大阪東教会礼拝説教ブログ

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ヨハネの黙示録第21章1~5節

2021-10-31 17:48:44 | ヨハネの黙示録

2021年10月31日須磨月見山主日礼拝説教(逝去者記念礼拝)「涙はぬぐわれる」吉浦玲子 

<耳で聞かれた手紙> 

 「わたしはまた、新しい天と地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。」 

 迫害されてパトモス島に流されていたヨハネは新しい天、新しい地を、幻に見ました。「ヨハネの黙示録」という書名にある黙示とは、隠されていたものが示されるということで、啓示と同じような言葉です。黙示で示されることは、これから起こることでありますが、はっきりとした筋書きや期日や内容が示されるわけではなく、幻のようなイメージで示されます。「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存知である。(マタイ24:36)」そのように福音書に記されているように、やがてくる決定的な<その日その時>のことは、父なる神だけがご存知であって、詳細はその時まで伏せられているのです。<その日その時>が黙示されているのが黙示録です。 

 詳細は伏せられているのであれば、「ヨハネの黙示録」はなぜ記されたのでしょうか?はっきりと書かれていないのなら、わざわざ書かれない方が良いのではないかと感じられるかもしれません。実際、この「ヨハネの黙示録」は、さまざまな解釈をされて、世界の破滅の予言のように語られることもあります。新興宗教に部分的に利用されたこともあります。実は私自身も、まだ教会に行っていなかった若い頃、妙なユダヤ主義の著者による怪しげな予言書を読んだことがあります。当時、流行っていた本なのですが、それがあとから思いますと、この「ヨハネの黙示録」をベースに勝手に解釈した人類破滅の予言書だったのです。もちろん、この「ヨハネの黙示録」は、そのように世界の終わりの時を煽って恐怖感を与えるために書かれたものではありません。そうではなく、むしろ、神を信じる者への慰めと希望を与えるために書かれたものです。 

 そもそもこの書物は、迫害の中にあった1世紀のクリスチャンへ送られた手紙の形式をとっています。この手紙は、クリスチャンの集まり、集会、礼拝において読み上げられたのです。人々は耳からこの黙示録の物語を聞きました。この書物のかなりの部分は恐ろしい禍々しいイメージで占められています。星が落ちてきたり、海が血に代わったり、大きな災害が起きたり、恐ろしい戦いや獣の姿をした暴君が現れたりします。今日お読みした箇所の直前ではサタンが敗北します。この手紙が最初に読まれた1世紀は、現代のような映像技術による表現はありませんが、むしろ、人々は読み上げられている内容を集中して耳で聞き、聖霊によって示されたことでしょう。人々は、その場面をどんな壮大な映像技術を駆使されたよりも鮮やかなイメージとして感じ取ったでしょう。人々は息もつけないような緊迫感をもって読み上げられる言葉を、遠い話ではなく、自分たちへの言葉として聞いたでしょう。そしてその言葉は、当時の人々を大いに慰め、力を与えたのです。恐怖を与え、怯えさせるのではなく、神の恵み、力、愛を人々は感じ取ったのです。 

 そしてそれは、迫害を受けていた1世紀のキリスト教徒だけではなく、今日、今、ここで共に礼拝をお捧げしている私たちもまたそうなのです。私たちは、2000年前に読み上げられていたこの手紙によって、神から与えらえている恵みと希望の根拠を明確にすることができるのです。「わたしはまた、新しい天と地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。」すべてが新しくされる、天も地も、新しくされる、それこそが私たちの希望の根拠なのだと私たちは示されているのです。 

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 そもそも、最初の天と最初の地とは、天地創造において、神がお造りになったこの世界そのものです。しかし、その世界に終わりがあることを聖書は語ります。始まりがあって終わりがある、それが聖書の世界です。ぐるぐる循環するような時間の感覚ではないのです。世界にも、そして私たちのこの世の人生もまた初めがあって終わりがあります。誰にでも肉体の死が訪れます。 

 個人的なことを申し上げるのは恐縮なのですが、私の父は私が四歳の時、脳出血で32歳の若さで亡くなりました。亡くなったその日の朝まで元気で、普通に会社へ出勤をする準備をしていて、突然、倒れて、意識不明のままその日の午後に亡くなりました。私は、畳の上に倒れたスーツ姿の父をおぼろげながら覚えています。まだ小さな子供を残して、突然、人生を終えてしまった父は無念であったと思います。一方、私の母は、7年前に病で亡くなりましたが、さまざまな事情があり、その晩年、一時期、私と疎遠になっていました。もちろん、そうなった理由をどうにかして、和解したいと願っていましたが、その前に、母は急激に認知症が進んでしまい、何も分からなくなってしまいました。会いに行っても、私のことはかろうじて娘と分かるのですが、過去のやり取りなどは全く忘れていて、疎遠になったことに関わる話は一切できませんでした。お互いにわだかまっていた思いはもうどうにもできなくなりました。そしてそのまま天に召されてしまいました。ですから本当に意味で母との和解をせぬまま送り出してしまったことになります。私自身、何とも言えない思いが残りました。そしてまた一方の母の思いはどうであったのかと思います。 

 実際、この世界にはいろいろな別れがあると思います。別れの言葉さえ言えない突然の別れもあり、どうにもならない事情の中で、さまざまま思いを抱えたままでの別れもあります。初めがあり、終わりがあるのですが、その終わりにおいて、大団円とはいかないことも多くあります。できることはやりつくして別れたとしても、悲しみや喪失感は大きいものです。ましてや、突然のことであったり、さまざまな事情の中で、悔いやいろんな思いが残ることもあります。 

 しかし、聖書は語るのです、初めと終わりを支配されているのは神なのだと。そしてまた私たちがこの世界で「終わり」だと感じていることは実は終わりではないのです。新しい天と地が来る、ということが示すのはそういうことです。古い天と地が終わって、それで終わりではないのです。ですから、私たちは、この世界の終わり、そしてまた自分の人生の終わりについて、神にお任せしたらよいのです。この世界でできなかったこと、あの人に対してできなかったこと、逆になぜあのとき、あんなことをしたのか、あの人になぜなんてことを言ってしまったのか、そういったことすべてを神にお委ねしたらよいのだと聖書は語るのです。 

 そもそも新しい天と地については、いろいろな解釈があります。ある神学者は、穏やかな世界の変化だと語っています。しかし、今日の聖書箇所の少しあとのところで、この新しい天と地にある都エルサレムについて書いてありますが、この新しいエルサレムは、長さと幅と高さが1万2千スタディオンと書かれています。この高さのサイズは成層圏を越えるようなとてつもない高さなのです。そう考えますと、この新しい天と地は、穏やかにいまの世界が変化するというより、全く違う世界が起こると考えた方が良いのでしょう。実際、今日お読みしました聖書箇所でも、新しいエルサレムが天から下って来ると書かれています。新しい天と地は、今の世界の延長ではなく、まったく世界が新しくされるのです。神の「終わり」というのはそういうことです。そして私たちは、何かこの世界の延長のような漠然とした桃源郷のようなところを天国だとして、そこに行くのではなく、全く新しくされた世界に生きるのです。そしてまたそれはふわふわとした概念的なものではなく、確かな新しい世界なのです。そして私たちはそこで蘇りの体をいただき生きるのです。 

<神と共に生きる> 

 そしてその新しい天と地において、私たちは神と共に生きるのです。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。」 

 私たち何となくお花畑のような美しい天国で懐かしい人々と再会して暮らすのではありません。いやそういうことはあるのでしょう。しかし何より、聖書が語るのは、新しい天と地において、私たちは神と共に生きるのだということです。いま、私たちは神を肉体の目で見ることはできません。しかし、新しい天と地において、神が私たちと共に住んでくださるというのです。何より私たちは、神の民とされるというのです。 

 そして神と共に生きるということは、なにより神の愛と慈しみのうちに生きるということです。私たちは現在のこの世界で精いっぱい生きながらも、どうしてもやりきれないこと、失敗することがあり、人間関係においても悔いを残してしまうこともあります。思いもかけない事故や災害に巻き込まれ深い悲しみを負うこともあります。そのように私たちはこの世界での人生を、ある意味、痛みや悲しみ、涙を蓄積させながら生きます。しかし、新しい天と地において、「神は自ら人と共にいてその神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐいとってくださる。」とあるように、私たちはこの世で流した涙をすべてぬぐいとっていだけるのです。私たちは、新しい天と地で、単に懐かしい人々に遭うのではなく、なにより、神と顔と顔を合わせてお会いして、私たち自身をすべて新しくしていただくのです。完全な慰めをいただくのです。 

 それは単にこの世でできなかったことが、あの世でどうにかなるという無責任な人間的な希望が叶うということではありません。最初の世界の壊れゆえ、また私たちの罪ゆえ、ひび割れていたすべてのことが修復されるということです。それは神にしかできないことです。そしてまた私たちはこの世界でスーパーマンのように強くならなくてもいいのです。すべてを自分の責任で負って生きていくのではありません。仮に失敗をしたとしても、そのすべてを神が引き受けてくださるのです。もちろん、キリストの十字架のゆえに、神に救われた者として、神に感謝しながら、神と隣人を愛しながら生きていきます。しかし、人間には限界があります。その限界を限界のまま、神にお委ねして謙遜に生きていきます。弱さのままで生きていきます。自分の弱さも欠けもすべて神にお委ねします。そのとき、むしろ今の世界はどうでもよいというのではなく、大胆に失敗を恐れず、力強く私たちは今のこの世界を私たちは生きていくのです。 

<信仰を与えられて> 

 ところで、この「ヨハネの黙示録」は迫害を受けていたキリスト教徒に向けて読み上げられたと申しましたが、初期のキリスト教徒たちは、殉教した仲間の名前を集会で読み上げ、その棺の上で聖餐式をしたと言われます。聖餐式はキリストの十字架の死を覚え、そのことのゆえに贖われ罪赦されたことを感謝し、復活の希望を新たにするものです。迫害を受けていた人々は、まさに肉体の死と隣り合わせの日々を送りながら、なおそこに、キリストの十字架を覚え、復活の希望に生きていました。肉体の死は痛ましいものですが、十字架と復活のキリストを信じる信仰のゆえに、次々と仲間を失いながら、なお彼らに希望がありました。それは、現実の苦しみから目をそらすために、夢物語のような天国の作り話にすがったからではありません。実際そこに、家族や友の棺があるという厳しい現実がある中で、なお、そこにも神の力が及んでいることを、たしかに彼らは感じていたのです。死を打ち破る命があることを彼らは知っていたのです。彼らは迫害の中で信仰を失いませんでしたが、それは迫害者と闘争や戦闘をしたわけではありませんでした。無力にとらえられ、酷い目にあわされたのです。クリスチャンでない者からしたら殉教は、けっして華々しいものではなく、みじめで弱々しいものに見えたでしょう。 

 私は長崎県佐世保市というところの出身ですが、カトリックのクリスチャンが多いところです。私自身はクリスチャンホームの出身ではありませんでしたが、何となく教会やキリスト教の雰囲気にはなじんで育ちました。子供のころ、市外の郡部には隠れキリシタンの家が割と普通にありました。昭和の時代でしたが、そういう家では仏壇の中に、マリア観音が置かれていたりします。今日は宗教改革記念日であり、プロテスタントとしては、マリアに対して特別な崇敬を持ちません。また、隠れキリシタンの中には本来の信仰から変容して土俗化した信仰になったものもあったと言われます。実際、明治以降、教会に戻らなかった、教会になじめなかった隠れキリシタンたちもいたようです。しかし、そういうことはありますが、何百年にもわたって迫害の中で守られて来たマリア観音を思う時、そこに一筋の信仰の光があったことを感じます。ニカイヤ信条以来の信仰がたしかに迫害の中にあったのだと思います。神の創造の業を信じ、来るべき新しい世界を信じ、復活の命、永遠の命を信じた人々が黙示録の時代のみならず、この日本の片田舎の近代においてもたしかにいたのです。私たちの信じる聖書の信仰の命は弱々しいようで、実際のところしたたかで強靭なのです。私たちの信仰が強いわけではなく、そのような信仰を聖霊によって私たちはすでに与えられているのです。神が与えてくださっているのです。 

 さきほど、初期のクリスチャンは殉教者の棺の上で聖餐式を行ったと申し上げました。しかし、21世紀を生きる私たちもまた教会において礼拝を捧げる時、同様に、新しい命の希望を新たにされ生きています。いまここに肉眼で神、キリストを見ることはできませんが、私たちはたしかに教会において、そして礼拝のただなかにおいて、神の民とされ、神と共にあります。そしてまた、この地上の礼拝は、天の礼拝とも繋がっています。今日は逝去者記念礼拝です。私たちは先にこの地上の生涯を走り終えられた方がたを覚えます。今、私たちはその一人一人の方々を肉眼で見ることはできません。しかし、今捧げているこの地上の礼拝は、天の礼拝とつながり、やがて来るべき新しい天と地における礼拝の先取りです。先人たちをどのような時も守り、その信仰を与えてくださった神に感謝をいたします。この須磨月見山教会の長い歴史を支えてこられた先人たちには、多くの困難もあったと思います。涙の祈りの時もあったでしょう。しかしなお、その涙はぬぐわれました。いま神の御もとにやすらっておられます。わたしたちもまた先人と同じ信仰を神によって与えられ、守られ歩みます。この地上の須磨月見山教会の礼拝において、神と共に歩みます。そして、やがてすべてが新しくされ、すべての涙がぬぐわれ、新しい天地で今ここにおられない方々も共に喜びの礼拝を捧げます。その希望のなか、私たちは今日を大胆に生きていきます。初めと終わりを支配してくださる神にすべてをゆだね力づよく歩みます。