大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

2014年1月19日マタイによる福音書1:1-17

2014-03-25 13:53:20 | マタイによる福音書

 大阪東教会 2014年1月19日主日礼拝説教

マタイによる福音書1章1節~17節

「祝福の系図」    吉浦玲子伝道師

私たちはすでに神の祝福の中にいます。「あなたを祝福の源とする」と神はアブラハムにおっしゃいました。神はアブラハムに「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」創世記(12:3)と約束をされた、その言葉通り、今日の日本に住む私たちもまたアブラハムをみなもととする神の祝福の中にあります。私たちは、すでに神の祝福の中に入れられています。

 聖書における祝福、つまり神からの恵みは、ことに旧約聖書においては、創世記1章において「産めよ、増えよ、地に満てよ」と神がおっしゃった祝福の言葉のように、子孫の栄えや作物や財産の豊かさ、長寿などに象徴されるものでした。私たちは本来、そのような祝福を与えられて、神の創造された者でした。 

 しかし私たちは罪によって神の祝福からひとたび遠ざけられました。

 しかしなお私たちがいまふたたび神の祝福の中にあるということ、そのことは、罪からの救いということと合わせて考えられるべきことです。

  このマタイによる福音書の1章のイエス・キリストの系図はアブラハムに、そして全人類に与えられた祝福の系図とも言えますし、そのための全人類の救い、イエス・キリストに至る救いの完成の系図であるとも言えます。

  ところで新約聖書には4つの福音書があります。それぞれに特徴があり、記載内容に違いがあります。マタイによる福音書は、福音書全体が、救いの成就、特に旧約聖書における預言の成就としてイエス・キリストを指し示すことを主眼としていると言われます。つまりこの系図は、旧約聖書からの神の約束の成就を示すというマタイによる福音書の特徴をあらわした意図的なプロローグともいえます。

  またこの系図には王であった人たちの名前も多く見えるのですが、「王」としるされているのはダビデだけです。これはなぜでしょうか。他の王については、たとえばイスラエル王国の黄金時代を築いたソロモンであっても王とは冠されていません。これはダビデの子孫から偉大な王、メシアが現れるという主イエスの時代のイスラエルでの考え方からきています。主イエスこそが来るべきまことの王である。ダビデの再来であり、王の王である、ということをこのマタイによる福音書においては伝えたかったということからきています。

  もう一言申し上げれば、この系図はたとえばルカによる福音書の3章にある系図とはずいぶん異なっています。また旧約聖書の歴史書からわかる王たちの系図との整合性に欠ける部分もあります。だからといって、この系図はいい加減なものである、とはいえません。この福音書の著者は信仰によって、神の霊感によってこの系図を福音書の巻頭に敢えて置いたのです。この系図によって福音書の著者が示したかったのは歴史的な正確さではなく、旧約聖書の成就として、王の王としてメシアとして来られたイエスを伝えることであったのです。たとえばこの系図には「アブラハムからダビデまで14代」「ダビデから14とバビロンへの移住まで14代」というように14という数字が記されています。この14という数字は人によってはダビデを表すものであるといわれます。つまりダビデの子、旧約で約束されたメシアの到来をこの系図は強調したかった。そしてそれはこの福音書全体を貫いている真理であり2000年にわたり教会が伝えてきた福音であります。私たちもまたそれを信仰によって受け取りたいと願います。

さて、この系図の中には、ダビデやソロモンといった偉大な王の名前も見えますが、この系図自体はけっして高貴な素晴らしい血筋を示しているというわけではありません。この福音書の著者は、イエス・キリストの系図を穢れや曇りのない潔白な人々の連なりで記すことはしなかったのです。

  たとえばダビデはバト・シェバというウリヤの妻と人と不倫をします。そのことをもみ消すために夫であるウリヤを策略を使って殺しました。人間としても権力者としてもたいへんな罪です。そのバト・シェバの出来事をこの系図は隠していません。わざわざウリヤの妻によってソロモンをもうけと書き込んでいます。

また、マタイによる福音書はイスラエルの正当な王としてイエス・キリストを指し示す目的もあったとさきほど申しましたが、当時のユダヤ人からみたら異邦人は罪人でした。神から遠い人々でした。イスラエルの正当な王の系図といいながら、この系図の中には異邦人の名もあります。ラハブがそうですし、先月、聖書研究祈祷会で学んだモアブ人であったルツの名前も見えます。つまりこの系図はけっして清廉潔白な、またイスラエル人として高貴な血筋であることを示しているわけではありません。

ちなみに文語訳聖書やいくつかの訳では、この系図は「アブラハムはイサクを生み、だれそれはだれを生んだ」と「生んだ」という言葉で語られているものもあります。この「生んだ」「なした」という言葉は本来的には父親が子をなす、という意味です。法律的に子を得たということです。

  しかし「生む」という言葉でも訳すことの可能なこの系図からは、実際なにか生々しい感じを受けます。まさにここに描かれているのは壮大な時間の流れのなかにある、人間の有り様の生々しい記録でもあります。愚かな人間の痛ましい記録ともいえます。アブラハムが神に導かれて故郷を旅立ったのは紀元前19世紀くらいだったと言われています。アブラハムは信仰の父と呼ばれます。しかしそのアブラハムといえど、けっしてその信仰の歩みは立派なものではなかった。いくたびも失敗をし、罪を犯しました。そのアブラハムから主イエスにいたる長い長い人間の営みの上に、神が働かれていた。神のご計画が着々と進められていた。神の恵みは、愚かな弱い、幾度も失敗を繰り返している人間の上に、途切れることなく注がれていた。そのことをこの系図は示しています。

  さきほどアブラハムは紀元前19世紀ごろ、神に導かれて故郷を旅立ったと申しました。私たちもまた、ひとりひとり、旅をしています。生涯、同じ土地で過ごす人もいますし、いろんな土地を転々とする人もいます。しかし、いずれもひとりひとり、それぞれの人生の時間を旅をしています。人生の旅というとちょっと甘い感じもしますが、やはり私たちは旅をしています。信仰の旅をしています。

  旅といえば「スタンド・バイ・ミー」という映画がありました。少年たちが夏の日に旅をする物語。名作映画と言われています。ご存知でしょうか?10代前半の4人の少年たちがいっしょに行方不明の少年の死体を探しに行くという、ちょっとどきっとする内容の映画でした。4人の少年たちはそれぞれに家庭的にワケありの少年たちでした。そんな彼らがいっしょに旅をしていきます。子供から大人になっていく年頃の少年たちの生き生きとした表情が描かれ、ときにはらはらとする冒険のなかで、彼らのそれぞれの生活における痛みや悲しみが伝わってくる物語でした。その映画の後半だったと思います。少年たちの中のひとり、リバーフェニックスが演じる少年、リバーフェニックスも若くして亡くなった俳優さんですが、彼が演じているクリスと言う少年がいうのです。「僕は一生この町で生きていくんだろうか」

  クリスは貧しかった。家庭の問題も抱えていた。少年は優秀であったにも関わらずその家庭環境から、周囲から良く思われていませんでした。盗みの疑いをかけられたり辛い思いを味わっていた。そのようなどうしようもない環境から出ていくこともなく一生を社会の底辺で埋もれて生きていくのかという感慨がその言葉に詰まっていました。

  その映画を初めて見たとき、私はすでに若くはありませんでした。でもその言葉は胸に迫りました。私自身もまた、田舎の母子家庭で育った者です。貧しい生まれでした。母が和裁の内職をして生活を支え子供を育ててくれたのです。海と低い山に囲まれた狭い土地、家の前には廃坑になった炭鉱のぼた山がありました。窓から外をみてもぼた山に視界を遮られました。子供ながらに、さえない景色だと思っていました。こんなところはいやだ。こんな生活から抜け出したい、そう私は窓からぼた山を見ながら思っていました。そして実際、わたしは抜けだしたのです。都会に行きました。博多や東京や横浜、そしてこの大阪の地でいくばくかの経験をしました。人並みの、多くの人と同様の経験でした。そこにあったのはバラ色の生活だけではありませんでした。もちろん大きな喜びもありましたが、苦い出来事も多くありました。その苦い思いを持ちながら中年になって、12歳のクリス少年のまっすぐな言葉、「僕は一生この町でいきていくのだろうか」を聞いたとき、過去の野心をもっていた自分と現在の自分が重なって二重の意味で悲しかったのです。いまの生活から抜け出せば、どこか遠くに行けば、新しい人生が開ける、そんな思いで旅立っても、こんなはずではなかったということが多々あります。人間の思いで、人間の努力で、どこへいってもそこには必ず失望があるのです。どなたの人生の旅もそうではないでしょうか。最初から最後まで順風満帆なんてことはありえません。

  しかしなお、わたしたちは旅をしていきます。アブラハムのように、またルツのように、ダビデのように。でもその旅はあるときから変わっていきます。それは主イエスと出会ったときからです。そこからの旅における困難は以前とは一見変わりません。しかし、主イエスが共にいてくださる旅となります。私たちはどこへ行くのかわかりません。時に道に迷います。しかしその旅は一人で歩んでいた以前の旅とは全く違います。主イエスによって荷を軽くされ、困難はあっても、がけから転げ落ちたり、一歩も進むことのできない旅ではなくなります。いや万が一、倒れて動けなくなったとしても助け起こしていただける旅です。若い時代に信仰を得られた方は、ひょっとしたらある意味、そのような感覚を持ちにくいかもしれません。最初からイエス様がいっしょだったのですから。しかし振り返ってみてください。主イエスがともに旅の中におられたことを。旅の傍らで支えてくださった方がおられたはずです。それは神の祝福の中にある旅です。

  わたしたちは、これからも旅をしていきます。ひとりひとり行先はわかりません。でも皆が希望へと向かって歩んでいます。それぞれの信仰の完成に向かって歩んでいます。そしてもうひとつ言えることは、私たちの旅は、アブラハムが私たちの祝福の源になったように、私たちもまただれかの祝福の源になるための旅でもあります。

  主イエスに罪赦された者として、新たに生かされている者として、神が私たちを誰かの祝福の源となるように用いてくださいます。この話はときどきすることなのでお聞きになった方もあるかもしれません。ある年配の方が子供時代、少年時代ですが、脊椎カリエスで数年間寝たきりの生活を送っていたそうです。学校にも行けず来る日も来る日も何年もギブスベットに寝ていたそうです。その少年の家に、あるとき見知らぬご婦人が聖書を配りに来られました。そのご婦人は玄関先に聖書を置いて帰られました。その家の奥に病気の少年がいることなんて知らずに立ち去ったのです。寝たきりの少年は退屈だったので聖書を読みました。やがて病が癒され学校に行けるようになりました。そして聖書を読んだ少年は教会にもいくようになり、信仰を得ました。さらに数年後には神学校に行って、その人は牧師になったのです。

  病気をしていた少年のところに聖書を配りに来たご婦人は自分が配ったたくさんの聖書、何十冊何百冊配ったのかわかりません。そのほとんどは顧みられなかったのではないでしょうか。婦人は、その中の一冊を読んだのが寝たきりの少年であったことは知りません。その少年がやがて信仰を得たこと、さらには牧師になったことももちろん知りません。でもその婦人は確かにその少年にとって祝福の源となったのです。

  私たちもまたそのようにして誰かの祝福の源となしていただけます。神がそうしてくださいます。紀元前19世紀に旅立ったアブラハムから続く連綿とした信仰の旅路に、信仰の系図に、私たちもまた参加させていただくのです。私たちが主イエスによってうけた救いと祝福のこと、そのことを私たちは信仰の先輩方から聞きました。私たちもまたそれを手渡します。祝福を手渡すのです。私たちの力で渡すのではありません。神が手渡させてくださるのです。わたしたちひとりひとりはちっぽけなものです。でもそのわたしたちの旅路は祝され、私たちからのちに続く系図のうえにも神の限りない愛と壮大なご計画によって祝福が連なっていくのです。

20130803_154332