大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ペトロの手紙Ⅰ第4章5~11節

2021-09-26 14:42:19 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年9月月26日日大阪東教会主日礼拝説教「万物の終わり」吉浦玲子 

<ゴールとは> 

 昔、ソフト開発の仕事をしていたとき、開発が当初の予定より遅れ遅れになって、たいへんだったことがあります。「だったことがあります」と言いましたが、実際は、ほとんど毎回そうだったのです。だいたい新規の技術をいますから、そもそも開発に必要な時間が正確には見通せないなかで、営業的な必要から終わりの日程だけが決まっているような場合が多かったのです。そうこうしているうちに、開発が遅れ、結局、製品自体の発売が遅れることになって、ソフト開発のスケジュールも再度調整されるということがありました。スケジュールが伸びて、開発が楽になったともいえるのですが、むしろ、精神的にはしんどい面がありました。ゴールに向かって走っていたのに、ゴールがうしろに下げられて、モチベーションがかえって落ちてしまうということがありました。人間は、ゴールに向かって走るものです。ゴールという目標がなければ、日々に張り合いがありません。片や、子育てや介護というものは、ゴールが見えない働きですから、精神的に辛いところがあります。 

 さて、聖書は明確にゴールを示しています。それは終わりの時、裁きの時です。段落の少し途中からの言葉になりますが、「彼らは生きている者と死んだ者とを死んだ者にも福音が告げ知らされたのは」という部分は3章の19節以降のことと関係をします。ノアの洪水の時死んだ人々のところへ主イエスが宣教しに行かれたということです。私たちはこの地上においてキリストを信じようと信じまいとやがて神の前に立ちます。それは、「肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」とあるように、神の前で問われることは、この世でどれほどいいことをしたとか悪いことをしたとか、たくさん祈ったとか、教会のために尽くしたということではなく、神との関係がどうであったかということです。神の働きや御心にどれほど感謝していたのかということです。しかし、実際のところ、この世を生きていくとき、神のことよりも人のことを気にした方がうまくいくのです。互いに思いやりを持って、自分のわがままばかり言わず節度を持って生きていく、これはクリスチャンでなくてもやっていることです。社会や組織といった少し大きな集まりとなると、様々な考えや利害を調整して物事を進めていきます。これは実際、この世においては重要なことです。そうしなければこの世界はやっていけません。教会においてさえそうであるかもしれません。御心よりも人間の思惑に配慮した方が、うまくいくことがあるかもしれません。 

 しかし、それでうまくいっているようで、どうにもならない時が来るのです。個人においても社会においてもどうにもならなくなるのです。人間が互いの思いやりや、さまざまな利害の調整でどうにかやっていく、それが立ち行かなくなる時が来るのです。それは個人における肉体の死の時であり、またペトロが語る「万物の終わり」の時です。私たちはともすれば死んだ後は、天国に行って、そこで先に天に召された人と再会して平和に暮らすと考えています。しかし、「万物の終わり」が来るのです。ヨハネの黙示録に記されている、新しい天と地が現れるのです。その新しい天と地が現れる前、今ある世界は終わるのです。それは滅亡ではありません。神が創造されたすべてのものが終わりを迎え、新しくされるのです。終わりの時、私たちの肉体も甦りますが、世界も新しくされます。それは神の御業の完成の時です。 

<なぜ信じられるのか> 

 しかし、そういう荒唐無稽のことを、どうして信じるのでしょうか?これから起こることですから、誰も実際には見てはいないのです。科学的にはいつかは太陽系が終焉することは分かっています。しかし、そういことと、神の御業の完成とは異なることです。また、一方で、旧約においても新約においても、かつて預言者や使徒たちが幻で終わりの時について見たことは聖書に書かれています。実際のところ、ペトロやパウロのたちの時代は、その万物の終わりの時が、自分たちが生きている間に来ると考えられていたようです。そういう切迫感があったのです。しかし、2021年現在、まだ終わりの時は来ていません。預言者たちが見た幻は、何か宗教的陶酔のうちにみた幻覚に過ぎないのでしょうか。 

 よくお話しすることですが、私自身が洗礼を受けた頃、終わりの時とか体の蘇りとか天国といったものはあまり深くは考えていませんでした。とにかく、今、生きている、この人生において楽になりたい、救われたいと願って洗礼を受けました。実際、当時はそれで十分だったのです。そう言う思いで洗礼をうけたことに、まったく後悔はありません。しかし、キリストの救いということを深く考える時、もっと大きなもの、この地上の命を越えたものを考えざるを得ないことに気づきました。単にこの世を良く生きるためのよすが、良い人間として生活していくための道徳的規範としてキリスト教を考えるならば、キリストの復活も再臨も終わりの時もいらないのです。心が疲れた時、心を軽くしてくれる言葉、恵み深い言葉で慰められ、元気になるために聖書を読むのであれば、終わりの時は要らないのです。しかし、実際のところ、それだけでは、人間はほんとうには救われないのです。人生の苦しみも悩みも解決しないのです。 

 ペトロはずっと苦しみについて語っています。この世にキリストの教会ができてから 

300年ほどは、キリスト教は迫害を受けていました。もちろんペトロたちの時代もそうでした。このペトロの手紙が送られた先は特に、キリスト教がマイノリティで、キリスト者が迫害を受けていた地域でした。迫害によって命を落とすこともあり得ました。実際、少し前まで読んでいました使徒言行録には、使徒たちが命からがら伝道をする姿が描かれていました。しかし、2000年後の今の世界を見ても、迫害だけではない、さまざまな苦しみというものが私たちの日々にもあります。その苦しみのすべてが、私たちの生きている間に解決できるものではありません。どうにもならないことがあり、なぜなのかと思いつつ苦しむ苦しみがあります。人には言えない、心の中にずっとしまって、それこそ墓場まで持っていくような苦しみもあります。しかし、万物の終わりの時があるということは、そして神の完成の時が来るということは、私たちの命が死では終わらないということです。私たちの苦しみが完全に取り去られ、涙がぬぐわれる時が来るということです。それは単に人間の願望を反映した絵空事ではありません。人生の中でどうしようもできなかったことが死後に解決していただきたいという願いを反映したのではありません。なぜ絵空事ではないことがわかるのでしょうか。それは私たちはキリストと出会っているからです。生きて働いておられる神の業を体験しているからです。自分の内なる願いや思いを越えたところでキリストと出会い、神の業を見ているからです。それは特別に大きな奇跡を体験したというようなことに限りません。普通に聖書を読み祈り、礼拝を守る日々にあって、気がつくと、キリストが共にいてくださる、キリストが導いてくださっている、その小さな体験が積み重なっていくのです。信仰が知的理解や形式的なあり方でなく、素直に神を求める時、おのずと神は出会ってくださるのです。 

<慎んで生きる> 

 神と出会っている者は、万物の終わりの時が来ることを知っています。そんな私たちにペトロは語ります。「身を慎んで、よく祈りなさい。」慎んで祈る、というのは厳粛にとか、礼儀正しくということではありません。この部分についてルターは「裸になって祈りなさい」と言っているそうです。終わりの時を思えば、周りの目を気にして自分を取繕うことはできなくなります。祈りにおいても真摯にならざるを得ません。神の前で、素直に思いを注ぎだす祈りになります。竹森満佐一先生が紹介されていましたが、ペトロはここで、かつてゲツセマネで、主イエスが血のような汗を流して祈られている時、横で眠りこけていた自分を思っていたのではないかという人があるといいます。ペトロは、ゲツセマネで、そのあと何が起こるか分かっていなかったのです。神の偉大な業がなされることを知らなかったのです。だから眠りこけてしまった。ルカによる福音書では「悲しみの果てに眠り込んでいた」と記されています。ペトロたちは、これから不穏なことが起こることは予感していたかもしれません。イエス様はご自身の死を覚悟されているようで、自分たちが考えていたような形で、主イエスがイスラエルの王となって、神の国が建てられることができないかもしれない、という不安があったかもしれません。そんななんともいえない悲しみの果てに眠り込んでしまったのです。私たちも終わりの時の希望、神がすべてを完成してくださるという希望がなければ眠り込んでしまうのです。霊的に目覚めていられないのです。この世のことで疲れてしまって、眠り込んでしまうのです。しかし、終わりの時が来ることを知っている者は、目覚めて、身を慎んで、神の前で心素直に心を注ぎだす祈りをするのです。 

 そしてまた「心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」と語られます。愛し合うというとキリスト教においてはいたって当たり前のことのように考えます。そしてまたその愛は、優しく温かくすべてを受け入れる愛のように考えられます。たしかに主イエスは、社会からはじき出されていた人々、徴税人や娼婦を受け入れられました。共同体から排除されていた病の人を受け入れられました。しかし、主イエスは温かい心で罪人や病の人を受け入れられたのではありません。そこには戦いとも言うべき、厳しさがあったのです。「心を込めて」という言葉は深くとか、緊張をして、というニュアンスがあります。そして罪を覆うというのは、まあまあと罪を咎め立てず、なかったことにするということではありません。赦すということです。罪を見なかったことにする、咎め立てないということではありません。罪は罪として明らかにして、赦すということです。赦しには痛みが伴います。その痛みをもって愛し合うということです。それが緊張感を持って愛し合うということです。そしてまた私たちがなあなあで罪をいい加減にしていても、終わりの時、たしかに裁きがあります。個人の罪も、共同体の罪も明らかにされます。その終わりの時を迎える緊張感を持って、愛し、赦し、歩んでいくのです。 

 その緊張感の中で、私たちは為すべきことを示されます。そして為すべきことのための賜物を私たちはすでにいただいているのです。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」そうペトロは語ります。私たちは賜物においてもついつい人と比べてしまいます。あの人のようなことはできない、こういうことができたら教会の役に立つのに自分には無理だ、そう思ってしまいます。しかし、必要な賜物はすでに与えられているのです。また、苦手だと思っていたことも、神の必要のために神が訓練してくださり、用いてくださるのです。その結果、最初から得意だった人とはまた違った形で良い働きができる場合もあります。得意なことであれ、不得意なことであれ、それは神の恵みを管理するために用いるのです。自分がほめられるため、自己実現のために用いられるのではありません。とてつもない才能や能力のある人が破滅していくということはこの世でよくあることです。しかし、神から与えられた賜物を、神の恵みのために、つまり誰かの救いのために用いるならば、自分もまた他の人も満たされるのです。管理をするということは、コントロールするということです。自分に与えられたものを感謝し、善く用いるのです。それが神から与えられたものであることをわきまえ謙遜になって用いるのです。賜物によって為したことを自分の手柄のように高ぶることなく、いっそう神にへりくだって生きる時、私たちも、また周囲の人々も神の恵みの内に喜びに満たされるのです。  

 

 

 

 


ペトロの手紙Ⅰ第4章1~4節

2021-09-19 14:53:02 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年9月月19日日大阪東教会主日礼拝説教「あなたの残りの生涯」吉浦玲子 

<罪の世ゆえの苦しみ> 

 苦しみということをペトロは手紙の中で、繰り返し語っています。クリスチャンであれ、ノンクリスチャンであれ、生きている限り苦しみにあいます。二年前、高齢者が運転する車が暴走して多くの死傷者が出た事件がありました。運転をしていた、つまり加害者の老人は、かたくなに車の欠陥のためであると主張し、自らの過失を認めませんでした。しかし、最近のニュースによれば、ようやく裁判が終わり、判決が出て、原因は加害者の過失であるとされ、加害者の男性に実刑が言い渡されました。それに対して、加害者は控訴せず、刑を受けることが確定しました。事件で、愛する家族を失った被害者の男性がその結果をうけて、コメントを発表されていました。この交通社会の中で、だれもが被害者にも加害者にも遺族にもなりうるけれども、だれもがそのどれにもなってほしくない、また、加害者を中心に関係者への誹謗中傷が過熱してしまったが、そのような誹謗中傷のない社会になってほしいといった、たいへん冷静でしっかりした言葉がありました。考えさせられたのが、亡くなった家族への思いの中で「(亡くなった)二人の愛してくれた僕に戻って生きたい」という言葉があったことです。事件から二年の歳月の中で、かつて妻と子供から愛されていた自分とは違う自分となっていた、とその男性は感じておられたのです。しかし、これからは亡くなった二人に愛されていた元の自分に戻りたいという言葉に深い重みを感じました。苦しみの重さを感じました。突然、妻と子供を失なうという悲しみに見舞われ、その事件の重大性ゆえいやが応にも世間の注目を浴び、被害者であるにもかかわらずさまざまな批判も受け、なかなか進まない原因究明や裁判の中、自分の非を認めない加害者へのいたたまれない思いもあったと思います。様々な意味での長い闘いの中で、自分自身が、かつて妻や子供に愛されていた自分ではない自分になっていた、その心の中は当事者でなければ到底分からないことだと思いますが、その苦しみの深さはたいへんなものだったであろうと思います。自分が自分ではなくなってしまうような苦しみ、悲しみや怒りや絶望といったさまざまな思いの中で、ある部分、心を鋼のようにして戦って来られたと思います。自分で自分の心を固くして戦って来られた、そこに苦しみがあったと思います。それまで普通に笑ったり泣いたりしていた柔らかい心、愛されていた自分から遠く離れていた、その苦しみを思います。愛されていた自分に戻りたい、そこに人間を変えてしまう苦しみの深さを思います。 

 ペトロは人間の苦しみというものを、この世の罪の問題の中で語ります。人間の罪、社会の罪ゆえに苦しみはあるのだと。暴走事故の被害者の遺族の苦しみは、単に一人の老人の過失や自分の非を認めない頑迷さゆえに生じるのではないでしょう。事件のすべてを取り巻く社会のあり方、この世の人間のさまざまな感情、矛盾、そういったすべてのなかに沈む人間の深い罪とかかわります。 

 「キリストは肉に苦しみをお受けになった」そうペトロは語ります。この肉というのは、肉体ということではなく、肉体を含めた、この世における存在そのものということです。キリストは確かに、生身の体に釘を打ち込まれ、血を流され、苦しまれました。同時に、人々の嘲笑に晒され、弟子たちにも裏切られ、苦しまれました。肉というのは、罪ある世における人間存在そのものとも言い代えられます。この罪の世における存在は苦しみを受けるのです。この世界に罪が満ちていなかったら、罪のないお方が苦しまれる必要はなかったでしょう。また、この罪の世界に、周りと同じように罪を犯しつつ生きていれば、苦しむことはなかったのです。これは私たちにも言えることだとペトロは語ります。 

 「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。」 

 キリストを信じる者もまた肉に苦しみを受けることになる、罪のこの世界で苦しむことになる、その心構えをもって武装しなさいとペトロは語ります。通常、武装と言いますと、相手を攻撃するための備えをするものです。こちらから先制攻撃はしない防衛のためであったとしても、攻撃された時、反撃できるだけの戦力を持ちます。武装とは本来そういうことです。しかしここでいう武装は、苦しむことをもって武装せよというのです。苦しみを与えるものに対して、反撃をしたり議論をするわけではないのです。苦しみを忍耐する、それが武装なのだとペトロは語ります。 

<罪とのかかわりを絶てるのか> 

 そして罪なきキリストが苦しみを受けられたように、私たちも苦しみを受けます。そしてそれは罪とのかかわりを絶った者だからだとペトロは語ります。先ほど申し上げましたように、この罪の世と同調して生きていれば苦しみはありません。もちろん自らの罪による苦しみはあるかもしれません。またこの世の不条理や不正によって苦しむことはあるでしょう。しかし、聖書が語る苦しみとは、なにより罪による苦しみなのです。しかしまた、不思議なことに、その罪を自分から絶ったとき、むしろ外から受ける苦しみは深まるのだというのです。罪とかかわりを絶った者ゆえ苦しみを受けるとペトロは語ります。罪を犯せば苦しみ、また罪を絶った者ゆえ苦しむというのです。 

 しかしまた、ここで私たちは立ち止まります。私たちはキリストのように、罪とのかかわりを絶った者と言えるでしょうか?洗礼を受けて、神の恵みの内に生かされながら、なお罪を犯しつつ生きている者ではないでしょうか。だからこそ私たちは礼拝の冒頭で懺悔の祈りをささげるのです。もちろんこの罪の世界に生きる時、自らに非のないことのゆえに苦しむことはあるかもしれません。しかしだからといって、私たち自身が罪とのかかわりを絶っているとは言い難いのではないでしょうか。 

 「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像崇拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です」とペトロは語ります。つまり欲望に引きずられ、神ではないものを神として生きていたというのです。しかしクリスチャンになったからといって、完全に欲望から自由になっているのか、神以外のものを神とはいっさいしていないといえるのでしょうか。神以外のものを神より大事にしていることがまったくないとは言えないと思います。 

 そもそも聖書は、人間の行いにはいっさい期待していないのです。人間が自分の力で罪から逃れられるなどとはまったく考えられていないのです。アダムとエバ以来、人間の弱さ愚かさを、神はよくよくご存じなのです。 

 さきほど、「武装」という言葉が出てきました。この武装とはエフェソの信徒への手紙6章に出て来た神の武具を身につけるということでもあります。人間の力で罪から逃れられることはないのです。エフェソの信徒への手紙の6章10節に「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」に始まる言葉がありました。曰く「神の武具を身につけなさい」と。神の武具とは何か?それは「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい」とあるように、真理の帯、正義の胸当て、福音を告げる準備の靴と言われています。さらに信仰の盾、救いの兜、霊の剣をもてと言われます。しかし、真理の帯にしても、正義の胸当てにしても、それは私たちが自分の手で入れる真理や正義ではないのです。神からいただくものです。信仰の盾も、救いの兜も、神のものです。霊の剣も、自分で修行して剣の使い手になるのではありません。神に依り頼み、聖霊によって主なるイエス・キリストからいただくものです。 

<愛されている自分へ> 

 自分には何もない、自分にはまったく力はない、罪に抗うことはできない、そのような神への徹底したへりくだりによって、信仰の武具は与えられます。自分に多少なりとでも力があると思う時与えられません。自分は聖書をよく知っている、良いことをたくさんしている、だから罪から逃れられるなどということはまったくないのです。節制して欲望をコントロールできている、信仰一筋に生きている、などと自負を持つこと自体が罪の深さを知らないことの現れです。そもそも自らの行いによって神の裁きから逃れられると思うことほどの罪はありません。どれほど柔和な態度で善い行いを積み重ねていたとしても、自分の行いに頼ること以上の傲慢はありません。それはキリストの十字架を愚弄することです。 

 そういう私自身、自分の業にこだわってしまうことがあります。その結果、あれもできていない、こういうことじゃだめだというような、何か焦りのようなものに追い立てられます。人には祈れと言いながら、十分に祈れていない、御言葉の前に立てていないという罪悪感のようなものに包まれるときがあります。そして自分が腹立たしいようなふがいない気持ちになります。しかし、あれもできていない、これもダメだという思いというのは結局、自分に依り頼んでいるのだと思います。肝心なところで、神にゆだねきれていない。キリストの十字架への信頼がないということだと思います。そしてそれは、十字架の恵みへの感謝がないということだと思います。 

 神の恵みへの感謝というのは、今自分が、そこそこの生活ができているとか、病や試練はあっても、どうにか守られていると感じる感謝もあります。それも大事なことなのですが、それ以上に、深いところで、神が自分と出会ってくださることへの感謝というものが大事です。罪深い、どうしようもない自分、その心の中を見たら瓦礫のようなものばかりがちゃがちゃと積み重なっている、しかし、そこにキリストがいてくださる、ほんとうはもっときれいにしたところにキリストをお迎えしたい、もっとちゃんとした自分としてキリストとお会いしたいと思いつつ、なおどうしようもない自分があります。しかしそこになおキリストは来てくださるのです。 

 若くして洗礼をお受けになった方も、私のように中年になって洗礼を受けた者も、あるいは、さらには高齢で洗礼を受けられた方、いろいろおられますが、それぞれにキリストの救いにあずかってからのちの生涯の時間は異なります。しかしそれぞれのこの地上での残りの生涯、何をしたかが問題ではありません。どれほどのことを神がしてくださったか、どれほどキリストが自分と出会ってくださったか、そのことにどれほど感謝ができたか、が問題なのです。その神の恵みを知ることが、神の御心に従うことです。神の御心に従うとは、たくさんの善いことをすることではないのです。欲望に打ち勝って清廉潔白にいきることでもありません。ただただ、キリストに出会っていただき、ただただ感謝をする。キリストと出会うとき、私たちはおのずと謙遜にされます。自分の手の業、良い心がけなど無意味なことだと知らされます。ただただキリストが出会ってくださり恵みにあずかり感謝をする、そのとき、私たちは自らの罪にもかかわらず、そしてまたこの罪の世に関わらず、本当の自分に戻っていけるのです。神に愛されている本当の自分に戻っていけるのです。私たちは残りの生涯、愛されている者として本当の自分に戻っていく道を歩みます。 

 

 


ペトロの手紙Ⅰ第3章10~22節

2021-09-12 16:46:59 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年9月月12日日大阪東教会主日礼拝説教「正しいことのために苦しむとは」吉浦玲子 

<義のために苦しむ> 

 ずいぶん前ですが、広島のイエスズ会聖ヨハネ修道院というところにいったことがあります。新幹線の広島駅から乗り換えて、それほど遠くはなかったと思いますが、初めて行ったので、行くのは少々ややこしかった記憶があります。広島市内ですが、郊外の、自然が豊かにある地域に修道院は建っていました。まだ牧師への献身を志すずっと前で、いろいろ思うところがあって、一人でいって、一泊して黙想をしました。その修道院は純和風の建物で、ミサを行う聖堂は畳敷きでした。一見、修道院と教会とはいうようには見えません。むしろお寺のようでした。その修道院は、広島に原爆が投下された時、被害を受けましたが、倒壊は免れ、幸い、当時いた修道院のメンバーにも重傷者はいなかったそうです。そして続々と助けを求めてやってくる被災者を修道院内に受け入れ、救援活動を行ったそうです。その時の修道院長は医師の資格を持つ人であったので、積極的に重傷者の治療も行ったそうです。当時、イギリスやアメリカといった敵国出身の司祭やブラザーは別の場所に拘留されていて、修道院に残っていたのは当時でいうところの枢軸国側のメンバーだったそうです。それでも、ドイツ人の司祭が、パラシュートで降り立ったアメリカの軍人と勘違いされて暴行を受けそうになったりといった不穏な状況はあったそうです。そのような過去についてはその修道院を訪問した時は知らなかったのですが、その修道院の敷地内を散策していて印象に残ったことがありました。敷地内に、小さな墓地がありました。そこに並んでいる墓標を見ますと、いろいろな国の方の名前が書かれていました。司祭やブラザーとしてこの地にやって来て、広島の地で人生を終えられた方々だと思います。はっきりと国名は覚えていませんが、たしかヨーロッパはもちろん、南米などの地名もあったかと思います。遠いところから来られて、日本で天に召されたんだなあと思いました。まさに日本の地に骨を埋められたのです。生まれ育った国を離れて、遠い遠い島国に来て、現代よりももっと文化は異なっていたであろう地で一生を終えられたことを思うと深い感慨がありました。その時私はまだ洗礼を受けて、二年目くらいでしたけど、ごくごく単純にすごいなあと思ったのです。そもそも私が、クリスチャンホームの出身でもなかったのに、教会に行くようになって、すんなりとキリスト教を受け入れた背景には、出身地の長崎でキリスト教の雰囲気に親しんでいたということも要因としてあります。道を歩くとシスターさんとすれ違うような土地柄で、さらに少し郡部に行けば隠れキリシタンが当時もいたようなところでしたので、キリスト教に対して特に嫌な思いを持っていなかったのです。いやな思いを持っていなかったというより、遠い国から命をかけて伝道に来たり、迫害されても隠れキリシタンとして生きていた人々がいるということを肌身で感じ、ごく単純な意味で、それほど命をかけて熱心に信じていた人々がいたのだから、漠然とキリスト教って良いものだろう、信頼できるものだろうと考えていたと言えます。 

 善を行って苦しむこと、これはペトロの手紙の中で繰り返し語られています。「義のために苦しみを受けるものであれば、幸いです」そうペトロは語ります。原爆の被爆者を助けているのに、暴行を受けそうになったドイツ人司祭もそうですが、義をなしても、報われるとは限りません。むしろ、逆の場合も多々あります。まわりの雰囲気に同調して、場合によっては悪を行なったり、悪を見逃す方が、かえって苦しまない、そういうことがこの世には多いでしょう。 

 一人一人のこの世の人生を考えるなら、善のため、つまり神の義のため、神に忠実に生きるということは、ある意味、ナンセンスなことかもしれません。しかし、ペトロは語ります。「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。」善を行って苦しむ苦しみは、人を救いへと導くからです。善を行うのは自分が救われるためではありません。救いの条件として善行があるわけではありません。私たちはすでに救われているからです。善を行うことは誰かの救いのためなのです。広島の修道院では、被爆前の長年に渡る宣教活動よりも、被爆者を救援した半年余りのほうが、地域の人々にキリスト教が受け入れらる結果となったと言われます。もとより、キリスト教の宣伝のために、救援活動をしていたわけではなく、行きどころのない被災者が次から次に押し寄せて来たので、それに対して修道院側は精いっぱいに対応しただけなのです。被災者に対して、助ける代わりにキリストを信じろと説いたりも、もちろんしなかったでしょう。そういう姿を被災者を始め、地元の人々は見ていたのです。それが自然に「キリストに結ばれたあなたがたの善い生活」を示すことになったのです。 

<キリストの苦しみ> 

 さらにペトロはキリストの受難を語ります。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。」キリストは十字架において、父なる神の裁き、神の怒りをお受けになりました。キリストは、残虐な刑としての十字架刑の肉体の苦しみのみならず、神の怒りを受けるという、それまでの人間がだれも経験したことのない苦しみをお受けになりました。「罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。」正しくない者とは、主イエスを十字架にかけた当時の人々だけでなく、人間すべてです。私たちです。私たちのために正しいお方であるキリストが苦しまれました。「あなたがたを神のもとへ導くためです」そうペトロは語ります。たしかに私たちはキリストの苦しみのゆえに神のもとへ導かれました。罪人であったにもかかわらず、キリストを信じるゆえに神の子とされました。神と共に歩む者とされました。キリストの苦しみは、私たちの救いの源となったのです。 

 19節以降、少し不思議なことが語られています。「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。」ここはさまざまに解釈されるところです。キリストは肉体において死なれ、陰府に降られた。使徒信条に「死にて葬られ陰府にくだり」とある通りです。この陰府の解釈も様々あるのですが、死者の、一時待機所という解釈が考えられます。最終的な終わりの日の裁きののち、天の国に行く者、地獄へ行く者となるのですが、その前の段階の場所ではないかと言われます。ここでペトロが語っているのはノアの時代に箱舟に乗らず洪水で滅びてしまった人々のいる陰府のことではないかと言われます。そしてその陰府に捕らえられている霊に向かってキリストは宣教をなさったというのです。この部分をもって、ある人々は、ノアの時代の洪水で死んだ人々のところにもキリストが行かれるのだから、地上で生きている間、イエス・キリストを信じなかった人々のところへも死後、キリストが行ってくださり、救ってくださると考える人々もいます。いやいや、それはないだろう。もしそうであれば、この世でキリストを信じなくても、死んだ後、陰府で信じれば救われる、などと考える人が出てくるだろうと反対をする人もいます。いろいろな神学的な意見があり、私自身はどちらとも判断できかねます。ただ、言えますことは、死後について、聖書ははっきりと語ってはいない。この世でキリストを信じなかった人々、その中でも、その人生においてまったくイエス・キリストについて聞くことなく死んだ人々もあれば、聞きながら信じなかった人々もあるでしょう。それらの方々が、みな地獄行きであるかというとそれは明確に語られていませんし、逆に、この世で信じなくても、死後、回心のチャンスがあるとも明確には言えないと思います。キリストを信じなかった家族や友人たちがどうなるのか、それはある意味、切実な問題です。ただ言えますことは、死後のことを含め、すべては神のご支配のもとにあるということです。キリストは陰府にまで降られた、この地上でご自身は恥ずべき罪人として死なれ、人間として一番下の扱いをお受けになった、さらにもっと下の陰府にまで降られた。本来は、天におられた神である方が下の下まで降られた、つまり、この世界で、キリストのまなざしからこぼれるものは何もないということです。この地上に生きる時もそののちもキリストはおられるということです。ですからすべてをキリストに委ねるのです。この地上でのことも、そののちのこともキリストにお委ねするのです。 

<苦しみの実り> 

 「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」そうペトロは続けます。ノアの時代の洪水は、洗礼を象徴するものでした。その水をくぐったノアたちは救われました。今や、復活のキリストを信じる私たちもまた、洗礼という水をくぐって救われました。それは単なる肉体の清めではなく、神の正しい良心を求めることでした。人間の正義ではなく、神の正義を求め、神の義を理解できる良心を求めることです。実際、キリストの復活を信じる者は、箱舟に乗ったノアたちのように救われ、洪水の後、箱舟から降りたノアが神を礼拝したように、神と共に生きる者とされました。 

 この世において、キリストは三十歳そこそこで無実の罪を着せられて死んだ哀れな男とみなされました。しかし、そのキリストの苦しみによって、私たちは救われました。いまや「キリストは天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。」天から陰府までキリストの支配の及ばないところはありません。ですから私たちは、恐れません。私たちは善い行いのために苦しむかもしれません。しかし、そこにもキリストのご支配は及んでいます。生まれ育った国を離れ、慣れない生活をし時にはあらぬ誤解を受けることがあっても、また、迫害され隠れて生活をしていても、そこにキリストの支配は及んでいるのです。その一人一人の苦しみはけっして無駄なものではないのです。一人一人の労苦の一秒たりともキリストの支配から漏れることはありません。一人一人の涙の一滴もキリストの心に届かぬことはありません。そして何より、キリストがそのご自身の苦しみによって、この世界をご支配されることになったように、多くの人々が救われたように、私たちの苦しみも、誰かの救いのために用いられるのです。名もなく、郊外の修道院でひっそりと人生を終えた修道士の墓碑を見た私が、キリストへの思いを新たにさせられたように、一人一人の苦しみは、神にあって、必ず実を結ぶのです。 

 ペトロは、そのことを身をもって体験した人物です。十字架刑そのものは、ペトロは逃げていて見なかったようです。しかし、それゆえにいっそうペトロはキリストの苦しみを知っていたともいえます。弟子たちにすら捨てられたキリストの苦しみをペトロは誰よりも知っていたと言えます。しかし、その苦しみは報われたのです。ペトロの手紙Ⅰの第1章で「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」とペトロは語っていました。キリストを直接知らない人々が信仰者として起こされている、その奇跡をペトロは目の当たりにしました。キリストの苦しみの実りをたしかにペトロは見たのです。そしてまた、十字架の時逃げてしまったペトロもキリストの苦しみにあずかる者とされました。尋問され、鞭打たれ、牢に入れられました。しかし、それがただの苦しみで終わらないことをペトロ自身もその人生をもって体験しました。苦しみの実りが美しく実るのを見たのです。私たち一人一人がキリストの喜びの実です。キリストは私たちをご自身の苦しみの実りとして喜んでくださっています。私たちもまたキリストに従い、あらたな実りのために神の前に善を行います。キリストの苦しみに続く時、そこに新たな豊かな実りが起こされるのです。 

 


ペトロの手紙Ⅰ第3章1~10節

2021-09-05 18:48:07 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年9月月5日日大阪東教会主日礼拝説教「命の恵みを受け継ぐ」吉浦玲子 

 「妻たちよ、自分の夫に従いなさい」とペトロは語っています。ペトロは、前の章で、この世の権威、権力者に従うこと、召使、つまり奴隷に対して主人に従うことを促しています。この世の力ある者に従いなさいと言っているのです。その流れの中で、今日の箇所では、妻にとって、当時は絶対的な権力者であった夫に従うようにと勧めています。 

 ペトロの時代、女性の地位は今と比べものにならないほど低かった、低いというより、人間としてカウントされていなかったと言えます。 今日の聖書箇所を読んで、雇用均等世代である私は、正直、すっきりとは受け取れないところがあります。男女平等が一応は叫ばれていて、家族制度も旧憲法下の家長をいただくあり方とは異なっています。一方的に妻に夫に従えということには同意しかねるのです。しかしここは、先ほど申し上げましたように、当時の社会のあり方を基盤にして語られています。主イエスがイスラエルを植民地としていたローマを倒すレジスタンス運動を起こされなかったように、ペトロも皇帝にたてついたり、奴隷に対して自由を得るために蜂起せよとは語りませんでした。そして妻たちに対しても、男女同権を主張するようには語りませんでした。 

 私たちは今ある社会の中で、その権力の構造の中で、生きていきます。理不尽なこと、納得できないことが多々あります。しかし、主イエスを信じる者は、たしかにこの世界で生きながら、実際のところ、すでに別の世界で生きています。すでにイエス・キリストのゆえに、私たちは天に本籍をいただき、天につながれて生きています。いま私たちが生きている家庭、社会、会社、国家はかりそめのものであると考えます。私たちはこの世に生きながら、すでに別のところ、すなわち神の国の住人です。しかし、だからこそ、今、神によって生かされているこの世においても、私たちは誠実に生きていくことが求められます。 

 逆に言えば、神への誠実は、今現実の目の前にある自分が仕えるべき人や社会や組織への誠実な態度によって現されます。妻たちにペトロは言います。夫がキリストを信じない者であっても夫に従えと。それは前の章で異教徒の間で立派に生活しなさいと言われていることと同じです。私たちのこの世における誠実な態度が、相手を神へと導くことになるというのです。そしてその誠実さというのは真面目さとか、杓子定規な律法的な正しさではなく、神への誠実さそのものに基づくものです。神への誠実のゆえに目の前に人に対しても出来事に対しても誠実にならざるを得ないのです。神に従う者はその日々においても誠実に生きるのです。理不尽な相手に対しても、あまり面白くない仕事であっても、神が与えられたゆえに、誠実に向き合うのです。 

 「神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです」とペトロは語ります。純真な生活というのは混じりけなく真実に神を畏れる生活ということです。学生の頃、家庭教師のアルバイトをしていた先の家のお母さんが、ある宗教に入っておられました。かなり熱心でした。お子さんと勉強が終わって食事をいただくときも、熱心にお母さんは宗教の話をなさっていました。お手洗いをお借りするとお手洗いにもその宗教のパンフレットが置かれていました。それほど熱心なのに、お父さんやお子さんたちはまったくその宗教に興味をもっておられませんでした。家族同士でも、それぞれの信仰には口を挟まないという感じではありましたが、熱心なお母さんに対して、他の家族はひややかであったともいます。しかし、お母さん自身は熱心に伝道はなさっていたのです。今考えますと、親切で気さくなお母さんで学生だった当時の私にはありがたかったですけれど、トイレにまでパンフレットがぶら下げてあるのは、家族としてはちょっとうんざりだったかもしれません。その信仰はキリスト教ではありませんでしたが、そのお母さんにしてみたら、ご自分では信じている神を畏れる生活をしていたつもりかもしれません。しかし、ペトロがここで勧めている「純真な生活」とはトイレに伝道用のパンフレットをつりさげたりするような熱心さではありません。聞かれてもいないのに、たびたび聖書の話をすることでもありません。日々に、神を畏れる姿勢がその人から見えるということです。家ではほとんどキリスト教や聖書の話はしないけれど、礼拝はきちんと守っている、これみよがしに聖書を開いたり祈ったりはしないけれど、なんとなく日々、御言葉を読み祈っているようだ、そのような感じはおのずと伝わっていくのです。 

 ペトロは「あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。」と語ります。ここをさらっと読みますと、良い妻は、派手な格好をせず、柔和でしとやかであれと言われているようです。実際、教会によっては、女性が派手な格好をすることをたしなめるところがあります。赤い口紅をつけていたら先輩の女性に叱られたと聞いたことがあります。実際のところは、服装のあり方は、地域や年代、教会の雰囲気によるところが大きいと思いますが。ただもちろんここでペトロがいいたいのは、礼拝におけるドレスコードの話ではなく、内面が大事だということです。口紅の色や髪型の問題ではなく、女性は内面によって装えというのです。とはいえ、ここで語られる「柔和でしとやか」という言葉は、性別や年代によって受け取り方が異なるかもしれませんが、現代では女性を古い固定概念で縛る言葉と受け取られるかもしれません。特にしとやかと訳されている言葉には違和感を持たれるかもしれません。クリスチャンの妻はしとやかでなければならないのか。しかしこの「しとやか」と新共同訳で訳されている言葉の元となっているギリシャ語は、「静かな霊」(quiet spirit)という意味のギリシャ語です。つまりここは「柔和で静かな霊」を内面的に持てということです。柔和で静かな霊とは、言ってみれば、キリストの霊です。前回もお話ししたように、主イエスは十字架におかかりになるときも、権力者たちに従われました。最後まで柔和で静かなお方でした。「メシアだったらそこから降りて見ろ」と侮辱する人々に対して十字架の上で静かにしておられました。妻たちもそのようであれ、とペトロは語っているのです。キリストを内にもって歩めということです。上品そうに口数少なくしていれば良いということではありません。キリストを内に持ち、キリストに倣って歩むのです。 

 ところで、妻に対して、髪の飾りや服装の言及があるのは、女性が、どうしてもおしゃれにかまけがちだから敢えてペトロは言っているのでしょうか。そういう側面もあるかもしれません。しかしまた同時に、女性は本人の意思に関係なく、どうしても外面を求められる存在であることとも関係すると思います。特に聖書の時代、女性の内面など問題とされていなかったともいえます。夫から見て、満足のできる外面、つまり容姿や服装、態度を求められ、内面的なことは求められなかった存在であったといえます。その女性たちに、内面が大事だと述べているのです。当時、その内面など問題とされなかった女性たちの内面を神は深く顧み、支えてくださっているということです。女性も、一人の人間として神の前に立つのだということが語られています。そしてそれは旧約聖書の時代から変わらぬことなのだと、アブラハムの妻のサラをとりあげて語っているのです。 

 そして最初に申し上げましたように、2章から、ペトロは、当時弱い立場にあった人々へ語っているのですが、これは、現代に生きる私たちすべてに言えることです。夫であれ妻であれ、庶民であれ、権力者であれ、皆、キリストを内に持ち、キリストに倣って歩むのです。 

 そしてまた、夫たちに対してもペトロは語ります。夫たちへの言葉は短いですが、むしろ妻たちに対してより、厳しい言葉が語られます。「妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを受け継ぐ者として尊敬しなさい」と語っています。当時、妻に対して絶対的な権力を持っていた夫に対して、妻は弱い存在だとわきまえて一緒に生活をしなさい、尊敬しなさいと語っています。弱い者に対して力で抑え込むなと言うのです。いやむしろ我が家は妻の方が強いというところもあるかもしれませんが、大事なことは「命の恵みを共に受け継ぐ者」だということです。神の前にあって、キリストのゆえに、力が強かろうが弱かろうが、共に命の恵みを受け継ぐ者同士なのだというのです。キリストの十字架のゆえに、罪に死ぬのではなく、命に生きる存在同士とされたのです。これは弱い人だから大事にしましょうという力ある者が上から目線でいうこととは異なるのです。薄っぺらなヒューマニズムで弱い人を助けましょうということとは根本的に異なるのです。キリストの十字架の前に共に立つ者として尊敬をするということです。 

 さらにペトロは語ります。「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」権力者も庶民も、主人も奴隷も、夫も妻も、どのような職業の人も、多くの人と共にある人も孤独な人も、愛し合い、憐れみ深く謙虚に生きなさいというのです。これは当たり前の人間のあり方のようです。しかし、実際のところ、キリストなしではなしえないことです。信仰者同士だって気の合わない人はいます。意見が対立する人はいます。まして悪を為す人、侮辱する人に対して、私たちは祝福を祈ることは本来できません。キリストが十字架の上で、ご自分を侮辱する人々のために祈られた。そのことのゆえに私たちは祈ります。いや実際は祈ることは難しいのです。キリストのようには到底祈れません。今日の聖書箇所の最後のところはさらっと読むととても美しい言葉ですけれど、たいへん厳しことが語られているのです。厳しいことですが、悪を為す人、侮辱する人々の祝福を祈るのは我慢して、修行のように祈るのではないのです。私たちがすでに祝福を受け継ぐために召されているから祈るのです。私たちはすでにありあまるほどの神からの恵みをいただいています。さらに神の子として神の財産を相続する者でもあります。その豊かさと希望を与えられているゆえに、他者の祝福を祈るのです。自らの祝福を信じているゆえに他者の祝福を祈ることができるのです。何より私たちはキリストをいただいています。そしてまたキリストのものとされています。すでにキリストという貴い宝を私たちは得ています。その宝ゆえに私たちは他者の祝福を祈ります。