大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ヨハネによる福音書19章23~27節

2019-07-19 08:47:22 | ヨハネによる福音書

2019年3月24日 大阪東教会主日礼拝説教 「神の家族~十字架の上の七つの言葉」吉浦玲子

<他者への無関心>

 受難節、十字架の上の主イエスの言葉に聞いています。今日は「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの子です。」という二つの言葉に聞いていきたいと思います。主イエスは十字架の上で七つの言葉を語られたと言われますが、その7つの中で他の言葉が十字架とその救いの業に直結したような言葉であるのに対して、今日のこの言葉は少し異質な印象を与えます。しかしこの言葉もまた神の豊かな救いと慰めに満ちたものです。

 今日の聖書箇所の前半は、少し前に共にお読みしましたルカによる福音書にも出てきました兵士たちが主イエスの服を分け合う場面になっています。服を取る、つまり人間の尊厳をはぎ取り、分け合っているのです。ルカによる福音書より服を分け合う場面は少し詳しく書かれています。4つに分けられる上着は分けて、それぞれが取りました。兵士は4名いたのでしょう。当時、ローマでは兵士は4名一組が最小単位だったといわれます。そこで、縫い目のない下着は分けられないので、誰か一人が取ることになる、誰のものになるのかくじを引いて決めました。これはルカによる福音書で記述されていたのと同様に、詩編22編に記されている「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」という言葉の成就でした。ヨハネによる福音書では、下着に縫い目がないということが書いてあります。ここはさまざまな解釈をされているところです。一説には、縫い目がないのは大祭司の着る服は縫い目がない一枚織りだったところから来ているという解釈があります。十字架の主イエスは大祭司であり、今まさに贖罪の供え物としてご自身を捧げているということを示しているというのです。そういう解釈はさまざまにありますが、なにより注目すべきは、十字架の上で肉体の死を目前にして苦しんでいる者を前にして、その下で人間はその苦しみに無関心で、苦しんでいる者からしたらとことん残酷なことをしているということです。

 もちろん文化も時代も違います。人間の命と言うものへの根本的な考え方も違います。まったく現代の価値観とは違う世界で兵士たちは生きていました。兵士たちにとって十字架につけられる者を見ることは日常的な仕事であって、なんら心を動かされることではなかったかもしれません。そもそも、十字架にかかるというのはローマ帝国への反乱者でした。ローマに盾突く人間などローマの兵士である彼らにとって厄介な存在であり、そんな人間はどうなっても構わないのです。手に入れられるものをさっさと手に入れて仕事を終えてしまいたい、そんな気持ちだったかもしれません。

 人権意識の高い現代にはこのようなことはありえないでしょうか?少しずれるような話になるかもしれませんが、今月、地下鉄サリン事件から24年目を迎えました。若い方はご存じないかもしれません。カルト宗教の集団が地下鉄に毒ガステロを行った事件です。あの24年前、当日、たまたま現場に遭遇したジャーナリストがそのときのことを書いているのを読んだことがあります。道に何人もの人が倒れ苦しんでいた信じられない光景があったそうです。しかし、もっと信じられない光景があったとその人は書くのです。倒れうめいている人や、混乱の中で救護活動をする駅職員や救急隊がいるなかで、足早に、倒れている人の横を通り過ぎて会社に急ぐスーツ姿のサラリーマンたちもいた、と。苦しむ人に関心を示さず、自分の行き先に向かうことだけを考えている人々が無数にいた、と。倒れている人をまたいで急ぐ人々すら多くいた、と。サラリーマンにしてみたら、交通機関が混乱して困った、一刻も早く会社へ、またお得意様のところへ行かなくてはいけない、それだけで頭がいっぱいだったのかもしれません。その状況に遭遇したジャーナリストは倒れている人々をまたいで急ぐ人々は恐怖や混乱でその場から離れようとしたのではなく、むしろ淡々と、自分の日々の職務に忠実に急いでいたと書いていました。テロも恐怖であったが、無表情に先を急ぐスーツ姿の人々も恐ろしい光景だったとその方は書いていました。それを読みながら、私自身、その場にいたらどんな態度がとれるのかわからないと感じました。

サリン事件の現場に限らず、私たちは往々にして苦しむ人のそばで、その苦しみを見ることなく、自分のことだけを考えている、そのようなところがあるのだと思います。本当はすぐそばにいる他者の苦しみを見ることなく、足早に通り過ぎてしまう、あるいは自分は楽しく皆と過ごす、そのようなことは私たちも無意識の内にしているのではないでしょうか。私たちは実際のところ、誰かの服をはぎ取り、その服を分け合っている四人の兵士のように、十字架の上で、そして傍らで、苦しむ人に無関心で、残酷なことをする者なのです。

<神の家族の誕生>

 さて、十字架の下では、そのような人間の罪にまみれた行いがなされていました。十字架上の主イエスはどうだったでしょうか?また今日の後半の場面では不思議なことが記されています。ヨハネによる福音書では十字架のもとには「その母と母の姉妹、クロバの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。」とあります。新共同訳の日本語を見ますと四人の女性がいたと書かれています。しかし、ここの原語は、解釈によってはそこにいた女性は2名とも3名ともとれる書き方になっています。が、さきほどの服を分け合っていた兵士たちが4名であるとすれば、この女性たちも4名と考えて良いかもしれません。つまり十字架の下に、異質な二組の4名のグループがいたと言えるのです。同じ十字架の下にありながら、この二つのグループには違いがあったのです。

後者の婦人たちのグループに主は言葉をかけられます。「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」と言われた。」とあります。つまり、自分の母マリアのそばにいた愛する弟子を指して、母に「あなたの子です」とおっしゃったのです。そしてまた弟子にもこう言われました。「見なさい。あなたの母です。」。自分の母に対して弟子を「息子」だと言い、弟子に対して母を「あなたの母」だとおっしゃいました。そして「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」とあります。つまり実際、主イエスの母とこの弟子は、このとき以降、親子のように過ごしたというのです。

 これは考えてみれば、主イエスが弟子に対して「自分が死んだあと、私の母をよろしく頼む」と言ったのだとも考えられます。母マリアはすでに夫であるヨセフを失っていたと考えられます。そして長男である息子まで失うことになるのです。その母を主イエスは弟子に託されました。そのことがわざわざ記述されていることの意味を教会は長く大事にしてきました。これは単に死にゆく息子が母の行く末を気遣ったというだけの話ではないのです。ここに「神の家族」つまり教会の基が建てられたと考えてきたのです。もちろん教会が教会として活動を始めたのはペンテコステの時からです。しかし、教会はなにより「神の家族」としてその原型を持っているのだと聖書は語るのです。

主イエスは母マリアに対して「婦人よ」と呼びかけています。これは親子としては冷たい言い方にも聞こえます。同じ呼びかけがヨハネによる福音書の2章のカナの婚礼の場面でもありました。婚礼の席でぶどう酒がなくなったことを母マリアは息子である主イエスに伝えました。しかし主イエスは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだきていません。」と答えます。この時の「婦人よ」もずいぶん冷淡だと感じられる言葉です。「わたしの時はまだきていません」と2章で語られた「わたしの時」は十字架の時でした。救い主として、救いを成し遂げる十字架の時を主イエスは語っておられました。主イエスは救い主として語っておられたのであって、相手が母マリアであっても、それは肉親の関係で、息子として語られているのではなかったのです。救い主として語られていた、ですから「婦人よ」と呼ばれたのです。カナの婚礼のときは、まだ主イエスの時である十字架の時はまだ来ていませんでした。しかし、今日の聖書箇所は、まさに主イエスの時でした。十字架の時でした。いまや主イエスは救い主として十字架におられます。救い主として主イエスはふたたび「婦人よ」と語りかけられました。

 救い主によって、いま新しい時が始まるのです。人間が救い主によってひとつとされる時が始まったのです。血のつながりや、気が合うとか趣味が合うとか、利害が一致するということを越えて、人と人とが救い主によって、神によって、まことに結びつく新しい時代の始まりが告げられたのです。これが教会という共同体の原型でした。

<教会は信仰の基>

 ある人がこういうことをおっしゃったそうです。「教会を母として持たないものは、神を父として持つ事はできない。」と。ときどきこういう人がいます。「教会で嫌なことがあって傷ついたので教会にはもう行きません。でも聖書も読んで、お祈りもしています。だから私はちゃんとイエス様に繋がっています。」と。しかしそれは間違いなのです。キリストの体なる教会につながっていなければ、キリストにはつながっていないのです。キリストに繋がっていなければ、父なる神にもつながっていないのです。そしてキリストの体なる教会は、ひとりではなく、共に、キリストを仰ぐのです。十字架のもとに4人の女性が集ったように、救い主であるイエス・キリストを共に仰ぐ共同体です。それが神の家族なのです。

 教会にもさまざまな教会があります。和気あいあいとした教会もあれば、どちらかというと教会員同士のつながりが希薄な教会もあります。礼拝で隣に座っている人のことは何も知らないという場合もあります。しかし、教会が教会である核は共に礼拝を捧げ、共に聖餐にあずかることです。共に十字架のイエス・キリストを仰ぐのです。教会の雰囲気が和気あいあいとしていても、一見、冷たいようなクールな感じであっても、そこに礼拝を何より大事にし、聖餐を心から感謝して共に受ける人々があるとき、それは教会でなのです。人間的な親しさを越えて、共に十字架のキリストを仰ぐのが神の家族なのです。

 以前もお話ししたことがありますが、東北の大震災ののち、会堂が津波で流された教会がありました。会堂もまわりもぐちゃぐちゃになって何もなくなってしまった。しかし、人々は、がれきで十字架を教会の跡地の地面に建てました。そこそこ大きなもので新聞にも写真が載っていたと記憶します。そのがれきの十字架のもとで人々は祈りました。その姿はまるで今日の聖書箇所のように十字架の主イエスのもとにいる4人の婦人たちのようです。会堂もなくなり、集会を継続するのも困難な中にも、主イエスの十字架を共に見上げるとき、そこには神の家族があり、キリストの教会があるのです。

<十字架の慰め>

 そして主イエスの十字架を見上げる時、そこには本来は悲惨な流血と死があるはずなのですが、慰めがあるのです。今日の場面で言えば、母マリアは息子に先立たれます。親が、ことに自分の腹を痛めた母親が子供を失うというのは絶望的なことです。しかも母マリアの息子は、病気や事故ではなく、見るも無残でみじめな死を遂げるのです。しかし、「婦人よ、ごらんなさい、あなたの子です」という息子である主イエスの言葉は、未来を拓く言葉でした。これからはあの弟子に世話をしてもらいなさいということ以上の希望の言葉でした。新しい家族が与えられる、それも神の家族が与えられる、もちろん、失った子供への思いはけっして消えることはありません。しかしそこで終わりではないという希望が与えられているのです。この時点で母マリアはまだ復活のことは良くわかっていなかったでしょう。しかし主イエスの十字架で終わりではない新しい何かの始まりを主イエスの言葉から感じたでしょう。一方の愛する弟子もそうでしょう。主イエスと共に宣教活動をしていた、それがリーダーである主イエスの十字架刑で、実を実らせることなくが無残な形で潰えたと思っていた、しかしその先にまだ未来がある、「あなたの母です」という言葉はその未来を指し示したでしょう。単に主イエスの母親の世話をする、それ以上のことを感じたからこそ、「そのときから」と書いているように弟子はただちに母マリアを引き取ったのです。今日の聖書箇所の次の場面である29節には「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り」とあります。つまり、母マリアと愛する弟子に新しい家族として生きていくことを告げられた、そのことは主イエスが十字架の死の直前に成し遂げなければならない重要なことだったといえます。

 十字架は終わりではありませんでした。十字架を終わりだと考えている4人の兵士はくじを引いて、自分がもらえるものだけに関心を持っていました。今日この時のことだけを考えていました。サリン事件で倒れている人をまたいで仕事へと急いだサラリーマンもそうでした。しかし、主イエスの十字架は新しい時を開きました。十字架を仰ぐ人々がまことに新しくつながる時代を開きました。それは和気あいあいと楽しく皆で集うというのとは少し違います。未来へとつながる共同体です。そこに、終わりだと見えて、けっして終わることのない希望があるのです。絶望のように見えたその先に示される希望があるのです。

 


ルカによる福音書23章39~43節

2019-07-19 08:40:46 | ルカによる福音書

2019年3月17日 大阪東教会主日礼拝説教 あなたは今日楽園にいる~十字架の上の七つの言葉」吉浦玲子

 聖書を読みますと、人間が神を畏れる、というとき、恐ろしい神の姿を見たり、神の怒りにふれたから畏れるということではなく、むしろ、神の恵み、神の慈しみに触れたとき、人間は神を畏れる者とされることがわかります。ルカによる福音書5章には有名な大量の話が記されています。もともと漁師であったペトロは、あるとき、一晩中漁をしても魚がとれませんでした。夜通し頑張ったのに魚が取れなかったのです。ところが、イエス様の言葉に従って網を降ろしますと、おびただしい魚が網にかかって網が破れそうになったのです。もともと漁師でありますから、この大量がとんでもないことであることがペトロには良く良くわかりました。神の業以外の何物でもないことがわかりました。そのペトロは主イエスの前にひれ伏して言います。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」とんでもない大量、驚くべき神の恵みの前に、初めて人間は神への畏れを覚えるのです。そして自分の罪深い姿を知るのです。

<二人の犯罪人>

 今日の聖書箇所でもそのような一人の人間がでてきます。彼は主イエスと一緒に十字架にかけられた犯罪者でした。主イエスを真ん中にして、三本の十字架が立てられていました。主イエスの両脇の十字架にはそれぞれに犯罪者がいたのです。二人の犯罪者が主イエスと共に十字架にかけられたことは他の福音書にも記されていますが、ルカによる福音書は特徴的な書き方をしています。一人の犯罪者は、権力者や兵士や野次馬と同様に主イエスを罵るのですが、もう一人の犯罪者はそうではなかった、そう記されています。犯罪人の一人は「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と主イエスを罵ります。しかしもう一人の犯罪者は「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」ともう一人をたしなめます。

 二人の犯罪人がどのような人間であったのか聖書は語りません。政治犯であったかもしれません。十字架刑になるのですから、ローマ帝国への抵抗運動をしていたのかもしれません。他の福音書には強盗と書いてあります。いまでいうところのテロリストのようなものであったかもしれません。ローマを倒すために殺したり、盗んだりしてきたのかもしれません。そしておそらくこの二人はこれまでの生き方において本質的な違いはなかったのではないかと考えられます。

 しかし主イエスへの態度において、きわめて鮮やかな対比を二人は見せます。共に、十字架の尋常ではない苦しみのなかにありました。自分の命が終わりに近づいているその中で、一人は、その苦痛の中で八つ当たりするように「我々を救ってみろ」と主イエスに叫びました。絶望の叫びでした。彼は自分のしてきたことはローマへの抵抗であってなんら悪いことだとは思っていなかったかもしれません。そしてまた主イエスが救い主であるなんてことはまったく思っていなかったでしょう。しかし苦しみとぜつぼうのゆえにこの犯罪人は主イエスを罵ったのです。

 しかしもう一人は「お前は神をも恐れないのか」という言葉でたしなめます。このもう一人の犯罪人は、主イエスがただならぬ存在であると感じていたようです。そして主イエスが何も悪いことをなさっていないことも感じていたこともわかります。この犯罪人がどうして主イエスに対してこのような思いを抱けたのか、その理由は聖書には記されていません。この犯罪人は、エルサレムからゴルゴダの丘までのビアドロローサをいっしょに十字架を担がされ歩きました。映画などで見ると、この場面は、ことに主イエスはいくたびもよろめき力なく歩まれています。それゆえに今日の聖書箇所の前の場面ではキレネ人のシモンが主イエスの十字架をになわされることになったのです。一方で主イエスと一緒に十字架にかけられた犯罪者は、それなりに腕っぷしも強かったかもしれません。体力もあったのではないでしょうか。実際、十字架において、他の二人の犯罪人より主イエスは早く絶命されたようです。共に十字架につけられた、普通に見たら、みじめな罪人の姿です。

主イエスのお姿はことに弱弱しくみじめに見えたかもしれません。しかも、野次馬たちは、ことにこのイエスという男を罵っている、その罵りの言葉からこのイエスという男は「自称メシア」、自分を神から来た救い主と言っていたらしいことが分かります。最初はなんて愚かな男だろうと感じたかもしれません。しかし、十字架に共にかかりながら、すぐ横で、主イエスの様子を見ながら、この犯罪人は分かったのです。自分と同じ苦しみ、みじめさの中にあって、死を目前にしてなお「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈られる姿に、ああ、この方は罪のない方なのだと分かったのです。同じ苦しみ、同じみじめさの中にいるからこそ、その中で、自分を殺そうとしている者、侮辱する者たちのために祈られていることがただならむことであるのが分かったのです。

 それまでの生き方において、二人の犯罪人には大きな違いはありませんでした。しかし、死を直前にした十字架の上で決定的な違いが起こりました。同じように主イエスのそばにいて、そして同じように主イエスの言葉を聞きながら違いが出たのです。これは私たちにも起こることです。同じようにみ言葉を聞きながら、そしてまた聖書を読みながら、その御言葉の前で態度に違いが出るのです。主イエスはたとえ話をお語りになると木、「耳ある者は聞きなさい」とおっしゃいました。これは耳があっても、つまり、言葉は聞こえ言語としては理解できても、それを神の言葉として受け取れない人々がいることを主イエスはご存じだったからおっしゃったのです。つまり、十字架の上の二人の犯罪人のうち、一人だけが耳があったということになります。

 「父よ、彼らをお赦しください。」その言葉の恵みを受け取ったのです。そこにイエス・キリストの愛を感じたのです。そのとき、彼は神への畏れを感じたのです。

<楽園にいる>

 彼は言います。「我々は、自分のやったことの報いを受けているから当然だ。」彼は自分の罪が分かったのです。ローマを倒すためにやってきたことをそれまで彼は悔いていなかったかもしれません。他の福音書で書いてるように強盗だったとしても、罪の意識はなかったかもしれません。捕まって運が悪かった、運と自分を殺そうとするローマを憎みながら死んでいたでしょう。しかし、彼は罪が分かったのです。イエス・キリストの愛の前で、自分は死に値する罪を犯したことが分かったのです。その時彼に言えたことは、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」という言葉だけでした。「このような私を御国に入れていただけませんか」とか「救ってくださいませんか」という言葉は到底言えなかったのです。自分の罪の深さを知ったとき、ただ、「思い出してください」としか言えなかったのです。

 すると主イエスは「はっきり言っておくが、あなた今日わたしと一緒に楽園にいる」」とおっしゃいました。この楽園とはなんであるか?そもそもの言葉はエデンの園で言われるような「園」なのです。これは解釈がいろいろあります。この「楽園」という言葉は、コリントの信徒への手紙でパウロが1回使っているだけで、新約聖書には出てきません。ただ、この言葉は一般的にいう「天国」と解釈をすべきではないでしょう。「あなたが御国においでになるときには」という言葉と対比させて、御国も天国と解釈して、イエス様があなたも天国にいくよとおっしゃったと解釈するのは違うでしょう。

 ここで語られているのは、決定的な救いです。「あなたは今日わたしと一緒に」いる、そう主イエスはおっしゃいました。キリストと同じところにいる、つまりキリストの救いの中に入れられている、ということです。そもそも多くの人が天国とか神の国というのは何かエデンの園のようなきれいなところに幸せに暮らすということではなく、神と共に赦されて生きる、ということです。そしてまた「御国においでになるときには」という言葉は天国に行かれる時にはということではなく、むしろ、キリストの再臨のときのことをさしています。ふたたびキリストが権威を持って、この世界の支配者として来られるとき、ということです。罪人は、キリストが再臨され、ご支配を完成されたとき、私のことを思い出してほしいと願いました。それに対して、主イエスはあなたはすでに今日、私と一緒にいる、つまり、今日、あなたは赦され恵みのうちにいる、とおっしゃったのです。

 この犯罪者はその死を前にして、キリストの言葉を聞き、救いを宣言されました。主イエスとこの犯罪者を見物している人々の中には祭司やファリサイ派という当時の宗教指導者たちもいました。彼らは何十年も律法を守り、宗教祭儀をなしてきたのです。しかしそのような宗教的生活をしてきた人々ではなく、十字架につけられた犯罪人の上に、救いは与えられました。

<天国泥棒?>

 この主イエスがから「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言っていただいた犯罪者は「天国泥棒」とよく言われるようです。先ほども言いましたように、いわゆる「天国」というのは主イエスのおっしゃる楽園の解釈とはちがうのですが、多くの人が、死ぬ直前に改心して救われたこの犯罪者に強い印象を持ってこういうようです。

 こういうことは現代でも起こります。私が洗礼を授かった教会の当時の牧師のK牧師は今は東京の教会で牧会されていますが、数年前、その先生から突然電話がかかってきました。近藤芳美という歌人がK先生の教会の教会員で亡くなったので、その方の歌人としてのプロフィールを教えてほしいとの電話でした。私が短歌をやっていることをご存じだったので問い合わせてこられたのです。近藤芳美といえば、歌壇の大家であって、私は面識はなかったのですが、その関係の歌人は存じ上げていたので、その方に問い合わせてお答えしました。近藤芳美さんがクリスチャンとは知らなかったのですが、よくよく聞くと病床洗礼だったようです。近藤芳美さんのご親族がK先生の教会の方で、そのご親族の願いで、K先生が、近藤芳美さんのお宅を訪問され、話をされました。近藤芳美さんはすでに聖書のこと、キリストのことをよくご存じで、K先生の語る話もすぐに理解され受け入れられました。そしてその場で洗礼を受けられたのです。もうお体がだいぶ悪く、おそらく教会の礼拝に出席することはかなわないままに召されたようです。そのしばらくあと、大阪で近藤芳美さんの弟分にあたる岡井隆という歌人を囲む会がありました。岡井隆は近藤芳美の後輩で、戦後の歌壇を担ってきたやはり大家と言える歌人でしたが、その方は、クリスチャンでした。その岡井さんに私は近藤芳美さんが亡くなる直前に洗礼を受けられたことをご存知ですか?とお聞きしましたら、ご存知なく、たいへん驚いておられました。でもしばらくして、少しにんまりとされて、「なんだか近藤さん、ずるいね。僕はずっとクリスチャンだったんだよ、何十年も。なのに、彼は、ほんのちょっとの期間だけクリスチャンになって天国行きってこと?なーんかずるいよねー」とおっしゃっていました。まるで、キリストと共に十字架に上げられて、死ぬ直前に救いに入れられた罪人のように先輩の近藤さんのことを感じておられていたようです。

 十字架の上の犯罪人にしても、今日における、病床での緊急洗礼にしても、どのような時にも救いがおこるのだということを示しています。じゃあ、死ぬまでにキリストを信じれば救われるのであれば、長い期間クリスチャンとして生活をしているのは意味のないことでしょうか?もちろん、そうではありません。主イエスは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とおっしゃいました。「今日」私たちも信じて主イエスと共にいるのです。そこに恵みがあるのです。まさにそれは「楽園」といってもよい祝福があるのです。その祝福の日々は長ければ長いだけの喜びに満ちているのです。今日、私たちはイエスと共に生き、イエスと共に光の中を歩みます。

 


ルカによる福音書23章26~38節

2019-07-18 08:41:03 | ルカによる福音書

2019年3月10日 大阪東教会主日礼拝説教 自分が何をしているか知らないのです~十字架の上の七つの言葉」吉浦玲子

<十字架を取り巻く人々>

 今年の受難節は主イエスの十字架の上の7つの言葉に耳を傾け、み言葉に聞いていきたいと思っています。今日は「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」という言葉に聞いていきたいと思います。

 罪のないイエス・キリストが十字架刑をお受けになることになりました。罪のないということは、もちろん、父なる神の前でまったく罪のないお方であるという意味です。そしてまた主イエスは当時の法律、律法と照らしても違法なことは何一つなさっておられないお方でありました。十字架刑は不当な裁判による不当な判決でした。本来、十字架刑はローマ帝国への反逆者に対して執行される刑です。しかし、ローマの提督であるポンテオ・ピラト自身は、主イエスがそのような反逆をもくろんだ人間ではないことをよくよくわかっていました。しかし、ユダヤの権力者の主イエスへの憎しみと、権力者に扇動された民衆の熱狂によって主イエスは十字架刑を下されてしまわれました。

 今日の聖書箇所は、主イエスがエルサレムの街の中から、街の外のされこうべと呼ばれる場所、他の福音書ではゴルゴダと記されているところへ十字架を背負って歩まされ、十字架につけられる場面が記されています。

 今日の聖書箇所にはいろいろな人間が出てきます。主イエスを殺したくてそれが実現して勝ち誇った態度を取る権力者たち、彼らは「他人は救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」そう十字架上に主イエスをあざけります。権力者に扇動されて「十字架につけろ」と叫んだ民衆はゴルゴダまでの道、一般にビアドロローサ、苦難の道、悲しみの道といわれるところを歩まれる主イエスに対して残酷な野次馬となって侮蔑しました。そして、嘆き悲しむ婦人たち、主イエスに代わって十字架を担がされる羽目になったキレネ人のシモン、ユダヤ人と同様に主イエスをあざける兵士、主イエスと一緒に十字架にかけられる犯罪者たちなどがいます。そして今日の場面には出てきませんが、恐れて逃げて隠れている男の弟子たちもいます。それぞれの人間がそれぞれの態度でビアドロローサからゴルゴダの丘で主イエスを見つめ、あるいは目を背けました。

 もし私たちが2000年前のビアドロローサにいたら、あるいはゴルゴダにいたら、どの立場だったでしょうか?嘆き悲しむ婦人たちだったでしょうか?私自身は、確信があるのですが、私は嘆き悲しむ婦人たちでは絶対になかったと思います。「自分を救ってみろ」と罵る権力者か、無責任で残酷な民衆であったと思います。

 しかしまたそれは単なる仮定の話ではありません。主イエスの十字架刑から2000年後を生きる私たちも、十字架を背負って歩まれる主イエスに対して、そしてまた十字架に上げられた主イエスに対して、たしかにいずれかの立場を取る者なのです。十字架のできごとは、遠い昔の遠い国の話で現在の自分と関係のない話ではないのです。私たちは、主イエスをあざける権力者であり、熱狂する民衆であり、嘆き悲しむ婦人たちであるのです。そしてまた怯えて隠れている弟子たちでもあります。そしてまた人間がどの立場をとろうとも、主イエスはすべての人間に向かっておっしゃるのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と。

<私たちは知らなかった>

 ところで、愚かなことをしているとき、本人は自分の愚かさに気づかないということが往々にしてあります。他の人から見たら、あんなことをして、と心配されるようなことでも本人はそのときは気が付かない、そんなことがあります。自分が失敗をしたり、痛い目をしたあと、ようやくその愚かさに気づきます。しかし、だいたいのことはやり直しがききます。やり直して「あの頃はばかなことしていたなあ」とあとから思い出すことができます。かつての愚かさから人生の知恵を重ねていくことができます。

 しかしまた一方で取り返しのつかないことも人生にはあります。もっとも取り返しのつかないことは、「神を殺す」ということです。神の御子であるイエス・キリストを殺す、それはある意味取り返しのつかないことです。私たちは2000年前に生きていないので、醜い権力者でもなく、愚かな民衆でもない、イエス・キリストを十字架にかけたわけではない、2000年前のエルサレムにいた人々がイエス・キリストを殺したのだと考える人もいます。少し脇道に逸れますが、長年にわたって根強くあるユダヤ人差別の根底にはユダヤ人はキリストを殺した民族だというところもあります。しかし、たしかに歴史上、ユダヤ人がイエス・キリストを十字架にかけましたが、実際のところ、イエス・キリストを殺したのはすべての人間です。ほかの誰でもない私たちがキリストの手と足に釘を打ち込み、唾を吐きかけ、あざけったのです。しかし、私たちは知らなかったのです。自分が神を殺したことを。自分がイエス・キリストを十字架にかけたことを知りませんでした。そんなだいそれたことを自分がしたとは知らなかったのです。まさに私たちは自分が何をしているか知らなかったのです。

<自分で自分を救え>

 今日の聖書箇所34節に「人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った」とあります。これは詩編22編に語られていることが実現したことを示しています。詩編22編の18節19節には「骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め/わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く」とあります。これは人間の尊厳を徹底的に奪い取る侮辱の行為です。主イエスに対する侮辱はそれだけではありません。「ユダヤ人の王」と書かれた札が主イエスの頭の上に掲げられました。王でもない人間が自分を王として民衆をたぶらかした、それを揶揄した札です。そして両脇に別の犯罪者が並べられました。まさに王として真ん中で十字架にかけられ、家来が両脇にいるという構図です。犯罪者を家来に従えた犯罪者の王として主イエスを侮辱しているのです。

 そしてその主イエスに「自分を救え」と議員も、そしてまた兵士も侮辱をしているのです。本当にメシアなら神が救ってくださるだろう、それがどうだ救われていないではないか、やはりお前は自称メシアであったに過ぎない、王であるなら力があるはずだが無力に十字架にかけられている、お前はただの愚かな無力な男なのだと罵っているのです。メシアでも王様でもない馬鹿な人間なのだと侮辱しているのです。

 しかし、「自分で自分を救え」という言葉は、神と人間の関係において深い意味を持つ言葉です。私たちも神なら自分を、そして私たちを救うことができるだろうと考えます。自分たちを救ってくれるかもしれないという期待が裏切られた人々は主イエスを憎みました。その憎しみゆえに侮辱をしたのです。そしてまた私たちも神の救いに絶望することがあるのです。なぜ今このとき神は救ってくださらないのかという時があります。神は無力ではないのか?神は本当に救ってくださるのかと疑いを持ってしまう時があります。三年前、当時21歳の娘さんをガンでなくされた方がいます。娘さんは若かったのでがんの進行も早かったのです。娘さん自身つらい治療に耐えて回復を願っておられましたが、その願いはかないませんでした。そこの家庭はその娘さんを含め家族皆がクリスチャンでした。特にお母様は英語の信仰書を日本語に翻訳する仕事をされている方でした。娘さんの発病から、家族皆がどれほど切実に祈られたかと思います。親であれば、なぜ娘が生きることはできないのか、その思いは筆舌に尽くしがたいものであったと思います。熱心なクリスチャンの家庭の若い命を奪われる神は本当に救い主なのか?メシアなのか?私たちも試練の時、そのような問いと向き合います。そしてその問いには多くの場合、答えはないのです。私たちは神に神らしくあってほしい、王には王らしくあってほしい、神にはいつも私たちを救ってほしいし、王には私たちを幸せにする力を持ってほしい、そう願います。しかし十字架上のイエス・キリストは両手両足を十字架につけられ服もはぎ取られたみじめな姿をさらしておられます。実際、人生において神がまったく非力に思えることがあります。

<しかし惠みはある>

 ところで、娘さんを失われたお母さまは、娘さんが亡くなった一年後、不思議な手紙を受け取りました。なんと娘さん自身が娘さん自身に宛てた手紙が郵送されてきたのです。娘さんが15歳と17歳の時、19歳の自分に向けて手紙を書くという授業の課題で書いた手紙でした。その2通の手紙は本来は、その授業を担当していた先生が、その生徒が19歳になったとき投函することになっていたそうです。しかし、その先生も亡くなってしまい、娘さんが19歳になったとき投函されなかったのです。しかし、のちにその手紙に気づいた方から、娘さんが亡くなったあと、送られてきたのです。手紙を送った人は娘さんが亡くなっていることは知らなかったのです。娘さんの代わりに手紙を受け取った親御さんはそのような課題の手紙を娘さんが書いていたことは知りませんでしたので大変驚かれたそうです。一年前に亡くなった娘さんの直筆で書かれた手紙には15歳と17歳の時の娘さんの夢や希望が記されていました。もちろん娘さんはその夢や希望を叶えることはできなかったのですが、夢や希望を持って生きていた娘さんの元気な、そしてまた若い人らしい悩みも感じられる文面を見て、とても慰められたそうです。手紙が届いたと言っても娘さんが帰ってきたわけではありません。ある意味、いっそう悲しみが深まるようなところもあったでしょう。しかし、お母さまはこれは神様からのプレゼントだと語っておられました。娘さんは帰って来ないけれど娘さんを確かに生かされた神の恵みを感じられたのです。

 神が非力に思え、救い主に思えなくなるような試練が与えられる個々の理由は分かりません。しかし、またそのことを通り抜けたとき、やはりそのことの内にも神の恵みが働いていたことを私たちはしります。私たちは知らなかったことを、やがて知ることができるようになるのです。

 私たちは神を殺すという取り返しのつかないことをしたにも関わらず恵みのうちにいかされているのです。主イエスの「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」という言葉のゆえに恵みのうちに生かされています。本来取り返しのつかないことが、取り返せるように、主イエスはおっしゃいました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と。神を殺した私たちが主イエスの父なる神へのとりなしの祈りのゆえに、そして主イエスが十字架で神の怒りを受けてくださったゆえに赦されました。そして恵みを受ける者とされました。

<主イエスのとりなしのうちに生きる>

 私たちは今もイエス・キリストのとりなしの祈りのゆえに生かされています。私たちが罪と知って犯す罪も、知らずに犯す罪も、主イエスはとりなしてくださっています。主イエスのとりなしのゆえに、取り返しのつかないことはなくなったのです。私たちはいつでもやり直すことができます。繰り返し失敗しても、繰り返し信仰が揺らいでも、私たちは立ち上がってやり直すことができます。神の恵みを知らなかった私たちは絶えることのない神の恵みを知ることができるようにされるのです。


ヨハネによる福音書13章31~38節

2019-07-18 08:31:03 | ヨハネによる福音書

2019年3月3日大阪東教会主日礼拝説教  「キリストのもとへ行く」吉浦玲子

<わたしがあなたがたを愛したように>

 「互いに愛し合いましょう」という言葉は心地の良い言葉です。美しく響きます。ところで、「イエス様は罪人を受け入れられた、徴税人や娼婦を受け入れられた、だから私たちもすべての人を受け入れましょう」という言い方があります。それは間違いではありません。たしかにそうなのです、私たちはすべての人を受け入れなくてはいけません。しかし、大事なことは受け入れるだけではなく愛することなのです。そこにいていいから好きにしといて、というのは本当の意味での愛ではありません。

 ビートルズの曲に、「ALL YOU NEED IS LOVE」という曲があります。君に必要なものは愛だ、という実にシンプルな曲です。

「わからないことは、誰にもわからない/見えないものは、誰にも見えない きみがいちゃいけない場所なんて、どこにもないんだ/簡単だよ 必要なものは愛だよ きみに必要なものは愛なんだ 愛こそがきみのすべてなんだ」

というような歌詞です。必要なものは愛であって、それがすべてだ、それは簡単なことだ、と歌うのです。私はこの曲は好きです。でも歌詞を読むと、やはり、少し違うなと思うのです。愛は簡単ではないのです。たしかに人間には愛されることが必要です。人間が人間として生きていくためには、ある意味、愛こそがすべてともいえるでしょう。現実には世界中に愛に飢えた人々がいます。愛の不全に苦しむ人がいます。<簡単なことだ、必要なことは愛だ>と、「簡単」にはいえないのです。

 そもそも愛とは何なのか?それはごくごく単純に言えば、イエス様が十字架にその身を捧げられたように相手のために自分を捧げることです。口で愛しています、あなたが大事です、そう伝えることも大切なことです。言葉で愛を示すことも必要です。しかしなにより愛というのは実践が伴うものです。肉体的に時間的に金銭的に精神的に自分を捧げるということです。肉体的に時間的に金銭的に精神的に負担を覚えながらどこまで自分を捧げることができるでしょうか?互いに愛し合うということは、互いに捧げあうということです。しかし、現実には捧げあうというより、自分だけが捧げていて割が合わない、そう感じてしまうこともあります。そしてまた腹が立つ相手、自分のことを良く思っていない相手に我慢をして、忍耐をして、相手のために自分を捧げる、それはとても難しいことです。

 そもそも今日の主イエスの34節の言葉、「互いに愛し合いなさい」という言葉は心地よいものでありますが、主イエスはこれを「新しい掟」として与えられています。しかしながら、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに「互いに愛し合いなさい」という言葉はぱっと聞いただけでは目新しい言葉のようには聞こえません。旧約聖書のレビ記第19章18節には、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」との教えが語られています。旧約聖書の時代から、つまりイエス様がお越しになるずっと前から、人を愛するということは聖書に語られていました。もちろん厳密に言いますとレビ記でいう隣人というのは、イスラエルの同胞のことを指していたと言われます。新約聖書で一般的に語られる隣人とは違います。しかし、「愛しなさい」ということにおいては同じなのです。ですから、ここで主イエスがイスラエルの歴史においてこれまでになく斬新なことをおっしゃったとは必ずしも言えないのです。

 しかしなお、主イエスは「新しい掟」とおっしゃっています。この「新しい」ということに関する鍵は「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とおっしゃっている中の「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉であろうと思います。翻って考えます時、普通に考えて、私たちは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とは言えません。私たちは「わたしがあなたがたを愛したように」といえるほどに自分の愛に自信を持てません。自分の愛の不完全さを知っているからです。しかしまた一方で「わたしはあなたを愛したのだから、あなたも私を愛するべきだ」といいたくなることはあるのかもしれません。言葉には出さなくても、あるいは意識すらしていなくても、人間には「わたしはこれだけ愛したのだから相手も私を愛するべきだ」と感じていることはあるかもしれません。

 「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉は、イエス・キリストであるからこそ言える言葉です。ご自身を十字架に捧げてくださったイエス・キリストであるゆえおっしゃることのできる言葉です。自分を裏切る弟子たち一人一人の汚い足を奴隷のように洗ってくださったイエス・キリストだけが「わたしがあなたがたを愛したように」とおっしゃることができるのです。

 今日お読みいただいたヨハネによる福音書13章31~35節は、イスカリオテのユダが主イエスを裏切り出て行く場面のあとにあります。主イエスが「愛し合いなさい」と語っておられるまさにそのとき、ユダは祭司長たちにイエスを売る相談をしていたのです。そしてまた今日の聖書箇所の後半には主イエスの一番弟子と言われるペトロの裏切りの予告がなされています。主イエスの新しい掟はまさにユダとペトロの二人の弟子の裏切りに関する記事にサンドイッチされる形で語られているのです。

 つまりここで、人間はそもそも愛し合うどころか、愛してもらった人を裏切ることすらできる、そのような存在なのだとヨハネによる福音書は語っています。そのどうしようもない人間に向かって主イエスは「互いに愛し合いなさい」とおっしゃっているのです。ある意味、とうてい出来っこないことを主イエスはおっしゃっているとも言えます。できもしないことを主イエスは、弟子たちに、そして私たちに、「新しい掟」として与えようとされているのでしょうか?

<新しくされる>

 そもそも掟というと守らなければいけない律法のような印象を与えます。口語訳聖書では「新しい戒め」と訳されていました。また昨年末出ました教会共同訳でも「新しい戒め」となっていました。しかし、戒めにせよ、掟にせよ、私たちは勘違いをしてはいけないのです。私たちは戒めや掟を守ることができるから救われるのではないのです。戒めや掟と言われると、ついつい、守らなければばちが当たるような、戒めを破れば救いにあずかることができないような気がします。そうではないのです。

 旧約聖書の中に出てくる有名な十戒、まさに10の戒めですが、この十戒も守ったら神があなたを救いますというものではありませんでした。エジプトで奴隷であった民を救い出された神が、救われた人間にふさわしい生き方の指針として戒めを与えられたのです。

 主イエスがおっしゃる「新しい掟」も、私がすべてを変える、十字架にかかって、あなたがたの罪をすべて拭い去り、あなた方をあたらしい人間にする、私の十字架によって、あなたたちは変えられるのだ、変えられたあなたががたは、互いに愛し合うことができるのだ、そんな新しい時代が来るのだ、と主イエスは語っておられるのです。「愛し合いなさい」という言葉の新しさは、まさに主イエス自身が、世界を人間を新しくすることを前提にした言葉ゆえの新しさなのです。愛し合うことができないあなたがたが愛し合うことができる新しい時代を私が開く、だからあなたがたは愛し合うことができるのだ、とおっしゃっているのです。

<今ついてくることができない>

 さて、主イエスは33節で「わたしが行く所にあなたがたは来ることができない」、そうおっしゃっています。そしてまたペトロにも36節で「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることができないが」とおっしゃっています。いままさに新しい時代を開こうとなさっている主イエスがこれから行こうとしておられるところに誰もついていくことはできないとおっしゃっています。主イエスがこれから行かれる所はどこか?それは十字架です。そこにはただ、主イエスお一人しかいけないとおっしゃっているのです。主イエスがご自身を捧げられて、新しい時代を開かれる、人間が愛し合うことができる世界を作られる、その業は、徹頭徹尾、主イエスお一人の業なのだということです。弟子たちが手伝うことはできない。弟子だけでなく人間は誰一人行くことはできないところに主イエスは向かわれるのです。十字架という刑罰はそのものは主イエスお一人が受けられたわけではありません。ローマ帝国への反逆者とみなされた多くの人間が十字架刑を受けました。主イエスと同時に十字架にかかった罪人たちもいました。しかし罪のなき主イエスが神の業として、新しい時代を開くために十字架に向かうということは神である主イエスお一人のなさることでした。主イエスお一人が成し遂げられることなのです。人間の罪からの救いというのは徹頭徹尾、神の業であり、人間には指一本関与できないことなのです。

 わたしたちは十戒にしても、今日の聖書にある「互いに愛し合いなさい」も人間の努力項目のように安易に考えてしまいます。ことにクリスチャンには人を愛さねばいけないという、ある意味真面目な思いがあります。しかし繰り返しますが、人間にはもともとは愛はないのです。キリストが、神の御子が、新しい時代を開いてくださった、そのとき、わたしたちに愛し合うことができる世界が訪れたのです。それは恵みなのです。人間の側の努力ではないのです。キリストが十字架において新しい時代を開いてくださった、それは父なる神の愛のゆえでした。また十字架においてキリストの愛が示されました。そして私たちが、本当に、神に愛されている、キリストに愛されている、その愛を知るとき、おのずと隣人を愛せるようになるのです。愛さねばいけないと努力をするのではなく、キリストに出会い、キリストの愛が注がれていることを知ったとき、キリストを通して神の愛を知ったとき、私たちは神を、キリストを、そして隣人を愛さずにはいられなくなるのです。

 そして私たちがキリストの愛を知るのは、端的な言い方をすれば、私たちが神の愛を裏切るときなのです。ペトロが鶏が鳴くまでに三度主イエスを知らないという、その苦い苦い裏切りを体験するまで、ペトロは本当の意味で主イエスの愛を知らなかったのです。「あなたのためなら命を捨てます」そう言ったペトロの心に、このとき嘘偽りはなかったでしょう。精いっぱいの思いでペトロは言ったのです。人間は裏切るものだと申し上げましたが、多くの場合、平然と裏切ることはできません。自分の情けなさ、相手へのうしろめたさを若干なりとも感じるものです。さまざまな事情でどうしようもなかった、そんな苦しい思いの中で多く場合、人間は裏切ります。

 しかしペトロはその裏切りの苦しみを体験しなければなりませんでした。主イエスは「わたしの行くところへ、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」とおっしゃいました。つまり、後でペトロはついていくことができるのです。裏切りの苦しみを経験した後についていくことができるのです。人間の傲慢を砕かれたゆえにペトロはついていくことができる者とされたのです。ペトロは誠実に善意で主イエスに「あなたのためなら命を捨てます」と言いました。ペトロは主イエスしか成し遂げられないことをこの時点で知りませんでした。ですから「あなたのためなら」という言葉を発しました。しかし神のために何かをするから神のところへ行けるということはありません。そもそも、神の前にあって自分の行為をもって認められれようとするのは厳しい言い方ですが、傲慢なのです。神にしかできないことを自分ができると考えること、それが罪の根源であり、人間の愛の不毛の姿です。

 神は神しかできないことをなさいます。ペトロの助けはいりません。私たちの助けもいりません。ただ神だけがおひとりで私たちのために十字架にかかってくださり命を捨ててくださいました。そして私たちがそのあとから神のおられるところに行くことができるようになりました。

私たちも、ひとりひとり、出会うのです。主イエスと出会うのです。自分の裏切りの心が明るみ出される所でキリストと出会い、赦しを得て、そのとき、本当にキリストの愛を知ります。裏切者の自分に、すでにキリストの愛が注がれていたことを知ります。そのとき私たちは新しく生き始めます。そして互いに愛し合うことができます。互いに愛し合うことは新しい掟です。この掟こそ恵みなのです。愛さずにはいられない者と私たちをイエス・キリストが十字架において変えてくださるので、守ることのできる恵みの掟です。


ヨハネによる福音書13章21~30節

2019-07-16 08:49:45 | ヨハネによる福音書

2019年2月24日 大阪東教会主日礼拝説教 闇へ迷い出ないために」 吉浦玲子

<心騒がせられた主イエス>

 三年半、弟子たちは主イエスと共に宣教活動をしてきました。弟子たちにしてみれば、すべてをなげうって主イエスに従い、寝食を共にしてきたのです。数々の奇跡を起こされたイエス様、このお方こそ待ち望んでいた救い主であると信じ、輝かしい未来を夢見て、三年半の歳月を過ごしたのです。

 しかしいま、事態は不穏な方向に向かっています。弟子たちはどこまで事態を把握していたかはわかりません。しかし、どうにも主イエスのおっしゃることやなさることが理解できない感覚を持ちながら捉えどころのない不安な思いを抱いていたでしょう。今日の聖書箇所の前のところでは主イエスは父のもとに帰るというようなこともおっしゃっています。なぜそのようなことをおっしゃるのか。主イエスについて来た私たちはこれからどうなるか、もやもやとした思いが弟子たちの内にはあったでしょう。その不穏な雰囲気の中で、ついに主イエスははっきりと重大発言をされます。

 「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。『はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。』」寝食を共にしてきた弟子の共同体に明確に罅が入っていること、この共同体がすでに破局に向かっていることを主イエスは断言されました。主イエスはそれを冷静におっしゃったのではありません。「心を騒がせて」おっしゃったのです。先週の聖書箇所である弟子の足を洗う場面でも主イエスはその裏切る弟子であるユダの足を洗われました。今日はヨハネによる福音書における最後の晩餐の場面ですが、この食事にもユダは共にいたのです。聖書において食事というのは重要な交わりの場です。しかも、今日の場面は最後の晩餐の場面です。主イエスはその場からユダを追い出そうとはされませんでした。

 ユダにしてみれば、主イエスを裏切ることはこの時点ではそれほど大きな問題ではなかったのでしょう。ローマを倒すこの世の王になりそうにない、自分にとって理解できないことばかり語っているこのイエスという男を見限っただけに過ぎないのです。他の福音書にはのちにユダはこの裏切りを後悔して自殺することが記されています。まさか主イエスが自分の裏切りが契機となって死刑にまで至るとは、このときユダは考えていなかったと言われます。ただ、ユダは主イエスのことを「使えない奴」だとユダは感じたのです。この人にについて行っても得にならない、メリットがない、そう考えたのです。自分の希望、自分の夢、自分のやりがい、自分の利益に相手が貢献してくれるならば協力しましょう、そういったことが望めないのなら、他を当たります、それがユダのあり方でした。しかしそれは現実的なものの考え方としたらけっしておかしなことではありません。多かれ少なかれ人間はそのような判断を現実においてなすのです。生きていくうえで、できるかぎり得なやり方、得になる付き合い、得になる場所を目指すのは普通のことです。ユダはイエスという人間は自分に取って得にならないと考えたのです。そしてまたユダにしても三年半の歳月は軽いものではなかったでしょう。彼なりに人生をかけて主イエスについて来たのです。そして幻滅したのです。ユダはイエス・キリストを裏切りましたが、ユダからしたらむしろ自分こそイエスに裏切られた、希望をつぶされた、そういう思いもあったでしょう。その思いが祭司長やファリサイ派に寝返るという行動にでたのかもしれません。

<裏切り者のいる部屋>

 さて、この場に裏切者がいる、その発言で場は緊迫をします。それまで漠然と皆が感じていた不自然さ、不安があらわになりました。サスペンスドラマで一部屋に複数の人々がいて、この中に<犯人がいる>と名探偵が叫んだような場面です。シモン・ペトロは主イエスの最も近くにいる、ヨハネと一般的には考えられている、「愛しておられた弟子」に合図を送ります。主イエスがだれについて言っておられるのか聞けと合図したのです。合図された弟子は「主よ、それはだれのことですか。」と問います。弟子たちが疑心暗鬼になった場面、それが最後の晩餐の場面でした。最後の晩餐は、聖餐式の起源です。しかしその場面は、混乱と不安と疑心暗鬼が満ちた場でした。恵みと喜びに満ちた場ではなかったのです。

 しかし主イエスは「この中に裏切る者がいる」とおっしゃりながら、その犯人を暴こうとされたわけではありません。ユダを皆の前で断罪するつもりはなかったのです。ではなぜこのような弟子たちを不安に陥れる言葉を語られたのでしょうか?それは人間は誰もが裏切るのだということを主イエスは示しておられるのです。マルコによる福音書やマタイによる福音書では奇妙なことに、「この中に裏切者がいる」と最後の晩餐の場面で主イエスがおっしゃったとき、弟子たちは「まさかわたしのことでは」と口々に言ったことが記されています。裏切ろうとしていたユダ以外の弟子たちが「まさかわたしのことでは」と言ったのです。ユダ以外の弟子たちはもちろんこの時点で裏切る気持ちは持っていませんでした。しかし、主イエスの言葉によって自分の心の中にある主イエスを裏切るかもしれないという思いがあきらかにされたのです。実際、こののち主イエスを裏切り裏切ったのはユダだけではありませんでした。ペトロも他の弟子たちも結局裏切ったのです。

主イエスを中心とした共同体はそのような集まりなんだと主イエスはおっしゃっているのです。いま、最後の晩餐に集っているのは聖人君子ではない、自分の得になることばかり考える人間、自分の思いが通らなければ去って行く人間、表面では信仰的な態度を取りながら内側では相手を欺いている人間、そういう人間が集まっている、それが主イエスの弟子たちであり、共同体なのだとおっしゃっているのです。

<主イエスがおられる部屋>

 じゃあ主イエスの弟子たち、そしてまた信仰の共同体は、言ってみれば、この世のさまざまな組織や共同体と変わらないようなものなのでしょうか。そうではありません。やはりこの世の様々な組織や共同体とは異なるのです。なぜならそこには主イエスがおられるからです。裏切る者、自己中心的なもの、欺く者のなかに、イエス・キリストがおられるのです。そのイエス・キリストが足を洗ってくださり、食事の中心にいてくださる、どうしようもないわたしと共にいてくださり、愛を注いでくださるのです。13章の冒頭で主イエスは「弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とありました。イエス・キリストの共同体は徹頭徹尾人間の側には特別なことはなく、ただイエス・キリストが共におられ愛を注いでくださる共同体なのです。そのことにおいて、この地上のどの組織、共同体とも異なるのです。私たちはイエス・キリストが共にいてくださることを感謝し、その愛をただ感謝して受け取る、それだけでよいのです。

<闇へ出ていくユダ>

 さて、主イエスはパン切れを浸してとりユダにお与えになりました。ビネガーのようなものに浸したパンをユダに渡したのです。これは主人が客人をもてなす行為です。そしてまたキリストがご自身をお与えになる愛の行為を象徴していました。そのまさに主イエスが愛を捧げておられる、その瞬間にユダは裏切りました。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った、とあります。13章2節で悪魔はイスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていたとありました。裏切りの思いをもっていたユダがいよいよ行動を起こすことを決意したのです。イエスから愛のパンを受け取ったまさにその瞬間にユダは愛を拒否して裏切りました。裏切りはもともと仲の悪い反目しあっている間にはありません。信頼関係や親愛の思いがあるところに起こるのが裏切りです。相手から愛を受け取らない、拒否をする、それが裏切りです。神は人間に愛を注がれます。人間にはその愛を受け取る自由も、拒否する自由もあります。そして人間は神からの愛を拒否するとき、サタンに支配されるのです。神の愛を拒否し神から離れる時、それは自由になるのではありません。どうしようもない闇に落ちてしまうのです。

 イエスからパン切れを受け取ったユダはすぐに出て行きました。「夜であった」とあります。これはとても象徴的なことです。ユダは闇の中へ出て行ったのです。ヨハネによる福音書では主イエスは光として描かれています。その光なる神である主イエスの愛を拒否した者は闇へと向かいます。神の愛を拒否する者は夜へ闇へと向かうのです。

 イスカリオテのユダはキリストを売った裏切り者として、ある意味、新約聖書中最大の悪人のように感じられます。しかし、さきほども申し上げましたようにユダと他の弟子たちは50歩100歩だったのです。人間はだれでもユダになりうるのです。私たちの心の中にもユダはいるのです。しかし他の弟子たちとユダは何が違ったのでしょうか?

<主イエスから離れない>

 それは他の弟子たちは主イエスを拒否しなかったということです。主イエスが逮捕されたときひとときイエスのもとから離れましたが、復活のキリストのもとに戻ってきました。ある方の説教に「愛しておられた弟子」について興味深いことが語られていました。今日の聖書箇所でその弟子はイエスのすぐ隣にいたのです。主イエスの一番弟子はペトロのはずですが、この「愛しておられた弟子」はすぐ隣にいたのです。しかもイエスの胸もとに寄りかかっていたと書かれています。なんと大胆なと思いますが、おそらく当時はユダヤ式に床に体を投げ出して寝た姿勢で食事をとっていたので、隣にいた「愛しておられた弟子」はイエス様に体を接するくらいの位置にいたということでしょう。この弟子は十字架の時も、十字架の下にいたのです。復活の時も、マグダラのマリアから主イエスの遺体が墓から取り去られていることを知らされ最初に墓に走って行ったのはこの愛しておられた弟子でした。つまりこの弟子はいつも主イエスのそばにいたのです。主イエスのそばにいる弟子を「愛する弟子」とヨハネによる福音書は記しているのです。古い伝承ではこの弟子は一番若くて美少年だったように描かれたりもしています。しかし、愛しておられた弟子というのは特に主イエスから寵愛をうけた弟子とか、特別に立派だった弟子ということではないのです。愛しておられた弟子というのは、ただただそばにいた弟子を現しているのです。逆に言えばそばにいる者が愛されるのです。さらにいえばそばで愛を拒否せずに受けていた者がもっとも祝福をうけるということです。

 それに対して、ユダは愛を拒否して離れてしまいました。マルコによる福音書では主イエスは「人の子を裏切る者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」と語られています。これは恐ろしい言葉です。イエス様ご自身が「生まれなかった方が、その者のためによかった」とおっしゃるというのはどういうことでしょうか?主イエスを裏切る者、主イエスから離れる者には呪われてしまうというのでしょうか。実際、ダンテの神曲という作品に描かれる地獄にはいくつかの階層があり、そのもっとも最下層の地獄は裏切者がいくところとされています。そしてその裏切り者の行く所は主イエスを裏切ったユダがモチーフとされています。

 しかし、それはあくまでも象徴的な描かれ方をしているのであって、私たちはそのような地獄に落ちないために主イエスのもとに留まるのではありません。主イエスが「人の子を裏切る者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」とおっしゃったのは、主イエスから離れる時、人間は闇に落ちてしまう、そのことのゆえに不幸だとおっしゃったのです。主イエスのそばにいればいただける恵み、祝福、慰めから離れて、暗く冷たく殺伐とした闇の中に生きることになるのです。

<光の中に生きる>

 私は少し疑問に思うのです。なぜ主イエスは「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言われたのでしょうか。どうして不幸になる道へ行くな、闇に落ちてしまうからここにとどまれとおっしゃらなかったのか。その理由はいくつか考えられます。先ほども言いましたように神は人間が神の愛を受け取らない自由を認めれおられるということです。神は人間が自分の意思でご自分のもとに留まることを望んでおられるのです。無理やり縛り付けようとはなさいません。主イエスは最後の最後までユダにチャンスを与えられたのだとも言えます。ユダの裏切りは、神のご計画の中で、定められたものでした。しかし、裏切ったあとでも、ペトロのように戻ってくることはできたのです。

 いずれにせよ、主イエスは最後までユダをも愛し抜かれました。ご自身の心を激しく騒がせ、打ち震えるような思いで主イエスはユダを送り出しました。裏切られても裏切られても愛さずにはおられない愛なる神の思いでユダを見送られたのです。

 私たちもまたユダの心を持っています。しかしなお私たちはとどまります。主イエスのもとにとどまります。主イエスの愛のもとにとどまります。そのとき私たちに日々は輝きます。イエス・キリストによって輝かせていただきます。主イエスの元の共同体もまた、主イエスが共におられるゆえに豊かに光の中で輝かされます。