2020年11月29日大阪東教会主日礼拝説教「主は我らの救い」吉浦玲子
【聖書】
「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。
「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。
見よ、このような日が来る、と主は言われる。
わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う。
彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。
それゆえ、見よ、このような日が来る、と主は言われる。人々はもはや、「イスラエルの人々をエジプトの国から導き上った主は生きておられる」と言って誓わず、「イスラエルの家の子孫を、北の国や、彼が追いやられた国々から導き上り、帰らせて自分の国に住まわせた主は生きておられる」と言って誓うようになる。
【説教】
<群れを散らす牧者>
今年のアドベントは、旧約聖書からキリストの到来について味わってみたいと考えています。旧約聖書というのは単にキリスト到来以前の歴史や律法を記したものではありません。よく言われるのは「新約の光に照らして旧約聖書を読まなくてはならない」ということです。旧約聖書を、旧約聖書のみで完結した書物として読みますと、分からないところがあるのです。旧約聖書には、多くのキリスト到来の預言があります。また預言とは異なるのですが、明らかに、新約の時代の出来事を暗示しているような事柄もあります。新約聖書の光に照らして読むと旧約聖書は深く味わえるのです。もちろん逆に新約聖書を読む時は旧約聖書を土台として読みます。出エジプトやバビロン捕囚といったイスラエルの歴史や律法の言葉によって新約聖書の語ることの背景が理解できます。聖書は旧約、新約両方が互いに結びついて、立体的にキリストを語っているのです。キリスト到来の意味や、十字架、復活の意味も、旧約聖書を知ると、より深く味わえるのです。
さて今日、神に与えられています聖書の箇所は、エレミヤ書になります。エレミヤはイスラエルの多くの預言者の中で、特に、南ユダ王国の滅亡を預言し、実際に国の滅亡を体験した預言者です。「涙の預言者」と言われます。このままでは神の裁きが起こる、神に立ち帰れと繰り返し警告を発したにも関わらず、迫害され、嘲笑された預言者です。
今日の聖書箇所は、22章までの、国家存亡の危機にあるユダ王国の王たちへの裁きの預言から続く箇所になります。今日の聖書箇所の後半には国が滅んだのちの希望が記されています。最初の2節は、「群れを滅ぼし散らした牧者」への批判が書かれています。これは、前の章からの関連でいえば、神に立ち帰ることのなかった王や王を取り巻く権力者を指します。
さきほど、エレミヤの預言は人々から顧みられなかったと申しました。エレミヤが預言すればするほど人々はエレミヤを罵り、笑い者にし、迫害を加えました。そんなエレミヤに、いよいよ戦局が思わしくなくなった頃、王の重臣たちが神の託宣を求めてやってきたことが21章に記されています。あれほどエレミヤを迫害し、それまでエレミヤの言葉を聞いていなかった権力者たちが、いよいよ国が危機に見舞われた時、エレミヤに伺いをたてに来たのは皮肉なことです。しかし、この期に及んでも、彼らがエレミヤのところに来たのは、神の奇跡によって勝利できるという預言を求めたからです。言ってみれば神風が起こると預言してほしいと願ったのです。実際、エレミヤに先立つイザヤの時代、アッシリアに攻められていたイスラエルは、イザヤが預言したように奇跡的な大勝利を得ました。センナケリブの戦いとして有名なものです。エレミヤにもまたイザヤの時のような、センナケリブのような奇跡が起こるという言葉を語ってほしかったのです。彼らは自分たちに都合のいい言葉を聞きに来たのです。これまでいくたびもイスラエルを救ってくださった神は、今度も救ってくださるに違いない。しかしその期待は裏切られました。エレミヤは神の厳しい裁きの言葉を語りました。「群れを散らす牧者」を神はお赦しになりません。個人の罪以上に、特に権力者の罪を神は厳しく問われます。なぜなら権力は、その本人が意識しているにせよ、意識していないにせよ神によって与えられているからです。力を与えられた者は、それにふさわしい責務を負います。力なき弱き者、貧しい者を助け、正しく導く責任があります。しかし当時のユダ王国の牧者たるべき王たち、重臣たちは、弱い羊たちを守るどころか散らしてしまったとエレミヤは語ります。実際、王国は滅び、バビロンへと人々は捕囚として囚われていくのです。(ノブレス・オブリージュ)
<正しい若枝>
さて、「群れを滅ぼす牧者」によって荒らされ、羊たちが散らされた土地に、正しい牧者が立てられることをエレミヤは語ります。その牧者のゆえに「群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と語ります。牧者たる羊飼いは、群れを守ります。かつて羊飼いだったダビデがそうであったように群れの羊に害を与える狼や野獣と牧者は戦い、守ります。パウロが「残忍な狼」と語った異端的な者とも牧者は戦い、群れを守ります。
その牧者は「正しい若枝」と呼ばれます。これこそがダビデの子孫として与えられる救い主です。イエス・キリストが若枝として起こされるというのです。その若枝たるイエス・キリストは「主は我らの救い」という称号、呼び名を得ると語られています。これは「主は我々の正義」とも訳せる言葉です。実は南ユダ王国の最後の王の名前が「ゼデキヤ」で、これは「主はわたしの正義」という意味でした。しかしその「主はわたしの正義」という名を持つ王は国を滅ぼし人々を散らしました。それに対し「主は我らの救い」また「主は我々の正義」という呼び名は、ユダ最後の王、ゼデキヤを揶揄する意味もあります。そしてそのような愚かな人間の王ではない、まことに完全な王、まことの正義と救いを成就される方がやってくると語られています。正義とは神の愛を成就する力です。救いを完成させる力です。
いまテレビで戦国時代を舞台にした大河ドラマ「麒麟がくる」が放映されていますが、主人公の明智光秀をはじめ、多くの人は、世の平和を望んでいるのです。考えや立場は違っても、また戦が職業であるような武士であっても、好き好んで殺し合いや町の破壊をしたいわけではなかったのです。しかし、人間の歴史の中では、平和を得るためという大義によって戦争が繰り返されてきました。人間の正義を貫くための戦いが行われてきました。たしかにそこに命をかけて正義を求め、平和を求めて来た人々がいたのです。しかし結果的には、戦いや政治的力によって一方が一方を押さえつける形でのかりそめの平和が繰り返されてきました。この世では、正義とは勝ったものが正義であり、力あるものが正義でした。
しかし、正しい若枝がもたらす正義は、誰かが誰かを押さえつけることによって成立する正義ではありません。神はだれかを押さえつけて正義を立てられたわけではありません。むしろご自身を押さえつけられました。ご自身を殺して、正義を立てられました。神であり人間であられたキリストが十字架で死なれた、そのことによって正義が立てられ、平和が与えられました。クリスマスの出来事は神の御子がかわいらしく動物小屋で飼い葉桶に眠っている牧歌的なお話ではありません。ご自身を十字架に捧げるために神ご自身がこの世界に来られた、それがキリストの第一の到来でした。そして、神は私たち人間を絶対服従によって支配をなさいません。私たちは自由な意思が与えられ、自由な判断をすることが許されています。その自由の中で私たちは神の正義を受け入れていくのです。
<私たちが帰る場所>
今日の聖書箇所後半では、人々が帰って来るという表現がされています。「主は我らの救い」と呼ばれる方は、散らされた人々を連れ帰ってくださるのです。これは国が滅び、離散した人々が、故国が再建されて戻って来るというイメージです。ちなみに私の母は、満州に住んでいました。戦後、日本に引き揚げて来たそうですが、敗戦の混乱の中の帰国はたいへんな困難を伴ったと聞きます。そのような体験をした人々には故国へ帰って来るというイメージが湧きやすいかもしれません。単に旅行から帰って来るというのではなく、戻れないはずだったところに戻っていくニュアンスがあります。ちなみに母は、博多に上陸する船で帰国したそうですが、博多湾に入ったところで乗員の中にコレラが発生して、博多の港を目前にして数日上陸できなかったそうです。命からがら帰って来てようやく日本の地を目前にして、上陸できなかった。何日も船に足止めされた引揚者に、何回か陸から差し入れがあったそうです。その差し入れは白いご飯のおにぎりだったそうです。戦後の大変な時代に、白いご飯が食べられたこと、引き揚げ船の上で博多の町を見ながらたべたおにぎりのことを母はよく話していました。満州から帰ってきた人々がおにぎりを複雑な思いで食べたように、イスラエルの人々も廃墟となった故国に戻って来て、さまざまな思いがあったかと思います。
しかしそれは新しい時代の始まりでした。<「イスラエルの人々をエジプトの国から導き上った主は生きておられる」と言って誓わず、「イスラエルの家の子孫を、北の国や、彼が追いやられた国々から導き上り、帰らせて自分の国に住まわせた主は生きておられる」と言って誓うようになる。>エジプトの国から導き上りとは、旧約聖書における最大の神の救いを描いた出エジプトの出来事を指します。しかし、「主は我らの救い」と呼ばれる若枝によって、新しい救いが起こるというのです。それは新しい時代の、新しい出エジプトの出来事でした。旧約から新約へと時代が開かれる出来事だと、預言者はここで語っているのです。エレミヤはエレミヤ書31章でもさらに踏み込んで、「新しい契約」について言及しています。紀元前6世紀にすでに、新約の時代が来ることを語っているのです。それは、神を見失いさまよっていた人々が、神によって、新しい約束された場所へと戻っていく時代です。私たちもまた、神によって、約束の地へと導き上っていただく神の民とされました。
<アドベントは悔い改めの季節>
ところで、クリスマスには二重の意味があります。2000年前にお越しになったキリストの到来を祝うことと、やがてふたたびお越しになるキリストを待ち望むことの二つです。神学者の芳賀力(つとむ)先生は、現代のアドベントにおいては前者のみが強調されていると語っておられます。すでにお越しになったキリストを祝うことはもちろん大事なことですが、ふたたびキリストがお越しになること、つまり再臨への待望が薄れていると言われます。なぜ再臨への待望が薄れているかというと、再臨は、裁きの時だからです。そして裁きの前に私たちは悔い改めを求められるのです。ですから教会の暦から言いますと、このアドベントの時期は悔い改めの時期とされるのです。再臨を待ち望むとき、それはおのずと悔い改めが求められるのです。しかし、町にクリスマスソングが流れるアドベントの時期には人々は喜ばしい雰囲気を求めます。ですから厳しい裁きのイメージは敬遠されるのです。裁きがなければ悔い改めもありません。ただクリスマスソングに乗って美しいイルミネーションを見上げる楽しい雰囲気だけを私たちは求めてしまうのです。しかし、本来、私たちの本当の喜びの根拠は再臨にこそあります。それは救いの完成の時だからです。
キリストは「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と福音宣教の第一声として語られました。悔い改めとは神の方を向き、神の言葉を聞くことです。心素直に神の言葉を聞くのです。聖霊によって聞かせていただくのです。エレミヤのところへ神風が起こってほしいというような預言を求めてきた王のように、神が自分の都合の良いことをなさってくださることを求めるのではないのです。
心素直に静かに神の言葉に聞くとき、私たちは神の救いの言葉、ほんとうの慰めの言葉を聞きます。日々の重荷を解き、新しい力を与えてくださる言葉を聞きます。たしかに天の国は近づいたからです。2000年前、キリストの第一の到来によって天の国は近づきました。以来、礼拝は天の国の先取りであり、私たちの日々も、神と共に生きる時、天の国の先取りと言えます。しかしそれで終わりではありません。私たちはいま、すでに救いの完成の港に入っています。戦後引き揚げてきた人々が故国の港に入り、白いおにぎりをいただいたように、私たちも救いの港にすでにいて、そこで日々恵みの糧をいただいています。しかしそれで終わりではないのです。私たちには上陸すべき故郷があります。今日与えられている恵みを感謝しつつ、顔を上げると、眼前にはなつかしい故郷であり、故国、キリストが準備してくださった帰るべき場所が見えるのです。もちろんそれはいまはまだ、霧の中におぼろにしか見えないかもしれません。しかしたしかにそこに天の国はあるのです。ふたたび来られるお方が、その天の国へと私たちの船を導いてくださいます。アドベントは到来という意味です。私たちはふたたび到来されるお方を今待ち望みます。