その傍らにキリストがおられたと思います。 

 ペトロも、またパウロも、そしてまたこの教会の先人たちも、キリストによって福音の光を灯された人々でした。すばらしい才能を持った方や、この世でさまざまに貢献された人々もあったでしょう。家族にとってかけがえのない一人一人であったでしょう。また信仰生活においても、模範となるような方々も多くおられたことでしょう。しかし、キリストと共にある人生は、誰かに、キリストのことを知らせる人生であり、またキリストを思い出させる人生なのです。それはその一人一人の自然な生き方において為されることです。決して信仰者として模範的とは言えなかった「また来てや、絶対やで」とおっしゃった方もまた、その人なりのあり方でキリストを人々に思い起こさせてくださったと思います。 

 私たちがこの地上に残すのは人の記憶に残る記録ではありません。データとして残る歴史ではありません。神の歴史のなかに記される使徒的なあり方です。神によって選ばれ、キリストと共に歩んだ、そしてそのことを通して誰かにキリストを示した、キリストを思い出させた、それは神の歴史の中に確かに刻まれるのです。その歴史は、命の歴史です。冷たい死んだ記録としての歴史ではありません。一人一人が喜びの時も悲しみの時も、神の命の中で、生き生きと生かされたその命が脈々と受け継がれていく歴史です。 

 今日は逝去者記念礼拝です。私たちの教会の先人たちを導かれた神を覚え、神を讃えます。先人たちが神の歴史に記され、それぞれに光をともされ、命を継いで来てくださったことを覚えます。教会は命から命をつないでいく場所です。自分だけが救われればいいということではありません。自分だけが崇高な真理に到達したらよいということではありまえん。そこには本当の命はありません。冷たく滅びに至るむなしさだけがあります。 

 しかし、私たちの信仰は新しい命を生み出す信仰であり、教会は命が連綿と続いていく所です。新しい命を生み出さなかったとしたら、それは信仰共同体ではありません。自分たちだけが楽しく過ごせたら良いとするなら、それは教会ではありません。先人たちが、この地上の仮の宿におられたとき、のちに続く者たちに、キリストを示してくださったように、そして、キリストの命を手渡してくださったように、私たちも続く人々に信仰の命を手渡します。神に与えられた命は、自分の中で握りしめている時ではなく、誰かに手渡す時、輝くのです。 

 「また来てや」といったご婦人の話をまたすれば、その方は高校生の時、小さな伝道所の集会に出ていたそうです。その伝道所は、牧師でも宣教師でもない、一信徒の老婦人が、当時、教会のなかった地域にぜひ教会を立てたいと、所属教会の牧師にかけあって、副牧師や神学生を派遣してもらって、公民館のようなところ借りて伝道所として始めたところでした。高校生だったその方は、伝道所で一生懸命働いておられた老婦人から、「いまは借りている会館でやってるけど、いつか会堂を建てるねん、会堂のある教会にすんねん」という言葉を聞いたそうです。高校生だった女性は、こんな少人数でそんなことができるわけがないと笑ったそうです。でも老婦人は大まじめで、「いや、あそこに教会が建つ、あのあたりや」と指さされたそうです。高校生だった女性は、それを聞いて「ありえない」と思って大笑いしたそうです。その方はその後、その土地を離れ、20年後に戻って来られました。そして町を歩いていると、ある場所に教会がありました。その場所は、かつてあのおばあさんが「あそこに教会を建てる」と指さしていた場所でした。まさかと思って、教会に入って、牧師に聞くと、まさにあの老婦人が始めた伝道所が発展して、この教会になったのだというのです。その婦人は腰を抜かさんばかりに驚いて、その教会に通うようになったそうです。一老婦人がキリストを指さし、教会を建て、その老婦人からキリストを指し指めされた婦人が、教会を遠くからも指し示す夜に輝く看板を捧げられました。信仰がつながり、命が今も続いているのです。 

 多くの人間は天才ではなく、天才のようなまぶしい輝いはその人生にはないと思われるかもしれません。そうではないのです。私たちは、輝かされるのです。命を手渡していくとき、美しく輝かされるのです。神が輝かされるのです。神に特別な賜物をいただき、その才能を発揮する天才たちも確かにまぶしく美しい存在です。しかし、私たちもまた、美しく輝かされる存在です。信仰の命を手渡す者として輝かされるのです。すでに仮の宿を離れた方も、今仮の宿にいる私たちも、共に神によって輝かされています。 

 


ペトロの手紙Ⅱ第1章5~11節

2021-11-07 17:52:35 | ペトロの手紙Ⅱ

2021年11月7日大阪東教会主日礼拝説教「たしかな天国」吉浦玲子 

 私自身はまだお授けした経験がありませんが、世の中には、地上の命があとわずかとなった時に病床で洗礼をお受けになる人がいます。かなり切迫した状況での緊急洗礼になることもあります。ある先生は、教会員から自分の高齢となった叔父のところへ訪問してほしいと頼まれ訪問されました。その叔父さんはクリスチャンではなく教会にも来たことのない方です。ご高齢で外出がままならず、クリスチャンの姪が、病で余命いくばくもない叔父さんにせめて一度でも牧師から聖書の話を聞いて欲しいと願って牧師に頼んだのです。牧師は、その会ったことのない叔父さん方に行くとき、ふと感じるところがあって、洗礼式の準備をしていったそうです。はたして、訪問をすると、叔父さんはすでにキリスト教のことはご自身でさまざまに勉強をなさっていて、イエス様を信じたいという思いをお持ちでした。牧師は、その場で、十字架のこと、救いのことをお話しし、信仰を確認して、病床洗礼を授けたそうです。その後、叔父さんは、さらにお体が衰弱され、教会に通うことはできず、天に召されました。この世で礼拝に出席することはかなわず、言ってみれば自分の葬儀が教会での初めての礼拝であったともいえます。 

 

 ところで、「天国泥棒」という言葉があるそうです。病床洗礼、緊急洗礼を含め、かなりご高齢になって、クリスチャンになった人のことを言うようです。ちっと人聞きの悪い言葉です。でもおそらくけっして批判する言葉ではなく、称賛や羨ましさを含んだ言葉だと思います。これはイエス様が十字架におかかりになった時、同時に十字架にかけられていた二人の強盗のうち一人が、十字架の上で、イエス様に救われたというエピソードから来ています。その強盗はイエス様と共に十字架にかけられながら、群衆にののしられながらも自分の罵る人々のために祈られるイエス様のお姿を見て、ああこの方は神から来られたお方だと感じたのです。そしてイエス様に向かって「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願いました。それに対して主イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とお答えになりました。楽園とは、かつてアダムとエバが罪に陥る前にいたようなところ、罪のない世界です。つまりあなたは罪赦されてすでに私と一緒にいると主イエスはおっしゃったのです。実際のところろ、十字架にかかっていた罪人は政治犯であるとも、強盗であるとも言われています。政治犯であれ強盗であれ、十字架にかけられるということはかなりの重い罪を犯したのです。自分の思いのためなら人の命すらどうでもいいというような生き方をしてきた人間です。強盗とも言われることから、この人は生きている時は他の人かいろんなものを盗んで来て、死ぬ直前に、今度は天国まで盗んだということで「天国泥棒」とジョークのように言われるのです。神から離れて、神をも恐れず生きて来たくせに、最後の最後に天国行きの切符を手に入れた、実際のところ、十字架にかけられていた強盗は別に天国を泥棒したわけではありません。十字架の上の主イエスのお姿を見て、初めて、彼は自らのこれまでの罪を知ったのです。「あなたの国へ入れてください」などとはけっして願うことのできない自分の罪の深さを知ったのです。ですからせめての思いで「思い出してください」と願ったのです。そこに彼のまことの悔い改めがあり、その悔い改めとキリストへの信仰告白ゆえ、主イエスに彼を赦されました。 

 

 ここにいる私たちは、そしてまたネットなどで、礼拝を捧げておられる方は、今日、イエス・キリストと出会って、命を終えられるわけではありません。洗礼によって罪赦され、御国への約束をいただき、なお、時間の長短はあれ、人生の日々を生きていきます。 

 「こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。」こうペトロは今日お読みした聖書の最後で語っています。「こうして」とあるように、私たちには、洗礼を受けてから、御国に入るまでそれぞれに時間の経過があります。そして「こうして」、ということで御国に入ります。ところで、「御国に確かに入ることが<できるようになります。>」というからには、入ることができない場合があるように思えます。また、<できるようになるため>の条件があるように思います。この手紙は各地のクリスチャンに送られたものです。洗礼を受け、信仰生活を行っている人々です。ということは、私たちも含めて、なんらかの条件に合わなければ御国に入れないのでしょうか?ペトロの語ることをしっかり守らないと御国の入口で追い返されるのでしょうか? 

 

 それは実はわからないことなのです。私たちはたしかに御国の約束を受けました。それはたしかな約束です。前にもお話ししましたが、ある先生は、すでに私たちは御国行き、天国行きの電車に乗って、その御国の駅にすでに電車は着いている、あとはその扉が開くのを待つだけだ、今はその天国の駅で電車の扉が開くのを待っている状態だとおっしゃいました。つまりこれから、天国駅までの切符を買ったり、運賃をチャージしたりするのではないのです。しかし、扉の開閉の権利はあくまでも神がお持ちです。神の権利を人間が侵すことはできません。悔い改めて洗礼を受けて、いまや天国の駅に着いている、今か今かと扉が開かれるのを期待をもって私たちは待っています。しかし神のなさることに対して、私たちは100%こうされるとは断定はできないのです。100%扉が開くとも、100%扉が開かないとも断定はできないのです。それは私たちが決めることではないのです。私たちが立派なクリスチャンとして生きて来たから当然扉が開かれるわけではないです。私たちの側の意思や努力によって扉が開かれるのではないのです。私たちに扉をこじ開ける権利はありません。 

 

 しかし、同時に私たちは聞くのです。「今日、あなたは私と一緒に楽園にいる」という言葉を。今日、私たちはすでにキリストと一緒にいるのです。礼拝においてキリストとお会いしているのです。キリストと一緒にいる私たちの前にある扉が開かないことがあるでしょうか?十字架の上の強盗は、そこで深い教理を学んだわけでも、困っている人を助けたわけでも、教会のために奉仕をしたわけではないのです。ただ悔い改めて、キリストの隣にいたのです。いた、といっても自分の意思でいたわけではなく、散々ひどいことをして生きて来て、たまたま死の間際にキリストの横にいただけです。 

 ペトロは語ります。「だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を増し加えなさい」 

 強盗は死ぬまでキリストの側にいました。冒頭お話しした病床洗礼を受けられた方は、その後、礼拝には出席できませんでしたが、ベッドの上で聖書を読み、讃美歌を聞きマタイ受難曲を聞き、キリストと共に静かに召されるまでの時を過ごされました。 

 一方、私たちにはまだしばらくの間、この世で生きる時間があります。罪に満ちたこの世界で生きていきます。誘惑があり、試練があります。何より厄介なのは、罪から離れられない自分自身でしょう。その日々にあって、私たちは、いつもキリストと一緒にいるでしょうか?キリストを忘れ、キリストから離れてはいないでしょうか? 

 ペトロは、「力を尽くして信仰には徳を、、」以下の言葉を、天国の扉をこじ開けるための手段として語ったわけではありません。これをやらなければ、天国の扉は開かないと言っているのではないのです。 

 

 そもそも、徳、知識、自制、忍耐、信心といった項目は当時の社会通念のなかで、ごく一般的な倫理項目でありました。ペトロはそのような一般的な倫理項目を守りなさい、そうしたら天国の扉が開かれます、と言っているのではないのです。一見、ごく一般的な倫理項目に見えるすべてが、信仰を源にして発するのだと言っているのです。人間が人間の力で徳を積むのではないのです。ましてや徳を積めば天国に入れるということではないのです。信仰があれば、それは主イエスと共に居れば、ということですが、主イエスと共にいるとき、私たちはおのずと徳のある生き方をすることができるのです。イエス様と一緒にありながら、不道徳な生き方はできないのです。いや実際のところ、キリストのことを忘れて、悪いことはしてしまうかもしれません。しかし、少なくとも、少しずつ、私たちは不徳な生き方から離れることができるようになるのです。知識とはキリストへの知識です。当時、はびこっていた異端のグノーシス主義者のような排他的な、自分だけが救われるというような人を選別するような知識ではありません。まことに神が愛であることを知る知識です。自制は、信仰が独りよがりになって、熱狂主義に陥らないように、感情や行いに節度を持つことであり、それはおのずと忍耐を生み出すことになります。信心という言葉は敬虔さ、へりくだる心といえます。徳を積んで、自制や忍耐をして、だんだんと人間はえらくなるのではありません。むしろ、どんどん、神の前に謙遜な者と変えられていきます。そしてキリストにある兄弟姉妹の愛に生きるようになります。私自身、とにかく自分が救われたかったのです。そして洗礼を受けました。教会の交わりというのは、洗礼を受けた当初は少し面倒くさいと思っていました。しかし、少しずつ、キリストと共に歩みながら、共にキリストにつながっている兄弟姉妹との交わりの大事さが分かってきました。交わりとは共に祈るということです。祈りのない交わりはありませんし、交わりのない祈りはありません。共に祈ることが兄弟愛に生きるということです。そしてそこに愛を増し加えるのです。兄弟姉妹が愛し合うとき、それはおのずとさらに広がるのです。教会という枠をこえて愛は広がっていくのです。その愛の広がりが伝道という形になるのです。 

 

 ある牧師は、この信仰、徳、知識、自制、忍耐、信心、兄弟愛、愛は、八つのハーモニーだと語られました。八つの音色が響く美しい賛美なのだと語られました。聖歌隊のように8つの違う音程の歌声を響かせる賛美なのです。その美しい賛美をしながら、私たちは御国の扉が開くのを待つのです。私は思うのです。その聖歌隊の指揮者は聖霊なのです。ちなみに今日はウィーンフィルが大阪で公演をするようです。優れた指揮者は演奏者の最高のパフォーマンスを引き出すと言われます。もちろんウィーンフィルともなれば、個々の楽団員のスキルも世界最高峰ですが、素晴らしい指揮者は、それぞれの演奏者自身が想像もできないすばらしい音色を引き出すのだと、演奏者が語っているのを聞いたことがあります。私たちも聖霊によって、神の御前に良き響きを響かせます。 

 そしてまたこの8つの項目は、信仰に始まり、愛に終わります。私たちの信仰は愛へと向かっていきます。その愛は、豊かな実を結ばせてくださるのです。そしてまた、その愛とは、イエス・キリストをより深く知ることに他なりません。8つの項目の中に知識がありました。キリストへの知識です。その知識は、愛へと向かっていくとき、知識としての理解を越えて、人格的な深いキリストとの交わりとなります。キリストを知るということは、知識がやがて愛によってキリストとの深い交わりに至ることを示します。今日もキリストと共にあって、神への心からなる賛美を捧げます。生涯をかけて、キリストと深い交わりを求めます。その私たちの前に、御国の扉は開かれるのです。