2019年3月24日 大阪東教会主日礼拝説教 「神の家族~十字架の上の七つの言葉」吉浦玲子
<他者への無関心>
受難節、十字架の上の主イエスの言葉に聞いています。今日は「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの子です。」という二つの言葉に聞いていきたいと思います。主イエスは十字架の上で七つの言葉を語られたと言われますが、その7つの中で他の言葉が十字架とその救いの業に直結したような言葉であるのに対して、今日のこの言葉は少し異質な印象を与えます。しかしこの言葉もまた神の豊かな救いと慰めに満ちたものです。
今日の聖書箇所の前半は、少し前に共にお読みしましたルカによる福音書にも出てきました兵士たちが主イエスの服を分け合う場面になっています。服を取る、つまり人間の尊厳をはぎ取り、分け合っているのです。ルカによる福音書より服を分け合う場面は少し詳しく書かれています。4つに分けられる上着は分けて、それぞれが取りました。兵士は4名いたのでしょう。当時、ローマでは兵士は4名一組が最小単位だったといわれます。そこで、縫い目のない下着は分けられないので、誰か一人が取ることになる、誰のものになるのかくじを引いて決めました。これはルカによる福音書で記述されていたのと同様に、詩編22編に記されている「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」という言葉の成就でした。ヨハネによる福音書では、下着に縫い目がないということが書いてあります。ここはさまざまな解釈をされているところです。一説には、縫い目がないのは大祭司の着る服は縫い目がない一枚織りだったところから来ているという解釈があります。十字架の主イエスは大祭司であり、今まさに贖罪の供え物としてご自身を捧げているということを示しているというのです。そういう解釈はさまざまにありますが、なにより注目すべきは、十字架の上で肉体の死を目前にして苦しんでいる者を前にして、その下で人間はその苦しみに無関心で、苦しんでいる者からしたらとことん残酷なことをしているということです。
もちろん文化も時代も違います。人間の命と言うものへの根本的な考え方も違います。まったく現代の価値観とは違う世界で兵士たちは生きていました。兵士たちにとって十字架につけられる者を見ることは日常的な仕事であって、なんら心を動かされることではなかったかもしれません。そもそも、十字架にかかるというのはローマ帝国への反乱者でした。ローマに盾突く人間などローマの兵士である彼らにとって厄介な存在であり、そんな人間はどうなっても構わないのです。手に入れられるものをさっさと手に入れて仕事を終えてしまいたい、そんな気持ちだったかもしれません。
人権意識の高い現代にはこのようなことはありえないでしょうか?少しずれるような話になるかもしれませんが、今月、地下鉄サリン事件から24年目を迎えました。若い方はご存じないかもしれません。カルト宗教の集団が地下鉄に毒ガステロを行った事件です。あの24年前、当日、たまたま現場に遭遇したジャーナリストがそのときのことを書いているのを読んだことがあります。道に何人もの人が倒れ苦しんでいた信じられない光景があったそうです。しかし、もっと信じられない光景があったとその人は書くのです。倒れうめいている人や、混乱の中で救護活動をする駅職員や救急隊がいるなかで、足早に、倒れている人の横を通り過ぎて会社に急ぐスーツ姿のサラリーマンたちもいた、と。苦しむ人に関心を示さず、自分の行き先に向かうことだけを考えている人々が無数にいた、と。倒れている人をまたいで急ぐ人々すら多くいた、と。サラリーマンにしてみたら、交通機関が混乱して困った、一刻も早く会社へ、またお得意様のところへ行かなくてはいけない、それだけで頭がいっぱいだったのかもしれません。その状況に遭遇したジャーナリストは倒れている人々をまたいで急ぐ人々は恐怖や混乱でその場から離れようとしたのではなく、むしろ淡々と、自分の日々の職務に忠実に急いでいたと書いていました。テロも恐怖であったが、無表情に先を急ぐスーツ姿の人々も恐ろしい光景だったとその方は書いていました。それを読みながら、私自身、その場にいたらどんな態度がとれるのかわからないと感じました。
サリン事件の現場に限らず、私たちは往々にして苦しむ人のそばで、その苦しみを見ることなく、自分のことだけを考えている、そのようなところがあるのだと思います。本当はすぐそばにいる他者の苦しみを見ることなく、足早に通り過ぎてしまう、あるいは自分は楽しく皆と過ごす、そのようなことは私たちも無意識の内にしているのではないでしょうか。私たちは実際のところ、誰かの服をはぎ取り、その服を分け合っている四人の兵士のように、十字架の上で、そして傍らで、苦しむ人に無関心で、残酷なことをする者なのです。
<神の家族の誕生>
さて、十字架の下では、そのような人間の罪にまみれた行いがなされていました。十字架上の主イエスはどうだったでしょうか?また今日の後半の場面では不思議なことが記されています。ヨハネによる福音書では十字架のもとには「その母と母の姉妹、クロバの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。」とあります。新共同訳の日本語を見ますと四人の女性がいたと書かれています。しかし、ここの原語は、解釈によってはそこにいた女性は2名とも3名ともとれる書き方になっています。が、さきほどの服を分け合っていた兵士たちが4名であるとすれば、この女性たちも4名と考えて良いかもしれません。つまり十字架の下に、異質な二組の4名のグループがいたと言えるのです。同じ十字架の下にありながら、この二つのグループには違いがあったのです。
後者の婦人たちのグループに主は言葉をかけられます。「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」と言われた。」とあります。つまり、自分の母マリアのそばにいた愛する弟子を指して、母に「あなたの子です」とおっしゃったのです。そしてまた弟子にもこう言われました。「見なさい。あなたの母です。」。自分の母に対して弟子を「息子」だと言い、弟子に対して母を「あなたの母」だとおっしゃいました。そして「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」とあります。つまり実際、主イエスの母とこの弟子は、このとき以降、親子のように過ごしたというのです。
これは考えてみれば、主イエスが弟子に対して「自分が死んだあと、私の母をよろしく頼む」と言ったのだとも考えられます。母マリアはすでに夫であるヨセフを失っていたと考えられます。そして長男である息子まで失うことになるのです。その母を主イエスは弟子に託されました。そのことがわざわざ記述されていることの意味を教会は長く大事にしてきました。これは単に死にゆく息子が母の行く末を気遣ったというだけの話ではないのです。ここに「神の家族」つまり教会の基が建てられたと考えてきたのです。もちろん教会が教会として活動を始めたのはペンテコステの時からです。しかし、教会はなにより「神の家族」としてその原型を持っているのだと聖書は語るのです。
主イエスは母マリアに対して「婦人よ」と呼びかけています。これは親子としては冷たい言い方にも聞こえます。同じ呼びかけがヨハネによる福音書の2章のカナの婚礼の場面でもありました。婚礼の席でぶどう酒がなくなったことを母マリアは息子である主イエスに伝えました。しかし主イエスは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだきていません。」と答えます。この時の「婦人よ」もずいぶん冷淡だと感じられる言葉です。「わたしの時はまだきていません」と2章で語られた「わたしの時」は十字架の時でした。救い主として、救いを成し遂げる十字架の時を主イエスは語っておられました。主イエスは救い主として語っておられたのであって、相手が母マリアであっても、それは肉親の関係で、息子として語られているのではなかったのです。救い主として語られていた、ですから「婦人よ」と呼ばれたのです。カナの婚礼のときは、まだ主イエスの時である十字架の時はまだ来ていませんでした。しかし、今日の聖書箇所は、まさに主イエスの時でした。十字架の時でした。いまや主イエスは救い主として十字架におられます。救い主として主イエスはふたたび「婦人よ」と語りかけられました。
救い主によって、いま新しい時が始まるのです。人間が救い主によってひとつとされる時が始まったのです。血のつながりや、気が合うとか趣味が合うとか、利害が一致するということを越えて、人と人とが救い主によって、神によって、まことに結びつく新しい時代の始まりが告げられたのです。これが教会という共同体の原型でした。
<教会は信仰の基>
ある人がこういうことをおっしゃったそうです。「教会を母として持たないものは、神を父として持つ事はできない。」と。ときどきこういう人がいます。「教会で嫌なことがあって傷ついたので教会にはもう行きません。でも聖書も読んで、お祈りもしています。だから私はちゃんとイエス様に繋がっています。」と。しかしそれは間違いなのです。キリストの体なる教会につながっていなければ、キリストにはつながっていないのです。キリストに繋がっていなければ、父なる神にもつながっていないのです。そしてキリストの体なる教会は、ひとりではなく、共に、キリストを仰ぐのです。十字架のもとに4人の女性が集ったように、救い主であるイエス・キリストを共に仰ぐ共同体です。それが神の家族なのです。
教会にもさまざまな教会があります。和気あいあいとした教会もあれば、どちらかというと教会員同士のつながりが希薄な教会もあります。礼拝で隣に座っている人のことは何も知らないという場合もあります。しかし、教会が教会である核は共に礼拝を捧げ、共に聖餐にあずかることです。共に十字架のイエス・キリストを仰ぐのです。教会の雰囲気が和気あいあいとしていても、一見、冷たいようなクールな感じであっても、そこに礼拝を何より大事にし、聖餐を心から感謝して共に受ける人々があるとき、それは教会でなのです。人間的な親しさを越えて、共に十字架のキリストを仰ぐのが神の家族なのです。
以前もお話ししたことがありますが、東北の大震災ののち、会堂が津波で流された教会がありました。会堂もまわりもぐちゃぐちゃになって何もなくなってしまった。しかし、人々は、がれきで十字架を教会の跡地の地面に建てました。そこそこ大きなもので新聞にも写真が載っていたと記憶します。そのがれきの十字架のもとで人々は祈りました。その姿はまるで今日の聖書箇所のように十字架の主イエスのもとにいる4人の婦人たちのようです。会堂もなくなり、集会を継続するのも困難な中にも、主イエスの十字架を共に見上げるとき、そこには神の家族があり、キリストの教会があるのです。
<十字架の慰め>
そして主イエスの十字架を見上げる時、そこには本来は悲惨な流血と死があるはずなのですが、慰めがあるのです。今日の場面で言えば、母マリアは息子に先立たれます。親が、ことに自分の腹を痛めた母親が子供を失うというのは絶望的なことです。しかも母マリアの息子は、病気や事故ではなく、見るも無残でみじめな死を遂げるのです。しかし、「婦人よ、ごらんなさい、あなたの子です」という息子である主イエスの言葉は、未来を拓く言葉でした。これからはあの弟子に世話をしてもらいなさいということ以上の希望の言葉でした。新しい家族が与えられる、それも神の家族が与えられる、もちろん、失った子供への思いはけっして消えることはありません。しかしそこで終わりではないという希望が与えられているのです。この時点で母マリアはまだ復活のことは良くわかっていなかったでしょう。しかし主イエスの十字架で終わりではない新しい何かの始まりを主イエスの言葉から感じたでしょう。一方の愛する弟子もそうでしょう。主イエスと共に宣教活動をしていた、それがリーダーである主イエスの十字架刑で、実を実らせることなくが無残な形で潰えたと思っていた、しかしその先にまだ未来がある、「あなたの母です」という言葉はその未来を指し示したでしょう。単に主イエスの母親の世話をする、それ以上のことを感じたからこそ、「そのときから」と書いているように弟子はただちに母マリアを引き取ったのです。今日の聖書箇所の次の場面である29節には「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り」とあります。つまり、母マリアと愛する弟子に新しい家族として生きていくことを告げられた、そのことは主イエスが十字架の死の直前に成し遂げなければならない重要なことだったといえます。
十字架は終わりではありませんでした。十字架を終わりだと考えている4人の兵士はくじを引いて、自分がもらえるものだけに関心を持っていました。今日この時のことだけを考えていました。サリン事件で倒れている人をまたいで仕事へと急いだサラリーマンもそうでした。しかし、主イエスの十字架は新しい時を開きました。十字架を仰ぐ人々がまことに新しくつながる時代を開きました。それは和気あいあいと楽しく皆で集うというのとは少し違います。未来へとつながる共同体です。そこに、終わりだと見えて、けっして終わることのない希望があるのです。絶望のように見えたその先に示される希望があるのです。