大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

出エジプト記20章1~17節

2017-12-31 12:34:20 | 出エジプト記

2017年12月31日 主日礼拝説教 「あなたの神」吉浦玲子

 今日、お読みいただきました出エジプトの20章には、「十戒」が記されています。十戒は<主の祈り>、<使徒信条>と合わせて、三要文と言われます。教会が長く大事にしてきた重要な三つの文書ということです。数年前、何回か礼拝説教の奉仕に伺っていたある教会では、この<十戒>を毎週礼拝の中で唱えていました。今日の教会で、<十戒>を礼拝の中で唱える教会はおそらくそれほど多くはないと考えられます。実際、昨年、ある勉強会でさまざまな教派の礼拝式文の比較をしたことがあります。集まったデータの数は多くはなかったので統計的な正確さという点では微妙ですが、おおよそ想定していたような傾向がみられました。そこで分かったことは礼拝の式文の中に<十戒>が入っている教会は1割程度ということでした。同じ三要文でも<主の祈り>や<使徒信条>は教派を問わず礼拝の中で唱えられることが多いのですが、十戒は、正確な理由は分かりませんが、あまり唱えられません。

 ところで、主イエスは、この世界に来てくださいました。過ぐる主の日に私たちはそのキリストの降誕を祝いクリスマス礼拝をお捧げしました。キリストとはメシア、救い主であり、その到来と十字架によって救いは完成されました。私たちはすでに救い出されたのです。

 <十戒>を読みますと、すでにキリストのゆえに救いを得ている私たちが、まるで律法の時代に遡るかのような気持ちになるかもしれません。神の山、シナイ山からモーセがふたつの石を持って降りて来た、古い映画「十戒」の場面を思い浮かべられる方もおられるかもしれません。そのモーセが抱えていた石に記されていたのが<十戒>です。今日の聖書箇所の前の出エジプト記19章を読みますと、シナイ山は神の臨在によって雷鳴がとどろき、激しく揺れ動いたと記されています。その情景を思い浮かべるだけで、怖いイメージがあります。モーセの問いかけに対して雷鳴を持って応えられる神から授与された言葉と思うと、山が震えるように人間もまた震えながらその言葉を受けたのではないかと思います。

しかし、人間は律法を守れませんでした。旧約聖書で明らかにされている歴史を読みますと、特に神に選ばれこの十戒をはじめ律法を授与されたイスラエルの人々でさえ、律法を守れなかったことがわかります。神の戒めを守れなかったのです。新約聖書を読んで私たちが理解していますことは、戒めを守れない、そんな人間のために来てくださったのが主イエスだということです。主イエスは律法を守れない私たちのために、十字架にかかってくださいました。戒めを守れない私たちのために罪を犯す私たちのために、主イエスは贖いの業をなしてくださいました。

 もう十字架と復活で私たちの罪の贖いがすんでいることが明らかなのであれば、主イエス到来以降の教会にとって、<十戒>というものは意味を持つものでしょうか?<十戒>というのは旧約聖書の時代のものであって、過ぎ去ったものではないか。救いの歴史を学ぶために知っておくことは大事なものだけれど、新約聖書以降の時代を生きる私たちには直接は関係ないのではないか?そう考える方もおられるかもしれません。

 また、一方でこの<十戒>を読んでみますと、特に人間同士の関係について記されている後半は、父母を敬え、姦淫してはならない、盗んではならないといった内容で、キリスト教に限らず、ある意味、普遍的な倫理項目のようでもあります。

 すでにキリストが来られ救われている私たちにとってこの<十戒>は不要なものでしょうか?ことにキリスト教に固有なものとも思えない倫理的な項目はいまさら私たちが大事にしないといけないことでしょうか?

<あなたの神>

 もちろん大事なものであるからこそ、三要文として教会はこの<十戒>を重視してきたのです。その<十戒>において、まず最初に私たちを招く言葉があります。それは<十戒>の10の戒めに先だって記されている言葉です。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」人間に対して、神が人間との関係をはっきりとお語りになっている言葉です。「わたしは主」であり「あなたの神」である、と宣言をされています。もちろん神は私たちを創られた神です。人間のみならずこの世界のすべてのものの神であるのは当然のことです。しかし、ここで改めて神は「わたしは主であり、あなたの神である」とおっしゃっているのです。言い換えれば「わたしはあなたの主となり、あなたの神となる」と仰っているのです。これは神の約束の言葉です。「私はあなたの神となる」と約束されているのです。あなたと特別な関係を持つのだとおっしゃっているのです。「あなたの主となり、あなたの神となる」というのは聞きようによっては、なにか主従関係を結ぶもののようにも聞こえます。しかし、ここで神がおっしゃっているのは、愛の関係を築くということです。愛し愛される関係を築くのだと神はおっしゃっています。それまでみなしごだった子供を自分の家に連れて帰り「私が今日から君のお父さんだ、私の家は君の家だ」といって心から面倒を見てくれる後見人、新しい父親のように神がイスラエルに臨んでおられるということです。親しい関係を求めておられるということです。

 そもそも「神は愛」であると私たちは知っています。ヨハネの手紙のⅠの4章にも「神は愛なり」という有名な言葉があります。愛はその性質上、対象を必要とします。愛し愛される関係が愛の本来の姿です。愛なる神は愛する相手としてイスラエルを選ばれたということです。そして漠然とイスラエル全体を愛しますということではなく、一人一人を愛するということです。「あなたの神」となるというのは明確に一人一人との関係を築いて愛するということです。愛は明確な相手との関係性の上に成り立つものだからです。相手と関係を持たない愛というのはあり得ないからです。

さらにここでは「わたしは奴隷の家からあなたを導きだした神である」と語られています。実際に神はエジプトで奴隷になっていたイスラエルの人々を救い出されました。奴隷であったイスラエルを解放したくない、かたくななエジプト王ファラオとのやり取りがあり、数々の奇跡を起こされ、ついにエジプトをイスラエルは脱出することができました。さらには映画でもおなじみの場面ですが、いったんイスラエルを解放しながら、ふたたび心を変えたファラオの軍隊にイスラエルが追われたとき、海が割れるという奇跡を起こし、イスラエルを救われました。その出エジプトの救いの出来事を前提として神はここで語られているのです。神は愛の関係を築くためにイスラエルを救い出されたのです。出エジプトは神の約束へといたる物語です。海が割れたりといった数々の奇跡が出エジプトの出来事のピークであったのではなく、神の救いと愛の約束であるこの十戒の授与が出エジプトのピークなのです。

それまでのすべての出エジプトの奇跡は神との愛の関係を結ぶための救いの出来事でした。つまり<十戒>の前文に語られているのは、戒めに先立つ神の救いの現実だということです。人間を導きだし、救い出される神の恵みが、なにより先に先にあったということです。人間が戒めを守ったら、神が人間を愛し救い出されるのだと、よく勘違いされますがそうではないということです。奴隷の家から導き出されたこと、救いが先にあるのです。

 イスラエルの人々は、エジプトで奴隷であったが、いまや自由なものとされました。神と自由な人間との愛の関係を約束したものが十戒であり、律法でした。その十戒をうける人間の側からすると、神に救い出され新しく生きるにふさわしい神への感謝の応答が十戒の約束でした。

 救い出された者であれば、そして神と新しい関係を結ぶ者であれば、神からの祝福のうちに、これらの戒めを守れるはずだと与えられたのが十戒でした。救い出してくださった神への愛の応答のあり方として十戒はあるのです。ところで、十戒は二つの部分からなっているといわれます。これは福音書の中で主イエスが律法学者から「掟の中でどれが第一でしょうか?」と尋ねられ、お答えになった言葉と対応します。主イエスは「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」と応えられました。これは申命記の6章から引用された言葉です。主イエスはここで神を愛することが第一の掟だとおっしゃっているのです。これは十戒の「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」に始まる最初の4つの戒めにあたります。さらに主イエスはこうも答えられました。「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい』」これは十戒の「あなたの父母を敬え」からの後半の戒めに当たります。つまり、神を愛し、隣人を愛しなさいと<十戒>は語っているのです。

そしてこの大事な掟は、先ほども申し上げましたように、救われる条件ではなく、神に救い出された者の感謝の応答として当然守れるはずのものとして与えられました。神に救い出された者は神との健全な関係を持つことができるでしょう。つまり神を愛することができるはずです。そしてまた神との関係が健全になった者は他者との関係をも健やかにできる、隣人を愛することができるのだということです。これは、単なる宗教的戒律や倫理的な道徳ではなく、新しい神との関係を土台にした掟なのです。

逆に「あなたの神」となってくださる神との関係が造れなければ、神との関係だけでなく、隣人との関係もすこやかにはできないのだということです。たとえば今日はすべての戒めについては語りませんが、「あなたの父母を敬え」という戒めにしても、儒教的な親孝行を説いているのではありません。荒っぽい言い方をしたらニュースなどを見ると、この世界には、子供を虐待したりする、あるいは犯罪を犯したりする、とても敬えないと感じる親もいるのです。しかし、一方で自分自身を親として振り返っても、神の前で100%胸をはれるような立派な親ではなかったと感じられることはあるのではないでしょうか。もちろん情感的な親しさを感じる親子関係はあっても、突き詰めれば敬われるにふさわしい父母はこの世界にはいないのです。しかしなお神は「あなたの父母を敬いなさい」とおっしゃっています。自分の命にとって最初に関わりを持つ関係である父母は、子供の側からは選ぶことのできなかった関係でした。つまり、そこには神の摂理が働いているということです。神の摂理の内にある関係であるゆえ、敬いなさいと語られているのです。神という土台がなければ、父母を敬うということはできないのです。

<神の民として歩む>

 しかし、最初にも申しましたようにイスラエルはこの戒めを守れませんでした。神を愛し人間を愛することができませんでした。奴隷の家から導き出された者としての応答ができませんでした。そしてこの戒めを神への応答ではなく、救いの条件にすりかえました。戒めを守れば神に救われるということに、すり替えてしまいました。それが主イエスの時代のイスラエルでした。

 人間は神に恵みを受けながら、なお神との関係を正しくすることができなかったのです。本来は神の愛への応答の掟が、人間を縛るものとなりました。神を愛し、隣人を愛するという根本から離れてしまいました。

 その神との関係を正すために来られたのが主イエスでした。主イエスは壊れた神と人間の関係を十字架によって修復してくださいました。主イエスによって、神と人間の間に新しい契約がなされたのです。神と人間の関係が新たにされました。では、古い契約、古い約束である<十戒>はいまや無意味なのでしょうか?そうではありません。古い契約は今も生きています。そして、そもそもその古い契約もまたキリストの到来を指ししめていたのです。古い契約は破棄されるものではなく、キリストによって、完成されました。イスラエルのみならず、すべての人間にほんとうの命を与えられ、生き生きと輝く掟とされたのです。私たちもキリストのゆえに、神はわたしたちの神となってくださいました。わたしたちはキリストのゆえに神の民とされました。神と愛の関係を築くことができるようになりました。隣人と愛の交わりを持つことができるようになりました。

 私たちは新しい年も神の民として歩みます。生き生きとした信仰の内にキリストによって完成された神の戒めを与えられて歩みます。教会は終わりの日の新しい天と地をめざす、新しい出エジプトの民です。私たちはただキリストによって新しくされ、神を愛し、隣人を愛する者として喜びながら歩んでいきます。


ルカによる福音書2章8~20節

2017-12-25 19:00:00 | ルカによる福音書

2017年12月24日 大阪東教会主日礼拝説教 「メシアの誕生」吉浦玲子

<日本とクリスマス>

 数年前のイブ礼拝のおり、俳句で初めてクリスマスという言葉を使ったのは正岡子規であることをお話ししたことがありました。クリスマスという言葉が初めて俳句に登場したのは、明治28年、1895年であると言われます。その翌年、明治29年の俳句に「八人の子どもかしましクリスマス」というものが残っています。1882年の大阪東教会の設立より10年以上後のことです。大阪東教会設立の頃は、まだキリシタン迫害のなごりがあり、大阪東教会の設立者であるへール宣教師が伝道をしても、一般の人々の中に「耶蘇」への嫌悪感を持つ人々が多くて、なかなか話をきいてもらえなかったことが記録に残っています。しかし、大阪東教会が設立されて10年ほどたったとき、つまり正岡子規が俳句にクリスマスを詠んだころには、世間の雰囲気も変わり、それほどキリスト教への嫌悪感や、怖さというものが消えていっていたのかもしれません。もっとも正岡子規という人はとにかく新しもの好きな人で、日本で野球を最初に熱心にやった人としても知られているくらいです。ですから、当時、まだまだ新鮮な目新しい言葉としてクリスマスという言葉を子規はあえて使ったという側面はあり、逆に言えばまだそれほどクリスマスは一般に広くは定着していなかったともいえます。

 その物珍しかったクリスマスが、本格的に現在のようなお祭りのようなクリスマスとして日本に定着したのは20世紀に入ってから、日露戦争の後、明治の終わりごろだと言われます。それまではキリスト教国である欧米に対して<日本は三流国である><遅れた国である>というコンプレックスがあって西洋の風習はいってみれば敷居が高い感覚があったかもしれません。でも日露戦争の勝利で、一気にコンプレックスが吹き飛び、何の屈託もなく、うまく日本のカルチャーに欧米的なおしゃれなものを入れ込んで楽しむようになったのがクリスマスの広まりであるといわれます。このころから、現代のように、社会全体として日本の年中行事の一つのようにクリスマスを楽しみ出したと言われます。ノンクリスチャンの方々がクリスマスを楽しむこと自体は、否定されるべきことではないと考えます。私自身も、ずっとそうでした。ただ、ここにいる私たちがしっかりとわきまえなければいけないことは、クリスマスは神の出来事であるということです。そして神の出来事、神がなさったことを、人間の都合、人間の視点で勝手に捉えてはいけないということです。人間の側の視点で捉える時、クリスマスはただのおとぎ話のようなものになってしまいます。耳触りのよいお話だけがあって、私たちの都合や感覚に合わせて好きに解釈できることになってしまいます。しかし、本来、神の出来事であるクリスマスは、私たちの命に関わる切実なことがらです。その神の出来事に私たちは謙遜に耳を傾けなければなりません。

<町の中にいることのできない人々>

 さて、今日の聖書箇所では、羊飼いたちは「その地方に」にいたと記されています。その地方、つまりベツレヘム郊外の野に彼らはいたのです。町の中ではありませんでした。町の外にいたのです。町の外で野宿をして羊の群れの番をしていました。長く教会に来られている方は繰り返しお聞きになった箇所で、ご存知かと思いますが、これは牧歌的な状況ではありません。町の中の人々は眠っている時間に、羊の番をしているという厳しい労働の現場でした。羊は彼らのものではおそらくなかったと考えられます。彼らは雇われた羊飼いだったでしょう。自分の羊の番をしてるわけではなく、雇われて人の財産である羊の番をしているのです。ことに夜は夜行性の動物に羊が襲われる可能性があります。羊が襲われ死んだ場合、たぶん、彼らは雇い主に対して死んだ羊の弁償をしないといけなかったでしょう。気を抜くことのできない仕事に彼らは従事していました。

 来る日も来る日も彼らは羊の世話をしていました。彼らはそんな生活が不満だったでしょうか?彼らは自分たちの生活が改善されることを願っていたでしょうか?それは聖書の記述からはわかりません。しかし、おそらく、彼らは生活が変わることをそれほど積極的には願っていたわけではないと思います。諦めというより、その生活があまりにも自分たちにとって当たり前すぎたからでしょう。他の選択肢があるとは考えられなかったのではないでしょうか。

 自分たちにとっての生活とはこのようなもの。自分の人生とはこんなもの。その日々は、あまりに当たり前の日々であって、いまさらどうこう願うこともない、そんな人々ではなかったかと想像されます。ここに社会的に疎外された人々の姿を見ることができます。町の中にいる人々から疎外され、顧みられない人間の姿がここにあります。町の中にいる人々は少しでも自分の暮らしが良くなること、良い生活を望んでいたかもしれません。しかし、彼らにはその余裕はなかったと考えられます。

 しかし、余裕がなかったのは町の外にいた羊飼いだけではありませんでした。主イエスの両親であるヨセフとマリアも、ベツレヘムには「泊るところがなかった」のです。夫ヨセフの本籍地であるとはいえ、もともとすんでいたガリラヤのナザレから遠く離れて若い夫婦はやってきました。最低限の施設もないところで子供を出産せねばなりませんでした。

 神はそのような、人々から疎外されているような、力ない貧しい人々へと救い主の誕生を知らされました。主イエスがお生まれになって飼い葉おけに寝かされているのをベツレヘム中の人々が押し掛けて見に来たということはありませんでした。ただ、町の郊外の野原にいた羊飼いが特別に選ばれ、その誕生を告げられ、やってきたのです。

<救い主は必要か?>

 イスラエルは長い長い年月、救い主を、メシアを待っていました。貧しく弱い国を強国の支配から解放してくださる救い主を待っていました。メシアは油注がれた者という意味です。かつてイスラエルの王たちは、ダビデもソロモンも頭から油を注がれて王となったのです。特別に神から選ばれた人、それが油注がれた者でした。その油注がれた者、メシアという言葉はやがて救い主、イスラエルを救う者と考えられるようになりました。旧約聖書の預言者の時代から何百年も待望されてきました。しかし、福音書に記されているのは、その待望されていたメシアの到来が、宗教的に熱心だった人々や聖書学者ではなく、野原にいた羊飼いに告げられたということです。羊飼いたちは、メシアのことを考える余裕もない生活だったしょう。羊の世話をして安息日も守れない、宗教的なところからも離れている存在であった彼らがなぜか選ばれ、メシアの誕生が知らされました。

 神は、特別に宗教的な人、信仰深い人、立派な人に恵みを与えられる方ではないからです。日々を生きることに精いっぱいで、神のことなんて考える余裕もない、そんな人たちを選び、恵みを与えるお方だからです。羊飼いたちだって、イスラエルに伝えられる救い主、メシアの話は聞いていたでしょう。しかし、その救い主、メシアが直接自分と関係のあることだとは考えてもいなかったでしょう。考える余裕もなかったでしょう。そんな人々へと神は語りかけられるのです。

 日本ではどうでしょうか。冒頭にお話ししましたように日露戦争の後、日本はクリスマスを広く楽しい行事として受け入れました。もう三流国ではない、いや一流の国になった、立派になった、言ってみれば、もうわれわれは寂しい野原にいるのではない、堂々と町の中に住んでいる、そんな感覚になった人々には、クリスマスをお祭りのように祝いながら、その中心にある救い主、メシアとは遠い存在のままです。都会でも田舎でもクリスマスを祝いながら、ほんとうにメシアと出会うことの少ない国になりました。

<「あなた」の救い主>

 さて、野原にいた羊飼いに告げられた言葉は、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」でした。ここに<しるし>という言葉があります。ある方がここを説明されていたのですが、この<しるし>とは何かというと、私たちは、さらっと読んで、飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子のことだと考えてしまいます。乳飲み子は確かに救い主、メシアその人です。しかし、ここで<しるし>というのは、他の赤ん坊とは違う特別な赤ん坊のことをさすのではなく、<あなたがたは飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つける>こと自体、つまり羊飼いが救い主を「見つける」ということをさすのだと説明されます。

 羊飼いは「見つける」のです。自分のために生まれてくださった乳飲み子を見つける、彼らはその場に行って、確かにその目で見つけるのです。そのこと自体が、<しるし>なのです。メシアがお生まれになっても、そのお方が自分たちと何の関係もないお方なら何の意味もありません。人類全体を救うお人、地球を救う人であれば、それはありがたいです、よろしくお願いしますね、ですむ話です。でも、羊飼いは見つけることが出来るのです。それは今日お生まれになったお方が、なにより自分と関係を持ってくださる救い主、メシアだということです。「<あなたがたのために>救い主がお生まれになった」といわれるように、まさに自分たちのための救い主がお生まれになった、そのことが羊飼いたちにはわかったのです。ですから、羊飼いたちはベツレヘムへとメシアを見に行ったのです。

 この羊飼いの物語と並んでクリスマス物語として語られることの多い東方からやってきた学者たちもまた救い主を見に来たのです。星に知らされた王の誕生が、自分たちと関係のないことではないと感じたからこそ彼らも遠い道のりをはるばるとやってきたのです。「見ることができる」救い主、訪問できる救い主だからです。

<救い主とは>

 そもそも救い主という言葉は、日本語からも分りますが、「救う」という動詞と結びついています。ギリシャ語で「σῴζω(そーぞー)」という言葉です。「私を助けてください」という言葉は「σῶσόν με(そーぞーめー)」となります。この「σῶσόν με(そーぞーめー)」という言葉を主イエスの弟子であったペトロが発している聖書箇所があります。それはイエス様が湖の上をお歩きになるという奇跡の場面でした。ペトロは無邪気に子供のように自分も湖の上を歩きたい!とイエス様に願って、実際に自分も湖の上を歩きます。ところが風が吹いてくると、はっと我に戻ったのか、怖くなってしまいます。そうすると、それまで意気揚々と湖の上を歩いていたのにぶくぶくと沈みだします。その湖に沈みかけたペトロがイエス様に向かって「主よ、助けてください」と言った言葉が「σῶσόν με(そーぞーめー)」です。おぼれそうになって「助けて!」と叫ぶペトロの姿はおっちょこちょいのようでもあり、教会学校などでは面白く話をする場面です。もちろん、主イエスはそんなペトロにすぐに手を差し出して助け上げてくださいます。私たちはその場面でペトロのおっちょこちょいぶりを笑うのですが、でも、湖に沈みかけて助けて!と叫んでいる姿は、本来は私たちの姿です。

 私たちは自らの罪によって、沈みかけていた存在です。ほんとうは湖で自らの罪のためおぼるべき存在である私たちが、神の恵みによって、神の支えによって、意気揚々と、自分たちの力であるかのように歩いていました。もう三流国ではないとクリスマスを年中行事として楽しみだしたように、私たち一人一人も救い主などはいらないと自分の足で歩いていました。風が吹いて本当に沈みかけないと自分が助けが必要な存在であることがわかりません。本当はそんな私たちも神から隔てられた、町の中にいることのできなかった存在でした。神と共に歩んでいない時、それは神とも、ひいては他者とも豊かな関係を結ぶことができない疎外された存在なのです。しかし、それに気づいていませんでした。私たち一人一人も羊飼いのように、本当は疎外された存在でありました。

 そんな私たちのために救い主は来られました。私たちが沈む前に、手を差し出して、助け上げてくださる方として、来てくださいました。救いは、大きな網で100人、200人とまとめて掬い上げるようになされるのではありません。主イエスが一人一人に手を差し出し、掬い上げてくださいます。私たち一人一人に救いの物語があります。クリスマスの物語があります。

そして救いは、ただキリストお一人から来るものです。湖で救われたペトロはのちにその主イエスに関して「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間にはあたえられていないのです。」と使徒言行録の中で語っています。救いはただイエス・キリストからのみ来るのです。あすこからもここからもくるのではない、ただひとりの救い主でありメシアであるキリストからのみ救いはきます。

 そして、その主イエスご自身が、私たちに語りかけてくださいます。呼びかけてくださいます。羊飼いたちが天使に呼びかけられたように、私たちも選ばれ、呼ばれました。キリストを救い主を見ることができるのです。ほかの誰でもない私たちの、私の救いのためにお生まれになったお方を見ることができます。救いのしるしは、いま礼拝をお捧げしている私たちへも与えられました。救いのしるしとして私たちはいまキリストのもとにいます。そしてみどりごのキリストをみて神を賛美して帰って行った羊飼いたちのように私たちも神を賛美します。私たちへの救いのしるしがたしかに与えられたことを喜びます。ほんとうのクリスマスを喜び祝います。


ルカによる福音書 2章1~7節

2017-12-18 19:00:00 | ルカによる福音書

2017年12月17日 大阪東教会主日礼拝説教「神が備えられた道」 吉浦玲子

<暗い道>

 博多での大学生時代、いろいろアルバイトをしましたが、そのなかに家庭教師のアルバイトもありました。ある時期、九州電力の社宅に住んでおられた家庭の中学生の女の子に勉強を教えに行っていました。女の子が高校受験を控えた時期でした。通っていた九州電力の社宅は、当時住んでいたアパートから博多湾沿いの道を30分ほど自転車で行ったところにありました。皆さんは九州というと南国、温かい地方というイメージを持たれているかもしれませんが、福岡をはじめとした北部九州は、多少日本海側の雰囲気があり、それほど温かくはありません。ことに冬の博多湾沿いの道は海からの風がきつく、バイトの行き帰りは、ほんとに体の底から冷え切りました。バイトは夜でしたから余計寒さが堪えました。その道は幹線道路でした。自転車で漕いで行く脇をたくさんの車が走っていました。次々と車が私を追い越して行きました。幹線道路は明るかったですが、自転車を漕いでいる自転車道は薄暗かったのです。そして幹線道路と反対側には黒々とした夜の博多湾がありました。

 12月、授業が休みに入ると貧乏学生にとってはバイトのかきいれどきで、昼はパン屋、夜は家庭教師と掛け持ちでバイトをしました。パン屋と言っても大きな店でクリスマスケーキも扱っていました。当時はクリスチャンではありませんでしたから、クリスマスケーキを売りながら、自分自身はクリスマスなんて関係がありませんでした。とにかく生活費を稼ぐために必死でした。友達はコンパだデートだと忙しいなかで、夜、自転車を漕ぎながら、なんで自分はこんな寒くて暗い道を一人で自転車を漕いでいるんだと車に追い越されながら思うこともたまにありました。でも、当時は若かったですし、卒業して就職したら、きっと人生が開けるのだという漠然とした希望を持っていました。ですから寒さも孤独もさほど気にはならなかったのです。でも卒業して社会人になり、それなりにいろいろなことがあり、何年もたってふと気付くと、自分は博多湾沿いの冬の寒い道を一人で自転車を漕いでいたときと何も変わっていないのではないかと感じることがありました。そう思うことが繰り返しありました。子供もあり、仕事もあり、友人もあり、けっして孤独ではないけれど、やはり自分はあの寒くて風のきつい博多湾沿いの道を今もたった一人で進んでいる、そんな気持ちになることがありました。

 でも、その暗い道の途上でイエス・キリストと出会いました。キリストはたしかに私の日々に光をあたえてくださいました。しかし、キリストと出会って、寒くて暗かった道が完全に温かく明るくなり、楽しいものになったのか?それは半分はそうだといえますし、半分はそうでもないといえます。

<ヨセフとマリアの道>

 今日の聖書箇所では、それぞれに天使ガブリエルから、救い主の誕生を知らされたマリアとヨセフが旅に出たことが記されています。マリアの肉体に聖霊の力によって主イエスが宿ることを知らされ、受け入れ、歩み出した二人です。彼らはかつての私のように神を知らなかったわけではありません。それどころか、彼らは救い主の親となるというとんでもない役目を従順に受けれるほど、神に忠実でした。その神に従う若い二人の歩みには最初から、困難がありました。神に忠実な彼らにもやはり暗い道がありました。

 今日の聖書箇所には住民登録と書かれています。現代に生きる私たちも住民登録をしています。出生したら戸籍に記載され、住所が変わる都度、住民票を変更します。しかしここでいう住民登録は、自分の国や地方自治体の行政や福祉のための登録ではありませんでした。イスラエルを支配するローマ帝国への税金のため、また、場合によっては戦争やらさまざまな労役に駆り出されるための登録でした。もっとも新約聖書を読みますとなんとなくローマというのは悪の帝国というような感じがしますが、かならずしもそうとばかりはいえません。ローマ帝国は、支配していた地域に対して、基本的には、寛容な政策をとっていたと言われます。ある程度の自治、宗教や文化の自由を認めました。もちろんそれは帝国への忠誠と義務を果たすという条件を満たす範囲での自由でしたが。今日の聖書箇所に名前のあるアウグストゥス帝はローマを統一した初代皇帝であり、地中海をめぐる全地域に平和をもたらしたすぐれた皇帝、賢帝であったと歴史的には評価されています。そもそもアウグストィス帝の名前はオクタヴィアヌスといいます。アウグストゥスというのは元老院から与えられた「威厳がある者」という尊敬を込めた尊称なのです。その皇帝から任命されたキリニウスがシリア総督時代に行った最初の住民登録ということがここに記されています。

 この住民登録という言葉からわたしたちが考えるべきことはふたつあります。ひとつはいくら皇帝がすぐれていて帝国が寛容だったとしても、やはり被支配民族の一人一人がローマ帝国から頭数を数えられ、管理されるというこの時代の暗さです。奴隷のように縛られているわけではなかったイスラエルですが、結局はローマ帝国に逆らうことのできない被支配民族としての苦しみと悲しみがそこにはあったということです。その登録には身重の女性であろうと容赦はありませんでした。そして住民登録の記事でもう一つ考えるべきことは、キリストの降誕という出来事が紛れもない人間の歴史のただ中に起きた事実であるということです。歴史の教科書に載るようなアウグストゥス帝、そしてキリニウスという実在の人物の名をあげて、マリアとヨセフはまさにその2000年前の時代を生きたこと、そして生まれてこられた主イエスもその時代のなかに、たしかにこの地上にお育ちなったことを示します。

 降誕劇などで描かれるクリスマスは、美しい物語として語られる側面があります。もちろん、クリスマスの美しさを私たちは知るべきです。繰りかえし繰り返し、クリスマスの美しさを私たちはクリスマスの季節ごとにもっともっと味わうべきです。しかし、一方でそれは、人間の世界の現実の中に起こったことであることをも私たちは繰り返し知らなければなりません。キリストの降誕はおとぎ話ではなく現実の話であったことを覚えなくてはなりません。帝国に支配された時代の暗さの中に、若い夫婦がベツレヘムまでの100キロ以上の道のりを旅をしないといけない一人一人の暗い現実のただ中に、キリストはお生まれになった。そのことを知らなければなりません。

<わたしたちの暗い道に来られる神>

 しかし、そもそも聖霊によって身ごもった子供がお腹にいる妊婦をなぜ敢えて神は危険な旅へと送られたのでしょうか?救い主となられるイエス・キリストが胎内におられるというのに、そのキリストの身にも危険が及ぶかもしれないのに、苛酷な旅へとなぜ神は導かれたのでしょうか?道も現代のように整っていません。食べ物にもおそらく事欠く旅であったでしょう。盗賊に遭う危険性もあります。

 それはキリストの到来が、ミサイルやテロの危険があり、原発問題の解決も見えない、一方でいじめやパワハラがあり、若者がブラック企業での労働に甘んじ、また繰りかえし残虐な事件が起こるような暗澹とした現代とも無関係な出来事ではないということでもあります。大昔の現実離れした浮世離れした出来事としてキリストの到来があるわけではないということです。つまり一人一人の暗く寒い孤独な道にキリストは到来されたということを示します。政治も経済活動も外交もどろどろと複雑な現実の人間の世界に、そして先の見えない暗澹とした世界にまぎれもなくキリストは来られたということです。

 もちろんキリストの到来によって、アウグストゥス帝が失脚したわけではありません。キリストの誕生ののち、住民登録がなくなったわけではありません。イスラエルが解放されたわけでもありません。私たちの人生にもキリストは来られました。しかし、私たち一人一人の生活が現実的に改善されたようにはあまりみえませんし、まして世界が安心できる平和な世界になったわけではありません。むしろ世界は悪くなっているようにすら見えます。しかし、私たちの暗くて寒い道に確かにキリストは来られました。この世界の悲惨と暗さのただ中に確かに幼子のキリストは来られました。

<新しい創造>

 キリストが来られキリスト共に歩むとき、それが暗くて寒い道であったとしても、その道は「神が備えられた道」となります。その道の先は私たちには分かりません。緑の牧場に出るのか荒れ野に出るのか、それは分かりません。しかし、いずれであっても、そこに共にキリストがいてくださる時、私たちの歩む道の意味はまったく異なります。若いころ、私は漠然と未来に希望を描いていました。しかしそんな根拠のない希望は、はかないものでしかありませんでした。希望がかなおうがかなうまいが、そこにキリストがおられなけらば、やがて虚しさへ至るのです。どんなに努力をしてもその歩む道にキリストが共におられなければ、幹線道路のように一見明るい道であったとしても、やがて闇に落ちるのです。しかし、キリストと共に歩むとき、私たちはたしかな希望を得るのです。暗くても寒くても絶望をしないのです。

 月満ちてマリアは子供を無事出産します。月満ちているので、妊娠の経過としては悪くはなかったのでしょう。切迫早産や妊娠中毒症などで月足らずで生まれたわけではないようです。暗い道を神はお守りになったと言えます。彼らには泊る所がなかった、この箇所を貧しい若い彼らがベツレヘムの宿屋で受け入れられなかったという解釈もあります。降誕劇はだいたいそのような話になっています。しかしある方は、当時の宿屋は個室ではなく雑魚寝であり、そのようなところで出産をすることができなかったので、あえて二人は家畜小屋を出産の場所として選んだのではないかと解釈されています。ただいずれにしても、恵まれた出産のあり方ではなかったことは確かです。

 しかし、飼い葉おけに寝かされたキリストは確かに世界をお変えになる方でした。すぐれた皇帝であったアウグストゥスにもできないことを成し遂げられました。全人類の罪からの救いを成し遂げられました。この世の支配者、皇帝をはるかに超えて、私たちへ確かな希望を与える存在となられました。まことの王としてキリストは来られました。

 2011年の東北の大震災ののち、被災された牧師がこういうことを語っておられました。震災の日、電気がとだえ、崩壊した町で不安な思いで最初の夜を迎えたそうです。それまでその牧師は、自分が住んでいるその東北の町は、けっして都会ではなく、夜は明かりも少なく暗くてさびしいところだと思っていたそうです。しかし、電気のない夜は、ほんとうにまっくらであったそうです。これまでも寂しい暗い夜だと思っていたけれど、しかしそれはまだ闇ではなかった。昨晩まではそこに光があったことに気づいたそうです。しかし、震災の夜、避難所の外に出た時、本当の闇をはじめて体験した、とその方は語られました。その深い闇に恐怖を覚えながら、ふと空を見ると、満天に星が広がっていたそうです。そのような壮大な星空を田舎町とはいえ、それまで見たことがなかったそうです。地上に闇が深くあり、しかし、満天に輝く星があった。その先生は、創世記を思い出したそうです。神がこの世界を創造されたときの最初の光と、天空の星を思ったそうです。すべてが破壊しつくされて、希望が取り去られたような闇の中で、この東北の地に、なお神が新しい創造の業を始められることを確信されたそうです。

 2000年前、ベツレヘムにも深い闇がありました。しかし、そこに幼子が与えられました。光が来たのです。それは罪で壊れたこの世界の新しい創造の始まりでもありました。その創造の業は今も続いています。私たちの世界にも続いています。震災の日に東北の空に輝いた星星のように、私たちの人生にもたしかに輝いています。暗い道であっても、そこに確かにキリストの温かく柔らかな光がたしかにあるのです。私たちは暗い道をどこか遠いところへ向かって行くのではありません。かつて人間が神と共いたエデンの園、罪で壊れる前の世界、本来いるべきところへとキリストと共にキリストの光に照らされて帰ります。キリストと共に帰りましょう。


ルカによる福音書1章26~38節

2017-12-11 19:00:00 | ルカによる福音書

2017年12月10日 大阪東教会主日礼拝説教 「受胎告知」 吉浦玲子

<喜びなさい> 

 「おめでとう、恵まれた方」

 少女は突然やってきた天使ガブリエルに言われました。「おめでとう、恵まれた方」。なにがおめでたいのか、何が恵みなのか?突然そう言われても、少女には皆目分からなかったことでしょう。ここで「おめでとう」と訳されている言葉は「喜ぶ」という意味のある言葉です。そして命令形になっています。「恵まれた方」という言葉は完了形で、その隣には実は<女性の中で>という言葉もついています。ですから直訳すると「あなたは女性の中で既に恵まれているので、喜びなさい」となります。

 「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことか考え込んだ」とあります。戸惑いというのは<胸騒ぎがした>ということであり、考え込むというのは<いぶかしんだ>、という言葉でもあります。この時点で、この天使の言葉が、ただならぬことを自分に告げようとしていることをマリアは感じ取っていたと言えます。

 天使ガブリエルはその挨拶の言葉の最後に「主が共におられる」と言っています。この「主が共におられる」という言葉は、すぐる週のマリアのいいなずけであるヨセフにも語られた言葉です。そしてこの言葉は、特別な神の召し、神のご計画が告げられる時、語られる言葉でもあります。たとえば今、聖書研究祈祷会ではヨシュア記を学んでいますが、モーセの跡を継ぎ、出エジプトの民のリーダーとなったヨシュアに対して、「うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」と神はおっしゃいました。40年荒れ野をさまよったイスラエルの民が、いよいよ約束の地、カナンの地へと入るときの言葉です。「あなたの神、主は共にいる」その言葉はとても力強いのですが、ここでヨシュアに命じられていることは、エジプトで奴隷であった民、さらに荒れ野を旅してきた民に、カナンの地の、軍備も戦力も比べ物にならない軍隊と戦わせなさいということです。馬も戦車も武器も豊富に持っている相手に対して、荒れ野を旅してきた民、戦闘力において圧倒的に劣る民を率いて戦えとおっしゃっているのです。そのヨシュアに対して「主は共にいる」と語られているのです。

 今日の聖書箇所でも、マリアに対して「主は共におられる」と天使は語りますが、いいなずけのヨセフ同様、マリアもまた、しっかりと宗教教育をされて育ってきた少女であったでしょうから、「主は共におられる」という言葉の持つ、ただならぬ意味をマリアは感じ取っていたことでしょう。

 そんなマリアが聞いた、喜ぶべきことというのは、マリアが男の子を身ごもるということでした。もちろん、女性にとって、子供が授かるというのはおめでたいことです。喜ぶべきことです。しかも跡継ぎとなる男児です。それはたいへんおめでたいことです。現代以上に、聖書の時代、女性にとって子供、それも男児が授かるかどうかというのはたいへん大きな問題でした。聖書の中には、信仰の父祖アブラハムの妻サラや預言者サムエルの母となったハンナをはじめ、子供が授からないことで、深い悩みの中にいた女性は多く出てきます。

 長く教会生活をなさっている方は、しかし、この懐妊がけっしておめでたいことではないことをご存知でしょう。マリア自身も答えます。「どうしてそのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」婚約こそしていたものの、まだ結婚をしていないマリアが身ごもることなどありえないことでした。しかし、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」そうガブリエルは語ります。

 しかし、男性によって身ごもったわけではないということを当時であっても誰が信じるでしょうか?常識的に考えて、マリアがいいなずけのヨセフと婚約期間中でありながら関係を持ったか、ヨセフを裏切ったか、どちらかだと判断されるでしょう。先週も申し上げましたように、いいなずけ以外の子供であれば、それは姦淫の罪を犯したことになり死刑となります。とてもおめでたい状況ではありません。仮に聖霊によって身ごもったことをヨセフが受け入れたとしても、いと高い方の力によって身ごもった子の母となることはとてつもない人生が待っていることをマリアには分かっていたでしょう。

 普通の人間の子どもであっても、特別な家庭に特別な期待を担って生まれてくる子の母になるということは、その母にとって、もちろん喜びでありますが、同時に、重圧もあることだと思います。古今東西の王や皇帝や貴族の血筋の嫡子をみごもるということもそうですし、現代でも、大企業のオーナー一族や名門といわれる一族の家庭などでもそうでしょう。

 しかし、ここでは、この世の王や権力者ではなく、いと高き方、つまり、神の子を宿すと言われているのです。聖霊が降るということがどういうことか、いと高き方の力に包まれることがどういうことか、具体的にはっきりとは分からなかったかもしれませんが、しかし、それがとてつもないことであることはマリアにも分かったことでしょう。しっかりと宗教教育を受けていたであろうマリアは、それが恐れおののくべきことであることは理解したはずです。ここで、マリアには、自分自身の命の危険と、とんでもない人生に巻き込まれる危険が、突然降って湧いて来たのです。

 しかし、それをガブリエルは「喜びなさい」と言っているのです。あなたほど女性の中で恵みを受けた人はいないと言っているのです。しかし、マリアは従順に天使の言葉を受け入れました。「お言葉どおり、この身に成りますように」と応えたのです。クリスマスのページェントでの、一つのクライマックスのシーンです。多くの芸術作品でも描かれている場面です。

<恵みを恵みとして受け取ったマリア>

 「お言葉どおり、この身に成りますように」というマリアの姿に、信仰者の従順な姿勢として、従順のお手本を見る見方があります。それは間違っていません。常識的に考えて、多くの困難が予想されるなかに「お言葉どおり、この身に成りますように」とまさに自分の身を差し出すあり方は信仰者として素晴らしいものです。神に自分の身を差し出したのです。それはつまり信仰に基づく献身の姿と言えます。

 なぜマリアはそのような従順な献身の姿勢を取ることができたのでしょうか。マリアには分かったのです。本当に自分が、まさに天使ガブリエルが伝えたように、本当に恵まれていることを。とんでもない困難が待ち受けているかもしれない人生を受け入れながら、なお、神が共におられるという確信を持って生きていくことの恵みを理解したのです。取るに足りない田舎者の少女に過ぎない自分に神は目を止められた、そして大きな役割を与えてくださった。それこそが少女にとっての恵みでした。

 聖書の時代、女性の地位は現代よりもかなり低いものでした。新約聖書には、たとえば5000人へ主イエスが食事を提供されたという奇跡物語があります。そこでは「男だけで五千人」という記述があります。当時、人数を数える時、女性は数に入っていなかったのです。女性は取るに足らない存在、男性の持ち物、財産でしかなかった存在でした。

 しかし、旧約聖書の時代から、当時の文化からすれば、その取るに足らない女性へ、神のまなざしは注がれました。そしてその事実はありのままに聖書に記述されました。信仰の父祖といわれるアブラハムのまだ信仰が揺れ動いていたころの、不信仰の犠牲になったと言える女奴隷のハガル、約束の地へ入ろうとするヨシュアの部隊を助けた娼婦ラハブ、まずしい異邦人のやもめのルツ、皆、身分の低い女性でしたが、それぞれに神はまなざしを注がれ、大きな祝福を与えられました。それらの女性は、高貴な女性でも、徳の高い女性でもない、むしろ、人から軽んじられ、神から遠い存在と思われていた女性たちでした、しかし、神は確かに彼女たちと共におられ、彼女たちは破格の恵みと祝福を与えられました。

 そもそも神の恵みは信仰によらなければ分からないものです。神は私たちに、多くの恵み、祝福を与えられる方です。しかし、私たちの側に、その恵みを恵みとして受け取ることができる信仰がなければ、それは私たちにとって恵みでもなんでもないのです。神のとてつもない祝福であっても、祝福ではなく、自分の人生を自分の思い通りにすることを乱す面倒な事柄として受け取ってしまうのです。

 逆に信仰がなくても、喜べるような出来事、お金が入るとか、良い仕事に就くとか、人間関係が改善するとか、病が癒されるとか、そういうことに対しては私たちはすんなりと受け入れることができます。もちろん、私たちの祈りに応えて、そのような現実的な恵みをも神は与えられます。しかし、神の恵みは多くの場合、その恵みが深ければ深いほど、信仰によらなければ分からないものなのです。

<人間に命をゆだねられる神>

 そして恵みは深ければ深いほど、不思議なことに、そこには人間にとって困難が伴うのです。神のまなざしの内に恵みを受けた多くの人々がそうであったように、マリアもまた、とんでもない、困難な人生を受け入れていくことになるのです。

 しかし、その困難な道を一人で歩んでいくのではありません。「神は共におられる」のです。しかし、それは神はかたわらに共におられ、困った時に助けられるということではありません。神はいつもそばにおられて、あなたが傷ついて倒れた時は助け起こしてあげましょう、癒してあげましょう、肩を貸してあげましょう、というのではありません。なにより神御自身が困難を受けてくださるのです。

 ある説教者は、マリアの場合、神ご自身が、マリアに命を預けたのだと語っています。神は、主イエス・キリストとして、マリアの胎内にみごもられたのです。マリアの肉体の中に守られるべき存在として宿られました。マリアに何かあったら、一番の被害をこうむるのは胎児であるイエス・キリストです。全能であられる神が、もっとも無力な存在としてその命を人間の女性にゆだねられる、それが告げられたのが受胎告知の出来事です。

 神が共におられるというのは、私たちにとっても、ただ単に横に神がおられ、困ったときには助けてくださるということではありません。神ご自身が、私たちの痛みを痛み、苦しみを苦しまれるということです。神ご自身がその命を私たちと共に生きてくださるということです。神ご自身が私たちを信頼されゆだねてくださるということです。教会はキリストの体であると言われます。私たちはキリストの体なのです。私たちが痛む時、キリストも痛まれます。私たちの傷をキリストご自身が受けられます。

 それは私たちを通して新しい命が生み出されるためです。私たちひとりひとりにマリアと同じように、神からの役割が与えられています。マリアのように赤ん坊を生むという役割ではないかもしれません。一人一人に異なる役割です。それは会社員として働くこともかもしれませんし、肉親の介護をするということかもしれません。しかし、それは突き詰めていけば、神のご計画の中で、神の新しい子供、新しい命を生み出すことにつながっていくのです。

 産みの苦しみといいますが、そこには確かに困難があるのです。神が共にいてくださり、神から特別な役割を与えらえる時、痛みがあります。しかし、「お言葉どおり、この身に成りますように」と私たちがその神からの特別の召しに応える時、たしかに神のご計画は成るのです。素晴らしい出来事のために、私たちは用いられます。自分のちっぽけな能力、才能、努力を越えて、新しい命の輝きが生み出されます。「神にできないことは何一つない」とガブリエルは言いました。この言葉の原語には「神からの言葉に不可能はない」という意味です。つまり神から発せられる言葉で成就しないことがらはないのです。創世記1章で「光あれ」という神の言葉によって光があったように、私たちの人生にも神の言葉によって奇跡が与えられます。ですから、わたしたちもまた、その神の言葉を私たちが信仰をもって受け入れます。「御言葉どおり、この身に成りますように」。そこから素晴らしい命が生み出されていきます。 


マタイによる福音書1章18~25節

2017-12-04 20:24:55 | マタイによる福音書

2017年12月3日 主日礼拝説教 「共におられる神」 吉浦玲子

<神に共にいてほしいですか?>

 神が共におられる、共にいてくださる神、その言葉を聞く時、私たちはまず、安らぎを感じるのではないでしょうか?神が一緒にいてくださる、それほど心強いことはありません。何があっても大丈夫だと感じます。

 しかし、一方で、私たちの日々を、よくよく考えます時、いつもいつも神が共におられるとしたら、少し面倒な気分にもならないでしょうか?困った時にはもちろんすぐに神様に助けていただきたい。しかし、四六時中、そばにいられると、なんとなく困るような気がしないでもないかもしれません。ただそばにいて、見守っていてくださっているだけならまだよいのです。しかし、その神が、私たちに働きかけられる、それ以上に、私たちの生活に介入して来られる。そのとき、私たちは大きな困惑と恐れと、場合によって迷惑な思いをすら持つのではないでしょうか。

 しかし、現実に、神は私たちの人生に介入して来られます。それは私たちの救いのためです。そして、喜びのためです。そしてまたそれは同時に十字架の苦しみのためです。私たち一人一人が、それぞれに担うべき十字架の苦しみを苦しむために、神は私たちの人生に介入して来られます。私たちは神が共におられる時、神が共におられるゆえ、豊かに喜び、そしてまた苦しみます。その共におられる神がマタイによる福音書における記事として、最初に人間の人生に介入していった記録が、今日お読みいただいたヨセフへのイエス・キリストの誕生の告知の場面でした

 ヨセフという男性、まだ若者であったでしょう。ガリラヤという地域のナザレという田舎の村の平凡な青年でした。しかし、当時のきちんとしたユダヤ教の教育を受けていた、宗教的にもしっかりとした若者であったと考えられます。そのヨセフは救い主の父となるというとんでもない役割を神から担わされました。本来なら、ごく普通に、女性に恋をして、家族や周囲の人々から祝福されて、結婚して、家庭を作り、堅実な、もちろん苦労はありながらも、貧しい生活ながらも、静かな、しかし、おそらく幸せな一生を送るはずであった若者であったでしょう。その若者が、聖書に名前を残すような、大きな役割を与えられました。

 その出来事は、ヨセフにとっては、喜びと栄光に満ちた始まりであったわけではありません。たいへんな絶望をともなった事態から始まりした。婚約者であるマリアが身ごもったという驚天動地な出来事から始まりました。いいなずけであるマリアが自分とは関係のない子どもをその身に宿したというのです。結婚を前にした、ある意味、人生で一番幸せであるべき日々に、ヨセフはどん底に落とされました。マリアが裏切ったのか、あるいは何らかの不可効力の状況での出来事があったのかはわかりませんが、ヨセフにとって理解しがたいとんでもないことがおきました。結婚を前にした若者が描いていたであろう未来の希望が、突然、閉ざされてしまったように感じられたことでしょう。

<正しい人ヨセフ>

 聖書は、往々にして、その登場人物を丁寧には記述しません。今日の聖書箇所でも、ヨセフの人となりを知るよすがとなる言葉は「ヨセフは正しい人だった」ということだけです。しかし、ここから先ほども言いましたように、宗教的にもしっかりとした若者だったことがわかります。律法をきちんと守って生きていた青年だったのです。そしてまた、「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうとした」とあります。正式な結婚前であっても、婚約者同士は法的にはユダヤでは夫婦と見なされますから、ヨセフの子ではない子を宿したマリアは姦淫したとみなされ、石打の刑にあって死んでしまいます。しかし、それをヨセフは望みませんでした。ですから、縁を切り、マリアが姦淫の罪に問われないようにしたのです。しかし、正しく律法に従うならば、ヨセフはマリアを律法に委ねるべきでした。しかし、それをヨセフにはできなかったのです。つまり、正しい人であるヨセフは正しいことができなかったのです。

 ここはいろいろな解釈がされるところです。ヨセフに好意的に解釈するなら、ヨセフは杓子定規に律法を解釈する人ではなかった。いってみれば、ファリサイ派のように律法を守る人ではなかったということです。自分を裏切ったかもしれない女性であっても、ひどい目にあわせることは忍びなかった。愛のある人であったという考えです。もちろん「正しい人」であったヨセフが律法に反することを行うことには相当な葛藤があったことでしょう。現代の日本とは違い、当時のまじめなユダヤ教徒としては苦渋の決断だったでしょう。

 否定的な解釈としては、ヨセフは、自分の身に起きたとんでもないことを引き受けることができなかったのだというものがあります。彼はおそらくマリア自身からも「聖霊によって身ごもったのだ」という説明は聞いていたでしょう。そんなとんでもないことをいうマリアも、ましてその子供も自分には引き受けることはできない。そう考えたのかもしれません。もし本当に聖霊によって身ごもっていたとしても、いえそうであればなおさら、自分がその子どもの父となっていく自信はないと感じたのかもしれません。聖霊、つまり神の力によって身ごもったなんて、信仰深いヨセフにとっては、むしろとてつもなく恐ろしいことだと感じられたでしょう。そんなとんでもないことに自分が巻き込まれてしまうことは耐えられない、だから縁を切ることにした、、、、そういう解釈もあります。ただこの場合、マリアの生むことになる子はヨセフの子であると周囲の人は解釈することになったと考えられます。そうでなければマリアは姦淫したことになりますから。ですから、ヨセフは、婚約期間中にもかかわらず、婚約者と関係を持ち、その身ごもらせた相手を捨てた男として非難を受けることになるでしょう。しかしその非難を覚悟をしたうえで、なお、マリアと子供を受け入れることができなかったとも解釈できるのです。それほどにヨセフにはマリアとその子供を受け入れがたかったと考えられるのです。

 おそらくどちらの解釈も間違いではないでしょう。混沌とした思いがうずまくなかでのヨセフの決心であったでしょう。思い悩み、ヨセフは何とかして自分で取りうる最善の方法を考えたのでしょう。どちらに転んでも、けっして平安はない、悩みの縁でもがき苦しんで、自分なりに結論を出したのです。

<変えられたヨセフ>

 そのヨセフが変えられました。「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った」とあります。この天使の夢のお告げの後、ヨセフはすぐにマリアを迎え入れます。主の天使が夢に現れて、直接に、諭されたのですから、当然、変わるだろうと皆さんは思われますか?しかし、夢での天使の言葉で背中を押されたとしても、それが逆らい得ないものと考えて、仕方なく受け入れたのであれば、これからのちのヨセフのてきぱきとした父らしい態度は生まれなかったでしょう。ヨセフはマタイによる福音書の2章では、残虐なヘロデ王から幼子イエスを守るためのエジプト逃亡と、その後のイスラエルへの帰還という幼子を抱えての困難な旅を、立派に若い父親として、そして一家の長としてまっとうしています。そこには思い悩んだ姿はありません。その根本には天使からの言葉でヨセフ自身が変えられたということがあったからです。

 天使は「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」とまず告げます。そうです、ヨセフは恐れていたのです。マリアが石打の刑で死ぬことも、そして自分が不可解で困難な人生を受け入れることも。しかし、恐れる必要はないと天使は告げたのです。「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」イエスという名は「神は救い」という意味があります。もっとも、当時のイスラエルとしては珍しい名前ではありませんでした。では、その救いとは何か?罪からの救いなのです。この天使の言葉の後にイザヤ書7章からの言葉が引用されて、このことが旧約聖書の時代の預言の成就であることが説明されています。そのイザヤ書の引用の中に、特にこのアドベントからクリスマスにかけ賛美歌などでもよく出てくる「インマヌエル」という言葉が出てきます。それは「神は我々と共におられる」という意味であると説明されています。

 冒頭に申し上げましたように「神が共におられる」ということは、ただそのことだけでは人間にとって必ずしも喜ばしいことではないのです。正しい神の前で、正しくないことを憎まれる神の前で、胸を張って堂々としていられる人間などはどこにもいないのです。神が監督者として、また上司として、恐ろしい支配者として、共におられるならば、けっしてうれしいことではありません。しかし、その神は、「自分の民を罪から救う」子供を与えられるのだと天使は告げたのです。「自分の民」とは誰のことでしょうか?マタイによる福音書の最後の章28章の主イエスの大宣教命令といわれる箇所で、主イエスは「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」とおっしゃっています。つまり主イエスにとって「すべての民」がご自身の弟子となるべき民なのです。つまりすべての民が主イエスにとってご自分の民なのです。つまり、主イエスの時代から2000年後の日本に生きる私たちをも含めた民をご自分の民として、マリアの身ごもった子供は罪から救うと天使は告げているのです。

<神と共に新しく生きる>

 ヨセフは罪からの救いということが分かったのです。ヨセフは正しい人で、律法をきちんと学んでいました。何が罪であり、何が神から喜ばれることであるか、理屈としては知っていたのです。しかし、天使に告げられたとき、初めて、ヨセフは自分の罪が分かったのです。心の深いところから分かったのです。自分自身の存在の深い深いところから、自分の罪が分かったのです。いま自分が受け入れよと言われているマリアの胎のなかにいる子供が、自分自身の罪をも救う存在であることが分かったのです。

 ヨセフは、悩み苦しんだのです。自分の力ではどうしようもない現実の中で、自分の力でどうにか解決しようともがいていたのです。聖霊によって宿った、などというとんでもない神の介入の前に、どうにか自分なりに自分の力で自分の人生のつじつまを合わせようとしたのです。そのなかで、ヨセフは救いを知らされました。それは自分の罪を知らされたことでもありました。ヨセフの姿は、苦しみの中で悩みの中で神と出会う人間の姿そのものでもあります。

 そして天使が告げたのは、マリアの胎の中の子供は、神が守るからあなたは安心して良いというようなことではありませんでした。その子を育てたらあなたには素晴らしい報いがあるというようなお告げでもありませんでした。ただ、その子は「自分の民を罪から救う」と告げたのでした。しかしそれで十分でした。すべての民が罪から救われる、その民の中に自分も入っている、それだけで十分だったのです。

 確かにヨセフは人間の歴史の中で、とんでもない役割を担うことになりました。しかし、自分の人生に神が介入してこられる、神が共にいてくださるということの素晴らしさを知りました。人間の苦しみの根源は神から離れていること、つまり罪です。神から離れて自分の人生を自分でどうにかしようともがいているとき、それは蟻地獄のような日々です。どうにか問題を解決しよう苦しみから逃れようとしても、むしろ深く深く、沈み込んでいく日々なのです。しかし、神がそこから救い上げてくださいます。神は苦しむヨセフを、そして私たちを救い上げてくださるのです。私たちは苦しみと孤独と暗闇の中で神と出会います。そして救いを知らされるのです。

 それはクリスマスの出来事そのものです。旧約聖書の時代から長く長く続く、どうしようもない人間の罪の歴史、暗黒の歴史の中に、神は介入されました。イエス・キリストをこの世界に送るというやり方で介入されました。この神から離れた世界の苦しみのただなかに、暗闇の中に、幼子がやってきました。そして世界は変えられました。

 ですが、現代でも世界は人間の目には明るくは感じられません。もちろん、都会にはイルミネーションが輝き、クリスマスソングが流れ、クリスマスを祝う人々の顔には笑顔があります。しかし、それがひととき、この世界の暗さを忘れるためのものであるなら、クリスマスほど、この世界で虚しいものはありません。しかし、確実に世界は変えられたのです。主イエスの民がすべて救われるその日まで世界は更に変えられていきます。なにより私たちが変えられていきます。神がわたしたちの生活に入ってこられました。私たちは罪から救われました。罪から救われた私たちと共に神がいてくださいます。怖れるな、と、ヨセフに告げられたように、私達も、もう恐れることはないのです。変わり映えのしない混沌とした、試練の連続であるような日々を、もう恐れる必要はないのです。神が共にいてくださいます。どのような日々をも、力強く生きることができるのです。