2017年12月31日 主日礼拝説教 「あなたの神」吉浦玲子
今日、お読みいただきました出エジプトの20章には、「十戒」が記されています。十戒は<主の祈り>、<使徒信条>と合わせて、三要文と言われます。教会が長く大事にしてきた重要な三つの文書ということです。数年前、何回か礼拝説教の奉仕に伺っていたある教会では、この<十戒>を毎週礼拝の中で唱えていました。今日の教会で、<十戒>を礼拝の中で唱える教会はおそらくそれほど多くはないと考えられます。実際、昨年、ある勉強会でさまざまな教派の礼拝式文の比較をしたことがあります。集まったデータの数は多くはなかったので統計的な正確さという点では微妙ですが、おおよそ想定していたような傾向がみられました。そこで分かったことは礼拝の式文の中に<十戒>が入っている教会は1割程度ということでした。同じ三要文でも<主の祈り>や<使徒信条>は教派を問わず礼拝の中で唱えられることが多いのですが、十戒は、正確な理由は分かりませんが、あまり唱えられません。
ところで、主イエスは、この世界に来てくださいました。過ぐる主の日に私たちはそのキリストの降誕を祝いクリスマス礼拝をお捧げしました。キリストとはメシア、救い主であり、その到来と十字架によって救いは完成されました。私たちはすでに救い出されたのです。
<十戒>を読みますと、すでにキリストのゆえに救いを得ている私たちが、まるで律法の時代に遡るかのような気持ちになるかもしれません。神の山、シナイ山からモーセがふたつの石を持って降りて来た、古い映画「十戒」の場面を思い浮かべられる方もおられるかもしれません。そのモーセが抱えていた石に記されていたのが<十戒>です。今日の聖書箇所の前の出エジプト記19章を読みますと、シナイ山は神の臨在によって雷鳴がとどろき、激しく揺れ動いたと記されています。その情景を思い浮かべるだけで、怖いイメージがあります。モーセの問いかけに対して雷鳴を持って応えられる神から授与された言葉と思うと、山が震えるように人間もまた震えながらその言葉を受けたのではないかと思います。
しかし、人間は律法を守れませんでした。旧約聖書で明らかにされている歴史を読みますと、特に神に選ばれこの十戒をはじめ律法を授与されたイスラエルの人々でさえ、律法を守れなかったことがわかります。神の戒めを守れなかったのです。新約聖書を読んで私たちが理解していますことは、戒めを守れない、そんな人間のために来てくださったのが主イエスだということです。主イエスは律法を守れない私たちのために、十字架にかかってくださいました。戒めを守れない私たちのために罪を犯す私たちのために、主イエスは贖いの業をなしてくださいました。
もう十字架と復活で私たちの罪の贖いがすんでいることが明らかなのであれば、主イエス到来以降の教会にとって、<十戒>というものは意味を持つものでしょうか?<十戒>というのは旧約聖書の時代のものであって、過ぎ去ったものではないか。救いの歴史を学ぶために知っておくことは大事なものだけれど、新約聖書以降の時代を生きる私たちには直接は関係ないのではないか?そう考える方もおられるかもしれません。
また、一方でこの<十戒>を読んでみますと、特に人間同士の関係について記されている後半は、父母を敬え、姦淫してはならない、盗んではならないといった内容で、キリスト教に限らず、ある意味、普遍的な倫理項目のようでもあります。
すでにキリストが来られ救われている私たちにとってこの<十戒>は不要なものでしょうか?ことにキリスト教に固有なものとも思えない倫理的な項目はいまさら私たちが大事にしないといけないことでしょうか?
<あなたの神>
もちろん大事なものであるからこそ、三要文として教会はこの<十戒>を重視してきたのです。その<十戒>において、まず最初に私たちを招く言葉があります。それは<十戒>の10の戒めに先だって記されている言葉です。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」人間に対して、神が人間との関係をはっきりとお語りになっている言葉です。「わたしは主」であり「あなたの神」である、と宣言をされています。もちろん神は私たちを創られた神です。人間のみならずこの世界のすべてのものの神であるのは当然のことです。しかし、ここで改めて神は「わたしは主であり、あなたの神である」とおっしゃっているのです。言い換えれば「わたしはあなたの主となり、あなたの神となる」と仰っているのです。これは神の約束の言葉です。「私はあなたの神となる」と約束されているのです。あなたと特別な関係を持つのだとおっしゃっているのです。「あなたの主となり、あなたの神となる」というのは聞きようによっては、なにか主従関係を結ぶもののようにも聞こえます。しかし、ここで神がおっしゃっているのは、愛の関係を築くということです。愛し愛される関係を築くのだと神はおっしゃっています。それまでみなしごだった子供を自分の家に連れて帰り「私が今日から君のお父さんだ、私の家は君の家だ」といって心から面倒を見てくれる後見人、新しい父親のように神がイスラエルに臨んでおられるということです。親しい関係を求めておられるということです。
そもそも「神は愛」であると私たちは知っています。ヨハネの手紙のⅠの4章にも「神は愛なり」という有名な言葉があります。愛はその性質上、対象を必要とします。愛し愛される関係が愛の本来の姿です。愛なる神は愛する相手としてイスラエルを選ばれたということです。そして漠然とイスラエル全体を愛しますということではなく、一人一人を愛するということです。「あなたの神」となるというのは明確に一人一人との関係を築いて愛するということです。愛は明確な相手との関係性の上に成り立つものだからです。相手と関係を持たない愛というのはあり得ないからです。
さらにここでは「わたしは奴隷の家からあなたを導きだした神である」と語られています。実際に神はエジプトで奴隷になっていたイスラエルの人々を救い出されました。奴隷であったイスラエルを解放したくない、かたくななエジプト王ファラオとのやり取りがあり、数々の奇跡を起こされ、ついにエジプトをイスラエルは脱出することができました。さらには映画でもおなじみの場面ですが、いったんイスラエルを解放しながら、ふたたび心を変えたファラオの軍隊にイスラエルが追われたとき、海が割れるという奇跡を起こし、イスラエルを救われました。その出エジプトの救いの出来事を前提として神はここで語られているのです。神は愛の関係を築くためにイスラエルを救い出されたのです。出エジプトは神の約束へといたる物語です。海が割れたりといった数々の奇跡が出エジプトの出来事のピークであったのではなく、神の救いと愛の約束であるこの十戒の授与が出エジプトのピークなのです。
それまでのすべての出エジプトの奇跡は神との愛の関係を結ぶための救いの出来事でした。つまり<十戒>の前文に語られているのは、戒めに先立つ神の救いの現実だということです。人間を導きだし、救い出される神の恵みが、なにより先に先にあったということです。人間が戒めを守ったら、神が人間を愛し救い出されるのだと、よく勘違いされますがそうではないということです。奴隷の家から導き出されたこと、救いが先にあるのです。
イスラエルの人々は、エジプトで奴隷であったが、いまや自由なものとされました。神と自由な人間との愛の関係を約束したものが十戒であり、律法でした。その十戒をうける人間の側からすると、神に救い出され新しく生きるにふさわしい神への感謝の応答が十戒の約束でした。
救い出された者であれば、そして神と新しい関係を結ぶ者であれば、神からの祝福のうちに、これらの戒めを守れるはずだと与えられたのが十戒でした。救い出してくださった神への愛の応答のあり方として十戒はあるのです。ところで、十戒は二つの部分からなっているといわれます。これは福音書の中で主イエスが律法学者から「掟の中でどれが第一でしょうか?」と尋ねられ、お答えになった言葉と対応します。主イエスは「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」と応えられました。これは申命記の6章から引用された言葉です。主イエスはここで神を愛することが第一の掟だとおっしゃっているのです。これは十戒の「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」に始まる最初の4つの戒めにあたります。さらに主イエスはこうも答えられました。「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい』」これは十戒の「あなたの父母を敬え」からの後半の戒めに当たります。つまり、神を愛し、隣人を愛しなさいと<十戒>は語っているのです。
そしてこの大事な掟は、先ほども申し上げましたように、救われる条件ではなく、神に救い出された者の感謝の応答として当然守れるはずのものとして与えられました。神に救い出された者は神との健全な関係を持つことができるでしょう。つまり神を愛することができるはずです。そしてまた神との関係が健全になった者は他者との関係をも健やかにできる、隣人を愛することができるのだということです。これは、単なる宗教的戒律や倫理的な道徳ではなく、新しい神との関係を土台にした掟なのです。
逆に「あなたの神」となってくださる神との関係が造れなければ、神との関係だけでなく、隣人との関係もすこやかにはできないのだということです。たとえば今日はすべての戒めについては語りませんが、「あなたの父母を敬え」という戒めにしても、儒教的な親孝行を説いているのではありません。荒っぽい言い方をしたらニュースなどを見ると、この世界には、子供を虐待したりする、あるいは犯罪を犯したりする、とても敬えないと感じる親もいるのです。しかし、一方で自分自身を親として振り返っても、神の前で100%胸をはれるような立派な親ではなかったと感じられることはあるのではないでしょうか。もちろん情感的な親しさを感じる親子関係はあっても、突き詰めれば敬われるにふさわしい父母はこの世界にはいないのです。しかしなお神は「あなたの父母を敬いなさい」とおっしゃっています。自分の命にとって最初に関わりを持つ関係である父母は、子供の側からは選ぶことのできなかった関係でした。つまり、そこには神の摂理が働いているということです。神の摂理の内にある関係であるゆえ、敬いなさいと語られているのです。神という土台がなければ、父母を敬うということはできないのです。
<神の民として歩む>
しかし、最初にも申しましたようにイスラエルはこの戒めを守れませんでした。神を愛し人間を愛することができませんでした。奴隷の家から導き出された者としての応答ができませんでした。そしてこの戒めを神への応答ではなく、救いの条件にすりかえました。戒めを守れば神に救われるということに、すり替えてしまいました。それが主イエスの時代のイスラエルでした。
人間は神に恵みを受けながら、なお神との関係を正しくすることができなかったのです。本来は神の愛への応答の掟が、人間を縛るものとなりました。神を愛し、隣人を愛するという根本から離れてしまいました。
その神との関係を正すために来られたのが主イエスでした。主イエスは壊れた神と人間の関係を十字架によって修復してくださいました。主イエスによって、神と人間の間に新しい契約がなされたのです。神と人間の関係が新たにされました。では、古い契約、古い約束である<十戒>はいまや無意味なのでしょうか?そうではありません。古い契約は今も生きています。そして、そもそもその古い契約もまたキリストの到来を指ししめていたのです。古い契約は破棄されるものではなく、キリストによって、完成されました。イスラエルのみならず、すべての人間にほんとうの命を与えられ、生き生きと輝く掟とされたのです。私たちもキリストのゆえに、神はわたしたちの神となってくださいました。わたしたちはキリストのゆえに神の民とされました。神と愛の関係を築くことができるようになりました。隣人と愛の交わりを持つことができるようになりました。
私たちは新しい年も神の民として歩みます。生き生きとした信仰の内にキリストによって完成された神の戒めを与えられて歩みます。教会は終わりの日の新しい天と地をめざす、新しい出エジプトの民です。私たちはただキリストによって新しくされ、神を愛し、隣人を愛する者として喜びながら歩んでいきます。