2021年9月月26日日大阪東教会主日礼拝説教「万物の終わり」吉浦玲子
<ゴールとは>
昔、ソフト開発の仕事をしていたとき、開発が当初の予定より遅れ遅れになって、たいへんだったことがあります。「だったことがあります」と言いましたが、実際は、ほとんど毎回そうだったのです。だいたい新規の技術をいますから、そもそも開発に必要な時間が正確には見通せないなかで、営業的な必要から終わりの日程だけが決まっているような場合が多かったのです。そうこうしているうちに、開発が遅れ、結局、製品自体の発売が遅れることになって、ソフト開発のスケジュールも再度調整されるということがありました。スケジュールが伸びて、開発が楽になったともいえるのですが、むしろ、精神的にはしんどい面がありました。ゴールに向かって走っていたのに、ゴールがうしろに下げられて、モチベーションがかえって落ちてしまうということがありました。人間は、ゴールに向かって走るものです。ゴールという目標がなければ、日々に張り合いがありません。片や、子育てや介護というものは、ゴールが見えない働きですから、精神的に辛いところがあります。
さて、聖書は明確にゴールを示しています。それは終わりの時、裁きの時です。段落の少し途中からの言葉になりますが、「彼らは生きている者と死んだ者とを死んだ者にも福音が告げ知らされたのは」という部分は3章の19節以降のことと関係をします。ノアの洪水の時死んだ人々のところへ主イエスが宣教しに行かれたということです。私たちはこの地上においてキリストを信じようと信じまいとやがて神の前に立ちます。それは、「肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」とあるように、神の前で問われることは、この世でどれほどいいことをしたとか悪いことをしたとか、たくさん祈ったとか、教会のために尽くしたということではなく、神との関係がどうであったかということです。神の働きや御心にどれほど感謝していたのかということです。しかし、実際のところ、この世を生きていくとき、神のことよりも人のことを気にした方がうまくいくのです。互いに思いやりを持って、自分のわがままばかり言わず節度を持って生きていく、これはクリスチャンでなくてもやっていることです。社会や組織といった少し大きな集まりとなると、様々な考えや利害を調整して物事を進めていきます。これは実際、この世においては重要なことです。そうしなければこの世界はやっていけません。教会においてさえそうであるかもしれません。御心よりも人間の思惑に配慮した方が、うまくいくことがあるかもしれません。
しかし、それでうまくいっているようで、どうにもならない時が来るのです。個人においても社会においてもどうにもならなくなるのです。人間が互いの思いやりや、さまざまな利害の調整でどうにかやっていく、それが立ち行かなくなる時が来るのです。それは個人における肉体の死の時であり、またペトロが語る「万物の終わり」の時です。私たちはともすれば死んだ後は、天国に行って、そこで先に天に召された人と再会して平和に暮らすと考えています。しかし、「万物の終わり」が来るのです。ヨハネの黙示録に記されている、新しい天と地が現れるのです。その新しい天と地が現れる前、今ある世界は終わるのです。それは滅亡ではありません。神が創造されたすべてのものが終わりを迎え、新しくされるのです。終わりの時、私たちの肉体も甦りますが、世界も新しくされます。それは神の御業の完成の時です。
<なぜ信じられるのか>
しかし、そういう荒唐無稽のことを、どうして信じるのでしょうか?これから起こることですから、誰も実際には見てはいないのです。科学的にはいつかは太陽系が終焉することは分かっています。しかし、そういことと、神の御業の完成とは異なることです。また、一方で、旧約においても新約においても、かつて預言者や使徒たちが幻で終わりの時について見たことは聖書に書かれています。実際のところ、ペトロやパウロのたちの時代は、その万物の終わりの時が、自分たちが生きている間に来ると考えられていたようです。そういう切迫感があったのです。しかし、2021年現在、まだ終わりの時は来ていません。預言者たちが見た幻は、何か宗教的陶酔のうちにみた幻覚に過ぎないのでしょうか。
よくお話しすることですが、私自身が洗礼を受けた頃、終わりの時とか体の蘇りとか天国といったものはあまり深くは考えていませんでした。とにかく、今、生きている、この人生において楽になりたい、救われたいと願って洗礼を受けました。実際、当時はそれで十分だったのです。そう言う思いで洗礼をうけたことに、まったく後悔はありません。しかし、キリストの救いということを深く考える時、もっと大きなもの、この地上の命を越えたものを考えざるを得ないことに気づきました。単にこの世を良く生きるためのよすが、良い人間として生活していくための道徳的規範としてキリスト教を考えるならば、キリストの復活も再臨も終わりの時もいらないのです。心が疲れた時、心を軽くしてくれる言葉、恵み深い言葉で慰められ、元気になるために聖書を読むのであれば、終わりの時は要らないのです。しかし、実際のところ、それだけでは、人間はほんとうには救われないのです。人生の苦しみも悩みも解決しないのです。
ペトロはずっと苦しみについて語っています。この世にキリストの教会ができてから
300年ほどは、キリスト教は迫害を受けていました。もちろんペトロたちの時代もそうでした。このペトロの手紙が送られた先は特に、キリスト教がマイノリティで、キリスト者が迫害を受けていた地域でした。迫害によって命を落とすこともあり得ました。実際、少し前まで読んでいました使徒言行録には、使徒たちが命からがら伝道をする姿が描かれていました。しかし、2000年後の今の世界を見ても、迫害だけではない、さまざまな苦しみというものが私たちの日々にもあります。その苦しみのすべてが、私たちの生きている間に解決できるものではありません。どうにもならないことがあり、なぜなのかと思いつつ苦しむ苦しみがあります。人には言えない、心の中にずっとしまって、それこそ墓場まで持っていくような苦しみもあります。しかし、万物の終わりの時があるということは、そして神の完成の時が来るということは、私たちの命が死では終わらないということです。私たちの苦しみが完全に取り去られ、涙がぬぐわれる時が来るということです。それは単に人間の願望を反映した絵空事ではありません。人生の中でどうしようもできなかったことが死後に解決していただきたいという願いを反映したのではありません。なぜ絵空事ではないことがわかるのでしょうか。それは私たちはキリストと出会っているからです。生きて働いておられる神の業を体験しているからです。自分の内なる願いや思いを越えたところでキリストと出会い、神の業を見ているからです。それは特別に大きな奇跡を体験したというようなことに限りません。普通に聖書を読み祈り、礼拝を守る日々にあって、気がつくと、キリストが共にいてくださる、キリストが導いてくださっている、その小さな体験が積み重なっていくのです。信仰が知的理解や形式的なあり方でなく、素直に神を求める時、おのずと神は出会ってくださるのです。
<慎んで生きる>
神と出会っている者は、万物の終わりの時が来ることを知っています。そんな私たちにペトロは語ります。「身を慎んで、よく祈りなさい。」慎んで祈る、というのは厳粛にとか、礼儀正しくということではありません。この部分についてルターは「裸になって祈りなさい」と言っているそうです。終わりの時を思えば、周りの目を気にして自分を取繕うことはできなくなります。祈りにおいても真摯にならざるを得ません。神の前で、素直に思いを注ぎだす祈りになります。竹森満佐一先生が紹介されていましたが、ペトロはここで、かつてゲツセマネで、主イエスが血のような汗を流して祈られている時、横で眠りこけていた自分を思っていたのではないかという人があるといいます。ペトロは、ゲツセマネで、そのあと何が起こるか分かっていなかったのです。神の偉大な業がなされることを知らなかったのです。だから眠りこけてしまった。ルカによる福音書では「悲しみの果てに眠り込んでいた」と記されています。ペトロたちは、これから不穏なことが起こることは予感していたかもしれません。イエス様はご自身の死を覚悟されているようで、自分たちが考えていたような形で、主イエスがイスラエルの王となって、神の国が建てられることができないかもしれない、という不安があったかもしれません。そんななんともいえない悲しみの果てに眠り込んでしまったのです。私たちも終わりの時の希望、神がすべてを完成してくださるという希望がなければ眠り込んでしまうのです。霊的に目覚めていられないのです。この世のことで疲れてしまって、眠り込んでしまうのです。しかし、終わりの時が来ることを知っている者は、目覚めて、身を慎んで、神の前で心素直に心を注ぎだす祈りをするのです。
そしてまた「心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」と語られます。愛し合うというとキリスト教においてはいたって当たり前のことのように考えます。そしてまたその愛は、優しく温かくすべてを受け入れる愛のように考えられます。たしかに主イエスは、社会からはじき出されていた人々、徴税人や娼婦を受け入れられました。共同体から排除されていた病の人を受け入れられました。しかし、主イエスは温かい心で罪人や病の人を受け入れられたのではありません。そこには戦いとも言うべき、厳しさがあったのです。「心を込めて」という言葉は深くとか、緊張をして、というニュアンスがあります。そして罪を覆うというのは、まあまあと罪を咎め立てず、なかったことにするということではありません。赦すということです。罪を見なかったことにする、咎め立てないということではありません。罪は罪として明らかにして、赦すということです。赦しには痛みが伴います。その痛みをもって愛し合うということです。それが緊張感を持って愛し合うということです。そしてまた私たちがなあなあで罪をいい加減にしていても、終わりの時、たしかに裁きがあります。個人の罪も、共同体の罪も明らかにされます。その終わりの時を迎える緊張感を持って、愛し、赦し、歩んでいくのです。
その緊張感の中で、私たちは為すべきことを示されます。そして為すべきことのための賜物を私たちはすでにいただいているのです。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」そうペトロは語ります。私たちは賜物においてもついつい人と比べてしまいます。あの人のようなことはできない、こういうことができたら教会の役に立つのに自分には無理だ、そう思ってしまいます。しかし、必要な賜物はすでに与えられているのです。また、苦手だと思っていたことも、神の必要のために神が訓練してくださり、用いてくださるのです。その結果、最初から得意だった人とはまた違った形で良い働きができる場合もあります。得意なことであれ、不得意なことであれ、それは神の恵みを管理するために用いるのです。自分がほめられるため、自己実現のために用いられるのではありません。とてつもない才能や能力のある人が破滅していくということはこの世でよくあることです。しかし、神から与えられた賜物を、神の恵みのために、つまり誰かの救いのために用いるならば、自分もまた他の人も満たされるのです。管理をするということは、コントロールするということです。自分に与えられたものを感謝し、善く用いるのです。それが神から与えられたものであることをわきまえ謙遜になって用いるのです。賜物によって為したことを自分の手柄のように高ぶることなく、いっそう神にへりくだって生きる時、私たちも、また周囲の人々も神の恵みの内に喜びに満たされるのです。